« 「週刊現代」私の反論 | トップページ | Home-Town »

2006年9月 5日 (火曜日)

Vita brevis-2

このところ子猫殺しの話題が続いたので、そろそろドラマの話の続きをやれという圧力が内部的に高まってきた。まあ、以前から覗いてくださっていた方々には退屈な流れであったことは事実だろう。坂東眞砂子問題の動向にも脇目を暮れつつ、とりあえず通常営業を再開して映像作品関係のレビューに戻らせていただこうと思う。

しかし、前回それなりに力を入れて語った「レガッタ」のレビューについては、仲間内での評判は糞味噌であって、けっこう萎えた

何を勿体附けてレガッタなんか語っちゃってるんだよ
他に幾らでも語る番組はあるだろう
レガッタのことでも考えないと時間が潰れないほど暇なのかおまえは
今回は勘弁してやるから次からちゃんとやれよ、いいな?

…という血も涙もない言葉の数々を頂戴した。

鬼ですかおまえらは

レガッタが君たちに何をしたと言うのですか

そういうわけで激しく痛憤したので、今日からオレはレガッタのファンになることに決めた。もこみち萌え〜! 相武紗季最高! ほらこの通り、どこから視ても大ファンである。本日只今からオレは熱狂的なレガッタファンなので、今後オレがレガッタについて語ることには身贔屓故のバイアスが掛かっていると視てくれたまえ。

そんな大のレガッタファンのオレが今回語るのは、同日の次の時間帯でTBSが放映している「タイヨウのうた」であるが、この番組に関しては事前にまったく期待していなかったというのが本当のところである。坂東眞砂子問題に深入りして少々勘が鈍っていることもあり、今回はこの作品を軽く語ってリハビリに充てようと思う。

坂東眞砂子問題が浮上する以前に書き進めていた文案を若干手直しして継続作業したテクストであるから、時制や内容面で齟齬があるかもしれないが、そこはご愛敬ということで流していただければ幸いである。

さて、レガッタとも関係してくる話だが、全般的にネタの鮮度が悪い印象の今期のドラマの中でも、「沢尻エリカ主演の難病物」と聞いて「何じゃそら」と苦笑しなかった人間はいないだろう。まんま「1リットルの涙」じゃん、と思うのが当たり前で、テレ朝九時枠が「しょい」の後追い企画なら、TBS一〇時枠までが1リットルの後追い企画というのでは、金曜ドラマ全般ワンツーフィニッシュでCXヒットドラマのお流れ頂戴企画かよ、というのが普通の反応だろう。

もっとも、1リットルの企画を「世界の中心で愛をさけぶ」大ヒットの影響で生まれた類似のスタイルの多メディア連動企画と解釈するならば、元々TBSのほうが本家だと言えないこともないだろうが、そんなバンビとジャングル大帝とライオン・キングとか海底二万哩とナディアとアトランティスみたいなことを言ってもしょうがない。影響を受けて時流に乗るのはまだしもご愛敬だが、そのまま持ってくるのはやっぱり剰り行儀の良い行為とは言えないだろう。

以前のエントリーで、映像作品のキャスティングは「○○○で演じた○○○役」のような既存のイメージの延長上で考えるのだろうと言ったが、「エリカで難病物」というのはつくり手側が既存のイメージを参考にしているのではなく、受け手側が抱いている既存のイメージを当て込んだキャスティングということだろう。

実際オリコンの期待度調査を視ると、男性層全般に沢尻エリカの演技に対する期待度が高いが、そういう意味ではこういう芸のないキャスティングも、それはそれで視聴者の期待の地平上にあるのかと思わないでもない。

このタイヨウのうたは、「世界の中心で愛をさけぶ」「いま、会いにいきます」に続くTBS純愛三部作の掉尾と位置附けられているらしいのだが、セカチューもイマアイも劇場版は制作委員会にTBSが名を連ねている東宝映画であって、TBSのドラマ化までワンセットで源流の小学館の小説版から続くメディアミックスの一環というふうに視られるのだが、このタイヨウについては先行の二作品とはまったく源流の異なる松竹映画が企画の核になっている。

さらにその映画版も元々は香港映画の「つきせぬ想い(原題:新不了情)」のリメイク企画であるが、題材が似ているというだけでほぼ内容的には脚本の坂東賢治が長年温めてきたオリジナルストーリーということであり、最終的には板東が原作としてクレジットされ、つきせぬ想いは原案どまりとなっている。

つまり、これは香港映画のリメイク企画を口実とした純然たる松竹のオリジナル映画であって、前二作のようにまず原作小説のヒットがあって、そこからドラマ化の思惑含みで映画化にTBSが資本参加し、映画の感触を視て制作にゴーを出すという、割合堅いビジネスの流れではない。

劇場版の成立段階でTBSが深く関与しているという話も聞かないが、いくつか複数の公式な紹介記事に「映画公開以前にドラマ化が決定するのは異例のこと」との記述を見かけたので、おそらくTBS側からのリリースにその文言があるのだろう。前二作より直接の関係性が薄いのに、何事もなかったかのように「三部作」と銘打って積極的に連動している辺りに妙な必死感胡散臭さが漂っている(笑)。

三部作の前作(というかその時点では単なる二番煎じだが(笑))に当たるイマアイではTBSだけが独り負けしたかたちになったので、当たったセカチューの「難病物」という性格に回帰してそれに好適なコンテンツに相乗りしたということだろうし、難病物で実績を出したエリカを保険で主演にすえたという流れになるのだろう。

そもそもエリカは最近では初の単独主演作である1リットルの印象が強いが、それまで連続ドラマの出演はほとんどTBSと系列局であるMBSの作品「しか」なかったという縁もあったのだろう。また、どちらかというと芸能活動の軸足をそちらに置いている劇場映画のほうでは「阿修羅城の瞳」以降松竹配給作品がほとんどで、「松竹映画原作のTBSドラマで沢尻エリカ主演の難病物」という取り合わせにも、一応のバックグラウンドストーリーが推測できるだろう。

まあ、そのような裏の事情は視聴者に無関係だと言ってしまえばそれまでだが、このドラマの場合は元ネタである劇場版のオリジナルストーリーに剰り良い印象を覚えていないので、ついつい揶揄的な邪推に傾いてしまうところがある。その好ましからざるオリジナルストーリーを生んだ坂東賢治という名前にまったく心当たりがないので検索してみると、CXヤングシナリオ大賞史上唯一「大賞該当作品なし」という不作の第九回で佳作を受賞したという以外は前歴を辿れなかった。

その後、CXからは思わしい扱いを受けなかったらしく、お定まりの美少女H2を二本ほど書いている程度で、主に日テレを中心に連続ドラマで細々と脚本を書いていたようだが、ゴールデン・プライムでメインライターを張ったことはないようである。おそらく連ドラの代表作は「新・俺たちの旅」で、一枚看板の代表作はWOWOWの単発ドラマ「恋愛小説」ということになるのだろう。

要するに、一〇年選手だがこれと言って華々しい実績もツテもなく、ヤングシナリオ大賞出のスターライターたちの影のような存在に当たる不遇の書き手ということになるのだろうが、彼の関わったドラマは一本たりとも観ていないのでその作風については何とも言えない。また、当然ながら劇場版タイヨウも未見なので、坂東賢治の作物それ自体に深く触れるつもりもない。

ただ、「色素性乾皮症=XP」を核にした大筋のアイディアやプロットは、散々言われていることではあるがちょっと戴けない代物だと思う。オレは別段、難治病や不治病を題材に扱った映像作品において、対象疾病のディテールが完璧に正確に描かれていなければならないとは思わないが、現実の疾病を扱う以上、実際にその疾病に苦しんでいる罹患者やその家族に対するデリケートな心情的配慮は不可欠であろうと思う。

映像作品とは、多寡が娯楽、されど娯楽なのである。

特定の集団の利益や心情が過剰に尊重されねばならないとも思わないが、不当に損なわれていいとも思わない。最低限、その疾病に苦しむ人々の心情に寄り添って共感しその苦痛を我が物としてまざまざと体感する豊かな想像力の下に描かれねば、他人の不条理な苦痛(難病による苦痛と死はまさに現実の不条理の最たるものだろう)をネタにして娯楽を語るための倫理的な要件はクリアされないと思う。

この物語の場合、具体的に劇中でどう描かれているのかという問題はあるとは思うのだが、主人公の基本的な設定が「XPのために夜しか出歩けないミュージシャン志望の女の子」というのは、やはり原作者が抱く詩的なイメージの道具立てとして都合が良かったからこの病気に着目したということがハッキリしているだろう。

ネットで劇場版の感想を見ても「言葉は悪いけど吸血鬼みたい」という印象を持った人が多かったようだが、おそらく主人公の人物像の出発点は「ヴァンパイアの少女が昼の世界に憧れる」という、割合凡庸な詩的イメージだったのだろうと想像する。

XPという疾病ありきの話であれば、そもそも1リットルと同じように寝たきりの少女が徐々に衰弱し神経障害が進行していくという陰鬱で残酷な物語を長いスパンで描くしかなかっただろう。XPの具体的な病像から考えると、XP患者のハイティーンの少女と同世代の少年が偶然出会って恋愛に落ちるという話を説得力を持って語ること自体が難しい。言い方は悪いが、生得的な進行性の疾病であるXPの場合、他者と向き合う以前に自身の肉体と戦うだけで精一杯だろう。

ただの邪推ではあるが、この物語におけるXPは「ヴァンパイアの少女が昼の世界に憧れる」というロマンティックな原イメージを現実寄りの純愛物語として語るための方便にすぎないように見える。「ムーンチャイルド」というキーワード自体が清水玲子の代表作である「月の子」やキングクリムゾンの名曲を思わせるが、実際に存在するタームであるとは言え、そのキーワードでからロマンティックなインスピレーションを受けたことが創作の動機の大きな部分を占めることは間違いないと思う。そのような作者のリリシズムの具として現実の疾病を扱っていいのかという反撥を感じるのである。

このシナリオは坂東賢治が随分前から構想していたものだという話だが、元々想定されていたプロットはそのものズバリ、ヴァンパイアの少女がミュージシャンとして活躍したいと望み、人間の少年の助けを受けて願いを叶えるものの、最後はヴァンパイアの宿命から滅びてしまうというようなものだったのではないだろうか。そこから「夜しか出歩けない現実の病気はないだろうか」と発想してXPに行き当たったというふうに考えれば、創作の実践として自然な流れである。

そのように邪推するのは、たとえば一般的な難病物の物語において実際の病像を改変する場合は、それが幅広い年代層の視聴者が観るドラマとしては剰りに残酷すぎて正視に耐えない、あるいは現実の罹患者に対する生理的な忌避感情を煽ってしまう、という穏当な事情からだろうが、この物語の場合、架空の主人公のロマンティックな人物設定を成立させるため「だけ」に現実の病像が改変されているからである。このような人物設定を成立させ得る条件附けとして、実在の病気の病像の都合の悪い部分に目を瞑ったような印象を受けてしまうのである。

もっと悪意的に解釈すれば、元々ヴァンパイア物として構想されていた物語を現実の疾病に擬することによって、難病メロドラマの名作である「つきせぬ想い」のリメイク企画にこじつけて実現させたという見方もできるだろう。このプロットそれ自体を買ってもらえるなら、既存の香港映画のリメイクという冴えない看板など用済みなのである。

もしこれがそのまんまのヴァンパイア物だったとすれば、「そんな陳腐な話はアニメでやっとけ」、で終わりだったろう。多分「愛してナイト」と「クリーミィマミ」を足して二で割ったような、新鮮味のないヲタ向けラブファンタジーにしかならなかったはずである。それをヴァンパイアではなく実在の病気として設定するから純愛悲恋物語として成立するのである。逆に言えば、基本的なアイディアに内在するアニメと一般ドラマを隔てる本質的な垣根の高さなどその程度のものなのだろう。

具体的に劇中でどう描かれているかはさておき、この基本設定にはこのような胡散臭さがどうしても附き纏うとオレは思う。どうもまともな創作者のやることにしては、それなりに敬意を払われて然るべきいろいろなものを方便として便利に使いすぎているというイヤな印象を受ける。

勿論これは印象論ではあるし、そのような印象から出発した悪意的な憶測にすぎないわけではあるが、オレ個人の心証としては、おそらく十中八九までこの推測は外れていないと思う。

ただ、実際にスタートしたドラマを観ると、これがそれほど悪くはないのである。

これまで語ったような大人の事情が透けて見える作品ではあるものの、それらの具現としてドラマ化された作品それ自体には、それ故にこそさほど悪印象を持たなかったということもあるだろう。要するに、この作品がこのような枠組みであらねばならないことは、劇場版の存在を受けて制作しているドラマ版のスタッフにとっては、既定事項の前提条件でしかない。

そのような条件附けにおいて、どれだけTV版独自の要素を加えて面白くするか、そういう仕事の仕方しか出来ないということである。巷では脚本を担当する渡邊睦月の評判が剰りよろしくないようだが、割合ケータイ刑事シリーズを抵抗なく観ているオレにはそれほど悪いという気がしない。

この人は、滝沢秀明主演の「太陽の季節」で一枚になって以降、主にBS−iで丹羽多聞アンドリウプロデュース作品に参加した後、TBSに戻って再び日曜劇場のメインを何本か担当しているのだから、TBSの扱いとしては悪くない。まあ何度か口にした通り、オレは常日頃剰りTBSのドラマを好んでは観ないので、Pのカラーのほうが強く出ている丹羽多聞関係の作品を何本かリピートで観た程度であるから、渡邊睦月の芸風についてはほとんど識らない。

だが、「エリカで難病物」「山田で純愛物」という先入観は、そのコメディタッチのカジュアルなナラティブで裏切られた。つか、これホントに主人公が最後に病死する悲恋ドラマなのかよ、という疑問を感じるほどにヴィヴィッドなラブストーリーになっていて、仄聞するところによると主人公の性格も劇場版とはかなり違うらしい。

1リットルの頃に比べて悪人面に磨きがかかった印象のエリカだが、1リットルからの流れで言えばもっと辛気くさいいい子ちゃんでもよかったはずなのに、何だか最初の最初からちょっとイケ好かない生意気な女なのが意表を衝かれた。

そもそも一般的な難病物のヒロインが、何故決まってティピシャルないい子ちゃんなのかと言えば、それは死病による夭折の不条理さを際立たせるためである。ヒロインがごく普通の等身大の少女であっても普通に悲劇的な話が成立するのだが、いい子であればあるほどそんないい子が無情な死病の運命によって命を奪われるという不条理の悲劇性がドラマ的に際立つ。

だから、個人の善良さと死病の運命は無関係である、つまりどんな個人に対しても死は平等に不条理であるという一般則を強調して悲劇性を高めるために、逆説的に個人の善良さと死病の酷さがドラマ的な意味では相関を持つのである。

その意味では、このドラマの雨音薫の人柄は普通過ぎる。普通にちゃっかりしているところもあるし、気の強いところもある。病床にあった時期に孝治のギターを拾うことで生きる力を得たという理由で小悪魔的に孝治に附き纏う辺り、「死病のさだめによって夭逝を宿命附けられた可哀想な少女」というイメージからはかなりの隔たりがある。これは少し意外であった。

1リットルのイメージ故にエリカを引っ張ってきたのなら、1リットルの役柄から連続性のあるいい子のキャラであるほうが自然だし、劇場版の雨音薫の人物設定もおおむねそのラインの性格附けのようだが、敢えてそのような非の打ち所のない善良なキャラではなく、等身大の現代娘に設定したのが意欲的に感じられたのである。

勿論そのような人物設計がドラマのテーマ上必ずしも成功するとは限らないから、それだけを挙げて評価するには当たらないだろう。ましてこの物語の大筋は予め決まっていて、雨音薫は必ず最後に死ぬのである。その枠組みとこのようなコミカルな語り口をどのように整合させるのか、そこにまず興味を持った。

本来薫の置かれた運命は過酷なものであり、その当事者性において「それが人生というものだ」と悟り澄ましてはいられないものである。1リットルの物語もまた、その過酷な当事者性の苦悩をみっちりと描き込むことにドラマの主眼が置かれ、正視し得ないくらい辛い場面も頻出した。

だが、タイヨウのドラマに関していえば、たしかにそのような過酷さも押さえられてはいるが、むしろ滅びを宿命附けられた少女の「生の充実」を描く———いや、この表現には最近ちょっと抵抗を覚えるな、恰も「セックスと出産」を特定するような時事的意味性があるようで(笑)———非情な制限とタイムリミットを設定された少女の恋物語を描くことに主眼があるように感じるのである。

つまり、これは先ほど語ったこの物語の成立事情にも関係してくるが、現実の罹患者の苦悩をベースにして病との苦闘を語るのが主眼のドラマではなく、制限とタイムリミットありきの物語であることが意識化されているということではないかと感じた。

だから、薫が置かれている必滅の宿命をXPという現実の疾病のリアリティに引き寄せて考えさえしなければ、悲恋に結末するコミカルな恋物語として成立するという計算があるのではないかということである。

その意味で、このドラマにおいては薫の「闘病」という難病物に必須のプロセスが意識的に描かれていない。剰すところあと二話という今週の時点に至っても、薫は未だ入院すらしていないのである。医師の榎戸が告げる薫の病状の悪化は、必滅の宿命を抱える少女に課せられた恋と歌手としての成功までのタイムリミット、つまり一種のサスペンス要素として扱われている。

だとすれば、このドラマで薫を縛っているのは、XPという現実の疾病というよりそれに付会された物語装置としての行動制限でありタイムリミットだということだ。これが大本の物語が内包する倫理的な危うさを秘めているかどうかは微妙だが、かなり露骨にヴァンパイア少女物語的な内実を体現しているということだろう。それはつまり、事前情報から想像するような固いリアリティのドラマというより、もっとファンタジーに近いリアリティのドラマだということだ。

第三話の観覧車のシチュエーションが劇場版にもあるかどうかは識らないが、これなどはXPを即物的にサスペンス要素と割り切れば、タイムサスペンスありきの状況設定であるということだ。その意味で、この病気は劇中において現実的な障害というより作劇的な障害として扱われている。

日光に当たると最悪の場合死に至るという条件附けに基づいて、薫を守る孝治の活躍が描かれているのであり、昼間出歩けないという条件附けに基づいて、工藤洋平に会いにいけないとか、昼間のコンサートが開けないとか、孝治の真意を問い詰めることが出来ないことが描かれているのであり、神経症状の進行という条件附けに基づいて、ギターを演奏出来なくなるというハンディが描かれている、というように、主人公の行動に作劇上の障害が設けられているわけである。

このように、元々の物語構造に内在する若干不謹慎な部分を開き直って最大限に活用しているのが、このドラマが他の難病物と異なる部分だろう。それは虚構の物語である以上、どんな難病物にも多かれ少なかれ共通する事柄ではあるが、このドラマにおいては文字どおり作劇上の方便として最大限に徹底されている。

それをどう視るかという観点はあり得るだろう。

このドラマの末尾には、ここで描かれている具体的症状が現実の疾病とは異なるという但し書きがあり、XP患者の家族によって構成される連絡会は、この物語によってこの疾病への社会の関心が高まることを願う旨の声明を発しているそうだが、やはり当事者的な観点から言えば不快ではあるだろう。

人の人生は物語の具として存在するのではないのだし、現実と虚構のバランスはやはりデリケートなものである。その意味で、オレもこのドラマを視聴する都度、微妙な割り切れなさを感じはするものの、既定の条件附けにおいてドラマを語るという仕事の面においてはそれなりに評価出来ると思う。

おそらく残された二話のエピソードにおいて、コンサートの成功と雨音薫の死というこのドラマ上最もシリアスなプロセスが描かれるのだろうが、それをこのコミカルでライトな語り口を破綻させないまま効果的に語ることが出来るかどうか、とりあえずドラマ鑑賞上の関心としてはそこを見守りたいと思う。

|

« 「週刊現代」私の反論 | トップページ | Home-Town »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/136645/11766972

この記事へのトラックバック一覧です: Vita brevis-2:

« 「週刊現代」私の反論 | トップページ | Home-Town »