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そういうわけで、今回はついにファミリー対象の路線を棄ててヤングアダルト層を狙いに行った日曜劇場の新作、堀北真希初主演作である「鉄板少女アカネ!!」を語ることにしようか。結論から先に言うなら、第二話にしてすでに懲りもせずに「クロサギ」と同じ理由に基づく失敗を繰り返しているというのがオレの意見である。
一通り秋の新番組を眺め渡してみても、やはりTBSは相変わらず飛び抜けて勘の悪い局であるという印象が否めない。下手に「ドラマのTBS」と異名をとった歴史があるだけに、旧時代の制作トップが未だに現場に影響力を揮っているという事情でもあるのかと思わないでもないのだが、それならそれで、ちゃんと時代の流れに合わせて作劇観をアップデートしろよと思ってしまう。
何もそれは、昨今流行りのバラエティショー的な忙しない語り口に倣えと言っているのでは勿論ない。頑固に古き良き時代のTVドラマの伝統を守ってきたTBSも、視聴率獲得のために新たな方向性を模索するなら、そこで相手取るジャンルにおいてすでに確立されているセオリーや作劇のロジックに対する研究があって然るべきだという話をしているのである。
単に題材だけ今風のものを採り入れて、これまで通りのやり方でつくればいいというものでもないだろう。たしかにドラマづくりの実践においては、普遍的な要素や安直に変えてはならない要素もあるだろうし、それをホイホイと節操なく手放すつくり手がいることも事実ではあるが、TBSの姿勢はそれ以前の守旧的な怠慢に感じられる。
以前触れたクロサギの失敗も、劇画のドラマ化を得手とする他局の手法に学んだらあのようなことにはならなかったはずである。あのドラマの数字が悪くなかったのは、ひとえに主演の山下智久の人気を損ねる種類の失敗でもなかったという、ただそれだけの理由であると考えている。数字が悪くなかったからあれは失敗ではないと考えているのであれば、それは別の意味での視聴率至上主義である。
しかしまあ、結局そのように考えているのだろうな、というのはアカネを観れば大体わかる。クロサギがコンゲーム物やバトル劇画及びそのドラマ化というジャンルの成果をいっさい研究せずに好き勝手につくられた散漫なドラマなら、このアカネも料理バトル劇画やそのドラマ化というジャンルの歴史的成果をいっさい踏まえていない。
そんな勉強不足な姿勢でちゃんとしたものがつくれると考えるのは大した自信と言うよりないのだが、勘違いした中二病の作家志望者ではないのだから、そういう青臭い料簡は早々に改めたほうがいい。
物語づくりというのは、基本のセオリーやメソッドを身に着ければそれが万能のツールになるというものではない。同じ対象を延々拡大再生産し続けていくのならそれでもいいだろうが、敢えて新奇な対象にアプローチするというのなら、すでにその対象に取り組んで成果を挙げている他者の実践に学ばないのは単なる怠慢である。
当たり前のことではあるが、ホームドラマや恋愛ドラマと劇画ドラマが同じセオリーやメソッドでつくれるはずはないのである。どんなドラマもドラマはドラマ、本質的には何ら変わるものではないというのも一面の真理ではあるが、ならば、どんな見せ方をしてもドラマはドラマであるという言い方も出来るわけで、ジャンル毎の特異性というのはこの見せ方、即ち形式や意匠に纏わる問題なのである。そして、これは普遍的なものではなく適宜移り変わっていくものであり、それ故に他者の実績から積極的に学ぶべきものなのである。
その意味で、クロサギとアカネを例に採るなら、とにかく劇画作品や他局の同傾向のドラマがどのような工夫を凝らした結果としてジャンル固有の形式が成立したのかということにまったく思いが及んでいない。どんなドラマにでもあるような部分についてはそれなりにつくり込んでいるが、ジャンル固有の要件をまったく満たしていないからドラマとして成立していないのである。その意味では、ドラマの普遍性を怠慢の言い訳にしているだけでしかない。
では、アカネが何故ダメなのかといえば、料理バトル物というものが喰い物の美味さという実際に喰ってみなければ決して伝わらない強烈な実感を説得力としてドラマを語る形式の物語であるのに、その喰い物の扱い方がおざなりだからである。
上辺の形ばかりCGを使って派手な絵面を演出しているが、その派手さが劇画的な迫力に結び附くロジックをまったく理解していないのである。料理バトル劇画の滑稽なまでにド派手な調理シーンが迫力を生むのは、ただ単に絵面が派手だからではない。そのように誇張された調理法に料理の文法におけるロジックが付会されるからこそ、その調理法の誇張がそのまま誇張された美味さの裏附けになるのである。
そして、料理バトル物においては調理それ自体がバトルの要素を持っていて、そのバトルの勝敗を分けるのは勿論料理の美味さである。しかし、さらにそれを煎じ詰めれば、その美味さは喰ってみなければ絶対にわからないのであり、だからこそ料理の美味さは調理者のプレゼンテーションや判定者のリアクションに代替されるのである。
ただ美味そうな料理をシズル感たっぷりに撮影すれば美味さが伝わると考えるのでは素人以下である。その調理法によってどのようなロジックに基づいた美味さが成立するのかを調理者が言葉によってプレゼンテーションする必要があるのであり、それを喰った人間が満腔以てその美味さを表現しなければならないのである。
即ち、料理バトルとは作劇の観点においては調理者及び判定者のプレゼンテーションの勝負なのであり、その勝負を確定し裏附けるのは試食した人間のリアクションの勝負なのである。「とても美味い」と「死ぬほど美味い」という二種類のリアクションの違いが勝敗を分けるのである。
その「とても美味い」料理と「死ぬほど美味い」料理の差が、ただ料理を撮っただけで表現出来ると考えているのなら、ただの莫迦である。料理の味など喰った人間でなければ絶対にわからないのだし、匂いも味も食感も伝わらない映像だけでその美味さを表現することなど原理的に不可能だ。だから料理バトルの登場人物たちは口を開けば蘊蓄を語るのであり、リアクション担当者はダチョウ倶楽部よろしくさらに派手なリアクションの表現に磨きをかけるのである。
さらに言えば、調理のロジック以前にあるのが食材のロジックであり、基本的に料理バトルにおいては「調理技術のみによってもたらされた味は食材本来の味に劣る」という黄金律がある。つまり、料理バトルは食材選択の段階ですでに八割方勝負が決するものなのである。食材の美味さにおいてハンディがあるのに、それを主人公の調理技術でカバーするというのは、主人公の発展途上を示すエピソードに留まる。
料理バトルの究極のドグマとは「料理の美味の本質は食材本来の味」というものなのである。その意味で、たとえば「美味しんぼ」などでは美食倶楽部という資金力と実行力を持った組織が、食材に対する最高度の知識と見識を持つ海原雄山の指揮の下に契約農家などのインフラに食材づくりから任せているという徹底が施され、これが一介の市井人であるにすぎない山岡士郎の絶対的なハンディになっているわけである。
調理のロジックと食材のロジック、それを開示するプレゼンテーション、そしてそれを具体的に表現する試食者のリアクション、これが料理バトルの必須要件である。これに何かを附け足すとすれば、おそらく商売人の作法論であり「もてなしの心」の精神的要素である。しかし、このどれ一つとして現状のアカネには具わっていない。
第一話はまだ謎掛け編というか、神楽アカネと「ちゆき」を巡る状況の激変を語るものであり、アカネスペシャルを試食した嵐山蒼龍が何故それを一蹴したのかは、この時点で判明する絶対的な必要はない。失踪した父への反撥から自己流の料理を追求し現状に慢心していたアカネがその道の権威に鼻っ柱をへし折られるという、まあ別段間違った作劇ではないだろう。
その場合、何故にアカネの料理が父・鉄馬に及ばないのか、それをその場で蒼龍が語らなかったとしても、これから一〇回かけてアカネがそれを悟るまでを描いていけば好い要素ではある。殊に、小手先ばかりの工夫や個性を標榜して基本を忘れたアカネに対する批判なのだから、問題は料理の本質を巡るものであって、その真意は逆にこの場で偉いヒトが言葉によって明かすべきものではないだろう。
しかし、クライマックスの料理バトルシーンで、陣内演じる黒金銀造が(おそらく故意に)ソースをぶちまけたために、豚玉をダシ汁に一旦漬けて焼くという方法でそのピンチを凌いだ場面では、キチンとその間のロジックをプレゼンテーションし、リアクションをとる必要があったのではないのか。
ダシ汁に漬けることでどのような美味さが成立し、それには一鐵の力がどのように関与しているのか、そして何故それが一鐵を使いこなしたことにはならないのか、これを説得力を持って提示してこそ料理バトルである。さらには、この作品においては父の残した一鐵というフェティッシュが銘刀妖刀のような一種のキャラクターを具えた「モノ」として扱われているが、劇中で一鐵のモノとしての魅力や力が効果的に表現されているとは到底言い難い。
第一話の時点では、辛うじてダシ汁に漬けた豚玉がグツグツ煮え立っている描写があることで一鐵の火力の強さが見て取れて、さらに最大火力に上げることでダシ汁に漬けたことによる食感の減退を補っているかのように見えたが、蒼龍の前に出された豚玉が恰もあんかけのように汁まみれになっていることで、折角の知恵も意味なし感がじんわり滲み出ていた。
その絵面が、料理バトル劇画における「ジューシー」シズル感の鉄則である「外側はカリッとサクサクで噛むとジューシー」というパターンを踏み外していることで、如何にも不味そうに見えてしまう。もしかしてそこが「使いこなせていない」所以であるのかもしれないが、この間のロジックをまったく提示していないために一鐵の魅力も出ていないしバトル自体に何の爽快感もない。
だが、第一話の時点ではそこ以外はさほど料理バトルの勘所を踏み外した要素も視られなかったし、それには何より発端編であることと相手がアカネの前に立ちふさがる壁としての大物美食家であることで「謎掛け」と解することが可能なこともあり、いろいろと不備な面には目を瞑ろうという気にはなった。
たとえば、アバンでアカネが高級フランス料理店に勉強のためと称して入店する場面なども、インパクトのある主人公の登場描写を狙ったのだろうが、普通に考えてサッパリ意味がわからない。先ほど少し触れたが、料理バトル物には商売人の作法論・精神論の局面もあるわけだが、そのためには対象となる店がどのような店であるのかというディスクライブが必須である。
だが、アバンでアカネが入った高級料理店は、劇中のロジックにおいてどのような位置附けの店なのか、あの描写を視ただけではわからない。看板倒れで高いだけの店というふうに描きたいのであれば、何故そこがダメなのかという説明がなければいけないはずであり、それに比べてアカネの料理の何処が優れているから屋台のお好み焼きが売れたのかというロジックがなければいけない。
だが、行列に並ぶ客の前で「焼きが甘い!」「これで三万円なんて高すぎるぅ!」と布令て廻るというのは、普通に営業妨害なだけである。そこでアカネが屋台を持ち出してお好み焼きを売るのであれば、実は「勉強」というのは口実で一種の道場破りのような行儀の悪い金稼ぎの手法というふうに解することも可能である。
つまり、此処の場面では、アカネが「不味い」と布令て廻ったから客が屋台に流れたという見え方になっているのだし、本当にその店の料理が不味いのかどうかは結局わからない。そもそもフランス料理と鉄板焼きではまったく火加減の扱い方が違うのだから、鉄板焼きのロジックで「焼きが甘い」と言われてはフランス料理が泣くだろう。
だから、アカネがその店を不味いと判断した理由に説得力はないし、本当に不味いのか何うかも不明な上に、一方的に風評を流すという下品な手段を執ってさっさと不法な路上営業を始めたために、アカネ自身の行動の動機も目的も不明になり、さらには料理店の支配人らしきルー・大柴が「私にも」とお好み焼きを所望するに及んでは、何を意図した場面なのかまったく理解不能なものになる。
おそらく、ルーが怒り出すと思わせておいて「私にも」と肩透かしを喰らわすギャグを狙ったのだろうが、すでにその時点でこの場面で何を描こうとしているのかという目的意識が因果地平の彼方へぶっ飛んでしまっている。そんなつまらないお約束のギャグを一つカマしたせいで、わけのわからない場面が決定的に理解不能なものになる。
正直言ってこのアバンを観ただけでいや〜な予感をじんわり感じたのだが、まあTVドラマなんだからこんなモンだろうくらいに解して流すことにした。しかし、その後さらに蒼龍がふらりと「ちゆき」に立ち寄ってアカネの料理を貶めたことで常連客がパッタリ来なくなるという描写を視るに及んでは、普通のドラマとしてもダメだろうと思ったのである。
そもそも、親父の鉄馬の時代とは味が変わったのは、レシピそれ自体が変わっているのだし親父のソースを使っていないのだから、初めから当たり前である。明らかに味が変わっても鉄馬がいた頃からの常連が「ちゆき」に通い続けているというなら、それは親父の時代からの馴染み甲斐の故であると解するのが普通の感じ方ではないか。
すべての大衆料理屋に遍在する男として有名な諏訪太郎であるが(笑)、彼をはじめとする常連客たちは、巷でアカネの料理が美味いと評判になっているから来ている人間ではないはずである。もっと言えば、アカネの鉄板焼きが実際に不味かったとしても、親父の鉄馬が蒸発して未成年の女の子が一人で切り盛りしている店であるから、それを応援するために贔屓にしているということではなかったのか。
そういう地域共同体内の大衆料理屋の位置附けとして、美食評論家が太鼓判を捺すほど美味くなければ客が来なくなるというものではないだろう。たとえばご町内のラーメン屋が多少不味くても、そこの親父と顔見知りならそんなモンだと思って日常的に喰いに行くのが当たり前である。
そこで、たとえば老夫婦が二人でやっていた店でカミさんが不意に倒れたとか娘が嫁に行くので物入りであるとかいう話であれば、ご近所のよしみで不味かろうが何だろうがなるべくそこを贔屓にしてやろうと気に懸ける程度の人情は、現代の東京にだって残っている。
劇中のアカネと「ちゆき」の設定から考えれば、五年前に母親が他界しただけでも不憫なのに、それ以来仕事への意欲を喪失した父親の鉄馬に代わってアカネが独りで店を切り盛りしていて、さらに一年前に鉄馬が蒸発してからは天涯孤独の身の上で両親の残した大衆食堂の経営に追われているという、窮め附けに不憫な境涯の女の子である。店が忙しく賑わっているのは、アカネの料理の腕が何うとかではなく、その故であろうと普通の視聴者は考えるだろう。
だが、蒼龍の批判によって店に閑古鳥が鳴いて閉店の危機にまで追い込まれるということは、さも親しげにアカネを励ましていた諏訪太郎たちは別段アカネに対する同情で来店しているのではなく、偉い先生に不味いと言われた店になど来ない種類の薄情な人間であるということだし、美味しそうにアカネスペシャルを食べていた親子は評判に釣られて来ただけで本当の味がわからない鈍物だということになる。
さらにさらに言うならば、それでも要するに諏訪太郎たちは親切めかしてはいたがそういう薄情な人間だったという解釈で落ち着けることも出来るのだが、離れたきりならまだしも第二話で何のツッコミもなく常連客が戻ってきているのでは、この解釈すらも成り立たない。そもそも第一話のクライマックスでもたらされたのは、父の鉄馬が残した借金の清算のみであって、蒼龍の批判による風評被害は回復されていない。だとすれば何故常連客が戻ってきたのか、筋道の立った解釈は不可能である。
これはつまり、この種の物語における美食評論家の存在意義に対する理解も、料理店というものやそれに付随する人情に対する見識や思想もなく、お話の都合を最優先した安い筋立てであるということで、第二話の大衆割烹の危機も途轍もなくいい加減に設定されていて、地元で何ういう位置附けになっている店なのかサッパリわからない。
これが原作通りの展開であるかどうかまでは識らないが、そうだとすればダメな料理劇画であるというだけの話で、ドラマ化に際して幾らでも脚色出来たのにそうしなかったのはやっぱりドラマ版の不手際である。
要するにこのドラマにおいては、そういう当たり前の人情を描くことにも関心はないということで、手っ取り早く「ちゆき」買収のピンチをでっち上げるための方便として不自然な描写も厭わないということである。それが劇画調だと考えているなら、根本的に勘違いしているとしか言い様がない。マンガや劇画では通ってもドラマでは通らないようなリアリティを上手く脚色して処理するのが劇画ドラマの常套作法なのである。
たとえばこういうプロセスを描きたいなら、「ちゆき」の客層を常連客と浮動客に分けて描き、蒼龍の来店によって浮動客が根こそぎ離れてしまい、常連客だけの実入りでは期日までに鉄馬の残した借金を返すことが不可能であると描くことで十分不自然さは払拭出来たはずなのである。
そこで親父の代からの常連客に浮気な客に対する恨み言を言わせるとか、更めてアカネが自身の料理の評価を問うと「正直言って鉄馬の頃よりは…」と言わせるとか、幾らでも描きようはあったはずなのである。
そのような手間を省いている辺り、ハッキリ「安い」ドラマだという感触を得た。ただまあ、安いのは安いなりに弾けた勢いで保たせるつもりなのだろうと好意的に考えることにしたのだが、どうも今週の第二話は我慢の限度を超えている。
たとえば、第一話の時点ではこれが原作のルーティンなら仕方ないかと思っていたのだが、勝負の前の研究の成果として何らかのレシピを編み出しておきながら、黒金銀造がもたらすハプニングの故にピンチに陥り、咄嗟の機転で逆転するという構成も、じゃあ事前に考案したレシピの意味がないじゃんというツッコミが入る。
普通のドラマツルギーで言うなら、事前の研究段階では大筋のヒントを掴んでいながら勝負の局面で絶対的に勝ちを得るには至らず、土壇場のハプニングを機転で巻き返すことによって逆にその最終的な勝利の決め手を掴むという流れになっていないと、このような二段構えの構成は無意味なはずである。
まだしも第一話では、鉄馬がちゆきの好きな林檎を隠し味に使っていたことをアカネが悟るプロセスとして活きてはいたが、第二話に至っては、何であんな鯛のそぼろとあさつきと餅を巻いた不味そうなクレープが、西京焼きや岩塩包み焼きより美味いのかまったくプレゼンテーションがないので、そのルーティンに内在する弱点が露わになってしまっている。
正直、絵面で視ただけでは、アカネの考案した料理より西京焼きや岩塩包み焼きのほうがよっぽど美味そうに見える。料理バトル物の黄金律である「調理技術のみによってもたらされた味は食材本来の味に劣る」というまさにその通りで、グジャグジャいろんなものを混ぜ込んだ料理より、下手に小刀細工をせずに明石の美味い鯛本来の味をそのまま味わう料理のほうが美味いに決まっている。
丁寧につくられた西京焼きや岩塩包み焼きの知恵に、その場の思い附きのレシピが勝てるはずなどはない。つまり、アカネ考案のレシピより西京焼きや岩塩包み焼きが美味くなかったのだとしたら、それは調理法が拙かったからである。そこをこのレシピなら勝てると視聴者に思わせるのが言葉によるプレゼンテーションなのだから、無言で不味そうな料理を美味そうに喰ってみせても説得力の欠片もない。
さらに、第二話の勝負では肝心の具材が消え失せたために、事前のレシピとは無関係な料理をその場の勢いででっち上げるという運びになっていて、レシピ考案の意味がまるごとなくなっている。
もしかしたらそのために予定のレシピの説明を省いたのかもしれないが、だったら女将による潮汁の手ほどきだけを残して、何らかの事情で無策のままぶっつけ本番で勝負に挑まざるを得なくなるというように、まるまる事前研究のプロセスを省くべきなのである。不要なプロセスが中途半端に残っているから尚更無意味に見えるのである。
また、わざわざ明石まで赴いておきながら「明石の鯛は美味い」という当たり前のことを説明するだけで何ら食材に対するアプローチがない。そもそも土壇場で敵のフレンチシェフから譲ってもらった鯛のアラで勝負するのだから、食材による勝負は描き得ないとは言え、あろうことか調理後のプロセスを一切省いてカットが変わったらいきなりアカネが優勝している有様では、最早こんなものが料理バトル物であり得るはずがない。
バトルを描くなら描く、省くなら省くでハッキリしろよ。
ただし、今回は前回のように審査に合格するか否かという審査員との一対一の勝負ではなく、他者の料理と競うのであるから、バトルを描くからにはプレゼンテーションとリアクションが必ずセットで描かれなければいけない。
第一話の発端編を受けて通常のフォーマットを提示する展開編の第二話において、しかもその最初の本格的な他者との勝負を、まったくプロセスを省いて結果だけ描くというのは、この題材のドラマでは絶対にあり得ない選択肢である。
あんまり穢ない言葉は使いたくないが、莫迦じゃないのかと呆れた。
料理バトルにおいて何が必要で何が不要なのかなんて基本的なことは、仮面ライダーカブトのネタエピソードですら外していないぞ。
バトルが終わった後で、アカネがタッパーに詰めたあんかけ焼きそばを不良息子に喰わせるという、それだけのために勝負があったような印象である。もしもそのように描きたかったのであれば、レシピ考案だのピンチだの調理場面だの鯛バトルだのというのは全部不要であるから、エントリー場面からカットが変わったらすでにアカネが勝って会場を後にしているくらい描写を省いたほうがまだしも話は通っただろう。しかも、そのような変則的な構成を用いて好いのは、番組のフォーマットを提示した第二話以降の話である。
また、そのタッパーに詰まった冷えたあんかけ焼きそばが視るからに不味そうで、審査員の喰い残しにしか見えず汚らしい印象を覚えた。不味そうな冷えたあんかけ焼きそばを喰わせるのが眼目の料理ドラマなど、根本からして完全に間違っているだろう。料理ドラマというのは、喰い物の美味さを視聴者に想像させ、その実感の説得力でドラマを語るジャンルである。それが不味そうな残飯でドラマをつくってどうするのか。
もうこのドラマは、第二話にして何処をとってもダメの一言である。
この種の批判に対して制作サイドがやりそうな言い訳のパターンを最低でも二五六通りは思い附くし、予め残らずそれに反論しておくことも可能だが、剰りに莫迦らしいのでやりません。何が何うあれ間違っているものは何う言い繕っても間違っている。
先人が確立したセオリーを崩すなら崩すで、それに代わる何らかの知恵を見せなければただの子どもの落書きである。このドラマは、料理バトル物というジャンル固有のセオリーを無神経に踏み外すことで普通のドラマとしてもロジックが破綻している。
全体構成やプロット、描写の意味、登場人物の心情、そのような大本の人間ドラマを語る上で重要な要素が、ジャンルのセオリーを踏み外すことでまったく破綻しているのだから、この現状が「それに代わる何らかの知恵」でなど決してあり得ない。単なる勉強不足であり、怠慢であると断ずる所以である。
まるで子どもがバラバラに分解された時計を組み立てながら、各々の部品の意味を一切理解せずに「こんなの要らないじゃん」と大事な部品を投げ捨てるように、そのような形式の物語を語るために欠くべからざる大切な要件を疎かにするのは、大人の玄人の仕事ではない。何故この局のドラマには、その種の勉強不足や怠慢に基づく恥ずかしい失敗作が多いのか頗る疑問である。
そういうわけで、もしかしたらこの第二話が飛び抜けてダメなだけかもしれないので来週までは我慢して視聴するが、第三話の出来如何ではアッサリ視聴中止の方向性で考えている。
……というところで本編に対する言及はキリにして、恒例のネタ雑談であるが、誰もがこのドラマを観て最初にツッコミを入れるのは、厚さ五センチの鉄板である一鐵を軽々と肩に負うアカネの勇姿である。
これは劇画故の誇張として通る範囲の嘘だろうから、飽くまで揶揄的なツッコミということなのだが、普通に考えても小っこい女の子が片手で持てる重さじゃねーだろうとは思うだろう。なので、実際にどのくらいの重量になるのか、物好きにも計算してみた。
ざっくり一鐵の寸法を五×五〇×一〇〇センチと見積もると、一鐵の体積は、
5×50×100cm=25,000cm3
一方、鉄の密度は一立方メートル当たり七八七四キログラムだそうなので、一鐵の重量は、おおむね以下の通り割り出せる。
1,000,000cm3÷25,000cm3=40
7874kg÷40=196.85kg
アカネがもしも戦国時代に生まれていたら、斬馬刀を恰も竹光のように軽々と扱う荒武者として大活躍し、文字通り一国一城の主にもなれただろう。
どっ(ry
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