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2006年10月 6日 (金曜日)

Misogamist

そろそろ夏季のドラマを総括しておかないと、来週辺りでそろそろ新番組も始まってしまうわけだが、リアルタイムでの言及が間に合わなかった番組の中に、とくに一項を設けて語っておきたかったものが一つある。勿論それは、今季数少ないヒット作となった阿部寛主演の「結婚できない男」である。

若干出し遅れの証文めいた今更感もあるにはあるが、今回はこのドラマをじっくり本腰を入れて語らせてもらうことにしよう。

実を言うと、スタート当初はこの番組にはまったく興味が持てなかった。火一〇関テレ枠でMMJ制作、尾崎将也脚本で阿部寛主演とくれば過去に「アットホーム・ダッド」の先例があるわけだが、正直これは、つまらなくはなかったが面白くもなかったというのが正直なところで、アットホーム・ダッドと同一世界観の物語と設定された「鬼嫁日記」に至っては正面きってつまらなかった———というか不愉快だった。

アットホーム・ダッドは、リストラ・女性の社会進出・専業主夫という今日的な三題噺をテーマにしていて、題材的には悪くなかったのだが、肝心の阿部ちゃんの役柄がつまらなかった。結婚できない男の桑野信介を少々まともにしたような男なのだが、女性の社会進出や男の家事を快く思わない型通りのマッチョ思想の持ち主で、それがリストラという人生の転機に遭って、それまで信じてきた自身の価値観に疑問を持つようになるという役どころで、一言で謂って「受け」のポジションなのである。

第一線で働くCMディレクターとしての自負を持っていたのが、再就職に努める裡に実はそれは一流企業という看板や豊富な原資あってのことで自分だけの力ではなかったと思い知り、家事や育児の大変さを知って認識を改める、という筋書きがまずありふれていてつまらないのだが、その筋書きを演じる山村和之という人物像が剰り面白くないのが問題なのである。

この種のコメディドラマにおいて、筋書きがつまらないことはさほど問題ではないのだが、人物像がつまらないのはちょっと問題である。思うに、無骨な変人役を得手とする家庭的な臭いのない阿部寛がエプロンを着けて主夫を演じるという、そのキャスティングイメージだけでキャラの魅力が成立しているのが、肉附けとして弱いのだろう。

阿部寛が主夫を演じるギャップと同列に阿部寛が平凡人を演じるというギャップまでが意図的に目論まれていたのかどうかは定かではないが、マッチョな平凡人役で受け一方のポジションに徹することで、結果的に主役キャラとしての阿部寛の役どころの印象が弱くなったことは否めないと思う。

但し、二〇〇四年の四月期という時期に恵まれたこともあってか、「マイ★ボス マイ★ヒーロー」と共に今季ヒットの二強とされる結婚できない男よりも、実は平均視聴率では〇・五%程度上回っており、この枠としては草なぎ剛の「僕の道」シリーズに並ぶ成功作である。だから同じMMJ制作+尾崎将也脚本の鬼嫁日記は、そのヒットにあやかって連続的な世界観の物語と位置附けられたのだし、同一ライン上の物語として結婚できない男が企画されたのであろうと思う。

しかし、「世間で好評なほどには面白くない」という印象だったアットホーム・ダッドの同一世界観上の物語である鬼嫁日記に関しては、第一話からして不愉快な印象を持ったし、作劇面でもルーティンの構築に失敗しているのではないかと感じた。その印象は最終話に至るまで変わることはなかった。

原作は有名ブログを書籍化した「実録鬼嫁日記」であるが、チラッと目を通した感じではドラマ版のルーティンはちゃんと原作から拾っているようではある。しかし、このドラマ版から感じる何とも言えない不愉快な印象は、自堕落で身勝手な鬼嫁が恐妻家の亭主をいびり倒した挙げ句に一方的な説教で締めるという理不尽な嗜虐の構造に原因があると思う。

それはやはり、原作の持っている微妙なニュアンスとは別物であって、確かに原作でも鬼嫁が散々身勝手な振る舞いを演じた挙げ句、それに抵抗した亭主に対して理不尽な主張を声高に叫び、最終的に亭主が折れるという構造になっているが、ドラマ版のように鬼嫁対恐妻家というベタな構図ではないし、鬼嫁の主張も飽くまで一種の逆ギレとして捉えられている。

原作のカズマ氏は、別段嫁が怖いから言いなりになっているのではなく、このように人格が不自由な嫁と円満な家族関係を維持するためには、亭主のほうが積極的に歩み寄る必要があるという諦念を抱いているだけなのである。

だからこそ、嫁の身勝手な逆ギレに内在する三分の理や基本的な善良さを積極的に理解し評価して折れようと努力するわけで、本来力関係の上では対等なのであるが、ドラマ版のほうはどう視てもゴリが観月ありさを怖がっているから仕方なく折れているというふうに見える。

さらに、クライマックスの逆ギレ説教も、娑婆で額に汗して働いているわけでもなければ、曲がりなりにも家事をきちんとこなしているわけでもないグータラ女が嵩に掛かって吐いた暴論が恰も物語内で正論と捉えられているかのように描かれていて、ここが決定的に不愉快なのである。

やはり、グータラ女の逆ギレというのは身勝手な暴論でしかないのである。しかし、それは一種主婦視点におけるぶっちゃけた本音だったり、理屈としては何処かネジが飛んでいても偽らざる善意が内在しているからこそ、それと相対する亭主の側が積極的にその真情を酌んで、いろいろなことに目を瞑って折れるわけである。ドラマ版のルーティンには、そのような夫婦間のデリケートな関係性の機微が、一切顕れていなかった。

前述の通り、原作を詳しく精読したわけではないから、ドラマ版のエピソードが原作から忠実に拾われたものかどうかは定かではないが、主人公の鬼嫁自身が至らなさの塊のような物欲まみれのグータラ女であるのだから、それがクライマックスで亭主の至らなさを責めたり自身の権利を声高に主張したりすることを、語り手の認識の上で全肯定してはいけないのだと思う。その意味で、この後味の悪さはネタに原因があるのではなくその扱い方に問題があったのだと思う。

要するに、夫婦というのは相身互いで、どちらかが一方的に悪いというものでもないよね、そういう場面においてどちらが折れるかというのは、相性で決まっちゃうというだけなんだよね、という微妙な機微において描かれなければ、ダメ女がクライマックスで説教するというルーティンが成立しないだろう。

コメディドラマ化のための単純化と割り切るには、やはり主人公の身勝手さの度合いが過ぎて後味が悪すぎたのである。これはもう、根本的な原作の捉え方に大人らしい知恵がないということなのだし、そこからルーティンワークを構築する手際や、人物像の描き方が間違っているということなのだから、これ一本だけを視るならば尾崎将也の手腕は剰り評価出来ない。

つまり、結婚できない男に至る同一線上のドラマにおける尾崎脚本には、総じて知恵がなく凡庸なイメージを持っていたので、「結婚できない四十男の悲哀を描く」的な凡庸なネタを凡庸な手腕のホン書きが描くという甚だ冴えない予備知識しかなかったわけであるから、そんなドラマが面白いはずがないと思っていた。

実際、第一話から第三話くらいまでの印象では、そんなに面白いドラマであるとは思えなかった。たしかに阿部ちゃんのキャラはちょっと変わった凡人というより、正面きって変人と描かれていてこれまでになく面白いが、とにかくテンポが悪くてクライマックスが盛り上がらない。筋書き上意味があるとは思えないルーティンだけでドラマの構造が組み上がっていて、盛り上がるべきところで必ず盛り下がって物語としての爽快感や充実感がない。

第一話の数字が良かったというのも、散々番宣でアピールした阿部ちゃんの生ケツの手柄だろう。今季のドラマは男のケツで数字稼ぐのかよ、もうこんなの糞ドラマ認定、と判断しかけたところで、ハタと気が附いた。どうもオレはこのドラマの見方を根本的に間違えていたのではないかという気がしてきたのである。

ドラマというのは、別段アップテンポなドライブ感が須く必要だというわけではないのだし、クライマックスが劇的に盛り上がらねばならないというのも、ただの偏見にすぎないだろう。

このドラマで目論まれているのは、寧ろオフビートでしんねりむっつりと対象ににじり寄るような、独特のイケズな視線の在り方だろうし、通常のドラマなら主人公の熱い長台詞で劇的な展開が拓けてくる場面で、わざとそれをグダグダに外して見せるアンチクライマックスの方向性だろう。物語上の課題は主人公の活躍で解決されるのではなく、寧ろ主人公がぶち壊しにした後で、周囲の人間が何となく折れることで何となくなし崩しに呆気なく解決されるのである。

これは一種、表面的な手触りは違うが、ドーバー警部シリーズのようなダメ探偵物のテイストに近いアンチクライマックスの感覚である。これはこれでアリではないかと思えたのは、放映開始から一カ月くらい経った頃のことである。この種の試みの真意は、一本二本観ただけではわからない。観ようによってはただの失敗したドラマにしか見えないからである。

おそらくこのドラマの真価というのは、具体的なテンポの設定やドラマツルギーの構造というより、視聴者にある程度の辛抱を強いる粘っこい語り口であると思う。その場その場が面白いかどうかに拘らず、とにかく辛抱して見続けることで、「くすっ」という隠微な失笑の感覚や、大仰ではないささやかな感動が滲み出てくるのである。

このデリケートな感覚を成立させているのは、さほど面白くない地味なルーティンで構築されたエピソードを木訥な繰り返しの感覚で見せるという全体構造であり、一種のミニマルミュージックのような味わいがあるのである。

言うまでもなく、これは今時のTVドラマ一般の風潮に逆行する手法である。

制作サイドが主要なマッスとして捉えている視聴者像とは、リモコン片手に一瞬たりとも退屈を許さず次々とチャンネルを替える移り気な人々であり、「まず継続視聴する」という安易な期待など許されない。

視聴者が退屈を堪えて視聴を続ける限度を五分くらいに設定して、どんどんギャグや見せ場を連打するというのが今時のTVドラマの骨法で、このドラマのように、阿部寛が唯ひたすら「んー、むふぅー」と鼻息荒く焼き肉を頬張り続ける絵面を芸もなくじっくり見せる語り口など沙汰の限りの自殺行為である。

何故なら、阿部寛がひたすら無言で焼き肉を喰っている絵面には、笑い所のサインが書かれていないからであり、絵面そのものは「ちょっと可笑しい」というだけにすぎないからである。普通一般のコメディドラマなら笑い所には「ここ笑うとこですよ」と大きくサインが書いてある。ちょうどそのときそのチャンネルに合わせた視聴者でも、その瞬間に笑うことが出来るようにするためである。

そのサインとは、たとえば忙しないカメラワークやカット割りであったり、役者のマンガ的な顔芝居であったり、コミカルな劇伴であったり、台詞廻しの珍妙さであったり、とにかくそこが笑い所であることを視聴者に報せるシグナルがこれでもかとテンコ盛りになっているのが通り相場である。

そして、一旦合わせたチャンネルを他局に廻されないように、須くTVドラマのテンポは目紛しく次のカット、次のシーン、次のシーケンス、次のエピソードへと先廻りしながら視聴者の視線を誘導していくように出来ている。記号としての過剰なサインと視線を拘束する素早いテンポは、今やTVドラマの話法に欠かせない要件である。

それは制作サイドだけの責任ではなく、オレたちドラマの視聴者一般がそういうドラマの見方をしているからそうなるのである。本来的には、どんな物語であっても緩急の手綱捌きが必要なはずであるし、感動的な見せ場が成立するためにはその前段階としてダレ場もまた必要なはずである。だが、今時の視聴者は退屈なダレ場に附き合うほどの根気がない。今その場に映っている映像が面白くなければ満足しない。

以前少し触れたように、萩本欽一の「これからのTVドラマはどんどんバラエティ的になってくるだろう」という予言はまさしく的中しているのだ。衒って言えば視聴者一般の刺激の閾値が上がっているために、どんどんセンセーション追求型の視聴姿勢が主流化しているということだろう。

こういうドラマの在り方が悪いとは言わないが、「面白いところしか観ない」というのが幼児的な感覚であることも事実である。要するに、特撮映画を観ていて役者芝居の場面で劇場内を走り回っている子どもと同じ感覚だということである。

抹香臭い言い方になるが、物語というのは辛抱というタメのプロセスがあるからクライマックスの感動があるような意味構造を謂うのであって、ベタ一面にとにかく面白いというのは、やはりバラエティショーの在り方なのである。

バラエティショーはバラエティショーで、ドラマと比べて娯楽として何ら価値的差別があるわけではないが、本来的にはドラマはバラエティショーではないという、たったそれだけの話である。

ならば、結婚できない男はその意味で本来的なドラマの在り方に回帰しているのかと言えば、各話のエピソードを視る限り決してそうではないだろう。このドラマの構造は、ある劇的な筋書きを語るために最適化された意味構造ではない。どちらかと言えば、各話の主題となっている要素はそれ自体重要な劇的要素ではないのである。

このドラマにおいては、たとえば「一人が好きで悪いか!!」とか「好きなものを食って悪いか!!」「好きにお金を使って悪いか!!」と、わかりやすくサブタイトルで各話の中心的な主題を謳っているが、実際にドラマを視聴してみると、その中心的主題を巡る筋書きを語るために最適化された語り口ではないことに気附く。

一本二本のエピソードを観ただけではわからないと言ったのはそういう意味で、これだけをとって視るなら、ただの失敗したドラマにしか見えないのである。たしかにサブタイトルに謳われた主題を巡る筋書きが大筋のストーリーを構成しているが、それよりも毎回のルーティンを入れ込むことのほうが重視されていて、その地味なバリュエーションを描くことのほうに脚本の主眼が置かれている。

わかりやすく言えば、たとえば「志村けんのだいじょぶだぁ」「ドリフの大爆笑」のようなぶつ切りのレギュラーコントで構成したバラエティショーのような構造になっているのである。この意味で、TVドラマのバラエティショー化という流れの呪縛自体は免れていないと言えるだろう。

寧ろ、このようなぶつ切りの構造自体が、辛くも現代的な試聴習慣に対する保険として機能しているとすら言えるだろう。最低限、このドラマのルーティンワークを識っている視聴者なら、途中から観ても残りのルーティンワークを個別に楽しむことが出来るからである。

個々のルーティン要素それ自体は、一本のエピソードを鑑賞する上で必須の構成要件とはなっていない。逆にエピソード個別のストーリーラインからは遊離していて、これやあれを見逃したから話の流れがわからないということは一切なく、各話の筋立てそのものは非常に単純でわかりやすいものである。

つまり、うっかり帰宅が遅くなって途中から観ても、途中でトイレに立ったり遅い晩飯を喰いながら観ても、それなりに各話を楽しんで観られる構造になっている。そういう意味では、さほど入れ込んで観ていなくても最低限それなりに楽しめるつくりにはなっていて、圧し附けがましく注視を強要する性質のドラマではない。

それを逆に言うなら、「イマイチつまんねーな」と感じた視聴者が途中でチャンネルを替えてもどうぞご自由にというユルさがあるのだし、一見の視聴者をパッと見で引き込むような貪欲なつくりのドラマでもない。非常にギリギリのレベルでどっち附かずに成立している連続ドラマなのである。

基本的に漫然視聴を前提としてそこはかとなく面白さが立ち上がってくる性質のドラマなので、直前の枠の「ダンドリ。」のように裏に強力な番組が控えていれば、それに対抗出来るような力強い性格のドラマではないだろう。その意味では、このドラマが絶対的に強いから勝ったというより、負けなかったから結果的に勝ったのである。

このドラマのルーティン要素をバラして列挙すれば、

■各話の構成要素
・事務所や現場における摩耶や英治との遣り取り
・中川病院における桑野と夏美の遣り取り
・自宅マンションにおける桑野とみちるの遣り取り
・漫喫における夏美とみちるの遣り取り
・飲み屋における桑野の陰口と本人の出現
・中川家における一家団欒と桑野への説教
・みちる宅の訪問者がベランダ越しに桑野と遣り取り

■毎回のルーティン
・帰宅途上におけるコンビニ店員との遣り取り
・帰宅途上におけるレンビ屋店員との遣り取り
・KENちゃんと桑野の交流
・行きつけのレストランにおける食事
・行きつけのショットバーにおける金田との遭遇
・桑野の奇行を夏美とみちるが目撃(不定期)

まあ、大体このような要素の順列組み合わせで一本のエピソードが出来ている。さらにそれぞれのルーティン要素に「大工の棟梁の禿頭で滑る」「金田のちょっとHP更新」「営業妨害紛いのレストランでの暴挙」「夏美とみちるのマンガのチョイス(概ね実在の作品)の違い」というルーティン的な地味なギャグが絡んで、規則正しくこの要素の組み合わせで物語が進行していく。

これらのルーティン要素には、本筋に絡むもの(朱字の項目)もあれば全然関係ないもの(青字の項目)もあり、総じて普通一般のドラマのような大筋を語るための劇的要素というよりも、ルーティン自体が独立して目的化していると言えるだろう。

一応各話の構成要素を視る限り、誰かと誰かを結ぶチャネルを場所単位で区切るやり方であることがわかるし、これ自体はドラマ全般珍しくない常套手法である。

たとえば桑野と摩耶、英治は基本的に事務所や現場で接点があり、桑野と夏美は中川病院内科の外来往診で接点があり、桑野とみちるはマンションへの帰路から自室前までのスパンで接点があり、夏美とみちるは満喫で接点があり、女集団および英治は飲み屋で接点があり、そこに適宜桑野を加えることで全員トークに流れる。

また、桑野の私生活と他の人物を接触させる場としてみちるの部屋が機能していて、夏美や英治が頻繁にみちるの部屋を訪れている。基本的に主要メンバーと接点がない桑野の親族に対しては中川家の夕食という場が設けられており、桑野の母である育代が遊撃的な役割で各人物との接点となる場を往還しているが、中川自身は同病院内の夏美とすらほとんど接点がない。

このように場所単位で接点を区切っているために、たとえば演者が現実の夫婦同士である金田と摩耶が接触する場面は、全話を通して一度もない。金田という存在はHP上の虚構的な道化役であって、ショットバーという場を介して桑野一人としか接点を持っていないからであり基本的に桑野が一方的な視線を送るヲチ対象だからである。

これはキャスティング上のネタとしては、常日頃桑野がそのゴージャスな暮らしぶりに一方的な僻み根性を覚えている金田を演じている高知の現実の夫人である高島礼子が演じている摩耶が、役柄の上では最もストレートに桑野に対して好意を抱いており、まめまめしく奉仕しているという皮肉なギャグになっているわけだが、そうは言っても実際に夫婦関係にある役者同士が同一場面に同居すると、無視出来ないほどに生臭いニュアンスが漂ってくる。

それがたとえば「不信のとき」のような元々生臭い主題を扱ったドラマならかまわないのだが、このドラマのようなとぼけた味わいを重視する番組ではその種の生々しいニュアンスは極力避けたいだろう。そのためにこの二人の接点を一切排しているのであり、場所単位で人と人の接点を区切る決め事が有効に働いているわけである。

しかし、本筋に絡まない部分のルーティンに関しては、一回二回観ただけではよけいな逸脱にしか見えない。KENちゃんとの交流に関しては当然みちるという主要人物が必ずセットになっているわけだからわからないでもないのだが、金田との遣り取りも含めて、他のルーティンに関しては、他の主要人物に絡まない個別の脇役と桑野の一対一の対応関係の場の設定になっていて、遵って本筋の進行とは一切関係がない。夏美とみちるが桑野の奇行を目撃するルーティンは後半少なくなったが、これとても、それを視たから本筋に何う絡むというわけでもない無造作な扱いになっている。

それ故に、何のためにこういうルーティンが設けられているのかよくわからないというのが本当のところである。一度限りなら、たとえばマニュアル通りに対応する店員に対して無粋な受け答えをする桑野の変人ぶりを描くためという見方も出来るが、このそんなに面白くない場面を毎回毎回微妙にニュアンスを変えて執拗に描き続けることに作劇上何の意味があるのか、一度や二度観ただけではわからない。

しかし、この不可解な割り切れなさを辛抱して一カ月ほど見続けると、このバラバラに独立したピースの意味が何となく感覚的にわかってくる。

要するに、このドラマにおいては、通常のドラマがそうであるように日常を波立たせる非日常のイベントに視点が置かれているのではなく、非日常のイベントを受け容れる日常のルーティンが中心軸に据えられているのである。また、翻ってそれだからこそ人と人との接点が基本的に場所単位で区切られているのである。

通常の物語のように非日常のイベントがベースなのであれば、たとえば桑野が帰宅途中で立ち寄るコンビニやレンビ屋での店員との遣り取りを毎回必ず描かなければならない筋合いはない。語られているイベントの必要に応じてコンビニでの遣り取りが随時挿入されるのが筋だろうし、不必要なら省略されるのが当たり前の語り口なのである。

しかし、このドラマの語り口では桑野信介のルーティンな日常習慣が確固として中心軸に据えられているからこそ、毎日立ち寄るコンビニやレンビ屋のくだりが「必ず」挿入されているのである。その変わらなさ加減、ネタの地味さ加減こそがこのドラマが体現するリアリティなのだと、何本かのエピソードの積み重ねを俟ってようやく気附いた次第である。

一本のエピソードで語りの中心にあるのは、そのエピソードで語られたイベントが要するタイムスパンにおける桑野信介の決まり切った日常なのである。その決まり切った日常のなかで、少しずつ少しずつ何かが着実に変わってくるという、この悠然と評するには剰りにせせこましくささやかな時間感覚こそが、このドラマの得難いテイストであろうかと思う。

たとえばコンビニ店員のルーティンに関しても、第一話の時点ではマニュアル通りに煩わしい応答を強要する店員に対して、桑野は不愉快そうに苦り切るばかりだが、話数が進むに遵って決然と「スプーンも要らないし、カードも持っていない」と言い放ち、コンビニ店員との無駄な遣り取りを「合理的に」断ち切ろうとするが、却って店員が桑野を個体認識して「スプーンも要らないし、カードも持ってませんね?」とやり返すことで、更めて桑野とコンビニ店員の一対一の関係性が立ち上がってくる。

本来桑野が期待したのは、不必要なスプーンやカードに関して赤の他人と無駄な遣り取りを交わす必要はないのだから、それを相手にわからせて一切会話を断ち切ることのはずであるが、それは相手にしてみれば桑野という個人を識別しろということである。桑野の論理は必ず何処か一本ネジが抜けているが、この場合もそうであって、本来桑野は自身とは無関係な他者とのコミュニケーションを拒絶したかったはずなのだが、そのために逆に相手との個別の関係性を確立してしまう。

コンビニ店員にしてみれば、スプーンやカードについて客に確認するのはマニュアルに決められた遵守事項なのだから、大勢の客の一人であるにすぎない桑野一個人の都合でそれをやめろと言われるのは不都合なのであり、その妥協点として予め想定される回答を確認しているわけである。

この思いも寄らぬ店員の逆襲に当初桑野は狼狽えて確信が揺らぎ、思わずスプーンをくれと言ってしまうわけだが、それはつまり、これまで店員が必要を問うていたからこそ不必要であるという確信が保証されていたという事実を裏附けている。つまり、スプーンなど必要ないという桑野にとって自明な感覚ですら、他者との対応関係において成り立っていた擬似的確信にすぎないということである。

おそらく桑野の性格からして、コンビニ店員が確認もせずにスプーンを入れなかったらそれはそれで「オレがスプーンを必要か必要でないか何故わかるんだ」とムッとしたに違いない。それはつまり、結果的にいつでも後出しジャンケンになってしまうのであり相手が何をしても不満なのであって、基本的に理屈抜きで身勝手な男なのである。

しかし、次第にコンビニ店員が桑野にだけそのようなやり方で確認をとってくれることに居心地の良さを感じ始め、プライベートな遣り取りを何一つ交わすわけでもないのに桑野とコンビニ店員の間には、余所余所しい言葉とは裏腹に一種濃密な関係性のようなものが確立される。

人と人との結び附きというのは、親密な会話や関係性の宣言のみによって成立するものではない、このようなささやかな駆け引きを通じた触れ合いもまた大切な関係性の一つなのだという、非常に力強い生活実感の反映がそこにある。このようなさりげない関係性の在り方に少しだけ心が波立つという描き方は、かなり脚本の感覚が若い。

桑野が周囲と対立して孤独を感じているときに、折悪しくシフトの都合で別の店員が対応に出て一からマニュアル通りの遣り取りを繰り返すという描写の扱い方は、これまで何話もかけて辛抱強くルーティンを繰り返してきたからこそ活きるのである。ここで桑野は、明確にコンビニ店員の不在を寂しく感じているのである。

そのコンビニ店員とセットで描かれてきたレンビ屋の金髪店員が、最終話で同じリングを左の薬指に身に着けていることに気附くくだりには、奇妙な感動がある。最終話が桑野と夏美の本筋の恋愛関係に決着を附けて結婚へと一歩を踏み出す流れであることとのマッチングもさりながら、一二回もかけて執拗に繰り返してきたルーティンを経て漸くこの名も識らぬ二人の人物の薬指にまで桑野の視線が到達することが、非常にミニマルな単位系における大団円の感動をもたらすのである。

普通の連続ドラマの話法なら、脇筋は脇筋としてドカンと一回でテンポ良く桑野とコンビニ店員の接近や彼女とレンビ屋の金髪男との関係を描いてしまうわけだが、それはその場限りの要素として使い棄てられるという言い方も出来るだろう。

しかし、このドラマでは最終話まで本筋と併行して桑野と行きずりの他者の関係性の深まりをじっくり描いているのであり、本筋の決着と連動してそれらの関係性にも大団円のオチが附いているのである。

一見して、各話の構造においてバラエティショー的な構成を採用しながら、このようにタメにタメて小さな描写の繰り返しによって強い実感に基づく意味性を創り上げていく手法は、紛れもなく連続ドラマにおけるドラマ性の醍醐味なのである。

この種の脇筋の要素としては、ドラマのアピール要素としてとくにフィーチャーされているKENちゃんとの関係の深まりが最もわかりやすい目配せとなっている。みちるの飼い犬であるKENちゃんは、何故か最初の最初から桑野に興味を示し、話数を経るに遵ってどんどん桑野に懐いていく。

このお犬様の特権的な扱いは、OPで必ず女優陣のモンタージュに続いてKENちゃんのアップがインサートされるという念の入れ様でもわかる通りで、要するに女優並の扱いで桑野との関係が語られているのである。嘆かわしい日本のペットブームにおいて大人気のパグ犬をマスコットキャラに仕立てて客を釣る下心アリアリである。

猫飼いが犬を嫌わねばならない道理はないので、オレも相応に犬が好きである。最初の頃からまんまと制作サイドの手の内に乗ってKENちゃんの動向に目を奪われていたのだが、一種彼の扱いは「対人関係に問題を抱える人間が犬にだけは心を開く」という、何処かで聞いたような筋書きなのが若干萎えるが、かなり堂々と桑野と犬の接近が本筋の一つとして語られている。

この描写もある種あざとい人気稼ぎといえばその通りなのだが、シリーズもかなり後半になって、徐々に自分に懐いてくるKENちゃんを毛嫌いする桑野がひょんなことから彼を預かる話で一本エピソードを設けていることから、決して人気稼ぎというだけの軽い扱いではないことが窺える。

そこで母親の育代が「小さい頃は犬好きだった」という過去をポロリと口にするが、桑野にはその記憶がまったくない。しかもこの伏線に関しては後のフォローが一切なく、一種不親切な描写になっている。

深読みするならば、一二話の物語を通じて強調され続けてきたKENちゃんと桑野の関係性とは、桑野が現在の桑野になる過程で忘れ去ったものの象徴であるということであろうか。それは現在の桑野の安定した生活を脅かす不安な異物として接近してくるわけで、偏屈な四十男である現在の桑野はその存在を疎ましく感じている。

パグとしてはかなり器量の好い部類に入るKENちゃん(「怨み屋本舗」に出演した二頭に比べるとかなり可愛いことがわかる)を「不細工な生き物」として疎んじる桑野にとって大切なのは、他者の介在しない現在の平穏で静謐な暮らしなのだが、いつか人生から切り棄てた存在が一方的に接近してくることで、忘れていた過去の自分が蘇る。

そういう意味では、KENちゃんを巡る第八話の筋立ては表面的に見える以上に重要なエピソードであるということであり、犬と男の子のイニシエーションとして非常にティピシャルな筋立てが語られていることにもちゃんと意味があるのである。

犬に人間の都合を圧し附けても上手くいくわけはないのだし、人間相手にこれまで繰り返されてきた「桑野のどうしようもない偏屈さに周囲が折れる」「その過程において桑野もまた何かを学ぶ」というルーティン的な落とし所は畜生相手には成立しない。

犬と同じ目線に立って苦楽を共に共感することで犬もまた人に応えてくれる、そのような形でしか犬と人との円満な関係性は成り立たないのであり、愛を注ぐことで忠実な愛を返してくれるのが犬という存在の得難い有り難みである。その嬉しさに戸惑いながら関係性を深めていく過程において、ふとした誤解から決裂するというのは、動物を飼ったことのある者なら誰しも一度は経験のある痛みだろう。

物言えぬ動物に濡れ衣を着せてしまうというのは非常に後味の悪い経験であり、たとえ一〇〇の裡九九まで紛れもなく本人がしでかした粗相であっても、残りの一回が濡れ衣であったならこの上なく不当に感じてしまい、呵責を覚えるものである。その一回の濡れ衣を斥ける思い遣りが、動物との関係において最も重要なのである。

何故なら、動物には自ら濡れ衣を晴らす手段が一切ないからであり、それを意識することで、彼らが決して人間と対等の存在ではないこと、対等の「友だち」ではないことを切実に思い知らされるからである。ただ一言「自分はやっていない」と抗弁することすら出来ない生き物を誤解に基づいて責めることは絶対的に不当だからである。

この場面は、日頃KENちゃんの芝居がわかりやすく擬人化して演じられていることが効いていて、必死で無実を訴えているのにそれを解さぬ桑野が「ふてぶてしい奴だな」とさらに誤解を重ねて責めているように見えるのが芝居としてわかりやすい。犬の悔しさ哀しさが戯画化されてストレートに視聴者に伝わってくる。

そのような、誰しも一度は通るプロセスを辿ってKENちゃんとの分かち難い絆を受け容れるに至った桑野が、すぐに誤解に気附いて夜の街に消えたKENちゃんを必死で探し回る姿は、桑野の人間回復の可能性を濃厚に示唆している。

全編を通してアンチクライマックスを貫いたこのドラマにおいて、最も伸び伸びと情感が盛り上がるのはこのエピソードであり、水面に浮かぶぬいぐるみをKENちゃんと見誤り必死で駆け寄る桑野をじっと見詰めるKENちゃんの姿を確認することで、ドラマの情感の落とし所がきっちりと完結している。

形式的には、いつも通りのアンチクライマックスの流れに見えるが、KENちゃんと桑野の接近の物語としては、きちんと盛り上がってきちんと納まっており、この筋立てによってこの両者の想いと想いが通じ合う非常にオーセンティックな交流物語が完結しているのである。

いつものように、肝心な場面で桑野が頓珍漢な挙に出て一旦はワヤになるが他人が折れることで有耶無耶の裡に解決が附くという形にはなっていない。勘違いからとはいえ、自分を助けようと必死になってくれた桑野の想いはしっかりとKENちゃんに伝わっていて、それによって桑野とKENちゃんの決裂は調停され、この両者の関係は最終話の別れに至るまで強い絆で結ばれている。

この場合とても、犬が人の過ちを許しているのではあるが、それは桑野が変人だからではないのだし、桑野の言動が不適切だからでもないのである。人と動物とはそのような過ちを経ることでしか関係を確立することが出来ないからであり、その過ちに正しく気附いて身も世もない愛情を行動で証明することは、不適切でも何でもない妥当な心性の在り方だからこそ、動物が人を許し愛と信頼を返すのである。

そして、必ずしも人間の思い通りにならない犬という存在を桑野が受け容れることが出来たからこそ、その後のエピソードにおいて釣瓶打ちで突き附けられる女たちとの関係の決算に際して、可能な限り人間的に振る舞うことが出来るのである。

犬という、口先ばかりの小理屈が通用しない対象を介して、相手を理解しようと努めること、相手との妥協点を探ること、相手をフェアに遇すること、愛には愛を返すこと、そのようなすべての関係性の基本となる要件に漸く桑野の想いが及ぶのである。これは一種、このドラマの主題である結婚の要件と酷似したアナロジーでもある。

このエピソードだけを採り上げて視るなら、みちるの飼い物であるKENちゃんと桑野に接近のプロセスを設けることによって、桑野とみちるの接近の線に伏線を張ったものと思いがちであるし、実際、作劇においては他人の飼い物と仲良くなるシーケンスは、通常その飼い主との接近のダシとして使われる物語要素である。飼い主と同居する以外に他人の飼い物と共に暮らす穏当な方法はないからである。

しかし、第八話までの時点で全編の積み重ねを通観するなら、それまでに描かれたみちるの人物像においては、最終的に桑野とハッピーエンドを迎えるという筋書きはまず想定の外である。物語の流れ的に、桑野と男女のニュアンスで結び附けられているのは夏美ただ一人であり、ほぼ決め打ちの想定で描かれている。

加えて、みちるというキャラクターは桑野のような窮め附けの変人を受け容れるには異性観が幼稚すぎる。物語の枠組み的に最終的に想定されているのは「結婚」というゴールなのだから、これほど異性観の幼稚な頼りない女性と、なまなかな度量の女には手に負えない偏屈者の桑野が結婚を前提に結び附くということは想定出来ない。

相手が夏美であれば、桑野の良い面も悪い面も妥当に理解した上で、大人の判断として彼との生活に踏み切るという流れが想定出来るが、それほどの理解力や度量を未だ獲得していないみちるの場合は、何かの気の迷いでもなければ桑野に惹かれるという流れにならないからだし、さらに結婚という話には決してなり得ないからである。第一それでは、夏美決め打ちで描かれてきたこれまでのシリーズの流れが全部パーになる。

そういう意味では、第八話を作劇の常套で視るならちょっと何う納めるのかわからない不安定な位置附けになるのだが、犬との関係を人間関係の展開のダシと捉えるのではなく、それ自体目的的に描かれた中心的な主題と視れば話の筋は通るのである。

そのように視点を変えれば、余所の飼い犬とたまさか意気投合した少年がやがて迎える哀しい別れ、という別の常套的パターンに符合することに気附くのだし、一種そのような少年期をもう一度生き直す中年男、それによる人間回復、というこのドラマのテーマが腑に落ちるのである。

そのような視点でもう一度シリーズ全体を振り返るなら、このエピソードを転回点として桑野の結婚という本筋に向けたシリーズ全体のクライマックスへの流れが設定されていることに気附くだろう。

このドラマは当初、現在のような変人ヲチドラマではなく、もっと華やかなラブロマンスとして構想されていたらしく、CXの番組紹介文にその名残があるが、出発点における基本構想としては、現在そうであるような夏美決め打ちの流れではなく、摩耶にもみちるにも、ことによったらSHEILAにすら等分に桑野との恋愛関係の目があったのかもしれない。

それがまあ、どうやら前季のドラマの視聴率的な苦戦を受けたためらしいが、現状のような形のドラマにシフトしたため、全体構想の見直しを余儀なくされたらしい。その意味では、第九話以降の筋立てが急速に桑野と女性たちの関係を決算するような方向性に向かったのは、当初の構想の名残という見方も出来るのだが、たしかに潜在的には摩耶やみちると桑野の線というのは、夏美との決着に至るプロセスとしてあっても不思議ではない要素である。

摩耶が桑野に対して最も女性的な度量の深さと明確な好意を示しているのは第一話からハッキリしているし、みちるもKENちゃんと桑野の絡みという要素があるにせよ唯一人桑野の私生活との接点を持っているというアドバンテージがあるのだから、そこからイベント次第では恋愛関係のニュアンスが生まれても不自然ではなかった。

実際、発端編の第一話におけるみちると桑野の描き方は、普通のパターンではお隣同士のツンデレ接近のきっかけ以外の何物でもないだろう。寧ろ、通常パターンなら夏美のほうが同年代というアドバンテージを利して、桑野と年齢が離れたみちるの最大のライバルキャラとして立ちはだかるような役回りを振られることのほうが多い。

こう言っては身も蓋もないが、現時点における国仲涼子と夏川結衣のポジションから考えて、キャスティング時に本命視されていたのは、みちるのほうだったのではないかという推測も成り立つのである。それがどのような変遷を経て、ちょっと恋愛関係という間合いで扱うことが考えにくい夏川結衣本命の想定でストーリーラインが確定したのかは定かではないが、夏美決め打ちの流れに確定したことで、ドラマの性質が一変したことだけは確かである。

中年男の阿部寛と若い国仲涼子が紆余曲折を経て結婚に至るドラマであれば、ある種華やかなラブコメディの性格を帯びるが、同年代の夏川結衣との結婚に至るまでのもどかしいすったもんだを描くドラマであれば、幾分しっとりした現実的な生活ドラマの性格が前面に出てくるのである。

当初の構想の名残を伝えるそれらの要素を慌ただしく一カ月で納めたために、若干唐突な感は覚えるが、それでも桑野の女性へ向かう関心を仄めかす第九話をクッションに据えて、あり得べき関係性の手仕舞いとしてそれなりにイベントを設けながら摩耶とみちるの線を丁寧に潰していくシリーズ構成にさほどの不満はない。

そして、前半で描かれた夏美と桑野の接近を軸に変人ヲチの面白さで引っ張る形式から後半の手仕舞いの段階へシフトするのに際して、まず桑野の劇的な人間回復の契機を仄めかすKENちゃんとのエピソードを入れてから、ゲストキャラの若い女と桑野のデートというイベントを設け、そこから摩耶、みちるの順で関係性を整理していく手際は、全体的に視れば論理的に整合している。

それから、最初の頃のエピソードでKENちゃんが桑野の脚にマーキングしてしまうという小ネタがあったが、当初は阿部ちゃんの長い脚を電柱と間違えたという額面通りのギャグと視たのだが、その後の二人の接近を視るに、これはKENちゃんが桑野を気に入った意志表示という後附けの意味があるのではないかと思うようになった。

その矢先に、桑野がKENちゃんを預かるエピソードで、常日頃桑野が忌み嫌っているスノッブ野郎の金田のクルマにもマーキングするというネタがあったので、この鑑定は考えすぎのハズレかなとも思ったのだが、最終話において金田もまた桑野と同類の好漢であることが明かされてみれば、これもまた後附けで整合する描写となるような気がしてくる。

これは勿論、そうとろうと思えばそうとることも出来るという程度の描写だが、誰一人悪者をつくらないという清潔で爽やかな作劇姿勢と相俟って、すべてが良い方向で納まるべき処に納まったような満足感に結び附いている。当初本筋から切り離されて感じられたすべてのルーティン要素が、最終的に紛れもなく本筋のストーリーラインを補強する必要不可欠な要素に感じられるという、極稀にしか得られない幸運な作例であろう。

それは一方では本筋のエピソードばかりではなく、このような脇筋の小ネタのなかでも桑野信介という偏狭な人間が徐々に変化しているという目配せとなって、劇的な事件が何一つ起こらないドラマなのに、最終話のラストシーンで桑野があっさり夏美に折れてみせるという劇的な転換を自然に見せている。

一見、この結末に結び附く有機的なエピソード構造が皆無でありながら、これまでの描写の木訥な積み重ねの総体が、唐突にすら感じられるアンチクライマックスの結末で描かれる劇的な回心を総掛かりで補強しているのである。

また、そのような全体的なシリーズ構成があるからこそ、それまでのエピソードで強調されたどぎついばかりの桑野の変人ぶりとの落差において、剰りに虚心に夏美を自宅に誘う桑野の表情が少年のように若々しく爽やかに見えるのである。

桑野信介という男は、他人から何う視られようと、自分自身がこうと決めた行動律を決して変えようとしない偏屈で奇矯な男であり、自分という存在やその生活様態が確固として変わらないことに満足を覚えるタイプの人間である。

しかし、そんな頑なな男であっても、他者とのささやかな交わりのなかで否応もなく少しずつ少しずつ変わっていくのであり、そうやって変わっていくからこそ人生楽しいんじゃないか、というのがこのドラマの訴えるメッセージであろうかと思う。

そういう意味で、このドラマは四十男の結婚という下世話な主題を扱い、表面的にはしんねりむっつりと腹の読めないイケズな語り口を採用しながら、その中心的なテーマがかなり若い感覚の物語であると言えるだろう。人間、四十過ぎたらそろそろ人生決めなくちゃいけないし、いつまでも愉しい独身生活を謳歌しているわけにもいかんだろう、というような世知辛い世話の感覚ではないのである。

自分のライフスタイルを獲得したかのように錯覚している偏屈者の中年男にだって、人との出逢いでまだまだこれから変わっていく余地があるんだし、まだまだ心がワクワクするような愉しいことが幾らでもあるんだよ、という一種若々しいテーマが内在しているのである。

その感覚は、番組開始当初は少しミスマッチに感じられたELTの主題歌にも均しく顕れていて、火一〇枠らしい軽快なメロディに載せて歌われるリリックが語っているのは紛れもなく青春の感傷の清冽さである。

桑野信介という男は、ある時点で頑なに時を止めてしまった男なのであり、自分の行動律に基づく心地よい世界に逼塞して生きてきた男だが、そんな男の停まった青春の時計が図らずも動き出すのがこの物語の主題なのである。幾つになっても人間にはそんな嬉しいきっかけが何処かに転がっているんじゃないの? という優しいオプティミズムがこのドラマの後味の良さに繋がっていると思う。

総じて、このドラマに繋がる線上の過去のドラマ群では剰り感心しなかった尾崎脚本ではあるが、本作に関してはその試みの大胆さやシリーズ構成、ダイアログの面白みなどに類稀な知恵が視られた。前二作の連続上にある中年ドラマに見えながら、このドラマが扱っているのが、一種年齢を超越した普遍的な青春の物語である部分が成功の理由なのではないかと思う。

おそらく、そのフィルモグラフィーから感じられるのは、本作における「若さ」のようなナイーブな部分に強みのある作家であって、どちらかと言うと鬼嫁日記やアットホーム・ダッドのような大人の生活人視点の物語には、割合勘がないのではないかと思った次第である。

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