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2006年10月13日 (金曜日)

赤い洗面器への挑戦

先日、CX系列で「ドラマレジェンドスペシャル」として「古畑任三郎 vs SMAP」がリピートされた。このエピソードは、ビデオやDVDには収録されているものの、ご存じの通り、ジャニーズ事務所の肖像権管理の関係で、地上波・CS共にリピートの機会がなかったものである。

このエピソードはまだスペシャル枠だからリピートがなくてもそれほど困らないが、第2シーズンのリピートでも、木村拓也がゲスト出演した「赤か、青か」のエピソードが必ず省かれ、割合に出来の良い話(第3シーズン以降との比較においてだが)であるだけに無粋に感じるところである。

オレが古畑任三郎を観る度にまず真っ先に想い出すのは、われらがヒーロー白倉伸一郎が倒叙推理というミステリの形式を識らなかったという衝撃の事実である。それどころか、このエントリーの語り口から察するに、白倉Pはミステリの系統的な歴史的文脈をまったくご存じないようである。

彼自身は識っていながらも、門外漢にわかりやすいように素人視点で書いたという書き方ではない。「ミステリ=犯人当て」と定義しているところがまず根本的に違う。これはつまり、ミステリの基本中の基本であるフーダニットに対応する分類法であるハウダニットとかホワイダニットというタームを識らないということであり、引いてはアリバイ崩しや時刻表トリック、況や現在一派を成している「日常の謎派」など一切識らないということである。

つまり、「ミステリ=犯人当て」という素朴な認識は、白倉Pがこの世に生を享けた時点ですでに一般的ではなかったということである。ハウダニットとかホワイダニット、時刻表トリック、倒叙推理の名だたる作例は、すべて彼が生まれる遥か以前に書かれており、本邦への紹介も戦前戦後という早い時期に済んでいる。

白倉Pが「ミステリの門外漢」というのをどの程度のマッスに見積もっているのかは識らないが、学生時代にちょっとミステリにハマったという程度の読み手なら「ミステリ=犯人当て」などとは誰も考えていない。これは、白倉Pより若干歳を喰っているオレが言うのだからまず間違いないの事実である。

オレが犯人当て以外のミステリジャンルの存在を識ったのは中学生の頃であり、すでにその時点では大人のミステリ読みにとっては常識中の常識だった。仮に白倉Pがそんなことを重々承知していながらも、ミステリをまったく識らない読者に向けてこのように語ったのだとしたら、それは牽強付会以前にミステリの基礎知識を枉げて流布するまったくのデマになるだろう。

何より、この中絶したエントリーでは「倒叙」というタームが一度たりとも出てこないのが不自然である。倒叙推理というのは、別段それほど専門的なタームではない。ごく簡単なミステリの入門書の類を一冊でも読めば、「刑事コロンボ」に関連して必ず紹介される基本的なタームである。

コロンボを論じながら、「倒叙」というタームを一度も使わずに済ませるということなどは、逆に不可能に近い。このエントリーの論旨が頭から終いまでまるっきり頓珍漢なのは、それが詭弁だからというより、要するに白倉Pがミステリの基本的な知識を何もわかっていないからである。

多分このエントリーが数回に亘って論旨を展開することを予告しながら中絶しているのは、識り合いのミステリ通———つか、一〇の裡一〇まで井上敏樹———にツッコミを入れられたからではないかと想像したりするのだが、だったら一言くらいその旨断り書きを入れるのが筋なんじゃないかなぁとオレなんかは思うので、ドッグイヤー基準では大昔に書かれたものを今更蒸し返したりするわけであるが(笑)。

つか、ネットでテキトーな詭弁を弄してはいけないというのは、たとえば本人が忘れたつもりになっている恥ずかしい過去であっても、今オレが全然関係ないきっかけで想い出して「有名人のちょっと滑稽な失敗談」としてネタにしているように、思いも寄らぬところで末永く恥を掻くからである。

幾ら何でも、未だにこのエントリーの論旨が根本的に間違っていることに気附いていないとは思わないが、一言くらい追記しておけば、今更オレが蒸し返してネタにすることもなかっただろうと思うんだけどねぇ。

まあ、白倉Pの恥ずかしい過去を暴くのはこのくらいにして(笑)、今回のエントリーの本題であるが、古畑任三郎といえば誰でも識っているのが「赤い洗面器の男」という小咄の謎である。これは第一シーズン第一一話「さよなら、DJ」が初出の繰り返しネタであり、古畑任三郎のみに留まらず、三谷脚本作品で広く扱われているネタである。

今回は、名探偵黒猫亭とむ蔵がこの小咄の謎に挑戦してみようという趣向であるが、勿論三谷幸喜がこの小咄のオチを封印している以上、この挑戦に出題者からのジャッジはない。その辺の事情をお含み置きの上、少しの間お附き合いを願いたい。

さて、初出時に語られたその小咄の大略は以下の通りである。

赤い洗面器の男の話。ある晴れた日の午後道を歩いていたら、向こうから赤い洗面器を頭にのせた男が歩いてきました。洗面器の中にはたっぷりの水。男はその水を一滴もこぼさないように、ゆっくり、ゆっくり歩いています。私は勇気をふるって、「ちょっとすいませんが、あなたどうしてそんな赤い洗面器なんか頭にのせて歩いているんですか?」と聞いてみました。すると男は答えました。

この小咄は、このエピソードの犯人役である中浦たか子のラジオ番組の冒頭で語られるが、その時点では「この話の続きは番組の最後に」としてオチが語られていない。そして、真相を突き止めた古畑の揺さぶりに動揺した中浦たか子がオチを言い終えない裡に番組が終了してしまい、オチが気になった古畑が聞いても教えてくれなかった。

これをきっかけに、後のエピソードでも唐突にこの小咄の前半のみが語られ、古畑や視聴者が今度こそオチが明かされると期待すると、いつも何らかのトラブルで中断してそれぎり肩透かしに終わってしまうというルーティンが確立された。

二度目にこの小咄が登場したのは第二一話の「魔術師の選択」で、被害者役の若手マジシャンである倉田の口から語られるが、オチを言い終える前に倉田は絶命してしまい、この小咄のオチは依然謎のまま後に引き継がれることとなる。

……でね、彼女は男に聞いたんだよ。「どうして赤い洗面器を頭の上に乗せてるんですか。」そしたら奴は答えた。「それは君の…」

これが二回目ということで、ネタをキリにするならこのタイミングしかなかっただろうから、もしかしたら赤い洗面器ネタはこの回限りでこれ以降繰り返されることはなかったかもしれない。それを考えれば、初出時から附け足された「それは君の…」というくだりはイキと考えていいだろう。男の回答は、「それは君の…」という語り出しで始まる蓋然性が高いのである。

古畑ファンの間でもこの小咄のオチがさまざまに考えられているようで、ウィキで紹介されている代表的な説は以下の通り。

・「赤い洗面器」略して「あかせん」なので、「君に明かせん」とする説
・洗面器や水が頭から落ちないことから「おちない」=「オチはない」とする説
・単なる「マクガフィン」であるとする説

地口オチかまったくオチがないという説ばかりで、たしかに、一度二度なら天丼ということで済むだろうが、三谷脚本作品にこれほど頻出しては必ずオチを言う前に中断するというルーティンが繰り返されているのだから、「そもそもオチがない」「オチがないというのがネタ」という解釈に傾くのも無理からぬところである。

たとえばその種の「言いっぱなし」のネタとして有名なものに「牛の首」という怪談がある。小松左京の短編として有名なのだが、どうも出自を辿ると文壇のネタや都市伝説の類らしく、ハッキリとした発祥の経緯がわからないらしい。

要するに、この赤い洗面器の小咄も、それと同様にオチが中断されること自体が説話構造として織り込まれたネタであると解することには説得力があるが、残念ながらこの魅力的な説は三谷幸喜自身によって否定されている。この小咄には、ちゃんとオチがあるのであり、そのオチが三谷幸喜によって秘匿されているのである。

だとすれば、その前提でこの前段からちゃんと落ちるオチを考えることが、この場合の課題となるのである。

そもそもこの噺は、一杯に水を湛えた赤い洗面器を頭に乗せて通りを歩くという普通の常識では理解できない奇矯な行為が核になっている。この噺を聞いた人間は、誰でもその謎の行動の真意を識りたいと考える。この場合、聞き手が感じる謎の要素は以下の通りである。

・赤い洗面器→「赤い」洗面器である意味
・水が一杯に湛えられている→水が入っている理由
・それを頭に乗せて歩いている→男がそんなことをする目的・理由

そうした聞き手の心理の代弁者として「私」なり「彼女」なりという第二の人物が登場して、「どうして赤い洗面器を頭の上に乗せてるんですか」と質問する。それはつまりこの男の行為に伴う謎が「赤い洗面器を頭の上に乗せている」という一繋がりの文言に集約されるからである。だから聞き手の誰もこの質問自体を不審には思わない。

だが、本当にそうだろうか。普通、このような男が実在したとして、その理由を問う場合に「どうして赤い洗面器を頭の上に乗せてるんですか」などと七面倒くさい繰り返しを行うものだろうか。「どうしてそんなことをするんですか」と聞けば済む話ではないだろうか。

小咄という語り物故の脚色で、そんな些末事を気にするには当たらないと思う方もあるだろうが、語りの過程で洗練を経てきた物語類型である小咄であるからこそ、その洗練の帰結として残されたすべての文言には必要不可欠な意味があるのである。

この小咄の原型に最も近い中浦たか子の語りと、伝聞の形式の倉田の再話には双方共にこの繰り返しの要素がある。ウィキで視る限り、ちゃんとこの小咄を語る場合には必ずこの質問の形式になるようである。

だとすれば、この小咄の必須要件として、質問者は男の「赤い洗面器を頭の上に乗せている」という行為の異様さを必ず繰り返しによって強調しなければならないということになる。この強調によって、聞き手の注意は先ほど挙げた三つの謎に集中する。オチはこの三つの謎に合理的な解決をもたらすものであると考えてしまう。

この前提において、男の回答が先ほど挙げた「それは君の…」という語り出しで始まると仮定すれば、どのようなことが考えられるのか。

間違いのないことは、男がそのような奇矯な行為を行っていることには、質問者自身が関係があるということである。「君の」と言っているのだから、質問者の何かがその男の行為と関係があるということである。

この時点でオレの推理を当てられたら、あんたは偉い。それが本来の小咄の正解であるかないかはさておき、オレが提起した材料でオレの推理の先回りが出来たということだけは言えるからである。つまり、今回のエントリーでオレ個人が仕掛けたなぞなぞの正解を見破ったということである。

念のためにCMを流しておくから、この時点でまだ今回のなぞなぞの答を思い附かない方は、スクロールの手を停めてもうちょっとだけ考えてください。

黒猫亭とむ蔵でした。





資生堂ヌーブCM(一五秒)






資生堂ビセットCM(一五秒)






アサヒスーパードライCM(一五秒)






アサヒ江戸前生ビールCM(一五秒)






ニコスカードCM(三〇秒)







はい、答を思い附きましたか?

とりあえず時間切れなのでオレの説を披露すると、この小咄において先ほど挙げた三つの謎が強調されていることは、当然ミスリードでありマクガフィンであろうと考える。男が「赤い洗面器を頭の上に乗せている」ことそれ自体には、たしかに意味がないのである。

その意味では、男が「赤い洗面器を頭の上に乗せている」ことを合理的に説明するオチは存在しないのだから、ウィキで紹介されている三つの説はみな好い線まで行っているのではないかと思う。だが、それでいてオーセンティックな意味でのオチは成立し得るのである。

オレが考えたオチとは、

それは君の頭の上に赤い洗面器が乗っているのと同じ理由だ

というものである。

尤もらしく提示された赤い鰊としての三つの謎を無効化しながら、質問者の問いに合理的に整合し得る回答は、オレの考える限りこれしかない。これは、ウッチャンナンチャンの初期のコント「ミニスカート」と同じ類型のオチと言えるだろう。

どっとはらい。

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