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2006年10月14日 (土曜日)

我が夏はかくて終わりぬ 其の壱

さて、もうタイミングを逸してしまった。今週からもう秋の新番組が始まっているのだから、今頃今夏のドラマを語るのは出し遅れの証文というものではあるが、まあ形ばかりでも決着を附けないことには個人的に気持ちが悪い。そういうわけで、若干駆け足で今夏のドラマを総括してみよう。

オレが継続視聴していた番組のなかでは、「レガッタ」「下北サンデーズ」「結婚できない男」の三本に関しては、概ね語るべきことは語り尽くしていると思うので、他の番組との関連以外では剰り触れないことにする。他の二本はともかく、レガッタについてはほとんど内容の話をしていないじゃないかと思われた其処のあなた、ほら、オレってレガッタの大ファンだから、偏った意見を語っても意味ないじゃん。

では、まず最初にこれまで語ってこなかった番組から触れることにしよう。今夏オレが継続視聴していながらこれまで触れていないのは、「サプリ」「PS羅生門」「怨み屋本舗」の三本であるが、サプリについては、当初はそれなりに観られるのではないかと期待したものの、早々に興味を喪ってしまった。

当初それなりに観られた理由の一つとしては、割合に業界事情がしっかり描かれているということが挙げられる。オレ個人が中途半端に隣接職種に就いているために、たとえば過去の「いつもふたりで」や「恋ノチカラ」の業界描写がかなり辛かったというのもあって、そういう部分で引っ懸かりがないことを好ましく感じたのである。

しかし、興味を感じて少し調べてみると、原作マンガそのものが嘗て大手広告代理店に勤めた経歴を持つ作者による業界実録物という性格で、別段ドラマ版の手柄というわけではないようだし、そうした総花的なディテール描写の面では、一コマの絵や手書き文字でちょっとした解説を書き入れるだけで情報を盛り込むことが出来るマンガというメディアのほうが得手だろう。つい出来心からコンビニで原作を二巻まで買ったのだが、概ね予想の範囲内の内容だった。

それがウリである原作をドラマ用に脚色しているわけであるから、月九的な物語世界を語る場面では、リアリティを附加するための添え物に過ぎないということである。本来的にはそのくらいのバランスのほうがいいのだろうと思うが、ソースが原作に豊富に転がっているのでは、ドラマ版の評価ポイントということにはならないだろう。

一方でオレのような昔者にとって、月九ドラマと言えば華やかな業界物のイメージもあるのだが、実は月九の歴史の大半を通じて業界物は剰り一般的な題材ではない。今季はたまたま、報道業界を扱った前作の「トップキャスター」の直後に大手広告代理店に舞台を採った「サプリ」が続いたというだけのことだが、「やまとなでしこ」や「プライド」「エンジン」などを含めても、それほど多いというわけではない。

ここ数年は年に一本程度マスコミや憧れの職種に題材を採った作品があるが、バブル期に誕生してトレンディドラマをリードした月九とはいえ、その歴史の大半はバブル崩壊後の不景気な世相と共に歩んでいる。今ちょっと調べた限りでも、「あなただけ見えない」や「この世の果て」「氷の世界」が月九枠だったことを更めて識って驚いてしまった。てっきり現在水10をやっている水曜ドラマ枠だったと思い込んでいたのだが、月九と雖も最初から無条件でF1層の支持が得られたわけではなく、それなりに試行錯誤が繰り返されたのである。

話が脇道に逸れたが、サプリの業界描写に興味を惹かれたのは、そのような月九の歴史を踏まえて考えると、かなり初期の頃の扱い方に近いと感じたからである。近年の作品でマスコミや隣接業界を扱ったものを視ると、業界事情それ自体を目的的かつカタログ的に紹介する性質のものは少ない。

直前のトップキャスターなども、多くの人々が報道の現場とはこんなモンだろうと想像している範疇を超える情報は一切盛り込まれていない。要するに、大多数の人間が具体的な実態を識らない憧れの世界をリアルに伝えることには、まったく力点が置かれていない。報道業界ならではのテーマ性もあるが、それは寧ろ働く女性の問題性一般に普遍化されて扱われている。

最初にちょっと触れたように、「いつもふたりで」「恋ノチカラ」のマスコミ描写などは、意図的なのか何うなのか識らないが、寧ろディテールを飛ばして通俗化しているほどで、業界の実態を尤もらしく紹介するという目的意識はまったく視られない。

さらには、「やまとなでしこ」がそのシニカルな内容故に航空会社の協力が一切得られなかったというのは有名な話で、内容的にはCA業界の内幕を細かいディテールで描いたものではまったくない。

また、「プライド」は未見だが、「エンジン」のほうはF3000の世界はまったくの添え物で、物語の大部分は主人公の義父が運営する児童養護施設における冴えない日常の描写や子どもたちとの交流話に終始している。

そういう意味では、景気の動向に直撃される広告業界としては未だ状況は芳しからずということもあって、華やかというには若干しょっぱい苦労話が強調されている嫌いはあるものの、目的的に業界のディテールを紹介しているこの番組の性質が懐かしく感じられたということはあると思う。

たとえば同じ広告業界を扱った恋ノチカラと比べても、企業人としての華は営業のほうにあって、実際に手を動かす作業者たちを泥臭い裏方的ポジションと描く視点は格段にリアリティがある。恋ノチカラでは、地味なやり手営業マンの西村雅彦が才能豊かなクリエイターの堤慎一に嫉妬を覚えるという話になっているが、苟も大手広告代理店で花形営業マンと持てはやされるような種類の人間が、偏屈な広告デザイナーに憧れを抱くという筋書きにはちっともリアリティを感じない。

サプリで描かれているように、クリエイターと営業マンはそもそも人種がまったく違うのである。恋ノチカラでは、無条件にクリエイターを素晴らしい職種と位置附けているが、広告業界で頭角を現すような営業マンは、そもそもまったくクリエイターとは価値観が違うのだし、そうでなければ務まらない。寧ろ、広告業界は営業マンが動かしているくらいのことは考えているものである。

それ故、営業マンがクリエイターを嫉視するというのは個別的な筋書きとして「変わり者の営業マンもいるにはいるんだろうねぇ」という話にはなるが、一般論の範疇ではクリエイターを特別視する剰りの通俗性としか思えなかった。

その意味でこのドラマも、当初の展開通りヒロインの伊東美咲が花形営業マンの瑛太との恋を全うするという筋書きなら、ギリギリ業界ディテール描写に特化したこの物語のリアリティと整合するが、上背すら釣り合わないぺーぺーのバイト君とガチの恋愛の間合いに入るというのは完全にマンガ的な絵空事である。原作通りイシダがそれなりに職業人としてマトモならまだしも、発展途上のイタいニートの洟垂れ小僧というのでは、作中の藤井ミナミが抱える問題性のレベルとはまったく整合しない。

瑛太との恋愛を主軸に据えて押し通し、亀梨を恋愛スレスレの間合いの協力者という位置附けに固定して、瑛太とのハッピーエンドを用意すれば、原作の主題である粘着質なF1ワーキングガールのドロドロした内的葛藤という鬱陶しい要素を月九向けに上手くアレンジしたと言えるだろうが、大枠の約束事として亀梨との恋愛を主軸に据えざるを得なかったために、悪い意味で月九らしい絵空事に終わったと言えるだろう。

また、二つ目の評価ポイントとしては、キャスティングの方向性がまずまず間違っていないと感じたことが挙げられる。主役の伊東美咲のキャスティングに関しては、オレはこういう使い方のほうが正しいのだろうと思う。

女優としての伊東美咲の力量には何かと批判も多いが、オレは常々、受け手サイドの視点では、俳優一般を演技力だけを基準に評価するのはそれほど意味のあることではないと考えている。以前も何処かで語ったことだが、演技力というのは俳優視点における保険要素なのであって、映像文芸の受け手がその有無を過剰に気に懸ける意味などない。

伊東美咲などはその恰好の例と言えるだろうが、誰もが言う通り、一個の俳優として伊東美咲を視た場合、演技力という観点では凡そ評価は出来ないだろう。というか、資質として彼女には演技に対する勘がないと思う。素の自分と大幅に異なる人間を演じる能力が低い。これは職業演技者としては職能のレベルが極端に低いということである。

TVドラマの場合、主に顔芝居と台詞芝居が出来れば、それが如何なるレベルであってもそれなりに通用するものだが、伊東美咲の場合は顔芝居のバリュエーションが著しく乏しいし、基本的な発声が悪いので、現時点ではTVドラマで通用するレベルの演技力ですらないだろう。

たとえば米倉涼子などは、芝居の質がマンガかコントレベルだと思うが、それでも大きな顔芝居とハッキリした台詞廻しだけは最低限確保されているので、さほどTVドラマのレベルで致命的な演技力というわけでもない。伊東美咲の場合、たとえば「危険なアネキ」などの芝居を視ると、米倉レベルの芝居にすら達しておらず、視聴者は甚だ居心地の悪い気分にさせられる。

結論から先に言えば、伊東美咲はそれなりに女優としてのキャリアが長いが、本格的にブレイクした「電車男」のエルメス役の延長上の役柄しか魅力的ではない。いろいろなタイプの人物像を巧みに演じるのが「わざおぎ」というものの本質なら、現時点の彼女は俳優という職業に向いていないというべきだろう。

ただ、それは単にこの種のキャラとしての使い道が飽きられたら、別の活路を見出すのが資質的に難しいというだけの話で、それは単に伊東美咲個人の将来設計の問題であるという言い方も出来るのである。

こういう演技者はタイプキャスティングして使う以外にないだろうが、映画という文芸形式が登場してこの方、この種の演技者というのは一定数存在したのである。大根役者大根女優と誹られながらもスタアとして活躍した俳優が常に存在したのだし、映像文芸の俳優というのは、魅力的もしくは機能的な映像として画面上に映っていればそれでいいのである。

映像文芸という形式の登場によって、俳優の演技とは個人の資質や職能の問題であるという自明性を喪ったのであり、それは撮り方の問題であったり繋ぎ方の問題であったりと多面的な問題に発展しているのである。この現代において、舞台演劇を特権的に愛好するわけでもないのに、俳優の演技を演者個人の資質や能力の観点からのみ論じる見方は、少なくとも映像文芸を語る場面では決定的にズレた物の見方である。

演者個人の職能としての演技力が特権的に問題となるのは、生々しいパフォーマンスとして場を共有し対面的に鑑賞する舞台演劇に関してのみだろうし、舞台演劇を継続的に上演する組織的母体として劇団という集団を視る場合のみである。

たとえば、以前下北サンデーズに触れた際に一つ語り残したことというのは、ゆいかのメタ的な前口上のセリフにある「当番組のヒロイン担当」という視点についての問題である。たとえば、映画やTVドラマには通常夥しい数の人間が映っているものだが、一般的な劇団演劇の場合、それらをすべて有限の集団内の特定の役者が演じなければならない。それはつまり、同じような役柄は原則的に常に同じ役者が演じるということで、特定の演技者の母集団を持たない映画やTVドラマの場合とはそこが違う。

その意味で、劇団演劇においてはすべての役柄は集団内における役割論の観点の要素となるのであり、二枚目やヒロインと雖も一つの役割にすぎない。「当番組のヒロイン担当」という言い方はそのような役割論を踏まえたもので、「インテリ担当」とか「お笑い担当」「肉体担当」というのも同じような観点からの言い廻しである。

宝塚や四季のような巨大劇団であれば集団の規模やビジネスのパイ自体が大きくなるので、個別の職能分野としての個別事情が出てくるだろうが、一座と表現するに相応しい通常規模の劇団では基本的に事情は同じである。劇団芝居の贔屓筋は番組単位で芝居を愛好するのではなく、特定演技者集団内の各役割担当者によって構築された劇的世界を愛好するのである。それ故に、劇団芝居の場としての中心は、作品としての個々の番組ではなく、それを演じる役者集団自体にあるのである。

だが、映像文芸はそうではない。映像文芸とは、基本的に作品本位で視られる文芸形式であり、受け手の目の前にあるのは役者の肉体ではなく映像の肉体である。目の前に職能演技者の肉体が存在しその体技によって視る者を楽しませるのではなく、演技者を含めた映像全体の肉体が視る者を楽しませるのである。そこに映像というメディアが介在することによって、個々の演技者の体技という肉体性の重要さは相対的に軽くなってしまうのである。

さらには、映像作品という複製可能なマスプロダクトを上演の手段とすることで、上演の場に演技者が局在する絶対的な必然性が消失する。つまり、演技と上演が分離することで、そのクリエイションを支持する場の中心は、劇団という特定の演技者集団から、作品を撮影する個々の組という現場のセッションユニットに遷移する。それに伴って演技者の人的なソースは、固定された特定集団ではなくオーディションを介したオープンソースとなるのである。

だとすれば、原則的に映像作品における役柄を演じるのは、その役柄を演じるのに相応しいと演出者が判断した不特定多数の一人であり、作品内に映っている人々は総体として特定の集団を形成するわけでもない、縁もゆかりもないバラバラの映像パーツなのである。小道具の薬缶を何処ぞの雑貨屋から調達してくるのと同じように、そこで必要とされる映像パーツとしての役者を何処かから調達してきているのである。

簡単に謂えば、映像作品においては、役者の肉体性や演技力というのは映像を構成する種々雑多な要素の一つとして、映像の全体の中へ拡散していくということである。映像作品においては、舞台演劇よりも格段に多様なリアリティの設定が可能なのであり、その埒内においては素人だけで構成されたキャストでも優れた作品が成立し得るのだ。

映像作品においては、映像の肉体性が要求するリアリティに応じた人間の所作や言葉が要求されるというだけで、それは一般的な意味における役者の職能としての演技力とイコールではない。寧ろ作品によっては、熟練の体技としての演技力が邪魔になる場面すらあるのである。

たとえば、作品によってはクサい大芝居と映るような演技が、舞台の上では立派な名演技と激賞されることは、大御所とされる役者の場合普通にあることである。舞台演劇という上演形式においてはそれくらい体技としての表現性が強くなければ伝わらないことでも、映像作品というメディアでは作品次第で邪魔な過剰になるということだ。

伊東美咲の話題に戻るなら、たとえば劇場版でエルメス役を演じた中谷美紀のほうが伊東美咲より演技力はマシだろう。だが、オレ個人の意見では、伊東美咲のほうがエルメス役に好適だったと考えている。何故なら、電車男という物語構造においては、エルメスの育ちの良さやイノセンスが巧みに「本当らしく演じられる」よりも、「本当だと信じられる」ほうが好適であると考えるからである。

その意味で中谷美紀がどれだけ入れ込んで演じて見せても、かなり泥水も呑んだ変人女優の中谷美紀が、「本当に」エルメスのような人物だと考えるような素朴な観客はそうそういない。そもそも中谷の起用はその演技力を買われたものですらなく、原作のディテールに沿った一種のネタであるにすぎない。だが、演技力の面では誰も評価していない伊東美咲が演じて育ちが良い魅力的な女性に見えるなら、それは「本当にそのような人である」と多くの人が信じられるのである。

これは、伊東美咲という個別の演技者の職能的な観点では褒められたことではないだろうが、電車男という映像作品の観点から視れば、中谷美紀よりも配役上好適だということである。もっと言えば、映像作品主体の現代の俳優業という職掌を考えれば、それで立派に職能として成立するという言い方も出来るのである。

それ故に、受け手の観点から視れば、電車男のエルメスは可愛かったがそれ以外の伊東美咲は不要という、作品本位の見方では何の不満もないはずなのである。現実問題として、伊東美咲の所属事務所は連続ドラマのキャスティングに強い影響力を持っているようで、当分伊東美咲を積極的に売り込む流れは変わらないだろうが、それがイヤだったら観なければいいだけの話である。

伊東美咲という女優の素の人柄については、気の利いたアドリブ一つ言えないボソボソ喋るおっとりした大柄な美人というのがパブリックイメージだろう。細かく経歴を視ると、極普通の中流家庭の出の育ちの良いお姉さんというところで、芸能界入りがなかったら福祉や保育の方面に進んでいたようだ。

また、人格的な欠点に関する中傷というのも剰り耳にしないから、性格面に問題があるというわけではなく、要するに女優として決定的に無芸であるにも関わらず、大手芸能事務所の力で重用されているところに批判や陰口が集中しているようだ。

普通に美人でスタイルが良いから、何とか使い道がないものかとあれやこれや試したものの、実は「電車男」までは実質的な意味での主演作はほとんどない。辛うじて主演と言えるのはテレ朝の「逮捕しちゃうぞ」で、似たような柄の大女である原沙知絵と組んでミニスカポリス紛いの扮装で活発な役柄を演じたが、所属事務所のゴリ押し配役や原作との甚だしい乖離が原因で窮めて不評だった模様である。

さらに森田芳光の文芸映画「海猫」でも鳴り物入りで主役を務めたが、普通なら手放しで絶賛されるはずの「体当たりのベッドシーン」が酷評され、こちらも単なる脱ぎ損に終わったらしい。

それはまあ、伊東美咲がどのくらい「動けない」のかを見誤った森田芳光の眼鏡違いというだけの話だろうし、もっと言えばその裏面にあるだろう芸能ビジネスの現実事情の問題である。TVドラマよりリアリティ設定の自由度が高い劇場映画の専任者なのだから、大根を掴んだのは役者の責任というよりも制作サイドの自己責任である。

嘗て藤谷美和子という似たようなレベルの大根女優を、見た目だけでキャスティングしてそれなりに使いこなして見せた経験から、何とかなるだろうと踏んでいたのが何ともならなかったという笑い話でしかない。笑えないのは、教科書通りの濡れ場まで演じて芸能活動の転機と成すべく入れ込んだ伊東美咲だけだ。

本格的なブレイクのきっかけとなった電車男のエルメス役を「主役」と表現するのは慣習的に考えて微妙だが、たしか番組開始時のCXの紹介では「ドラマ版はエルメス視点で描く」と明言していたし、電車男こと山田剛司は映画版の山田孝之のようなスタアではなく当時無名に近かった伊藤淳史である。つまり、意図的に本来の主人公である電車男の配役上のウェイトを軽くしてエルメスを主役と位置附けている。

その意味で、作劇的な観点では電車男の相手役にすぎないとはいえ、TVドラマ版電車男の主演俳優は伊東美咲であると明言して差し支えないだろう。このドラマの人気のかなりの部分を、エルメスに対する「萌え」が稼いだということも無視出来ない事実である。また、三十路近い女優が通常の意味での大人の女優の魅力の故に人気を博するのではなく、「萌え」というかなり特殊な情動を喚起するというのは、一種得難い資質であると言えるだろう。

実際サプリにおいても、原作の藤井ミナミ像と比べると、当たり前のことであるが役柄の性質をエルメス的な伊東美咲像に引き寄せて脚色している部分がある。おそらく原作の人気は、まあ客観的に言えばアフォかとツッコミを入れたくなるようなキリのない主人公の内的葛藤を、一種ブンガク的な修辞で修飾した部分が同世代のワーキングガールにアピールしたものだろうが、ハッキリ言ってこういう堂々巡りの女の本音を月曜から聞かされるのは、誰にとっても鬱陶しいのではないかと思う。

それ故に、原作では仕事が出来るだけでかなり生臭いダメ女と描かれている藤井ミナミを、伊東美咲の柄に合うように若干清楚寄りにアダプトし、もっとパキパキ物事を判断するクレバーな女に仕立てたのは正解だろう。原作を読んでいると、得体の知れない情動や不全感に無力に振り回される主人公がどんどん不愉快に感じられてくるのである。

要するに、物語の視点が出口の見えない停滞感や不全感に悩まされる主人公の主観に固定されているから鬱陶しいのである。適宜主人公にアドバイスしたりツッコミを入れたりする周辺の人物も、一種主人公の客観的な一部を投影した別人格(つまり作中の時代を経て客観的視点を獲得した未来の主人公自身)というにすぎず、物語の枠組みは一人の人物の内的対話という以上のものではない。

一般的にこのドラマは、イシダの職業イニシエーションや、まるっきりのドラマオリジナルキャラである今岡の家庭問題など、物語の中心がバラけすぎているという批判があるようだが、おそらくそれは原作の特徴である極端な視点の固定を解消するための作劇的な手当てだったのではないかと想像する。

型通りの業界物としてドラマ化するなら、一種世界観の拡がりや群像劇的な視点も必要だろうが、原作マンガでは主人公である藤井ミナミの狭い視点とそこから転がる物語性に固定されていて、客観的な物語性や世界観の拡がりがまったくない。

その意味で、このドラマがこのような形になってしまった背景は十分に理解出来るのだが、一般的視聴者の多くが「中心がバラけている」と感じるということは、主筋である藤井ミナミの物語との親和性を脇筋に付与することに失敗しているということだろう。極端な主人公視点の心情独白物語である原作のストーリーを客観的な群像劇とすることには、やはり相当の無理があったということかもしれない。

また、キャスティングということで言えば、相手役を演じた亀梨和也にも「野ブタ。をプロデュース」の記憶からさほど不愉快な印象を持っていなかったのだが、どうもこのドラマではイシダのキャラがかなり青臭いイタさ全開で、初っぱなから剰りお得な役どころではないような気はしていた。

以前語ったこととの関連で言えば、要するに「釣り合い」の問題であるという言い方も出来るだろう。電車男伊藤淳史とエルメス伊東美咲なら、そもそも不釣り合いであるところに物語上のキモがあるのであり、通常では絶対的に釣り合わないキャスティングであるにも関わらず、エルメスの役柄を徹底してイノセントに描くことで、相手がチビで猿顔の伊藤淳史であり役柄上はいやらしいキモヲタであるにも関わらず、そのような世間的な男性観の基準が無効化され、劇的な意味における「釣り合い」の感覚と恋愛の間合いが生じてくる。

しかし、このサプリの藤井ミナミのように、三十路を控えたワーキングガールが焦燥感や不全感を抱える役どころにおいて、自身も未だ何者でもない青臭い未熟者と恋愛の間合いで対峙するという筋書きは窮めてリアリティに欠けるだろう。

まったく事前情報を持たない段階では、オレは亀梨の役どころを他者に対する不思議な影響力を持つ自足した飄々たる青年ではないかと予想していた。要するに、それは一種のヒーローということである。それなりのポジションを築いている三十路前のワーキングガールが抱える問題性に対してブレークスルーを与える他者を想定する場合、同レベル以下ではお話にならないだろう。

おそらく業界人の思考の文脈を超越した異人として亀梨が現れ、その型破りな言動で伊東美咲の成長に益するという役どころではないのか、と予想したのだが、第一話の登場時点からして、社会常識がないだけの未熟者、自分自身の将来設計というかなり低レベルの社会的課題を抱える若造であるということが判明し、この予想が完全に外れたことを理解した。

つまり、何を何うやっても、自分自身も社会的私的課題を抱える悩み多きお年頃の藤井ミナミが、もっとレベルの低い課題に悩む未熟者のイシダとハッピーエンドを迎えるまでに至る劇的な筋道がまったく想定出来なかったのである。ところが、当初はイシダとの直接の恋愛関係ではなく瑛太演じる萩原との恋愛関係が前面に浮上してきたために、亀梨には悪いがそれならまだしも理解の範疇だと納得したのである。

イシダと藤井ミナミの人物設定では、作劇的な意味において何を何うやっても恋愛関係の間合いや恋人としての「釣り合い」が生じないのである。それ故に、自身の感情を抑えて藤井ミナミと萩原の恋愛を応援するイシダはそんなに悪くない。亀梨の柄も活きているし、年下の可愛い男のポジションとして分相応の魅力があったと言えるだろうが、但しそれは飽くまで「脇役」としての魅力である。

そこから萩原との関係が破綻してイシダが恋の舞台に上がった頃から、年下男のイタさが全開になって、ちょっと観ていられない雰囲気になる。原作の藤井ミナミに比べて、伊東美咲の藤井ミナミはそんなに悩んでいるようには見えないということもあって、予想したよりも不釣り合いには見えなかったが、やはり亀梨を立てるために筋書きを改変した後半の展開は明らかにそれまでの話から浮いて見える。

つまるところ、何を何う考えても亀梨の存在が全体の構造と整合しない後附けの異物なのである。それは、通常の月九なら劇伴扱いのはずのOPがカツンの楽曲である辺りの異物感にも顕れているだろう。最初に観たときは、オレがボーっとしている間に一時間経って番組が終わってしまったのかとすら思った。

そういう意味では、かなり気の毒な前提条件に振り回されたドラマであると括ることも出来るだろうが、厳しい言い方をすれば、このような様々な事情が絡まり合った複雑怪奇なドラマを巧みに切り回すだけの力量が、脚本の金子ありさにはなかったということだろう。まあ、誰がやっても似たような結果だったとは思うが。

伊東美咲と瑛太が主軸の企画で通せば普通の業界恋愛ドラマとして着地したかもしれないが、そこに亀梨をねじ込んだためにお話の構造が毀れたということで、ぶっちゃけた言い方をすれば、研音とジャニーズ事務所という二大大手芸能事務所の都合と都合の激突が、まあどっちの得にもならない形で決着したというだけのことだろう。

キャスティング主導のドラマづくりが月九の身上とはいえ、大人の事情に振り回された現場のスタッフには慎んで同情を寄せる次第である。

そういうわけで、当初の想定以上にサプリの話が膨らんだので、他の番組についてはエントリーを分けて更めて語りたい。

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