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2006年10月31日 (火曜日)

附記:「美味しんぼ」について

くだくだしい逸脱となるので前回のエントリーでは簡単な触れ方になったが、厳密に言えば「美味しんぼ」にも人間関係のトラブルを料理で解決する類型の話を、究極対至高のバトルの道具立てで描いたエピソードが稀には存在する。ただし、その場合は士郎の意図に気附いた雄山が助け船を出したり、甚だしい場合は勝ちを譲ったり、勝負の行方自体とは無関係に個人の納得が購われるような作劇的な手当が為されている。

同作では現在までに固まった基本フォーマットにおいて、単行本一巻当たり一回程度、おおむね三話に亘って究極対至高のバトルが描かれていて、その前後に士郎が料理をメタファーに用いて世話事を解決する類の小エピソード群が配置される。このフォーマットにおいては、通常タイプの小エピソードでは、士郎が現有する食に関する知識に基づいた料理をツールとして、料理の美味さを足掛かりに食に纏わる思想を説き、それを世話事を解決するお説教に付会することでトラブル解決のメタファーとしている。

一方、究極対至高のバトルにおいては、士郎が現有する発展途上の知識で雄山が体現する食の思想の極北に挑むという構造となっており、いわば通常タイプのエピソードでは食のオーソリティとして振る舞う士郎の物語内における優越性を相対化し、士郎自身の自己研鑽の場として機能している(その割には一向に進歩しないが)。

同時に、士郎が人助けのために食の知識をツールとして扱う姿勢に批評的に言及するメタ的な場としても機能しており、食の本質的かつ根源的な問題を論じ、多くの場合士郎が敗れることで、食を道具として扱う通常の類型のエピソードに内在する士郎の小賢しさを相殺する効果が得られている。

たとえば今回のアカネのような内容を美味しんぼで展開すると仮定した場合、便宜的に雄山サイドがカニの立場に立ち士郎サイドがジャガイモの立場に立つとしても、この親子の共通した思想として地場産業や地域経済に対する中央資本の収奪的侵略というマクロな問題を基本的な前提に据えて、カニとジャガイモの二つながらにそれを批判するメタファーとなる料理を提示し、雄山が敢えて士郎に勝ちを譲るが、最終的に雄山が「カニとジャガイモは本来互いに競い合うものではない、どちらがどちらに対して優れているというものではない」と一喝し、中央資本と地場産業のあり得べき協力姿勢のビジョンを示し、白井に象徴される地元の陪席者がそのバトルから何事かを感得し、農園の売却を思いとどまる、さらに地元の零細事業者が大同団結して理想的な町興しの姿を真摯に考え始める、という落とし所となっただろう。

その場合、士郎サイドの料理は白井個人の味覚や記憶に特化したものとはならず、もっと食材としてのジャガイモの本質を剔抉するようなものとなるだろうし、雄山サイドの料理はカニの持つ食材としての飛び抜けた美味さが料理全体に対してネガティブに働くようなものとなるだろう。それは、この場における料理が、思想の体現としてのメタファーとなるからである。

そのようなマクロな大状況に対する思想的言及というのは、一種原作者の個人的な関心や政治意識でしかないという言い方も出来るわけで、それがあるから物語として優れているという意味ではない。この想定の場合、カニの側が勝ってしまったらメタファーとしての批判が成立しないという作劇判断が踏まえられているということである。

本来士郎に優越する雄山の側が圧倒的に有利なカニの立場に立ちながら、敢えて勝ちを譲るという段取りを踏まえるからこそ、形式上敗者となった雄山が〆の演説を語っても説得力が出てくる。たとえば浮薄な道化役である富井辺りが「何だい、偉そうに負け惜しみを言っちゃってさ」などと詰っても、それは富井が道化者であるからであって、雄山の演説が負け惜しみだからではない。ジャガイモ側の士郎が負けて士郎がこのような演説をぶったとしたら、嘘偽りない負け惜しみとなってしまって、そもそもお話が成立しないのである。

そして、そもそも大状況の問題に触れずに白井一家の家庭劇というミニマルな挿話として終始させるのであれば、美味しんぼというフォーマットにおいては、バトルという道具立てが必要ないということである。白井個人に農園売却を思いとどまらせるだけであれば、白井に対して亡妻の記憶を喚起する料理を振る舞えばいいということが作劇的に初めからはっきりしている。

ジャガイモ対カニのバトルが必要とされるのは、それに象徴される白井の考え方、さらには白井に代表される零細事業者や西豪寺グループに代表される中央資本の思想を批判する場合だけであり、その場合はジャガイモが勝たなければメタファーが成立しないのである。

この二つの階層は、美味しんぼのフォーマットにおいては機能的に分化していて、この階層の異なる二つの問題性を混同することは決してない。アカネの今回のエピソードが間違っているのは、この二つを無自覚に混同しているからなのである。

美味しんぼという料理バトル劇画がこの分野のトップランナーと目されているのは、そこで紹介される食の知識が優れているからでもないし、原作者の思想性が素晴らしいからでもない。美味しんぼの登場以前は未整理な混沌としてあった「料理バトル」という要素をジャンルとして成熟させ、作劇的に疎漏のないかっちりしたフォーマットとそれを構成する必須要件を画然と提示した部分が、一大画期として顕彰されるのである。

だからこそ、この先駆者が開拓した基本ラインから逸脱するためにはそれに匹敵するだけのオリジナルな知恵が必要なのであり、その知恵を評価するパラメータとして「美味しんぼならどう描くか」という想定が意味を持つのである。その先達の知恵を一切理解せずにこの分野でドラマを描くことは、ほぼ不可能なのである。

この分野に関心のない一般の人々は「料理バトル劇画」という場合に、たとえば「ミスター味っ子(殊にアニメ版)」や「中華一番」「鉄鍋のジャン」のような外連味たっぷりの絵面を想像するだろうし、そのような誇張された表現をこのジャンルの本質と見誤る者もあるかもしれないが、それは本質的な要件を満たした上での表現上の修飾要素にすぎない。

美味しんぼの場合はそれらの「劇画らしい劇画」よりも表現においてリアル寄りな線を墨守しているし、作画が弱い印象は否めないが、それでいて「バトル」と称するに相応しい迫力と緊迫感を具えている。それは要するに、「料理で戦うということはどういうことなのか」という作劇面における一大基本要件が成立しているからなのである。

オレ個人としては王道マンセーというわけでもないし、流石に近年の同作の(殊に山岡士郎と栗田ゆう子の結婚以降の)ダラダラした展開には辟易気味ではあるのだが、苟も料理をテーマとして物語を語る場合に、美味しんぼの存在を無視するということは考えられない。

同作がこのジャンルに対してそれだけの貢献を果たしたことだけは、誰にも否定出来ない事実であろうと考える。金科玉条のように奉るべきだとは勿論思わないが、この分野で物語を語ろうという者にとって、こんな便利なお手本があるのにそれを活用しないのは愚かだろうと考える次第である。

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