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2006年10月10日 (火曜日)

猿の眼に沁む秋の風

近頃めっきり風が秋めいてきて、表題の句を想い出した。そういうわけで、今回はさしたる意味のない時候の挨拶程度の季節ネタである。

表題に掲げた句はオレの文章作法の心の師である岡本綺堂の「猿の眼」という短編中の一句であるが、掻い摘んで内容を紹介すると、語り手の父である俳人の宅にもたらされた奇怪な猿の面がさまざまな怪事を起こし、たまたま立ち寄った一人の弟子が奇禍に遭い、その故に神経に異常を来して死んでしまうのだが、辞世の句にこの通り猿の眼を詠んだ。

この怪談の語り手は、上五文字を忘れてしまって下七五しか覚えていなかったわけであるが、解説を担当した都築道夫は、上五を省いて下の句だけ伝える辺りに何とも不気味な余韻が残って、綺堂の語りの手腕が冴えているというような評価を寄せている。

しかし、正直言ってオレは秋風に吹かれて目をショボショボさせているお猿さんの姿を想像して、あんまり不気味には思わなかった。上五を暈かしているのが不気味という感覚も、俳諧に嗜みがないだけにちょっとよくわからない。もうちょっと意味がとれないもどかしさが漂えば不気味だと思うが、夜中に眼が光る猿のお面に祟られたせいで猿の眼に秋風が沁みる風景を詠んだというのがハッキリと理解出来るだけに、意味不明感がなくてそれほど不気味には感じない。

それよりもっと不気味なのは、たとえばCXの「愛をください」というドラマの主題歌として辻仁成が作詞した同名の曲の歌詞である。この曲は菅野美穂が劇中人物の名義でリリースしてそれなりにヒットした、いわば「タイヨウのうた」の天音薫の先例となるような楽曲であるが、とにかくその歌詞の内容が不可解である。

脈絡もなく動物園のスケッチめいた繋がりのない歌詞がダラダラと続いて、サビでいきなり「愛をください」と連呼するわけで、普通に考えると意味が通じない。さすが中山美穂をだまくらかすだけあってアートだなぁと嗤っちゃうのだが。

で、この話は友人から聞いてなるほどと思ったのだが、ラジオだかで近田春夫がこの楽曲に触れて、サビの直前に「それにつけても」という言葉を足せば何となく繋がって聞こえるという話をしていたらしい。

うん、たしかに繋がってるように聞こえるね。

日本語というのは不思議なもので、「それにつけても」という無意味な一語を補えばどんなに無関係な文言も繋がってしまうのである。たとえば、

近頃の半島事情には不穏なものを感じている。それにつけても、愛をください。
私は箱根に立ち寄るつもりなどなかったのだ。それにつけても、愛をください。
折悪しくお目当ての蕎麦屋は店を閉めていた。それにつけても、愛をください。

ほら、繋がった。意味はないけど何となく繋がってしまうではありませんか。

しかし、繋がるか繋がらないかと言えば、冒頭に挙げた句も俳諧に嗜みのない人間から視れば、下七五が繋がっていて季語が入っている以上、上五に切れ(句の切れ目。一般に季語と切れは俳句の基本要件である)があって何を詠んでも構わないということだから、字数さえ合っていれば句として成立する。つまり、どんな語を置いてもとりあえず句としては成立する理屈である。

試みに、切れの入った上五をランダムに入れてみると、

荒海や 猿の眼に沁む 秋の風
古池や 猿の眼に沁む 秋の風
蚤虱 猿の眼に沁む 秋の風
あら何ともなや 猿の眼に沁む 秋の風

素人の耳には、何だか意味ありげに聞こえるから不思議である。この方面に趣味がないと、その種の胴忘れや継ぎ接ぎは当たり前にするものだからである。

そもそもどんなに巧い上五が附いても不気味さが喪われるというのは当たり前で、俳句というのは句としての体裁が成立する限り、句としての良否はあっても不気味なものではないのである。巧い上五が乗れば不気味でなくなるのは当たり前であって、そういう意味では、都築先生は割と間が抜けたことを言っている(笑)。

たとえば、こういうふうに思い違いをしていたとする。

初時雨 兵どもの夢の跡

俳句として成立しているし何処も間違っていないが、芭蕉の詠んだ句ではないし、名句の興趣がまったく損なわれているという違いがある。俳諧の世界では其処が肝心なのだろうが、どんな名句でも禄様に情景を想起して味わっているわけではない門外漢にとってはそれらしく響けば無問題である。

たとえば、素人ついでにいっそこういう窮め附けの破格も試してみると、

春立つや 猿の眼に沁む 秋の風
夏草や 猿の眼に沁む 秋の風
富士の雪 猿の眼に沁む 秋の風

……季節がいつなんだかわからないということを除けば繋がっているように聞こえなくもないだろう。その時点で俳句としては破綻しているわけだが、ちゃんと七五調で完結している以上、響きだけで深く意味や情景を考えなければ有り難い名句のように聞こえてしまう。

オレたちは俳句って何となくこんなモンだと思っているのである。

そういう意味では、笑点の大喜利のネタである、お題として与えられた下句に上句を添える狂歌ネタも、常々「字数さえ合ってりゃ何だっていいじゃん」と乱暴なことを考えたりもする。

たとえば「太平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず」という狂歌も、よく出来ていて地口も利いていると思うが、意味さえ考えなければこういう定型詩というのは混ぜこぜにしても繋がって聞こえるから不思議である。

太平の眠りを覚ます上喜撰 文武といひて夜もねられず
太平の眠りを覚ます上喜撰 もとの濁りの田沼こひしき

ただ口ずさんだだけだと、どこが間違っているのかわからない。単に大喜利のネタにするならいっそのことまったく意味がないほうが面白いのではないか。しかし、なかなか調子だけ合っていて無意味な言葉というのは思い附かないもので、オレが思い附いたのは一つだけである。

太平の眠りを覚ます上喜撰 縦になったり横になったり
白河の清きに魚のすみかねて 縦になったり横になったり
世の中に蚊ほどうるさきものはなし 縦になったり横になったり
飲みに来た俺をひねりて殺すなよ 縦になったり横になったり
世の中は色と酒とが敵なり 縦になったり横になったり
金銀のなくてつまらぬ年の暮 縦になったり横になったり
この世をばどりゃお暇と線香の 縦になったり横になったり
すかし屁の消易きこそあはれなれ 縦になったり横になったり

勿論、この方式の最大の欠点は、オチがないということなのは言うまでもない。

世の中に人の来るこそうるさけれ 縦になったり横になったり
世の中に人の来るこそうれしけれ 縦になったり横になったり

ほら、違いがわからない。

したがって、このエントリーにもオチなどはない。

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