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2006年10月14日 (土曜日)

我が夏はかくて終わりぬ 其の参

そういうわけで語り残していた三本のドラマを語り終えたことではあるし、ここからはすでに一度語ったドラマのその後を軽く視てみよう。

まず残念なのは、中盤でかなり期待を寄せた「ダンドリ。」が、剰りにも危惧した通りのWBパターンで有耶無耶の裡に幕を閉じたことだろう。WB「みたいな」ドラマという縛りはそれほど強いのかとガッカリしてしまった。

とにかく、昨今のスポーツ青春ドラマにおいては、「勝利」をテーマにした艱難辛苦は徹底して避けられるということなのだろう。このドラマで語られたスポ根的な要素としては、自主練習で足を挫いた要が焦る気持ちを抑えて休養に専念し大会参加に間に合わせるという部分のみで、チアダンスの練習それ自体が「辛い」とか「勝ちたい」という描写は努めて排除されている。登場人物の誰もが「踊りたい」「上達したい」から愉しく踊っているにすぎないのであって、勝ちたいから踊っているわけではない。

それなりに自身の現状のスキルへの焦りや葛藤なども描かれているし、人知れず練習を積み重ねるという場面もあるのだが、それは「勝利への努力」ではない。踊るからにはちゃんと上達しなければ手応えが得られないので努力を重ねているのである。要たちは徹頭徹尾自身の納得と青春の手応えを購うために努力しているのであり、そこからは周到に他者との競い合いのニュアンスが削り落とされている。

陳腐な表現を用いれば、一時期話題になった「みんなで一緒にゴールイン」形式に徹していて、勝者も敗者もつくらないという拘りがあるように思う。チアダンスの楽しさや趣味としての側面を強調し、勝敗やスキルの可否に拘らず懸命に努めることそれ自体に意味があるという認識を核に据えている。

しかし、誰でも思うことだろうが、それなら別段厚木高校の実話をベースにする必要など微塵もなかっただろうし、厚木高校と縁の深い横内謙介を脚本に起用する必要などもなかっただろう。このドラマの元々の構想がどのようなものだったのかを伺い知る術はないが、いろいろと企画を揉んだ末に、結局厚木高校の実話はチアダンスの具体的肉附けの参考程度に抑え、まったくオリジナルな物語を展開したということだろう。

それはそれで構わないし、途中まではそれなりに面白かったからいいのだが、後半のお披露目に向けた展開の投げやり感漂う粗雑さは、視聴率低迷の余波もあるのだろうが、やはり白けるものがあった。悪意的なマスコミによって要たちが翻弄される話など、全体的に視た場合、挿話としてそれほど必要だったかどうかが疑わしい。

単に協会理事長とメイフィッシュの接点を設け、まったく他者との競い合い抜きで出場出来るようにするための段取りという以上には感じなかった。ただ一つだけ面白かったのは、いきなり登場した連盟理事長役を演じたのが、実写版セラムンの亜美ママだったということだが(笑)。

また、所詮はチア版WBなのだから、要たちの物語がクローズアップされるのは仕方がないのだが、結局ご町内ドラマのほうはバラけたまま投げっぱなしで終わった感が否めず、石橋の実家の話も上手く要たちに絡めて描かれたとは言い難い。

中盤において全体的な世界観や同時進行的な語り口を好ましく感じていただけに、そこが誰もが予想する通りに失敗してしまったのはかなり惜しい。物語が終わった時点で、すべての脇筋が納まるところに納まったという大団円の感触が欲しかったところだが、結局お披露目のステージを盛り上げるだけで手一杯だったという印象である。その意味では、当初は予想だにしなかったものの、「結婚できない男」のほうがよほどこの方向性の語り口を上手く完遂している。

フロントメンバー個々のドラマ性についても、ケダマの家庭事情やハマキョーと空手部の絡みなどは割合上手く着地したほうだろうとは思うが、双葉やさやかの話は相対的に影が薄くなった感が否めない。要の父と商店街の確執に割合尺を割いたことで、さほどバランス好く五人の物語を締め括ることが出来なかったように感じられる。

さらにもっと残念だったのは、折角最後までとっておいたかしこさんの参加エピソードが、やる気の欠片も視られない適当なものだったことである。ネットでも人気の出た委員長キャラだけに、もう少し良い扱いでも好かったのではないかと思う。

要するに、下手にドラマの種を播いたのがすべて裏目に出たということだろう。結局この種のドラマで目論まれているのは、ドラマ本編の撮影と同時進行で合宿や特訓を積んだキャストたちが最終回でそのお披露目をするという、言ってみれば新春かくし芸大会的なイベントなのである。

近年のかくし芸大会では、演目それ自体を釣瓶撃ちで見せるというより、その裏面の特訓風景のドキュメントで尺を稼いでいたりするが、この種のドラマはドキュメントの代わりに虚構のドラマを見せているわけである。そうだとすれば、ダンドリ関連企画としてカスペ枠で放映された「芸能人チアダンス部」と、意味的には何ら代わりがないということである。

制作サイドのトップが、そのような一種の企画物としてこの種のスポーツ青春ドラマを捉えているのであれば、それはもうすでに飽きられているよと言いたいところである。すでにWBの頃から、クラブ創設のすったもんだばかりが描写され、一向に試合らしい試合をせずに話を保たせて、最終回でお披露目をしてオシマイという展開には違和感があったのである。

それでもWBに関しては、男子のシンクロというのは競技人口が少ないのだから、試合という形で競技を見せていくことは出来ないのだろうという視聴者の斟酌があったからこそ辛くもドラマが成立したのだが、WBがヒットしたからと言って何でもかんでもこの形式でドラマを仕組めば視聴者が満足すると考えられても困る。

「スウィングガールズ」でそのやり方が通じたのは、ビッグバンドジャズの演奏というのは他人と競うことが必然的に織り込まれているものではないからで、愉しくなければジャズじゃないと言い切ってもそれほど間違っていないからである。だからこそ、辛い練習の部分は切り捨てて楽器を演奏する楽しさのみを強調しても、ドラマとして成立するのである。

しかし、普通はそれなりの規模の競技人口を抱える競技については、勝負の側面は不可避的に発生するのであって、「がんばっていきまっしょい」のようなやり方が精々ギリギリのラインなのである。

このドラマを最後まで観て感じたことというのは、CXドラマ制作のトップは、もうそろそろWBの方法論に頼るのはやめたほうがいいのではないかということである。あれはあれですでに最初の最初からスポーツドラマとしては破綻していたのであり、対象を変えて拡大再生産出来る汎用的な方法論ではないのである。

以前のエントリーで語ったように、一種のレア競技としての性格が強いものに関しては通用するかもしれないが、チアダンス程度に普及している競技に関しては、しょいやレガッタのようにちゃんと劇中で出来るところを見せなければいけないのであり、最後に一回だけちゃんとやればそれでいいというものではないのである。そのような方法論がドラマのダイナミズムを殺しているのだとしたら、尚更のことだ。

おそらくこのドラマの視聴率が極端に低かったのは、そのような方法論とは剰り関係ない部分の故だとは思うが、制作サイドが夏場の安全パイとしてこの種のスポーツ青春ドラマを捉えているのであれば、ダンドリの大コケがそこからの脱却の好いきっかけになるだろう。

ハッキリ言って、WBの紛い物などもう誰も観たくないのである。

まあ、語れば語るほど気が滅入ってくるので、ダンドリに関してはこのくらいにしておくと、残るのは「タイヨウのうた」と「マイ★ボス マイ★ヒーロー」であるが、タイヨウについてはそれほど多くを語る必要はないと思う。

結局、最後の最後までXPという現実の疾病の実態とは懸け離れた描写に終始したのであり、病態の進行も喉の手術をすれば歌えなくなるという形で描かれていて、要するに神経障害の進行によってギターが弾けなくなったときと同様に、症状の進行それ自体が問題なのではなく物語上の障害として病気を利用しているわけである。

さらには、ようやく薫が大勢の聴衆の前で歌う機会を与えられながら、その直前に孝治の腕の中で息絶えるという描き方は、物語の呼吸としては正しいがXPの病像から考えればまずあり得ない成り行きである。今さっきまでピンピンしていたのが次の瞬間に急死するというような種類の疾病ではないからである。

つまり、結局この物語は難病物でも何でもなく、「夜しか歩けない架空の体質」に生まれた少女のロマンティックな悲恋物語でしかなかったわけである。そのように割り切って病気を扱うことによって、カジュアルでいながらちょっぴりファンタジックな悲恋物語を、スタート時からレベルのバラ附きもなくきちんと描ききったと言えるだろう。

以前語った通り、この本来的には「架空の体質」に現実の疾病であるXPの名を冠したことが、何処まで行ってもこの物語の問題点になるだろう。そのような原作のドラマ化であることが大前提である以上、比較的ドラマ版の責任は薄いと思うが、だからと言って現実の疾病を面白可笑しく物語のダシに使った不快感が拭い去れるかというのは別問題である。

ある種、このドラマ版に限っていえば、そのようなものであらざるを得ない無理もなさと、そのようなものであるが故の不快感が、筋合い的に整合せずに宙ぶらりんのまま視聴者の胸に残る部分が最大の問題点であろうと思うが、とりあえず、脚本の渡邊睦月をはじめとする制作スタッフは、このような条件においてきちんと仕事をしたとは思う。

さて、最後にマイボスだが、すでに初期の時点でかなり語った番組であるから、それほど多言を費やす必要もあるまいと思う。良くも悪しくも大森脚本作品らしいドラマに終始した印象である。オレも何だかんだ言ってけっこう大森脚本のドラマは観ているつもりではあったのだが、おそらくこれまで観てきた中で、このドラマが最も大森脚本の本質が剥き出しの形で如実に出ているのではないかと思う。

逆に言えば、このドラマを観ることによって、過去の大森脚本の失敗作が何故に失敗したのかがハッキリわかるような気がしてくる。その辺りの事情に関してはこれまでのエントリーを参照していただくとして今は詳説しないが、一言で言うなら「五分前の話はもう終わったこと」というのが大森脚本の本質なのだろう。

つまり、非常にイマドキのTVドラマらしい脚本だということだ。マイボスの脚本の最大の特徴は、今この瞬間からの五分を保たせることしか考えていない割り切った作劇であるということである。一本のエピソードの中ですら、さっき描かれた要素が今描かれている要素と一切関係を持っていないし、そのようにして今だけが愉しい話が流れ流れて行った挙げ句、今この場で考えたような取って附けたような落とし所で話が終わる。

続編やスペシャル展開を睨んだようなあざとい大オチに対しては兎角の批判もあるようだが、所詮そのようなシリーズ全話台無しの大オチがアリとされるようなデジタルなドラマ世界だったという言い方も出来るだろう。何というか、脚本だけに限って言えば作品世界に愛着を持って書かれた節がまったく視られない。それ故に、身も蓋もない脚本家の資質が最も露骨に出たのだろうと思う。

大森脚本の全部が全部そうであるとは言わないが、基本的に後先を考えた筋道のようなものが稀薄であり、つまり、何処から観てもとりあえず楽しめる。結局今時のTVドラマは皆そのようなものを目指しているのである。一時間目を皿にして注視していなくても話がわかるし、途中から観ても途中で席を立っても満遍なく楽しめる。

オレ個人の嗜好に基づいて正直に言うなら、もうそれはドラマの名に値するものではないと思う。愉しいことは愉しいが、それはもうドラマとは別の何かである。これが今時のTVドラマの「当たり前」なのであれば、オレはもう「当たり前」のTVドラマには剰り興味がないと思う。

所詮はオレも、今時の世の中に附いていけない昔者であり廃れ者であって、リアルタイムのトレンドを快く感じない年寄りの一人ということなのだろう。

まあ、そうは言ってもその「当たり前」のドラマ群の中から「当たり前」でないドラマを引き当てるために、これからも連続ドラマは見続けるとは思うが、この夏ばかりはかなり思惑外れが続いて疲弊したことは事実である。

今秋の新ドラマのラインナップを視る限り、局サイドの危機感だけは痛いほど伝わってくるものの、その危機的状況に対する企画面での手当てがこの方向性で好いのかというのはちょっと疑問に感じるところで、おそらく今夏のドラマ全般の視聴率不振と内容面の問題にはズレがあると思うのだが、そこを変なふうにストーリー立てて解釈して益々頓珍漢な方向にズレ込まないことを祈るのみである。

窮めて取り留めのない感想ではあるが、とりあえず、こんなところでオレの寒々しい夏の想い出を締め括ることにしよう。

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