« 我が夏はかくて終わりぬ 其の壱 | トップページ | 我が夏はかくて終わりぬ 其の参 »

2006年10月14日 (土曜日)

我が夏はかくて終わりぬ 其の弐

そういうわけで、苟も月九ドラマに対しては礼を尽くすべきであろうということで若干長めに「サプリ」を語ったので、その他のドラマについてはもう少し簡単に論じることにしよう。サプリ以外でこれまで触れなかったドラマは、「PS羅生門」と「怨み屋本舗」の二本であるが、まず前者から説き起こすことにしてみよう。

結論から先に言えば、流石にテレ朝水九枠だけに手堅いつくりで、視聴率自体はお話にならなかったが、出来は割合悪くなかったのではないかと思う。主演の木村佳乃はその経歴の特定の時点から突如としてお色気に走った感があるが、このドラマでも別段エロい役柄でも何でもないのに、何か妙に地味なエロさがある。

原作劇画の作者である矢島正雄がドラマ版の脚本も担当するということで、チラッと原作劇画の絵柄を視た限りでは何処も原作劇画と似ていないのだが、矢島ワールド全開のまったりした人間ドラマが展開された。第一話を観た時点では、剰りにやっつけ感丸出しな設定開示に何じゃこりゃと少々呆れ、続くエピソードも刑事ドラマのパターンを無難になぞっただけの冴えない番組だと思ったのだが、第五話のコンビニ強盗の辺りからかなり独特の語り口を確立してきたように思う。

この「かなり独特」というのはまあ言葉を選んでいるわけで、ハッキリ言ってプロットにまったく捻りというものがない。木村佳乃扮する紅谷刑事が、息子と過ごせる数少ない時間である休日の行楽のためにコンビニに立ち寄ったところ、折悪しくコンビニ強盗に遭遇し、店員二名と共に人質になるというのが大筋だが、この導入部からラストまで事件自体はほとんど動かない。

紅谷刑事や羅生門署の面々の活躍によって、何らかの危機的状況が回避されるとか事態が好転するという流れには一切ならないのである。名倉純扮するコンビニ強盗は、コンビニを占拠して人質をとりながら、何ら要求らしい要求をせず、最終的には警官隊の突入によって普通に捕まってオシマイである。

その間、人質となった紅谷刑事が必死で犯人を説得するものの、まったく相手の動機も犯行の目的も理解出来ないために型通りのお説教を繰り返すのみに留まり、ほとんど事件は進展しない。紅谷刑事が監禁されている裏では、羅生門署の刑事たちが犯人のバックグラウンドを地味な聞き込みによって探るのだが、それによって事態が好転するとか解決の糸口が見えてくるということはまったくない。

犯人と紅谷刑事を含む人質の遣り取りは、この犯行の無意味さと犯人の不気味さを際立たせるばかりであり、その背後の聞き込みで徐々に明かされてくる犯人の人物像と剰りに漠然とした犯行動機との対称において、その両方の場面を視ることが出来る視聴者には事件の全貌がだんだん見えてくる。

だが、ただそれだけなのである。

羅生門署の刑事が連れてきた犯人の母親のセリフや、警官隊の突入を引き延ばすための工作なども織り込まれるのだが、基本的には事件はなるようになって終焉する。説得によって犯人が投降するわけでもなく、何を目的として羅生門署の刑事たちが努力しているのかも定かではない。

店内の紅谷刑事は単に犯人と出口の見えない会話を交わしているだけだし、それを包囲する警官隊に混じって突入を阻止しようとする他の刑事たちも、突入を引き延ばしたからといってどのような解決の方向性があり得るのかがまったく見えていない。このように、何をゴールと目指して進行しているのかサッパリわからない物語が、刑事たちの聞き込みと店内の密室劇によってまったりと進行する。

そして、物語はそのまま時間切れを迎え警官隊の突入によって収集されるわけだが、そこに至るまでに、刑事たちの聞き込みはこの事件へと犯人を駆り立てた過去の事件を調べ上げ、犯人と人質の四人の人物は、それぞれが抱える抜き差しならぬ物語を互いに語り合うことで、何某かの想いを共有するに至る。そのようにして、視聴者の前にすべての情報が開示されたタイミングで事件は唐突に幕を閉じる。

要するに、この事件はたまさか遭遇した四人の人物の人生を語り合う契機としてしか機能していない。言ってみれば、身の上話の口実なのである。リアルタイムで進行している事件は最初の最初から膠着状態に陥っていて、メタ的に言えば身の上話が終わるまで突入を待っているというだけの話である。

発端となる最初の状況設定を除けば、事件らしい事件は何も起こっていないとすら言えるだろう。ただただ犯人の背景を段階的に開示し、密室劇によって互いの身の上を段取りに則って語り合っているだけなのである。

だからつまらないのかと言えば、何も期待しないで観れば妙に面白い。さすが「人間交差点」の矢島正雄だけに、まったりした身の上話だけで一本のエピソードを十分に見せるのである。

このエピソードで手応えを掴んだのか、シリーズ後半のエピソードは基本的に無理に作劇的なイベントを設けず、ある事件を糸口にして視聴者の前に段階的に開示される人間の生き様を語るという、刑事ドラマの基本を純化したものになっていく。

ハッタリの効いた弾けた面白さを期待する向きには退屈と映ったかもしれないが、おそらくこの枠の主要視聴層である中高年齢層にとっては、落ち着いて観られる内容だったのではないかと思う。

ただ、まったりとした身の上話ドラマに特化した作劇は、その半面でプロットの単調さという不可避的なデメリットを持っていると思う。関係者の身の上話が主眼になるということは、つまりリアルタイムではほとんど何も起こらないということである。

また、本来の設定上は羅生門署の刑事たちは、個性豊かでアクティブな型破り刑事の集団であるはずなのに、そのキャラクターの個性がストーリーに反映されることは剰りなく、犯人やその関係者の人生模様を開示する黒子に徹する場面が多かった。開示要素のみが重視され、それを持ってくる人物の個性など何うでも好いということである。

要するに、物語の方向性は別段おかしなものではないのだが、個別のドラマの世界観とミスマッチなのである。こういう語り口のドラマも悪くないが、何もそれをこの設定でやることはないだろうという違和感が何処までも附き纏うのである。

それが視聴率低迷の原因であるなどと言うつもりはない。今夏のドラマシーンを通観することで、オレは視聴率とドラマの内容とは剰り関係ないという確信をちょっと深めるに至った。視聴率と関係があるのは、ドラマの事象面なのであって文芸面ではないのである。ドラマの文芸的な具象面というのは、数字に顕れる以前に事象面の問題、すなわち明確な言葉で括れる要素群の中に拡散していくのである。

とまれ、PS羅生門というドラマに関して言えるのは、観ればそれなりに満足するが必然としての魅力には欠けるごく普通の刑事ドラマだったということだろう。

さて、PS羅生門に関してはこれくらいにして、怨み屋本舗の話題に移ると、深夜枠にしてはかなり数字が好かったようだが、どうしてそんなに数字が好かったのか、オレにはまったく理解出来ない。一説によると局際で闇取引があるのではないかと疑われるほどギリギリで時間帯が連結しているテレ朝の「黒い太陽」との相乗効果ではないかとも言われている。

黒い太陽の枠の終了時刻と怨み屋の枠の開始時刻は僅か二分ズレである。黒い太陽が終わった時点で、何か面白い番組はないかとリモコンでチャンネルを送ると、そのまんまシームレスで怨み屋が始まるわけだが、そこから惰性で延々テレ東を観られたらテレ朝側には何もメリットはないので、闇取引云々は勿論冗談である。

オレは黒い太陽の枠はほとんど観ていないので、黒い太陽自体面白いのかつまらないのかは識らないが、継続視聴している知人の話では、まあかなりエグいDQNドラマらしく、「結婚できない男」同様主演俳優のケツ出し(しかも靴下全裸)で初回視聴率をガツンと稼いだらしい(笑)。

まあそのエグい下世話なドラマ性からのお流れで怨み屋を観るというのはわからないでもないのだが、正直言ってかなりIQの低いドラマであることは否めない。初回からかなりアタマの悪いドラマだと思ったので、それがドラマ版の脚色の故なのか原作からしてそうなのかを確かめるために原作を読んでみたのだが、まあ結論としては両方ともかなりアタマが悪いという以外にないだろう。

そもそもこの種の仕掛け人もしくはハングマンスタイルの物語は、未だ必殺シリーズやハングマンのファンが数多く存在するために、趣向を変えて拡大再生産され続けているのだが、オレ個人の意見では成功例というものが一つもない。

無念を呑んで死んでいった人間の怨みを職業的殺し屋が晴らすというドラマが娯楽作品として成立するための必須要件は、大本の必殺シリーズにおいて窮め尽くされているのではないかと思う。しかし、そのオマージュ作品については、おそらく作者自身が必殺を愛好しているから必殺のフォーマットをトレースしているはずなのに、必殺が確立した基本要件に関する考察が甘いものが大半である。

まあ、必殺シリーズという大きな総体を語り始めるとそれだけで一項を費やしてしまうから簡単な言及のみに留めるが、この種の物語類型としては、殺し屋は飽くまで職業犯罪者であって正義の味方ではない。

個々の登場人物たちは、夫々の転落人生の果てに、社会の最下層の犯罪者である殺し屋に身を落としたというバックグラウンドがあり、それは不可逆的な堕落の道筋なのである。それだからこそ、いずれ畳の上では死ねない身体と心得て遊蕩三昧の無為な生活に気を紛らせているのであり、彼らには闇の正義の執行人という気取りはない。

本来的には金尽くで引き受ける犯罪としての殺人であるが、せめて世の為人の為にならない奴だけを殺すことで世間に迷惑を掛けまいと心懸けているだけである。そのような卑賤な犯罪者にとっても許し難い悪の存在があり、そこで情が動くからこそおおまかな意味での視聴者の正義の感覚と整合するのである。

その意味では、キャラクターとしての怨み屋は原作者が「自分の最も嫌いなタイプの女として造形した」と語っている通り、別段善人としては描かれていない。しかも怨み屋がこの稼業に身を投じるに至ったのは、過去の悲劇的事件の故であることが仄めかされており、そういう意味では一種の転落人生の果ての堕落と表現出来ないこともない。

現在における必殺オマージュ作品がまず躓くのはそこだから、そこが間違っていないだけマシだと言えるかもしれないが、この物語においては、怨み屋というのが必殺の系統に属する存在なのか、ハングマンの系統に属する存在なのかが明確ではない。

必殺もハングマンも同じようなものだと考える方もあるかもしれないが、その両者は全然違う存在である。ここは先ほど挙げた筋合いの問題というより、作劇の構造面の問題である。

つまり、必殺シリーズの殺し屋たちが悪人を殺すのは殺し屋だからであり、殺し屋稼業の延長として行き掛かり上結果的に正義を行うだけである。また、ハングマンたちが社会的な抹殺のみに留めるのは、彼らが本質的に正義を志向する詐欺師チームであって、殺し屋ではないからである。

だから、どっちも、というのはそもそもあり得ない。

殺し屋は詐欺を行わないし、詐欺師は殺しを行わない。詐欺師のドラマが面白いとしたら、それはどんな窮地に陥っても殺しで片を附けないからであり、殺しを忌避するという一点において超法規的な正義であり得るのである。一方、殺し屋のドラマが面白いとしたら、殺しという極端な手段以外に事件に介入出来ないため、見す見す救える人も救えない悲劇が成立するからであり、怨みを晴らすための殺人以外の手段がない以上、本質的に彼らは正義ではあり得ない。

つまり、それが騙し屋であればそれ以上犠牲者が増えないよう未然に犯罪抑止的な行動に出ることも可能だが、殺し屋は相手が許せぬ悪事を犯した後でなければ行動に出られない。だから、このどちらであるかによってお話の方向性がまったく違うのである。

どっちも金次第でやるというのなら、怨み屋には行動の制約も倫理的な歯止めもないことになり、好き勝手に行動出来る。これを作劇面で言うと、物語が成立しないということになるだろう。殺し屋と騙し屋というのは本来本質的に違う人種であり、どちらかの手段と流儀に限定されるからこそドラマというものが成立するのである。

試みに原作をちょっと読んでみたら、エピソードの前半で怨み屋の標的となる悪人の悪行が散々描かれたと思ったら、後半ではいきなりその悪人が何のトラブルもなく怨み屋たちに拉致され、人知れず非道い目に遭わされて話が終わるという何の知恵も工夫もないパターンが続くので、さすがに呆れ果ててしまった。

これでは、小学生の妄想である。

非道いことをする奴が非道い目に遭わされるというだけの話なら、小学生でも思い附くだろう。その応報を実現するための知恵比べのトリックや意想外のトラブル、それを切り抜けるまでのサスペンスを描くからこそ物語になるのではないのか。

百歩譲って、怨み屋という人物を不吉な死に神に見立てて、悪いコトをすると人外の存在が罰を当てに来るという泥臭い因果話を語ろうというのならまだ話はわかるが、劇中の怨み屋は別段人智を超越した人外の存在ではないし、ミッション遂行までの具体的なプロセスが中途半端に描かれている。その上で普通に失敗したりピンチにも陥るので、何を描こうとしている物語なのかサッパリわからない。

第一〇話で不和万作の刑事をボコった挙げ句に包丁で刺し殺した場面では思わず失笑してしまった。それじゃ世を忍ぶ始末屋というより、ただの人殺しじゃん。この話は怨み屋が個人的な入れ込みの故に、本人直々に直接的な応報を仕掛けるという特殊性はあるのだが、いきなり標的の前に現れて殴り合った末に包丁で刺し殺すというのでは、仕掛けでも何でもないただの乱闘である。

剰え、これが決定的にダメなところではあるが、標的の悪行と怨み屋の応報の劇的なバランスが必ず釣り合っていないところがこの種の物語としてダメダメである。

第一話ではほとんど標的のうじきつよしの悪行を具体的に描いておらず、彼を附け狙う粘着質な怨み屋サイドの仕掛けを延々描き通したために、うじきつよしが悪人というより被害者にしか見えなかった。ただまあ、この時点ではそういう形式の物語なのかとも考えて即断はしなかったが、結果的にはこのエピソードのような標的視点のお話はこれ限りだったので、やはり依然として違和感は残った。

第二話の標的であるホストは、自分と不倫関係にある人妻を強請るという、こう言っては何だが、まあ相身互いの犯罪の故に、海外に拉致されて内臓を奪われたり金持ちの慰み物にされるという不釣り合いに非道い目に遭わされる。これなどは、散々脅して怖がらせ神経を参らせる仕掛けかと思ったら、そのまんまヤクザに拉致されて本当に海外に売り飛ばされたので唖然としてしまった。

このエピソードは、喪うものが何もない屑ホストを社会的に抹殺せよという依頼にどうやって応えるのかという課題がテーマなわけだが、その解決がこれなのだから二重に呆れてしまった。そういうのは「社会的に抹殺する」とは言わないだろう。

この第二話からすでに何とも言えない低IQムードが漂ってきて、ひょっとして物の道理がまったくわかっていない人たちがつくっているDQN番組なのではないか、というイヤな確信が強くなってきた。

第三話は、片桐はいりが不愉快だし殺人や直接的な暴力が絡んでいないのだからまあこんなモンだろうと思うが(笑)、第四話などは第一話とは逆に標的側の悪行が不愉快すぎて、お互いに疑心暗鬼にさせて殺し合わせるという生温い応報なのが決定的に釣り合っていない。

第一話や第二話のような粘着質なイヤガラセは、この連中のような没義道な悪人に対してこそ行われるべきなのである。そのような悪辣な報復手段を躊躇わない存在であることは過去のエピソードで明らかなのに、何故かこのエピソードでは極々単純なデマを吹き込んで仲間割れさせ、殺し合わせるに留めている。このやり方では、標的はまったく恐怖もストレスも味わっていないのだから、散々陵辱されいたぶられて殺された被害者の怨みの深さと釣り合わないことは誰が視てもわかる。

おまけにラストで怨み屋が「どんなに復讐しても怨みが晴れることはない」みたいな利いた風な小賢しいセリフまで添えていて、それなら人妻を強請ったホストをネチネチ小芝居で怖がらせた挙げ句に海外でなぶり殺しにしても、まだ怨みが晴れないってことかよと心底呆れ果ててしまった。

必殺シリーズのように、殺しという決着で悪を懲らしても死んでいった人間をどうしてやることも出来ないという無力感やニヒリズムが根底にあるならまだしも、こんなに応報の天秤がその場その場でいい加減なのでは、単に金目当ての荒っぽくて雑な商売だとしか思えない。

要するに、仕掛けのキャスティングボードを握る怨み屋には、どの程度の悪行がどの程度の応報に相当するかという作劇的に妥当な感覚が欠如しているということで、必ずやりすぎるかやり足りないかどちらかなのである。人の命に関わる商売には、一種の公平性の感覚が必須であるという良識が微塵も感じられない筋立てでは、不愉快な後味しか残らない。

先ほど必殺の殺し屋たちは正義の執行者ではないと言ったが、正義の味方でも何でもない職業犯罪者であっても、一種彼らは殺しの場では厳粛なまでに公平性に拘るからこそ主人公として信頼出来るのである。

きちんと代金を徴収すること、そして相手が殺すに足るだけの悪人である事実を確認すること、この二つの手続に拘るからこそ、デスノのキラのような独善的正義の執行者でもなければ、無差別に人を殺す人非人でもないという、必殺ならではの絶妙なバランスが成立するのである。

彼らには殺しという応報手段しかないからこそ、その悪事が殺害という極端な応報に値するものであるかどうかの確認に拘るのであり、これはつまり応報の公平性に対して執拗な拘りがあるということである。また、これがハングマンであれば、彼らには健全な正義感があるからこそ、決して悪人の生命を奪わず悪事を明るみに出すことで社会の制裁に任せるという節度があるのであり、これもまた公平性の感覚なのである。

この公平性が何うでも好くなっている時点で、怨み屋という存在は暴力団と同列のただの荒っぽい職業犯罪者であるにすぎないのだし、そういう主人公が設定されている時点で「悪い奴はとにかく非道い目に遭わせりゃいいんだ」的な愚かしい独善が核になっているかなりアタマの悪い物語であるということである。

要するに、作劇にまったくブラックな娯楽としての計算が利いていないIQの低い粗雑な物語なのである。悪人の悪辣さや応報の残酷さを強調して悖徳的な応報の満足をもたらす物語を語るには、ある程度の知恵と良識がなければならない。DQNの粗雑な嗜虐心が暴走した物語など、無意味に扇情的なばかりで不愉快なだけである。

ぶっちゃけ、わざわざ不愉快になるためにこんなドラマを好んで観る人間の気が知れないというのが正直な感想である。オレなどは、木下あゆ美さえ出ていなかったらこんなドラマを継続視聴することはなかっただろう。

オレ的には、幾ら主役とはいえこんな不愉快なドラマに出るくらいなら、脇役でもいいからその前の番組である「下北グローリーデイズ」に出てパンチラ階段でも登ってくれていたほうがナンボか気持ちが楽だったのに。

その意味では、後番組の「クピドの悪戯」に出て美尻を披露する秋山莉奈のほうがよほど賢いということだろう(笑)。まあ、他愛のないお色気ドラマで女性の生尻や生乳を視る分には、少なくとも男性視聴者は不愉快にならないからであるが。

|

« 我が夏はかくて終わりぬ 其の壱 | トップページ | 我が夏はかくて終わりぬ 其の参 »

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 我が夏はかくて終わりぬ 其の弐:

« 我が夏はかくて終わりぬ 其の壱 | トップページ | 我が夏はかくて終わりぬ 其の参 »