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2006年10月25日 (水曜日)

Talk Like Singing

猿の目に沁む秋風も立ち、先週で秋の新ドラマのラインナップもすべて揃った。新番組を一通り通観して感じたのは、まあ流石に各局とも今季は褌を締め直し気合いを入れているという感触である。とは言え、今夏の予想外の不振を受けてからでは企画やキャスティングレベルの手当てが間に合うはずもないので、飽くまで製作レベルの話ではあるだろう。

前回のエントリーでは若干の不安も漏らしたのだが、今のところそれほど激しくつまらない番組もないようには感じている。視聴率的には前季同様悲惨な状況を脱していないが、現時点では已むを得まい。企画とキャスティング、前番組からの牽引効果という初回視聴率を構成する要件全般に亘って弱い印象が否めない以上、今後の内容や各局の周知努力でじわじわ盛り上げていく以外に数字を回復する術はないだろう。

さて、前季のドラマについては、さほど視聴モチベーションを感じていない作品にまで深入りして語りすぎ、結果的には時宜を逸する羽目になったという反省もあって、今季はもう少し気楽なノリでアバウトに語ることにした。まずは深く考えずに月九の「のだめカンタービレ」辺りから語ることにしてみよう。

CXが「サプリ」放映中から悲愴さすら感じるほどにプッシュしてきたこの番組であるが、二期連続で有名コミックス原作物という辺りに企画不足感が滲み出ているし、キャスティング主導の月九枠において、TVドラマではさほどの実績も主演作待望論もない上野樹里と玉木宏を主演に据えるというのは、夏場の実験作のノリである。

原作がどれだけヒットしているかはさておき、その売上が即視聴率に結び附くというものではないだろう。普通に考えれば、サプリの伊東美咲と亀梨和也のカップリングのほうが一〇月期には相応しいネームバリューを持っているだろうし、題材的にもまさに月九の視聴層に相応しい花形業界の一線で働く女性の成長や恋愛を扱っていた。

これは別に、サプリに比べて「のだめ」は月九の題材に相応しくないという話をしているのではない。劇場映画主体で活動しているF1層への訴求力に不安の残る主役コンビのキャスティングで、一般人に馴染みのないクラシックの世界を舞台に奇人変人の右往左往で見せるギャグスレスレのコメディマンガ原作のドラマというのは、普通なら数字の取れない夏場にやるような実験的な企画だということである。

事前情報を視る限りでは、売り時を逸した「動物のお医者さん」がテレ朝で実写化された際に、見事なまでに誰もが予想する通りのテレ朝ノリになったように、従来のCXの抽斗で言えば、「ぼくたちのドラマシリーズ」のようなちょっと安いノリのドラマになるのではないかとオレは予想していた。

ところが、蓋を開けてみれば、こんなガチャガチャした虚構的なノリの物語であるにも関わらずちゃんと海外ロケまでしているし、千秋が憧れるヴィエラ先生を実際に今現在チェコフィルでタクトを振る現役指揮者のズデニェク・マーカルが演じており、音大の学生主体とはいえ番組専属のオケまで編成されているということで、妙に豪華なつくりである。

どうやらオレの認識が甘かったようで、原作の一般への浸透度やメディア上での持てはやされ方からすれば、三顧の礼をもって遇すべき企画であったようだ。殊に、先ほど例に出した動物のお医者さん同様、「のだめ」も一度他局のTBSで実写化の企画が流れた経緯があり、その意味でも剰り疎かに扱えない事情があったのかもしれない。

某大手芸能事務所と原作者との意見の相違からドラマ化の企画が頓挫して、急遽制作された「花より男子」が望外に視聴率を稼いだという逸話は記憶に新しいが、その際に悶着の種となったのが所属タレントの楽曲の主題歌起用というのだから、もうこの某大手芸能事務所のユニークな商法はドラマ制作上のリスク要素でしかない。

ほんの四半世紀前の感覚で言えば、アイドルユニットのバラ売りキャスティングで制作されたドラマというのは、低予算の莫迦ドラマで当たり前だった。そのようなものとして納得尽くで視聴者も莫迦ドラマを楽しんでいたのであり、その限りではアイドルドラマの何が悪いという言い方も出来るわけで、いわばそれはサブカルチャーの一半だったのである。そしてまた、それが本業として俳優業に一意専心しているわけではない演者相応の分際というものでもあったろうと思う。

しかし、今や、特定事務所のトップアイドルたちが主役を務めるドラマがドラマ界の本流となってしまい、専業俳優を圧倒する勢いである。それだけならアイドルたちに演技力や存在感があれば一人の演技者として何ら差別すべきではないが、アイドル商売の論理がドラマ制作の現場に持ち込まれることは、不愉快窮まりない本末転倒であろうかと思う。

また、もっと皮相的ではあるがより本質的な問題としては、連続ドラマの主演俳優の大半が特定人物の好みで選りすぐられた可愛い小男ばかりになってしまうという問題があるだろう。もう三〇年以上も前から、日本人男性の体格も欧米並に向上してきたと言われているわけだが、この事務所はそんな時代の趨勢に逆行して基本的に線の細い少年体型の男性を好んで採用しているので、自然と演じられる役柄も限定されてくる。

もしTBSの企画が実現していたら、花男の主演俳優が千秋真一を演じていたかもしれないが、上野樹里も込みで考えると「それはどの金田一少年のつもりですか?」とツッコミを入れたくなるような悲惨な絵面が実現していたかもしれないのである。

花男それ自体も、ぼくたちの映画シリーズ版や台湾の「流星花園」版に比べると、最低限「傍若無人なゴツい大男」のはずの道明寺がF4中最も小さいという面白い脚色が視られた。何となく、金持ちのお坊ちゃんが金目当てのゴツい腰巾着を連れて歩いているというギャグマンガ定番の絵面を想い出したというのはナイショである。

ある種サプリが歴史的な大敗を喫したのは、何を何う繕っても、「大女と並んだ小男は絶対的に滑稽に見える」という普遍的な絵面のバランスの感覚が欠如していたからでもあるだろうと思う。所謂「セッシュー」と寄りのショットを多用して胡麻化してはいたが、フルショットではやはり滑稽な感が否めなかった。

そのような上背のバランスの感覚は女優の場合にも言えることで、何故か大女ばかり取り揃えている某大手芸能事務所の花形女優たちも、本来役柄や相手役がかなり限定されるはずなのだが、そこここが現在の連続ドラマのキャスティングで最も幅を利かせているというのは、一歩間違うとサプリのような悲惨な絵面が高確率で実現するデンジャラスな可能性を多分に孕んでいるということである。

実際、上野樹里も相手役の玉木宏がけっこう大きいので小さく見えるが、実は一六七センチもある新垣結衣と同レベルの立派な大女なのであり、中背の男性と並んだら顔の位置が大体同じ高さに来るのである。そして、若い男女の顔の位置が同じ高さに来るというのは、絵面の観点で言えば子ども同士に見えるということだ。大人の美男美女のカップルなら普通は頭一つ分くらい身長差があって然るべきだからである。

「のだめ」のキャライメージで言えば、上野樹里を基準に考えるなら、やはり千秋役には一八〇センチ程度の上背が欲しい。そうでなければ、何だか小っちゃい犬が神経質にキャンキャン吠えているような滑稽なイメージになってしまうからである。千秋役のように、傲岸に構えて独裁者的に鉄拳を揮うようなキャラは、やはり現実的な意味でも上から見下ろすような身長差がないと様にならない。

所属タレントやそのファンには気の毒な言い方になるが、元々俳優業においては「小さい」というのは立派なハンディなのであるから、事務所のカラーとして小さい男を掻き集めておいて、その同じ事務所の力でこんなに無闇に主演ドラマがセッティングされている現状のほうが不自然なのである。

とまれ、そのTBSの企画で想定されていた主役も上野樹里だったということで、いわば「のだめ」と上野樹里は企画上セットになっているような印象である。主役コンビについては原作者も太鼓判を捺しているということで、そもそも原作者がのだめのキャラとのマッチングで上野樹里を気に入っているのだろう。その要望通りテーマ曲に劇中で扱われる交響曲第七番を起用していたり、トラブルを起こした事務所の俳優の起用を排していたり、最大限原作者に気を遣ったドラマ化であると言えるだろう。

たしかに第二話まで視る限り、のだめのキャラは素の部分が「野放し」というか「子ども」の上野樹里でなければ成立しない役柄に感じられる。この気持ち悪い変人を可愛く演じられる女優というのは、ちょっと他では想像が附かない。少し前なら菅野美穂とかもっと前なら富田靖子辺りがやりそうな役に見えるが、この二人とも現在は化け物専門女優になってしまったので、すでに想像が出来なくなっている。

事前情報を聞いた段階では、素の人柄からしてすでにグルーミングに無関心そうというか、家族に叱られるまで三日くらい同じパンツを履いてそうというか、ナチュラルに袖口でぐしっと洟水を拭きそうというか、鼻を近附けると昆布のような別の意味でいい匂いがしそうなイメージのある上野樹里(子どもだから)が、剰りにジャストミートなフケツ女を演じるというのでちょっと引いたことは否めないが、普段の演技スタイルがかなりカジュアルなのに、今回は相当誇張された虚構的なキャラなのでそれほど不快感はなかった。

どうも本人の言などによると、上野樹里という女優は役柄を自分に引き寄せて考えるタイプの演技スタイルであるらしく、役柄と自身の共通点を膨らませて役づくりを行うらしいが、今回ののだめ役は上野樹里の山猿的な天然の部分をかなり戯画的に誇張して演じているのだろう。つまり、スウィングガールズの鈴木友子と同一線上のキャラだということで、実はこれまでのTVドラマの役柄とはまったく異なる路線である。

TVドラマでしか上野樹里を識らない視聴者は、おそらく上野樹里という女優に「大人びた真面目な子」というイメージを持っているかもしれないが、インタビューなどで視る素の人柄はユニクロのCMのような天然の子どもキャラで、どんな大物芸能人が相手でもちょっと気を抜くとすぐタメ口になってしまう。先日の一〇月期恒例「笑っていいとも秋の祭典スペシャル」でも、案の定タモリ相手にタメ口全開で話していて、ファンを冷や冷やさせている。

おそらく、遠からぬ裡にこの野放しお子さま女優は、芸能界を一手に取り仕切るあの礼儀に煩瑣い某大物大女歌手と遭遇して、夜が白むまで懇々とお説教を喰らいながら居眠りの舟を漕いで「ぎゃぽーっ!」とぶん殴られるのではないかと愉快な妄想を巡らせていたりする(笑)。

まあそういう意味で、SGの鈴木友子役はかなり本人の素に近いスタイルで演じた役柄らしく、SGも含めて映画ではかなり弾けた役柄も演じているのだが、何故かTVドラマではしっかり者の良い子か翳りのある大人びた役柄ばかりの印象である。

月九枠では少し前の「エンジン」で施設の子どもたちを束ねるクールなお姉さん格を演じていて、SGで上野樹里を認知した者からすれば逆に意外なイメージに感じられた。また、SG公開直後に同じSG組の貫地谷しほりと共演した「さよなら、小津先生」の続編ドラマでは、あろうことかツンツンしたアイドルなんかを演じていて、鼻をほじって莫迦笑いする鈴木友子の役柄との剰りのギャップで爆笑を誘っていた(笑)。

要するに、TVドラマでは上野樹里でなくても成立する役どころが多かったという印象なのだが、これは当たり前といえば当たり前だろう。彼女にしか出来ない役に特化するということは、そのキャラクターが飽きられたらオシマイということであり、それは前回も触れた通りである。SGで一般に認知された女優にそれとは別の方向性の役柄の作品をガンガンブッキングするというのは、駆け出し女優の売り方としては間違っていないだろうし、上野樹里自身も演技の幅が狭くないところをちゃんと見せている。

その流れの中で久方ぶりに上野樹里以外にはちょっと出来そうにない役柄を演じているわけだが、こういう役柄だと上野樹里は本当にいい。可愛い役柄、真面目な役柄、健康的な役柄、翳りのある役柄、そういう役どころなら別に上野樹里でなくても他に代わりは幾らでもいるだろうが、のだめのようなどうしようもないダメ人間でしかも魅力的なキャラを演じられる人材は、今の若手では上野樹里以外の名をちょっと思い附かない。

相手役の玉木宏も、以前はWBの役柄の印象で二枚目というイメージはなかったのだがちょっと見ない間に好い体格になって、一応二枚目と言っても通るように見える。何より意外に声が好いので、主に千秋視点の鬱陶しいモノローグで進んだ第一話の語り口にもストレスがなかった。

前回のエントリーで語ったように、TVドラマに必要なのは何よりもまず顔芝居とセリフ芝居であるから、声の好い俳優は得である。陣内孝則原作の映画で玉木宏と共演した塚本高史も草尾毅や矢尾一樹のラインのちょっと錆びの利いた好い声をしているので、CMではかなりハイテンションの演技を披露しているが、玉木宏の声質は先頃物故した鈴置洋孝のラインであるように思うので、傲慢でいながら面倒見の好いキャラという意味ではハマり役であるように思う。

その一方、ドラマの内容的には「短編コントの寄せ集め」という批判的な声も多く聞くが、どれだけ金がかかった豪勢な絵面であっても、所詮その本質は「ぼくたちのドラマシリーズ」なのである。過剰な期待をすると裏切られるだろうが、上野樹里のアイドルドラマだと思えばこんなものだろう。

最新巻のみではあるが、コンビニに置いてあった原作に少し目を通してみたところ、基本的にドラマとほとんどノリは変わらないように思った。原作のイケズな語り口がドラマではちょっとマイルドに感じられるのは、ドラマの脚色の故か初期のエピソードだからなのかまではわからないが、コメディというよりスラップスティックに近いノリの原作であることは理解した。つまり、クラシック演奏家の世界を面白可笑しく紹介するというニッチ以外は普通に無内容な物語ではあるだろう。

ある意味、月九ドラマ自体が一種連続ドラマとしては特殊なジャンルであって、絵空事の無内容さに貫かれているという言い方も出来るだろうが、同じ無内容でもこれが月九の題材として相応しいかどうかという問題はあるにはあるだろうし、この原作を実写ドラマ化すれば、どうしてもテレ朝お得意の鈴木由美子原作物に近いノリになってしまうだろう。

折しもテレ朝では、今現在まさに鈴木由美子原作の「アンナさんのおまめ」を放映しているわけだが、「のだめ」もジャンルとしては完全に同ジャンルである。同じ月九枠では「不機嫌なジーン」と肌合いが似ているようにも思うが、CXの枠の感覚で言えば、F1層決め打ちの月九というより、何でもアリの木曜劇場か精々ヤングアダルト層を視野に入れた火九辺りが順当ではないかとは思う。

ただまあ、そういう編成上の問題は局サイドが考えればいいことなので、要するに今季は月九らしいドラマが一回お休みというふうに考えればいいだろう。また、その月九らしさという概念も、「西遊記」のヒットやサプリの不振などを視るに、少なくとも制作サイドの中では揺らいではいるだろう。「HERO」以降、本当の意味で数字に強いドラマは同じ木村拓也主演作以外出ていない上に、そのキムタクドラマの数字も凋落傾向ということで、制作サイドも試行錯誤を繰り返しているのだろう。

正直なところ、この番組が数字を穫れるか何うかにはまったく保険がない。冒頭で陳べたように、サプリと「のだめ」に関しては放映のタイミングが逆だろうと思うし、その裏にどんな現実的な事情があるのかもまったくオレの識るところではない。こんな他愛のない「ぼくドラ」に、サプリの失敗を購うべき過剰な期待がかけられているのは気の毒だというのが正直なところである。

ただ、好きか嫌いかで言えば、オレはこのドラマは好きなのだろうと思う。何故こんなコントのような「くだらない」ドラマが好きなのかと言えば、それは多分オレが、月曜ドラマランドは好きではなかったが、ぼくたちのドラマシリーズは大好きだった人間だからだろう。

つまりオレは、ノリが安いドラマは決して嫌いではないが、つくりが安いドラマは大嫌いなのである。さらに言えば、この番組は安いノリの無内容なドラマとしては物凄く正しいつくりなのである。第二話までの時点で言えば、この方向性のドラマのつくり方としては何処も間違っていないと思う。

このドラマのような安いノリを娯楽として成立させるのは、練り込まれた的確な演出や撮り方なのだが、CXのドラマにそのようなボディが具わったのは、「世にも奇妙な物語」やそこから出た人材によるぼくたちのドラマシリーズ以降だと思う。

徹底してハイテンションなギャグやダイアログの莫迦莫迦しさで笑わせながら、語り口に「オレはわかってて莫迦やってんだぜ」的なニヒリズムの臭みがない。大上段に振りかぶったお説教の臭みもない。何らブンガク的な有り難みもドラマツルギーの迫力もないが、ノリノリで莫迦芝居をしている役者たちが愛らしく感じられ、観た後に後腐れなく愉しい後口が残る。

これもまた、立派なドラマの効用なのだとオレは思う。常々オレはTVドラマのバラエティショー化に対して批判的な物謂いを繰り返しているが、元々バラエティに近似のドラマ形式まで全否定しているわけではない。「のだめ」について謂うなら、マンガ原作のドラマ化というTV番組も当然あって好いだろうし、それはかなり若い感覚のTV番組であるのが当然だろう。さらにその原作がギャグマンガスレスレのコメディであるのなら、そのドラマ化作品がこのような息も吐かせぬ狂騒的なノリのものになるのも当然である。

コントの寄せ集めのようなバラエティドラマと一口に謂っても、語るべき物語とは無関係な逸脱としてギャグがあるのであれば、それはたしかに剰り好ましいことではないだろう。本筋への絡め方やドラマ全体のリアリティレベルに対する周到な計算に基づかなければ、「そんなに数字が欲しいのかよ」的な下品な見え方になってしまう。

じっくり腰を据えて語ったほうが面白いドラマ、稠密なプロットと作劇のロジックに基づいてクライマックスの感動を盛り上げるべきドラマ、そのようなものにまで忙しなくギャグを詰め込んで一分一秒すべて愉しく見せようとする必要はないだろうとは思う。

しかし、「のだめ」の場合はギャグやスラップスティックそのものを構成要素として徹底的に無内容で愉しい物語が進行していくのであるから、つくりとしては何処も間違っていないのである。

たとえばこの文脈で考えるなら、前季の「マイ★ボス マイ★ヒーロー」辺りの在り方と比べてみるのも一興だろう。あれもまた挿話構造の計算や緻密な描写で見せるようなドラマではなく、無内容と言えば無内容なコントの寄せ集めと言えるだろうが、大枠の設定に内在する青春物語・成長物語的な要素やシットコム的な要素が要求するエピソードの落とし所は、あの語り口では成立しない。

さらには、結果的にマンガのような誇張されたリアリティのドラマでありながら、登場人物の人物造形にマンガ的な骨太の割り切りがなく、場面毎に人物像の一貫性がなかったが、これはつまり一見して成長物語やシットコム、もっと言えばキャラクタードラマのように見えながら、そのどの要件も満足に成立しておらず、結果的に語り得たのはその場その場のギャグだけだったということである。

後半の展開を批判した「下北サンデーズ」も、要するに他愛ないスラップスティックの活劇を語る語り口で、下手に深刻めかした自殺騒動や侮蔑的な小劇団観、安い業界批判という要らん要素を語り始めたから物語が破綻したのである。そういう物語を語るつもりがあるのであれば、そういう語り口を選ぶことは出来なかったはずなのだ。

乱暴な言い方をすれば、コントの語り口で語れることというのは、無内容でハッピーな嘘事のキャラクタードラマでしかないのであり、その限りにおいてはコント的なドラマ形式というものにも存在意義はあるのである。たとえばモーツァルトの「フィガロの結婚」が徹底的に無内容なドタバタ艶笑コメディだからといって、それが劇的な意味において無価値だというのは違うだろう。

豊かな天稟に恵まれた天才の音楽だけが素晴らしくて、お話自体は刺身のツマにすぎないというのは違うと思う。モーツァルトの徹底して無根拠で絶対的に美しい音楽に相応しい物語としての容れ物が他愛ない艶笑コメディだったということであり、時系列を無視して喩えるなら、モーツァルトの音楽性で「神々の黄昏」の滑稽なくらい深刻めかしたグロテスクな劇的世界が語れるかと言えばそうではないだろう。人々がフィガロの結婚を愛するとき、そこで愛されているのはモーツァルトの美しい音楽ばかりではない。

人々はフィガロという下世話な知恵者の好漢を愛するのだし、お坊ちゃん気質の我儘と節度ない下半身の欲望で突っ走るアルマヴィーヴァ伯爵や、「セビリアの理髪師」で苦労の末に添い遂げたはずの伯爵夫人ロジーナ、しょうもない男連中のセクハラに悩まされるフィガロの恋人シュザンヌ、生意気でマセた小姓のケルヴィーノ、このような愛すべき人物たちが繰り広げる他愛ない笑劇の物語世界全体を愛するのであり、モーツァルトの音楽はこの物語性から切り離して考えられるものではない。

上演の許可を得るという現実的な理由があったとは言え、台本から原作に内在する風刺要素を削ぎ落としたことで、万人が肩の凝らないキャラクタードラマを美しい音楽の語り口で味わうことが出来、ほんのいっとき世間の憂さを忘れることが出来るのだ。

まあ、幾らクラシックを題材に採っているからと言って「のだめ」をフィガロの結婚と同列に語るのは乱暴だが(笑)、無内容なスラップスティック「だから」という理由でこのドラマを批判するのは的外れだろうと思う。内容面に対する言及にはそのような形式のドラマとして何うなのかという視点が必須だろうし、月九の題材としてこれは何うなのかというのはマーケティング視点の問題となる。

たとえば、下北やマイボスを真面目に語ることは可能だが、「おそるべしっ!音無可憐さん」を真面目に語ることがかなり難しいように、そのようなものとして完結しているスラップスティックをシリアスドラマの文脈で批判することは的外れである。それは一種職人芸の世界の話になるのだし、他愛なく笑わせる語りの芸の映像作品として成立しているか何うかというデリケートな話にもなるだろう。

その意味で、オレはこのドラマのような思い切って無内容なスラップスティックも大好きだし、そのアスペクトにおいてはよく出来たドラマだと思うし、出演俳優たちにも過不足はないので、このドラマは最後まで視聴するだろうが、その他愛なさ無内容さをくだらないと思えば観なくて一向差し支えない番組だとも思う。

今時の殺気立った世知辛い世相下においてこのドラマのような「くだらない」「中身のない」お話を楽しめる層がどのくらいのマッスになるのかはわからないが、出来ればそこそこ視聴率を稼いでこの路線にも端緒を拓いてくれれば嬉しいと思う。

余談だが、のだめが千秋に恋心を抱く第一話のクライマックスでフィガロの「恋とはどんなものかしら」のインストが流れたり、第二話でシュトレーゼマンがのだめにキスを迫る場面ではドン・ジョバンニの騎士長のアリアが朗々と流れ出すが、ここの歌い出しを砕けて訳するなら「約束通りご馳走を呼ばれに来たぞ」というもので、要するにオゲレツなネタである。

また、シュトレーゼマンのテーマが、ソフトバンクの予想GUYのCMで有名なプロコフィエフ作の「ロミオとジュリエット組曲第二番」の「モンターギューとキャピュレット」に設定されていて千秋との対決姿勢や和解(かな、一応)を暗示していたり、流石にクラシックを一般に浸透させた功績を顕彰される原作のドラマ化だけに、この種の音楽ネタもベタで面白い。

これはお祖母ちゃんの豆知識レベルの話だが、千秋がシュトレーゼマンの手腕を評価するくだりでマーラーの交響曲第八番を持ってきているのもベタでわかりやすい。この楽曲は俗に「千人の交響曲」と称されていて、管弦楽と合唱隊、独唱者を合わせると演奏者の合計が最低でも八百人超、初演においては文字どおり一〇〇〇人超に上る大曲であるところからそのように呼ばれている。

当然一〇〇〇人の演奏者が板に乗れるような巨大なコンサートホールもそうそうないので演奏機会がかなり限られており、オレの学生時代には各パートをバラバラに録音してミックスダウンした音盤でしか聴く機会のない曲だったようで、その音盤もそれほど数はなかったと記憶している。

八〇年代から九〇年代にかけてのマーラーブームや録音技術の長足の進歩によって、今ではCDでいろいろな演奏者のバージョンが入手可能なのだが、オレの学生時代には小澤、ショルティ、クーベリック程度しか国内盤が入手出来なかった記憶がある。三枚とも聴いてみたのだが、どうもクーベリック版は録音が剰り良くなかったので、専らショルティ版を聴いていた。

演奏者やオケは失念したが、FMラジオで一度だけ一発録りの生演奏を聴いたことがある。当たり前のことではあるがこんな巨大な編成の楽曲の生演奏の録音をFMラジオで聴いたのであるから、音の分離が悪くて何だかよくわからない演奏であった。そういう意味では、実際の演奏も困難だがそれを音盤で効果的に再現するための高度な録音技術も必要な楽曲である。

膨大な編成故にマーラーの楽曲としてはある程度単純化されているとも言われるが、まあ普通に考えれば、一〇〇〇人の演奏者によって演奏されるような大曲の指揮は力業だろうし、初演は作曲者自身がタクトを振ったのだが、完全主義者で鳴るマーラーのことだから「のだめ」の千秋同様リハーサルは執拗かつ峻烈を窮め、オケとの深刻な対立を抱えたそうである。

豆知識が長引いたが、要するに物凄く大人数で演奏する物凄く大仰な曲で物凄く指揮が難しいという俗っぽい合図として受け取っておけば好いだろう。

さらに余談であるが、最前「合唱隊、独唱者」と言ったように、この楽曲は交響曲と銘打ってはいるが、マーラーの交響曲の多くがそうであるようにアリアや合唱を伴っている。ド頭から数百名に上る歌唱者がユニゾンで「来たれ、創造の精霊よ」と力強く歌い出すのだが、その原歌詞を無理矢理にカタカナで表記するなら「フェニ、フェニ、クレアトールスピリトゥス」というのが近い。

これは学生時代の昔話だが、学生の身にはけっこうな出費となったこの楽曲のアナログレコードの入手が嬉しかったものだから、当時オレが棲んでいた小汚い下宿の六畳間に遊びに来た友人のためにレコードに針を落とし無理矢理聴かせたことがあった。

当然安普請の六畳間で宇宙に奏鳴するような轟音を奏でるわけにはいかない。精々音量を絞り、かなりしょっぱいレベルで聴かせたのだが、この執拗に繰り返される「来たれ=フェニ」というフレーズを聴いて妙に納得して「なるほど」と不自然なくらい頷いているので、何心なく理由を訊ねたところ、このような愉快な答が返ってきた。

「流石『千人の交響曲』だけに、センニンセンニンって言ってるな

……どうやらその友人には、最前引いた冒頭の歌詞が、

千人千人とくらぁあとピリッとする

と聞こえたそうである。まあかなり音量を絞って聴かせたし、クラシックの歌詞なんて原語で歌うと決まったモンでもないから、「千人」まではギリギリ勘弁しないでもないが、「あとピリッとする」って何だよ「あとピリッとする」って。一〇〇〇人懸かりの大曲もあんたにかかったら大根下ろし扱いですか。

———断っておくが、これは決してツクリではない。実話である

どっと(ry

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