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2006年10月31日 (火曜日)

Unnecessity

前回「鉄板少女アカネ!!」をあれだけ滅多斬りに腐した手前があるので、今回はその話の続きである。視聴中止か継続かは第三話を観て決めると言ったが、結論から言えば今回も内容的にはダメダメだと思ったが、妙な興味を感じて視聴それ自体は継続することに決めた。

前回詳述したように、第一話や第二話が何故ダメなのか、そして今週の第三話が何故ダメなのか、これはオレの中でははっきりしている。どうしてそのようにダメなドラマになったかという理由も、オレの中では疑いの余地もなくはっきりしている。しかし、その単純な一つの原因によってこれほど確実にダメになるということが、ある意味凄いと感じるのである。

このドラマのつくり手たちは、料理バトル物の何たるかが一切わかっていない。これは前回強調した通りである。そして、ただそれだけの教条的な原因の故に、毎回必ずダメなドラマになっている。これは一種凄いことではないだろうか。料理バトルドラマとは言え、本来料理バトルはドラマの方便にすぎないはずだし、ジャンル固有の要件がダメだからと言ってドラマ全体がダメになるなど俄には信じがたい。

だが、実際そうなのだから仕方がない。

非常に単純なことから考えてみよう。物語というものを極々単純化して言えば、課題があって解決があり、その間の経緯を語る意味構造である。課題と解決とその間の経緯が稀に整合していない場合があるが、殆どの場合それは笑いの感覚か不条理の感覚に結び附くものであり、そのような感覚を狙わない一般的な物語を教科書的に整理すれば、課題と解決とその間の経緯は必ず整合すべきものである。

では、アカネの今回のエピソードの課題と解決はどのように抽出し得るだろうか。

勿論、アカネ自身は父を捜し嵐山蒼龍との料理対決に勝つという大枠の物語的課題を抱えているわけだが、この場合問題になるのは、今回の個別の挿話を構成する本質的な課題と解決である。

普通に考えるなら、この場合に課題となるのは布施博演じる白井が経営するジャガイモ農園買収の危機ということになるだろうし、それを阻止することが解決となるだろう。一言で言えばそのような簡単なものだが、この場合は白井の意志に反して西豪寺エレナが強引な手段で売却を迫っているわけではない。白井自らの意志で、西豪寺グループが仕掛けた町興しに乗って、辛気くさくて実入りの少ないジャガイモ農園に見切りを附けて、カニの先物取引という投機事業へ転進しようとしているのである。

だからより具体的に言えば、白井が売却の意志を翻せばミニマルな意味での課題解決がもたらされる。その意味では、このエピソードが目指すべき課題と解決は、徹頭徹尾白井文平という劇中人物の心理に纏わる問題である。少なくとも西豪寺グループの仕掛ける町興しの是非それ自体は問題になっておらず、白井が象徴するような中央資本に踊らされる地方地場産業の零細事業者の問題は語られていない。

ドラマの視点が白井農園の一家に限定されている以上、要するにそれは地域経済の問題ではなく、零細農場を経営する貧乏人一家の家庭問題なのである。カニの先物取引というのは一発勝負の派手な生き方の象徴というだけで、それに対比して実入りの少ない農場経営が地道で堅実な生き方として意味附けられているというだけである。

ここで扱われているのは地域共同体の問題ではなく、極々ミニマルな血縁共同体内の絆の問題であるはずだ。亡き妻と共に額に汗して築き上げた農園に見切りを附け、家族の反対を押し切って農園を売却しようとする父には父の想いがあるのだし、家族には家族の想いがある。それを調停するのがこのエピソードの課題と解決のはずである。

その象徴として「ジャガイモ対カニ」という、一見して無理のある対決のテーマが掲げられているはずで、吹けば飛ぶような零細事業者である白井農園の象徴としてジャガイモがあり、西豪寺グループの仕掛ける町興しの象徴としてカニがある。そして同時に、白井がこれまで家族と共に歩んだ生き方の象徴としてジャガイモがあり、これから選ぼうとしている浮薄で拠り所のない生き方の象徴としてカニがあるはずなのである。

さらに、おそらくその背景には、大地に根差した農業の素晴らしさと、高級食材を巡るマネーゲームの愚劣さが対比されているのだろうし、中央資本が中央経済の論理で地方の産業構造を蹂躙する危機感も風味附けとしてあるだろうが、それは要するに、きちんと論じるなら地域共同体や地域経済の問題になるテーマではありながら、「大金持ちのビジネスに利用されることはあんまり堅実な生き方ではない」という、家族のレベルの問題に矮小化されているということである。

こうした対置構造をジャガイモとカニに収斂させ、料理の味というぐうの音も出ない嘘偽りない実感に落とし込むのが料理バトル物のセオリーである。だから、ジャガイモ対カニの料理対決という道具立て自体はそれほど間違ってはいないだろう。

しかし、その道具立てに基づいて白井の回心という課題と解決を語る経緯がダメダメの一言である。

ジャガイモ対カニという対置は、普通ならまずジャガイモに勝ち目はないだろうという前提の条件設定である。本来、ジャガイモの美味さとカニの美味さは質が違うのだからそもそも同じ俎上に上るほうがおかしいのであって、美味いジャガイモと美味いカニには価値的な優劣はない。原価が高くて主菜になるからカニのほうが高級だというだけなのである。

その見当違いの取り合わせの二者を同じ俎上に載せて対決しようというのだから、これが料理の局面における課題となるはずである。そして、ジャガイモとカニに人間側のドラマが象徴され仮託されているのだから、料理バトルの勝敗がそこに込められたドラマの成否を決する要素となるはずである。

しかし、この無茶なバトルは最初の最初から揺らぎを抱えている。カニを使わずジャガイモのみで勝負に勝とうとするアカネに対し、心太は確実な勝利の重要性を訴えてカニを使えと主張する。この場面で「カニを使って勝っても意味はない」というアカネの主張は、物語構造の本質を剔抉していて絶対的に正しいだろう。

カニを使って勝っても得られるのは賞金の五〇〇万円だけであり、それは白井農園の借金と同額だというだけで、借金を返せたからと言って白井が農園を続けていく保証などは何処にもない。そもそも、農園の経営が健全だったなら不本意な借金などする必要はなかったのだし、設備投資のための借金だったならそれは普通一般の事業主にとっては当たり前のことで特別に気に病むには当たらない。

だが、白井が「家族で喰っていくだけで手一杯」と表現している以上、白井農園の経営は利益性の薄いものだということだし、その借金は発展的なものというより経営不振による不本意な負債だということである。今その場で借金が返せたからといって、この先も農園を続けるならば新たな借金が出来るというだけのことである。

泥酔した白井が「先々のことを考えて」農園を手放すと言っているのは、要するにそういうことだろう。それを「頑張れば」何とかなると言うのはたしかに無責任な精神論にすぎないわけだが、それは具体的な理屈を超えて一面の真理でもあるのである。というか、普通にやってダメなことを何とかするには、兎に角頑張るしかないのである。

その結果何ともならなくて一家心中ということも普通にあり得るわけだが(笑)、普通の健全な娯楽作品においては、頑張らなくても何うにもならないのならせめて頑張ったほうがまだマシということを顕彰するのが筋である。

そして、このエピソードにおいて地に足を着けて頑張ることの尊さを高らかに謳うのがカニに対するジャガイモの勝利という筋道のはずだろう。しかし、何故かこのエピソードでは中途半端にリアルに「ジャガイモの美味さは到底カニに及ばない」というダメを捺し、アカネがカニを使うか使わないかという選択肢の揺らぎを設けている。

剰え、味にシビアな心太がそう言うだけなら兎も角、白井農園の子どもたちまでが、西豪寺に振る舞われたカニの美味さに感動して小遣いを出し合ってカニを調達するという挙に出ており、要するに貧乏でイモばっかり喰ってたから他に美味い物があることを識らなかったという描き方になっているが、これは普通にダメだろう(笑)。

こういう境涯の子どもたちなら、一般的な観点において幾らカニが美味くても、亡き母親の想い出と共にあるこの農場で家族が作ったジャガイモは世界一美味いくらいの意地と誇りがあって然るべきだが、子どもたちは普通にカニを喰って普通にカニのほうが美味いと感じたわけだから、この子どもたちにとって自分たちの農園を守るという目的がどのような意味と名分を持っているのかさっぱりわからない。

何故なら、料理バトル物においては、すべての肯定的な意味性は「美味い」という実感に収斂するからである。その意味で、子どもたちが農園の売却に反対しているのであれば、母親の想い出や家族の絆が活きている農園の存在に意味を感じているのであれば、そこで作られたジャガイモは、少なくともこの子たちにとっては世界一美味いはずなのであり、亡き母と家族が額に汗して切り盛りしてきた農園で作られたジャガイモが世界一美味いと信じるからこそ、この農園にはこの子たちにとって他に代え難い絶対的な価値があるはずである。

それなのに、ここでこの子どもたちが「ジャガイモよりカニが美味い」「勝負に勝つためにはカニを使うしかない」と考えてしまうのでは、単にこの子どもたちが愚かしい感傷の故に農園売却に反対しているように見えてしまう。大して美味いものを作っているわけではないが、自分たちにとって個人的に意味があるから守りたいというつまらない意味になってしまう。

普通なら、客観的なアドバイザーである心太やアカネ自身が弱気になってカニの使用に踏み切ろうとしても、農園の子どもたちが「世界一美味いジャガイモ」の優位を疑わない、その故にアカネが絶対的に不利な勝負に挑む決意を固めるというのが筋である。そこを変なリアリズムで子どもたちが率先してカニを使えと言い出すのだから、それはすでに料理バトル物でも何でもなく、単に可哀相な子どもたちが手段を問わずに自分たちの都合を通すつまらないお話になってしまう。

これにより、カニ抜きの勝利に拘るアカネに対して、大勢はカニは美味いに決まってるんだからカニを使えという方向性に流れるわけである。つまり、アカネ以外の誰一人としてカニに対するジャガイモの勝利など信じていないという状況に流れるわけである。

さらには、そのアカネすらも心太の強硬なアドバイスや農園の子どもたちの志を酌んで折れてカニ抜きの勝負を諦めるに至っては、ジャガイモ対カニという勝負を設定した意味がまるでなくなる。所詮は高級食材の美味さには敵わないということで主人公サイドの衆議は一決するわけである。

だとすれば、最前触れた通り、カニの先物取引のほうが実入りがいいという現実的なメリットに対して零細農場経営の堅実性と家族の絆の優位を説く完全勝利の筋道はなくなるわけであり、料理バトルの賞金の五〇〇万円をゲトして借金返済に充てるという非常にミニマルなものになる。

当然、借金返済というミニマルな解決はエピソードの本質的な課題に対する解決には成り得ない。だから、ここでルーティン通りに黒金がカニを喰ってしまうのは、ベタではあるが「そうこなくちゃ嘘だろう」と思う。勝利は勿論大事だが、カニを使って勝つのではまったく意味がない。それはアカネが最初に言った通りである。だから、使う方向でレシピを考えたが、アクシデントの故に使うことが出来なくなるというのなら、リアリズムに対する手当としてまだしも話はわかる。

だが、このような段取りを組んで勝負が設定されているのであれば、その勝負には絶対に勝たねばならないのである。極端に言えば、ジャガイモ料理でカニ料理に勝つ食のロジックなどは物語の嘘でも一向に差し支えはないのである。負けて負け惜しみを言うだけなら、勝負をする必要などハナからないのである。

クライマックスの勝負に敗れた後、西豪寺エレナの嘲弄に反駁するアカネの演説は、本来料理の美味によって裏打ちされなければ口先だけのお説教にすぎない。こんな抹香臭い説教を口先だけで語るのは誰にだって出来る。料理人ならそれを料理の味で語るのが本来なのであって、その意味では味勝負に敗れた料理人に偉そうな演説をぶつ権利など微塵もないのである。

アカネの演説の趣旨は、料理バトルで勝ってこそ説得力を持つ類のことであり、料理の味は美味いか不味いか、それしかない。どんな尤もらしい理屈を附けても、作った料理が不味ければ説得力の欠片もない。どんな傲慢な暴論であろうとも、作った料理が美味ければ反駁は許されない、それが料理の世界の絶対的ロジックである。

普通一般の人間にとっては、ジャガイモよりカニのほうが美味いと感じられる。だからカニのほうがジャガイモより偉いという「誤解」が罷り通りがちではあるが、それは本質的には誤りである。しかし、料理を主題に扱った物語においては、その主張は強烈な美味によって裏附けられなければならないのである。

常識で考えればジャガイモだけを使ってカニに勝てるはずはないが、その絶対的に不利な勝負で勝つからこそ、ジャガイモにもカニに劣らない価値があるという主張が説得力を持つのである。

普通に誰もが予想する通りに負けておいて、普通なら誰でも思うようなことに難癖を附けるというのは、少なくとも料理人としてはプライドのない負け惜しみにすぎず、西豪寺エレナの言葉のほうが正しい。だったら初めから料理なんかに手を出さずに口先だけで主張すればいい。要するに、やっぱり料理バトルの意味がまったくないのである。

西豪寺エレナの挑発に応じてジャガイモ対カニのバトルの挑戦状を叩き附けて以降の筋立てが丸ごと無意味になるのである。

冒頭で切った啖呵の通りにジャガイモだけを使って勝負して、その料理バトルに負けておきながら「あたしのことは何と言われても構わない、だがなぁ」みたいな小理屈をどの口が言うのかと呆れてしまった。

たとえば、ここでアカネが西園寺エレナに侮辱されても、悔しさを堪えて黙り通していたならば、まだしもドラマとして成立したことだろう。何故なら、黒金にカニを喰われてしまったことでアカネが咄嗟に選んだ打開策は、料理のロジックにおいて絶対的に美味いレシピではなく、白井文平という個人の味覚に訴える料理だったからである。

コスモスをあしらったイモモチのフォンデュという料理は、亡き妻が家族のために拵えていたイモモチをメインに、彼女の想い出を喚起するコスモス、そして白井農園の家族の一員である白井イモ子(牛)のミルクから作られたチーズを使うことで、白井文平という個人の味覚や記憶に強烈に訴える料理だからである。

料理バトルに勝つことが思束ないなら、せめて白井文平という特定個人に向けた味覚のメッセージとして料理を作る、それならダメはダメなりにまだしも意味はわかる。

しかし、実際に料理バトルには敗れているのだから、ご大層な演説を口にする権利はアカネにはないのである。その種の主張は、勝負に勝ってこそ、美味という実感の裏附けがあってこそ、口にして好い類の論旨なのである。その勝負を諦めて個人の説得に目的を特化したのであれば、少なくとも勝負の場でどんな非道い侮辱を受けたとしても反駁してはいけない。

だから、主人公が勝負に負けることそれ自体は問題ではない。だが、負けてはならない筋道の勝負に負けることは問題なのであり、剰え負けた人間が言ってはならないことを偉そうに口にすることで、負ける勝負を語るセオリーを踏み外していることが問題なのであり、その主張の説得力がいやが上にも貶められているのである。

このような成り行きで描き得る落とし所とは、勝負の後に会場外でアカネに対して白井が農園売却の意志を翻し、家族と共に再起を誓うというミニマルな筋書きであり、勝負の場面で大向こうを前にした見苦しい負け惜しみの演説を描くことではない。最低限、白井の演説をクライマックスに設定するなら、アカネ自身は一言も言い訳を口にしてはいけなかったはずである。

この辺の機微を整理して言うなら、そもそも最初は農園を手放すか否かという問題に対してジャガイモ対カニという比喩をツールとして設定しておきながら、途中のすったもんだで「そんなコト出来るわけないじゃん」という身も蓋もない結論を提示し、勝負の場面ではジャガイモ対カニが何うのこうのという話はすっ飛ばして、白井文平個人の味覚に訴え直接課題解決に益するような料理にシフトしたということである。

これはつまり、たとえば「美味しんぼ」で言えば山岡が現実的な人間関係のトラブルを解決するメタファーとして料理を使うタイプのエピソードを、究極対至高の料理バトルの道具立てで描いているということで完全に「てにをは」が間違っている。ジャガイモ対カニという勝負のテーマが丸ごと要らなくなってしまっているのである。

こういう話が描きたいのであれば、最初から料理バトルという条件附けを外して白井農園売却に纏わる家庭劇を描き、白井を説得するためにアカネが亡妻の想い出を喚起する料理を振る舞うという形式にしたほうが話がスッキリ整合する。第二話の場合と同様、無理矢理無意味な料理バトルをセッティングしたために、ドラマ全体の意味構造が破綻しているのである。

第二話の場合も、問題の本質は大衆割烹の危機ではなく、女将と反抗期の息子の対立なのだから、最初から口実を設けて息子に女将の潮汁を活かした料理を喰わせるだけのシンプルな筋書きにしたほうがスッキリした話になっていたはずだ。

相変わらず原作を全然チェックしていないのでこれは単なる推測だが、そもそもこれらのエピソードが本来アカネが自分の鉄板料理で人間関係のトラブルを解決する類型のエピソードに、無理矢理料理バトルの要素をねじ込んだためにエピソードの構造が破綻したのだとすれば、非常に納得が行くところである。

まあ、それより何よりもダメなのは、この場面で白井をはじめとする誰一人として唯の一言もアカネの料理を「美味い」と言っていないことである。白井はアカネの作った料理が美味いから亡妻のことを想い出したのではなく、アカネのレシピが道具立てとして亡妻を想い出させたから心を変えたのである。

ここが決定的にダメだ。

料理の説得力は、「美味さ」という五官のポジティブイメージで表現されねばならないのであり、道具立てとしてコスモスだのイモモチだのがあるだけなら、口先で「奥さんのことを想い出して農園を売らないで」と言うのと同じことである。イモモチの懐かしい味わい、イモ子のチーズの豊かな味わい、仄かなコスモスの香り、そのような五官の表現が伴ってこそ、その感覚によって白井が回心する説得力が生起するのである。

たしかにここで登場人物たちがアカネの料理を「美味い」と言うか言わないかというのは小さな要素にすぎないだろう。美味そうに喰っていれば美味いということなんだよ、そのくらいわかれよとでも思ってつくっているのかもしれない。

しかし、前回語った料理の味覚の表現に纏わる問題を措いても、この料理が美味いのか美味くないのか、どんな味がするのかというのは、この場合非常に重要な要素であるはずである。そこにある程度描写の比重を置いてドラマを語るべきなのである。そうでなければ、料理を主題としたドラマであるべき絶対的な意味がない。

そこに一切触れずにイモモチを喰って初心を想い出したとか、そういう事象面に纏わる問題だけを語り、料理の味についてのディテールが一切伝わってこないのは、料理それ自体に対して何ら関心のない語り口であるということである。美味いのか不味いのかという最低限の感想も表現されない料理ドラマなど、この世にあり得るだろうか。

そういうわけで、前回語ったようなこの番組のダメさ加減は一話限りの「フロック」ではなくガチの欠陥だったようである。しかし、料理バトル物のセオリーを一切理解していないという非常に尤もな欠陥があるとしても、つくり手に何らかの意味でドラマ観というものがあれば、そのドラマ観と素材が適合していないということであり、何らかの別の方向性に基づく見どころというのは生起してもよさそうなものだ。

この番組のように、原理的欠陥の故に馬鹿正直に悉く失敗している事例というのは、ある意味では非常に珍しいと言えるのかもしれない。もしかして、今後この番組を見守り続けていて、一本たりともこの原理的欠陥を超えて見どころが生起しなかったとすればそれはそれで面白い見世物だと言えるかもしれない。

そういう意味で、今後はわざわざレビューを書くようなマネはしないと思うが、一応継続視聴を続けようと決めた次第である。

ところで第三話まで観た範囲では、誰が何う視ても黒金銀造の正体が神楽鉄馬当人でないと意味が通じない描写が頻出していて、結果的にいつも勝負を妨害しているのはアカネを鍛える目的があるのではと推測されるわけだが、ほんの一年前まで父親と生活していたアカネが一向にそのように考えていない以上、「整形して顔を変えた」とか極端なオチでもない限り整合しないわけで、一体何うするつもりなのだろうか。

まあ、何を何うしても失敗していることには変わりないのだから、何ういう無理矢理なオチでも幾らも出来が悪くなるわけではないが(笑)。

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