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2006年11月20日 (月曜日)

A tree

キャスト面ではさしたる魅力を感じないのだが、毎回高い水準のドラマをつくり続けているのが関テレ火一〇枠の「僕シリーズ」である。今季の「僕の歩く道」も、自閉症という難しい題材を扱いながら、さしたる不快感もなく誠実なドラマを展開している。

今回はその僕の歩く道、暫定的略称「僕歩」を語るわけだが、当ブログの芸風でこのドラマを語ることは気の重い酬われない重労働である。それ故に今まで先延ばしにしてきたわけであるが、いつまでも避けて廻るわけにもいかないだろうから、この辺りで正面から腰を据えて語らせていただこうと思う。

予めお断りしておくが、今回のエントリーは通常のレビューのようにドラマの作劇面を中心として論じたものではない。寧ろ中心軸はドラマと障害者差別という社会的問題性に置いているので、個別のドラマ面のみに関心のある方には若干退屈なテクストとなっていると思うが、ドラマの訴えるテーマに密接に関係した問題なので、我慢して是非ともご一読を願う次第である。

尚、このエントリーに関しては例外的にコメント欄を解放するので、ご意見やご異論があるようなら遠慮なく書き込んでいただきたい。必ずお返事を差し上げるとは約束出来ないが、以て今後の糧としたい。

さて、正直言ってオレは役者としての草なぎ剛は剰り好きではないし、どうやら同じように感じる方も多いようで、好き嫌いがはっきり分かれるタイプの役者であると言えるだろう。前々から言っていることだが、オレは主演クラスの男性俳優が少年体型なのは剰り好ましいことだとは思わないので、その柄から言えば演技を磨いて上手いバイプレイヤーを目指すのが相応ではないかと思う。

また、顔立ちが少々風変わりで個性が強すぎるため、何でも演じられるというタイプの役者にはなれないだろうと思う。これが同じSMAPの木村拓也や稲垣吾郎なら、顔立ちが少々変わっていても「二枚目」という俗化したカテゴライズが可能だから、それぞれのスターシステムでドラマを仕組むことも可能だろう。

しかし、草なぎの場合「変わった顔立ち」としか言い様がない上に、すでに年齢的に顔が出来上がっているので、「タレント草なぎ剛」という強固なイメージがある。その一方では「スター」というほどの華もないので、演技力云々とは無関係に何を演じても素の草なぎ本人にしか見えないという難がある。まったく方向性は違うが、加藤晴彦と似たような意味で役者としては使いにくい柄だと思うのである。

しかし、そうは言っても芝居はそこそこ上手いので、このシリーズではきちんとコンセプトを練り込んで、扱いづらい草なぎが演じても不自然ではない人物造形を心懸けているように思う。この場合に難しいのは、スターとしての弾けた華がない草なぎの柄で言えば、キムタクや吾郎、さらには香取慎吾のように正統的な「ヒーロー」は演じられないということである(中居正広に触れていないが、まあ彼はそれほどドラマで成功していないので(笑))。

そうかと言って、これほど変わった顔立ちで、しかも柄が小さいのだからリアルな市井人のドラマでも一歩間違えば浮いてしまう。実際、僕シリーズ第一作となった「僕の生きる道」でも、ちょっと中村秀雄役の髪型や衣裳センスが小洒落すぎて如何にも芸能人臭く、市井の高校教師役としては何うなんだろうと思ったのだが、よく考えてみれば今時の教師というのは普通の会社員よりもよっぽど好き勝手な服装が許されているのだから、これは逆に年齢や役柄相応のアクチュアリティなのかもしれないと思い直した。

まあ、彼の主演ドラマに関しては、一旦「タレント草なぎ剛」のイメージを頭から洗い流すという歩み寄りの姿勢がないとフェアな見方にならないだろうから、僕生きについてもその辺の違和感は剰り意識しないようにして観ることにした。

結論から言うと予想以上に面白いドラマで、最初のほうは出発点における中村秀雄の共感しづらい人物像の故にちょっと視聴モチベーション的に辛いものがあったが、この種のドラマとしては独自のリアリティを確立した良作であると言えるだろう。

就中白眉と言えるのは、粘り強いテンポで主人公中村秀雄の心境の変化や周囲の人々との関わり合いを描いていったその果てに、みどり先生との結婚と合唱コンクール出場へ向けたクラスの結束が描かれた段階で、その新婚生活と一致団結した練習という最も幸福な日々をわずか数分の映像でサラリと流して描いたくだりであった。

それまでの辛い苦闘のドラマが実時間の感覚でじっくり描かれていたのに対し、その苦闘で得られた幸福な時間が季節の移ろいを含めて駆け足で描かれる残酷さや、時間のパラメータが飛躍的に加速する眩暈感。この僅か数分の映像の愛おしさは格別の味わいがあった。

たしかに物語のロジックにおいて「そして二人は残された僅かな時間を幸福に暮らしました」などという何の起伏もない要素を時間をかけて描く必要はない。しかし、それまでの辛い日々をじりじりと見守り続けてきたからこそ、その酬いとして得られた幸福を視聴者もまた彼と一緒に味わいたいという気持ちがあって当然である。

しかし、ドラマの語りはこの幸福な時間を剰りにも滑らかに流して描き、劇中の実時間では最も長いスパンをアッサリ数分の映像で見せてしまう。その回の直前に新婚旅行の宿で深夜「死にたくない」と慟哭する中村秀雄の姿を描いているからこそ、この幸福な日々の儚さが視聴者の胸に強烈に迫ってくる。

可もなく不可もなく暮らしていた頃の彼が同じように思ったとしても、それは普通なら望まずとも与えられるはずの数十年分の人生が理不尽に奪い去られた苛立ちと憤りの故だろうし、何の準備もしていなかったのに突如として突き附けられた死に対する恐怖と当惑の故と言えるだろう。

だが、新婚旅行の宿で心から「死にたくない」と慟哭するのは、そのときの彼が幸福であり充実しているからである。更めて識った人生の愛おしさの故に、奪い去られる時間の真の価値を識った故に、避け得ない死の宿命が辛いのである。死を悔いなく受け容れるために懸命に生きてきたはずの彼が、その誠実な生き様の故に却って死が辛くなるというこの描写の残酷さは、しかしこの一度きりしか描かれない。

その幸福の直中で夢のように過ぎていく充実した日々を描くくだりにおいては、彼もみどり先生も生徒たちも、何らの屈託もなくただ幸福そうに描かれる。そこには何のドラマ的なイベントもなく、ただ幸福な日々のスケッチが駆け足で描かれるだけである。ドラマティックな何かがあるとすれば、それは「ただ幸福そうな時間」が「駆け足で」過ぎていくという描写の在り方そのものである。

たしかに幸福な日々は、夢のようにただ通り過ぎていくだけなのである。

そのようにして年老いるまで生きていけるなら、儚いとは言えそれは真に幸福な生の在り方と言えるだろうが、中村秀雄に許された時間は半年かそこらの短く限られた時間でしかないのであり、その事実を彼自身が、そして周りのすべての人々が熟知しているのである。その貴重な残された日々が、ただ夢のようにさりげなく通り過ぎていくということ、これは幸福ではあっても残酷なことなのである。それが残酷で辛いことであることが、幸福の直中の慟哭によって押さえられているのだ。

オレがこの作品で最もドラマ的迫力を感じたのは、この表面的にはさりげない一連の描写なのである。何も特別なことが起こらない幸福な日々はただ駆け足で通り過ぎるのみであるという人生の真実を、この作品のように残酷且つ爽やかに描いたドラマがそれまであっただろうか。清冽な季節の移ろいをこれほど痛々しく感じさせたドラマが存在しただろうか。

そのようなリアリティを描き得ただけでもこのドラマには存在価値があるのだし、この作品のヒットによって同傾向のドラマが制作されるのであれば、その成り行きを見守るだけの意味はあるだろう。

だが、僕生きに続くシリーズ第二弾となった僕カノについては、主人公小柳徹朗の人物像が前作の中村秀雄に輪をかけてギスギスした共感しづらいものであることや、事前に識らされたストーリーラインが映画「クレーマー・クレーマー」に酷似していたことなどから、やはり前作同様視聴モチベーション的に辛かったことは否めない。

前作からの経験値で言えば、この共感しづらい人物像から出発して劇中の小柳徹朗の人間回復が描かれるとはわかっているのだが、剰り好きではない役者がイケ好かない人物を演じているのだから、やはり取っ附きの悪さを感じてしまう。しかし、この第二弾のヒットによって、草なぎ剛の芝居の幅としては、僕生き以前の「ローテンションで善良な若者」という固定的なパブリックイメージが完全に払拭され、演技の抽斗を増やしたと言えるだろう。

また、おそらくこのドラマが枠組みとしてクレーマー・クレーマーを本歌取りしているのは、すでに現時点でそれが一種の物語ジャンルとして俗化しているという読みがあったのだろうとは思う。要するに、二番手なら後追いの亜流扱いだが三番手はジャンルのフォロワーとして格別の批判を蒙らないというのが作劇の現実である。

実際のところ、ドラマとしての完成度は前作のほうが高かったと思うのだが、前作の評判からの認知度や期待値、美山加恋人気という推進要素もあり、TVドラマとしてのバランスが好かったのか、シリーズ最高視聴率を稼いでいる。僕歩がこれからどれだけ追い上げても僕カノの水準には届くまい。

ただまあ、おそらくこのシリーズの絶対的な関心層のパイというのは、視聴率換算で言えば一七%前後ではないかと思うので、視聴率云々の論点はそこからどれだけ附加価値や時期的な勢いで乗せていくかの勝負でしかないだろう。

とりあえず、以上のような前置きから本題の僕の歩く道を語るわけだが、この作品も事前情報から受ける印象は、必ずしも良いものではなかった。主人公が知的障害者で脚本が橋部敦子と言えば、メインではないものの和久井映見主演でヒットした「ピュア」を想起するが、オレ個人の評価で言えばあの作品は好きではない。

おそらくあの当時のヒューマンドラマのリアリティの限界故だとは思うのだが、主人公の障害の扱い方に好感を抱けないからである。一〇年前のドラマなので、ざっと調べてみても龍居由佳里と橋部敦子のどちらが主導で書いたドラマなのかはっきりしなかったが、普通に考えれば「星の金貨」で障害者ドラマの経験がある龍居由佳里のほうが、扱いの上ではメインと視られるだろう。

そう考えたほうがわかりやすいというのは、要するにこのドラマにおける障害の扱い方は、星の金貨同様物語の方便という以上のものではないからである。「ピュア」というタイトルからもわかる通り知的障害者「だから」純粋な人物であるというロジックの人物設定なのである。

さらにいえば、純粋「だから」芸術の才能があるという敷衍もあって、それはつまり社会的な通念で言えば、ネガティブな障害の意味性を「純粋」「芸術の才能」というポジティブな要素で修飾してイメージ上のギャップを狙ったものである。

作劇的な観点で言えば、それは別段間違った発想ではない。ネガティブ要素を価値的に逆転して意味附けることで主人公としての特殊性を付与することというのは、オーセンティックな作劇術の常套的手法である。ネガティブ要素とポジティブ要素の間のギャップが深ければ深いほど主人公としての特殊性が際立つ。というか、ぶっちゃけて言えば障害者を主人公に据えるなら、何らかのポジティブ要素がなければ娯楽物語が成立しないのである。

たとえば勝新太郎の座頭市の主人公としての特殊性は、卑屈な盲目の按摩が博打の天才であり一朝事あらば無双の居合いの達人としてニヒルな剣客(寧ろ殺人鬼に近い)の相貌を見せることである。また、隻眼隻腕の丹下左膳や「どろろ」の百鬼丸なども単なる明朗快活な剣豪というのではなく、日常生活にも不便を覚えるようなハンディを持ちながら無敵の戦闘力を具える辺りのギャップがキャラとしての魅力を生み出している。

ピュアというドラマにおける障害の扱い方は、要するにこの種の物語の連続上にあるのであり、たとえば座頭市が「めくら」「按摩」と蔑まれ丹下左膳や百鬼丸が「化け物」と嘲られることの延長上に、主人公折原優香の知的障害は位置附けられている。繰り返して言えば、これは作劇的には別段間違っていない。

しかし、この両者の間では扱っているドラマ性が根本的に違うのであり、その相違の故にオレ個人の倫理観においてピュアは不快な印象を与えるのである。

たとえば、座頭市が盲目となった事情については失念したが、何れ疱瘡や残酷な仕置きなどの理由だろう。それについては不運な成り行きで障害を抱えたということで、折原優香が先天的に知的障害を抱えていることと「不運さ」という観点では同じである。

しかし、座頭市の物語は盲目というハンディキャップに対する世間の差別と戦う物語ではない。劇中事実のレベルで言うなら、無双の剣技を持つ主人公が偶々全盲というハンディを持っていただけのことであり、劇中でハンディキャッパーに対する差別が描かれるとしても、それはそういう粗雑な社会性の時代だったからであるに過ぎない。

そして、劇中事実のレベルにおいて偶々主人公がハンディキャッパーである物語は、別段その構造において差別的である必然性はない。これは丹下左膳においても百鬼丸においても然りである。

たとえ盲目や隻眼隻腕の剣客というアイディアが世間の見世物的な興味を惹くだろうという差別的打算に基づいた作劇であろうとも、人は須く何らかの原因で視力や四肢を喪う可能性はあるのだし、それでも生きていかねばならないのだから、一種それらの障害を主人公の欠落として設定することには普遍性がある。

しかし、ピュアのような現代劇において、生得的な障害に対する差別故の迫害・蔑視というドラマ性を扱う場合には、同じロジックは通用しないのである。知的障害者の生というモチーフは窮めて当事者性の強いものであり、知的障害を抱えて生い育った人物個別の生の在り方なのであって、そうでない人間にとっては絶対的に「他人事」でしかないからである。

これを作劇のロジックで扱うことが、作劇の観点において間違っていないことは理論上当然であるが、倫理の観点においては多分に問題を孕んでいるとオレは思う。

たとえば盲目の剣客、隻眼隻腕の剣豪というのであれば、自身の生においても今後そのような事態に陥らないとは誰にも断言出来ないのだから、ハンディキャッパーとそうでない者の間の断絶は絶対的なものではない。そこに共感の断絶があるとすれば、それはつくり手の語り口の問題であるか、受け手の想像力の問題である。

実際、病気や事故で失明したり四肢を切断したりする可能性は、将来的にかなり高い確率で誰にでも起こり得る事態である。その上でどう生きるのかというテーマは、別段差別的な問題性でも何でもないし、そうである以上活劇のダシとして扱っても或る程度普遍性があると言えるだろう。

しかし、先天的な知的障害という場合、そうでない者が今後何らかの理由で知力に障害を抱えるとしても決して同じ条件にはならないのである。たとえばアルツハイマーなどによって知力が障害される場合には、知的障害とは無縁の「普通の社会人」としての人格が自他に対して確立された後にそれが喪われる悲劇としてしか意識されないだろう。

だが一方、先天的な知的障害の場合には、そのデフォルトの人格そのものが「普通の社会人」よりも「劣った」ものとして見なされ有形無形の差別を蒙るのであり、そのような生の在り方はそうでない者に対して普遍化は不可能なのである。

その意味で、ピュアの折原優香が受ける差別は普遍化不能な「他人事」に対する社会の悪意であり、このようなものとして概ね人々が満足して受け容れている社会的パラダイムの原理的欠陥なのである。現時点では、折原優香のような特異例を捨象することで多くの人々の満足が購われている公平性の規範の不完全性の問題なのである。

それをハンディキャッパーの主人公が活躍する類型の物語のロジックで扱うことは、社会倫理の観点で根本的に間違っているとオレは思う。

たとえば、知的障害を抱える主人公を純粋で芸術的才能があるというポジティブ要素を附加することで物語的に救済するのなら、現実において純粋でもないし芸術的才能もない知的障害者はやはり健常者に比べて「劣った」存在なのか、差別されるのが当然なのか、救済されないのが当然なのか。その方法論には、そのような問題性が絶対的に潜在しているのである。

これが健常者であれば、どんなに不遇で不公正な状況を設定しようが、ある種自己責任という側面は出てくるだろう。現代社会とは、さまざまな不備は抱えつつも一定程度の公平さを具えた社会なのであり、客観的な尺度において不公正な事態は何れ是正される可能性を秘めているのだし、それに対して大多数の社会人は当然だと認識している。

今現在社会からどのように不遇な扱いを受けていようとも、自助努力でそれを覆すことは原理的に可能であり、それ故に一般的なドラマにおいてその人物がそのようにあることは、本質的に自己責任の範疇の問題であると言えるだろう。

人の可能性というのは客観的に規定することが不可能だからであり、自身の可能性に見切りを附けることは徹頭徹尾個人の生き方の問題であって、原理的には能不能の問題ではないからである。

たとえばミュージシャンを志す者が、いつまで経っても芽が出ず他人に認められないとしたら、それを「才能がない」と表現することも可能だろうが、ひょんなきっかけで飛躍的に上達したり世間的にブレイクする可能性は原理的に排除出来ない。それが人の可能性の微妙なところであって、そんな人間が敗残の人生の果てに六〇過ぎてから飛躍したり世に認められても人生として旨味がないし、一生死ぬまで芽が出なかったらシャレにならないから、大概の人間はその種の可能性について二十代の裡に判断を下すというだけの話である。

人の世の公平さというのは基本的にそのような在り方でしかないのであり、どんな人物にもミュージシャンとして大成する潜在的な可能性があることは誰にも否定出来ないのだが、ミュージシャンとして充実した生を生きたいのであれば、精々二十代の裡に可能性が開花しなければQOL的な意味がないというだけである。

「人の無限の可能性」と謂う場合、それは普通一般の人間にとっては出来ることと出来ないことがそれほど明確に規定されているわけではないという意味でしかない。そのような「無限の可能性」を前提に成り立っている社会である以上、その社会における公平性もまた無規定の可能性を前提にして成立する概念ではあるだろう。

しかし、能不能のパラメータで言えば、障害者には客観的な基準において「出来ないこと」が明確に決まっていて、この意味で従来の社会の公平性の概念規範においては公平に扱うことが不可能な対象なのである。

たとえば一〇歳前後の知的能力しかない成人を、普通一般の成人と同等の基準で扱うことは公平ではあり得ない。普通一般の基準においては、成人レベルの知的能力がない者は「能力的に劣った」人間と規定されるのであり、それは知的能力の研鑽を怠ったことのツケとして判断される。しかし、知的障害者の場合、それは本人の自助努力で何うにかなる問題ではないのであり、それ故にそれは自己責任の問題ではあり得ない。

つまり、障害者というのは自助努力では何うにもならない能不能を客観的に規定され責任能力に制限を付与された者なのである。今現在の社会が普遍的な自己責任の概念において成立しているものである以上、要するに既存の社会の枠組みにおける公平性に障害者は織り込まれていないのである。

博く受け容れられている公平性の規範に障害者が織り込まれていない以上、社会は障害者一般を公平には扱っていないということになるのだし、社会から原理的な公平性を担保されている成員は、そうでない者を公平に扱うよう不断に努力すべき原理的な義務から逃れ得ないのである。

障害者の問題は決して他人事ではないと言われるのは、個人の心根の正しさや隣人愛の問題というだけではないのである。これを個人の倫理の問題としてのみ扱うことには原理的な限界があるのであり、個人の倫理が「個人の自由」という規範によって多様性を保証されている以上、いつまで経っても障害者は公平性を獲得できないのである。

だが、オレもあなたも原理的には社会や他者から公平に扱われているのだし、公平性が損なわれた場合に社会や他者を糾弾し回復を要求する権利がある。その一方で、決して公平には扱われていない人間も大勢存在するという事実、これは公平性の恩恵を享受している人間にとって決して他人事ではないのであり、その不公平を是正するために誠実に努力する義務からは何人たりとも逃れ得ないはずなのである。

その意味において、障害者の問題は個人の倫理の問題ではないし、障害者の公平性の問題は、個人の思想の自由によって多様性が保証されたり免責されている問題ではないのである。如何なる社会人にも、それを真摯に考えるべき社会的義務があるのである。

そのような人々とそうでない人々を隔てるのは、偶々そのように生まれなかったというだけの違いでしかないのであり、その偶然に基づく深甚な不公平性の問題は、現代社会の自己責任オリジンのパラダイムでは決して解決出来ないからである。

ここでドラマの話題に戻るなら、ピュアというドラマはこの種の公平性に纏わる問題性に対して「純粋さ」や「芸術の才能」という健常者ベースの普遍的なメリットを付与することで迂回しているのであるが、そこが限界であり問題なのである。

世の中には、その種の健常者ベースの普遍的なメリットを具えていない障害者のほうが圧倒的に多いのであり、障害はその種の普遍的なメリットとバーターで与えられているものではなく、単に文字通り障害であるに過ぎないのである。

障害者と差別という、物語の語り手という特権的な立場の人間にとっても決して他人事ではない普遍的な問題性を扱いながら、そこを迂回して語ることは現代人として誠実性に欠ける姿勢であるとオレは思う。現代社会における知的障害者の問題性を、昔ながらの「愚者の智」の物語類型で扱うことは、ナンセンスであり社会的に鈍感である。

世間知に毒されていない愚者こそが純粋な智を具えているという逆説は、単なる箴言の類でありサタイアであるにすぎない。なまじ半端な智慧が附いてもろくなことはないという雑駁な真理の喩え話でしかないのであり、先天的に智慧を獲得する可能性を与えられなかった人々に対する言及としてフェアな言い種ではない。それはリアルな知的障害の問題性を扱う場合に有効な枠組みではないのである。

一般的な知的障害者を純不純という健常者視点のパラメータで評価すること自体無意味なのであり、現実的に言うなら知的障害者「だから」純粋などということはないだろうし、純不純の規範で言えば「普通」というのが一般的なところだろう。

ピュアの折原優香が物語的に救済されたとしても、純粋さや芸術の才能、もっと言えばイノセントな美貌という健常者視点における特段のメリットを具えていない同様の障害者については完全に捨象しているのであり、偶々障害者を捨象した公平性の規範において「優れた」資質を持つ障害者が優遇的な扱いを受けたというだけの話でしかない。

つまり、このドラマは差別・被差別という問題性に対しては何ら批評的に言及していないのである。折原優香の主人公性は美貌や純粋さや芸術的才能によって付与されたものなのだし、それはつまり差別的評価パラメータそのものである。

先天的知的障害というのが自己責任において選択不可能な偶然であるのと同様に、美貌や純粋な心性や芸術的才能というのは自己責任とは無関係な偶然の賜物である。ならば劇中で語られた折原優香の物語は、差別的パラメータにおいてネガティブな要素とポジティブな要素が相殺し合う物語というだけの話であり、差別的パラメータが絶対的な評価原理として据えられているのである。

何度目かの繰り返しになるが、これは作劇の観点においては間違っていない。

しかし、この種の原理を採用した物語は、本質的に障害者やその周囲の人々に対して公平ではあり得ないのだし、その不公平性や差別性を意識した当事者を痍附ける。そしてオレ個人の倫理規範として、面白い物語には他の何にも替え難い価値があるとしても、不当に他者を痍附けてまで語られることの正当性はまったくないと思う。

たしかに物語というのは、一般的視点における普遍的なメリットを具えた人物を主人公に据えてその活躍を語るものであり、その意味で天与の資質が肯定的に評価される差別的なパラメータが原理として据えられている。そして、それが健常者であれば特段に衆に優れた美点がなくても、普通に公平に扱われ幸福を追求する権利を許されているのだから、物語の主人公になることに特権的な意味はない。

しかし、それが障害者の場合には、大前提として社会規範が公平性を担保していないという問題性があるのであり、その問題性に言及しながら特異例としての特権的主人公の物語を語ることはナンセンスである。それは、物語の主人公のような美点がなければ、障害者には普通一般の健常者に許されているレベルの幸福を追求することも叶わないという意味になるからであり、その現状を肯定することになるからである。

勿論、面白い物語が社会的な問題性に対して解法を提示すべき義務はないだろう。物語というのは、社会的な問題性をある種興味本位の「ネタ」として扱って普遍的な意味性を語るものであり、その意味でドラマに過剰な期待をかけるのは筋違いである。

しかし、そのようにして娯楽を追求する意味構造であるからこそ、ネタとして扱っている問題性に対しては誠意を尽くすべきであり、他者を痍附けるような性格のものであってはならないと考える。障害者差別を「ネタ」として扱いながら、「差別というものはあってもしょうがないよね」的な諦念に基づいて差別的価値規範を肯定して物語を語ることは、その意味で誠意に欠ける姿勢であると思えてならない。

それはつまり、障害を抱える当事者たちに対して、物語の語り手が差別に対する諦念を語ることに他ならないからである。差別はあってもしょうがないから諦めろと語ることに他ならないからである。これはつまり、差別を蒙っている当事者である障害者たちに対して、差別を受けない世の中を夢みる人々に対して、そんなことは実現しないのだから絶望しろ、差別を受け容れろと言っているのに均しい。

これはおそらく時代性における限界ということでもあるだろうから、過剰に批判することは妥当ではないだろうが、このドラマから一〇年を経た現時点において同様の作劇思想に基づいた物語性を展開するならば、怠慢と不誠実の誹りは免れないだろう。

その意味で、この二〇〇六年の現時点において僕歩のような題材を扱うことは大変シリアスな挑戦であり、それは一種の博打である。その一方で、この種のチャレンジはどれだけリスクがあろうとも行われるべき価値があるのだとも思うし、その観点ではピュアという作品にもまた一定の存在意義があるのである。

何故なら、この種の問題性への言及が大変困難でデリケートなものであり、厳しい批判の対象となり得るからと言って、障害者を採り上げたドラマなどリスキーだからつくらなければいいというのなら、それは単に差別の問題は難しいから無視するほうがいい、触らぬ神に祟りなし、という消極的で守旧的な姿勢でしかないからである。

自らの差別性に対して無自覚であれば、恰も障害者差別という問題性など存在しないかのように振る舞えば、倫理的な呵責からフリーであるという怯懦な姿勢に結び附くからである。面倒だから視て視ぬ振りをするというのと幾らも違わないのである。

たしかに現時点においてこのような困難な挑戦が可能な容れ物は、さまざまな問題性に対して粘り強く誠実なアプローチを繰り返してきた僕シリーズ以外にはないだろうし、そのようなキャパシティを持つ以上、この種の困難な問題性をテーマに掲げるべき潜在的な使命があるとすら言えるだろう。

翻って僕シリーズを通観するならば、この種の誠実なドラマ的アプローチをシナリオ化するという難しい作劇的実践が、橋部敦子という一個人によって分担されているという事実には驚きを禁じ得ない。

勿論このシリーズには、CXからは石原隆、関テレからは重松圭一、共同テレビからは岩田祐二という、ガチンコドラマに関しては最良の人材がプロデューサーとして名を連ねており、脚本家・橋部敦子個人の名前に過剰に着目するのは妥当ではないだろう。

これらの人々は、ドラマのPに名を連ねる以上は積極的に仕事をする人材だろうし、このシリーズのクォリティはこの全体的な人材ユニットによって保証されていると視るのが正しいだろうと思う。

それでも一般ドラマにおいてシナリオを書くという行為にはかなりのフリーハンドが許されているものだろうし、僕シリーズのクォリティはコンセプト面のみならずシナリオの肉体性によっても保証されているのである。

その一方で、この書き手が一〇年前に龍居由佳里と共同でピュアを書いたということも事実であり、ピュアのコンセプトを問題視するのはオレ個人の意識におけるものでしかない。橋部敦子本人がそれを問題視しているか何うかには何ら保証がないのであり、同様の作劇思想に基づいて不愉快なドラマが再度展開される可能性は、かなり高いと言えるだろう。

たとえば僕生きの「生と死」、僕カノの「絆」、これは普遍的且つ一般的な問題性であり、この種のドラマ性に対して誠実なアプローチが為されたからと言って、それは日常性における誠実さの範疇の問題である。しかし、障害者差別の問題は、健常者の日常性を成立させる既存の社会規範からこぼれ落ちた不公平性に対するアプローチの問題となるのであり、一種特異な問題性である。

前二作のドラマ的アプローチが誠実なものであったからと言って、この種の問題に対しても同様の誠実さが期待出来るとは限らないのである。

そしてそのようなオレの不安は、ドラマのテーマが「純粋」であると聞いていやが上にも高められた。剰りにも直球ド真ん中でピュアを想起させる煽り文句に、同様の作劇が繰り返されるという厭な予感は高まり、それを検証する意味でも継続視聴しなければならないという気の重い義務感の故に見始めたというのが正直なところである。

しかし、結論から言えばオレの懸念は杞憂に終わったと思う。オレ視点で言えば僕歩のコンセプトはピュアの反省が踏まえられたものに思えるし、劇中のサバン症候群の扱いなども丁寧である。

たとえば自閉症を扱った物語としてはダスティン・ホフマンの「レインマン」があるわけで、何処まで行ってもホフマンと縁の切れないシリーズだが(笑)、劇中におけるサバン症候群の扱いは一種の特殊能力というものであった。これはこれでその時代性におけるウェルメイドなヒューマンドラマとして評価可能だと思うが、自閉症に伴うサバン症候群に対してパブリックイメージとして誤解を植え附けた弊は免れないと思う。

それを先ほどの言い回しで言えば、障害とバーターで超人的な特殊能力が与えられているかのような誤解であり、それを主人公の主人公性の文脈において物語の方便として用いているわけである。それは一種、ピュアの場合と同様、グローバルマーケットでヒットするようなウェルメイドな娯楽ヒューマンドラマである以上、自然な作劇術である。

しかし、このドラマにおいてはサバン症候群は特殊能力でも何でもないということが諄いほどに押さえられている。たしかにその故に主人公の大竹輝明は解雇のピンチを乗り切るわけだが、寧ろ自身のキャパシティを超える事態に際してツール・ド・フランスの歴代優勝者をヒステリックに暗誦するという、言ってみれば不気味な奇矯性としてサバン症候群の描写が強調されている。

さらには、劇中人物の会話を通じて、それが単に極端に関心の幅が狭いために一見して超人的な能力に見えるだけであることがわかりやすく説明される。このような描き方をしている以上、ピュアのように知的障害というネガティブ要素と純粋さや特殊能力というポジティブ要素の相殺で主人公性を規定する意図はないことが確認される。

敢えて言えば、草なぎ剛が演じる大竹輝明の芝居は、一種日常的な感覚で言えば不気味な人物である。おそらくレインマンにおけるダスティン・ホフマンの演技なども参考にしているのだろうが、このドラマにおいて繰り返し強調して描かれているのは、一般的なコミュニケーションが断絶した大竹輝明という人物の得体のしれない不気味さの印象である。

これは言葉を取り繕っても仕方のないことであり、たとえば「人は見た目が九割」などと俗に謂うように、人間という存在は表情や仕種に顕れる共感可能性の視覚的サインによってしか他者を好意的には視られないのが当たり前であり、そこに障害がある以上、自閉症の大竹輝明という人物は他者にとって得体のしれない不気味で不安な人物にしか見えないのが当たり前である。

そして、このドラマにおいては、その障害故の一般的な感覚における不気味さや不快感は、一切の手心が加えられずに描かれている。普通一般の社会性の感覚において、失敗を責められた場合に、相手と向き合わず自分の中に逃避する態度は不愉快にしか映らないだろう。また、何か困ったことが起きたときにパニックを起こして思考停止し、習慣的な行動に逃避する態度は幼児的な無責任にしか見えないだろう。

このリアルな病態の異様さは、きれい事の「純粋さ」というイメージとはほど遠いものであり、たとえばピュアの折原優香が「ちょっと足りない可愛い女の子」という古典的な「あどけなさ」の文脈上の人物像から一歩も出ていないのに対して、はっきり「障害者」であることの不気味さを強調した描写となっている。

これは一種誠実な態度と言えるだろうが、ならば物語性の文脈における主人公性は奈辺において獲得されるのか、これが問題となる。前作までの二本のドラマ同様に、そのスタートラインにおいて草なぎ剛が演じる人物は、視聴者の共感を許さない人物像なのである。そして、前二作のドラマがそのような共感の杜絶した人物の自己回復の物語を語ることによって、段階的に視聴者の共感を獲得していく方法論に拠っていたのに対し、この物語における主人公の共感の杜絶は回復不能な障害によるものなのである。

結論から言うなら、この物語における大竹輝明の不気味さは、彼自身の変容や心理の変遷によっては回収されないのである。視聴者が感じる障害者への違和感や不気味さは、視聴者自身が障害を理解することによって認識を変容し、その在り方を受け容れることで初めて回収され得るのである。

この人物描写の方法論は刮目に値するだろう。その意味で、初期エピソードでうんざりするほど語られる説明セリフは作劇的に意味のある要素なのであり、一般的に馴染みのない自閉症という障害に対する基礎情報が集中的に視聴者に与えられることは、主人公の主人公性確立という作劇的な要請に対する誠実な手当てなのである。

さらに言えば、この初期エピソードにおいては大竹輝明に接する周囲の人々の当惑が別段批判的なニュアンスもなく当たり前のように語られるが、このニュートラルな描写もまた個人的に好ましく感じた。

たとえば、「知的障害者」と一口に言っても、今現在判明している限りでも夥しい症例があるのであり、テロップで語られている通り自閉症だけに限ってもさまざまな症例が存在する。それらを予めすべて勉強しておくのが健常者サイドの義務であると言われたら、とてもじゃないが不可能である。そして、今現在一般的に受け容れられている障害者福祉の思想においても、そんな不可能なことをしなさいと訴えているわけではない。

障害者と日常的な接点が出来たならば、それを契機としてその障害について学ぶべきであり理解の努力を払うべきなのであって、それで決して遅くないのである。そのようにしてしか障害を持たぬ者が障害を持つ者と向き合う術はないのであり、予めすべての障害についてDB的に熟知している必要などはないのである。

だから、このドラマの初期エピソードにおいて、たとえば輝明のパートナーの三浦広之が演じる当惑と無理解故の衝突は、別段批判的に描かれねばならない筋合いはないのである。知的障害を一種の多様性と捉えるのであれば、当然理解のプロセスは必要とされるのであり、その過程において多少無理解故の失敗や衝突があったとしても、それは倫理的に恥ずべき事柄ではないのである。

その失敗や衝突は、人間が他者と接近する際の当たり前のプロセスの一つであるにすぎないのである。重要なのは多少の失敗をものともせずに相手の他者性を理解しようとする姿勢であり、必要な知識を学び吸収する意欲であり、その相互接近のプロセスにおいて得られた理解に基づいてフェアに相手を遇する誠意である。

障害者への対応が求められる場面で多くの人々が懼れるのはこの種の失敗であり、その種の失敗は健常者の倫理感覚を著しく痍附ける。倫理的に健全な人間に自身の不当な行為を愧る感情がある以上は、原理的に必ず失敗を伴う障害の理解というプロセスは感情的に苦痛なのであり、だから障害者へ向き合うことを面倒がって敬遠するのである。

その意味で、輝明のパートナーとして剰り内省的でない今時の若者である三浦を配したことには作劇的な意味があるのであり、障害者の奇矯性に対して声を荒らげるほどには無神経で社会規範に無自覚でありながら、心根の優しさから輝明に接近の努力を払うほどには善良であるという絶妙のバランスがとれている。

これが、最初から小日向文世演じる古賀年雄を宛ったのでは、視聴者の視点人物とは成り得ない。古賀は設定上自閉症の症例については基礎知識があり、一種の怯懦からその障害に対して距離を置いている人物である。だとすれば、輝明の障害に対して学ぼうとか歩み寄ろうという姿勢は一切描けないし、そのような知識を前提にして距離を置いた対処を行う智慧が身に附いている。

何も識らない本質的に善良な若者であるからこそ、都古の解説とセットで視聴者の障害理解のプロセスを設け得るのであり、そのニュートラルな姿勢が一般的視聴者の代表として機能するのである。

初期エピソードに感じた好感触は、このようなコンセプト面の妥当性によるところが大きい。ただし、一般的な視聴者が妥当なレベルの理解を得ることに一定の労力を要する事柄である以上、初期エピソードが自閉症の詳細な解説に偏したドラマであったこともまた事実だろう。当然、その前提から何を語り出すのかということがドラマの本筋であるべきなのである。

先週までのエピソードで語られた大筋は、その意味でかなり辛い内容であり、一口で言えば輝明が保護者である都古と別れて精神的な自立を迫られるまでの物語である。

最初の最初から都古については妻子ある男性との不倫関係が描かれており、輝明との間で恋愛関係のニュアンスがないことが明示されている。もっとも、それが不倫関係である以上、それを清算して輝明と結ばれる可能性もないではないが、このドラマのリアリティで描かれた障害者と都古の間に恋愛関係を描くことは困難である。

それは回が進んで輝明の障害のリアルな異様性が容赦なく描かれ、さらに都古の不倫相手である河原雅也の人間的な真っ当さが描かれるに及んで、益々確実な予感となってくる。このリアリティにおいて、大人の男性として女性を愛する感情すら理解出来ない輝明と都古が結ばれることはあり得ない。

そのような筋書きが描かれたとしたら、それは恋愛感情ではなく都古の母性という意味附けにしかならないだろうし、彼女が一生輝明の保護者として彼の面倒を看るというだけの話になってしまうのである。だから、最初の最初から都古の挙措動作には輝明に対する恋愛感情のニュアンスが削ぎ落とされているし、可能性としてすらそのように考えていないというふうに描かれている。

それは都古に障害者を差別する感情があるからではない。自分と同じように恋愛感情を理解することが出来ない輝明とは、そのような関係性を築き将来像を想い描くことが不可能だからであり、おそらくそれはかなり以前の段階で都古の中で考え抜かれ整理された可能性なのである。

幼少時の描写から考えれば、都古が一人の男性として輝明の存在を意識した可能性は必ずあるだろう。差別意識や世間知を持たない稚ない少女が、無邪気な好意を抱いている少年に対して恋愛に類似の感情を覚えなかったとは思えない。だが、おそらくそれは不可能なのであり、何処かの時点で彼女はそれを理解し受け容れたのである。

都古の結婚に際して母と子が交わす何心ない会話は視聴者に感動を与えるが、輝明はおそらくこの先も結婚することはないだろう。いちばん身近にいて常に輝明のことを思い遣ってきた少女が、その可能性に対する諦めを受け容れたのである。

これはその障害の故に「出来ないこと」が厳然として存在するということであり、そこで物語の嘘を吐くことは、その瞬間にこの物語が「恵まれた特殊な障害者」を描く特異的な物語に変容するということであり、平凡な障害者の現実を普遍的に描く物語ではなくなるということなのである。

都古と河原の恋愛が円満に着地し、剰りにも滑らかに結婚へと流れる筋書きは、都古と輝明の間にはそのような可能性がまったく残されていないことを残酷に確認する手続なのである。輝明の都古に対する執着は一種の不安感に基づくものであり、恋愛感情とは別物である。それは一種母親の再婚に際して連れ子が感じる不安感に近い。

輝明の執着が執拗に描かれても、都古が河原との結婚を思い留まって輝明に向かおうとする姿勢は一切描かれない。徹頭徹尾都古は恋愛関係の間合いでは輝明と向き合わないのであり、後ろ髪引かれるものがあるとすれば、取り残された輝明の今後を案じる意味でしかない。輝明の行動が混乱して自身に執着する傾向を示しても、それを恋愛感情と捉えるニュアンスは皆無であり、それは輝明の母との会話で明らかである。

その残酷な徹底が描かれるのは、都古の中でその可能性がかなり以前に整理され自明性を獲得していることのサインであり、事実輝明の都古に対する執着は一般的な意味合いにおける恋愛感情によるものでは「ない」からである。それは都古にとっても、輝明の母にとっても自明な事柄であり、あえて恋愛感情の可能性を論じる劇中事実の位相における必然性など一切「ない」のである。

視聴者がこの描写に感銘を受けるとすれば、心の何処か奥底でヒロインと主人公が結ばれる可能性を棄てきれない未練な期待があるからである。それが劇中事実のレベルにおいてまったく可能性が「ない」という前提で描かれることが、そんな甘い俗な期待を裏切るからである。思わせぶりに輝明の都古に対する執着が描かれながら、決して恋愛関係という尺度で意味附けないことにも、やはり作劇的な狙いがあるのである。

このドラマにおける松田都古の役柄は、おそらくそれを演じた香里奈の芸歴の画期を為すような当たり役となるだろうが、「不倫関係に悩む隣の優しいお姉さん」という非常に俗悪な人物設定でありながら、身勝手さや生臭さを漂わせないのは香里奈の柄というものだろう。

ある種「不倫関係に悩む隣の優しいお姉さん」という人物類型は、男性なら必ず郷愁を感じるようなベタな人物造形なのだが、そのような凡庸な類型をこのドラマのように周到な計算に基づいた独自のリアリティで描いた例は少ないだろう。そもそもこの種の類型で描かれた人物は、たいがい主人公に性の目覚めのトラウマを与え、自身もまた不倫関係に痍附いて転落するという落とし所で描かれるものである。

その意味で都古の扱い方は非常にトリッキーですらあって、このような状況設定において相手の男が離婚して愛人との関係に責任を取り、愛人と幸福な家庭を築くという筋書きはまず滅多にない。それは、一般的な感覚で言えば愛人が亭主を奪い取って幸福になるという筋書きは主婦層に受けが悪いからであるが、その一般的な不文律に臆せず描写を貫いている辺りが潔い。さらに言えば、主人公と男女の関係性のニュアンスで描くことをこれほど徹底的に排除した描写も珍しい。

それは偶々そのように描かれたのではなく、知的障害者と恋愛の位相について妥当な描写を成立させるための目的的構造なのである。だとすれば、一般的には愛する女性と結ばれることをゴールとして設定することで描かれるはずの輝明の生の充実は何によって描かれるのだろうか。

巷の噂では自転車レースへの参加というイベントが描かれるようなのだが、そのために辛抱強く浅野和之演じる亀田達彦との交流に伏線を張っているのだとすれば、このドラマのタメの感覚は驚くべきものである。前季の「マイ★ボス マイ★ヒーロー」辺りの場当たり的な「ライブ感」と比べると、視聴者に媚びずに或る程度の辛抱を要求するこの作劇は今時新鮮ですらある。

前二作を語る過程で再々言及した「取っ附きの悪さ」というのも、言ってみれば全体的な構成が視聴者に要求する「辛抱」の一つなのである。物語的な感動を得るために受け手に一定レベルの犠牲を要求する語り口が今時流行らないものであることは、当ブログのドラマレビューで屡々強調してきた通りである。

それで得られた視聴率の水準が一七%内外であること、これを多いと視るか少ないと視るかは意見の別れるところであるが、少なくとも悪い成績ではないことだけは事実である。基本的には視聴率を根拠にしてドラマの内容を語らないのが当ブログのスタンスではあるのだが、このような語り口のドラマが失敗もせずに連続ドラマとして成立することは、日本のドラマシーンも棄てたものではないと思わせる。

これからこのドラマが何処へ向かうのか、何処へ着地するのか、それは劇中の伏線から或る程度類推可能である。輝明を中心とする大竹家の描写の中で控えめに描かれている妹りなの行く末への不安や、兄の秀治とその妻である真樹の会話から視てとれるのは、夫々の人物が夫々の生を全うするためには、輝明の自立が必要だということである。

輝明が一生誰かによる保護後見を必要とするのであれば、家族の誰かが輝明を生かすために人生を犠牲にしなければならない。知的障害者の問題において、おそらく現実的に最も深刻な問題性はそこだろう。誰かのために誰かが犠牲になるというかたちでしか、障害者の生はあり得ないのか。おそらくドラマが最終的に切り込んでいくテーマ性はそれに纏わるものだろう。

ここまでの物語において、輝明の最大の理解者である都古は彼の許を去ったが、おそらくこの先ドラマが進めば、りなは自分自身の生に踏み出すことで大竹家を出ることが仄めかされるだろうし、秀治夫婦が今より輝明に理解を示すとしても彼を引き取って面倒を看るという流れにはならないだろう。輝明を第一に考えて生きる母親も何れ彼より先に死ぬのである。

その可能性が仄めかされたエピソードにおいて、比較的理想的な状況にある大竹家の陰画として一家離散した古賀の家庭が描かれたことは偶然ではない。何心ない輝明の一言によって、長い長い後悔の日々に光が射した古賀の人間回復の瞬間が感動的に描かれるが、それとは裏腹に、輝明を保護し気遣ってきた大竹家の人々は何れ輝明の許を去ることが予告される。

障害者ではあっても一個の尊厳ある人間である輝明は本来的に一人なのであり、誰かが自分自身のために犠牲になることを期待してはいけない。輝明は最終的に一人で生きていくのである。差別や迫害を厭い外で働くことを嫌がった出発点から考えれば、そのような落とし所を想定するのが自然である。

ドラマの嘘事でそれに解決を与えることはそれほど困難ではない。大竹輝明という自閉症児は物語を通じて成長し、最小限度の後見があれば一人で生きていけるほどに逞しくなりました、そのような解決を描くことそれ自体はさほど困難ではない。

困難なのは、そのドラマの嘘事に普遍的な確からしさを付与することなのである。同様な問題性を抱える現実の人々のこの先の人生に、勇気と希望を与えるような強烈なリアリティなのである。そのためには、都合の好い強引な嘘をでっち上げてはいけないのだし、そんな嘘で描かれたハッピーエンドには何の意味もないのである。それを描き通すことは、おそらくこのドラマを誠実に語り始めることよりももっと困難な作劇の実践だろうと想像する。

如何に困難であろうともそれが目指されていることの端的な象徴は、輝明の想い出の場所である草原の中央に屹立する逞しい一本の若木である。

殺風景な草原の中央で天を目指してそそり立つ孤高の若木の姿は、輝明と都古が稚ない頃から確実に成長しており、輝明自身の象徴として擬せられていることは明らかであるが、他の何に拠ることもなく堂々と立つこの一本の樹木の姿は、輝明の孤独を象徴すると共に、他の何人に依存することもない自立の姿を予告しているように思える。

それが円満具足に描かれてこそ、このドラマのリアリティにおけるハッピーエンドと言えるだろう。自転車レースへの参加というイベントの手応えだけで、そのような境地が描き得るものなのか、そこに不安は残るものの、練りに練り込んだ語り口がその困難を如何にして成し遂げるのか、それを見守りたいと思う。

とまれ、シリアスドラマのクォリティということで言えば、今季最大の良作であることは間違いないだろう。このままのテンションで最後まで走ってくれれば好いと祈る次第である。

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コメント

とむ蔵さん、こんばんわ。実はもう少し早くコメントするつもりがあったという事をコメントすべく書き込んでいます(笑)。
まあ異論反論と言う程大袈裟じゃなく、はたしてそう言い切ったもんだろうか?という疑問程度の事だが、相変わらず仕事が忙しく、ついでに邪魅の雫を読むのに忙しかった(^^;ので考えを整理する余裕がなかったのと、せっかく例外的に設けたのに初コメントが身内からじゃつまらんだろうと様子見している内に今日になった。
言おうとしていたのは、都古と輝明の関係性が規定されたという事への疑問と、不誠実であることも反社会的であることすらも人は自由なのではないかという疑問との二つだが、ほら、愚図愚図してる内にどちらの答えも次のエントリーに書いてある(^^;;;;;;;
タイミングを逸したというだけだが、オレ以外の一般巡回者の中にもそういう人はいたんじゃないかとちと思ってね。
物語の決着としてはツール・ド・フランスの事も絡め、個人が個人の限られた能力限界の中でかつての自身を超えるある到達点に至ること、という辺りに着地するのではと予想しているが、橋部敦子だからという不安もある。
もちろん、それはファイトの時の三つの大きな御都合主義的決着を見ているせいだが、まあ、そのへんの詳しい話はまたの機会にでも。

投稿: ぷら ですけど | 2006年11月24日 (金曜日) 午後 08時19分

いらっしゃい。まあ、話題の性質上、直接コメントとして異論や批判を書き込めるようになっていたほうが望ましいだろうと思っただけなので、剰りお気遣いなく(笑)。
「個人の自由」については、くだくだしく繰り返すまでもないが、自由というのは放埒とは違うのでね。何処の社会でも、自由は責任や義務と表裏一体の社会的概念だというのは当たり前の話で、社会との相対においてしか成立しない概念だろう。その意味で、社会通念上求められている徳目に反する自由なんてのは概念矛盾でしかないと思う。社会という概念を前提としなければ自由という概念にも意味はないのだから、所詮は社会と個人を調停する概念規範でしかない。
ファイトはそもそも全然観てないから話のしようがないが、このシリーズの真っ当さというのは、脚本家個人の文芸的資質におんぶするのではなくプロデュースがしっかり機能しているからじゃないかと思っているので、オレとしてはそんなに心配していない。

投稿: 黒猫亭 | 2006年11月25日 (土曜日) 午前 11時19分

うわ~小難しい評論ご苦労様です。まあ、キムタクを評価して彼の繊細な演技に心を動かされないあたり、私とは全く別の感性の持ち主でいらっしゃるようですね。キムタクこそ何をやっても同じ人物にしか見えませんよ。彼は哀愁や物悲しさを伝えてくれるいい演技をされますよ~

投稿: 2045号 | 2006年11月30日 (木曜日) 午前 12時16分

>2045号さん

小難しい評論にわざわざコメントをいただきましてありがとうございます。

一応大前提として伺いますが、このエントリーでは主に「僕の歩く道」というドラマ全体のデリケートなテーマ性や知的障害の繊細な扱い方についてお話をさせていただいたつもりなんですが、2045号さんが最も関心を惹かれた事柄は、2045号さんから視て、オレが「キムタクを評価して彼の繊細な演技に心を動かされない」と感じられたことでしょうか?

そうだとすると、ドラマの語り口やテーマの扱い方とは関係なく、役者の芝居だけで観客に「哀愁や物悲しさ」が伝わるとお考えなんでしょうか? そうだとすると、たしかにオレとは全く別の感性の持ち主だとは思いますね。その点についてはとくに異論はありません。

投稿: 黒猫亭 | 2006年11月30日 (木曜日) 午前 03時35分

いつもながら、ディティールにまで踏み込んだ話をありがとう。いつも、漠然とした感覚に明確な輪郭をつけてくれる、という感じがしているんやけど、今回はドラマ本編を見ていないのでよくわかりません(笑)。

でも、基本的なスタンスとして、好ましい距離感で自閉症をとらえてくれているのが嬉しかった。ドラマの中身もそのようにとらえてもええみたいやし、ちょっとほっとしている。

最終的な落としどころがどうなるのか興味は尽きないけど、やっぱりなかなか見られないと思うので、僕に代わってしっかりと見届けてやってください。

・・・で、ええのか>わし(笑)。

投稿: がん | 2006年12月 1日 (金曜日) 午後 10時58分

>がんさん

ご意見どうもありがとう。当ブログのスタイルでは、当該作品を観ているのが前提というか、録画して何度も視聴可能なのが理想的というスタンスで話をしているので、観てない人にはサッパリ概要が掴めないだろうなぁ。まあ、そこは芸風ということで一つ。

他の方のブログで、「この種のデリケートなテーマを扱ったドラマは、きちんと完遂出来ずに失敗すると視聴者の感情を著しく痍附けるが、失敗しないという保証が何一つない」というようなことを仰っていた方がいたんだけど、たしかにそういう緊張感はどんなに順調に進んでいるドラマでもあるかもしれないね。

オレのほうは乗り掛かった船なので一応きっちり最後まで見届けるつもりだし、ブログでレビューを書いたことで、何か自分の中にある抵抗感や緊張感が整理されて前より観やすくなったような気がする。まあ、口約束には懲りているので(笑)このまま結論をスルーするかもしれないけれど、可能ならば何らかの形で終了後に総括したいとは思っているので、期待しないで待っててください(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2006年12月 2日 (土曜日) 午前 01時31分

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