An ability
前回に続いて今回も「僕の歩く道」を語らせていただく。全体的なテーマ性についてはすでに語ってしまって気が楽になったということもあるが、今週の第七話は、ちょうど折り返しを過ぎた後半戦の開始点ということで、いろいろと大筋の物語に動きがあって興味深く感じた。
動きと言うか、正確には「予感」であるが、その予感の故に、前回陳べた内容に少し補足を加える必要を感じたのである。今回のエントリーは前回よりもドラマ個別の構想に密着した話になると思うので、再度くだくだしい長話にお附き合いを願いたい。
今回描かれた内容の中で最も大きな要素は、草なぎ剛演じる大竹輝明が症例上「出来ない」と規定されていたことをやり遂げるということである。ドラマの筋書き的にはさして珍しい展開ではないが、前回陳べた通り「出来ないこと」が明確に規定されているのがこの種の障害の本質なのだから、これは大変デリケートな描写である。
単刀直入に言えば、この種のハンディキャッパーが自助努力で「出来ないこと」を克服してくれたら、周囲の人間にとってこんな都合の好い話はないのである。そうでない人にとっては「簡単な行為」が、どんなに頑張っても「出来ない」からこそ、それはハンディキャップなのである。その「簡単な行為」を自明な大前提に織り込んで成立している一般的社会システムに適応することが困難なのである。
このドラマにおいては「未知の経路に踏み出すこと」がそれに当たり、人間の当たり前の環境開拓能力として位置附けられているそんな簡単な行為が出来ないことが、輝明の数々のディフィシェンシーの一つとして設定されている。このような症例設定上のディフィシェンシーを、輝明自身の自助努力で克服するという筋書きは、一歩間違うと非常に安直で無神経な絵空事となる。
それは当然、障害者の周囲の人々にしてみれば、障害者自身が自助努力で変わってくれることがいちばん望ましいのである。さらに言えば、どのように自身を戒めてもそのような無意識の期待を拭い去れないのが肉親としての当たり前の人情であり、権威者から無情に「出来ない」と断定されたことが「出来る」ようになって欲しいと望むことは剰りに辛い人情なのである。
この展開が非常に特殊な事例であることは、この事態の報告を受けた加藤浩二演じる堀田医師の当惑から伺い知ることが出来るだろう。カウンセラーの処世として日頃どんな事態に接しても想定内というポーズを崩さない堀田医師の異例の当惑と興奮は、輝明の一見些細な行為が、この種の障害者としては「特殊な事例」であることを示している。
そもそも知的障害における「出来ないこと」は軽々に規定されているわけではないのだし、病院に連れていけばその場で診断されるようなことではない。知的・情操的・精神的な問題性は剰りにも複雑且つデリケートな性質のものであるが故に、まともな医療者なら決して即断は下さない。
長年に亘るカウンセリングや経過観察の綜合として症例を描像するのであり、特定の行為を「出来ない」と規定する場合には「一〇〇%出来ない」という意味である。それが苦手であるとか不得手であるというレベルなら、何らかのきっかけや葛藤を経てそれを克服することは珍しいことではないだろうが、「出来ない」という場合、過去に自発意志においてそれが出来た経験が「一〇〇%ない」ということなのである。
輝明の三一年間の生涯において一度も出来なかったことが唐突に出来るようになるという筋書きは、その意味でこのドラマのテーマ性の文脈においてはかなり本質的且つデリケートな問題性を孕んでいる。
輝明が「出来なかった」ことを「出来る」ようになった。それが示唆する意味的可能性としては、輝明の障害が「特殊事例」であるという意味性と、知的障害が「治る」という意味性が挙げられるだろう。この種のテーマを扱った物語において、ハッピーエンドを成立させる「特殊事例」を語ることや、知的障害が「治る」という形の落とし所を語ることは、障害者一般が置かれている普遍的な現実性とは何ら関係のない絵空事であると誹られても仕方がない。
事実のレベルにおいて、たとえば自閉症は「治る」とか「治らない」という位相の在り方ではない。何らかの形質的理由によって、マジョリティとは異質な認識形態や社会性を持つマイノリティなのであって、これを健常者視点で軽々に「治療」「治癒」という概念で捉えて好いというものではないだろう。
その場合、「治る」というのは健常者の在り方が「普通」で障害者は「異常」というカテゴライズに基づいて、「異常」な状態を「普通」な状態に引き揚げるという意味性になるだろうが、そのロジックに基づけば障害者を症状が流動的な「病者」として捉えることになり、症状が固定的な大多数の障害者を「異常」な存在として排除する価値判断に結び附くだろう。
前回語ったように、これは決して公平なロジックではない。「治癒」や「自助努力による克服」を期待することは、健常者の視点において障害者に一方的な歩み寄りを要求する姿勢であって、事実において歩み寄ることが出来ない存在は切り捨てられてしまうのである。そのような「異常」な病的存在は、豊かな社会の余力において保護や気遣いや慈善の観点で「救済」して差し上げましょうという傲慢な姿勢に結び附くのである。
しかしそれは、出来ることと出来ないことが原理的にイーブンである者同士の間でのみ成立する公平性であり、出来ないことが固定的に規定された存在を排除した公平性なのである。既存の社会規範を共有する者たちと、そこから排除されている者たちの間で新たな公平性を確立するのであれば、規定されている「出来ないこと」の分だけそのディフィシェンシーからフリーな者の側が一方的に歩み寄る必要があるのであり、そしてそれはそれだけのことなのである。
このドラマで言えば、都古が「大竹さんはこれこれのことが出来ないのです」と解説することで、三浦はそれを踏まえた接し方を模索する。そこに一方的な歩み寄りがあることはたしかであり、それはそれが出来ないことは大竹輝明という個人の自己責任や自助努力の問題ではないからである。
自己責任や自助努力の問題ではないことのツケを個人に要求しないことが公平性の大前提であるならば、三浦広之という個人と大竹輝明という個人の間に関係性が成立した以上、三浦が輝明と誠実に対応するのであれば、三浦と輝明との間の自閉症を原因とする落差は三浦の側の歩み寄りによって埋める必要があるのである。
繰り返し強調するが、この場合、このアティテュードは社会に生きる者である限り一義的に要求されている姿勢であり、個人の自由によって多様性が保証されているような事柄ではない。人には他者を公平に遇すべき本質的な義務があるのであり、それを自由の文脈で恣意的に解釈することは間違いである。
それはたしかに、人間には悪い人間や厭な人間、不公平な人間であり続ける絶対的自由は保証されているが、それはそのレベルの話である。社会は厭な人間や悪辣な人間を、行為の次元で違法なことでもしない限り強制することは出来ないが、それは人間は本来そのような不当な在り方を自発意志において忌避すべきであり、制度的に強制すべきではないという節度があるからである。
少し論点がズレたが、このようにして障害者を能力的な価値判断を捨象して「異質な個性」と認識するならば、その不可避的な異質性は等質性の恩恵を享受する者の側の責任において理解と受容の努力を払うべきだということであり、それはその個人が公平な人間であるための絶対要件なのであって「施し」や「慈善」の観点の問題ではない。余裕があれば努力するけれど、そうでないならしなくていいという問題ではないのである。
この文脈上において解釈するなら、スタートラインにおいて「出来ないこと」と規定されたことを輝明が「出来るようになる」という筋書きが大変デリケートな問題性を孕んでいることは十分諒解していただけるだろう。
輝明が自助努力でそれまで出来なかったことを出来るようになるというのなら、それ自体は劇中の大竹輝明一個人にとって意義あることであるが、物語のテーマ性というアスペクトで視れば、障害者が自助努力で「普通」に近附くことに対する健常者視点の期待を肯定する、逆に言えば障害者の在り方を「異質な個性」と意味附ける公平性の概念を否定する可能性が出てくる。
またそれをディフィシェンシーの解消という文脈で視るなら、「治る」「軽快する」という作劇的な選択によって劇中の障害者を救済する可能性を示唆しており、それを語る物語は、その時点で「治らない」し「軽快もしない」障害者一般が抱える普遍的な問題性を置き去りにすることになる。
ここまで語った時点で確認しておくが、オレは現時点でこのドラマがそのような無神経で粗雑な物語に堕落したと主張しているわけではないし、散々持ち上げておいてから掌を返してバッシングするような批評のメリハリを意図しているわけでもない。
何の留保も附けずにここまで語ってきたことには、リーダビリティ的なあざとい計算がなかったわけでもないが(笑)、それよりもこのデリケートな問題性を、これから語る話の大前提として諒解していただきたかったからである。
倒置的にこの時点でオレがこの描写に接した際の感想を吐露するなら、「難しいことをやろうとしているなぁ」という感慨と、「本当にそんなことをやり抜くことが出来るんだろうか」という不安である。
炯眼な読者諸兄姉は、前回のエントリーやここまでのお話を読まれて、そこに欠落した視点があることをすでにご賢察のことだろう。それはつまり大竹輝明の障害が「異質な個性」と位置附けられ、それに対して周囲の人々が一方的な歩み寄りを行う必要性があるとして、その論述を受け容れるとすれば、その状態が達成された瞬間にお話が終わってしまうということである。
もっと言えば、それは障害者差別という「糾弾さるべき悪者」「是正さるべき不公正な状況」を前提とした論点であるに過ぎないのである。その「糾弾さるべき悪者」が退治されたなら、劇中の大竹輝明は「是正さるべき不公正な状況」に置かれた「気の毒な被害者」ではなく、ディフィシェンシーを妥当に補正された一個の無前提の人間であるに過ぎない。
この一個の人間を特異な異端者として対象化することなく、成長のドラマを描くことは可能なのかという視点は当然あって然るべきだろう。たしかに多くの場合、障害者の障害は固定的なハンディキャップであって、それに改善を期待することは健常者視点では努めて慎重であらねばならない。だが、それは障害者が決して人間的に成長しないということとイコールでは当然ないし、障害者の人間的成長を期待することが間違っているということでもない。
障害もまた「異質な個性」であり、「Everybody is perfect」であるなら、一個の人間はその生を通じて絶えず成長し変化するものであり、その成長を通じて幸福を掴み取るものである。そのフレキシブルな人としての可能性を、固定的障害の在り方と同時に描くことは非常にデリケートな機微となる。
それこそ下手をすれば、「治ればいい」「治るような性格の障害だった」という意味附けにしかなりようがないだろう。この意味で、物語として安全なのは障害者差別という悪者を仕立ててそれをやっつけるお話に終始することである。そして、劇中の輝明を特異な影響力を持つ異人に設定して、差別という逆境に曝されながらそのピュアな影響力によって周囲の人々を慰謝するという古臭いタイプのお話に終始すればいいのである。
CXの公式サイトにある番組紹介文からは、一種そのような守旧的な認識で書かれた節が読み取れるだろう。しかし、これまでのドラマを視る限り、輝明の描き方は型通りの「愚者の智」的な純粋さで周囲を救済する異人としては描かれていない。TVドラマで描き得るギリギリのリアリティで「平凡な一知的障害者」として描き通されている。
このドラマのドラマ性は、大竹輝明の主人公としての異人性によって成立しているのではなく、物語を構築する語りの劇的なロジックの故に成立している。その意味で大竹輝明は何らドラマ的な修飾を施されない一個の知的障害者であるに過ぎない。毎回のエピソードにおいて劇中人物たちが輝明との触れ合いで救済されるとすれば、それはそのような構造を持つ物語だからであって、輝明に他者を救済し得る特殊な異人性が附加されているからではない。
たとえば第六話のラストにおいて、古賀が自身の後悔に盈ちた過去に対して遂に一筋の光明を得るに至ったのは、輝明に物語装置としての異人性があるからではなく、古賀が輝明への見守りを通じて自身の人生に向き合う契機を獲得し、輝明に息子の面影を重ねて視たからである。
これは物語がそのような古賀の内面ドラマを成立させるための構造として機能しているからであり、輝明の行動を契機として古賀の心の奥底にある本質的な善良さ、自身の息子に対しては遂に果たし得なかった善意を引き出し、その気附きが今現在の息子との絆を再生する可能性を示唆する構造のドラマが緊密に構築されているからであって、輝明というキャラクターにそれを解決するメタ的な資質が付与されているからではない。
そして、第七話までのエピソードを鳥瞰する場合、異質な個性としての自閉症の解説とそれに対する周囲の偏見や当惑、さらに歩み寄りに基づく理解と受容が描かれ、それらのプロセスの進行に伴って、社会生活において輝明の理想的な庇護者もしくは媒介者として機能してきた都古との別れが、前半の山場として描かれている。
それは、ここまでの流れにおいて都古が果たしてきた媒介者としての役割が、森山動物公園の人々と輝明の関係性の確立に伴って完遂されたからであり、その以降も都古が輝明の近くで彼を見守り庇護し続けることは物語上不要だからである。さらに言えば、都古の庇護者的役割を解消することで、都古から輝明への一方的な気遣いと補助という関係性をも解消し、何らかの形で輝明の側からの働き掛けを描くための仕込みの要素である可能性もあるだろう。
冒頭で少し触れたが、このようにして周囲の人物の歩み寄りが描かれた以上、普遍的なドラマ性の呼吸として輝明自身の変容もまた描かれる必要があるのである。ドラマにおける人間関係は決して一方的なものではなく、必ず相互的なものでなくてはならない。
これは一種ジャンルを超えた作劇の鉄則である。
たとえば、主人公がヒロインを一方的に追い掛け続けて、それに根負けしたヒロインがプロポーズに応じるなどというストーリーの恋愛ドラマなどは存在しない。その比喩に最も類似したストーリーは月九の「101回目のプロポーズ」だろうが、このドラマでさえ、最終的にヒロインを諦めて彼女の許を去った主人公を、ヒロインが花嫁衣装を身に纏って追う形で「SAY YES」のハッピーエンドが完結する。
二者関係の物語において、どちらかが一方的に働きかけるばかりでは人間ドラマは成立しないのであり、一方の働きかけに応じてもう一方が自発的に働き掛けないことにはドラマの運動性は完結しないのである。恋愛関係の機微で言えば、追えば逃げ逃げれば追うという形で、働き掛けが相互的に往還しなければならないのである。
たとえば特撮でも、「ウルトラマン」の最終回は、それまで常に頼まれもしないのに人類を怪獣や宇宙人の脅威から守ってきた無敵の超人が遂に完敗を喫した最強の怪獣を、人類が自らの手で倒し人類の庇護者の復讐を遂げるという筋書きでシリーズ全体のドラマ性が完結している。
その意味で、このドラマの前半の物語は、何ら事前の知識がない状態では理解に苦しむ異質性を持つ知的障害者の輝明を、周囲の人間たちが努力して理解し受容するドラマであり、輝明自身はそれ以前と剰り変わりなく普通に振る舞っているに過ぎない。
勿論、伏線として丁寧に輝明自身の内面の揺らぎや変容の萌芽が描かれており、それを促す最大の事件が都古の結婚であることは容易に諒解出来る。たしかに前半で播かれた種は、輝明の一個の人間としての変容もしくは成長のドラマを示唆しているのだが、この場合作劇的に問題となるのは、「成長」というのは価値的なパラメータを伴う幻想的概念であるということである。
オレは基本的に成長とは幻想であると考えている。その意味で、たとえば「人は成長なんかしない」とする白倉・井上ラインの思想性も理解出来るが、但しその幻想は人の生にとって非常に有意であり、それを「成長しない」と否定することにカウンターやサタイアとして以上の物語の効用を何ら見出せないところが見解の別れるところである。オレの認識では、そのようなカウンター志向は窮めて若い感覚の作劇であり、他者の若さを微笑ましく愛でるという盆栽的な興味しか感じない。
しかし、成長幻想とは要するに「明日は昨日の自分よりマシな自分になれる」という価値的なパラメータにおける自己変容の可能性に対する信念なのである。この場合、「マシな自分」という以上は「マシでない自分」という相対を想定しているわけで、本質的には無前提にそのようなものであるに過ぎない人間の在り方に、価値的なパラメータを導入して自己決定に意志的な方向性を設定しているわけである。
その意味で、成長幻想とは既存の社会の枠組みにおける「無限の可能性」の文脈上にある概念であり、等質性を享受する者同士の間で共有されている公平性に立脚した概念であると表現することも出来るだろう。
だとすれば、たとえば自閉症という障害を自身の問題性として熟慮した人間以外の一般的な世間に対して物語を語る場合、成長という幻想の文脈から障害という現実的特殊要件を弁別して妥当に語ることは非常に困難であり、これは現実的な問題というより語りの節度やテクニックの問題となるのである。
それはつまり、第七話のように「これまで出来なかったことが出来るようになる」という筋書きは、普通一般にはストレートに「成長」と意味附けられるのだろうが、輝明のケースにおいては、そこに「治癒」もしくは「障害の個別性」という別の意味性が生起するからである。
これがそのような「事実」であれば、それは何ら問題ではない。そのようなものとして周囲が受け容れてきた固定的な資質が実は変容可能なものだった、ならばその変容が可能とする社会適応に周囲が万全の協力を果たすというだけの話である。その事実に過剰な意味性を読み取るべきではないだろうし、当事者たちにとっては問題の位相が別の形にシフトしたというだけのことである。
問題となるのは、それが何らかの普遍的な意味性を不特定多数に向けて整合的に語る物語の筋書きだからであり、そのような物語上の成り行きには語り手の思想に基づく意味的な指向性があるからである。
一般的なドラマ性において成長を描く場合、それは「障害の克服」という形をとるのが常であるが、それは健常者においては「障害」とは原理的に克服可能な自己責任や自助努力の範疇の問題性であるからである。しかし、輝明のような障害者の場合、物語が採り扱い得るような明確な「障害」は、生得的で不可避的なものなのである。
勿論、健常者の物語においても乗り越えるべき障害は概ね自己責任によって生じたものではないのが殆どである。親の代の因縁に基づく負の遺産であったり、不遇な生育環境や残酷な宿命であったり、理不尽な暴力であったりするわけだが、能不能が客観的に規定されていない人間には、その障害を克服し得る「無限の可能性」があるのであり、それは非常に普遍的な命題と成り得るのである。
だが、そのロジックは障害者における障害の問題とは断絶している。やはり物語的な成長幻想とは等質性の文脈上の概念でしかないのである。
勿論、人間に「無限の可能性」があるというのも一面の真理ではある。医学上はあり得ないはずなのに、一心不乱のリハビリ努力によって回復不能なはずの全身麻痺が解消されたとか、それこそ心の持ちようによって末期癌から完全に生還したという「奇跡の」実話が語られることもある。
だがそれはやはり、等質性から疎外された異質な人々の現実とは無関係な枠組みでしかないのであり、「奇跡」は何処まで行っても特異点としての「奇跡」でしかない。並外れた人の想いや努力によって天機が動かされ、起こり得るとは思えないことが起こるとしてもそれは飽くまで特殊例に過ぎないのであり、だからこそ「奇跡」なのである。
作劇において、「奇跡」と「成長」は概念上別物なのである。
ならば、第七話の展開が不可避的な障害を抱える大竹輝明の物語において、「成長」と「治癒」や「奇跡」を混同している雑駁な認識の描写なのかと言えば、現時点ではそれを軽々に言い切ることは出来ないだろう。
それは、障害者における症例の固定ということもまた、経験則に基づく規定に過ぎないからであり、便宜的に用いられている尺度でしかないからであって、たとえば知的障害の場合、「出来ない」という規定の意味合いが大変微妙である。
それは、これこれこのような理学的な機序に基づいて絶対的に不可能であるという理論的証明では一切なく、経験的に一〇〇%出来なかったのだからこの先もおそらく出来ないのが当然と見なさねばならない、それにはおそらくこれこれのような病理的な機序が推測される、という蓋然性に立脚した規定に過ぎないからである。
これをもっと正確に記述するなら「この人物が特定の行為を為し得ないのは当人の自由意志に基づく選択の結果ではなく、概ね不可避的な病理的原因がある」ということを規定しているだけなのである。これは要するに、その人物が特定の行為を絶対的に為し得ないと理論的に証明していることにはまったくならないだろう。
輝明が「識らない道へ行けない」というディフィシェンシーを抱えているとしても、それは原理的に不可能だということではない。輝明以外の人間に比べて絶望的なまでに巨大な心理的抵抗や恐怖感を覚えるという「だけ」であり、普通人間にはそれほどまでに巨大な心理的抵抗や恐怖感を克服することは困難だから、実質的な意味では輝明にその困難を克服することを「当然のことのように」期待してはいけないということである。
だとすれば、この場合問題となるのは、やはり病理的な実際の問題ではなく、語り手の思想や作劇の具体の問題なのであり、伝えるべき意味性の問題なのである。
そのようなデリケートな機微を踏み外した描写であるかないか、輝明の絶望的なまでの葛藤を表現し得る描写であるかないか、そのような葛藤を敢えて行うだけの動機を描き得ているのか、そのような問題なのである。
そこが可能な限り誠実に押さえられていれば、真摯に見守る視聴者たちの幾許かにでも伝わっているのであれば、たとえば粗雑なドラマの見方をする視聴者が「ああ、障害者でも努力すれば何とか『マトモ』になるのね」というふうな雑駁な感想を覚えたとしても致し方がないだろうし、そのデメリットを超越して描かれるだけの価値があるドラマと成り得るとオレは思う。
それによって、「治癒」と「成長」の混同に纏わる問題性を超えてドラマ性の迫力の文脈でこのドラマを解することが可能となるのである。TVドラマで伝え得ることの限界とは、そのように規定されるものなのだろうと思う。どのように巧みに細心に伝えても決して伝わらない人間がいることも事実だし、デリケートな問題を公に語るという行為それ自体が、一定程度パブリックイメージとしての更なる「誤解」や「無理解」を醸成することも事実である。
だがその一方で、巧みに語られた物語は無関心や無理解によって一般に根附いていた不当な認識を変革するだけの力を持っているのであり、心ある人は正しい知識を得ることによって自身の認識を改めるだけの矜持を持っているはずである。だからこそ、それは語りの問題となるのであり、語り手自身の認識の中でその弁別が為されているのか、そしてそれが実際の表現として整合的に弁別して語られているのか、これが問題となるのである。
誤解をおそれずに言えば、この場面ですでに入れ違いで帰宅している幸太郎を探すために、つまり劇中現実のレベルでは無意味な目的のために、それほどまでに巨大な心理的抵抗と葛藤してイエローラインを踏み越える輝明の一歩は、剰りにも英雄的な行為なのである。
飽くまで輝明の内面世界においてであるが、輝明以外の他者が外部の世界におけるどんな強大な敵と戦うことよりも、たった一本のちんけなイエローラインを超えることが、輝明にとっては困難なことなのである。
その意味で、後半で重要な役割を果たすはずの浅野和之演じる亀田絡みの流れで「超えられないイエローライン」を被せたタイトルバックは、シリーズ後半のドラマ性を象徴しそれを敢然として描くことを宣言した映像なのかもしれない。
そして、輝明がそのような葛藤を敢行した動機は、単に甥っ子の身が心配だという、ただそれだけなのであり、その心配は「子どもが夜遅くまで帰宅しないのは危険なことである」と教えられたから発生した感情なのであり、何故心配なのか輝明自身理解していないのである。
おそらく、このドラマで描かれる「純粋さ」とはこのようなものなのだろう。
純粋なことは素晴らしいことだと称揚するでもなく、身近にこんな人物がいたら素晴らしいと嘘事を陳べるのでもなく、純粋「だから」迫害されるのだと牽強付会するのでもなく、障害者「だから」純粋であると差別的に価値評価するのでもない。
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善悪を能く識別し得ないが本質において善良であることを「純粋」と表現するのであれば、それはその通りだろうが、それだけのことである。この純粋さに人を動かす特別な力があるという話ではないし、遡って人を動かす能力を授けるために輝明の人物設定があるわけではない。その純粋さは、輝明自身を動かすための動因なのである。もっと言えば、それは劇中人物の心を動かし劇中の事件を解決するための資質ではなく、それを見守る視聴者の心を動かす資質なのである。
この時点までの物語は、輝明を「異様な知的障害者」という出発点から「少し風変わりな人物」として視聴者が受け容れ得るまでに描写を積み重ね、一見して取っ附き難い知的障害という距離の分だけ視聴者が輝明に歩み寄ることで、輝明の異質性が無効化しているのである。無理解故に生起する不気味さから出発して、その異質性を理解し歩み寄ることで、このような人物を普通に受け容れ得るという実感をドラマの肉体性で納得させているのである。
そのようにして輝明の異質性が無効化された上で、さらにはその異質さを構成する障害の在り方が十二分に視聴者に理解された上で、その障害の克服が描かれるのであれば、それを「治癒」ではなく「成長」と表現することが可能になるのだろう。
何故なら、輝明の行動を規制する「症例」としての心理的抵抗や恐怖感は、この瞬間に消えてなくなったのではなく、厳然として存在することが視聴者に諒解されているからである。輝明が克服したのは病理的な意味における障害ではなく、それが強いる行動の規制のみだからである。おそらく劇中現実のレベルでは、輝明が通れる道が一本増えたというだけで、輝明の症例の在り方自体は一切変わっていないのだろう。
だとすれば、それは輝明の障害が「治癒」したわけでもないし、輝明の障害が特殊な事例であるということにもならない。輝明は自身に付与された障害の範囲内で、超えるべき何ものかを超えようと意志し、現実に超えたのであり、それは紛れもなく「成長」と表現することが可能だろう。
そしてそれは、自らの不全を自省して自己変革を望んだからではなく、そうしなければ甥っ子を探しにいけないからというだけであって、その意志の在り方を「純粋」と表現することもまた可能だろう。
オレは相変わらず草なぎ剛という役者はそんなに好きではないが、第七話を観て漸く劇中の大竹輝明という人物が好きになった。それはおそらく、自明な心理の機序に基づいては共感することが出来ない人物の異質性が、これまでの物語を通じて周到に心理制度化されてきたからだろう。
それは、異質な認識様態や社会性という、大多数の人々にとって自明な心理的機序との断絶を構成し対面的な異様性を醸成する要素が、粘り強い開示によって視聴者の中で心理制度化されたことで、無意識裏に補正を加えつつ輝明のアティテュードを理解し共感することが出来るようになったからだろう。
それに加えて、これまでは輝明が周囲の人々に好意を抱いているのだとしても、それが表情や仕種や物謂いや行動それ自体に顕れないものである以上、実感的に信じられないものだったのだが、第七話のエピソードでは「甥っ子のために障害を克服する」というわかりやすい形で好意が行動として描かれているために、幸太郎に微笑み掛ける輝明の真心が素直に信じられるのである。
もっと早くこのような形で輝明の心情の真正さが描かれていればわかりやすかったのだろうが、それではやはり普遍的な問題性を捨象した嘘事になってしまうのである。ここまでこのような形の心情表出をタメるだけの作劇的必要性があったのである。そんなことが簡単に出来るようなら輝明はこれまで周囲に誤解を受けなかったのだし、輝明の逆境はそこにこそ核心があるのである。
劇中の輝明は、このエピソードまでに粘り強く用意された物語の積み重ねによって漸く内面的な揺らぎの次元を超え行為の次元で人間的成長への一歩を踏み出すのだし、そこまでタメないと輝明の抱える不全の性格やその重みがドラマ的リアリティを持たないだろう。
そのように解釈するなら、第七話のエピソードが「障害者の成長」というデリケートで難しい物語のテーマに果敢に踏み込んだものとして諒解可能なのだが、このような想定が妥当なのか何うかは、現時点ではわからない。
何故なら、このような作劇は偶々そのように見えるというだけではなく、最後まで明示的に徹底して保持されねばならないからである。次回以降のエピソードで輝明の障害がどんどん軽快していくという流れになったら、それをどのような落とし所で回収するつもりなのか、それは現時点のオレが描いている青図に納まらなくなる。
また、前回のエントリーでは都古と輝明の関係性について、恋愛関係の間合いでは成立不能なものと解釈したわけだが、早くも今回のエピソードでは都古の結婚生活に不安の影が兆していて、河原の身勝手な虚栄心が描かれている。また、MEGUMI演じる都古の親友大石千晶のセリフも、視聴者に不吉な予感を与えるだろう。
千晶の口から「結婚したら態度が変わる人もいるけど」とこの時点で語られるということは、このドラマの描写の経済性から言えば、結婚後の河原の態度が「必ず」変わるという仄めかしだろう。実際、次回予告で河原は、このような成り行きの男女の間では決して口にしてはいけないセリフを口走っており、これが何う転ぶかは断言出来ない。
確実なのは、都古の結婚生活に今後困難が降り掛かるということであり、「そして二人は末永く幸せに暮らしました」と済印が捺されて物語の表舞台からフェードアウトするわけではないということである。
先ほど語ったこととの関連で言えば、都古が苦境に立つということは、そこに輝明からの働き掛けの余地が出来るわけで、それが河原夫妻の夫婦関係の綻びを収集するものなのか、或いは輝明自身と都古の間の新たな関係性の出来が描かれるのかは、現時点では予測出来ない。
ある種、都古と輝明が結ばれることには、これまでの物語からの流れで何うしたって保護と被保護のニュアンスが附き纏うわけであり、メタ的な観点では「都合が好すぎる展開」である弊は免れないだろう。執拗に仄めかされている母親の里江の健康不安は、この物語中で彼女の死が描かれる予兆だろうし、そうすると「母親替わり」というニュアンスが必要以上に強調されてしまう。
それは輝明を主人公として普遍的な問題性を語る物語において妥当な選択肢なのか、そのような疑問が拭い去れない。前回のエントリーで輝明と都古の別れを自明なものとして語ったのは、このような物語の困難があるからで、大筋の流れを含めて、これをどのように描写の具体によって実感の伴った納得の行く落とし所に納めるのか、そこに期待と不安がある。
一旦従来の関係性を終わらせるという手続を踏んだ以上、新たな意味附けに基づいてこの二人の新しい物語を語る可能性は皆無ではない。だが、そこには筋道上の問題とニュアンス上の問題が語りの困難としてあるのであり、それはやはり語りの具体の問題なのである。
他の男と結婚して夫婦関係が拙くなってから漸くテルへの気持ちに気附いたという成り行きでは誰も納得しないだろう。河原と都古の結婚によって、従来の都古と輝明の関係には明確な区切りが附いたはずなのである。そこから仮に新たな関係を語り起こすとすれば、輝明が都古に対して意義ある何事かを為し得る対等の存在であることを説得力を持って示さなければならない。これまでの輝明ではない人間として都古の前に現れねばならない。
今後、輝明の人間的成長と絡めてその新たな関係性までが語られるのだとすれば、それは大変難しい試みである。この難しい試みがどのような地点に着地するのか、今後もそれを興味深く見守らせていただこうと思う。
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