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2006年11月14日 (火曜日)

An actor

おそらく事前情報に接した段階では誰もが戸惑いを覚え、スタート後も順調に視聴者を戸惑わせているのが「役者魂!」である。脚本が「踊る大捜査線」で当てた実力者の君塚良一、メイン監督が「ホワイト・アウト」で本編も撮ったベテラン・若松節朗監督とくれば、現時点でCXが望み得るベストの人材配置であり、悪い出来のはずがない。

実際、既放映分を視る限り脚本も演出もベテランらしいポテンシャルが視て取れて、今季ドラマ群の中では風格すら感じさせる出来となっている。決して悪い出来のドラマとは言えないだろう。だがそれなのに、何故にこれほどの戸惑いを感じるのか。今回はその辺について漫然と思い附くままに語ってみたいと思う。

いや、ぶっちゃけ「面白くない」という視聴者がいてもしょうがないだろう。面白いという感覚がどのような様態で生起するかという受け手個々人の資質に関わる部分ではあるが、「今現在語られているこの要素が何を意図する語りであるのか」が把握出来ないと安心して面白がれないタイプの視聴者は、確実に「面白くない」と感じるだろう。

つまり、それなりに面白い語り口の物語が曲者揃いの俳優陣の達者な演技によって現在進行形で語られていながら、ドラマ全体としてどのような情感の喚起を目論む意味構造なのかがイマイチはっきりと伝わってこないのが問題なのだろう。最終的に何処へ連れて行かれるのかわからない不安な情感の乗り物なのである。

当初オレは、企画それ自体が間違っているのかと考えていた。

普通に考えて、今時「偏屈なシェークスピア俳優とその隠し子、女性マネージャーが演じる疑似家族物」などという古臭い筋立てを観たいと思う視聴者など本当にいるのだろうか。その辺がどうも読み違えているのではないかと最初は考えていたのである。

しかし、それを言うなら「マザコン男と結婚した女が姑と夫にねちねちといじめ抜かれる不倫ドラマ」や「脱サラして刑事になった男を中心に、本庁と所轄の軋轢をリアルに描いた警察群像ドラマ」など、事前にシノプシスだけ聞いたら誰が観たいと思っただろうか。

君塚良一の過去のヒット作から企画要素だけを抽出して視るなら、普通は当たるとは絶対に思わない。というか、社会現象とまで言われるようなメガヒット作が脚本だけの手柄で生まれるものではないし、君塚脚本の本質は精々中ヒットレベルのウェルメイド娯楽の王道的方向性にある。

万能のヒットメイカーというより、寧ろ娯楽作品のあるべき姿に対して信念のある書き手であって、その信念が時と処と道具立てを得れば大きなヒットに結び附くこともあるが、屡々その姿勢が世に容れられない事態も出来するのであり、その意味でスキルは高いがヒットメイカーとしては当たり外れのある脚本家である。

キネマ旬報にシナリオ関連の連載を持っていたこともあり、世代的に言ってもオーセンティックなシネフィルであって、青年期に集中して基礎的素養の研鑽に打ち込んだ最後の世代に属する作劇の勘所を熟知した書き手であるから、要するにヒットの約束ではなく王道的な「正しい作劇」を期待するのが妥当である。

その一面、萩本欽一の直弟子のパジャマ党出身者ということで、バラエティショー的な語り口にも強い部分があり、オーセンティックな作劇とバラエティショー的な逸脱がバランス好く噛み合えば、踊るシリーズのような良作になる。ただ、君塚脚本の持つこのような資質が約束してくれるのは、たとえば現在の水準で言えば精々一五%前後の数字だろう。

「ちゃんと出来ている良質なドラマが観たい」という普遍的な視聴者の期待に応えるのが君塚良一のスキルが持つ安定した力であって、それだけならおそらく中ヒットの域を出ることは決してないからである。そこから二〇%を超えるメガヒットへと飛躍するためには、プラスαの何かが必要なことはたしかである。

たとえば「ずっとあなたが好きだった」ならフロックとしての佐野史郎の怪演が偶々視聴者の見世物的な好奇心を煽ったことがヒットの要因だろうし、踊るシリーズなら番組が狙ったリアリズムが結果的に「本当に」新鮮だったということ、そして安定した人気を誇る織田裕二が演じて最も違和感のない魅力的なヒーロー像を提示し得たこと、このような博打的な要素が作用して大きなヒットを生み出した。

これが君塚良一だけの手柄かと言えばそうではないだろう。君塚良一の本質的な生真面目さから考えれば、彼は決してトレンドを仕掛けるタイプの作業者ではなく、結果的に成立するあるトレンドの質を下支えして保証するタイプの人材なのである。

そういう意味では、話を聞いただけでは面白くなりようがないはずの古臭い筋立てを王道的な娯楽人間ドラマとして描ききった「さよなら、小津先生」が最も君塚脚本の資質を端的に顕わしているだろうし、君塚良一オンリーの資質が達成し得る成功レベルの水準作だろうと思う。また、視聴率的には惨敗したが「ホーム&アウェイ」も窮めて君塚的な失敗作ではあったと思う。

小津先生については、オレは君塚良一の念頭にはっきり「うちの子にかぎって」が存在していたと確信している。表面的にはまったく似ていないし、おそらく技法的にも倣った部分は皆無だと思うので、これはまるっきりオレ個人の直観という外はないし事実関係として君塚良一と伴一彦の間に接点があったのかどうかも識らないが、何故か小津先生を観るとうちの子(というよりそれを中心とした伴一彦+田村正和主演ドラマ)を意識して書かれているという印象を拭えない。

おそらくそれは単純な理由に拠るもので、このドラマにおけるユースケ・サンタマリアの扱いが、往年の伴一彦+田村正和作品における所ジョージのポジションに近縁だという部分の故だろうと思う。

田村正和という役者は一種非現実的なキャラクターで、存在感は強烈だが実在感が窮めて薄い。その非現実的な二枚目が三枚目的な役柄を演じる場合、対等の位置附けで実在感の強いコミカルな役者を持ってくると程良く田村の柄が活きることが、伴一彦と田村正和が組んだドラマで経験的に判明している。

その意味で、小津先生では小津の身勝手に振り回される凡人のツッコミ役として、踊るシリーズでブレイクしたユースケ・サンタマリアが配置され、年齢もキャリアも畑も違うこの二人の役者による感動的な友情が描かれた。

ユースケ演じるカトケンがいなければ、小津南兵の人柄はほとんど「ニューヨーク恋物語」で田村が演じた田島雅之のようなシリアスキャラの延長上の役柄だっただろうが、リアルなヘタレ男であるカトケンの側から身勝手な元エリートの小津にツッコミを入れさせることで、転落したセレブである小津を戯画化されたヒーローとして描くことに成功している。

この経験則は三谷幸喜の古畑任三郎でも踏襲されていて、当初は西村雅彦の今泉が変人の古畑に振り回される凡人のダメ男を演じていたわけだが、どんどん今泉自身の変人ぶりに磨きがかかってきて、方向性の違う変人同士の迷コンビというワケのわからない方向へスピンアウトしてきている。こういうふうに物語の運動性の故に大枠の構造がデスペレートに自壊することに興味を持つ脚本家であるだけに、それも三谷作品の宿命ではあるのだが。

田村正和自身に話題が偏してしまったが、君塚良一に話を戻すと、何故か時折君塚作品には伴一彦作品を意識しているような部分が仄かに漂うように感じている。さらに話を戻すと、今季の役者魂もぶっちゃけて言えば下敷きになっているのが伴一彦と田村正和のヒット作「パパはニュースキャスター」であることは間違いないと思う。

見知らぬわが子の出現によるすったもんだを描いた君塚作品ということでは、過去に明石家さんまと広末涼子主演の「世界で一番パパが好き」があるわけだが、これはタイトルからして伴一彦のパパ物を連想させる。この作品については本放送時に真面目に視聴していなかったので記憶が曖昧だが、やはり伴一彦のパパ物とは似ても似つかないテイストのドラマであったと記憶している。

要するに、君塚良一の中では時折仮想敵として伴一彦作品が現れるのであって、相互に影響関係にあるのではないということなのだろう。ただ今回の役者魂については、これまでにないくらいパパニューの要素を換骨奪胎している部分があり、パパニューの存在を念頭から追い払ってこのドラマ自体に向き合った場合、ワケのわからない不整合が目立ってしまうということなのではないかという気がする。

たとえば役者魂を観ていて最も疑問を感じるのは、何故に本能寺海造をシェークスピア役者に設定したのか、という部分だろう。正直、本能寺が頑固一徹なシェークスピア役者であるドラマ的な旨味は現状ではまったく出ていない。

ただし、そもそも君塚良一が作品で採り上げた題材の本質になど興味があるはずはないので、主人公が役者であることが作劇の口実でしかないことくらい、最初の最初からわかりきっている。つまり、正面きって芸道の真髄や芸能界の実態を描く魂胆など最初からまったくないのである。

君塚良一が何を作品の題材に採るとしても、それは物語の物語性や主人公の主人公性を獲得するための口実であり、その作劇のために題材の持つパブリックイメージを便利に拡大解釈して援用しているだけである。君塚良一に興味があるのは物語でありそこに活きる人物のほうであって、題材自体のアクチュアルな本質ではないからである。

だから、役者としての本能寺海造の芸語りが嘘臭いことそれ自体はいいんだ。だがこのドラマの場合に問題なのは、何の口実としてシェークスピア役者や芸能ビジネスという題材が選ばれているのか、その口実によって本能寺にどのような主人公性が付与されているのかが作劇的にまったく判然としない部分である。

辛うじて第四話が芝居というキーワードで構築された比較的マシなエピソードであることは、日頃お附き合いさせていただいているquon913 さんやそこからのリンクで拝見したkorohitiさんのレビューの通りだと思う。本能寺が社長夫人の欺瞞を見破りながらそれを瞳美たちに明かさず芝居で勝負した辺りの機微に関するkorohitiさんの見解には全面的に賛成するものである。

また、普通の書き手なら忠太のピンチを「旦那の遺産を相続する条件として実子の養育が義務附けられている」程度の理由附けで「愛情のない家庭で育つ不幸」くらいのヌルいレベルで済ませるところを、憎しみによる確信犯的幼児虐待というシャレにならない陰惨な危機に仕立てて、日常の狭間に潜むゾッとする恐怖、それが間一髪で回避されたことを回避された後に開示することでおぞけ立つ不安を演出する手法は、君塚良一らしい容赦ないドラマツルギーとして評価出来るだろう。

ただ、藤田まことが志村けんのような下品な着ぐるみを着て演じたCM撮影のシーケンスがその後まったく言及されないのは如何なものか。たしかに第四話の挿話構造には本能寺が役者である旨味がそこそこ活きているが、それは疑似家族物の側面にスポットを当てた作劇において、それを演じる人物が偶々役者であったことによる旨味である。

その一方で、これまでの本筋に当たる役者生活のパートで描かれたCM撮影の顛末が剰りにおざなりに扱われていて、わかりやすく言えばオチがない。これはやはり作劇的には問題だろうと思う。オチを附けないくらいなら、わざわざ勿体を附けて売り込みやらオーディションやらのスラップスティックを描くべきではなかっただろう。

これまでの三話のエピソードで言えば、たとえば散々駄々を捏ねて開演を危ぶませた挙げ句に隠し子の出現にショックを受けた本能寺が、やる気のない陰気な芝居で臨んだ舞台が「新境地開拓」と肯定的に評価されたり、単に大好物の大福を好きなだけ喰っただけで大評判を呼んで動員増に結び附いたり、どんどん事態が悪化するすったもんだの三谷幸喜的なスラップスティックを「終わり良ければすべて良し」のたった一言のセリフによって一瞬で回収する作劇装置があった。

そのオチがあるかないかで大分作劇の方向が変わってくる。たとえば、三谷幸喜もこの種のスラップスティックを得意とするが、三谷作品の場合、必ずしもこの種の掬い上げのオチがあるとは限らない。物事が悪いほうへ悪いほうへ流れて行った挙げ句に最悪の結末に至って終わるという、ちょっと唖然とするような作劇が三谷脚本の本来的な志向ではないかと思う。

つまり、三谷幸喜という書き手には物語の運動性が大枠の構造を自壊させるような流れを好むという偏りがあるので、そこに一般的な視聴者の感覚とのズレが生じると「総理と呼ばないで」のように、普通の感覚では何う反応して好いのかわからない代物になってしまう。

「ラヂオの時間」や「みんなのいえ」程度に持ち直すくらいで丁度普通の観客の感覚と整合するのだが、その前提としてやはり三谷脚本の持つ自壊的なダイナミズムというのは必要な推進要素なのだろうし、本来目的的に描かれているのはそのようなダイナミズム自体であろうと思う。

だが、同じようなスラップスティックでも君塚良一の場合には「新境地開拓」のようなたった一言のセリフのオチで狂騒的な悪ふざけを作劇的に回収する節度がある。それはこの場合、スラップスティックが目的的な描写要素ではなく、本来のドラマ性からの逸脱としての余剰と意識されているからだろう。つまり、語り手の意識の中ではやはりこの種のスラップスティックよりも疑似家族物の物語のほうが「本筋」として明確に意識されているからである。

第四話の筋書きで言えば、第三話のラストでヒキとして提示された本能寺解雇という最悪の事態への手当てとしてCM出演というイベントが設けられているわけだが、そのイベントの山場がオーディションに設定されていて、乞われもしないのに己の役者人生を小一時間語り倒すという何の盛り上がりもない行為が結果的に採用を決定するという、ドタバタ以前のオフビートな小ネタとして山場が完結している。

これが過渡的な小ネタだとすれば、瞳美のナレーションの一言で「んなアホな」的な結果が描かれる筋道は正しいが、その後のCM撮影は本来はオーディションのプロセスとは別のシチュエーションのスラップスティックとして描かれるべきなのに、バナナの着ぐるみの滑稽さや本能寺へのダメ出しというプロセスで笑わせるだけで、その後の経緯はほっぱらかしでまったくオチていない。それが結果として何うなったのかというオチに当たる部分を省いていて、これが甚だ中途半端な印象を与える。

第三話までのエピソードの呼吸で言えば、このCM出演のくだりで本筋をつくってそこに桜子や忠太のネタが絡むという配分になっていたのに、第四話では明らかに忠太を引き取る未亡人の話がメインで描かれていて、本能寺の解雇やその手当てとしてのCMの話は途中で何うでも好い扱いになっていて、結末すら語られない。

多くの視聴者が、第四話で作劇の方向性がガラリと変わったと感じるのは、要するに役者生活のパートと疑似家族物のパートの比重がドラスティックに転覆しているからだろうと思う。

ここでわかることとは、つまり役者生活のパートというのは、本来なら本筋を盛り上げる逸脱としての余剰とあるべきパートであるということで、本筋の物語を導き出す設定開示のために割合どうでも好い役者生活のパートを延々三話もかけて描いていたからワケがわからなかったのである。

さらに言えば、初日の開演時刻というタイムリミットを設けて本能寺の我儘に振り回される劇団と瞳美のすったもんだを描くというパターンは、おそらく三谷脚本の得意分野に挑戦したものだろうが、全体的なシリーズ構成から考えるとそれほど上手く行っているとは思えない。

役者魂の第一話と第二話を視る限り、三谷タイプのスラップスティックとしてはさほど面白くない印象は否めない。ここは三谷幸喜と君塚良一の語り口の資質が絶対的に違う以上、そのような挑戦自体が無謀な逸脱なのである。バラエティ的な繰り返しの笑いとしては成立しているだろうが、本来そのようなスラップスティックが主要な構成要素となっている物語ではないという肌合いが直観的に伝わってきてしまう。

それ故に、前半のすったもんだが一応落ち着いて桜子と忠太が登場してからの流れが本筋であることがはっきりしていて、要するに、この二話のエピソードでは本筋でない部分の割合のほうが多く、いつまで経っても本筋が進展しないということが視聴者を戸惑わせるのである。

そして、何故にそのような何うでも好いパートが重視されているのかと言えば、先ほど明かしたように、君塚良一の念頭にパパニューが雛形としてあったからではないのかとオレは邪推している。

パパニューの場合、主人公である鏡龍太郎には良識派のニュースキャスターという公の貌があり、その裏面として酒と女にだらしないプレイボーイという私の貌がある。そのギャップが隠し子の出現によってスラップスティックに転化するわけだが、おそらくこのドラマが目指しているのも、その種の公私のギャップに基づくすったもんだのスラップスティックなのだろう。

たとえば行動派のニュースキャスターである鏡龍太郎役を、当時モノマネ等で独特の甲高い声質やセリフ廻し、滑舌の悪さ等を揶揄されていた田村正和が演じるというギャップを、東京グローブ座というより新橋演舞場や新宿コマで演じられる髷物のほうが似合う藤田まことにシェークスピア俳優を演じさせることでトレースしているようにさえ見える。

パパニューがニュースキャスターとしての鏡龍太郎の公人生活と隠し子に踊らされる私生活をバランス好く描き、そのギャップによって双方のパートで笑いをつくっていたような作劇を念頭に置いていたから、客観的に視ると噛み合わない役者生活と疑似家族物のパートをどっち附かずに描いているのだろうと思う。

だが、よく考えてみれば売れないシェークスピア俳優という存在に公人としての体面がどの程度発生するのかということには大いに疑問が残る。松本幸四郎や平幹二郎ほどの大物になれば顔も売れているし、公人としての体面ということもあるだろうが、どうも劇中の本能寺の描写ではそれよりもっとマニアックなシェークスピア一本槍の役者を想定しているようだし、現実的に考えればそんな役者は余程演劇に詳しい人にしか顔を識られていないだろう。

言ってみれば中堅所のジャンル作家程度の知名度しかないのだから、公私の生活にさほどのギャップがあるわけではない。年齢相応のお爺ちゃん然とした身なりで劇場から一人で帰宅する本能寺の姿を視るに、別段日常生活でパンピーの聡い視線に晒されている有名人というニュアンスは皆無である。新聞で「本能寺海造に隠し子発覚!」と書き立てられたとしても、何となく「誰それ?」的な反応しか返って来ないようなニュアンスで描かれている。この意味で、本能寺がベテラン芸能人である意味がわかりにくいものとなっているのである。

さらに言えば、シェークスピア役者に髷物の役者を持ってくるという配役上のギャップもそれほど効果的ではない。なまじ役者という共通項があるだけに、パブリックイメージ上のギャップが劇的効果としてのギャップとして意識されず、単に「らしくない」違和感として残るだけという嫌いは否めない。その種のギャップを狙うなら、いっそのこと「お玉・幸造夫婦です」のハマコーくらいとんでもないところから持ってこないことには劇的効果として活きないだろう。

さらに加えて言うなら、君塚良一の本質的な資質から言えば本能寺が役者である理由の作劇的な目的とは、疑似家族物語という日常性に対する筋金入りの演劇人が醸し出す虚構性のギャップなのだろうから、お茶の間にポンと置いただけで強烈な違和感をぷんぷん臭わせる人材を素直に選んだほうが余程好適だったはずである。

先に名前を挙げた本物のシェークスピア役者である松本幸四郎や平幹二郎、quon913 さんが挙げるように市村正親辺りだったら、劇中の瞳美のマンションのリビングに普通に座っているだけで、強烈な違和感が漂ってしょうがなかったはずである。殊に松本幸四郎辺りは実娘との共演をそれほど厭うている節もないので、父娘共演ということも話題を呼んだだろうから、幸四郎で見たかったというのが正直なところである。

おそらくこのようなギャップのもたらす感覚とは、久生十蘭の代表作である「刺客」や「ハムレット」の主人公に近いイメージだろうと思うのだが、板に乗った姿しかイメージ出来ないような虚構的な人物が日常の風景に当たり前のように存在するシュールさが狙いなのではないかと思う。だとすれば、やはり藤田まことはミスキャストであるとしか言い様がない。

藤田まことという役者は、芸能界内部の現実的な位置附けとしてはそこそこ大物ではあるのだろうし、舞台経験も豊富にあるのだが、決して舞台役者という柄ではない。しかもその芸歴のほぼ大半を通じて日常的で軽妙な人物を演じており、近々の代表作が人情刑事ドラマの決定版である「はぐれ刑事純情派」なのだから、お茶の間に座っていてもまったく違和感はない。赤毛物の拵えで板の上に乗っている姿のほうが余程違和感があるのでは、狙いとはまったく逆のキャスティングだろう。

要するに、ギャップとギャップの間の計算の取り方が狂っているので、より本質的に必要なギャップが犠牲になっているのである。本能寺役に藤田まことがキャスティングされたについては、何れ大人の事情とやらがあるのだろうが、藤田まことありきで発想してこのようなギャップが目論まれたのだとすれば、考えすぎた挙げ句に混乱してコンセプト自体が破綻していると思う。

とまれ、かくの如く不利なスタートラインから出発したドラマではあるが、最低限疑似家族物の部分のドラマの真っ当さは確保されているようには感じる。これまでの君塚作品の先例で言えば、出発点において道具立てにしくじっている作品を上手く軌道修正してリカバリーした実例はないように思うから、本質的な部分の違和感は変わらないままに最後まで走るのではないかと予想するが、せめてこの疑似家族物の部分だけは上手く着地してほしいと思う。

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