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2006年11月16日 (木曜日)

Ecole

先日土曜、いつものように王様のブランチを漫然と観ていたら、ちょっと我が耳を疑うような夢みたいな話が聞こえてきた。この廿一世紀のニッポンにおいて、

六〜一二歳の少女しか出てこない映画

などというデンジャラスな代物が上映されるらしい。ベルギー=フランス製作の映画だそうだから、専門用語で言えば「赤毛物」のジャンルにカテゴライズされるわけではあるが、何の専門用語であるかは勿論スルーしていただきたい。

依然語った通り、オレはガイジンさんにもガイコクにも興味がないので、何らかの理由がない限り海外の映画は基本的にそれほど観ない。しかし、この映画に関してはどうやら観に行かねばならないという義務感のようなものが身内にこみ上げてきたので、早速ネットで詳細を調べてみた。

作品タイトルは「エコール」といって、その筋の者には覚えのあるギャスパー・ノエという映画監督の事実妻であるルシール・アザリロヴィックが監督した作品だとのことである。このノエという監督は「カルネ」というとても厭な映画を撮った男で、その後も何本か厭な映画を撮ってカンヌのパルム・ドールまで獲ったらしい。

※以下、ネタバレ全開の記述が続くので未見の方はご注意いただきたい。

片やアザリロヴィックのほうは、ノエの映画で製作やら脚本やら編集やらを手掛けている公私に亘るパートナーということで、だとすればノエとの近似と相違の関係は、たとえば黒澤明に対する本田猪四郎……いや、喩えが良すぎるな、精々ダリオ・アルジェントに対するルイジ・コッツィのような関係だろうと想像した。

上のリンクの公式サイトでいろいろ周辺情報を探る限り、旦那のノエの作風が濃すぎて一般受けからは遠いものとなっているのに対して、程良くその濃さが薄まって一般観客にも受け容れやすい俗化を蒙っている印象である。何よりカルネに感じた少女に対する暴力的で男性的な欲望(もしくは妄想)が、女性監督であるだけに表層的な意匠としては共有されていても欲望としては共有されていないだろうと予測した。

そもそも大昔に一度観た記憶で言えば、カルネという映画は少女に対する欲望を果たす物語ではなく、その欲望をおかずにして丼飯を三杯喰い倒すという、肉欲の対象に対する妄想についての映画であると思う。下世話な表現を用いるなら、ペドフィリアのマスターベーションそのものについての映画である。これは、批評の文脈で対象作品をマスターベーションと表現するのとは微妙に意味が違う。

普通に考えれば(考えないほうが健全な社会生活を営めると思うが)性的肉体的に未成熟な少女に対する肉欲というのは、通常の意味での性行為によって完結する円満な欲望ではない。さまざまなアスペクトにおける行為の不可能性を前提とした、整合しない欲望の倒錯というのがこの種の欲望の本質であり、つまり少女に対する肉欲というのはその本質が妄想なのである。

これを万人に諒解可能なほどに噛み砕いて表現すれば、ペドフィリアにおける少女という対象は、徹頭徹尾マスターベーションのおかずでしかない。その意味で、卑屈なヘタレの妄想オヤジが散々ナレーションで気の滅入るような愚痴と妄想を語り倒した挙げ句に、自分の娘を犯したと誤解してまったくの勘違いから無関係な人間を惨殺するという筋立ては、ペドフィリアの欲望を鬱陶しいくらい戯画化している。

当然ギャスパー・ノエは卑屈なヘタレの妄想オヤジではないだろうし、馬肉屋でもないだろうが、そこで描かれているのがノエ自身の妄想的な欲望の在り方に対する暴力的な自嘲であることは想像に難くない。

これを教科書的に読み解くなら、逞しい性行為を連想させる馬という大動物を殺害し解体して、食材としては下等な桜肉として食卓に提供することで日々の糧を得ている社会の最底辺の卑屈な中年男という構図は、生命力溢れる真っ当な性行為に対する不能者の嫉妬という退屈なモチーフを連想させるし、だから劇中における少女に対する欲望は嫉妬とマッチョなプライドに基づく無意味な殺人という「間違った暴発」に帰結するのだろう。

劇中の馬肉屋は世間に踏み附けにされる卑屈な最底辺の人間であるが故に周囲のすべてを憎んでおり、彼の周囲の人々への怒りや憎しみが内心の吐露として過剰な言葉によって語られ、その憎しみや屈辱の発露としての暴力やマッチョな行為が妄想として描かれるが、その語りや妄想の激しい暴力性が画面に叩き附けられた直後に現実の彼の卑屈な振る舞いが描かれることで、悪意的な嗤いの感覚が生起する。

この映画の短い尺ですらうんざりするほどにこのオヤジの愚痴と妄想が繰り返し描かれた末に、それらのストレスと暴力衝動は、最終的に「間違った対象に対する理不尽な暴力」として決着する。気取って言えば、少女に対する欲望というのもやはり「間違った対象に対する理不尽な暴力」の衝動なのであり、この作品はそのような整合しない欲望と衝動の在り方について露悪的に誇張して描いた悪趣味な映画である。

その意味ではフランス映画らしい非常に知的で持って回った分析的視点に基づいて構築された作品だと思うのだが、そのような知的な操作に基づいて描かれているのが所詮はグロテスクに暗喩されたペドフィリアのマスターベーションにすぎないことで、観客は何うリアクションして好いのかわからない居心地の悪さを感じるのも事実である。

この映画が非常に男性的な視点によって描かれたものであることは、さまざまなレベルにおいて容易に感得可能だが、ノエと共に一連の男性的な作品を製作してきた女性監督が類似の題材を扱った場合には何うなるのか。

オレはカルネを観た後にとくにギャスパー・ノエという名前に注目して動向を見守っていたわけではないので、続編の「カノン」も含めてその後の作品を目にしていないし、パートナーであるアザリロヴィックが監督した「ミミ」も観ていないのだが、ノエの作品が窮めて男性的な関心に基づいて語られているものである以上、女性監督が同様の関心に基づいて同様の主題を語るはずがないとは思った。

おそらくカルネの不快な男性性からはフリーだろうし、不能性に対する苛立ち・嫉妬という厭なモチーフを過剰に露悪的に戯画化して描く語り口はあり得ないだろう。それやこれやを考え併せて、且つは先日の自分語りであのようなことをカムアウトした手前もあり、筋から言っても観に行くべきだろうと結論附けた。

とは言え、上映館をチェックしてみると当然ながらエコールなんて動員の悪そうな映画を上映しているのは都内でも渋谷シネマライズ一館しかない。所謂単館系である。一体にオレはこの種のアートシアターとかミニシアターの類が剰り好きではないし、練馬の田舎から渋谷に出張るのも今更億劫だとは思ったのだが、一種のロミオとジュリエット効果とでも言うのか、日頃の感覚で言えば面倒があるだけに却って観に行かねばならないというような根拠のない使命感を覚えてしまった。

一応時間に融通の利く身の上なので、スペイン坂周辺が雑踏する週末は避けて週日の第一回目を観に行った。同館の別スクリーンで人気作の「木更津キャッツアイ」を上映していることもあってチケット窓口にはそこそこ人が集まっていたが、単館系映画を週日の初回に観に行ったのだから自由に席を選ぶことが出来て、最大の難関である居住性の問題はクリア出来た。

上映前に客層をざっと一瞥したところ、こんな題材の映画であるにも関わらず如何にもこの種のアートシアター通いを趣味とするような女性客が半数近くだったことは少し意外だった。また、それ以外の男性客もアート系の兄ちゃんや普通のシネフィルっぽい中年の客ばかりで、オレのような歪んだ使命感で来ていそうな人間は皆無だった。

外に特筆すべきこともないのでとっとと映画本編の話に移るが、トレーラーが明けて本編上映が始まった途端、いきなり長々とスタッフクレジットが映し出されるのには些かか参ってしまった。後で調べてみると、おそらくこのスタイルはノエの「アレックス」に影響を受けたものだろうと想像するが、その時点では意味不明の重低音でノイズが流され、それに被せて動かないクレジットが五分間に亘って延々続くのである。

僅かにワンカットだけ地下道を運ばれる棺が冒頭近くにインサートされるのだが、それ以後はずっと黒味に上下のブレる古臭いクレジットのみの絵面が続く。剰え、フランス語で書かれているので普通の日本人にはクレジットを読んで退屈を紛らわすということさえも出来ない。

たださえ一〇分以上のトレーラー映像で退屈しているのに、この上さらに面白みのないクレジットが五分も続くのは苦痛だったし、クレジットの文字の輪郭が潰れていて上下にブレるのも厭な予感を醸し出した。これが意図的な画面効果なら、それもタイトルデザインという映画の表現の一部だから構わないのだが、何うも視たところ単にプリントの状態が悪いようにしか思えない。

漸くクレジットが終わって本編が始まってみると、やっぱり画質が極端に悪い。プリントの状態が悪いとか粒子が粗いというより、ビデオ素材をキネコに起こしたようなノイジーで規則性のある潰れ方で、まあ普通に言えば金をとって見せるような品質ではないだろう。

封切り後数日でこれほどプリントが荒れるということも考えられないので、元々そのような素材だったとしか考えられない。どのようなルートでプリントを入手したのかは識らないが、本当にビデオのキネコである可能性は窮めて高いと思う。

オレが劇場まで映画を観に行く基本的な動機として、オンタイムで映画を観たいということよりも、プリントの状態が良い裡に本来の上演形態で観ておきたいという動機のほうが強いので、最初から状態の悪いプリントで見せられたことには正直言ってムッとしたことは否めない。

ただまあ、この種の単館系公開の映画は、スクリーン数を絞ることでしかペイしないような関心層のパイが少ない映画を曲がりなりにも観られるようにすることで興行として成り立っているのだから、物によっては剰り贅沢を言うのも筋違いだろう。そのように考えて何とか不快感を宥めた。

歳をとって少しは物事の事情がわかるようになってからは、益々画質に対するトレランスが低くなってきてはいるが、無理筋を言っても仕方ないだろう。フランス本国は識らず、おそらく日本を含めて現実的にはこれ以上のグレードのプリントなど流通していないのではないかと思う。或いは後述するようにこの映画はシネスコの画郭なのだが、アナモフィックを用いた35ミリの撮影ではなくスーパー16方式だそうなので、そのせいでもあるかもしれないが、そうであるならこの世にこれ以上マシなプリントは存在しないということになる。

そうだとすれば、劇中の少女たちの最も美しい瞬間を永遠の映像に留めるフィルムがこの程度の画質なのは、甚だ勿体ないと悔やまれてならない。やはり、移ろい行く美を扱う映像は可能な限り美しくあってほしいものである。

とまれ、今更言ってもしょうがない話はこのくらいにして内容に触れると、一応映画のリズムとして冒頭にクレジットを流すスタイルは、映画の構成上整合しているように思えた。正体不明の重低音のノイズは、クレジット明けの映像によって水中で捉えた滝音であることが説明される。因みに、この映画は極力劇伴の音楽を排してこの種の自然の生音のみで構成されているが、その手法はかなり効果的に活きていたと思う。

うんざりするようなクレジットが終わると、カメラは緑色に淀んだ水を激しく掻き乱す大量の泡を映し出し、そこから浮上して先述の滝の風景が映し出されるが、それとは何の繋がりもなく地下道を運ばれる棺に再びカットして、物語の後半で明かされる学園の地下構造をモンタージュで紹介するが、この時点では何が紹介されているのか明示的には諒解出来ない。

黒味にクレジット、地下道に棺。これがこの映画の前置きとして機能する映像の要素であり、クレジット周りの流れは水中で聞こえる滝音で修飾されている。水の中で聞こえる音というのは耳を塞いだときに聞こえる音に似ているが、それはつまり、人間の体内の音だということで、この場合、体内を胎内と言い換えてもいいだろう。

映画について事前情報を得ていればそのようなイメージ上の連想が働くだろうし、本編のストーリーが始まる前に本来映画の最後に配置されるべきスタッフロールが、これから誕生を控える胎児が聞いているような水音と共に映し出されることで、時系列上の転倒のイメージが生起する。

さらにはそのような映像とカットバックして地下道を運ばれる棺が映し出されるが、これは普通に考えれば死のイメージである。だが、棺と地下道によって暗示される死のイメージは本来下降の運動性を伴う冥界行の隠喩であるはずだが、この一連においては、カメラは空舞台の階段を段階的にカットしながら這い登っていき、ここから本編の物語が開始される。

そして、それに続くシーケンスにおいて、この地下道を通じた棺の運搬が誕生に擬せられていることが判明し、だとすれば死のイメージに彩られた冥界行を思わせるこの地下道の一連も、一種産道のような生への通過点としてのイメージと意味附けられていることが諒解される。ここにも時系列上の転倒のイメージがあるのである。

この不可解な冒頭のシーケンスを終えて、室内に安置された棺に三々五々少女たちが歩み寄ってくるところから本格的に物語が始まる。芝居らしい芝居はこのカットから始まるのだが、このカットの撮り方がこの映画全体の肌合いを端的に象徴しているだろう。

画面の中央には七芒星という特定の宗教を明示するニュアンスを排した紋章が刻まれた棺が据えられているが、そのアングルではポツポツと歩み寄ってくる少女たちの腰から下しか画面に映らない。つまり、短い白のプリーツスカートから覗く、さまざまな年齢の少女たちの白い脚しか映っていない。このカットは、棺の周囲における少女たちの白い脚の戯れとして提示されているのである。

たしかに劇中人物の訪れを足許の映像だけで表現する手法は一般的だが、このカットのアングルは「足許」ではなく明確に「腰から下」だけが映るようにセットされていて、要するに少女のエロティックな下半身をフェティッシュに切り取る画角である。短い白のプリーツスカートを履いた少女の下半身をエロティックに感じなかったら、こういう中途半端な画角にはならないはずである。

つまり、この映画は短い白のプリーツスカートを履いた少女の下半身をエロティックだと感じる人間が撮った映画だということが、劈頭でアカラサマに暴露されている。監督のアザリロヴィックが女性であることを識っている観客は、このカットによって多少違和感を感じるだろう。

短いスカートから剥き出しにされた少女の脚を、映画を口実として間近に窃視することによって歪な満足を得るというのは、窮めて男性的な欲望の在り方だからである。それはつまり、「棺の周りに少女が集まってくる」という叙述要素があるとして、それを叙述する映像の肉体性においては、少女の白い脚が最も見たいという撮り手の欲望があるということである。

これはオレの一方的な主観ではないと考える。教科書的に言うなら、劇映画の撮り方というのは、本来「物語を語るために最適の映像」を撮るべきなのであり、そうでない場合はそうでないなりの有形無形の特定の目的があるべきである。このカットの場合、普通にアイポジションから足許を撮ればいいのに、不自然なローポジションで明らかに少女の腰から下だけを映すことを目的に撮られていて、叙述的にはそれに何ら明確な意味がない。

剰え、このカットにおける人物の配置は最終的に本編の主役の一人である最年長のビアンカが到来して、カメラにお尻を向けて立ち止まるところで構図が完成する。この構図において中心に捉えられているのはビアンカのスラリと伸びた脚であり、もっと言うならポスターのメインビジュアルのアピールポイントにもなっている彼女の「ひかがみ」である。

一二歳の少女の美しい脚によって完結する構図の中心に「ひかがみ」が据えられているという事実を前にして、「それ以外」の解釈はあり得ないだろう。「ひかがみ」というのは、要するに上半身で言えば「脇の下」のようなものである。硬い運動性を示す部位の裏側にある柔らかい部分ということで、脇の下には一定のフェティシズムが付随するが、それを下半身で言えば「ひかがみ」にもフェティシズムが付随するということだ。

多くの人は「脇の下フェチ」と聞いて非常に下世話な助平心をイメージすることだろうが、「ひかがみフェチ」だって負けず劣らず下世話な助平心である。要するにこのカットに感じる違和感というのは、女性監督の作品であるにも関わらず、いきなり提示されるのがこの種の下世話な視覚的助平心であることによるものである。

それに戸惑う感覚というのは、オレのような歪な使命感で観ている観客においても同様に発生する。たとえば少女愛好者(言っちゃったよ(笑))がこの種の映画を観にくる感覚というのは、「うみ、そら、さんごのいいつたえ」や「機関車先生」をヨコシマな視点で視るような感覚に近似している。

その種の観客もつくり手も、表面上はそんなヨコシマな視点など存在しないように振る舞うのだが、何かの対象をエロティックに視る視点というのは、明示的でなくともそこはかとなく映像に滲み出るべき筋合いのものである。今挙げた二本の映画も、表面上はまったくそんな映画ではないにも関わらず、少女の肢体に纏わるエロティシズムがそこはかとなく滲み出ていたりするわけで、そこに一種つくり手と観客の間に密やかな共犯関係が成立する。

この映画についても「女性監督が撮った少女のエロティシズム」という触れ込みなのだからもう少しデビッド・ハミルトンのようなアート寄りの性格を想定するのが普通だろうし、そこに何らかの期待をかけるのであれば、アートの表現に見え隠れする少女への隠微な眼差しというあえかな共通項を媒介としてこそ密やかな共犯関係は成立する。

ところがこの冒頭で提示されているのは、割合男性的な窃視とフェティシズムの感覚なのであって、要するにまったくそんな映画なのである。「密やかな共犯関係」どころかこの映画を撮っているのはそんな観客と同類の心性の持ち主なのである。

言うならば、アイドルのPVを観ていていきなり水着の股間がどアップで映し出されたときのような「話がうますぎる」という戸惑いがある。そういうのが視たくて視ているわけだが、剰りにも直截に視たいものが提示されると引いてしまうところがある。

また、これは単なる偏見なのだろうが、女性にも当然女性なりのエロティシズムがあるとして、それはやはり男性のように脇の下が視たいとかパンツが視たいとか裸が視たいというような視覚的に即物的なものではないだろうという予断がある。

この種の映像作品で女性監督が表現する同性に対するエロスとは、たとえば並んで歩いている少女のうなじや後れ毛に感じるエロスとか、不意に身体が触れ合ってしまった瞬間のエロスとか、ある言葉を口にする唇の形やその動きに感じるエロスとか、妙な言い方になるが男性の場合よりも婉曲で観念的なエロティシズムが多かったと思う。

だから開巻劈頭でいきなり提示されるのが、フトモモが視たいとかパンツが視たいというレベルの男臭い即物的且つ窃視的なものであったということに、男性観客としてはたじろがざるを得ないのである。

剰え、寮の少女たちが全員揃って棺を開けると、中から「パンツ一丁の幼女」が出現するに至っては、剰りに話がうますぎて眩暈がする。おそらくこの場面で表現されているのは「誕生」のメタファーだろうから、棺の中から全裸に近い形で幼女が登場するのは平仄が合っているのだが、そんな映画であることが明示された直後であると妙に直截に感じてしまう。

さらに、棺から出て来た幼女・イリスにグルーミングを施し制服と学年を示すリボンを身に着けさせた後、学園の決まり事を紹介するために一行が外へ出た途端、激しく腰をグラインドさせフラフープに興じる少女やらダンスの練習で短いスカートの裾を割って側転する少女やらが賑やかにシネスコ画面の隅々に踊り出す。

監督のアザリロヴィックは、公式サイトにあるインタビューで「(シネスコを採用したのは)一度に複数の俳優を撮ることができ、それでいて威圧感がある映像が撮れるからです。つまりオープンに見えて閉鎖的な感じがするのです」と答えているが、これはつまり、シネスコの画郭を「横に広い」と捉えるのではなく「上下に低い」と捉えているということである。

そのためにシネスコの左右方向一杯に人物を入れ込んで横方向の広さを無効化しているということなのだろうが、この理論武装にも関わらず、感覚的な意味においては単純に画面の隅々に少女が大勢映っているという狙いばかりが立って見える。物語を推進する意味的なショットの脇で少女のエロい肢体を点景として入れ込むことが可能な画郭としてシネスコが選択されたようにしか見えないのである。

側転する少女は当然パンツ丸見えなわけだが、この種のフランス映画の場合、画面に少女の下着が映ったからと言って「それが何うかしましたか、ムシュー?」というような気取りがあるのが常であって、目的的にそれが視たいから撮った映像ではないというエクスキューズがあるものだが、ここまで道具立てが徹底されると、この映画においては少女のパンツはエロいものとして窃視の対象とされていると感じざるを得ない。

そこから場面が進展すると、いきなり水辺で大勢の少女がパンツ一丁で水練に励んでいる映像が続いて、「今度は水濡れ下着ですか」と圧倒されてしまう。カメラは自ら少女たちの群の中に入っていって、濡れて艶やかに輝く少女の肢体や透けたパンツの尻を間近に舐めるようにして画面に写し取る。

また、この映画の重要なモチーフとしてダンスがあるわけだが、ダンスレッスンの場面のコスチュームは「薄手の白のレオタード」というもので、つまり、全裸の上に薄くてピッタリした白い布が貼り付いているわけで、要するに「全身を覆うパンツ」のような下着感覚の衣裳であり、正味な話が、ダンスの練習着というよりエロ本の道具立てなのである。

ダンスの振り附けがバレエに類似のものであるにも関わらず、足許は裸足であり、そのために基本的にトウで立って演じるべきバレエの所作がかなり不自然に見える。その一事をもってしても、このシチュエーションが異性の視線を意識しない自然の姿やそのイノセンスを描いているのではなく、エロ本的な興味に基づいて演出された窃視の対象として少女を描いていることがわかるだろう。

つまり、本来ダンスの練習着というのは、ダンスの練習に最適な動きやすい衣裳であるべきであり、それが結果的に女性の肉体のラインを露呈しているというだけのものなのだが、この場合はダンスを口実として少女の裸体のディテールを表現するための目的的な衣裳に特化しているということである。

結果的に肉体のラインを露呈しているだけであれば、本来トウで立って演じるべきバレエの振り附けにおいて裸足であることには何ら理由附けがないからである。バレエという特定の舞踏形式のニュアンスを排したいのであれば、そもそもトウで立つような動きを入れなければ済む話である。

要するにこの映画で表現されている少女のエロティシズムとは、「パンティラ」「ひかがみフェチ」「水濡れ下着」「薄物レオタード」という、非常に即物的でエロ本的な性質のものなのである。

本邦が誇るロリ監督としては平成ガメラシリーズの金子修介監督がいるわけで、彼の映画の端々に逸脱としての少女愛好癖が見え隠れするわけだが、かなりアカラサマに少女愛を表出させる金子監督にしたところで、ここまで思い切ったエロ本感覚の下世話なエロを追求してはいない。

そこにはやはり「この子のパンツが見たいけど、見せちゃったら下品だよなぁ、だったらどうやってホントには見せないで見た気にさせることが出来るかなぁ」というような躊躇いがあって、そのせめぎ合いが屈折したエロ表現に昇華されるわけだが、この映画の場合、何というか剰りにも有無を言わさず見たいものを堂々と撮っているという剥き出しのナイーブなエロがある。

それが下品な助平心故の逸脱かというとそうではなくて、驚くべきことにこの映画はそれが本質的なテーマなのである。だから高尚なのかというと、ちっともそんなことはないと思うのだが(笑)、可愛い少女のあんなところやこんなところが見たいという即物的な助平心に一応の理論武装があって、その理論武装が映画のテーマになっている。

もっと言えば、ルシール・アザリロヴィックという歴とした女性監督の映画であるという事実によって、この映画の非常に男性的で視姦的で下世話なエロのテーマ性にアリバイが設けられているというのがオレの鑑定である。

前掲のインタビューを読むと、非常に隅々まで考え抜いて理論武装する監督であることが見てとれるし、実際映画を観るとその通りになっているのだが、誰がどのように観てもエロティックな映画であるにも関わらず、アザリロヴィックが少女に対してどのようなエロティシズムを感じているのかがまったく語られていない。

恰もエロスとはまったく無縁な教養物語的なファンタジーを企図して撮った映画であるかのような前提で話が進むのだが、それではこの映画について何も語ったことにはならないだろう。この映画がこのようなものである個別性とは、それが徹底的に少女に対する窃視的エロスで埋め尽くされている点なのであるが、そこには何一つ言及がないのである。

では、この映画がそのような下世話なエロに彩られているのは、男性である撮影監督のブノワ・デビエの個性なのだろうか。そのような側面もあるにはあるだろうが、それは本質的な理由ではないだろう。何故なら、この映画のそのような性格は撮り方だけの問題ではないからである。そのような窃視的な視線の装置としてカメラがあるとしても、その視線に晒される映画の肉体それ自体も窃視の視線に応じる道具立てに埋め尽くされているからである。

それより何より、このインタビューに顕れているように映画全体にトータルに関わるスタイルの監督が、作品の本質とは無関係な逸脱として撮影テイストの暴走を許すとは考えられない。公式サイトのスタッフ紹介で初めて識ったのだが、アザリロヴィックはノエの映画のほとんどで編集を担当していて、編集のスキルがあるということは一本の映画をフィルムの総体として視る技術的視点があるということである。

だとすれば、撮り上がった絵面が偶々エロかったとしてもまあいいや、これは撮影監督の領分だから、という考え方をする監督とはちょっと思えない。これまでのフィルモグラフィーを視ても、学生映画のようにトータルな領域で映画づくりに関与するミニマルな編成で映画を撮ってきた人材であるから、この撮影の在り方は監督と撮影監督の間で諒解があるものと考えるのが妥当だろう。

そのような下世話なエロが作品そのもののテーマ性と密接に結び附いているという感覚は、最後半で明かされる館の秘密、最年長の少女たちが小劇場で演じるお披露目のくだりで確信に変わる。この幻想的な少女の楽園は、実は最年長の少女たちが演じるダンスを夜会服を纏った紳士たちに金をとって見せることで経営が成立しているのである。

勿論、この設定自体は何ら現実的ではない。わざわざ高い金を払って少女たちの拙い学芸会のお遊戯を視るだけで満足する物好きな観客など現実には存在しないだろう。現実的な感覚なら、それは少女買春の品定めの趣向であるのが当たり前である。

実際、このくだりではそのお披露目を何だとも意味附けていないので、最終的に少女たちにどのような運命が待っているのかという不安が強調される。この幻想的な学園は、結局少女娼婦の養成所なのかという厭な予感が強化され、その予感はラストまで視るとあっさり裏切られる。金をとって少女のダンスを見せるという設定は嘘も隠しもなくただそれだけの寓意的な要素に過ぎず、現実的な意味やビザールな裏のシステムがオチになっているわけではない。

そしてこの場面で寓意されているのは、この映画をここまで見守ってきたオレたち観客の姿である。この場面のダンスの振り附けはやはり即物的にエロいもので、屈み込んだパートナーを高々と脚を上げて跨いだり、客席に背を向けて屈み込んだり、寝転んで脚を開いたりと、要するにバレエベースでありながら下半身のチラ見せを強調した淫猥さが仄かに味附けとして施されている。

この淫猥なダンスを見守る夜会服の紳士たちは、舞台からは暗く潰れてまったく顔が見えない。自身は視られずに相手を一方的に視ることが窃視の本質なのだから、この小劇場の観客たちは、この映画を視ている観客の在り方と二重写しになっている。金を払って秘密めいた劇場に入場し、自身はいっさい視られることなく少女たちの肢体を窃視の視線によって犯すという意味において、要するにその場の紳士たちはオレたち観客そのものなのである。

つまりこの場面では、それまで少女たちをエロい視線で一方的に視姦しているように思い込まされていたオレたち観客自身が、突然劇中に映し出されるのである。だが、この映画を下世話なエロの視点で視る視線はオレたち観客の中から出て来たものではなく、この映画自体の視線がそのようなものなのであり、それはそのように視るべく映画の肉体が観客の視線を誘導しているということである。

それなのに、映画のクライマックスではそのような誘導に随ってこの映画を視ている観客自身が、劇中の映像の中で突如として晒し者にされているのである。オレはこの描き方に悪意的なものを感じたのだが、監督自身の言ではそのような悪意は一言も言及されていない。

おそらくこの場面に関わるであろう監督の言葉は以下のようなものである。

この映画は、まさに小さな劇場のような映画です。その劇場の中には招待したお客さま自身がいるのです。この映画に魅了され、惹きつけられ、終わったあとでも楽しく思い出せるような映画であることを期待しています。少女たちの世界に入り込み、自分たちの映画を作る人たちにアピールするような映画になるよう意識しました

つまり、アザリロヴィック自身はこの場面をとくに悪意的なものとして意図していないということである。だとすれば、この映画の具える下世話なエロの感覚は批評的な観点から生み出され対象化されたものではなく、やはり撮り手自身がそのようなエロスを肯定的で快いものと捉えているということではないのか。

オレは劇場でこの場面を視たときも唖然としたが、それをつくり手がこのように語っていることにさらに唖然とした。先に挙げた「パンティラ」「ひかがみフェチ」「水濡れ下着」「薄物レオタード」等々の即物的で窃視的なエロスは、女性監督の作品であるにも関わらず、不快な視線の暴力としては意味附けられていないということなのである。

この女性監督は、たとえば少女の下着やピッタリした身体のライン、下半身のチラ見せなどのエロ本的な窃視のエロを、安んじてコージーに楽しんでくださいと言っているのである。下世話なエロの視線に少女たちが容赦なく晒されるこの世界に安心して入り込んで楽しんでくださいと言っているのである。性的肉体的に未成熟な少女たちを視線によって穢すことで生起する、妄想としてのエロスを肯定しているということなのだ。

これはちょっと感動的なまでの驚きであると同時に、作家のセクシャリティというのは如何なるものなのかと疑問に思った。映画を撮る行為にトータルに関わってきた女性の感覚は、やはり世間一般の女性が抱えるセクシャリティとは異質なものなのだろうか。こんなことで戸惑うオレ個人の感覚が古臭いのだろうか。

異性である男性観客の観念として、女性作家の少女に対するエロティシズムというのは自身の少女期の肉体性に向かう自己愛的な関心が核にあると図式化しがちだと思うのだが、勿論登場人物の造形には監督自身のさまざまな面が結果的に投影されているとはいえ、監督自身はとくに意識的に当時を振り返ったりノスタルジックな意味合いで撮ったわけではないと語っている。

小劇場のくだりで描かれているのは、つまり顔の見えない紳士たちから金をとって淫猥で拙い少女たちのダンスを見せる舞台がこの映画全体を象徴する自己言及であるということである。この場面の紳士たちは少女を金で買って弄ぶ現実的な意味で悖徳的な大人の男性ではなく、少女を視線によって穢し性的な妄想を弄ぶことで自足する映画の観客だということであり、その悦楽は映画のつくり手である女性監督と共有されているということなのである。

この映画の何がミステリーだと言って、それが一番不可解である。

この場面の少女たちの衣裳には蝶の羽が附いていて、蛹から脱皮する蝶がベタに卒業のメタファーとして描かれていたり、この学園から出ることを許されない女性教師が蝶の標本をコレクションしていたり、劇中では少女たちの象徴として蝶が扱われているのだが、成長物語の隠喩としてはベタに過ぎて退屈な喩えである。

だが、女性教師が蝶の標本を拵える場面を視るとき、やはり映画的な記憶としてテレンス・スタンプの「コレクター」を想起しない観客はいないだろう。不意に莫大な遺産を相続したことで、女子大生の拉致監禁を実行に移す青年の狂気を描いたこの映画は、誰が視てもエコールと構造的な共通性がある。

コレクターが製作された当時の感覚では女子大生というのは立派な「少女」であり、蝶の標本のように美しい少女をコレクションしたいという普遍的な妄想の実現をドライなタッチで具体的に描いているのがこの映画の眼目であるわけだが、エコールもまた幻想の意匠を籍りて美しい少女をコレクションして愛でるという構造の映画である。

作家の脳裏にコレクターの存在がなかったはずはないと思うのだが、鬱屈した変質者の奇怪な性犯罪として描かれていたコレクターに比べて、エコールでは少女たちを拉致監禁する行為者の具体的な姿は描かれないし、明確にそれ以前の来し方が存在するにも関わらずそれを徐々に忘れていくという隠れ里のようなニュアンスで装置化されている。

いわば映画そのものが美しい少女たちを拉致監禁し、男性の存在しない異界を成立させるための映像の装置として機能しているのである。つまり、少女しかいない世界というのは、少女しか視たくない視線によって生起された世界なのであって、男性が欠落した世界なのではない。映画を構成する視線そのものが男性性なのであり、映画そのものが男の部屋に飾られた蝶の標本箱なのである。

美しい少女たちしか存在しないという男性にとって一方的に都合の好いこの箱庭のような世界は、言ってみれば押井守の「ビューティフル・ドリーマー」のような心象世界なのだし、「うる星やつら」「天地無用」「ラブひな」のような落ち物・ダメハーレム物に近縁の世界である。

この男性的な楽園である異界からの脱走を試みる者は、たとえばイリスと同い歳の新入生であるローラは学園に馴染めず家庭を恋しがり、選抜されて外の世界へ出るチャンスのある青リボン組のアリスは箱庭的世界への厭悪から外の世界に憧れる。

一種それは、無前提に投げ出された窃視の対象である美しい身体性が、家族への郷愁や男性への憧れという生臭い動機に囚われる事態であり、映画のストーリーはそのような人間として当然の動機を許容せず、飽くまで少女たちに視覚的妄想の対象としてのイコンであり続けることを強要する。

ローラは底の抜けた小舟で小川に漕ぎ出して嵐の中で溺死するし、アリスは選抜から洩れて怒りを爆発させるが翌朝何の抵抗もなく塀を乗り越えて外の世界に消えていく。

そのようにして学園からの脱出を試みる者は、成功するにせよ失敗するにせよ学園内の少女たちの記憶から消え去るのみであるが、この映画においては脱出を阻むために高い塀以外のどのような装置があるのか、また、失敗して連れ戻された少女がどのような罰を蒙るのか、それだけはまったく描かれない。脱走に失敗したローラは死んで戻ったから優しく荼毘に附されたのであり、強制的に連れ戻されたわけではない。

「脱走すると罰が与えられる」「一生他の少女のために奉仕させられる」「エディット先生は脱走して連れ戻され脚を叩き折られた」という真偽の定かならぬ噂が少女たちの間で交わされるだけであり、それが本当か何うかは最後まで語られない。要するに規則の強制力と少女たちの無責任な噂が緩く脱走の意志を阻んでいるだけである。

つまり、劇中では実際の罰や暴力の脅威ではなく、強制と服従という観念上のルールが働いているから少女たちは逃げないのであり、それは従属の美徳という女性性に付会して語られているわけだが、この故に拉致監禁=コレクションの暴力性は曖昧な仄めかしの域に留まっている。少女たちに奉仕する老女、脚を引きずるエディット先生の姿が、妄想として曖昧な強制力を醸し出しているだけである。

ついでにこのエディット先生ともう一人のエヴァ先生について触れておくと、監督はこの二人の大人の女性を「少女たちにとって大人のロールモデル的存在」と規定しているのだが、「ただそこには問題がありました。一人は足をひきずっていて、もう一人はとても不幸な様子をしている、ということ。このことは何かミステリアスな不一致感と、私の好む性的困惑を生み出してもいました」と続けている。

おそらくこの二人の大人の女性がそこにいる具体的な背景やシステムを推理しても無駄である。不具であったり不幸であったりという欠落を持った大人の女性が少女たちの大人としてのロールモデルとして学園内に存在するというだけのことである。男性との交わりを禁じられ、他人に奉仕するのみの老女や、欠落を持った大人の女性が存在することで、少女の時の特権的ユートピア性が強調されており、性成熟のもたらす不吉な予感や性行為に対する畏怖が意識化されている。

この学園内のロジックにおいては、男性と恋をしてセックスすることは全然良いことではないのである。少女としての無目的且つ無前提に美しい身体性を育て、それを窃視して愉悦に浸る映画の視線だけが肯定されているのであって、初潮を迎えて最も美しい身体性のピークに達した少女たちは、夜毎舞台上で夜会服の紳士たちに視線の愉悦をもたらし、そしてそれが過ぎれば外の世界に放逐されるだけなのである。

この学園は外の世界の何かのために何かを準備するためのものではないし、全体的な女性性についての何らかの言及ですらない。美しい少女を拉致監禁してエロティックな視線に晒すための目的的な映画の装置なのである。

イリス、アリス、ビアンカという年代別の三人の少女によって交替で演じられるこの物語は、最年長のビアンカが地下道を通じる地下鉄という異界化の装置を逆に辿って外の世界に放逐され、駅前の噴水で無邪気に水遊びに興じているところへ早速青年が近附いてくる場面で幕を閉じる。男性の存在しない学園内の意識のままに立て膝をつきパンツモロ出しで靴を脱いで一二歳の少女が水浴びしているのだから、この青年の下心は見え見えである。

恋愛とセックスという生々しい行為を予兆するこの一連の映像において、ビアンカは学園内で演じられたドラマとはまったく無関係にあっさりと青年に微笑み返す。男性が欠落した楽園の記憶とはまったく無縁に、初めて出会った男性の接近を受け容れにこやかに微笑んでみせるわけで、初めて男性と接した戸惑いなどはまったく描かれない。

ビアンカはアリスのように一途に外の世界に憧れるわけでもないし、イリスのように学園の居心地良さに甘えるわけでもない。卒業を控え性成熟を迎えた最年長者としてその両方をアンビバレントに感じている存在として描かれている。

最年長者の役回りを引き継ぐためナディアを伴って舞台で踊る一連の場面では、桟敷席から投げられた造花の薔薇と天鵞絨の手袋を自室に持ち帰り、夜半にダビデの立像を視ながら手袋を填めた手で自身を愛撫するという際どい描写が描かれ、さらにそれを翌朝小川に投げ捨てるという描写で性に対するビアンカの距離感が描かれる。それはビアンカがもうすぐ学園と切れる時期にあるからである。

セックスとは無縁の位置にあるからこそ少女は窃視と妄想の対象たり得るのであり、自身が性的な肉体性を手に入れてしまえば、最早視線の箱庭たるべきこの学園から放逐される以外にない。

初潮を迎えて大人の身体になった以上、ビアンカは最早学園とは関係ない存在なのであり、さっさと男性を受け容れてさっさとセックスするだろうことは疑い得ない。男性を受け容れることが学園の教育のゴールなのではなく、学園と切れたから男性を受け容れるのである。学園は、そこに存在する少女たちの美しい身体性を囲い込んで養育し愛でるためだけに存在する、窃視する視線のためのユートピアなのである。

これがそれ自体歪な映画であることは間違いないが、何度も繰り返す通り、それが女性監督の手によって生み出されたという事実のほうがもっと歪である。画質が悪いことや主役の少女たちの容貌が絶対的な意味ではイマイチなところを除けば、少女のエロスに関心のある男性観客にとって話がうますぎる映画である。

事実において男性であるギャスパー・ノエ監督の作品よりもある意味では男性的で、少女にとっての楽園を擬態しながらそこに現出されているのは男性にとっての楽園なのである。そんなうまい話が女性作家によってもたらされたことに、何うしても違和感と警戒感を拭い去れない。

この映画を観て男性観客が居心地の悪さを覚えるとすれば、そこだろう。それよりオレが気になるのは、あのとき半数以上いた女性客たちがこの映画をどのように観たのかということであるが(笑)。

そもそも彼女たちは、この映画が少女のパンツやフトモモを視て楽しむ剰りにもそのまんまな映画だとは予想もしていなかったのだろうか。そうだとすればお気の毒という外はない。おそらく「女性監督が描いた少女のエロス」という謳い文句を聞いて「フランス映画の馥郁たるかほり」のようなものを期待したのだろうから、少なくともオレみたいに長々と鑑賞記を書こうとは思わないだろう。

まあ、結論めいたことを言うならば、ここでこのようなエロまみれの駄文を一本物したことも含め、一応一八〇〇円の木戸銭の元はとれたと満足している。

蛇足ではあるが、この映画の原作の「ミネハハ」という小説は、ダリオ・アルジェントの本邦初公開作品である「サスペリア」の原作でもあるということで、この二本の映画から原作がどのような話であるのかを類推することは難しい。

たしかにバレエ、少女だけの寄宿舎、地下の抜け道等々、道具立ては多少共通しているのだが、話の内容はまるっきり違う。剰え、サスペリアもエコールも原作をそのまま映画化したものではなく独自の脚色を加えているらしいので、どちらが原作に近いということもないらしい。劇場内で原作小説も売っていたのだが、流石に原作を読むほどの興味も感じなかったので買わなかった。

一つだけ気になるのは、サスペリアと同じ原作を使っているから主人公の名前が「イリス」なのかということなのだが、当然この少女が青いわけでも三回廻されるわけでもないことは言うまでもない。

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