Exposition
もう一一月ということで、時の経つのは真に早いもので、秋の新番組のほうも概ね一カ月分を消化した頃合いである。アカネをこき下ろすのにも飽きたので、ぼつぼつ他のドラマのその後もフォローしていこう。
月九の「のだめカンタービレ」についてはすでに語ったが、この種のドラマだけに大した作劇のバラ附きもなく、毎週楽しめている。とくに今週の第四話などは、ベタに盛り上がってちょっとうるっときた(笑)。
落ちこぼれ楽団がすったもんだの末に一念発起して力を附け、変なパフォーマンスを交えた型破りな演奏に大指揮者がブラヴォーを叫んでスタンディングオベーションを送るなんて、ほとんどこれはもう神話の部類に属するベタである。その大ベタがこういう嘘臭い語り口でド真ん中にヒットするとこれだけハッピーに感じられるのかと久々に気持ち好く嘘事を楽しんだ。
落ちこぼれVSエリートという図式はこの種の物語の黄金パターンなのだが、近年この大ベタパターンを軽々しく用いながら、その骨法をまったく理解していない作品が多くて辟易していたこともあり、原作の筋書きに沿っただけとは言えそこが出来ているベタにはどうしても好感を覚えてしまう。
落ちこぼれVSエリートパターンの物語が普通一般の観客にアピールするのは、どんな強大な相手であろうとも同じ人間同士なのだから努力次第で勝つことは可能だという普遍的な主題を謳っているからである。この場合エリートの存在は、劣位者が優位者に勝つという番狂わせを演出するための当て馬であり、負けることが宿命附けられているからこそ、負けても過剰に気の毒に感じられないように憎々しい高慢な人物として描かれるのが常である。
この間の序列を履き違えて、憎々しい高慢な人物をやっつけることでカタルシスを得られるのがこの種の物語の要諦だと考えるのは下司な勘違いである。この種の物語でありながら、劣位者が優位者に勝つための努力や力を附けるプロセスの描写を重視していない作品は、要するにそこが決定的に間違っているのである。
要は主人公である落ちこぼれが勝てばいい、敵役であるエリートが惨めに負けて恥を掻けばいい、そういうふうに考えてつくった作品は安さがぷんぷん臭ってくる。引いてはただの凡人の一般観客にとって妬ましい存在であるエリートを痛め附けて見せれば観客は満足すると考えているのであり、それは一種の観客蔑視である。
しかし「のだめ」の場合、大本の物語構造自体に捻りがあって、尚且つ大ベタの基本要諦を押さえているから、こういうガチャガチャした嘘臭い語り口でも、落ちこぼれのSオケがエリートのAオケに勝つというベタな筋立てに健全なカタルシスがある。
そもそもAオケに対するSオケの位置附けは複雑怪奇なものであって、学内から選抜された優秀者によるオーケストラという意味では実はこの両者は同列なのである。通常の意味での成績優秀者ということではAオケのほうがわかりやすいというだけで、Sオケも一見して不可解な基準で選抜されてはいるが、音楽に関しては嘘偽りない見識を持つシュトレーゼマンが直々に学内を見回って親しく選んだ人材なのである。
さらに、そのSオケを率いるのは学内随一の実力を持つ天才肌の千秋真一であり、そういう意味ではトップのエリートはSオケの側に配されているのである。そして、カウンターウェイトとして世界的指揮者のシュトレーゼマンがAオケの側に附くことで巧妙にバランスがとられているが、実際には落ちこぼれ集団ではなく、この抽んでた天才的エリートが主人公なのである。
ただ、この天才的エリートには欠落が設けられていて、飛行機恐怖症と水恐怖症の故に海外留学が不可能であるという条件附けによって、失意のドン底から物語がスタートしている。今まで世界レベルという「上」の方向ばかり視てきたエリートが、失意の直中で学内の落ちこぼれという「下」の方向に目を遣ることで人生の転機を迎え、再び世界のレベルに勇躍するという目紛しい上昇と下降の運動性がそこにある。
そして、ここまでの物語において千秋真一という人物を規定する絶対要件とは、どんなに不遜で傲慢な人柄であろうとも、音楽に対しては超絶的な理解力を具えており絶対的に誠実であるということである。普通の人間関係の上では相容れない資質を持つのだめやSオケの仲間たちに対しても、音楽を媒介とすることで絶対的に誠実に対応するという基本要件が千秋真一をただの高慢なエリートにはしていないのである。
物語の開始点において千秋とのだめが接点を持つのは、千秋がのだめの演奏の具える型にはまらない美しさを理解したからで、天才でありエリートであり傲慢不遜な変人でさえありながら、教条的な音楽観に囚われない柔軟性を持ち、どんな形であれ音楽の美しさの前には素直に跪く人物であることが提示されている。
普通なら千秋のような氏素性の人物が、のだめのような対照的な造形の人物に振り回されるという筋立てには、一種のヌルさが附き纏う。大概の場合、のだめのような人物が千秋のような人物に対して影響力を持つとしたら、それは対人関係上の「ノリ」の問題に決着してしまうからである。一種受け身の資質の主人公がエネルギッシュなノリを持つ他の人物たちの対人的影響力によって右往左往させられるというのが一般的な作劇の力学である。
要するに「心ならずものだめのペースに巻き込まれて」という形で描くのがこの種のスラップスティックの常套なのであるが、実はここまでの発端編においては、千秋がのだめに振り回されているのは、対人関係上のノリの問題としてのだめのペースに巻き込まれているからではない。
それは千秋真一の造形が、この種のスラップスティックの主人公としては過剰に意志的であるが故に、他者の影響力に踊らされる受け身の立場の人物として描くことが困難であることからもわかるだろう。本質的に善良で面倒見の好い性格の故にダメ人間ののだめに頼られると無碍に排斥出来ないという弱みもあるが、千秋の人物像からしてどうでも好いと思えば幾らでも自身の生活圏からのだめを排除可能なのである。
第一話で千秋がのだめを排除出来なかったのは、現状の千秋の音楽観においてはのだめの演奏の美しさを正しく秩序附けて受容することが出来なかったからである。その真意はのだめ自身が識っているわけでもなく、千秋の音楽観が一段成長しなければ何故そのような美しさがあり得るのかが秩序附けられないのである。そこが弱みとしてあるからこそ、自堕落な変人ののだめを一方的に排除することに躊躇いが生じるのである。
そして、第一話のエピソードでは、徹底して千秋とのだめの人物像のギャップがもたらすスラップスティック描写に徹していながら、この両者の相互接近の契機をもたらすのは有耶無耶の「ノリ」ではなく、演奏の美しさという絶対的な実感なのである。それまでの千秋が信奉していた厳格な音楽性ではなく、奔放不羈な即興性によって美しさを発揮する演奏スタイルとの出逢い、そしてその受容がそのままこの二人の相互接近の契機として機能しているのである。
それは、千秋真一という人物の絶対的規範が音楽に対する優れた理解力と誠実さに置かれている以上、この上なくロジカルな作劇の筋道である。
そして、ここまでの物語においては、対人関係上の資質としては相容れない他者との軋轢を面白可笑しく狂騒的に描いていながら、最終的には必ず音楽を媒介にして千秋が他者を受容し、併せて千秋の音楽家としての成長が得られるという筋道を墨守しており、その意味で作劇のロジックに揺るぎがない。
のだめという飛びきりの変人を端緒として出逢いが設けられ、まず彼女の型にはまらない破天荒な演奏を介して他者の受容が描かれ、次いで峰龍太郎もまた「こいつものだめなのか」という形で受容が描かれ、最終的にはSオケ全員に対して「こいつら全員のだめなのか」という受容が描かれる。
さらに言えば、千秋が音楽を媒介にして他者を受容し、音楽家として一段成長することでその相手もまた何らかの形で前へ進むという筋道になっていて、たとえばのだめは千秋に惚れ込むことで一種音楽家としての上昇志向の端緒を得るのだし、落ちこぼれとしてのコンプレックスと表裏一体でロックを標榜していた峰龍太郎はクラシックへ向かい合うモチベーションを得る。そして、千秋の他者受容がSオケ全員に及ぶことで、落ちこぼれの集団はユニークな音楽性を持つオーケストラに変貌する。
落ちこぼれ集団の変態オケが妙竹林な演奏で大喝采を浴びるという大ベタが成立するまでには、このような構造面でのロジックがあるのであり、エピソード単体として視ても劣位者が優位者に互して力を附けるプロセスが無理なく描かれている。
エリートと落ちこぼれを隔てるのは、持って生まれた才能や経済環境ではなく、血の滲むような努力であるという一貫した原理が描かれており、苟も音大に合格するだけの資質を具えた者であれば本質的な出発点は変わらないという健全な信念が、繰り返し強調されている。無論、世界のレベルへ勇躍する際には「努力の量が同じなら結果の優劣を隔てるのは生まれつきの才能」という非情なロジックが浮上するが、それは落ちこぼれるとか落伍するとかいうのとは別次元の話である。
落ちこぼれの落ちこぼれたる所以とは、何ら先行きの保証がなくても自身のベストを尽くすだけの気概の欠落であり、世界的指揮者のシュトレーゼマンの眼鏡に適うだけの潜在的資質を持ちながら落ちこぼれの境涯に甘んじていたSオケメンバーが、千秋とのだめの介在によって、少なくとも初演奏で喝采を浴びるまでの成長を果たす筋道にはささやかな興奮がある。
そのようにしてミニマルな主題が段階的に成長発展する作劇法は、一種クラシック音楽に近似の作法であり、「歌うように語る」と評するに相応しい。設定提示編、発端編としては構造的に無類の美しさを具えている。
ここまでの四話のエピソードによって、千秋は喪いかけていた指揮者への夢に大きな一歩を踏み出し、自身の限られた才能をも腐らせていたSオケメンバーは、演奏者としての自身の在り方に自覚的になる。そして、そのような運動性の端緒をもたらしたのだめ自身は、千秋への恋心とSオケとの関わりの中で、音楽と共にある楽しさから音楽それ自体と向かい合う姿勢へとシフトしていく。
ソナタ形式とのアナロジーで言えば、第四話の時点で全体の三分の一を費やして提示部を終えたところであり、この後展開部と再現部、そしてコーダが続くわけだが、たとえばWB形式のスポーツ青春ドラマならば、第四話のようなエピソードをシリーズ全体の落とし所に設定したことだろう。だが、この物語においてはそれは千秋とのだめを中心とする演奏家たちの賑やかな音楽人生のスタートラインを提示したにすぎない。
オレは原作を通読したわけではないからこの先の流れはそれほど識らないが、この種の物語においては、果てもなく続いていく日常を描くよりも特定のイベントをゴールとして収斂していく筋立てを語ったほうが盛り上がることはたしかである。だから、WB形式のドラマでお披露目を全体のゴールに設定しているのは形式的に正しいのだが、この物語においては千秋とのだめを中心とする人々の演奏家人生の発展が眼目に据えられている。
そこに不安がないでもないが、いろいろと情報を収集してみるとそれなりに盛りだくさんのイベントが設けられているようではあるし、ここからが本格的に面白くなるようなので、楽しみに見守らせてもらおうと思う。
因みに、先ほどSオケがAオケに「勝つ」という表現を用いたが、ドラマ本編をご覧になった方なら御存知の通り、実際にはAオケはシュトレーゼマンのサボタージュの故に満足に実力を発揮出来ずに終わっており、厳密に言うならSオケとAオケの勝負は成立すらしていない。
ここのくだりが原作通りかどうかは識らないが、作劇処理としてはちょっと上手いなと感心した。たしかにこの流れにおいてはAオケの演奏シーンは不要であり、さらにAオケが峰龍太郎を導く三木清羅によって代表されている以上、惨めな敗北を喫するという描写もまた不要であり、Aオケの演奏が正統的でハイスキルなものと予め説明されている以上、AオケとSオケの演奏の対比すらも必要ではない。
そもそも番組に音源を提供しているのだめ楽団の演奏として、オールレンジの視聴者が画然と意識し得るほどドラスティックに演奏スタイルを変え尚且つそれぞれに別の魅力を付与することは、やってやれないことはないだろうが、視聴者一般のクラシックリテラシーから考えてさほど意味のあることではないだろう。
クラシック愛好家や余程耳の良い人以外の大多数の視聴者にとっては、同じ演奏の退屈な繰り返しにしか聞こえないだろう。それが出来たとしても一部のクラヲタのプライドを擽る楽屋オチにしかならず、ドラマの受け手一般というマッス全体に関係するクライマックスの道具立てとしては、意味のある要素ではない。
劇的な呼吸としては、千秋とSオケの会心の演奏とスタンディングオベーションをクライマックスに据えて、その流れの余韻のままにエピローグを描くほうがすっきりと話が纏まる。だとすれば、順序を入れ替えてAオケの演奏後にSオケの演奏を描くという選択肢もあるわけだが、何れにせよクラシック音楽の演奏という尺をとるシーンをTVドラマでただぼんやり流すわけには行かないから、Aオケの演奏シーンを描くのであればそれと併行してSオケサイドの動きを描かなければ絵面が保たない。
とくに描くべき事柄がないにも関わらず、ただAオケの演奏シーンを保たせるためだけに何か描写を入れるというのは窮めて不経済な尺の用い方であり、そもそも絵面を保たせるためにSオケの動向が描かれてしまうと、一般的視聴者がAオケの演奏なんか聞いているはずがない。つまり、何を何うやったところで、やっぱりそのシーンは無駄になるのである。
あれやこれやを考え併せるとAオケの演奏シーンを省くしかなくなるのだが、その一方でシュトレーゼマン脱退後もSオケが存続するには、一応形の上だけでもAオケに勝ったニュアンスにしておかないと話の繋がり上都合が悪い。
その意味で、若干唐突ではあるがシュトレーゼマンが仮病を使って指揮を大河内に圧し附けて去るという筋書きは、劇中における理由附けは単なる巨匠の気紛れなのかもしれないが、そうでなくてはならない劇的必然性があるように見える。これなら劇的な意味合いにおいて恥を掻いて負けたのは道化役の大河内だけであるから、真面目な優等生のAオケを過剰に貶めることにはならない。
こういう部分の作劇処理が悪くないから、このコントのようなドラマは信用出来るのである。前回触れたことではあるが、安いノリのコメディで後腐れなく笑わせるためには安いつくりではダメなのである。
そういうわけで大筋を語った後は恒例の雑談モードであるが、これまでのエピソードの中で言えば、ちょっと第三話は通常の挿話類型から逸脱してすぎていて、誇張の過ぎる佐久家の事情に偏した構成なのが中だるみ感を醸し出しているし、個人的にサエコが好きではないのでその意味でもイマイチだったが、まあ好き嫌いの範疇ではあるだろう。お百姓の出としては地べたに落ちたお弁当を跨ぐ描写にも抵抗があったが、それは別にサエコが悪いわけではない(笑)。
原作のキャラをよく識らないので、元々こういうキャラなのかもしれないが、なんでこの娘が早口のアニメ声でセリフを喋ると逆ギレっぽく見えるのだろう(笑)。普通にコンバスを演奏しているところは綺麗に撮ってもらっているのだが、セリフを喋ると常にキレているように感じて生意気そうに見える。本人がかなり気の強い性格であるようなので、こういう不遇系の役どころだと生意気に見えるのだろう。
そういうところが沢……いや、何でもない、忘れてください。
因みに、サエコというと「小さい」という印象があるが、プロフを確認したところ、公式の身長は一五七センチということで劇中の桜ほど無闇に小さいわけではないようだ。公式設定上の佐久桜の身長は一四八センチだそうだから、一〇センチ近くサバを読んでいる。ただ、のだめの上野樹里が設定よりかなり大きいし、サエコ自身も小さいのを気にしているようなので公称を上方修正している可能性もあり、対比上の見え方はこのくらいでいいのだろう。
それから、「小さい」で想い出したが、例のTBS版で想定されていた千秋役として岡田准一説があるという話をウィキでチラリと目にしたが、まあ「小さい(上野樹里と公称で二センチしか違わないので、事実上同身長)」ということさえ除けばクドカンドラマでTBSに貢献度があり、且つはピアノ一家に育った顔の怖い人材という意味でかなり好い線の人選ではあるだろう。
ただ、柄が合っているだけに却って原作&ジャニファンの配役願望臭い説に見えないこともない。これが何故か、何を演じても常にへら入ってる田口淳之介とかいろいろ不遇な赤西仁辺りだったりすると妙にリアルに聞こえるのだが。
さらに脇道に逸れると、千秋にイヤガラセをするクラリネットとオーボエのコンビ、通称ダーティーペアの変な顔のメガネのほうの役者は坂本真というのだが、この役者が先日「轟々戦隊ボウケンジャー」にゲスト出演したことを覚えている方も多いだろう。どちらかと言うと深夜ドラマの出オチキャラを演じることが多い役者なので、こんな朝っぱらからトクサツなんかに出やがってと意外に思っていたら、ボウケンレッド明石暁役の高橋光臣と同じ事務所に所属しているそうだ。
さらにさらに些末な話になるが、第三話のアバンで漸くタクトを振った竹中直人のミルヒーだが、竹中直人の指揮者というと、素人と本職の違いはあるがスウィングガールズの先例があって、劇中のエアサックスも含めて、竹中直人が所作事をやると大概大仰にやりすぎて浮いている。この種のレア競技物の常連出演者なので、相撲だの社交ダンスだので散々竹中直人の大仰な所作事は見慣れているから、どうせ指揮者をやってもこんなものだろうと予想はしていた。
「のだめ」のミルヒーの指揮振りも、晩年のベームなどをイメージすると「竹中、またやってやがるなぁ」と思ってしまうのだが、のだめ関連のサイトで紹介されていた関係から、まさにこの第七交響曲の名演で有名なカルロス・クライバーの指揮風景の動画を目にしたところ、話には聴いていたが竹中のミルヒーなんかよりもさらに派手に踊っていて大笑いしてしまった。流石は舞踏交響曲と異名をとるだけのことはある(笑)。
タイトルと共に第一主題がユニゾンで歌い出す直前でグルグル腕を振っているのも、今となっては父親のエーリッヒを凌ぐ天才指揮者と目されるカルロス・クライバーが実際にやっているのだから、実はあの演技は「リアリズム」なのである(笑)。
一体にオーケストラの指揮者というと、身振りが大仰な人と大人しい人に分かれるわけであるが、一般的にはリハで演奏を詰めておけば実演の場面でそれほど派手な身振りは必要ないとされているようで、カール・ベーム辺りの指揮は肩の幅からタクトが出ないほど地味である。一般的に厳格でかっちりした音楽性を追求する指揮者は、指揮スタイルも地味で品の良い方向性が多いようだ。
まあ、たしかに実演の場面で指揮者が幾ら大きく棒を振ったからといって、その運動量に比例して大きくオケが鳴るわけではないのだから、楽員が終始冷静沈着であることを求めるような音楽性においては的確な指揮こそ必要であり派手な身振りは必要ない。
その逆に、派手というのではないが、恰好良くてドラマティックな棒振りというとヘルベルト・フォン・カラヤンが有名だが、TV時代の人気指揮者だけにかなり映像映えを意識した自己演出的な側面があったらしい。あの有名な髪型から目を瞑ってタクトを振るスタイルまで見た目のイメージを意識したものだそうだが、メタ的な意味でその音楽性が象徴されていると言えるだろう。
同時代のライバルであるレナード・バーンスタインは情熱的な音楽性に相応しい派手で陶酔的な身振りでタクトを振ったし、ライブ音盤には「んー」「むふぅー」というような、焼き肉を喰う桑野信介のようなバーンスタイン自身の肉声が混入している場合もある。指揮者としても有名なグスタフ・マーラーに至っては、剰りに大仰な身振りを揶揄され、指揮台で大汗を掻きながら熱狂的に踊っている有名なカリカチュアが残っているほどである。
脇道の話まで脇道に逸れたが、つまり指揮者のパフォーマンスとしての棒振りは個々人の音楽性や考え方や人的資質と密接な関係があるので、竹中直人のように振る人もいれば桑野信介のように振る人もホントにいるということである。
そういう意味では、劇中のミルヒーのキャラ立てと楽員を巻き込むカリスマ的な音楽性から考えると、竹中直人の所作事もあながち間違ってはいないだろう。また、瞑想的でも陶酔的でもなく基本に忠実にはっきり打点を刻む千秋の棒振りも、劇中のキャラ設定から考えた所作としては妥当だろう。
このドラマの「わかってる感」から考えると、ブレーンにクラヲタや専門家がいることは間違いないだろうし、そうだとすればミルヒーの棒振りがクライバーを思わせるスタイルであったことも意図的な楽屋オチかもしれない。
そういうわけで、いつも通り脇道に逸れるだけ逸れて話がグダグダになったところで今回のエントリーは終わりである。
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