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2006年11月26日 (日曜日)

Rightness

剰り真面目に視聴していないので、若干端折り目に「14歳の母」の話を。思い附くままに書き綴ったので、若干未整理で諄い部分は残っているがご寛恕を願いたい。

従来の水準をかなり超える視聴率を獲得して日テレ水一〇枠の救世主となったこのドラマだが、まあこの種のセンセーショナルな題材が人々の耳目を惹くものであることは理解出来る。腐っても井上由美子脚本ということで、テーマ性云々とは一切無関係についつい惹き込まれてしまう辺りの作劇の盛り上げの上手さ、さらには志田未来を肇めとする役者陣の好演もヒットの要因だろう。

オレとしては、多少オレの中での旬は過ぎたとは言えあの「女王の教室」の志田未来主演で、おまけにチョイ役ながらセラルナ以来随分ご贔屓の小池里奈もレギュラー出演、ちょっと役柄によって好き嫌いはあるが谷村美月も重要な役柄を演ずるということで、キャスト面では視聴モチベーションがあって然るべきなのではあるが、如何せん核になるストーリー面に忌避感があるため、それほどのめり込んで観てはいない。ながら視聴で一回観てオシマイという週もあるくらいで、それ故に剰り語りの具体面に突っ込んだ話をするつもりもない。

何と言うか、タイトルネーミングを含めて制作スタッフの脳裏に金八先生の「15歳の母」があることは明白だろうが、「一歳若い」という辺りに「イチキュッパ」的な安いディスカウント感覚が滲み出て反撥を感じないでもない。何うやら実話に想を籍りているらしいが、そのような実話があるとして、それをドラマ化するのはテーマ的にかなり苦しいのではないかと想像する。

「僕の歩く道」のエントリーでも少し語ったことだが、事実においてそのような選択を選んだ人々がいるとして、それはとやかく意味附けるべき事柄でもない。一四歳で子を産んだことが、筋合い的に正当化さるべき判断ではなかったとしても、事実において一人の子が生を享けている以上、それはすでに善し悪しの尺度で語るべき時点を過ぎているのである。

それを善いだの悪いだのと論じて好いのは、妊娠中絶という選択肢が在り得る時期の問題であって、それを過ぎてしまえば無前提の事実性の次元において扱うしかなくなるのであり、周囲の人々が偏見なく母子を見守り、補助の手を差し伸べるのが相応だろうという話にしかなりようがない。

要するに、親の行いが間違っていようが正しかろうが、生まれた子どもには罪はないのだし、子が生まれた後に親の判断の当否を論じることは、事実性の次元において子どもを不当に扱うことに繋がるから慎むべきだという現実論である。その意味では、産むという結論ありきの話なら、親の心情ドラマが何うこうというのは本質的に何うでも好い話にしかなりようがないのである。

それは単に「おまえはあの晩父さんが酔っ払って帰って来たから生まれたんだよ」というのに類似の下世話な世間話でしかない。酔った勢いで出来た子でも生まれた命に変わりはないというだけの話であって、酔って子をつくることが善いとか悪いとかいう話にはなりようがないだろう。人間にはそういうこともあるというだけの話である。

筋合いの問題から言えば、自活して自身と子を養育すべき準備も手段もない人間が、子どもを産もうと望むべきではない。子どもというのは、別段親の心情の証しや気持ちの所産などではない、一個の人格を持った他者であり、親には生んだ子に対する絶対的な責任があるのである。

抹香臭い話になるが、どれだけ時代が変遷しても、それは仮借なしで責任を問い得る大人にのみ許された厳粛な事業であり、親掛かりの未成年が未熟な判断で子どもを産んでいいという話を説得力を持って語ることなど不可能だろう。

また、事実において未成年である以上、自身が保護養育を必要とする一四歳の少女にどのような個別的な判断能力があろうとも、社会的責任を問い得ないという一事を以てしてもその出産を正当化することは不可能である。

そもそも、不測の妊娠に際して出産を選択するということは、女性にとって妊娠という事実を基準にして自身の人生の重大な選択を行うということである。それだけの判断能力が一四歳の少女には「ない」と見なされているからこそ、一四歳の少女とセックスしてはいけないという厳然たる人権上の取り決めがあるのである。

つまり、一四歳の少女が子を産むという自発的選択を下したことを正当化して語るということは、その判断能力が特定個人に限るとは言え「ある」と規定するということであり、すなわち未成年の少女とのセックスを原理的に肯定しているというアモラルな側面があるのである。

このドラマの場合には、相手の少年も未成年であることで法律的な手当てが為されているが、原理的に言えばセックスに付随する人生の重大な選択を行うのは女の側なのだから、相手の男性が未成年であるか何うかはまったく関係ないはずである。このドラマの出産を肯定するロジックから言えば、たとえ相手の男性が妻子ある中年男でも事情は何ら変わりないはずである。それが未成年の少年だから、本質的なアモラルな性格が一見して見えにくくなっているだけの話なのである。

勿論、そんな乱暴な話が通るわけがない。

所詮、何を何う筋書きをひねくり返しても、それが一四歳の未成年の少女が下した人生の選択である限り、産むのが正しいとか無理もないという話には持って行きようがないだろう。「産んじゃったんだから今更とやかく言っても仕方がない」という下世話な落とし所以外はあり得ないのである。

実際ドラマを観ていても、「好きなんだから仕方がない」「やっちゃったんだから仕方がない」「出来ちゃったんだから仕方がない」という、基本的にやったモン勝ちの理屈が貫き通されていて、この物語の筋合い面を意識するとき、何うしてもこのような既製事実ありきでそれを正当化する後附けの理屈が不快に感じられてしまう。

そもそも最初の最初から主人公一ノ瀬未希の桐野智志への想いは、周囲の反対や迫害を押し切っての妊娠出産という結果から逆算して、自然だとか無理もないと思えるほどに激しく強いものではないようにしか見えない。精々言って、仄かに想いを寄せている、その程度だろう。

さらに言えば、未希の智志への想いがそのような稚ないものである以上、「身体を許しても構わない」「寧ろ機会があれば愛し合いたい」というほど恋愛的なニュアンスの関係には見えない。ドラマの描写上、未希と智志がそのような関係に至ったのは何う贔屓目に視ても「その場のノリ」でしかない。

ここが例えば長年互いに温めてきた気持ちと気持ちが遂に抑えきれずに爆発して、という呼吸の描き方になっていればまだしも理解出来るが、未希の智志への淡い想いは寧ろこの一度限りのセックスを契機にして本格的な恋情にまで掻き立てられたものにしか見えない。これを時代小説の語り口で言えば「世間識らずの小娘が一度色の味を覚えてしまったんですからたまりません、一途に男恋しさでのぼせ上がってしまったんです」という非常に下世話な言い方になるだろう。

一方、智志がそのような挙に出たのも、この時点では未希が愛おしくて気持ちが抑えきれなかったからではなく、それまでに智志が置かれていた様々な状況の綜合としての衝動の故である。これを2ちゃんの古典コピペ風に言うなら「ムシャクシャしてやった、今は反省している」ということになるだろう。

これを妊娠出産という結果と切り離して考えるなら、別段おかしな成り行きではないだろう。だいたい、男と女が深みにハマるきっかけなど、大概はその場のノリなのであり最初からガチで確信的に想い合っていた男女が遂に時宜を得てその想いを確かめ合う、なんてのはドラマの嘘と言われればその通りだろう。

しかし、この場合重要なのは、意図したわけでもないセックスがきっかけで、女のほうが気持ちに温度差がある男に一本気に入れ込んだという下世話な成り行きであるということである。そして、当初は未希と温度差があった智志の気持ちが熱くなったのは、未希のひたむきな想いや毅然とした姿勢に接したからであり、要するに女のほうの想いに男がほだされたわけである。

そのようにして互いの気持ちが熱くなったから、妊娠が判明してもそれを中絶する気持ちにはなれないという成り行きなのだから、すべてが既成事実を事後正当化する論理に貫かれているのである。さらには、未希の妊娠を巡る周囲の動きを通じてこの二人の想いが強く結び附いていくというのは、徹底的に泥縄式の結果論でしかない。単なるロミオとジュリエット効果だと言っても、それほど違わないだろう。

妊娠という事態が「今更とやかく言ってもしょうがない」シリアスなものであるが故にその重大性を隠れ蓑に、そんな重大な事態を「その場のノリ」で招いた当事者たちの愚かさのツケが常に糊塗されているのである。

お説教臭い言い方をすれば、未希が智志に対して想いを抱いていて、それとは温度差がありつつ智志もまた未希を憎からず想っていたとして、親掛かりの中学生の分際でセックスなんかで想いを確かめ合うべきではないのである。さらに言うなら、どうせセックスするならするでちゃんと避妊すれば、今時の中学生なりのアクチュアリティに応じた放埒の範疇に納まり、ギリギリ気持ちの部分を掬い上げるドラマ性は成立しただろう。

それで妊娠したというのなら、それを意図したセックスではまったくなかったのだから型通り避妊しなければいけなかったとか、妊娠したら中絶しなければいけないというお説教話にしかなりようがないだろう。

そうでなくなったのは、一重に未希の腹の中に子どもがいるという「結果」を過剰に重視するからであり、それを堕胎することは倫理上褒められたことではないというだけのことなのであって、これは単に論点がすり替わっているだけである。

子どもを堕胎することが好くないのであれば、そもそも「その場のノリ」で避妊もせずにセックスするべきではないのである。それを棚に上げて、今現在存在する命の萌芽を楯にとって産みたいなどと痴れ言を言うのは、何を何うしたところで肯定され得る話ではない。「今更とやかく言ってもしょうがない」時点における既成事実を楯に身勝手な気持ちをゴリ押ししているだけである。

何故なら、未希が産むことを望む動機には、これから生まれる子どもの視点が一切存在しないからである。そして、そんな視点を一四歳の少女が持ち得ないのは無理もないことなのだし、それを求めるのが無理だからこそ、中学生の意志決定には出産を正当化するだけの妥当性がないのである。

そのような本質的な身勝手さや無定見な愚かさが、未希と智志の想いの純粋さや周囲の迫害に立ち向かう姿勢の立派さを強調して描くことで物語の背面に隠し込まれているのが、逆説的に何とも不純な印象を与えるのである。

では、未希と智志が生まれた子どもを養育するだけの経済的余裕もない家庭の出で、施設に託するか里子に出すしかない貧乏人の子だったら何うだったのか。この二人の「純粋な想い」とやらが、施設や他人の家の釜の飯を喰って育つ子の寂しく辛い少年時代にとってそんなに意味のあることなのか。

そもそも最初の最初から未希と智志の間の想いは「その場のノリ」に支配された曖昧且つ未成熟なものでしかなく、セックスもまた「その場のノリ」で実現したものであり、その際に避妊しなかったのは意志的な選択ではなく単なる「ミス」である。

このような場当たり的な行動の結果として妊娠という「不測の事態」が招来されたのだから、そこに真面目で純粋な想いなど本来成立し得ない。「その場のノリ」の「ミス」が招いた「不測の事態」なのであり、セックスや妊娠をギリギリ肯定し得るほどの真面目な想いが生じたのはその「結果」なのである。さらに、未希が子どもを産むだの産まないだのというシリアスな問題性を意識的に考え始めたのは、自分が妊娠して「その場のノリ」のツケを突き附けられてからなのである。

そんな間抜けな泥縄の失敗談を素面で正当化して語るのは、ちょっと———つか、大幅に間違っていないか?

結果論として愛するようになった人の子が結果論として今現在腹の中にいるのだからそれを何うしても産みたいというのは、何う考えてもやっぱり「その場のノリ」に基づく稚ない我儘でしかないのだし、そんな幼稚な泥縄式の我儘の故にこの世に生を享ける子どもこそ好い面の皮だという下世話な不快感しか感じようがない。

元はと言えば、全部未希と智志の衝動的な愚行から芋蔓式に出来した事態に対する場当たり的な事後正当化でしかないのである。もっと言えば、語りの認識がそれを正当化しようとさえ目論まなければ、未熟な中学生が性を弄んでツケを払う筋書きにそんなに不快感が生じるはずもない。未熟というのはそういうことなのだから、それを過剰に非難する筋合いなどないのである。

中絶堕胎によって愛する人との間に生まれた命の芽が摘まれるとしたら、それは未希と智志が愚かだったことのツケに「過ぎない」のであり、はっきり言えばその芽を摘むのは二人の未熟の罪なのである。それを何が何うあれ産みたいと強弁するのはそのツケから逃れるための怯懦でしかない。

たしかに、稚ない人間が未熟で愚かであることは当人たちの責任ではないが、責任能力を有する社会の成員として成熟する以前の幼弱者に対しては、きちんとした成人の保護後見の許に意志決定の自由を妥当な範囲で制限するということでしか公平性が確保出来ないのである。

その保護後見が課したルールを未熟な愚かさの故に逸脱して重大な結果を招来した場合に、未熟故の愚かさのツケが当人たちに降り掛かるのは、そのルールが当人たちの未熟さを罪と応罰から保護するために課されている以上当たり前の話なのだ。

たとえばこの場合なら、「未成年が避妊もせずにセックスするな」と強制するのは、まさにこのような当人たちには社会的責任のとりようがない事態が出来するからであり、成り行き自体は「それみたことか」という下世話な因果話に過ぎない。

その愚行の結果少女の胎内に望まれざる命の萌芽が生まれたならば、それを何うするかの決定権が当人たちにあるはずなどないのである。それはその命を生むか生まないかの決定には、生まれる子の人生という他者の生が懸かっているからであり、それを成熟した智慧において勘案する必要があるからである。未熟の故に自身に許されてもいない行為を行って、その結果意図せず妊娠するような「無責任な人間」にその他者の生を左右する決定に関与する権利など許すべきではないからである。

親が中絶を強制することで、たとえ娘が最悪自殺を選んだとしても絶対に産ませるべきではない。産む産まないを判断し決定するのは親の立場であり、それは娘が未成年である以上その親には孫に当たる命に対する一意的且つ絶対的責任があるからで、その際に娘の気持ちや心情などを斟酌すべきでは断じてないからである。

峻厳な正当性の筋道から言えばそういうことになるはずであって、この場合当人たちに降り掛かる「責任」とは、生まれた命を責任を持って育てるなどということではなく、命の萌芽を殺す罪を一身に引き受けることでしかないはずである。

その意味で、未希がしっかりした子だから、揺るがない子だから、賢い子だからという個別性を楯にとって、周囲がなし崩し的に出産に理解を示すというのは正当化の筋道で意味附けてはいけないのである。そんなに賢くてしっかりした子なら中絶に応じるのが正しいのである。

この場合における「正しさ」とはそれ以外ではあり得ないのである。

ならば、一四歳の少女が子を産むという筋書きは何うしてもドラマとして描き得ないのかと言えばそんなことはないだろう。何が何うあれ産みたいと望む気持ちが、生まれて来る子の生とは無関係な少女の一方的な身勝手であるということさえ押さえておけば、別段そのような成り行きをドラマで描いたからといって格別非難すべき謂われはない。

つまり、その場のノリのセックスから妊娠、出産までを含めて一切理念的に正当化せずに暴力的な感情のドラマ、情念のドラマとして描けばそれでいいのである。理も非もなく産みたいと望む少女の稚ない我儘であり、それが一種生まれてくる子に対する愚かな情念の暴走であることを、語りの視点が弁えていればそれでいいのである。

その人間としての情念自体を否定することは、何人にも出来ないはずである。腹に子がいれば産みたいと望むのは年齢に関わらず女としての情であるというなら、それが今現在アクチュアルな真理であるかないかはさておき、感情の問題としては誰でも受け容れ得る普遍的一般則である。理非を超えてその情を貫き通した少女がいた、それもまた万人が受け容れ得る情念のドラマ性である。その強い情念の火を圧殺することを親として忍び得ないというのもまた子故の闇の痴愚心のドラマとして納得がいく。

少女が衝動的なセックスから生起した愛情を貫き通す、衝動的なセックスで授かった命を産み落とす、それは別段それだけのことであり、理の観点から断ずるなら本質的にアモラルな側面を有しているのであり、それでもあり得べき情念のドラマである。だが、それを冷静な理の観点から正当化することは絶対的に不可能なのであって、それは極性は正反対だが、殺人に至る情念のドラマと劇的構造は通底するはずである。

本来、このドラマの登場人物たちは愚かしい情念の動きに踊らされている哀しい人々であるはずなのであって、その愚かな情に流されることが人の生の真実を幾許か顕わしていればこそドラマとして成立するのである。それなのに、何故かこのドラマの登場人物たちは皆不釣り合いなまでにしっかりした立派な人々として描かれている。

周囲の迫害や無理解と戦って雄々しく子を産む稚ない母の物語を感動的に語ろうと目論んでいる。そこが無理無理で不潔なのである。

このドラマの不快感は、普通なら正当化しようもないはずの餓鬼の我儘をあの手この手で正当化して視聴者に納得させようとする語りの圧し附けがましさ故なのである。普通ならこの種の子どもたちのドラマは、それを見守る大人の健全な良識に基づいて語られてこそ安心して楽しめるものなのである。その語りの視点が主人公の選択に迎合した胡散臭いものだから不快なのである。

勿論、人の生というのはきれい事ではないし筋論で切って棄てて好いものでもない。

だからこそ、事実の次元において一四歳で子どもを産んだ母親がいるとしても、今現在きちんと誠意を持って子どもを育てているのであれば、それを現時点で赤の他人が過剰にとやかく言うべきではないというだけの話である。それは、要するに今現在過不足なく幸福な家庭が成立しているのであれば、徹底的にプライバシーの範疇の事柄だからであるに過ぎない。

たとえば、妻子ある男性と情を通じて私生児を産み落とした女があるとしても、それは社会倫理の観点では批判を受けるだろうが、一人の女性の生の現実や情念の在り方の観点では無責任に追及することなど誰にも出来ないはずである。

その私的な領域に敢えて踏み込んで論じるならば、やはり一四歳で子どもを産むという行為自体は間違った選択であると言わざるを得ないし、今現在存在する幸福な家庭はその過ちをリカバリーするための事後対応の努力の結果であるに過ぎない。

だが、人間の生の在り方というのは、筋論的に間違った過去があるとしても現在の視点において真っ当であれば、他人がとやかく言うべき事柄ではないのである。たとえば、若い頃散々周囲に迷惑を掛けた人間でも、その後更生してよき市民として真っ当に働いているのであれば、その過去をとやかく論うべきではない。筋目的にはそれと同じことである。

しかし、それをドラマで肯定的に語ることは、それとはまったく別問題である。

ドラマの語り手が未希や智志の行為をどのように評価しているのか、或いは価値評価自体を捨象してありのままの事実性をドキュメントタッチで語ろうとしているのか、これを鮮明にしなければならない。

そして、何うやらこのドラマの語りは、未希の産むという選択を肯定的に意味附けて語るべく、努めてロジカルな作劇を仕組んで奮闘しているようだが、未希が子どもを産む意志の在り方の正当性に纏わる部分を常に迂回して、つまり都合の悪い部分は有耶無耶にスルーしてロジックを組み立てているが故に、その隔靴掻痒の牽強付会の苦しさや胡散臭さしか伝わってこない。

筋論的に核心に当たる部分については常に「善いか悪いかわからない」的に曖昧化しているのだから、それは「腹に子がいるという厳然たる事実」「命の芽を摘むことに対する絶対的な忌避感」を楯にとって、筋論の部分を有耶無耶の裡に胡麻化しているとしか言い様がない。

もしもこのドラマのロジックにおいて、未希の選択を正当化する原理的根拠が「愛する人との間に生まれた命は殺すべきではない」というものであれば、それはこの世のすべての妊娠中絶を原理的に否定するものでしかない。

未希と智志がセックスするに至るドラマ上の筋目、その際に避妊を行わなかったドラマ上の筋目、それが故に招来された妊娠という事態に対する覚悟、それが筋目正しく描かれていたのであれば、それは個別のドラマ性故に成立する正当性と言えるだろうが、個別の筋書きとしてはすべてを成り行き次第の放埒として描きながら、出産を正当化するための絶対的な原理として中絶の不倫性を据えているのであれば、それは絶対的に中絶それ自体を否定しているという意味にしかなりようがないのである。

ならば、乱暴に言えば愚かな中坊がその場の勢いでやらかしたセックスの後始末を泥縄式に正当化するこのドラマに、この世のすべての妊娠中絶を告発する権利などあるのかと、是非問いたいものである。

少し想像しにくい喩えだが、もしも中絶堕胎という行為に倫理的な問題性や忌避感情が一切ないのだとしたら、未希が単に子どもっぽい傍迷惑な我儘を言っているだけに過ぎないことは剰りにも明らかだろう。想いの強さや純粋さというのは、結局「言い張れば勝ち」「折れなければ勝ち」ってことかよ、という不快な印象がアカラサマに諒解されることだろう。

一種このドラマの作劇が、巧みでありながら何処か不潔な印象を与えるのは、そのようにして肝心な部分を事実性の重みで迂回しながら、この状況に対するあり得べき一般的なオブジェクションを劇中で周到且つ緻密にシミュレートしてみせて、それに想いの強さや純粋さが勝つという出来レースのドラマ性を仕組んでいるからである。

一四歳で出産する場合に普通にあり得る周囲の抵抗や説得をすべてシミュレートしてみせることで、それらの障害をすべて織り込んで為された強い想いに基づく真正な決断であると付会して見せているのである。「どんなに困難なことかわかっていてやっているならいいんだ」的なロジックなのであるが、わかっていようがわかっていまいが、本来行為の意味が変わるものではない。

実際、これらの至極ご尤もな周囲の説得に対して筋論的な意味で未希に何らかの言い分があるわけではなく、誰に何と言われても産むという頑固な思い込みの強さしか描かれていないのである。周囲の説得や批判意見の描写にリアリティがあるから何となく綿密なディスカッションが交わされているような気がするが、要するに未希は誰に何と言われても、それはわかったけど産むと十年一日の如く言い張っているだけなのである。

たしかに、特殊事例として一四歳で子を産んだ母が現実世界で過剰な迫害を蒙るのは不幸な成り行きだろうが、それを牽強付会の周到な詐術で正当化してみせるドラマの語り口は真っ当なものと言えるのだろうか。このドラマの影響で、さしたる想いもなく好きな男とセックスしてさしたる覚悟もなく子を産む少女が一人でも増えたとしたら、このドラマはどのような責任をとるつもりなのか。

勿論これは、責任をとるはずなどないという意味で言っているんだけどね(笑)。

このドラマの語りの打算の緻密さから考えて、普通の家庭の両親が娘を説得する言葉を思い附くのは至難の業だろう。プロのドラマ屋さんが、大多数の視聴者がホロリとほだされるようなセリフを一生懸命考えたのだから、それを打ち負かし得るだけの言葉を思い附くのは素人にはまず以て不可能である。

翻って、娘の耳には両親の説得が無理解故の戯言にしか聞こえないだろうし、普通一般の親というものは子に対して凡庸な言葉しか吐けないものなのであり、それは子にとってそれほど有効な言葉ではないだろう。

とどのつまり、このドラマはどんな未成熟な少女であろうとも、好きな男がいたらバンバンセックスしてガンガン子どもを産めとでも主張しているのだろうか。たしかに劇中ではそんな無思慮に対する世間の抵抗がリアルに描かれているが、そんなリアリティをリアルに実感出来るのは大人だけなのであり、それで当たり前なのである。

一四歳の少女にとって、ドラマに描かれたことはすべてロマンティックな絵空事なのであり、周囲の無理解や迫害すらも自分を主人公とした夢想のドラマにおけるスパイスに過ぎないということもあり得るのである。そのような受け手の稚なさに対する配慮や描写上の手当てが何処にもない辺りが、オレのこのドラマに対する忌避感情の最も大きな部分を構成している。

一四歳の少女の出産を肯定的に語るという作劇の課題が困難なものだということは理解出来るし、そのために様々な智慧を駆使していることは理解出来るが、それはそんなことをやってはいけないから大変なのである。

このドラマが先行者として踏まえているはずの金八先生の「15歳の母」について、オレ自身は記憶があやふやだったので、金八先生についてよく識っている知人と記憶を突き合わせてみたのだが、これまで陳べてきたような問題点をすべてクリアしていることが諒解された。

金八先生における同エピソードで中学生が遂に出産するに至ったのは、その少女が中絶不能な時期に至るまで周囲に妊娠を明かさなかったからだし、それは彼女が家庭的に問題を抱えていて相談出来る相手がいなかったからであり、その意味で彼女が出産に至ったのは肯定的な意味合いではなく単なる不可抗力である。

さらに、相手の少年とそのような関係に至ったのも、きちんとしたディテールに基づいて互いに想いが募った結果として描かれており、彼らが互いの孤独を癒すために情を交わしたことを責められる大人はいないだろう。

それ故、「15歳の母」における中学生の少女の妊娠出産というのは、本来肯定さるべき事態ではないし、中絶堕胎が可能な時期ならそれ以外の選択肢はあり得ないが、もし万が一万已むを得ずしてそのように退っ引きならない事態に立ち入った場合、周囲の大人たちに何が出来るのか、当事者たちの心情ドラマとしてどのような結末があり得るのか、という真摯な思考実験と成り得ているのである。

大人たちの責任でもたらされた稚ない過ちがさらに過ちを生み、遂に撤回不能な時期にまで持ち越された危機的状況に際して、主人公たちが教育者として一人の大人としてどのように誠実に対処し得るのかというドラマなのである。

大人の身勝手が原因であるとは言え、子どもたちが犯した行為は厳然として過ちと意味附けられており、中学生がセックスしたり子を生むことが善いとか悪いとかいう問題を論じてはいない。それは残酷なことではあっても、当たり前の前提として未熟な過ちや情念でしかないのであり、その過ちの責任をとり決断を下し子どもを導くのは大人の側なのだとはっきり規定しているのである。

そのような真っ当な節度や成熟した良識が、このドラマには、ない

子どもの目線で子どもの心情に寄り添って迎合し、子どもが強情な思い込みで周りを動かす荒唐無稽な物語を美化してみせる不潔な悪知恵しか感じない。その結果として視聴者に与える現実的な影響に対する配慮もないし、当然責任意識も感じられない。

ここまでの論旨を踏まえたこのドラマに対するオレの結論は、凡庸な一言で言い表すことが可能であり、これまで読者諸兄姉は当ブログにおいて同じ言葉を散々耳にしてきたこととは思うが、その繰り返しの愚を敢えて冒すとすれば以下の通りである。

そんなに数字が欲しいのかよ

———ああそうか、これってあれだ、国の打ち出す少子化対策に貢献してるんだよ、絶対にそうだな。いろいろ後先のことを考えないでとにかく子を産みなさい、国が何とかしてくれます、どんな事情であっても子どもを産んで出生率を向上させてくれた女性を非難してはいけません、一人でも多く子どもが産まれないと皆さんの年金が破綻してしまいますよって話をしてるんだな、それなら納得が行きますよ(笑)。

つかまあ、こんなドラマをつくるくらいなら、

コンドームに税金をかけたほうがよっぽどマシ

だけどな。

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受信: 2006年11月29日 (水曜日) 午前 02時24分

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