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2006年12月31日 (日曜日)

冬が来る前に 其の弐

そういうわけで、今季の日テレドラマには肯定的評価を覚えなかったわけだが、それとの対照で言えば、当ブログ上ではほぼ全否定的な扱いではありながら、TBSの新作ドラマについてはイレギュラーな「笑える恋はしたくない」以外ほぼ毎回視聴していた。

今季真っ先に語ったのは「鉄板少女アカネ!!」だったが、結局あれから最終回まで毎回必ず最後まで視聴していた(笑)。料理バトル物としては最後までダメな儘だったが、レビュー後のエピソードではちょっとずつ料理バトル的な約束事を採り入れようと努力だけはしていたようである。

そういうふうにチマチマちょっとずつ努力されると、なかなか切るに切れないという人情もあったが、ドラマとしては最後まで持ち直すことはなかったと思う。ジャンルの要請というのは、パーツに分断してちょこちょこ入れ込めば好いというものではなく、一連の手続としてロジックが徹底される必要があるからである。

その意味では、食材や調理法に対する蘊蓄が披瀝された場面でも試食者のリアクションがなかったり逆の場合もあったりと、料理バトルというジャンルのロジックを十全に理解しているとは言い難い作劇に終始したために、この種の題材を扱ったドラマとしては毎回何らかの作劇的欠陥が目立ったドラマだったが、最初の出発点と比べてちょっとずつ試行錯誤していたことだけは認めるべきだとは思う。

まあこれは、脚本監修に名を冠する秦建日子や夫々の書き手が所属しているマネジメント事務所エム・エーフィールドの散漫な後進指導が批判されるべき事柄なのだろうとは思う。秦建日子自身もこの作品に関しては何らかの後悔を抱えているようだが、料理バトル物とは何ぞやという認識共有の手続さえあったなら、さほど難しい問題ではなかったはずなのである。

つまり、アカネが失敗したのは最初の最初に対象とするジャンルを分析し、その分析結果を複数の書き手の間で認識共有するという非常に実践的な手続が踏まれなかったからで、本質的な問題でも何でもない。具体的に言えば業者が仕事の進め方を間違ったというベタな失敗談にしかなりようがないので、いろいろ手広く文芸商売を展開しておられる秦先生には、しっかり足許を見据えて反省してもらいたいものである。

要するにね、それ商売として失敗ですよ、ということなんで(笑)。

視聴率的に惨敗したことについては、ドラマのクオリティ面のみで量れる問題ではないから、この場合文芸の観点で論じるべき事柄ではないだろうが、「数字は悪かったけれど内容的には満足出来る」というレベルのドラマでもなかったことが、文芸面に関しては問題となるだろう。

所詮数字が良いか悪いかというのは局側の考えることであって、文芸はアウトプットのクオリティをまず第一に保証すべきであり、そこから視聴率面の要請に対して妥協し次善策を講じていくべきである。だからオレ的には、この番組が視聴率的に惨敗したことを以て批判しているわけではないし、内容がひどかったから視聴率が悪かったのだという予定調和の話をしているつもりもない。

内容のひどかったドラマが、偶々数字が悪かったというだけの話である。

コンセプト的には重大な瑕瑾を抱えるこのドラマの唯一の取り柄と言えば、キャスト陣の演技が魅力的だったというくらいのところだろうか。地上波初の単独主演作ということで堀北真希も力が入っていたし、原作のヤンキー風イケイケ姉ちゃんな柄に堀北真希本人のちょっと育ちの良さげな風味が加わって可愛気のあるキャラにはなっていた。

まあ、正直言って「アカネ風○○○○、完成!」の決めポーズなど見られたものではなかったが、この種の劇画調ドラマでは、主役のアイドルさんの決めポーズがかっちり決まっていれば逆に儲け物くらいのもので、ヘロヘロなのも味の裡である(笑)。

塚本高史演じる相方の一条心太も原作からかなり膨らませたキャラではあるが、アカネとは釣り合いのとれたキャラになっていて、嵐山蒼龍の意を受けてアカネの敵に廻るエピソードの恋愛ドラマとしての呼吸は悪くなかった。割合好きな俳優なので点が甘いところがあるかもしれないのだが、アカネの相手役としてバランスが好いというのはキャスティング的に外していないということだろう。

その嵐山蒼龍や黒金銀造はドラマオリジナルのキャラで、まあ正直言って陣内の演技がいつも通りウザかったことは否めないが(笑)、この種の脚色それ自体は連続ドラマ化のための必要な処置ではあるだろう。キャラの位置附けの範疇では、それぞれの演者が手堅く好演していて悪くはなかった。

ただ、嵐山のような食の権威を設定し、黒金のようにアカネに試練を与える上位者を設定したことで、料理バトル物としての厳密な構造や見識が要求されるようになったということは言えるだろう。これらの人物が絡まず、特段料理バトルという形式に拘らない作劇に徹していたら、天才料理人神楽アカネが行く先々の人々と関わる人情エピソードの毎回のバラエティで見せる物語として、それほど構造的に破綻することもなかったのではないかと想像する。

キャスト面で言えば、オレ的には何故か片瀬那奈が好きなので、後半の展開は「エレナ萌えドラマ」と割り切って観ることにした。当然、仲間内では悪趣味な奴としてエンガチョを切られたことは更めて言うまでもないが、もう西豪寺エレナの一挙手一投足が剰りにも変なハイテンションで目が離せない(笑)。

片瀬那奈が美人女優か何うかは評価の分かれるところだが(笑)、ある時期を境に変な役しかやらなくなったのでオレ的には好感度が高い。一七二センチもある大女がハイテンションで変な役を演じるから見た目の迫力があって、そらまあ片瀬那奈から視たら堀北真希なんて「ミクロちゃん」だろうなぁと思える。

これに萌えるというのは余人に理解不能な心性だとは思うのだが(笑)、表面的にはとことんアカネと張り合いながら、実は内心アカネのことが気に入っていて、アカネが表舞台に出てこないと物足りなく感じるという平成ライダー的な幼児キャラをコミカルに演じていて厭味のない辺りがいい。

この高慢で幼児的なキャラのエレナが、最終的に企業の総帥としての責任感から土下座までしてアカネの助力を乞う辺りの描き方は、キャラ転がしの呼吸としては間違っていないだろう。大ラスですべての対立関係が解消されて目出度し目出度しになる結末は、この枠らしい予定調和と言えるだろうが、まあ視聴者に不快感を催させないだけ他のいろいろな糞ドラマよりナンボかマシな納め方だろう。

そういう意味で、作劇的な面では出来の悪いドラマではあったが、キャラ転がしとして視る分にはそこそこ楽しめたので、以前腐したほどには悪感情を持っていない。まあ、皆さんがご賢察の通り、それだけこのドラマに対する感情が好転したのは、今季は剰りにも多くのドラマが視聴者に不快感を与えたという相対的な理由があることもたしかではあるが(笑)。

視聴者に不快感を催させるドラマということでは「14才の母」と並んで「嫌われ松子の一生」が最右翼ではあるが、近々に散々語ったこともあって、剰り多くを語るつもりはない。最終回の納め方がお話にならないというのもすでに語ったことだが、やはり単純にあの物語の何処が面白いのかがわかっていなかったということに尽きるのではないかと思う。

劇場版のほうでは原作よりもダメさを強調した松子像を提示し、ドラマ版のほうでは原作よりも健気さを強調した松子像を提示したわけだが、少なくとも健気で可哀想な人が主人公ではあんな悲惨なお話が面白いはずがない。現実なら松子程度に莫迦な女でも、あそこまで不運が重なるということはなく、適当な時点で納まるべきところに納まるものなのだが、そのちょっとした莫迦さ加減のツケをすべてシビアに取り立てられるという辺りにあの物語の特異性があるわけである。

それはよく考えてみれば本来自業自得で釣り合いがとれているのだが、現実というのはそこまでシビアに愚かさの酬いが追及されるものではないから、たいがい何処かで折り合いが附いて転落に歯止めが懸かるというだけの話である。それ故に、松子にそれほど非がないという描き方にしてしまうと、単なる不条理な嗜虐に見えてしまうのである。

しかし、何うもドラマ版のスタッフは「莫迦な女が自業自得で転落して最終的に犬死にする話の何処が面白いのか」が理解出来なかったのではないか。普通の意味で主人公たるべき美点に恵まれていない女が、あり得ないほどに立て続けに非道い目に遭うという話の意味がわからなかったのではないか。

まあ、以前指摘したように、すでに内山理名というキャスティング自体が外しているのだから、彼女の柄で中谷美紀の松子のようなDQNなキャラ立てを施しても効果的ではないという事情もあったのだろうが、元々の物語構造からして欠けている松子の主人公性を補填することで型通りの逆境メロドラマに仕立てた辺りが、嫌われ松子固有の物語でも何でもなくなっている。

引いてはそれが、原作に潜む想いのようなものを蔑ろにすることになるのではないかという意見もすでに語った。この上何かを附け加えるとすれば、もうこれ以上こういうドラマをつくらないでください、資源の無駄遣いだから、というくらいのものだろう。

そんな不作なTBSのドラマ群の中で、唯一可もなく不可もなくそれなりの出来だったのが「セーラー服と機関銃」だろう。今季この枠はセラ服全七話+「笑える恋はしたくない」全三話という奇妙な編成だったので、今頃語るのも遅きに失した感があるが、遅きに失したと言うなら、今頃この原作をリメイクするというのも「ちょっとした冒険」である。

以前土九枠の流れに関連して「ごくせん」に触れた際にも語ったことであるが、今日では若い女の子とオールドファッションなやくざの取り合わせは一つのジャンルを構成するにまで至っているが、その嚆矢の一つと目されるのがこの原作だろう。

「セーラー服と機関銃」というタイトルそのものがこのジャンルの魅力の真髄を象徴していて、セーラー服に象徴されるような今日で謂う萌えのような感情と、機関銃に象徴されるバイオレンスや昔気質のやくざがイメージさせるスカッと心地よい正論の啖呵の取り合わせが普遍的な娯楽の枠組みを具えていたからこそ、同様の構造において何度も新たな物語が拡大再生産されているのである。

尤も、角川映画版の詳細を御存知の方や原作者赤川次郎の資質を知悉している方には更めて念を捺すまでもないことだが、元々のストーリーは今日このジャンルの作品に一般的な明朗さや爽快なカタルシスには欠けている。普段小説を読まない読者にも読みやすい軽快な筆致で識られ、ライトミステリ界に一時代を画した赤川次郎だが、その物語性の本質がかなり陰鬱でイケズなものであることは夙に有名である。

オレ自身は赤川次郎の熱心な読者とはお世辞にも言えないのだが、基本的に赤川次郎の代表作として世に識られている作品は大概「厭な話」である。おそらくTVドラマ好きを自認するほどの人なら、赤川原作作品を相当数目にしているはずだが、ざっくり括ればその大半が後味の悪い厭な話である。物語が終わって爽快なカタルシスの余韻が残る作品は殆どない。

たとえば、本来リアルに考えるなら人を殺しておいて素知らぬ顔で周囲を欺き通せるような人物は、空恐ろしい病的人格者と視られても仕方ないのだが、ミステリという文学の形式上、殺人の罪業に畏れ戦いてあっさり馬脚を顕わすような人物が真犯人では、そもそもお話にならない。

二時間サスペンスを視ればわかることだが、この種のライトミステリでは、そのような罪業や欺瞞を敢えて犯すほどに強い動機(多くの場合復讐の情念)を設定することで、アタマのおかしい異常者が犯した犯罪ではないことを作劇的に保証するものである。病的人格者が犯罪を犯しましたというお話では、二時間サスペンス的な人情劇に持っていけないからであり、そのような異常で狡猾な犯罪者が暗躍するお話は「沙粧妙子 最後の事件」や「ボーダー」のような、視聴者を選ぶ別のジャンルのドラマになってしまうだろう。

しかし、赤川作品ではそのような描写上の留保手続が描かれることはなく、真犯人は大概身も蓋もなく悪い人間であり、自身の犯罪を隠し通せるような人間はやっぱり何処かおかしいというふうにしか見えない描き方になる。おそらくそれは、書き始めるときには大筋のプロットを殆ど詰めないで行き当たりばったりに書くというほどの売れっ子作家故の「効率性」「生産性」に関係した問題だろうが、割合きちんと時間をかけて書いたような作品でも浪花節の人情劇に持っていくことはまずない。

おそらく赤川次郎個人の人間観が割合性悪説的な傾向があって、そこに人物描写上の留保を設ける必要を感じていないのではないかと思う。赤川次郎という作家の人間観それ自体がシニックでアモラルな嗜好があり、ハートウォーミングな資質に欠けるために、表面上進行する軽妙な筋立てとは裏腹に、事件の真相や真犯人の人物像、引いては物語全体の肌合いがかなり身も蓋もなく突き放した即物的エグさを具えている。

一般的には感動的なジェントルゴーストストーリーと目されている「ふたり」にしたところが、話の内容はかなり生々しく、容赦のない厭なエピソードが連続する。これを一種の学園物として捉えるなら、普通一般の明朗調の学園ドラマが具えているような爽快なカタルシスや清冽な感傷は殆どなく、全盛期の作品に比べれば割合丁寧に描かれているだけに「そこまで言いますか」的な生臭さが支配的である。

原作は未読なので何処まで監督の大林宣彦が脚色したのか定かではないが、普通ゴーストの姉が死亡するに至る経緯を「生理用品を取りに自宅に戻ったため」と設定するのは描写の深度が生臭すぎるだろう。そもそもこの映画の本筋は、主人公が挙動不審な薄気味悪い青年にレイプされそうになるところから始まるのだし、ゴーストの姉の助言で手近にあった石で青年の顔面を殴打して撃退するという、過剰に生々しいくだりから姉との交流が始まるのである。

だから、赤川原作というのはライトミステリではあってもそれほど「ライト」な肌合いではなかったりするのだが、有名な角川映画版も監督が監督だけに「ライト」からはほど遠い泥臭い生々しさに溢れていた。

一応予め断っておくと、オレは息の長いワンシーンワンカットを特徴とする相米慎二の作風は嫌いである。女優をしごき抜いて演技開眼させることで有名な演出スタイルについてもまったく評価していない。敢えて極論を言えば、素材として与えられた人材をその現状の儘に活かせないような映像作家は能がないと思う。

シャシン屋として考えるなら、相米監督が肉体的暴力に訴えてまで追い詰めたことで薬師丸ひろ子の演技者としてのスキルは上がったかもしれないが、それによって喪われた被写体としての何某かの得難い要素もあったはずである。

ローティーンの少女を主役に据えた映像作品を語る場面で、海千山千の演技巧者に求めるような演技をさせようと望んで無理を重ねるのは能のない映画監督だろう。大女優が偶々ローティーンの少女であるような演技を必要とするような映画というのは、最早映画である必要がない。そういう遣り方でドラマを描きたいのであれば舞台にでも行けばいいのであって、相米作品には映画的な面白みがさほどないと思う。

そういう作品があっても構わない程度の自由度が映画にあるのは勿論だが、それは映画という容れ物がマストではないということでしかない。映画でなくても別に構わないような映画などオレは好きではないし、映画を撮るという行為は猿回しや角兵衛獅子の芸を見せることではないのである。

ただ、そのような木訥で過剰に生々しい相米演出が結果的に軽妙なタッチの陰にある赤川原作の本質的な厭らしさを強調して描出しているということは言えるだろう。

クレーンで吊し上げた星泉を生コンのプールにどっぷり漬ける汚らしい絵面や、クライマックスで身体障害者を装っていた三大寺が窶しを脱ぎ捨てて車椅子から立ち上がり、囚われの身の泉を生体解剖しようと迫ってくる辺りの厭らしさは、「あー、赤川原作ってリアルに描いたらこんなモンだよなぁ」的な身も蓋もない生臭さを具えている。

そういう意味では、「ごくせん」の爽快感や「プリズンホテル」的なベタな明朗調とはほど遠い性質の物語であるわけだが、これを正面から生々しいタッチで描いて本質を炙り出した劇場版と違って、今回のドラマ版のほうはこの道具立てであり得るベタな浪花節を追及して、ほどほどに原作や映画版をトレースしほどほどに脚色している辺りがごくごくマトモなドラマづくりに感じられる。

連続ドラマとはいえ、実際には二カ月弱の放映期間でしかないのだから、各話の歩留まりがシビアに評価されてしまうのだが、その意味ではまあまあ勝ち越しているというレベルの実績と言えるだろう。本来は全七話くらいの集中度の高い構成であれば、全体にテンションを持続して高度な作劇レベルを維持してこそ大成功というところなのだろうが、ちょっと中だるみや不作な部分が目立ったために、それほどの傑作ドラマという位置附けにもならないだろう。

各話を細かく視ていっても、見どころと瑕瑾が伯仲するという印象で、全否定も全肯定もしづらいという非常に渋いレベルで水準が落ち着いている。クライマックスの泉の爽快な啖呵に集約するドラマ性という面では毎回決して外すことはないし、後半の仲間たちが次々に斃れる展開の劇的なドラマ性も手堅く描かれている。

大筋で視ればかなり出来の好いドラマと言えるだろうが、その半面でギャグ展開が場違いで寒かったり舌足らずな部分があったりディテール描写に首を傾げる部分があったりと、しっかり瑕の要素もある辺り、是であるとか否であるとか大略の旗幟を鮮明に定めにくい、実に渋い出来のドラマだったと思う。

このドラマを肯定するか否定するかということは、連続TVドラマの歩留まりを奈辺に視るかというかなり渋い設問になるのであり、まあ虚心に一視聴者として小難しいことを考えずに視れば、毎週それなりに楽しめたことは事実だろう。入れ込んで細部を検証するのに向いたドラマというより、軽いノリの視聴姿勢を想定してその想定内で現実的にベストを尽くすという手堅いつくりのドラマだったと言えるだろう。

オレが識る限りの意見を視ても、一種このような手堅さに対する戸惑いのような感触が一様に視られたと思う。従来のドラマづくりの観点で言えば、かなり入れ込んでつくって成功するか失敗するかという緊張感が当たり前に視られたわけだが、このドラマの場合、何というか二カ月弱の放映期間の間、そこそこの視聴者が飽きずに附いてきてくれればそれでOK的に肩の力が抜けている印象なのである。

それはたとえばセーラー服と機関銃という題材の選び方にも顕れていて、最前語ったように今時この原作は何うなんだという生温い疑問が払拭出来ないわけだが、今時この原作をリメイクしたからと言って何処かおかしいというわけでもない。単に普通ならあって然るべき「この原作が今の時代性にマッチしているからこれで当てるんだ」的な積極的な色気が感じられないというだけである。

いわば、小学校などを廻っている巡回劇団が次の演目はマッチ売りの少女にしましょうか的な生温さが漂っていて、まあこういうのがあってもおかしくはないかというような微妙な感触に終始してしまうのである。

まあ、無理矢理結論めいたことを言うなら、そのような生温い微温的な位置附けの作品以外が見られた出来ではない辺り、TBSらしいと言えばらしいのかもしれないとでも言っておきましょうか(笑)。

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