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2006年12月31日 (日曜日)

冬が来る前に 其の参

そういうわけで六まで語り終えたので今度は八を。

今季のCXは新番組四本の裡三本まで成功ということで、前季比で驚異的に打率が向上していると言えるだろう。「Dr.コトー診療所」などは恒例のオリコンの満足度調査でもトップを獲得した望外の大ヒットと表現しても間違いないだろうし、「のだめカンタービレ」は月九の威信を回復したまずまずの成功作と言えるだろう。「僕の歩く道」は相変わらず難しいテーマを扱って最後まで目立った失敗もなく終始した辺り、このシリーズの底力を感じさせる出来となった。

まあ、「それ以外の失敗作一本」が何であるかは今更言うまでもないが(笑)、その話は本論に譲るとして、オレ個人が視聴していないコトーを除く三本のドラマを総花的に語ることにしよう。

まず、何と言っても今季いちばん歩留まり良く楽しめたのはのだめカンタービレで、毎回かなり繰り返し視聴した。各話それほど出来のバラ附きもなく、毎週楽しく視聴させていただいたが、オレ個人の嗜好としては武内英樹の演出回が好ましく、川村泰祐や谷村政樹の演出回は若干それより落ちるという評価である。

それはやはり、武内演出回が最もコミックテイストとドラマ性のバランスが良く、他の演出者はその間のバランスが少々悪い、コミックテイストのテンポや見せ方がモタ附いていたり、ドラマ性が少し強すぎたりしたように感じるからである。

また、後半のだめがメインになる展開で、少し上野樹里の芝居が刺々しすぎた嫌いはあるかもしれない。原作の当該エピソードを読んでいないからあんなものでもいいのかもしれないが、何というか、最近の上野樹里は素が妙に怖いので(笑)、のだめがいつもの明朗さを喪う展開の中ではちょっと演技が怖すぎるように感じてしまった。

そんなところで、のだめに関してはとくに附け加えるようなことは剰りない。千秋真一の演奏家としての成長物語の側面で引っ張ってきた物語だが、のだめとのロマンスのバランスもあのくらいのものだろう。原作の国内編を最後まで描くということで、若干駆け足気味のエピソード配分に感じられた嫌いもないではないが、目立った不自然さもなく最後まで描き通せていたと思う。

次季はもこみち主演で「東京タワー」ということだが、月九枠も不振期に入るといろいろ試行錯誤が大変だなぁと思わないでもない。是非とものだめの好調をこの儘引っ張りたいところだろうが、レガッタで大コケしたもこみちの主演で大丈夫なのかという不安は拭い去れない(笑)。

昨今は、サプリ・たっ恋と連敗を喫した亀梨和也の例もあるように、負け癖の附いた役者は負け続けるというパターンがあるので、もこみちくらいしかF1層向けの保険がない東京タワーがどれだけ健闘するか見物である。

さて、のだめに次いで好調だったのは火一〇関テレ枠の僕の歩く道だが、自転車レースに向けたラスト数話が少し駆け足だったのが残念と言えば残念である。巡回させていただいているブログでも、都古の母や自転車レース、グループホーム関係の要素の絡め方が若干唐突という意見が視られたが、予定話数通りで時間延長まであったのだから、最初の設計がちょっとバランスが悪かったということだろう。

とりあえず、このドラマについては最後まで見守ると約束した手前、結末までの流れを他より少し詳しく視ていきたい。

さて、シリーズ全体の手仕舞いの流れは第九話から最終話までの三話で、そこが少し駆け足に感じられるのだが、第八話までの各話編ではかなり良質のドラマ性と、テーマに対する的確なアプローチを見せてくれた。

就中第八話で興味深かったのは、輝明を取り巻く「世間」の問題が扱われていたところである。以前語ったように、対面的な関係性の中では、すでに森山動物公園の人々は偏見なく輝明と親密な関係を築くに至っていて、その中で大杉漣演じる園長の久保一人だけが出世主義の偽善者として、他の人物たちと一線を画した位置附けに置かれていた。

第八話はその久保をメインに据えたエピソードであり、それには、大竹家の中の問題性として描かれていた秀治の妻の真樹との関係も前回のエピソードで落ち着いて、差し当たって久保との関係しか個別の挿話の種が残っていなかったということもあるだろう。

輝明と対面的な関係性にある人々の中で、適切な関係性の確立に至っていないのが久保一人なのだから、後半の追い込みにかけて消化しておく必要があるという言い方も出来るだろうが、寧ろこれは話が逆だろうと思う。

これまでの物語を通じて、輝明に対して差別的な視点や態度を持つ位置附けに置かれている人物は、すべて「世間」との密接な接点を持つ者とされている。大竹家の中では兄の秀治がそれに当たるだろうし、外部から嫁に入った妻の真樹もそうだろう。真樹は優秀な商社マンの秀治と結婚したのであって、大竹家と結婚したわけではない。その意味で真樹は輝明という問題性を抱える大竹家に対しては「他人」のスタンスを崩さない。

直前の第七話で描かれていたのは、輝明を中心とした大竹家の血縁集団としての家族の絆であり、その絆の中から一人だけ弾き出されている「他人」である嫁の立場の問題である。真樹は常々輝明に対して距離を持って接したいと望んでいたわけだが、その実は家族の紐帯から弾き出されているのは真樹のほうなのだ。

よくある話だが、他家に嫁いだ女性にとって唯一の「肉親」は腹を痛めて産んだわが子だけなのであり、嫁姑の確執など真っ平御免と心得る現代女性の真樹は、自身の肉親である息子を中心とする秀治の核家族家庭から大竹家という全体的家族性を排除したがっている。

しかし、その最愛の息子が第三話のエピソードを経て夫の弟である輝明に懐き、息子を巡る大人たちの動きから真樹が弾き出されることで、真樹一人が大竹家の中で孤立する流れとなる。

真樹の輝明に対する態度が変わっていくのは、自身のたった一人の肉親と位置附けていた幸太郎が紛れもなく大竹家の「家族」であり、「他人」であるのは自分一人だけなのだ、排除するということは排除されることでもあるのだという第七話の気附きを契機としたものである。

第七話のラストで真樹が救済されたのは、真樹=幸太郎という構図から輝明を中心とした大竹家を排除しようという動機を持っていたのが、その幸太郎が自身の大竹家における肉親性を主張することで真樹自身が一旦排除され、大竹家の家族性の側に立った幸太郎が更めて母親を受け容れることで、真樹もまた大竹家全体の絆の中に包摂されるという手続が踏まれていたからだろう。

真樹自身の態度として婚家の肉親との密接な関係性を拒む傾向があったわけだが、それは彼女が「他人」として世間の眼を体現していたからであり、それを積極的に橋渡しすべき立場の秀治はその役割から逃げていた。たとえば母里江亡き後は輝明を施設に預けるという約束も、そのほうが輝明のためというのは口実なのだし、秀治自身が輝明を疎んじているからでもない、単にそれを強硬に主張する妻との正面衝突を避けているだけである。

だから、ウィキの記述のように秀治を「一般的な差別的視線をもつ人物」と規定するのは少し違うのではないかとオレは思う。それまでの描写を通じて、秀治は輝明に対して疎ましがったり距離を取りたがっている節はなく、飽くまで愛する家族の一人として屈託なく接している。都古の結婚式に際して弟の背後からネクタイを結んでやる仕種を視て、この兄が内心では弟を侮蔑し疎んじていると考える視聴者はまずいないのではないかと思う。

たしかに第一〇話では、レースに出たいと言い張る輝明に「兄弟が面倒看てくれるのが当たり前と思うな」と一喝し、母親に向かって小学校時代の辛い想い出を語って、剰えそれを「いい迷惑だった」と身も蓋もない表現をしている。

だが、それは果たして障害者差別なのかと言えばそうではないだろう。彼はこのような刹那にも障害者の弟がいることが恥ずかしかったとか不体裁だったとは一言も言っていない。差別というのは、たとえば古賀が路上で蹲る息子を視て視ぬフリで見捨てたような、そういう感情のことを言うのではないのか。しかし、彼は弟のせいで兄の自分までが不利益を蒙ることを不条理に感じて育ち、それを「迷惑」と表現しているのであり、それは障害者であろうがなかろうが無関係な、一般的な兄弟間の感情面の蟠りだろう。

そして、嘗て秀治が輝明の「手を引いてくれた」ことで重要なのは、昔はもっと輝明に優しかったということではなく、それが衆人環視の運動会の競技中だったということである。秀治が心底輝明の障害を疎ましがったり恥ずかしく思っていたなら、いじめや教師の八つ当たりで「いい迷惑」を蒙っていながら、全校の教師・生徒や父兄が嘲笑う中で滑稽に戸惑う弟の手を引いてゴールまで共に走れるはずがない。それは古賀の過去とは正反対の成り行きである。

しかし、それでいながら現在の秀治が真樹を含めて直接の肉親以外の者の前で輝明を扱う態度には、明らかに不当な面がある。さらには、「健常者と働くのは無理」「施設に入るのが輝明自身のため」という、何処から何う視ても差別的な意見を持っている。それは何故なのか。

設定上秀治の職業は商社マンであり、つまり人財本位の業態の企業人だが、人財本位の業態ということは個人の信用や世間体が大きな意味を持っている。その意味で、秀治には憚るべき「世間」というものが厳然としてあるのだし、「他人」であろうとする真樹もまた要するに世間の価値観の代表者であるに過ぎない。それ故に秀治は、障害者の弟を恥じたり差別したりしているのではなく、世間との軋轢を徹底的に避けているだけなのである。

たしかに秀治自身は弟に対して差別的な感情を抱いてはいないが、それが故に世間の無理解と戦うことに意味があるとも思っていない。世間の旧態然たる価値観を変革することなど不可能だと諦念を抱いている。ドラマの中で直接描かれることが少ない偏見に盈ちた外部の世界と日常的に接している秀治は、そのような世間に「合わせる」ことでしか、社会的弱者である輝明の生きる道はないと諦めているのである。

一方、母里江や妹りな、都古や森山動物公園の仲間たちはそれほど世間と接点があるわけではない。輝明の肉親や幼なじみである女たちは最初の最初から私的なチャネルを通じた関係なのだし、肉親に障害者がいることが不都合となるような世間を持っているわけでもない。また、森山動物公園の仲間たちは、基本的に来園者たちよりも飼育動物に対して真摯に向かい合う職制の人々であり現場の労働者である。

これまでのエピソードでは主に森山動物公園の人々と輝明の関係性について描かれてきたわけだが、それは等質性に基づいて波風立てずに成立してきた共同体が、異質性を持つ新来者を受け容れることで揺らぐという構造の物語と表現出来るだろう。その場面における関係性は、当たり前のことではあるが対面性の文脈で描かれていて、人々と輝明の直接的な触れ合いを通じて理解と受容が描かれていた。

その際に、輝明に対する冷酷な視線を体現してきたのは常に外部の人間であり、初期のエピソードにおいては来園者がその役割を果たしていた。輝明に展示時刻を訊ねた若い男女の態度などがわかりやすいが、輝明の個別事情を識らない外部の人間は、輝明の奇矯な態度に接して無理解故に怒りを爆発させる。これをわかりやすい悪役描写とか悪役を外部に求めるご都合主義と謂うことも可能だが、それで当たり前だという言い方も出来るのである。

何度も繰り返し陳べてきたことだが、我々の生きる社会というのは等質性を大前提として成り立っている。その等質性からこぼれ落ちた存在が一般社会に適応するのは困難であり、等質性を自明視している人々が輝明の態度を等質性におけるコミュニケーションルールの文脈で侮辱と受け取るのは無理もないことなのである。

それを補正して妥当に受け容れ得るのは、輝明と対面的な関係性にある者に限られるのであって、たとえばあの場面で三浦が来園者に「この人は障害者です」と説明したところで何ら意味はない。あの男女が等質性の規範を自明視し続ける限り、そのルールにおいて適切に対応出来ない障害者を来園者の応対に充てた森山動物公園に対して怒るだけの話である。

さらに言うなら、あの時点ではOJTに就く三浦自身が輝明を理解しておらず障害者が健常者と共に働く意味を理解出来ていない。等質性と効率性の観点から考えれば、輝明の存在はお荷物でしかないのであり、園長の対外的な点数稼ぎとしか視られていない。

つまり、第六話までの流れで森山動物公園の人々が輝明を受け容れるに至るまでは動物公園の職員集団自体が輝明にとっての外部を構成していたのだが、都古の橋渡しの努力もあってその共同体に輝明が受け容れられることで、動物公園の職員集団は輝明にとって内部の世界となる。

それは一種、動物公園の職員集団が世間とそれほど密接に利害の接点を持っているわけではないからだという言い方も出来るわけで、これは動物園職員一般が世間識らずだという意味ではなく、飼育係という職制自体が動物と直接対面的に附き合うことを第一義として、経営の都合よりも動物の幸福や健康をまず第一に考える職業だからである。

現実的には、企業としての経営やそれに益する展示方法というのも重大な関心事ではあるのだろうが、その故に動物自身に対して不当な扱いをしてはならないという倫理観が第一義となるのだろうし、そうであって欲しいものである。

そのような意味で、少なくとも商社マンよりは世間の視る目を過剰に重んじることはないしその必要もない職業なのだから、職員自身の認識が変われば輝明の存在を受け容れることに現実的な意味での抵抗はない。単に動物の命を預かる仕事なのだから、普通なら出来ることが出来ない人間を飼育に充てることで動物の健康や生命に影響が出るのではないかという懸念があるだけであり、妥当な理解が得られれば偏見を棄てるに吝かではないだろう。その意味で、職員たちは最初から世間体とは別の次元の本音の部分で輝明を扱っている。

しかし、園長の久保はそうではない。そもそも久保が輝明の採用に乗り気になったのは「障害者に理解があるフリ」によって世間受けを狙い、来園者数アップを目論んだからであり、それは自身の出世という世俗的且つ自己中心的的な目的の故である。それ故に久保が輝明に対して融和的な態度をとってきたのは、たとえば秀治や真樹とは逆の意味で世間体を取り繕ったからである。

そもそも左遷されて就いた望まざるポストなのだから、動物に特別な愛情などはないし障害者に理解があるわけでもない、現ポストで実績を上げて捲土重来を期するのが第一義となるのも当然である。それは、久保が視ているのは世間のほうであり、森山動物公園や輝明ではないからである。

その意味で、久保は輝明と直接組んで仕事をする三浦や輝明の存在で過去の痍を想起する古賀と違って、輝明と向かい合うべき動機や機会が最初から存在しない。このドラマのリアリティにおいては、人は善意の故に輝明と向かい合うのではなく、個人の動機に基づいてそうするのだから、輝明と最も対面的に距離を持つ久保がこの時点までに輝明の存在を受け容れていないのは自然である。

そして、第八話でその久保を動かす動機は、この共同体の中で久保が最も密接に接点を持っている世間である。森山動物公園もまた一個の私企業であり経済的基盤を持っているわけだが、その経営は決してきれい事ではない。職員たちが誠実に仕事をすればそれで儲かるというものでは当然なく、巨大企業グループの中の不採算部門として疎まれているわけで、一度出世闘争に敗れた久保はその不採算部門の建て直しを条件に本社復帰を願っている。

それは一種、森山動物公園という場が存続するためには当然必要な視点であり、収益増を求める本社の要請も本質的には間違っていない。人が見に来ない動物園で幾ら大事に動物を飼っても無意味である。現実問題として森山動物公園程度の規模の動物園は全般に経営が振るわず、行動展示や混合展示など展示方法の工夫で来園者数が激増した旭山動物園の事例が経営改善のモデルケースとなっている。

森山動物公園の本社も、別段動物に愛情があるから動物園を経営しているわけではなく一定の利益が上がると思うから経営しているのである。第八話で登場した社長は不快な俗物として描かれていたが、たとえ好感の持てる人物であったところが、不採算の動物園をいつまでも存続させてくれるはずもない。また動物園の社会的使命の観点から言っても、出来るだけ大勢の人々に見に来て欲しいというのは、職員たちにとっても変わらぬ願いであるはずである。

久保は単にそれを第一に考え責任を取る商売人としての立場に置かれているというだけの話で、動物園にも輝明にも本質的に無関心なのは、当然とは言えないが自然ではあるだろう。

久保がレッサーパンダのお披露目を焦ったことに問題があるとすれば、素人のくせに玄人の飼育係の意見を容れずにお披露目を強行したことで、それがために大事な虎の子の目玉動物が生命の危険に晒されてしまうわけで、商売の理屈から言っても元も子もない愚挙と言えるだろう。

まあ、現実の報道などから視る範囲では、こういう乱暴なことをする動物園はほとんどないと視ていい。マスコミへのお披露目を予定しながら動物の体調不良で取材がお流れになったというのはよく聞く話だし、動物の体調を無視して撮影を強行したことが表沙汰になればそれこそ非難が殺到するだろう。世間体の面でも動物園は飼育動物の健康や福祉を第一に気遣う必要がある。

要するに、久保は外から圧し附けられた素人なのであって、古参の古賀を頂点とする飼育係の集団から視れば余所者である。世間ではなくまず動物と本音で対面的に向かい合う職業である飼育係からすれば、動物や従業員にはまったく無関心で本音と建前を使い分ける久保こそが世間との接点なのであり、軋轢はその接点において生じるのである。

それは視聴者の主観においても同様で、これまでの森山動物公園内部の物語においては本社への点数稼ぎに奔走する久保の偽善は世間を代表するものと見なされてきたわけであるが、当然出世闘争に敗れて左遷された久保には、その上位に位置して久保を圧迫する本社やその代表の社長という外部の世間がある。

森山動物公園を背負って本社社長と対峙する久保が描かれることで、その役割は外部の本社サイドに肩代わりされるわけで、久保が動物園内部で外部を体現していたときには描かれなかった「排除」の在り方がそれに際して初めて描かれる。

久保の愚挙に故に生命の危険に晒されたクッピーの見守りを通じて、輝明をも含めた飼育係たちの集団の絆が描かれるわけだが、当然これまで外部を体現してきた久保はその絆から排除されている。

飼育舎に現れた久保に対して三浦が真っ先にかけた言葉は「残業代は請求しないから心配するな」というものであり、ハナから久保が動物を心配しているわけではないことを皮肉っている。だが、久保がこの場面で飼育舎を訪れたのは、普通に考えてやはり自責の念や心配があったからだろう。それを頭から皮肉られて為す術もなく久保はその場を立ち去る。これは第六話で真樹が置かれた状況と同様の成り行きであり、無関心によって排除することは排除されることでもあるのである。

このくだりで輝明が規則的行動の呪縛から逃れて動物園に戻る成り行きは前半の山場として描かれている。第二話で天竺鼠を逃がしてしまったとき同様、定時を迎えて帰宅してしまう輝明だが、焼き芋を買っているところへ飼育係たちから半ば追い返された久保が通りかかり、嘗て輝明が都古とそうしていたように高台のベンチに並んで座る。

この場面の久保は「私たち以外皆一致団結のようだね」と語り、輝明を自分と同様に皆の輪に加われない者と見なすが、「いいね、大竹さんは」と口にしたのは、輝明が人々の輪に加われないのは自由意志の問題ではないし、責められるわけでもないという羨みの言葉である。これは無神経な言葉であり、責められなければ人の輪に加わらなくてもいいというものではないだろう。

同じように疎外された者であっても他者から受け容れられ労られる立場であることを羨んでいるわけだが、これまでのドラマを見守り続けてきた視聴者は、久保がこれまで輝明の存在にまったく関心がなかったことを更めて確認する。

その受容や労りは無償で得られたものではなく、痛みを伴う物語の果てに得られたものであり、それを「羨ましい」と表現するのは結果しか視ていない。さらに言えば、この時点ですら輝明は久保と違って皆から疎外されているわけではない。

そこで輝明は都古との約束を想い出し、動物園へ取って返すわけだが、それは彼の中における独特の「拘り」の基準の中で、その都古との約束が何にも増して力を持つことを示している。そこから飼育舎に戻った輝明と飼育係たちの間の交流の描写は、これまでの物語の決算としての幸福な姿と描かれているが、その対比上、取り残された久保の孤立がさらに際立つ結果となっている。

それは、その後の物語が輝明と飼育係の絆の物語ではなく、久保の孤立の物語であるからである。たしかに、クッピーを見守って夜明かしするくだりの描き方は、これまで描かれた輝明と飼育係たちの物語の決算として感動的ではあるし、輝明を送り届けた古賀の言葉がエピソード後半で重要な意味を持つ里江の手紙を書かせるわけではあるが、大筋を構成しているのは世間と直接対面している久保の孤独感である。

クッピーが事なきを得た翌朝の朝礼では、飼育係たちの間で久保への不信感が頂点に達し、久保の孤立は決定的なものとなる。そのような職員たちの不信の視線、さらにはマスコミの取材を強行したために双子目当てで来園した観客の不満を目の当たりにし、久保は激しい自己嫌悪に苛まれる。

口数の少ない古賀の冷たい視線に居たたまれずに声を荒らげたことがきっかけで、図らずも古賀の家庭事情を吐露され、対立軸を抱えていた二人は酒を酌み交わしながら腹蔵なく本音を話し合う場を持つに至る。ここで古賀が今まで秘め隠してきた息子のことを口に出来たのは、この時点で古賀の苦悩が救済の光を見出しているからだが、それと同時に古賀の過ちもまた世間との軋轢を根に持つものだったからである。

第六話での描き方を視る限り、古賀は自閉症の息子の世話が物理的に大変だという理由で家庭から逃げたわけではない。古賀は、自分にそのような息子がいるという事実から逃げたいから眼を逸らしていただけであり、それは家を飛び出した息子が路上で奇声を発して蹲っている場から「視て視ぬフリ」で逃げようとした描写で明らかである。

そんな息子の姿を無責任な世間が気味悪がって遠巻きに視ている、その残酷な視線の直中に割って入ることが何うしても出来なかった。この奇怪な人物と自分が血の紐帯に結ばれているという事実を、衆人環視の直中に晒すことが出来なかった。

それは、言ってみれば卑劣な怯懦であるが、誰にでもあり得る感情である。嘗て秀治が輝明の手を引いて走れたのは、彼がまだ純粋な子どもだったからなのであり、世間の怖さを身に染みて識ってしまった大人にはそれほどの勇気を持つことは難しい。それは、過去と現在の秀治の弟に対する考え方の違いを視ても明らかだろう。

誰だって世間の眼は怖い、人に嗤われ蔑まれるのは怖い。この場面が視聴者にとって居堪れないほどに辛いのは、そんな状況において冷酷な視線の直中に飛び込むためには強い愛情の後押しがなければ耐え難いのに、そんな愛情の強さが与えられる保証がまったくないからである。自分だって同じ状況に置かれたら、障害を持つわが子を疎ましく思うかもしれない、世間の眼を怖れ、視て視ぬフリを通すかもしれないという視聴者の不安を激しく掻き立てるからである。

それだけならまだしも、息子を探しに出た母親がそんな夫の姿を目撃してしまうという成り行きに至っては、剰りにも残酷すぎ、剰りにも辛すぎる。古賀が世間の眼を怖れるということは、世間の冷酷な価値観を肯定することであり、障害者を異様な他者として排除するということである。こんな息子でさえなければと、今目の前にいるわが子の在り様を全否定する姿勢である。

古賀が息子を見捨てたことは、好奇と嫌悪の眼で息子を視る世間の在り方に実の父親が荷担したということなのであり、それを目撃することで、古賀の妻は絶望的な孤立感を味わったのである。彼女が冷酷な世間から息子を守ろうとすることを助けなかっただけではなく、夫もまた世間の一部として息子を蔑んでいたことを識らされたのである。

これは勿論、輝明のために全力を尽くす里江や基本的に心優しい兄と妹に恵まれた、ある種現実的に望み得る理想的な家庭である大竹家の陰画なのであり、このようなリアルな離散家族の現実を最初の最初から突き附けられていたら、おそらく視聴者は感情的に耐えられなかっただろう。言葉は悪いが、出発点における大竹家の家庭環境が不自然なほどに優しくソフトに描かれているのは、その陰画である古賀の家庭の悲惨な現実をぶつけるための前フリ的な意味もあるだろう。

ここで古賀の息子を蔑む世間とは、何も事情を識らなかったら、やはり路上で奇声を発する少年を気味悪がって嗤うだろうオレたち視聴者一般でもあるのだし、そのように等質性を前提視する無意識の排除の機序が古賀を苦しめ、彼の家庭を破壊したのである。この冷酷な現実を初っぱなからぶつけられたら、恐らく大多数の視聴者は到底耐えられなかったと思う。

大竹家の在り方が自閉症児の存在を組み入れた平和なものであり、大半の視聴者はその現状に安心出来て感情移入出来るからこそ、それに次ぐ段階として古賀の悲惨な過去が語られても耐えられるのである。

普通一般の視聴者には、古賀を追い詰めた世間の目と同じような差別意識もあれば、輝明を不当に扱わず家族の一員として遇する大竹家の現状を好ましく感じるだけの善意もある。それはやはり、連続ドラマの描写上の手順の問題ではあるのである。人々は、自身の善意を確認してからでないと、自分自身の差別意識を認めるのは辛いものである。

そして、古賀は疎ましく感じていた「障害児のいる家庭」から解放されると同時に愛する妻子に去られ、生涯の心の痍を得るに至った。古賀は妻が疎ましかったわけでもないし、息子を愛していなかったわけでもないのだが、単に息子が障害児であるという事実に耐えられなかっただけなのであり、やはりこの場合も、排除することは排除されることと容易く等号で結ばれ得るのである。

そんな辛い過去を持つ古賀だからこそ、若く柔軟な価値観を持つ三浦とは違って、世間の硬直化した価値観に翻弄される久保を、一方的に善し悪しの規範で断罪出来ないのである。第六話で輝明を受け容れた古賀と、未だ本心から受け容れたわけではない久保が腹蔵なく話し合うという手続が踏まれることで、この時点の久保は悪役を演じるわけにはいかなくなる。

誰だって悪役であろうとして悪役を演じているわけではない。特定の視点から視て悪役に見えたとしても、本人と腹を割って話してみればそれなりに無理もない事情があるのであり、その人なりの考え方があるものである。それが悪役に見えるのは、特定の物語視点において内部に対する外部を体現するからであって、久保が悪役だったのは久保が内面を描かれない外部としての世間を体現していた間だけである。

そのような外部を内部に包摂するのは、対面性という個別的な関係性の範疇でしかないわけで、その意味では秀治が考えるように世間の価値観全体を一挙に変革することなど不可能であって、異質な者のほうが等質な世間に「合わせる」という秀治の考え方自体も現実的な意味でそれほど間違ってはいない。

だが、これまで悪役に位置附けられていた久保が古賀と腹を割って話すことで和解を果たしたような個別の関係性は無力なのかと言えば、それはそうではないだろう。久保と古賀の和解と対話が、引いては久保と輝明の関係性を橋渡しする契機となるのだし、人はそのような迂遠な筋道を通してしかわかり合うことは出来ないのである。

世間の価値観が変革されたら輝明が輝明らしく生きてもいいなどということではないのであり、ならばいつになったら世間の価値観が変わったと言えるのか、それまで障害者は世間を憚って生きるしかないのか、という話にしかならないだろう。

この久保と古賀の和解を契機に、久保と輝明の高台のベンチでの対話が都合三回繰り返され、そのような構造において久保と輝明の接近が描かれる流れは、シリーズ全体の白眉と言っても過言ではない作劇だろう。

世間の一部でしかなかった久保が個人として輝明と対峙することで、久保が第一に考える世間の価値観において絶対の存在である本社社長の心ない仕打ちに猛然と喰って懸かるという成り行きは、ベタではあるがベタを成立させるための作劇として優れている。

たしかに今現在においても世間の障害者理解は万全とは言えないし、公的な法制度の面では寧ろ逆行する流れもあるかに仄聞するが、このようにして人と人が対面的に触れ合うことで個々の世間の在り方が変革され、徐々に「世界」の構造が変わっていくのではないか、障害者が当たり前の居場所を獲得することが出来るのではないか、そのような爽やかな希望の力強さが嬉しい。

このドラマの作劇作法が快いのは、たとえばそのようにして久保が自己変革を迎え、物語的に救済されることが、輝明自身の居場所の獲得にも希望の余韻を残すような構造をとっているからである。決して障害者を「愚者の智」的な異人扱いするのでもなく、他者との触れ合いの中で自分自身も成長していく人物として描いているのが、非常に抑制が利いた物語観で素晴らしい。

第八話のエピソードのクライマックスは、「中年男が物差しを持って必死で走る」というごくごく些かなものでしかなく、決して派手な劇的事件が起こっているわけではないのだが、そのミニマルな一事件から世界構造にまで視野が拡大する感動は比類ないものである。

飼育係たちとの絆の描写も感動的ではあるのだが、これまで一貫して世間の価値観を体現してきた人物と輝明の和解が描かれたことが、世界全体に繋がる希望の余韻をもたらしているのである。僕の歩く道という個別のドラマが、世界変革の大事件を描くことなど到底不可能であるし、世界が変革を蒙らない限り、個別の障害者の生が無前提で充実することはあり得ない。しかし、このようにして世界は変わっていくのだというミニマルなプロセスを提示し得たことで、このドラマには絶対的存在価値がある。

そこから手仕舞いの三話が若干駆け足に感じられるのは、そのプロセスの風呂敷を畳む手順だからだという言い方も出来るわけで、この第八話までに播かれた種が納まるところに納まるプロセスを、若干描写の深度を浅くして段取り良く描いているように見えなくもない。それを別の言い方で表現するなら、やはり「差別意識という悪者と戦うプロセス」に重点が置かれたシリーズ構成だったということになる。だが、悪者が退治されて目出度し目出度しという落とし所では物語を終えたくないという送り手の認識それ自体は非常に志が高かったと思う。

細かいことを言うなら、やはり都古と輝明の関係性については、全体的に浅いところで話を纏めた嫌いは否定出来ないし、都古自身の危機を設定する手順が俗に流れた嫌いはあるだろう。さらには、都古と輝明の今後に含みを残すのみに留め、決定留保したことについては議論の余地があるのではないかと思う。無粋ではあっても、そこから先が本質的な問題なんじゃないかという意見があってもいいだろう。

また、冒頭で触れたように、グループホームという落とし所についてはもう少し以前から丁寧に提示すべきだっただろうし、その種の施設自体が抱える問題性について言及がないのも仕方ないとは言え少し突き詰めの足りない部分だとは思う。

もっと些末なことを言えば、最終話で重要なモチーフとして扱われる鳶については、いきなり個別のエピソードで提示するのではなく、シリーズ全体で引っ張っておくべき事柄だったと思う。さらにもっと下世話な話をするなら、やはり動物園の飼育係の話と自転車レースの話がイメージ的に分裂している嫌いがあるので、もう少し最初のほうから馴染むように描いていれば、この番組を契機にして自転車ブームが起こったかもしれないし、その種のイベントへの障害者の積極的参加について世間の意識が高められたかもしれない。

また、以前のエントリーで「識らない道に行けない」という輝明の障害を固定的なものとして語ったが、ウィキの解説によると自閉症における行動障害の核心にあるのは「拘り」であって具体的行為それ自体ではないということなので、その改善を「あり得ないこと」と表現する堀田医師の説明は、ちょっと描写としてアンフェアだろう。

可能ならば、輝明がこれまで出来なかったことを出来るようになるプロセスの心理的機序をもう少しわかりやすく提示したほうが良かっただろうと思う。「治癒」という落とし所ではなく、障害の核心にある「拘り」の在り方が劇中の事件を媒介にして変質していったということをわかりやすく提示したほうが、「障害者の人間的成長」の描写として自然で誤解は少なかったのではないかと思う。そこに不備があると、各話の感動を盛り上げるための小細工とか、自転車レースへ出場させるための便利な展開ととられるおそれがある。

しかし、それはまあ、すべてないものねだりの話ではある。都古と輝明の関係についてはおそらくあれがTVで描き得る限度だろうし、そのような問題を正面の課題に据えてしまうと過剰に重くなるし、ちょっと下世話な話にもなってくるだろう。一旦輝明と都古の間の保護・被保護関係を解消した上で再接近の手続を描いて見せた以上、その先を視聴者の想像に委ねるのも一便法だろう。

自転車レース自体の劇的ウェイトが相対的に低くなってしまったのは残念だが、最低限言わんとするところは実現されており、それが前半の稠密なドラマ性ほどに深耕されているように見えない辺り、歩留まりの範疇で問題が残るという程度である。

ドラマ全体を俯瞰する限り、ウェイトの高い問題性については過不足なく語りきっているし、従来のこの種のドラマにはない高い次元での纏まりを見せていたと思う。一〇年前に「ピュア」を書いた書き手のリベンジとしては成功と言えるだろう。

この種のチャレンジには、人のデリケートな在り様を扱っている以上「迂闊な失敗が許されない」という高い緊張感が伴う。その意味で、最後半の展開は若干「弱い」という程度で「迂闊な失敗」は犯していない。輝明同様の障害児を抱える家族から称賛の声が相次いだとのことだが、当事者性において視聴しても共感が得られるということは、このドラマが終始その種の当事者性を他人事とせずに誠実に描き通したことの証しだろうと思う。

今後もこの僕シリーズが継続するか何うかは識らないが、現時点では最も信頼性の高いシリアスな問題性を扱い得るドラマシリーズと言えるだろう。

そういうわけで、最後に残ったのは今季CXドラマ唯一の失敗作である「役者魂!」であるが、僕歩にヴォリュームを割いたのでこっちは比較的あっさり目に語りたい。まあ何を言うにも、何が語りたいのかサッパリわからない作品であるということがいちばんの難点に挙げられるだろう。

タイトルに掲げられた「役者魂」を語るつもりなどは最初からなかっただろうし、それが物語の口実としても有効に機能せず作劇のお荷物に終始した辺り、まあ失敗作であることは誰の目にも明らかである。某所でチラッと会話したことだが、本能寺の中途半端な我儘を中途半端なドタバタで描いたドラマを「役者魂」と括ることに侮辱を感じる方もあるようで、まあ怒られても仕方のない出来だっただろう。

役者の生理を笑い飛ばすにしろ、もう少しこの作品なりの役者観のロジックがちゃんとしていたら弁護の余地もあったのだろうし、少々ピント外れでも演劇者に対する幻想もしくは敬意が見え隠れしていたら事情は違ったのだろうが、他人が一生懸命やっていることを浅い認識で茶化しただけなので、不謹慎な悪ふざけととられてもしょうがない。

疑似家族物の呼吸としても、本能寺が桜子と忠太と同居を決意する辺りで普通の意味における疑似家族物の類型は終わっているので、後はそこからの手仕舞いを描くしかなくなるのは当たり前だが、それまでもそこからも妙にシリーズ構成がダラダラしていて、護や里奈の話は何う視ても本筋に据えるべきテーマでも何でもない。

この脚本を、たとえば「危険なアネキ」のヒトが書きましたというのなら話はわかるのだが(笑)、信頼性の高いベテランライターの君塚良一が書いてこの出来であるというのがサッパリ理解出来ない。従来の君塚作品では、時代性を読み違えたり道具立てを間違えて失敗した例はあっても、ここまで壊滅的に全体構成がダメな例は視たことがない。

漫然と観ていればそれなりに楽しめるという「手癖」の巧さ以外、このドラマには何処も良いところがないし、当たり前の意味で筋道立った失敗の理由が思い附かない。

ドラマの構造として全体的にお話にならない出来だという以外に表現のしようがないのだから、ここがこうなっているから失敗したのだ、これをこうしようとしたがこうならなかったから失敗したのだという全体のロジカルな解析のストーリーなど描けるはずがない。

ただ一つ思い附くのは、この番組に関しては、君塚良一を含むブレーンが最初から先行きを決めずに行き当たりばったりに書こうとしたのではないかという想定である。白倉ライダーなどでいわゆるところの「ライブ感」というやつだが(笑)、剰り厳密に縦糸を決め込まずに各話の振れ幅のアドリブ的なヴィヴィッドさで見せようとしたのであればこのような形になったのも頷ける。

まあそれは、一年五〇話の幅があって視聴者のリアクションを読んで先行きに反映可能な平成ライダー的な「ライブ感」とは違うわけで、視聴者のリアクションもへったくれもなく、どんどん即興的に書いていく裡に破天荒に転がる物語のヴィヴィッドさという意味だが、そうだとしても失敗しているのは事実である。

それと言うのも、この設定やテーマでは、或る程度先行きを決め込んでウェルメイドに語らなければ良いお話にならないのは見え透いているからであって、そもそも即興的なナラティブに向いている道具立てではないからである。それこそ君塚良一が「役者魂」に対して一家言あるような人物なら、即興的な芸語りとしても人情喜劇としても成立したかもしれないが、役者の道に対する無理解さでは「下北サンデーズ」の堤幸彦とどっこいである。

わかりすぎているからああいうふうになったという可能性もないではないが、仮にそうだったとしても、本能寺は普通の意味では役者としてはダメダメなヒトにしか見えないので、あれでは役者というのは頑迷で身勝手なだけのダメ人種にしか見えないだろう。だったらなんでそんなに役者という商売に悪意があるんだという話になる。

本能寺の役者としての拘りとして描写されている部分が剰りにも頓珍漢な芸道観で、故意に戯画化したのか素で勘違いしているのか微妙なのが視聴者を戸惑わせる。あの年齢の役者が「舞台しかやりたくない」「芝居が出来ないから舞台に立ちたくない」なんてのがまず外しているわけで、自分の舞台の資金稼ぎとして意に染まぬ半端仕事をたくさんこなしているベテラン俳優などたくさんいるわけだから、儲けも出さないくせに舞台だけやりたがる素人臭い我儘にしか見えない。

また、どんなにコンディションが悪くても、自身の演技に納得が行かなくても、たとえその日に親が死んでも、舞台に穴を空けることだけはしないというのが最低限の役者の意地であるはずだろう。自分の芸を見に来てくれる観客に対する敬意を喪わないのが舞台人の意地だろう。折角劇場に足を運んでくださったお客さまに、自分の演技上の拘りでお帰りいただくなどというのはプロの舞台人にあるまじき甘えで、プロなら是が非でも開演までに自身の演技を可能な限り切磋琢磨するのが当たり前の心得である。

「今日は調子が悪いから明日また来てね」なんていうヌルい料簡の舞台人が何処の世界にいるというのか。舞台というのは一期一会、今日来場した観客は一度きりしかこの芝居を観にこないのだというのが当たり前の舞台人の認識だろう。すでにそれは、役者何うこうの問題ではなく、一人の職業人として普遍的に失格である。

役者だろうが何だろうが、技能職の一つである以上、やりたいことだけやっていて商売が成立するはずはないのだし、そんな一般常識もないのが役者魂だと言われたら、全国の役者が泣いて怒るだろう。舞台を成功させるためにすべてを犠牲にするというのは、お金の心配は他人がしろということとイコールではないだろう。

コントに出演して細かい設定を確認するところなども莫迦らしい話で、ベテランの役者なら設定がなくても身ごなしで保たせろよと突っ込んでしまう。細かい設定がわからないと役作りが出来ないなんてのは、寧ろ若手のぺーぺーが言うことである。基本的に役者というのは、演出者が細かい人物像を詰めなくても何とか見せてくれる体技を具えた職業者のことなのである。まさか君塚良一ともあろう者が、「辻褄を合わせるのは役者の仕事です」という有名な鈴木清順の言葉を識らなかったとでもいうのだろうか。

一事が万事で、本能寺の芸道語りや拘りが逐一外していて、あれではプロとしてのスキルや心構えのない我儘なだけの年寄りにしか見えない。第一話で舞台装置を汚し始めた辺りから「舞台役者の癖に糞リアリズムですか」と呆れたのだが、まあこれでは書き手が役者のことを何もわかっていないととられても仕方ないだろう。

そういうイタい芸道語りに辟易したので、設定の失敗は「なかったこと」にしてあげるから本筋の疑似家族の人情噺に徹してよ、と思っていたのだが、ちょっと巧くいくかと思えばすぐに護と里奈の不可解なラブコメに持っていったりして、厭な意味で気が抜けない番組であった。

こんな道具立てのお話を即興の思い附きで保たせられると思ったのは君塚良一の思い上がりなのかもしれないが、「踊る大捜査線」やレジェンド作品の興行的成功に気をよくしてダメなヒトになっていなければよいがと懸念する次第である。

とりあえず、駆け足であるがCXに関してはこんなところで。

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