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2006年12月31日 (日曜日)

冬が来る前に 其の壱

今回のエントリーは、恒例の連続ドラマ総括二〇〇六年一〇月期編である。しかし、更めてよくよく考えてみると、今季はそれほど満遍なくドラマを観ていたわけではないことに気附いた。というか、前季と比べると中途脱落した番組が多くて、自分の中で評価の高い番組ばかり繰り返し観ていたという印象である。

オレの視聴体勢としては、各局の優先度の高い連続ドラマ枠をHDDレコーダの毎週予約に登録していて、HDDレコーダでフォロー出来ない番組についてはPCで録画して最終的にDVDオーサリング後に視聴している。随って、PC廻しの番組は観るとしても何週分か固めて観ることになるし、ぶっちゃけ一度も観ないで済ませることも多い。

HDDレコーダを常用している方なら理解してくださると思うが、HDDレコーダの有り難みというのはメディアチェンジしなくても大量の録画番組が観られる のが快適なわけで、この快適さに慣れてしまうと、メディアの抜き差しが極端に大儀に感じられてしまう。つまり、HDDからDVDに焼いてしまうと、まず もって見返さない。DVDに焼いてHDDからデータを消去するということは、リアルタイム視聴モードから長期保管モードにシフトするということである。

それが自分でもわかっているから、PC録画に廻すというのは殆どリアルタイムで視聴する意欲がないということである。「だったら録らなきゃいいのに」とい うのも至極尤もなツッコミだが、回が進む裡に突然化けるドラマもないではないし、一部キャストに興味があるだけでお話に殆ど関心を持てない場合などには便 利であり、つまり一種の保険である。

HDDレコーダは後からHDD容量を増設出来ないので、その辺PCなら余裕が持てるということもある。うっかり録画データを溜めたりすると後で動画編集と オーサリングに追われて大変なことになるのだが(笑)、まあその程度の動機で録画している番組だから気分次第で一度も観ずにデータを棄てることもある。

今季は何だかんだでPC録画に廻した番組も多く、裏のバラエティ番組のほうを専ら観ていたり、レコーダでリアルタイム録画中でも別のドラマの録画を繰り返し視聴したりすることが多かったという印象で、興味のある番組とそうでない番組がはっきり分かれたような気がする。

録画はしたけれど殆ど興味が持てなかったドラマの最右翼は日テレ土九枠の「たったひとつの恋」で、初期話数をチラ見した程度で後は殆ど観ていない。枠単位 で録画予約を入れているので、一応HDDレコーダのほうで録画していたしDVDにも焼いていたのだが、何処もいっさい引っ懸かりを覚えなかったので、ほぼ 土九枠の流れを追うという観点での「資料」としての扱いである。

何故いっさい引っ懸かりを覚えなかったかというのは割合はっきりしていて、オレは個人的にあのドラマのように「何となくつるんでる遊び仲間のすったもん だ」に全然興味を覚えないからである。四半世紀前に上京して以来、かなり人間関係の異動の激しい生き方をしてきたので、このドラマや「タイヨウのうた」の ように地縁的な遊び仲間を基本ユニットとした人間関係の描き方に興味が持てないのである。

地縁的であるということは要するにローカルな人間関係だということで、東京の地附きの人か地方で生まれてそこでずっと暮らしている人には割合自明な人間関係の在り方なのだろうが、要するにそれは都市的な人間関係ではない。

都市的であるということは、つまり地縁的な連続性からは切れているということで、たとえば東京に限って言っても、祖父母の代から東京在住というような人は 純粋な意味での都市住民ではないだろう。それらの人々は都市が実体として持つ地域性や地縁性の埒内の人々であって、都市というのは本来地縁性とは無関係に 人やモノがデジタルに交流する、トラフィックの結節点としての場である。

別の言い方をすれば、このような地縁的な人間関係というのは、年齢に関わらず自分が生まれ育った子ども時代と連続性のある私的な人間関係であるということ で、私的な遊びの脈絡でしか意味を持たない関係性である。つまり、学生さんとか精々社会人一年生とか、その程度の問題性の範疇で物語性が生まれる人間関係 であって、要するに子どもの視野におけるドラマ性なのである。

初期のエピソードをチラ見した範囲では、要するに合コンで識り合った無理目の女と貧乏人のすったもんだを描くお話であって、物語性の視点が子ども目線であ る。このような子ども目線の人間関係を中核として「身分違いの恋」というテーマを描くのなら、それは子どもと社会の軋轢の物語を描くドラマということだろ う。同局の「14才の母」とも通底してくるテーマ性だが、個人的な嗜好として、この辺が決定的に何うでもよく感じられてしまうのである。

このような観点の物語性というのは、たとえば学生作家さんが得意とするもので、書き手自身が未だ大人の視点を獲得していない学生さんなのだから、それは当たり前の話である。自分の立ち回れる半径五メートルの視界でしか物語性を獲得出来ないというのも無理からぬ話だろう。

オレ個人としてはこの種の未熟な視点の物語で許容出来るのは、社会が保護教導すべき立場の未成年のドラマに限られ、その意味で学園ドラマは大好きである。 子どもにとって学園とは世界そのものだろうし、誰もが少年期に学園という特殊な世界に生きていたのだから、その限定された小世界には普遍性がある。一種の 郷愁から子ども視点でドラマを楽しむことも出来るだろうし、大人の視点で楽しむこともまた両様に可能である。

しかし、いい歳をした若い衆の遊び仲間を基本にした子ども目線の恋愛物語というのには何うにも興味を感じない。ましてこのドラマの場合、子どもの立場であ る主人公たちと大人社会の軋轢を描いているわけだから、オレのようなオッサンとしては社会の側の目線で主人公たちを視てしまう嫌いがある。14才の母に関 しても同様の感触を覚えるのだが、大人であるドラマのつくり手が主人公である子どもの視点に立って社会を悪者に仕立てるという構造が何とも気持ち悪く感じ るのである。

それは未熟な子どもたちに対して迎合的であるか、つくり手自身の視点が子どもに近いものであるかのどちらかだろう。まあ、このドラマに関してはほとんど後 半の展開を識らないので突っ込んだ話はしないが、明治大正昭和の昔なら識らず、この平成の世の中で大人が子どものやることに反対するのは大概無理からぬ理 由があったりするもので、そのような無理からぬ理由に抗って気持ちを押し通す若者の純粋さを美しいと視るか傍迷惑と視るかで大分見方が変わってくるだろ う。残念ながら、オレはそれに興味が持てなかったので円満裡に継続視聴から脱落させていただいた(笑)。

最前から頻繁に14才の母を引き合いに出しているが、何うも今季の日テレのドラマは二本とも妙に若者世代に迎合的な臭みがあって、オッサンとしてはそれが 堪らなく鼻に附く。たったひとつの恋のほうはさほどヴィヴィッドなテーマでもない上に視聴率的に惨敗したからまだ同情の埒内だが、14才のほうはもっと傍 迷惑で騒がしい本質を抱えているのに視聴率的に成功している辺りにかなり強烈な不快感を感じた。

以前語った通り、このドラマのつくり手には大人としての健全な良識や責任感のようなものが感じられないし、扱っているテーマの社会的影響力を考えると、そ んな良心のない無責任な態度で軽々に語って好いテーマではないだろう。脚本の井上由美子はこのセンセーショナルなテーマを劇的に語るためにかなり善戦して いたと言えるが、オレの考え方では、如何に顧客第一の出入り業者と雖も次世代に責任を持つ一人の大人としての良心はあって然るべきだろうと思えてならな い。

このドラマの脚本には描かれた内容の欺瞞性に対する自己認識や忌避感情のようなものが一切視て取れず、ノリノリの作劇レトリックで視聴者を感動させ、一% でも多く数字を獲ろうと真剣に頑張っている。それは、表現を生業とする人間の姿勢としては言語を絶して愚かで醜い。たとえ無理からぬ事情があったとして も、オレはもう井上由美子という脚本家の良識は二度と信じないことに決めた。

たとえば白倉Pが自著でスパイダーマンの話題に絡めて語ったように、如何に好ましからざる題材でも、それを丸ごと忌避して無関係を貫くのではなく、オ ファーされた以上は自身でそれを引き受けて可能な限りの誠意を尽くすという遣り方もあったはずだが、そのような「好ましからざる題材」という認識や誠意自 体が視られないのである。

大人の視聴者に対して何の留保の目配せもなく、肯定的にこれを語ることに全力を尽くしている以上、オレの職業倫理とは決定的に相容れないものがある。何処 かしら主人公たちの行動を批判的に意味附ける目配せを入れつつ、同時に数字を稼ぐという行き方も十分にあったはずなのである。それがない以上、この書き手 の良識を信じることは出来ないし、増してや自分で書いたことを真実真に受けているのであれば沙汰の限りの大莫迦者であって、今後一切このようなシリアスな テーマには関わってほしくない。

その意味で、このドラマで描かれたような筋道を本気でスタッフが肯定的に考えているのなら、それは前代未聞の大莫迦者である。生命の大切さを大上段に謳い ながら、その大切な生命が関わる厳粛な人の営みを軽率に行った幼弱者の行動の是非を一切問わない欺瞞性や、子を産むという行為に際して生まれてくる子ども の立場を一切考えない幼稚な自己中心性、それらの整合し得ない愚かさを「愛」の美名の下に無理矢理肯定しようとする強引さには吐き気を催す。

主人公の一ノ瀬未希が自身の胎内の超音波映像を視て胎内の命を実感し、出産を強く決意するというくだりなど、作劇的には感動的な描写のつもりなのだろうが、オレには卵から孵った芋虫を視て感動し、飼育してみたいと考える幼児の幼稚な好奇心にしか見えず、正直ゾッとした。

まさかこんな幼稚な「物珍しさ」の感情だけで出産への決意を根拠附けるつもりではなかろうと思っていたのだが、結局最後まで「産んでみたい」という未希主 観の好奇心やエゴ以上のものではない感情を根拠として物語が終始したのには、呆れるのを通り越して腹立たしくさえ感じた。

したり顔の名セリフ気取りで繰り返される「この子に会いたいから」という言葉は、つまり、有精卵を孵化させる小学校の授業の体験学習と殆ど意味的には同義 の感情においてこの物語の重大なテーマである出産が意味附けられているということである。世間の荒波に挫けずに出産を貫くというのは、どんなに面倒でもサ ボらず責任を持って卵を孵しなさい、それは大切な命なのだから、というレベルの話なのである。

母親の加奈子が未希の決意の堅さを確かめる場面の会話など、何処から何う視ても捨て犬を拾った子どもに「責任を持って面倒を看るならウチで飼ってあげる」 と諭す母親の態度である。だが、この連続上で喩えるなら、このドラマの場合には娘が拾ってきたのは何人も人を喰い殺した獰猛な野生動物なのである。最初か らそれは「責任を持って面倒を看る」という当人視点の問題性ではあり得ず、飼うという選択肢が肯定され得ない状況の問題設定のはずである。

すでに語ったことではあるが、子を産み人の親となるという行為の是非を論じる場合には、本人の気持ちや決意の堅さというのは本来些末な要素である。そこには一個の別人格として新たに生まれる人の生の端緒という包括的で厳粛で最もシリアスな問題性が横たわっているのである。

だから、人が子を産むという行為に際して問題となるのは、スッキリしたわかりやすい原理的な筋道というより、それに纏わる諸々の雑多な問題性の綜合なので あり、何よりも生み出される新たな人の生の視点の問題性であるべきで、それを生命の大切さや産む立場の人間の愛情の純粋さなどという原理的な筋道で語って はならないのである。

命の芽を摘む不倫の問題を語るなら、まず真っ先に論じられねばならないのは、感情や欲望の実現手段としてのセックスが、新たな命を生む厳粛な営みと直結し ているのだという筋道であり、軽々にそれを行ってはならないという戒めのはずである。安直なセックスの結果として「偶々出来ちゃった」命の芽を摘んではい けないなどと語るのは、片手落ちの原理主義者気取りにすぎない。

その第一要件を踏み外した愚かな幼弱者をダシにして生命の尊厳を高らかに謳う物語など、かたはら痛くて真顔で視ていられるものか。しかも、このドラマでは そんな身勝手な子どもたちを責める大人や周囲の常識人が悪者扱いで、身勝手な子どもたち自身やそれに迎合する愚かな大人たちが素晴らしい人々として肯定的 に描かれているのである。

最初のセックスが安っぽいその場の衝動の結果にすぎない以上、そんな愚挙を犯した子どもが、「後から」その結果を肯定するためにどんなご立派な演説をぶっ たところでお話になどなるはずがない。その場のノリのセックスの「後で」どんなにその愛情が純粋に高められたところで、それは致命的に「てにをは」が間 違っている。

こんな物語を語るのは確かに作劇的には一種の困難な課題だろうが、それを胡散臭いテクニックやレトリックで解決してヒットを飛ばすのがそんなに面白かった のかと一昼夜膝詰めで問い糺してみたいものである。従来の主張の繰り返しになるが、それが作劇的に困難なのは、当たり前の人の心があるならそんなことをす るべきではないからなのである。

これまでオレは近年の日テレのドラマには好意的な感触を覚えてきたが、思わしくない水一〇枠を盛り返したいというだけの銭金の動機で人の良心をあっさり視聴率に替えてしまえるつくり手の姿勢には、一人の大人として我慢がならない。

元々この局には視聴率至上主義的な芳しからざる毀誉褒貶が附き纏っていたことは事実だが、土九枠のこれまでのドラマ番組にはギリギリの部分で健全な大人としての良識が視て取れて、そのような先入観を改めようとした矢先にこの暴挙である。

数字のためならここまで無責任に視聴者を煽れるというのは、何ういう大義に立脚したマスメディアなのかと疑問に思う。流石は視聴率のためなら人が死んでも 屁とも思わない局だなぁと感心する次第で、人が死んでも気に懸けないくらいだから、増して自局の番組の影響で望まれざる命が生まれても何とも思うはずがな い。出生率向上に一役買って差し上げたくらいにしか考えないのだろう。

ある意味で、技術的に怠慢なTBSドラマよりも今季の日テレドラマの在り方は本質的な部分で不特定多数の視聴者に対する誠意や良心が欠けているとオレは思 う。こんなドラマをヒットさせようと目論むのは、要するに男性視聴者なら必ず観るだろうから画面に女性器を大写しにするというのと同レベルの下劣な犯罪行 為で、そうすれば数字が穫れるからと言ってやっていいことと悪いことがあるだろう。

今現在の未熟な恋心の陶酔の儘に、好きな相手と一生を幸せに暮らしたいと望み、恋しい人の子どもだったら産んでもいいと「純粋に」夢みる「子どもたち」にその甘い夢を肯定して語るのは、大人が目先の小銭ほしさに行う穢ない搾取の欺瞞である。

大人たちは、そんな一時の激情の陶酔が、しかも子ども時代の未熟な恋の甘やかさなどが一生続くものではないと識っているのだし、未熟な恋の炎がほんの一瞬 で吹き消された後も、生まれた子どもは一生母親の人生を縛り続けることを識っている。その子が母親の生の支えとなることもあれば、重い足枷として一人の女 の生を圧し潰すことがあることも識っている。

そんな人生の重さを語らず、きれい事の嘘っぱちで美しい感動を語ることに、どんな大義があるというのか。手垢にまみれた常識を語る人々が、何故に劇中で否 定的に描かれねばならないというのか。それは新味のない聞き飽きたお説教だから間違っているとでも言いたいのか。未熟な子どもたちには何うしても実感出来 ない人生の機微を懸命に伝えようと努め、古臭いお説教を語ることしか出来ない世の平凡な親たる者はみんなみんなわからずやの悪者なのか。

心がないにも限度というものがある。

TVというメディアでやっていいことと悪いことがあるというのは、藤本義一に諭されるまでもなく、TVに携わる者なら誰でもわかっていて然るべきだろう。

因みに、以前のエントリーではこのドラマを実話をベースにした作品として扱っていたが、番組プロデューサーの言によるとそれは誤りであったようだ。確度の 低い情報を紹介してしまったことについては読者諸氏には申し訳なかったと思うが、当該エントリーの論旨としては、それが実話であったとしても留保にはなら ないという趣旨のものであるから、論旨自体には一切影響がないと判断する次第である。

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