A-Weema-weh
最近はすっかり特撮の話題ともご無沙汰だが、何故か今年はどの番組も積極的に語りたいというモチベーションを感じなかった。常設枠の諸番組をはじめ、作品的にそれほど壊滅的に悪い出来とは言えないだろうから、個人的な関心の在り方の問題だとは思うのだが、どの番組も剰り入れ込んで視聴しているとは言えない状態である。
連続ドラマばかり語ってきたことで、一年五〇話の長丁場で関心が持続しなくなってきているのかもしれない。そういう意味では、オレみたいなオッサンよりもよほど飽きっぽい子どもたち相手に一年間関心を持続させるのは大変なことなのだと更めて感じないでもない。もっとも、オッサンはオッサンで、パワーアップや新規アイテムやロボ投入のイベントで素直に面白がるわけではないから、単純な比較は出来ないだろうけどな。
そんな辛抱のないオレにも丁度好い塩梅なのが、テレ東深夜枠に「何かの間違いで」放映された「ライオン丸G」である。目出度く全話放映終了したばかりのタイミングではあるし、今回はこの番組を少し語ってお茶を濁すことにしよう。
とはいえ、設定上のベースとなっているのはピープロ製作の「快傑ライオン丸」ではあるが、位置附け的には完全に「テレ東深夜の特撮ホラーアクション」の系統の作品だから、普通の意味で特撮ヒーロー番組として扱うのはちょっと違うだろう。
この種のテイストの作品は、今は亡き円谷映像の独壇場であったわけだが、その円谷映像も識らない間に別資本に営業譲渡して円谷エンターテインメントという新会社が発足し、何うやら制作会社としての実体を喪ったらしい。さほど詳細が報じられているわけではないから迂闊な言い方も出来ないが、九〇年代後半にテレ東の深夜枠にコンテンツを提供し続けた円谷映像制作の新作がもう二度と観られないことは確実のようである。
まあ、ぶっちゃけて言えば、円谷映像の作品全般がそれほど高クオリティで素晴らしい出来だったというわけではない。ごくたま〜に傑作番組や優れたエピソードに恵まれることもあったが、大半においてヌルい出来の作品が多かった。それでもこの種のジャンル作品を一手に引き受けていただけに、善くも悪しくも円谷映像調の独特の映像スタイルや方向性が確立されており、深夜ホラーアクションというジャンルの隆盛に大きな貢献を果たしたと言えるだろう。
二〇〇三年の円谷映像消滅後も、たとえば円谷プロ制作の「ウルトラQ」や、井村空美が活躍した「陰陽少女」、東宝制作の「ヴァンパイア・ホスト」、フォーサイドの木っ端アイドル紹介番組「いちばん暗いのは夜明け前」等々、深夜テイスト溢れるジャンル作品は続いていたわけだが、ヒーロー(もしくはヒロイン)アクションという方向性の系譜は、雨宮組の「GARO」が登場するまでめぼしい成果がなかった。
GAROのヒーローアクションの成功は今更事新しく強調するまでもないが、円谷映像の諸作品に共通しているのは、エピソードの妙味やドラマ性、世界観等ではなく主人公のキャラクター性で番組全体の性格を規定していた点だろうと思う。つまり、特撮ヒーロー物のような骨格に、深夜のヤングアダルト向けならではの風味をまぶした辺りに特徴があったのだろうと思う。
但し、アニメジャンルでも悪名の高い「テレ東コード」の故に、猟奇事件とホラー作品との影響関係が喧しく報じられた九〇年代全般を通じて、残酷描写が神経質に制限されたという経緯もあり、その時々によって残酷描写の振れ幅はかなり違う。たとえば「美少女新世紀ゲイザー」では、ソードで刺し殺された人間から暗赤色の結晶が迸り出てくるという苦しい設定で流血描写の制限を乗り切っている。つまり血液が何らかの理由で結晶化するという「設定」を劇中事実のレベルで採用しているのである。
深夜ホラーアクションの全盛期であると同時に描写制限の最盛期でもあった九〇年代後半のそんな状況と比べると、ライオン丸Gの手加減一切抜きの生々しい流血描写には驚かされてしまうのだが、まあどうせ音に聞こえたテレ東コードも確たる信念あっての決め事というのではなく、その時々の時流に合わせた事勿れ主義の産物なのだろうから、さほど驚くには当たらないのかもしれない。
最終話に至っては、登場人物の大半がいきなり血塗れの滅多切りで惨殺され、主人公の一人である錠之介の爆散した片腕が飛ぶというTVドラマの限界を超えた惨状が描かれたが、これも「最終話になって俄然エスカレート」という辺りに何やらゲリラ的なイヤガラセの匂いがする。演出の大根仁が、自身のブログ上で「しかしこれはまた怒られるだろうなあ」と他人事のようにボヤいているからおそらく確信犯のテロ行為で、この実績を今後の受注に繋げようなどという色気が一切視られない(笑)。
幾ら九〇年代後半とは時代性が違うと言っても、切断された人体パーツが血にまみれて転がるなどという残酷描写が正規の手続で諒承されたとも思えないので、多分何らかのインチキがあったのではと想像されるが、まあこれでオフィスクレッシェンドも円谷映像の後釜には就けないだろうと思う。何しろ取締役でもある演出部のトップが確信犯のテロをやった挙げ句「ま、いっか」で済ませているのだから(笑)。
由無し事の枕はこのくらいにして本題に移るが、事前にこの番組のアナウンスがあった時点では、面白い番組になるとはまず思えなかったし、多分殆どの視聴者がまったく期待していなかったのではないかと思う。近未来の歌舞伎町を舞台にして売れないホストの獅子丸がライバルの虎錠之介とタッグを組んでご町内の平和を護るというのが、何処から何う視ても、安い「花のあすか組!」である。
大体、「潮獅子丸」のネーミングや「サオリ」が源氏名だというのは洒落の範疇だとしても、「PNがコスK」って何ういうつもりなんだよ(笑)。コスKの本名が香織だというのは識っているから、「小杉香織」とか「小菅香織」の略だったとしたら謝るけどな。
まあ放映が開始されてその印象が変わったかと言うと全然そんなことはないのだが、尺の大半が無駄で出来ていながら活劇として成立している辺りに若干好感を覚えたことは確かである。
冷静になって考えてみると、エピソード単位でもシリーズ単位でも縦糸のストーリーラインなどほんの耳掻き一杯分くらいしかないのだが、スピーディーなカット割で描かれるグダグダしたノリとオフビートなギャグで三〇分を保たせてしまうし、どんなにくだらないエピソードでも「毎回必ず一度はアクションを入れる」という目配りが徹底されていて、決して視聴者を退屈させることはない。そして、その娯楽要素は徹底的に作劇的な意味合いにおける「無駄」の過剰に負っているのである。
たとえば、ハリセンボンの二人とバナナマンの気持ち悪くないほうの人が演じる掛け合いは、何う考えても毎回無駄に長い。たとえば、遠藤憲司演じるジュニアは重要な役柄のように見えるが、実際にはその出演場面の大半はコスプレのギャグであって物語上必要なセリフは二言三言だけである。もっと言えば、毎回必ず一回入るアクションシーンも話の繋がりから言えば要らない場合が多かったりする。
初回早々から冒頭で世界設定をベラベラと語り倒す獅子丸のナレーションだって無駄と言えば無駄だし、その無駄な決め事の繋がりで毎回冒頭で獅子丸が語る前回までの粗筋だって無駄でしかない。
中でもいちばん呆れたのは、過日の「パイオツ祭り」宴会の余興で泥酔した獅子丸が変身したライオン丸が何故か小さかったというネタで、単にアレはチラッとカメオ出演したなべやかんがあのコスチュームを着てみたかったというだけでデッチ上げられた描写ではないかと思う。
各話のシノプシスを要約すればほとんど中身はないのだし、中身のないスカスカのお話の中にギッチリと騒々しい過剰な無駄が詰め込まれているのである。
だが、その無駄は無用と同義ではない。この番組は特段波瀾万丈の物語性や深まる謎の解明のカタルシスを見せる番組ではなく、緩い物語性を牽引力として猥雑なギャグ満載のディテールを見せる番組であり、ヒーロー物語はこの狂騒的なドタバタ騒ぎの口実的な枠組みでしかない。
物語を保たせるためにディテールがあるのではなく、ディテールを盛り込む容れ物として物語があるのである。このドラマは、ストーリーラインや世界観、キャラクター設定の独自性ではなく、具体的に描かれたノリの異様さだけで独自性を主張している稀有なヒーロー物語なのである。
ただまあ、それが凄いのか、偉いのかと言えば、そんなに凄くも偉くもない(笑)。
なんでそんな妙竹林なヒーロー活劇が生まれたのかと言えば、この番組の製作がドラマ版アキハバラ@DEEPなどを手掛けたオフィスクレッシェンドだからであり、演出を担当したのが同事務所の演出家では堤幸彦に次ぐ二番手の大根仁だからである。
主人公が変身して戦うという以外、ライオン丸Gとアキハバラ@DEEPに目立った作り方の違いはない。片や秋葉原、片や歌舞伎町、共に近未来の「街」を舞台にした物語であり、ストーリーらしいストーリーで引っ張るのではなく、キャラクターの動きや小ネタのディテール、映像の生理で物語を組み立てていく手法が共通しており、一部キャストのお遊び的カメオ出演もあって、世界観の連続性もある。
筋立てやセリフの意味性ではなく、映像として描かれた具体の積み重ねで物語性が生起する造りはこの演出家の独壇場で、この二本の作品は脚本家の顔ぶれがまったく違うのに、映像作品としての見え方が見事なまでに共通している。この脚本家が違ってもアウトプットの肌触りが均しいという辺りに、「何を」描くかではなく「どのように」描くかに特化した作り方であることが見てとれるだろう。
某所で少し話をさせてもらったことでもあり、最近は何うしてもこのように映像で物語を構築するプロセスに対してオレの関心が先鋭化している嫌いはあるが、まあ嘗てセラムンで脚本と演出の凄じい勝負を目撃した身として、ただ筋立てを語っている脚本にも感動しないし、ただ脚本を絵にしている演出にも感動しなくなってしまった。
このライオン丸Gという作品は、まあお世辞にもウェルメイドなドラマではないし、特撮ヒーロー番組としても破綻していると思うが、整合的な映像の肉体性を獲得していたことだけは確かだろうし、それが毎回の娯楽とクライマックスの情感の高まりを保証していたことも確かだろう。
そもそも変身して戦う能力を努めて無効化するような作劇の何処が特撮ヒーロー番組なんだという話で、豪山との最終決戦も、妖力と無双の体術を駆使して暴れ回る難敵を相手に、結局は人間・潮獅子丸、人間・虎錠之介が決着を附けてしまった。
折角錠之介の手引きで戦闘力がパワーアップしながら、ラスボスに一方的にぶちのめされ地を這いずって切歯扼腕し、盟友の生身の自爆攻撃で救われる特撮ヒーローが何処にいるというのか。だが、ここで華々しく豪山を圧倒して盟友を救うという筋書きは獅子丸というキャラクターに似合わない。
そもそもの最初から非力な弱虫であり、どれだけ鍛えても絶対の勝機を持つわけでもない獅子丸が、恩人や仲間たちの死に憤り、最早変身する余力もない状態で「てめぇだけは絶対許さねぇ」とただの短刀と化したキンサチを抜き放つから、それが獅子丸らしいヒロイズムと映るのである。
所詮そんな強がりは屁の突っ張りにもならないわけで、ここに至るまでに友情を結んだ錠之介が自身諸共に豪山を葬り去ることで漸く決着が附き、結局のところ獅子丸は仲間の死を見続けることしか出来ない無力な傍観者の儘で物語が終わる。変身能力も選ばれし者の宿命も実は物語的には何うでもよくて、無類に気の優しい男が仲間の死に慟哭することでこのドラマの情動が完結しているのである。
単に「選ばれし者の宿命だ」と言えば説明無用で対決構造を設定出来るから便利に採用されているだけの話なのだし、獅子丸が狙われる理由、豪山が狙う理由が表面的にはっきり描かれているかのような錯覚を与えるためだけのマクガフィンにすぎない。説明しようとすれば幾らでも理屈は附くのにそれを一切省いているのは、選ばれし者の宿命には何ら意味などないからだろう。
豪山がやっていることは麻薬の密売と大差ない悪事だし、豪山本人が妖力や無双の戦闘力を具えているのは、単にラスボスとヒーローが殴り合わないと特撮ヒーロー物にならないからそうなっているだけの話である。しかし、実際にはその対決の呼吸はVシネなどでお馴染みの流れであって、絶対の強敵を相手に報復を仕掛けるものの善戦空しく劣勢に追いやられ、サブヒーローが刺し違える形でしか対決を終わらせることが出来ないというものである。
この決着に、たとえば夫々の特技を活かして敵陣深く乗り込みながら、ラスボスの強力な武装の前に為す術もなく敗れ去り、最終的には奪還の対象であった大切な人の自己犠牲によってすべての片が附けられたアキハバラ@DEEPの終幕との近縁性を視ることも可能だろう。
ここで描かれているのはヒロイズムの勝利のカタルシスではなく、優しいダメ男の抱く哀しい想い出なのであり、勝つことを宿命附けられた戦いの物語ではなく、勝てるはずのない戦いから生き残った者の物語である。
所詮豪山と深い因縁を持つのは、附け狙われる立場の獅子丸ではなく父母の仇を追い求める錠之介なのであり、その錠之介は豪山を滅ぼすと共に仇に踊らされて手を汚した自身の過去をも清算すべき宿命にある。その意味で、爆発四散した錠之介の亡骸に見立てられているのが、ギンサチを握り締めた血塗れの片腕であるのは、無意味なイヤガラセやバッドテイストの衒いというわけではないだろう。死して尚その血塗れの手に刃を握り続ける壮絶な錠之介の生き様がそこに象徴されているのである。
要するに、この番組においてシリアスなドラマを抱えているのは錠之介だけであり、獅子丸は錠之介のドラマを優しい眼差しで見届け慟哭し哀惜する役回りでしかない。豪山と錠之介の因縁という骨組みの話を除けば、各話のエピソードを意味的に過剰に重く視るべきではないだろう。単に獅子丸が見ず知らずの錠之介のドラマの見届け人となるためには自然な時間が必要で、そのための時間を狂騒的な莫迦騒ぎで描いているというだけの話なのである。
こんな話を正面からシリアスに語るなら、八〇分のVシネで終わってしまうだろう。
すべてが終わってから逆算して考えるなら、全体的なストーリーの上で必要なのは、設定提示を除けば豪山との対決で錠之介が命を落とすという結末だけなのである。その他のお話は、極端に言えばそれまでの繋ぎにすぎないのだし、獅子丸と錠之介が仲良くなるプロセスを観客に納得させるための「間」にすぎないという言い方も出来るだろう。
たとえば、横浜のユリのエピソードとの繋がりで考えれば、錠之介が童貞だとかサオリと何うのこうのというのは丸ごと要らない話だし、サオリと結ばれる落とし所からすればユリのエピソードは座りが悪い。ユリのエピソードがあったからこそサオリの話が活きるんだと思ってらっしゃる方は、ちょっと人が好すぎるのではないかと心配である。
たしかにユリの件があったことでサオリのアタックがエスカレートするという流れはあるわけだが、ユリのエピソード単体で視ると、あれはやはり胸に痍を抱える大人の男が過去の女と訣別を果たす類型の挿話であるべきだろう。しかし、錠之介が童貞だとか女に対して過剰に初心だという話になると、要するに錠之介が男女関係に関して剰りに稚なすぎたからユリの想いが届かなかったんだという笑い話になる。
本当なら共に豪山の下で修羅場をかいくぐり同じように手を汚したユリという存在のほうが錠之介の中で重いはずで、サオリという一方的にラブラブ光線をぶつけてくるだけで借金くらいしか過去を負っていない軽い女とはシリアスな間合いに成りようがない。
ところが、錠之介が堅物の童貞であるという後附けの設定の故に、無理矢理チューされたという世にも莫迦らしいきっかけでサオリの存在が唯一無二のものとなる。これはまあ、普通に考えればギャグだろう。
そのきっかけの莫迦らしさは、「うる星やつら」で異星の美女が次々に選りにも選って諸星あたるのようなダメ男に執心するきっかけの莫迦らしさとまったくどっこいなのであり、「接吻した以上責任をとらなければならない」というのなら、早い話がサオリでなくても誰でも好いという話である。
だったら、大人の女として自分の想いを抑えていたユリが莫迦だった、とっとと強引に錠之介を押し倒しておけば話が早かったねという話にしかなりようがないので、余韻もへったくれもあったものではない(笑)。
だから、あれはあれでオシマイの話なのだし、これはこれでオシマイの話と視たほうが無難であって、実は各話で情感が消費さるべき繋がってない挿話群なのである。まあ、そんなことはオレが殊更講釈するようなことではなく、この番組を楽しめるようなさばけた視聴者なら、大筋のストーリーラインや人物の来し方に整合性を求めるような野暮なことはしないだろう。
各話のドタバタ騒ぎと立ち回りの中で、獅子丸や錠之介という人物、引いてはネオ歌舞伎町の人々が好きになれればそれでいいのであり、その時々の細部の積み重ねで生起するかりそめの情感に素直に身を委ねればそれでいい。最終回冒頭で剰りにも呆気なく惨殺されるネオ歌舞伎町の人々の姿はショッキングだが、それとても実は祭りの後の手仕舞いの寂寥に近い。
この愛すべき人々は、番組が終わるから殺されたのだし、番組を終わらせるために過剰に残酷に殺されたのである。そのような作劇観のデジタルさに対する好悪の別はあるだろうが、この番組の作劇にはそんなニヒルなまでの割り切りがある。
その上でさらに視点を変えて考えるなら、錠之介のようなシリアスで重い過去の物語性を抱える存在を慰謝出来るのは、サオリのように何もシリアスな物語性を抱えておらずアタマが軽くてパイオツだけが重い身体一つしか財産のないような下品なビッチの深情けだというのも、一面の真理ではあるだろう。
その間の心理ドラマを論理立ててエピソードや描写を積み重ねるのも作劇だが、この番組のように敢えて無内容な脚本に徹して演出一本でそれを成立させるのも作劇である。心理劇のロジックでは確実に破綻しているようなこの物語が何故に成立するのかと言えば、それはその語りに一貫した映像的肉体性が成立しているからである。
各話をロジカルに検証していけば成立していない心理ドラマが「本当らしく整合的に見える」のは、そのドラマを語る映像に整合的な説得力と一貫した独特のリアリティがあるからである。このドラマにおける心理劇は予めナンセンスであることが明言されているのであり、統一されたナンセンスのレベルにおいて、その背後に推定される整合的な世界観、人物観、引いては人生観に則ってモノゴトが推移するから、独特且つ特殊なリアリティが成立するのである。
最初にキャスティングを耳にしたときは、濁声でラッキョウ顔の波岡一喜が主役の特撮ヒーロー物など気が進まんなぁと渋っていたのだが、蓋を開けてみれば寧ろ獅子丸は自身の宿命を頑なに拒むアンチヒーローとして位置附けられており、最後まで「選ばれし者の宿命」に目覚めなかった。獅子丸が戦ったのは、果心居士やネオ歌舞伎町の人々への個人的な想いの故であって、邪悪と戦う宿命や公憤の故ではない。
宿命に覚醒し真の戦士として剣を揮うことが獅子丸の成長なのではなく、ある種獅子丸は最初から最後まで一切変わらないことで物語的に意味を持つ存在だったと思う。愛すべきダメ男の獅子丸が宿命の発動を俟って凛々しく成長する物語ではなく、血腥い闘争の宿命から逃走し続ける心優しいダメ男の儘でい続けること、そのような宿命に殉じた友を優しく見守り胸に刻み込むことが、潮獅子丸の特異な主人公性だったのだろう。
それは、「選ばれし者」云々以前に人間・虎錠之介としての過酷な宿命に殉じた男との対比上のキャラ立てだろうし、自己中心的で幼児的な性格ながら、徹底的に戦いを厭い無心に人を慕う優しい男として、ダメさ加減も含めてそれなりに魅力的なキャラクターであり得たと思う。
サオリの胎内に忘れ形見を残したからというより、潮獅子丸という人物が虎錠之介という人物を好きになり、その苛烈な生き様を目撃して慟哭し生涯記憶するからこそ、本来主人公であるべきシリアスな物語性を抱える男の亡魂が慰謝されるのだとオレは思う。
最後にこの番組に対するオレ個人の好悪の感情を陳べるなら、嫌いじゃないがそれほどのめり込んで好きというわけでもないというところで、まあ中の上という辺りの感触だろうか。それはつまり、これはこれで変化球のトクサツもしくはストレートドラマとしてはアリだとは思うが、ヒーロー物語を口実としてしか捉えていない以上、口実ではないヒーロー物語の本質的在り方を提示しているわけではないからである。
さらに言えば、この番組のメインスタッフにトクサツに対する愛などないだろうし、そんなものを期待することのほうが間違っている。たまたま「快傑ライオン丸」というコンテンツ資産の活用が目論まれた場面において、たまたまそれを請け負った人材がそれを口実に自身の既存のドラマ性を展開したただけである。
だから、この番組はやはり特撮ヒーロー番組として括るべき性格のものでもないだろうし、ジャンルの様式や美意識とは無縁な境地において、普通に男と男のドラマ性やサービス満点の娯楽活劇が描かれたものにすぎないだろう。
おそらくオフィスクレッシェンドや大根仁という特定の人材が今後深夜特撮のジャンルで活躍するということもないだろうが、そうなったらそうなったでオーセンティックな意味における「トクサツ」は変容を余儀なくされるのではないかと予想する。
それは、こういうトクサツもあり得るのだという既成事実が、オーセンティックな様式や美意識の枠組みを超えた別のジャンル性を生起させる可能性があるからであり、それによって結果的に新たな形の「口実ではないヒーロー物語の本質的在り方」が生起する可能性があるからである。
それはそれで観てみたいような気もするが、一時期の特撮シーンのように変化球の際物ばかりが横行する可能性と裏腹のものでもあり、過剰な期待は禁物だろう。そういう意味でオレのこの番組に対するスタンスはちょっと複雑なところがあるのだが、まあ、こんなところでこの番組に対するオレの意見を終えるとしよう。
……ところで、番組ファンのご婦人方のブログでは話題にしづらいだろうから敢えて触れちゃうわけだが、小林恵美はTVで最も「金玉」という言葉を連呼した現役アイドルとしてギネスに申請したほうがいいのではないかと真面目に思ったりする。
これがアニメなら「それでもギンタマ附いてんのかい?」と滑舌良く言い換えちゃったりするわけだが、幾ら深夜ドラマでも「はあ? 金玉がどうしたって?」ってのは何うなんでしょう。無理矢理言わされてないか君は?
まあ、この小林恵美という人は、従来「誰であるかは思い出せないが誰かのNGであることは間違いない人材」としか認識されてなかっただろうから、晴れて今後は「爆乳淫語アイドル」として、各局深夜でギリギリトークに果敢にチャレンジしていただきたいものである。
というようなところで、今度こそ年に一度の折角のクリスマスの晩をライオン丸Gなんかを語って潰しちゃった男の独り言は終わりである。
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