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2006年12月22日 (金曜日)

Bend and Stretch

そういうわけで、心置きなく「嫌われ松子の一生」ドラマ版を腐した後は、せっかくなので劇場版のほうも更めて論じてみたい。オーディオコメンタリーやメイ キング映像による周辺情報も揃っており、何度も繰り返し観られるDVDによるレビューということで、みっしりねちねちと細かく順を追って全体を視ていきた いと思う。

予想通りかなり長い論考となったので、よっぽど劇場版に魅了された方か御用とお急ぎのない方だけ続きをクリックしてほしい。デフォで長い当ブログで敢えて 「長い」と断るのだから、あなたの予想を遥かに超えて長い(笑)。それでも好いという物好きなあなたには是非続きを読んでいただきたい。


■アバンタイトル

さて、常々オレは映画を語る場合には必ずファーストシーンに重点を置いて解析するように心懸けているが、それはファーストシーンに映画のすべてのエッセンスが顕れるという一般則を、大概のシネフィルと映像作家の双方が心得ているからである。

送り手と受け手の双方がそのような認識を共有している以上、受け手は送り手がそのように描いているという前提で映画を視るし、送り手は受け手がそのように期待していることを前提に映画を語るしかないのである。

それではこの映画の場合、ファーストシーンはどのように描かれているのか、そこにこの映画全体のエッセンスがどのように顕れているのか、まずはそこから視てみることにしよう。

最初に白状しておくと、この映画を観た人なら理解していただけると思うが、オレは冒頭数分間のアバンタイトル映像の間、すでに本編が始まっていることにまったく気が附かず、別の映画の予告編か関連CDの販促だと思って早送りしてしまった(笑)。

それは、開巻劈頭の映像がこの題材から予想する絵面と剰りにも懸け離れたポップなビジュアルだったという理由もあったが、さして題材にマッチしているとも思えない木村カエラの楽曲に載せて、かっこいいスーパーがバシバシ入りマルチな場を同時性で見せるスピーディーなカット割りの目紛しい映像が、本編映像というより予告編やPVの絵作りに見えたせいであることも大きい。

というか、実際にいの一番にスクリーンに映るのは紛れもなくPV映像「そのもの」なのだし、それに続く映像も予告編にアリガチなダイジェスト的な呼吸で編集されているのだから、そう勘違いしてもしょうがない。

本編映像であることを諒解してからも、そもそも二時間を超える長尺の映画のファーストカットが、この場面に間接的に登場するだけの木村カエラのPV映像というのは如何なものだろうと疑問に思わなくもなかった。前評判の高さからかなり期待していただけに、ぶっちゃけ「ちょっとゆるくね?」的な一抹の不安を感じたのだが、正直言ってこのファーストシーンのモンタージュは、リアルタイムで観るとアップテンポすぎて何が何だかわからない。

クレジットを視ると、木村カエラは役名は疎か木村カエラという現実の固有名詞さえ与えられておらず、漠然と「超人気シンガーの役」である。映画のファーストシーンは夢の楽しさきらびやかさを歌うこの「超人気シンガー」のPV映像から始まり、そのPV映像を映し出すハチ公口から見える有名な三つの大画面ビジョンにカットして109−2のフォーラムビジョンからのズームアウトでヒップホップダンスに興じる男女がアカラサマに合成される。

まあ109ー2の見え方からして、カメラ位置は渋谷マークシティ前の歩道辺りになるだろうから、こんな場違いなところで脳天気にヒップホップダンスを踊ってる莫迦など現実にはいない(笑)。日テレ土九の「ギャルサー」でもチラリと触れられていたことであるが、九〇年代全般を通じてすっかりガキの街と化した渋谷では、客単価が高く実入りの好い高級志向の商売は永らく成り立たなかった。

そこで、小遣い銭の潤沢な実家住まいのOLや金回りの好い団塊世代相手の高単価の商売を活性化するためにデッチ上げられたのがこの渋谷マークシティなのだから、消しゴムカスを丸めて紙で挟んだような八〇円のハンバーガーでようやっと食い繋いでいる貧乏臭くて小汚いヒップホッパーなどはお呼びではない。

つまり、この絵面は一種「渋谷という俗化したイメージ」を象徴するコラージュ映像ということで、ハレーションとスイッシュを組み合わせて、すぐにそんなヒップホッパーが実際に屯する宇田川町界隈の絵面にスイッチする。冒頭の一連を貫く「夢」というライトモチーフから言えば、宇田川町界隈でヒップホップダンスに励む若者というのは、いつか表舞台に立とうと志すポジティブな意味での「夢を抱く若者たち」だろう。

ところが、そのようなポジティブな夢に生きるエネルギッシュな若者たちを見守っているギャラリーの女子高生は、人もあろうに蒼井そらであって、当たり前のように速攻でAVのスカウトマンが声を掛けてくる。

渋谷宇田川町で口を開けてヒップホップダンスに見とれているような薄ぼんやりした女子高生に、ナンパ紛いの態度で馴れ馴れしく声を掛けるスカウトマンがマトモな芸能事務所の人間であるわけがないし、誰が視ても胡散臭い「タレントになんない?」という言葉を鵜呑みにするのがこの種の「渋谷の女子高生」のお約束である。

蒼井そらがヘラヘラしながらスカウトマンに手を引かれて立つところでハレーションを被せてカットしてハチ公前のスクランブル交差点の雑踏の俯瞰に繋ぎ、「そうじゃないその他大勢は……」というナレーションの一言でこの渋谷のくだりに一区切りが附く。

つまり、この冒頭の渋谷のくだりはすべてベタな記号を羅列したテンポの良い寓話にすぎないのであって、幕張のくだりからが本編の重要な登場人物たちの紹介映像になるわけである。

それだから「夢を叶え、幸福な人生を送るほんの一握りの人間」の象徴であるアノニマスな「超人気シンガー」のPV映像、即ち「夢そのもの」の映像から始まり、それを映し出し人々が仰ぎ見る街頭の大画面ビジョン、そういう選ばれた存在一般に憧れ夢に賭ける若者たち、さらにそれを見守り憧れる平凡なギャラリーたちと、そんな憧れ故に裏街道の世界に転落していく少女という一連の繋がりになっているのである。

一種、瑛太演じる笙の語りのリズムでそこからのタメは設けられてはいるのだが、剰りにも滑らかでスピーディーなテンポの故に、渋谷のくだりと幕張からのくだりがのべったりと並列に見えてしまうのが難と言えば難だろう。遠いところから近いところへ、高いところから低いところへという運動性は自然なのだが、同時性に貫かれた一連のアバン映像の中で、渋谷の場面だけ無名人たちが演じる寓話になっているのが、ちょっと座りが悪いのである。

また、木村カエラという人選が、選ばれた人種のセレブリティの象徴としてちょっと弱いんじゃねーかというのもある。木村カエラというアーティストは、基本的にルーズなジーンズにTシャツというデビュー当時のパフィーを思わせるカジュアルでユルいスタイルを売りにしている人だし、ヒップホッパーたちとジャンル上の接点もそれほどないので、この場の象徴としてはちょっとピントがズレている嫌いはある。

PV慣れした監督の手腕で、精々木村カエラの通常の芸風とは違うポップな映像に仕上がっているのだが、アノニマスな役を演じているのか木村カエラ本人役なのかが映像で明言されていない以上、本人の素のイメージで視てしまうのは仕方ないところだろう。ことに荻窪の笙と明日香の場面では、同じように「画面の中の人物」として片平なぎさや本田博太郎が本人役で再々に亘って登場するので、そこから遡って木村カエラもまた本人役だと意味附けてしまうのも自然である。

もう少し絢爛なビジュアルを売りにしていてカリスマ性のあるアイドル歌手か、この映画のテイストの範疇でヒップホップイメージに繋げるなら、刑務所の場面で女囚役を演じる「カリスマモデル」の土屋アンナや歌い手を務めるAI、それでなければ加藤ミリヤ辺りの一般人気もそこそこあるような人材か、逆にハーツデイルズのように見た目が派手で華がある割にはいい具合に一般の認知度が低い人材だったらもっとわかりやすかっただろうと思う。

また、渋谷からスイッチした幕張のくだりでスケッチされているのが黒沢あすか演じる沢村めぐみの現状であるということは、ちょっとカメラが寄りすぎていて全部見終わった後でも気附かなかった。

中島哲也監督が「キャサリン・タ・ジョーンズのような女優(ママ)」と表現するように、黒沢あすかという女優は、女っぽい顔立ちとはアンバランスな高身長で骨太筋肉質の男性的な体型をしているので、あのような撮り方をするとちょっと女性だとは気が附かないだろう(この映画の撮影時にはヒソカに妊娠していたらしいが、誰も気附かなかったのでかなり無茶をさせたらしい)。

実際オレがこの女優を識っているのは、NHKが制作した真田広之版「半七捕物帖」で原作でも印象に残る個性的な大悪女の大阪屋花鳥を演じたからだが、そのときも入獄中に女牢の牢名主を務め夜毎同房の女囚の肉体を弄ぶ妖怪的な役柄を演じていて、沢村めぐみ役とイメージ上の共通点がある。中島哲也監督がこの番組を観ていたか何うかは識らないが、黒沢あすかという女優の肉体性は、そのように男性的な迫力と濃厚に女性的な色香が同程度に混淆しているのが特異な柄と言えるだろう。

二回目に見返して、黒いパンツの縁飾りが女物らしく見えたので、ようやく沢村めぐみが若さを保つためにサプリを貪り筋トレに励んでいる現状のスケッチだということに気附いたのだが、自宅に高価なトレーニング機材まで揃えて筋トレに励むようなナルシスティックな男性なら、あのくらいエッチなギャランドゥパンツを平気で着用するだろうから、初見ではこのカットの意味がよくわからなかった。

渋谷のくだりがアノニマスな寓話を描いていたのだから、その連続で嘗ての夢をもう一度目指して再起を図りながら、思うように効果が現れない中年男の焦りのようなものを寓意している映像なのかと勘違いしてしまった。何しろ女性だと思っていないから、腹の脂肪を悔しそうに掴む絵面があるとそう解釈してしまうのも無理はない。そもそも黒沢あすかなんて、いい女優だとは思うしキャリアもあるが、普通の観客は名前だけ見ても顔と名前が一致しないだろう。

さすがに現在の龍洋一の痍だらけの顔は異様すぎるのでアノニマスな象徴映像ではないかもしれないと思ったのだが、物凄い特殊メイクを施した初老の男が酒を呑んでいるだけなので、パッと見で伊勢谷友介だとは気附かなかった。それ故に、瑛太と柴咲コウであることが明白にわかる笙と明日香のツーショットを視てようやく本編のお話が始まったと視てしまった。

要するに、このアバン映像は一度観ただけだとどんなことを語っているのかよくわからない。何となくかっこいいイメージがテンポ良く流れていくので、スムーズに物語に引き込まれるというだけである。

しかしこのアバン映像を総括するなら、本編の主人公である川尻松子の死体が荒川河川敷で発見された平成一三年七月一〇日午後三時という同時性を軸にして、それぞれの登場人物が置かれている現状を簡潔な絵で提示し、たとえば渋谷から幕張に場面が移動するイメージ上の橋渡しとして、蒼井そらの女子高生と沢村めぐみの間のAV繋がりという仕掛けがある。

さらに渋谷のくだりと沢村めぐみと語り手の笙を繋ぐ橋渡しとして、恋人の明日香に誹られて自暴自棄になった笙が泥酔して立ち寄ったレンタルビデオ店の棚に、渋谷の女子高生の蒼井そらが主演したAVが並んでいるという仕掛けがあり、その際借りたビデオの一本に沢村めぐみが水沢葵名義でAVに初出演した「未亡人は超淫乱」があるという具合に上手くイメージと叙述要素を絡ませて本編の物語を開始している。

そして、「崖の上の告白」という二時間サスペンスのお約束を使ってイメージ映像で笙を海に飛び込ませ、水中を自在に舞い泳ぐ魚と大空を自由に翔る鳥というイメージの近似に基づいて視点を水中から大空に急浮上させ、現在の笙が沈み込んだ絶望の水底と過去の稚ない松子が見詰める夢の川面を「水」という共通項でイメージ的に橋渡しするという、四次元的な運動性を持つ非常に手の込んだアニメ的なコンテが実現されている。

また、笙の語りの結句が「懐かしい声がオレを呼んだような気がした」であるのは、後半で語られる笙と松子の筑後川を前にした一度だけの出逢いのエコーであることに物語を見終えてから気附く仕掛けになっている。映画ではわかりにくいが、この帰郷は男たちとのすべての大立ち回りが終わった後に大野島に帰ろうとした松子が弟の紀夫に拒まれ、終の棲家となったひかり荘に引き籠もるきっかけとなっている。

ここで劇中で何度も繰り返される「まげてのばして」の旋律がピアノで歌い出し、劇伴が高まって感動的な旋律が高らかに歌われ、大仰なテクニカラーの色調に変わると同時に「Starring MIKI NAKATANI」の修飾的で巨大な字幕が被り、稚ない松子が「まげてのばして」を歌い出し父親の呼ぶ声に振り向いて変顔の止め絵になるのだから、本作のリピーター(就中中谷美紀自身)がこの場面ですでに泣いてしまうというのも無理からぬことである。

このように、そこに何が映っているのかが意識されれば非常に叙述要素と表現手法の兼ね合いが考え抜かれた印象的なファーストシーンとなっているが、まあリアルタイムでそのような象徴的な意味性を理解出来る観客は殆どいないだろう。

このアバンタイトルでわかるのは、この映画はストーリーやテーマ性を追って物語性の範疇で楽しむ一期一会の観客は勿論、この映画の映像世界を愛し繰り返し観るようなリピーターの存在をも想定して、何度観ても楽しめることを意識してつくられているということである。

まあ、冷静に考えるなら笙がレンタルビデオ店に立ち寄ったのは、松子の死体が発見されてから父親が訪ねてくるまでの三日間の間の出来事のはずなので、死体発見と同時刻にスカウトされた女子高生のAVがその時点ですでにレンタルビデオ店に出回っているはずなどないのだから、明らかにこの一連には叙述上の嘘がある。

だが、繰り返し観る裡に、そんな時系列的叙述の些細な嘘に野暮なツッコミを入れるよりも、ベタな寓意とプロローグの段取りを簡潔且つ美しいロジックで構築したコンテの妙にフェティッシュな快感を覚えるようになってくる。この映画を「楽しむ」ということは、そういう姿勢を持つということなのだろうと思う。

世の中には、味わい深い芝居をじっくりと効果的に見せるために敢えて目に立つような小細工を排して努めてさりげなく見えるよう撮る、たとえばイーストウッドのような映画監督もいるが、この映画のように小細工の寄せ集めで出来上がっているような人工的な映画は、出来れば何度も何度も繰り返し視て、画面の隅々に込められた技巧や映像の肉体性、リズム感それ自体をフェティッシュに堪能したいものである。

その場合、喰い入るように物語に引き込まれて注視する必要はないだろう。普通にながら視聴で構わないから、ふと画面に目を遣ったときに気附く小さな映画的驚きを気長に探してみては何うだろうかと思う。

たとえば、劇場で一度だけ観た観客は殆ど気附いていないだろうが、実はこの映画の厳密な意味でのファーストショットは「仰観の木漏れ日のハレーション」であり、それに続くのは「花をバックにした『DREAM』の字幕」であり、さらには「一口大にナイフを入れられたパンケーキ」である。

この三枚の絵がサブリミナル風に立て続けにフラッシュバックされた後、比較的じっくりと「光り輝く『夢』というロゴ」が顕れ、そのハレーションに被せて木村カエラのクローズアップにOLし、そこからが顕意識の領分の叙述要素となる。

実はこの数枚の絵によって嫌われ松子の一生という映画全体のモチーフを剰りにも直截に提示しているのであるが、それは劇中の「超人気シンガー」のPVのモチーフに偽装されており、さらにはこんな目紛しいフラッシュバックは一流ボクサー並の動体視力を持っていない限りDVDを買ってコマ送りでもしないと絶対に気附かない。

ぬけぬけとこんな効いても効かなくても構わない仕掛けを仕込んでおくというのは、映像の遊びという以上に、劇場公開時のリピーターは疎かDVDの購入者に対しても目配りが効いたサービスを交えているということだろう。

また、オーディオコメンタリーによると、このアバンタイトルだけで実に一〇曲以上の劇伴が使われているということなのだが、僅かな時間の映像に惜しげもなくふんだんに劇伴を附けているということ以上に注目されるのは、その楽曲の鳴り方である。

このアバンタイトル映像一つを視ても楽曲の鳴り方は一様ではなく、冒頭の木村カエラの楽曲からして最初はPV「そのもの」として鳴り、次いで大画面ビジョンで流れる映像の生音として鳴り、それはヒップホップダンスの伴奏として劇中で鳴っている楽曲に取って代わられる。

風雲急を告げるような緊迫感のある例のテーマ曲はTV画面中のサスペンス劇場の劇伴として鳴り、明日香に詰られた笙が「SEX!」と叫ぶ群舞の場面の楽曲はミュージカル的なリアリティで鳴っているし、稚ない松子が歌い出す「まげてのばして」の唱歌は実際に劇中の松子が歌っている。

目紛しいカットワークに乗せて息をも吐かせずに鳴り続ける十数曲の劇伴の楽曲は、この僅か数分の映像の中でも様々な階層において鳴っているのであり、この映画全体における音楽の扱い方をまず最初に提示しているのである。

この映画の最大の特異性は、このような多様な階層における音楽の扱い方とそれに伴う映画的叙述の在り方なのだが、それに関しては後ほど別項を設けて詳しく視ていきたいと思っているので、アバンタイトルについての講釈はひとまずここで終えるとしよう。


■物語の物語性

というわけで、二時間超の映画を語るのにタイトルが出るまでにこんなに分量が嵩んでしまったわけだが、この調子で全編詳細に説明するわけではないから安心してくれたまえ。まあ、それと同じくらい長いことは確かだけどな。

さて、メインタイトルが明けると、うだくだ勿体を附けずに直ちに笙と父親の会話が端的な語り口で進行し、あっという間に笙は松子のアパートの前に立っている。この映画における川尻笙の役回りは、見知らぬ伯母の物語を一方的に聴かされる狂言廻しに徹していて、明日香との絡みや龍洋一の動向を含めて今現在の時制の個別的な物語は最小限に抑えられている。

脚本も書いた監督の中島哲也の個人的関心が、過去の川尻松子の物語に特化していたという言い方も出来るだろうが、別の言い方をすれば、死者の物語が今現在の生者の生においてどのような意味を持つかの部分をバッサリ切っているということだろう。ドラマ版について語った「鎮魂」の部分の意義や具体性を殆ど省いているということである。

たとえば笙が伯母の人生に関わっていく裡に人間的成長を果たす部分や、明日香との関係性に対する影響、また、残された龍洋一や沢村めぐみの現在の人生において松子の死がどのような影響をもたらすのかというリアルタイムの物語を最小限に抑えていて、死によって締め括られた人生が一編の「物語」として意味附けられることで生者にとって新たな意味を持ってくるという構造の物語ではなくなっている。

これもまたドラマ版について語ったこととの関連になるのだが、それは容れ物としてのメディアの違いという言い方も出来るだろう。今ほど語った死者の人生の物語性というのは、実は普通一般の物語全般に普遍的に共有されている構造である。物語というものそれ自体が、他者の人生を意味附けてその物語を繙く読み手の生に何某かの新たな意味をもたらすものである。

原作の特異性は、本来有意義な意味附けや一般的な娯楽性の付与が困難な「下世話な世間話」「田舎町の芳しからざる噂話」でしかないような滑稽な転落人生譚を、普遍的な物語化の機序を劇中現実として再現することで、普通なら娯楽とは成り得ないような卑俗な人生を劇的な物語として語り通している部分にある。

そのような手続が必要となるのは、それが娯楽小説だからである。前回語った「印象の強度」の文脈で言えば、たとえば、普通に考えて伊丹十三の諸作品は、優れた映画とは成り得ても決して優れた小説にはならないだろう。視聴覚の表現を伴わない小説文芸においては、基本的に叙述要素の次元において良質な物語性が成立していなければ優れた娯楽小説とは成り得ない。

つまり、娯楽文芸一般には「何を」描くかという論点がありそれを「どのように」描くかという論点があって、その双方の条件が円満に満たされねば優れた娯楽とは成り得ない。しかし、小説文芸とは、本質的には具体的な客観的事実としての劇中事件を想定してそれを語るものであり、娯楽小説においては「何を」描くかという部分がかなり重視されるものである。

それは、小説という文芸形式が文章という現実再現性の低い媒体のみに拠っているからであって、読み手にとっての娯楽性を保証するのは客観的事実としての劇中事件のほうだからである。エンターテイメントの分野では非道い悪文の書き手でもベストセラー作家になれるのは、基本的に文体や語りの肉体性よりもストーリーやプロットや叙述要素の配置スキルのほうが重要だからである。

その一方で、小説文芸全般というのは言葉一つで「本当らしさ」を醸し出す文芸ジャンルでもあり、その文脈で「どのように」書くかという問題が生起する。劇中事件を構成する客観的事実を「ただ書いただけ」では本当らしく見えないからであり、心情や具体的細部の描き込みというのはこの「本当らしさ」を巡る問題性であって、まあ普通一般の言葉で言えばリアリティの問題である。

この本当らしさの匙加減一つで、虚構の劇中事件を新聞報道のように5W1Hの規範でただ「識らされる」ばかりではなく、読み手が「追体験する」ことが可能となる。小説と映像のメディアの違いは、この「識らされる」ことと「追体験する」ことの間の振れ幅の問題と表現することが可能だろう。

文章という抽象的な伝達手段は、客観的に共有された意味性の規則を規範として、他者に何かを報せるためのメディアである。識らされた意味性に基づいて、読み手が抽象的に圧縮されたアーカイブから具体的な五官の現実を解凍するという想像力の手続が必要である。想像力という個別的な変数が絡んでいるために、解凍された具体的な五官の現実は読み手の数だけ存在すると言っても過言ではないだろう。

対するに、映像というメディアは視聴覚という主要な官能の再現性が高いので、官能の次元における「本当らしさ」というのは最初から保証されている。小説の場合には受信側の想像に拠らねば一切再現出来ないことが、最初からそこにある。それを軸にして物語を語る体験性の高いメディアというのが劇映画の本質である。

その意味で、娯楽映画というメディアは娯楽小説に比べて「何を」描くかという部分の重要性が相対的に低いのであり、それを逆に言えば「どのように」描くかの重要性が相対的に高くなる。それは、映像文芸においては「どのように」描くかの部分が娯楽小説の場合とは違って「本当らしさ」の付与に特化しているわけではなく、直接娯楽要素となっているからである。

ある種、娯楽映画の最も映画的な娯楽性とは、劇中事件が「どのように」描かれているかによって生起するものなのである。極論すれば、娯楽映画においてはストーリーというものは最低限「あればそれでいい」部類の要素である。小説文芸に比べて映像文芸のジャンルでは、陳腐窮まりないストーリーでも傑作と成り得るのである。

一応断っておくが、これはかっちりした二分法の話ではない。本来娯楽文芸というのは受け手の中で仮構的現実を再現して追体験させることで娯楽性が発生するもので、それは映像だろうが文章だろうが同じことである。その手段となる媒介物の性格が、抽象から出発するのか具体から出発するのかの違いである。

ここで長い寄り道から松子の物語に戻るなら、小説というジャンルにおいてこの散文的な転落物語を語りの肉体性だけで娯楽に為し得る文章の手腕があれば、ストレートな物語としても語ることが出来ただろう。だが、山田宗樹という個別の書き手の文章力の問題を超えて、娯楽小説というジャンルの制約においてはそのような書き方は難しい。

それは、先ほど少し語ったように、娯楽小説というのは細部の具体を捨象した意味性の次元ですでに娯楽として成立しなければならない筋合いのものだからである。劇中事件を「どのように」描くかという部分については、個々の受け手自身の文章に対するリテラシーが重要な要素となってくるが、客観的事実性の部分に関してはさほど個別的なリテラシーが関係してこない。事実認識に対して健全な理解力が具わっていればそれで事足りるからである。

その意味で、松子の生涯を劇中事件として「ただ書いただけ」では物語として成立しないだろう。それが個々の劇中人物の視点における物語性に基づく多面的な証言としてコラージュされるという仕掛けや、そこから浮かび上がる松子の生涯という入れ子構造の物語性が劇中人物の現在の生に影響を持つという多重的な構造構築を俟って、はじめて一編の現代的な娯楽小説として機能する。

要するに、娯楽小説というのは「どこがどのように面白いのか」を客観的に要約して説明可能でなければ成立しないのである。それをもっと言えば、「どこがどのように面白いのか」を要約して説明出来ないにも関わらず、相応のリテラシーや見識を持つ読み手が読んでみると間違いなく面白いような小説は純文学にカテゴライズされるだろう。

その意味では純文学や文学的な映像作品だって娯楽には違いないのであって、しかつめらしいお勉強や抹香臭い精神修養のためにそれらの文学作品が愛好されているわけではない。単にその娯楽を十全に享受するには、意味以前の直観的リテラシーや文学的見識や成熟した人生経験の智慧が要求されるような分野の作品を「文学的」と表現しているだけで、言ってみればビギナーがプレイしても退屈なばかりで面白くも何ともない窮めて難易度の高い高度なゲームのようなものである。

またしても寄り道が過ぎたが、オレが嫌われ松子の一生という物語を「逆境の直中にありながら人々に何かを与えた女の一代記」的に視ることに抵抗があるのは、この叙述要素では現代の娯楽小説としてストレートに語り得ない物語だからであり、それが娯楽として成立しているのは、下世話な困ったちゃんのつまらない人生を物語として扱う物語を語るというメタ的な物語構造に拠っていると考えるからである。

前回も語ったことだが、「女の一代記」的な物語がストレートに成立するためには、その主人公に衆に優れた資質があるか、その生涯に他に代え難い物語的なドラマ性がある必要があるのだが、この物語が扱っているのは普通よりダメな女を主人公とするドラマティックでも何でもない三面記事的なありふれた人生であり、それを物語としているのは単に不幸と転落があり得ないほどに連続して起こるという極端な誇張だけである。

さらにそれを現在の生者が多面的に語ることで、死者の過去の物語が生者の現在の生に意味を持つという構造面での下支えがあり、そこで漸く一編の「娯楽小説」としてこの物語が万人にとっての物語的娯楽と成り得るのである。

ここで漸く劇場版の話題に戻るのだが(笑)、劇場版において現在の物語が比較的軽視されているのは、実際に映画をご覧になればわかる通り、娯楽小説としては普通成立しない川尻松子のくだらない生涯がそれ単体で映像的娯楽になっているからである。

これは「下妻物語」以来極端に凝った人工的な絵作りを特徴とするようになった中島哲也監督の芸風でいえば、「どのように」語るかの部分で娯楽性が発生する映画というメディアの本質に特化した語り口を採用しているということである。映画における筋立てというのは、最低限「あればそれでいい」ものであり、だからありふれた散文的な生涯でも、描きようによってはそのまま娯楽と成り得るのである。

一旦原作の細部をすべて忘れてこの映画のみから物語要素を抽出すれば、このお話は面白くも何ともないはずである。原作やドラマ版にあるような、個々の事件の緻密な事実性の裏附けやリアルな心理ドラマ、過去と現在が響き合う多重的な構造がごくごく単純化されているのだから、普通に5W1Hの叙述規範で松子の生涯のストーリーラインを単純化して抽出しただけである。

要するに、原作で松子の生涯を娯楽小説とするために凝らされた工夫をすべてバッサリ切り落としているわけであるし、それで娯楽映画として成立している以上、この判断は結果において正しいのである。前回オレはこの原作の執筆動機を、そのような最底辺の人々の褒められたものではないありふれた生の現実に対する鎮魂と視たが、だからこそ原作者の山田宗樹にもこの映画が感動的に感じられたのだろう。

実際に、小説版(便宜的にこう呼ぶ)と劇場版の物語の核になっているのは、川尻松子に擬せられたありふれたダメ女のありふれたダメ人生である。これが本質的にシリアスなドラマ性たり得ないことは、主人公の名前からも見てとれる。それが「愛染かつら」などで有名なメロドラマの泰斗である「川口松太郎」をもじったように見えることからも、一種ありふれた三文メロドラマ的な安い文脈で松子の生涯が位置附けられていることがわかる。

小説版であれ劇場版であれ、語りの動機となっているのは、このような「ありふれた散文的な人生」を面白い物語として語ることで、その死者が生きた意味を語り得るのか、ダメであるか立派であるかという価値的基準を超えた生の意味を語り得るのか、という課題なのである。

小説というメディアにおいては、そのような過去の人生を語り直すことで劇中の人物の現在の生にとっての意味が発生するところまでを描かねばならなかったが、それが映画であればそこまでの叙述プロセスは不要なのである。

但し、それはこの映画のように語りの映像的肉体性を極限まで追及した手法においての話であり、普通に映像で叙述要素を言い切るような叙述的なやり方でストーリーを追うように撮ったらやはりつまらない駄作にしかならなかっただろう。別段中島流の人工的な絵作りが絶対唯一の方法論ではないが、映像それ自体の肉体性で保たせる、娯楽性を成立させるという認識だけは絶対的に必要である。

原作を逐次的に忠実に映像化してもダメなのだし、普通にアッサリ叙述的に撮ってもダメなのだから、実はこの原作の映像化は大変難しいのである。


■音楽映画として

とんとんとテンポ良く発端編が進んで、隣人の大倉やオールドファッションな汐見刑事が登場してサクサクと現在の松子の悲惨な生活が説明される。

そこで刑事が松子の出自を語り始めた時点で、蝶とハレーションを媒介にして最初の回想場面に入るわけだが、「歌が上手」というのは映画のオリジナル設定なのに、最初の回想を女生徒の合唱を指揮する松子のイメージから始めていて、その一連の映像は、喧嘩三昧に明け暮れる中学時代の龍洋一が、船上で合唱を指揮する松子の姿に見とれてパンチを貰うという絵面で締め括られる。

元々の物語に織り込まれていない設定のためか、比較的この「歌が上手」という設定は上手く物語に噛んでいない印象は否めないが、実はこの設定は物語上重要なものというより寧ろ映画の形態上重要なものである。つまり、この映画はすべての情感の動きを多面的な階層における音楽で表現する形態を採用しているために、物語の中心人物である川尻松子は劇中事実の階層においても歌が上手い必要があるのである。

最初の回想場面の船上の松子の映像は、後半で龍洋一がこのときの松子の姿を荒川の水上に幻視してパンチを貰い、刑事たちに取り押さえられるという形で再現され、若かりし頃の松子を紹介する最初の一連の映像において、龍洋一という人物を「喧嘩三昧の毎日」「松子に見とれる」という形で簡潔にわかりやすく印象附けているというわけであるが、これは物語要素というより音楽的なアイディアとしての側面のほうが印象的に効いている。

オーディオコメンタリーの会話で初めて気附いたのだが、このときに松子が指揮していた唱歌と物語後半で龍洋一が耳にする賛美歌は、曲は同じでも歌詞が違う。オレは賛美歌としてしかこの楽曲を意識していなかったこともあって、違う歌詞で歌われたこの楽曲が後半で聴かされる賛美歌と同じ曲であることに気附かなかったのだが、このとき松子が指揮していた唱歌は「星の界」という文部省唱歌で、昭和四六年の時代性において中学校の音楽教育で教師が指導していても不自然ではない。

原曲は洋式の結婚式で誰でも一度は歌ったことがあるはずの賛美歌三一二番「いつくしみ深き」という曲で、ジョセフ・スクライヴェンの歌詞に後からチャールズ・C・コンヴァースが曲を附けたもので、一八八六年作曲というからそれほど古い楽曲ではない。

いつくしみ深き 友なるイェスは
罪科憂いを 取り去り給う
心の嘆きを 包まず述べて
などかは下ろさぬ 負える重荷を

この曲を元にした文部省唱歌は二種類あって、一九一〇年頃に杉谷代水が「星の界」という歌詞を附け、次いで川路柳虹が「星の世界」という歌詞を附けたが、この場面で用いられているのは杉谷版の「星の界」のほうで、松子が龍洋一に土下座するくだりでチラリと譜面も映る。

月なきみ空 きらめく光
ああその星影 希望の姿
人智は果て無し 無窮の遠(おち)に
いざその星影 きわめも行かん

女生徒たちの合唱で歌われるのはこのような歌詞であり、今更言うまでもなく「まげてのばして」の「おほしさまをつかもう」という歌詞と照応している。この「まげてのばして」は幼児のお遊戯に伴う唱歌で屈伸運動を表したものとのことだが、それはつまり屈んで背伸びして高々と手を差し上げる動きである。

教科書的に読み解くなら、これは絶望と有頂天の間を懲りもせずに行ったり来たりを繰り返す松子の人生そのものの象徴である。絶望に膝を屈しても束の間の喜びに背伸びして希望の星を掴もう、爽やかな青空に手を伸ばそう、風に晒されて小さく丸まっても大きく拡げてお日様を浴びようとする松子の生涯の象徴である。

この物語中最古の記憶である七歳の松子が歌い出す「まげてのばして」は、その後の松子の全人生を象徴する楽曲として全編でそのモチーフと歌詞が繰り返されるわけだが、そのエコーとして二三歳の松子が「星の界」を指揮し、それを指揮する松子に見とれた中学時代の龍洋一が、後年、荒んだ人生の果てに神の教えに触れ、同じ曲想を用いた賛美歌「いつくしみ深き」に接して松子を神聖視するに至る。

いわば、松子の人生と龍洋一の人生は音楽によって媒介されており、松子視点では夜空の星に手を伸ばし希望を掴もうとする上昇のモメンタムとして彼女の生き方を象徴している楽曲のエコーが、同じ曲想を用いた賛美歌として歌われることで、「いつくしみ深き友なるイエス」がすべての罪過を取り去ってくださるという下降のモメンタムを顕わす言葉に置き換えられる。

ドラマ版の話でも触れたが、龍洋一の視点で語られる松子の物語は、自身の転落人生の中心軸に松子を位置附ける視点におけるものである。中学時代の憧憬と裏切り、青年期の虐待と逃避、そしてその後の人生における悔恨はすべて川尻松子を中心としたものである。それは龍洋一が視る川尻松子の物語であり、川尻松子が生きる自身の視点の物語とは本来ズレがあるはずである。

しかし、松子の物語をストレートに映像で描いているこの映画においては、別段「羅生門」のように各視点における現実認識のズレが叙述要素のレベルで強調して描かれているわけではない。

その間の機微は、松子の希望への憧れとして歌われた歌が、龍洋一には神の慈愛を賛美する歌として響くという形で簡潔に象徴されている。高みへの憧れを歌う歌が、高みからの恵みを歌う歌として響くという、上昇と下降のモメンタムの対照や希求と恵みの照応が設けられているのである。星の希望に憧れて儚い男の愛に依存しドブの中を這いずり回るような最底辺の人生の果てに河原で死んだ惨めな女が、龍洋一の視点では惜しみなく愛を与え男たちを救済する「神」の姿として立ち現れるのである。

そのようにして、本人視点とはズレのある他者視点の物語として故人の物語が語られることの鎮魂の文脈における意味性は再々繰り返してきたが、この映画においてはくだくだしい心情ドラマによって事実性のレベルでそれが語られるのではなく、一曲の唱歌を媒介として感情のレベルで語られているのである。

これは本来賛美歌として作られた楽曲が本邦においては文部省唱歌として普及したという事実を踏まえた上で、歌詞の内容に微妙な対照があることに着目して物語の象徴として用いるという、非常に手間のかかった映画的アイディアである。

このように、この作品が音楽映画でもあるという中島哲也監督の言葉は、単にふんだんに音楽を用いた映画というばかりではなく、本質的なレベルにおける作品の性格を規定したもので、映画的アイディアと絡めて積極的に音楽を叙述手法に採り入れている。

たとえば、オーディオコメンタリーで語られている通り、この映画では劇伴と映像の同期が意欲的に設定されていて、劇中人物の所作に劇伴が同調していることは勿論、劇伴の連携やずり上がりを編集と組み合わせて、シーンやカットの繋がりに積極的に音楽的なリズムを組み込んでいるが、コメンタリー中の会話で中島監督は「昔はそれが当たり前だった」というふうに語っている。

それが「当たり前」か何うかはさておき、たとえば黒澤明の作品やハリウッド黄金期のウェルメイドの作品には、たしかに映像に同期して劇伴が附けられた例は多いし、そのほうが予め抽象的なモチーフに基づいてスコアを書いた劇伴素材を具体的な絵に填めて行くよりも自然で効果的であることはたしかである。

この手法は、龍洋一の金銭盗難事件と松子のその場凌ぎの愚行を描く別府温泉のくだりからすでに意識的に用いられていて、意図的に時代色を出したルックと相俟って、古典的なスラップスティック映画やサイレント映画のような印象を醸し出している。

つまり、サイレント時代には劇場附きの各楽団が弁士の語りや映像に合わせてライブで劇伴を演奏していたわけで、そのような映画的記憶を持つ時代の映画監督は、音楽が映像に忠実に寄り添うような劇伴の在り方を理想の姿として抱いていたわけで、中島監督が語る「昔」というのは、そのような時代人が生きていた頃の話である。

さらには、弟の紀夫から金を受け取るデパートの屋上の場面で、そもそも最初から架空のアイドル歌手小川マリアの楽曲「恋なんて嘘」と絡めて段取りを仕組んでおり、スコアも芝居場に合わせて書かせていて、それとタイミングを合わせて芝居をさせている。

この場所は松子が七歳のときに父と二人きりで行ったデパートの屋上であり、小川マリアの新曲発表のステージは、そのときに父と共に観た夢のようなレビューで「私の笑顔が嫌いな人なんていない」と歌われた同じステージである。

七歳のときと比べると随分殺風景で薄汚れ人影もまばらに見えるこの場所で、お伽噺の世界のレビューショーは、ミニスカホットパンツのアイドル歌手の新曲発表会という卑俗なイベントに取って代わられ、父との大切な想い出は弟との辛い想い出に取って代わられてしまう。

そして、八女川のために恥を忍んで弟に金を無心するこの場面で歌われている楽曲のタイトルは「恋なんて嘘」という皮肉なものであり、サビの「そんなの嘘」と連呼する歌詞に合わせて、松子がせめて弟に見栄を張って吐いた哀しい嘘を暴き立てる。家族の縁を切られた上に父親の死を識らされ衝撃を受けた松子の心情は、「どうすれば私、愛されるになれるの」という歌の結句を、小川マリアに成り代わって歌うというイメージ映像で顕わされる。

この場面で最も演技上難しかったのは、肉体表現や気持ちのつくり方という心情表現の部分ではなく、「楽曲に合わせて芝居すること」という窮めて形式的な部分に関する問題だったそうで、これは現代的な映画における演技のセオリーからいえば本末転倒に感じられるだろう。普通の劇映画の感覚では、芝居というものがまずありきで、その映像を効果的に修飾するためにこそ劇伴があると考えられるからである。

最前語ったように、たとえば別府のくだりでは、クラシック映画的な誇張されたハイテンションの芝居に劇伴が寄り添っているように見えるわけだが、実際の撮り方の視点で言えば、このような音楽の附け方を想定してそのリズムやテンポで芝居の間を設定しているということである。これは本来刺身のツマと考えられている劇伴に刺身の身の芝居の間が支配されているということだから、やはり奇異な転倒であると言えるだろう。

ただ、別府のくだりでは剰りにもクラシック映画の呼吸として演技と音楽が自然に同期しているので、そのような奇矯な性格は意識されない。大概の観客は、おそらく松子の過去話のパートはこのような形の統一的な話法で語られるものと予想するのではないかと思う。ところがそのような形式はこの場限りで捨て去られ、七〜二三歳までの歴史を語るパートではまた別のリズムで映像が語られているので、少しこの時点で違和感を感じる観客もあるだろう。

しかし、そこから話が戻って別府絡みの件で松子が苦境に立たされるくだりは、別府の場面と同じテンションとリズムで語られるために、この時点で観客が抱く違和感は音楽に関するものというより、「回想中に回想が入れ子になっている」「他人の回想中で唐突に松子自身が回想を語り出す」という構造面に関するものとなる。

構造面の問題に関しては後ほど別に詳説するのでここでは触れないが、ここから松子出奔の一場を経て直結されるデパートの屋上のくだりは、別府のくだりや他のブリッジ的な場面と比べて明らかに異質な段取りとリズムが際立っていて、就中映画のリアリティを統一的な話法に拠って成立するものと視ている観客にとっては、このくだりで映画のリアリティの性質が一変したように感じられるのではないだろうか。冒頭からのコミカルな演出やふんだんな劇伴使いに慣れてきた観客でも、流石にこの辺からちょっとおかしいんじゃないかと訝り始めるだろう(笑)。

まあ、所詮松子が龍洋一に裏切られて学園から放逐される流れは、引きの視点で視れば愚かさがもたらす一場のファースでしかない。とくに、この映画の筋立てのような形に脚色されるのであれば、その馬鹿馬鹿しさが一層際立って感じられるから、いっそコミカルな流れですらある。この映画における脚色は、その莫迦らしさを強調するための妥当な調整と言っても過言ではないだろう。

そのようなおかしな顛末を描く場面でおかしな演出を附けるのは不思議でも何でもないだろうが、松子の本格的な転落人生が始まる蒸発後の最初の男との関係を描くこのくだりで、「日本映画界を背負って立つ」香川照之演じる紀夫と松子のシリアスな芝居場をこのようにコミカルな演出で描くのは、最早コメディですらない。ギャグである。

普通なら、このシリアスな芝居場の呼吸をアイドルソングのリズムで規定すること自体がふざけているわけだが、もっとふざけているのは、この場の情感の完結をステージ上の松子の安っぽいキメポーズの完結性に拠っていることである。歌と振り附けで喚起されたアイドルソングの情感は、歌い手がかっこいいキメのポーズで制止することで完結するが、この場面においては、それが松子と紀夫の悲痛な芝居場における情感の完結の代替として用いられているのである。

アイドルソングの情感は、その楽曲が終わったことを示すキメのポーズで完結するものであり、音楽が終わって歌い手がキメポーズを演じれば、その直後に金管が下世話にむせび泣く女心のド演歌が続いてもいいのだし、下ネタ満載の下品なコントが続いても構わないのである。

しかし、映画におけるシリアスな情動の機序は、普通の芝居場の感覚で言えば芝居の余韻やカット尻の間という演技や編集の部分で設けるべきものであり、その芝居場の修飾要素としてバックグラウンドで鳴っているアイドルソングの「卑俗な」スタイルに求めるべきものではない。

その直後に続く、帰宅した松子を待つ岡野健夫と八女川の鞘当てやリアルなDV、鉄道自殺を描くくだりがとくに音楽劇の呼吸では撮られておらず、就中後者は電車に轢かれた八女川の轢断された左足が血しぶきと共に飛ぶという生々しく凄惨な描き方であるだけに、直前のデパートの場面のふざけ方が余計に際立って感じられる。

ところが、「その瞬間に人生が終わったと感じ」て倒れ伏した松子の姿に被せたずり上がりで脳天気な楽曲のイントロが鳴り出して、剰りにも豪快にアニメやカトゥーン調のロゴタイプを合成した黄金期のミュージカル映画を思わせる岡野健夫との不倫生活を語るくだりが直結され、ここまで来るともう取り返しは附かないと諦めるしかない(笑)。

この「ふざけた」リアリティの揺らぎは映画全体の形態として固定され、印象的な場面で統一的なリアリティを持たず、その際に採用される楽曲の性格に叙述的なリアリティが全面的に依拠すること自体がこの映画全体の形式上の決め事として確立され、バラエティ豊かなレビューショーのように楽しむべき映画であることが判明するのである。

この岡野との暮らしは「Happy Wednesday 」の楽曲に合わせて一繋がりのレビューとして演出され、松子が岡野を尾行し岡野の妻と顔を合わせるところまでが誇張された極端に戯画的なリアリティにおいて描かれる。岡野の逆ギレと松子との別れを描くくだりは普通に芝居場として設けられているが、直前までのミュージカル仕立ての語り口に合わせてどぎついまでの花柄に彩られていた松子のアパートのインテリアが、普通の芝居場の呼吸になった途端、凄まじいまでの違和感を醸し出す。

ここに至って観客は、この映画は映像で語られたストーリーに相応しい劇伴が附けられているのではなく、音楽を語りのツールそのものとして積極的に活用していることに気附かされる。

たとえば松子と紀夫の悲痛な芝居が真に受けるに値するだけ重要なものだとしても、それとアイドルソングが歌う「卑俗な」情動は等価なものとして位置附けられているのである。そしてこの映画においては、通常の劇映画やミュージカル映画の場合のように、映像のストーリーと劇伴の関係に規則性を設けて統一的なリアリティにおける物語を語るのではなく、夫々の場面毎に音楽と映像の関係に個別のアイディアが盛り込まれ、映像を音楽で語るべく工夫が凝らされているのである。

これがたとえばトルコ「白夜」における一連や刑務所生活の一連を、ボニピンやAIの楽曲に載せてPV仕立てで見せる遣り方ならそれほど目新しくはない。実際中島哲也監督はいろいろなアーティストのPVや企業CMを数多く手掛けているのだから、特定のシチュエーションのサマリーを四分強の楽曲に載せて描くことには慣れているだろう。

そういう意味では世に腐るほどいるMTV出の映画監督、たとえば下山天辺りの映画とそれほど変わらないという括り方も出来るだろうが、やはり作家性の根っこに映画があるかPVがあるかというのは大きな違いであるように思う。PVのように映画を撮ることと、映画の表現としてPVの手法を使うことには、歴然と違いがある。

抒情的なメインテーマ曲に載せて纏綿たる情景が描かれるような場面で、ここぞとばかりにPV風の「雄弁な無言劇」の叙述法が発揮されるとこれ見よがしでいやらしいものだが、この物語は松子の相手の男を一区切りとして個々に完結した挿話を語るオムニバス的な構造を持っており、その個々のエピソードを描く場面で音楽が手法上重要な鍵を握っている。

そして、劇中でハッキリPVの手法で撮られているのは、トルコ勤めの場面と受刑生活の場面だけであり、これは正面から具体的な心情芝居として描いてもウンザリする最も不快な性格が強い場面である。場面によってはかなり生々しい暴力や流血が描かれているこの映画が、何故観賞後さしたる不快感を伴わないかと言えば、こういう不快な部分をPVの絵空事として描き飛ばすような描写上の節度があるからである。

ドラマ版について語ったことだが、映像作品の受け手は一般的に高尚なテーマ性や文芸性でお説教をされたくて作品を観るわけではない。生々しく描かれた不快な苦境をこれでもかと見せ附けられ、恐れ入らされたくて劇場に足を運ぶわけではないのである。

さすがにドラマ版でもトルコ勤めの詳細は正面から具体的に描いておらず、その意味では際どい歌詞やセクシャルなダンスの所作で業務内容を暗示した劇場版のほうが数段エロティックなのだが、男女を問わずスタイリッシュに振り附けられたダンスのエロスや洒落のめした粋な下ネタを楽しむ分には何ら不快を感じないものであり、寧ろそれこそが劇場映画の娯楽要素なのである。

そもそも何故にこの物語中のトルコ勤めのくだりが不快に感じられるかと言えば、エロティックだからではなく、女性の主人公が金のために男性の欲望に奉仕する姿が屈辱的で痛ましく感じられるからである。受刑生活のくだりもまた、一般市民としての権利も尊厳も剥奪され、国家から強制されて更生を目指す厳格な集団生活を送る中、その裏側で陰湿な悪意に晒されるという筋書きが何とも気分を滅入らせる。

だからとくにこの二つの場面はPVの手法で処理されているのだろうし、叙述要素の詳細は「歌詞」や「振り附け」として抽象的に処理されているのだろう。原作中では数十頁に及ぶ白夜絡みのシーケンスを高々四分強の楽曲で描き飛ばすというのはかなり大胆な判断だが、「愛はバブル」と歌うボニピンの楽曲は、このトルコ勤めのくだりを陰々滅々とした苦界落ちとしてではなく、松子の生涯の最盛期であるかのようにイケイケの勢いで見せている。

野暮を承知で歌詞の地口を読み解くなら、うたかたの愛とトルコの泡とバブルな景気をトリプルミーニングしているわけで、世に所謂ところのバブル期とは時代的にズレているが、持って生まれた「凄く良いカラダ」と下半身のトレーニングや技巧で頂点を窮め貧乏暮らしとも縁がなかったトルコ嬢時代が、実は川尻松子の生涯の最盛期だったという意味附けが何となく成立する。

まあ普通に考えても、男に何かを求めて裏切られるよりも、金と引き替えに一夜限りの快楽を提供するのが、松子のような人間にとっては最も怪我のない生活である。その松子の生涯のバブル期も第一次オイルショックと共にうたかたのように去ってしまうわけだが、「『トルコ嬢になって』人まで殺した」と紀夫に蔑まれる、要するに田舎の感覚では最も外聞の悪い松子の生涯の汚点の部分を、イケイケの勢いで何となくポジティブに意味附けて描き飛ばしているのである。

そして、この場面の形式上の見立てとしては、このボニピンの歌が、劇中人物である綾乃がトルコ生活の要諦を皮肉な歌詞に乗せて歌い踊る一種の「語り」に見立てられており、オペラからミュージカルにまで続く音楽劇一般に附き物の、人生巧者が処世訓や戒めを語るという一編のアリアになっている。このオーセンティックなアリアに乗せて、松子と綾乃の全盛期から凋落期、歌の結句の通りに次々と人々が店を去る繰り返しが描かれ、最後に松子が白夜を馘になるという息の長い顛末一切が語られるのである。

その意味では、唐突に劇中人物が叙述要素を歌に乗せて歌い出すという点でミュージカル映画の話法に近似しているのだが、この場面がミュージカル映画ではなくPVに見えるのは、歌い踊っているのは綾乃に扮したボニピンだけで、その他はイメージ映像と普通に叙述的な映像だからである。

映画におけるミュージカル的映像とは、最低限連続性のある場で演じられる劇中人物の歌唱とその場にいる人々の振り附けられた動きで構成されているもので、特定の一括りの場面において語りのリアリティが、普通の映画的叙述の次元から歌と踊りの次元にシフトするものだと思う。

つまりミュージカル的映像における歌は劇中人物の心情独白や会話が音楽性の次元にシフトしたものであり、踊りは普通の所作が振り附けという舞踏の次元にシフトしたものであって、それはその完結した場面を描くリアリティが別のモードにシフトしたものなのである。

だからミュージカル的映像においては、独自の一貫したリアリティが働いているのであり、映画全体においては、通常のリアリティの叙述的パートとミュージカル場面のパートの二相があって、その両相の間を規則性に則って往還しているのである。

しかし、この白夜のくだりではミュージカル的な映像と半々でイメージ映像や叙述的なカットが挿入されていて、そうしなければこれだけ雑多で広範な叙述要素を一編の楽曲で語ることは出来ない。その意味でこの場面は「歌詞に要約されたストーリー」を語るPVの性格を帯びるのである。

もっと簡単に言うなら、PVというのは歌詞のストーリーを語るそれ自体完結した容れ物であって、その中の映像に形式的な多様性があっても構わない。しかし、一本の映画の中のミュージカル的パートと位置附けられるのであれば、その映像は統一的話法に貫かれていなければならないのである。

この白夜のくだりと比べると、受刑生活の場面の描き方はもっとミュージカル映像寄りに感じられる。白夜のくだりと同様に時間的に幅のある叙述要素を語っているのだが、受刑生活の日常の所作をほぼすべて振り附けの動きで表現していて、叙述的な映像はインサートカット的に最小限に抑えられており、楽曲の歌詞を振り附けの動きで表現する話法の統一性が比較的高い。

その半面、この場面はやはりPV的な話法に拠っているようにも見えるのだが、それは受刑生活のくだりの歌い手であるAIが、劇中存在としては「誰だおまえ?」的な無名のコロスという位置附けの、言ってみればメタ的な存在だからである。

オーディオコメンタリーで監督が「こんなカッコの囚人なんていないよなぁ」とセルフツッコミを入れているが、一応囚人服を着ているものの、AIの位置附けは飽くまでも「刑務所の場面で歌を歌っている人」であり、もっと言えば「AI本人」であって、囚人の一人のように見せているのはただの口実であって、実際には刑務所に収監されている囚人の一人という位置附けではない。刑務所内の集団生活の場に一切AIの姿が視られず、基本的に「カメラ目線で歌っている」絵面でしか登場しないことでも、それは明らかだろう。

たとえばドラマ仕立てのPVで、要所要所で歌い手がカットバックされるスタイルに近いわけだが、それはこの映画で扱われている歌は基本的に誰が歌っているかを明確に絵で見せることになっているからである。多少例外はあるが、見せ場を構成するような重要な楽曲については、バックグラウンドで歌だけが鳴るのではなく、劇中の誰かが歌うもしくは実際に劇中で鳴る形で見せるという統一性があるからである。

この場面をPVとして視るなら「映画とタイアップした楽曲のPV」、すなわち、本来その楽曲を劇伴として扱っている別のストーリーの映像に歌い手の姿をインポーズして再編集したようなスタイルに近いわけで、ボニピンが明確に劇中人物の一人として歌い踊った白夜のくだりとは歌い手の位置附けが違う。

基本的にこの場面は歌い手のAIが登場しなくても映像として成立しているし、彼女の存在をオミットして考えると、たとえばこの楽曲を主要な劇中人物である川尻松子だけが歌っていたとすれば「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のような現代的なミュージカル映画の一場面として成立するだろう。

それがミュージカルというよりPVのように見えるのは、とくに重要な劇中人物(たとえば白夜の綾乃)というわけでもないし、劇中事実という形(たとえばナイトクラブで松子が歌う「恋人よ」のような形)で歌っているわけでもない歌い手が画面の中に堂々と映っているからである。

つまり、この二つの場面に関して言えば、「重要な楽曲は歌い手を見せる」「一編の楽曲で全シーケンスを語りきる」という縛りがなければ、普通に挿入歌で語る抒情的場面やミュージカル場面の範疇に納まる映像なのであり、この縛りの故にPVとして完結する性格の映像となっているのである。

そのようにこの二つの場面の語り口を設計した中島哲也監督の真意は余人の与り知るところではないのだが、原作中ではこの二つの場面が松子の転落人生の最底辺に当たり、割合全体のストーリーとは関係ない挿話を長いスパンで描いているところから、映画全体のトーンを明るく保ったまま完結的に描き飛ばす便法として効果的に機能しているとは言えるだろう。

先ほど指摘したように、この映画は演じられた芝居を効果的に修飾するために場面に相応しい音楽が鳴るという通常の映画のような劇伴遣いばかりではなく、音楽を叙述ツールとして映像を語るという特異な形態に特化した映画だが、夫々の場面における音楽と映像の関係は場面毎に違うのである。その意味で、叙述的リアリティの規則に則って音楽を扱っている普通の意味でのミュージカル映画でもなく、まさしく「音楽映画」としか言い様がない特異な様式の映画となっている。

こんな物語を何故にこのような様式で撮ろうと思ったのかは定かではないが、恰もこの映画はこう撮るしかなかったように見えてしまう辺り、最初のコンセプトワークがかなり完成度の高いものだったのだろう。

各楽曲に関して他にも語りたい小ネタはあるが、逐次的に語っていたらキリがないので音楽に関してはこのくらいにしておこう。


■構造面をめぐって

一体にオレは本を読むのが好きな割には、手当たり次第に無闇に書籍を買い込むビブリオマニアなタイプではなく、気に入った作家やジャンル、作品をかなり絞り込んで購入するほうで、散々書店でうだくだと迷った挙げ句何も買わずに出ることも多かったのだが、ここ一〇年くらいで更にそれが昂進し、一部のお気に入り作家を除いてほとんど小説の類を読まなくなった。最近の作家の名前も、一部のビッグネームを除いてほとんど識らないというのが実情である。

それ故に、幻冬舎発のさまざまな仕掛けが世間でヒットしていることくらいは識っていたが、実際に手に取って読んだ作品は皆無であった。だが、今回のエントリーを書き上げるには、原作を一切識らずに済ますわけにもいかなそうなので、一応幻冬舎文庫版を購入してパラパラと目を通してみたが、まあこういう機会でもない限り、まず自分から進んで読むタイプの作品ではないと思った。

オレは「嫌われ松子の一生」という物語の表現形としてはこの劇場版以外はさほど興味を感じないので、勿論ここで原作と劇場版の比較対照などという面倒な作業を始めるつもりはない。オレが原作に目を通しておく必要を感じたのは、小説の具体的な叙述の構造と深度を確かめたいと思ったからである。

小説版の語りの構造を掻い摘んで言うなら、川尻笙を視点人物とする「俺」主観の平成一三年現在の語りと川尻松子を視点人物とする「わたし」主観の昭和二二年〜平成一三年までの五三年の幅を持つ語りが、夫々一人称一視点で併行して語られる構成となっている。

さらに笙の視点の語りに龍洋一視点の若干長い語りが内包されるという入れ子構造の部分もないではないが、事前の予想ほどには複雑に輻輳した語りではないし、松子視点の語りの細部がそのまま笙に伝わるわけではなく、基本的にこの二つの視点の語りは別々の物語として進行する。この二つの視点の物語を往還し得るのはこの小説の読者だけであり、劇中人物はそれぞれの視点の限界に束縛されている。

笙が識り得る川尻松子の生涯の物語は、松子に思い入れを抱く人物たちが松子を語る際の「口振り」であったり、公判記録であったり、ちょっと詳しくて精々龍洋一の懺悔話のレベルでしかない。その平成一三年現在の笙の探求行の物語と併行して、探求の対象となっている松子の全生涯の物語が読者の前に開示されている、そのような構成になっているわけである。

さらに言うなら、そもそも平成一三年という時制における川尻笙の物語は、川尻笙という現在生きている人物の生涯の中のある特定の時期、すなわち小説という容れ物の刊行時の現在を起点として比較的短いスパンの間に起こった事件を語るものであるから、その語りそのものの自明性を疑うべき格別の理由はない。

一方で、川尻松子という小説刊行時の現在においてすでに死んでいる人物の自分語りという語りの在り方は窮めて虚構的な在り方の語りであり、物心附いてから死の瞬間に幻視したビジョンまでを「わたし」の一人称一視点で語る語り口は、現代的な小説という容れ物でなければ成立し得ない語りの形式である。

現代的な小説の語りが確立された一九世紀の文学を視ても、ドストィエフスキーのように必ず形式的な語り手としての「わたし」を設定する書き手もいれば、トルストイのように神の視点の三人称で物語を語る書き手もいたわけで、現在小説が獲得している制度を無視して言うなら、本来ドスト的に「誰が何の目的でいつどこでどのような形式でこの物語を語っているのか、書き綴っているのか」という語りの設定、テクストの性格を規定する設定が必要なはずである。

ドストの例で言うなら、物語中で語られる事件に関係した特定の人物がこの事件の詳細を後生に伝えるべく匿名で書き残した手記という設定を採用することが多く、その意味で物語を語るテクストの性格や出自に対して明確な設定がある。要するに、ノンフィクションの手記を偽装しているわけである。

だが、この形式では視点人物の主観の限界に厳しく拘束されることとなり、劇中人物の心理に立ち入った描写は不可能なはずだし、視点人物が識り得る事柄と識り得ない事柄を弁別した叙述の厳密性が要求されてくる。

その点、ドストの諸作ではそのような縛りはかなりあやふやで、視点人物が劇中人物の一人として劇中事実に関与することもあれば、ある場面では本来その人物が識り得ないはずの事柄を劇中人物の心理にまで立ち入って詳述しているという具合に、書かれている内容そのものから考えれば神の視点の三人称のほうが相応しく、無理矢理テクストの出自に根拠附けしたために却って不自然で混乱した語りとなっている。

これは意図的な仕掛けというより、ドスト時代の小説の語りの限界と視るべきだろうと思うのだが、最初の頃はそのような不自然さを解消するために「これは後になってある人から聞いた話だが」というような口実を設けているが、物語が進行してくるとそのような言い訳すらも省かれるようになってくる。要するに、この時代には一人称一視点という語り口は小説的な効果の文脈における手法ではなく、テクストの性格を規定する設定面の問題だったということである。

そういう意味で、今日オレたちが当たり前のように受け止めている一人称一視点の語りというのはかなり不自然なナラティブであり、それは本来、特定の人物が不特定多数の読者を想定して書き残した手記の形でしか現実のテクストとして存在するはずがない。その意味で、最低限テクスト中で叙述されている事件が起こってからそのテクストが書かれるまでにはタイムラグがあるはずであり、そのテクストを現実にオレたちが読んでいる以上、書き始めてから書き終えるまでのスパンの時間が必要なはずである。

だとすれば、一人称一視点において死の瞬間を描いた語りは、本来現実にはあり得ないテクストであり、小説の語りが制度化されてはじめて自明性を持つのである。厳密に言うならば、本来一人称一視点の語りで語り手が最後に死ぬという結末はあり得ないが、そんな結末を持つ物語は枚挙に暇がない。

一九世紀〜廿世紀初頭の小説を読み慣れている方なら、現代的な小説の黎明期においては、大概一人称一視点の小説は特定の場所で発見された特定の人物の手記の形式を偽装しており、最後に語り手が死ぬ結末だとしても「今この手記を綴っている間も、扉の外で何かが激しく動き回る気配がする。遂に私の番が来たようだ……」的な暗示的叙述に留めるか、もしくはその手記を紹介する地の文が「ここで手記は途切れている。この手記が発見された場所から程遠からぬ所で(記述者)の惨殺死体が発見された」と結末を附けるスタイルが定番となっていることを御存知だろうと思う。

すでに死んだ人間が死の瞬間の主観を語り得るはずがないし、それがテクストとして残るはずがない。これは窮めて簡単な事実であるが、現代的な小説の発達の過程で、禁じ手であったはずのこの語りが自明化され、小説の制度として確立された結果、オレたちはそんな不自然な語りに何の疑問も抱かなくなっているだけの話なのである。

小説版において、松子の生涯を一視点で描くパートに一人称を採用した本当の理由はわからないが、本稿の観点で言えば、それは松子自身の主観で描かれる自分語りでなければならなかったからである。事実として何があったかが描かれているというよりも、具体的な事実性に即応して松子自身がどのような心理的現実を生きていたかが描かれているのである。

川尻笙視点のパートで語られるのが、残された人々が夫々の視点において語る松子像や笙自身の視点で徐々に獲得されていく松子像である以上、それとの対照で松子自身の視点の心理的現実が描かれる必要があったのである。

その意味で、小説版の語りの構造に混濁したところはない。笙の「俺」視点のパートと松子の「わたし」視点のパートはすっきり二分されているし、一部視点人物の語り以外のテクストを挿入する手際に疑問を感じないでもないものの、基本的にさほどややこしい構造の物語ではない。

ところが、このすっきりした構造の物語を劇場版で視ると、不自然に語りの主観が錯綜した物語に見えてしまう側面があって、それはおそらくナレーションの設定が小説そのままだからである。

最前長々と講釈したこととの関連でいえば、小説文芸において複数の視点の語りが併行し得るのは、現代的な小説が獲得した制度にすぎない。たとえば「吸血鬼ドラキュラ」の原作をお読みになった方は、基本的に手記を偽装するスタイルで書かれているこの小説が、複数の視点の物語を多角的に描くために複数の手記を編集しコラージュしていることを御存知だろう。現代的な小説の制度が確立される前は、多面的な視点の物語を厳密に根拠附けて語るためにはこのような煩雑な手続が必要だったのである。

繰り返しになるが、それは小説という意味構造の実体が「書かれた文章」であるからであり、それが「書かれた文章」である以上、「いつどこで誰が何のために書いたどのような文章なのか」という根拠附けが潜在的に必要だからである。

つまり、一人称一視点の二つのパートを持つ小説というのは、元々二人の人物の手記を適宜編集したテクストという実体的根拠附けを持っていたのだが(たとえば、二人の人物の日記や往復書簡など)、小説の制度としてそのような複数視点の並列が自明化された結果、手記としての実体的根拠を喪失しているのが現代の小説における複数視点の物語なのである。

しかし、劇映画においてはその映像の実体的根拠が問われることはない。そもそもの最初から、劇映画を「誰かが撮影したフィルム」として視ている観客などはいないのであり、それを逆手にとった「ブレアウィッチ・プロジェクト」のような作品もあるにはあるが、基本的に劇映画は劇中事実をカメラが切り取った画角の範囲で間近に視ているという想定の体験的文芸である。

「誰かが撮影したフィルム」としての実体的根拠が問われるのは、最前例に挙げたブレアウィッチ・プロジェクトとも関係してくることであるが、ドキュメンタリー映画だけである。だからこそドキュメンタリーという設定の「川口浩探検隊」の映像で川口隊長に先駆けてカメラが前に回り込んでいる絵面が考証的に爆笑を誘うのである。

それはつまり、映像を視るという現実認識の自明性が、一種のエクリチュールとしての実体的根拠を必要としないからであり、劇映画の観客は容易にフィルム中の映像を眼前で起こっている現実の出来事と認識して物語に引き込まれるのである。

それを逆に言えば、劇映画においては別段物語を語るのに一人称の語り手は必要ではない。絵で視ればわかることを言葉で語らせているのだから、基本的に劇映画においては無闇に一人称の叙述的ナレーションを入れることは避けるべきである。

三人称多視点の語り口の小説が「映画的」と言われるのはこの故であって、カメラという無人称の視点が劇中世界を自在に往還し、それが切り取った映像を編集によって自在に繋ぎ合わせることで一本の劇映画が成立するのだから、それを小説のスタイルで表現すれば三人称多視点のパノラミックな語り口ということになる。

基本的に一人の人間が書いている小説文芸においては、「手記の偽装」という遠い出自を持つ一人称一視点の物語は割合普通であるが、撮影に多くの技術スタッフを必要とする映像文芸の場合、手記的な性格に対応するのは手持ちカメラの映像くらいだろうが、それだって劇場公開レベルの映像品質を確保するなら、最小限度の撮影スタッフが随行する必要がある。それ以前に、全編手持ちカメラのブレまくった映像を見せられたら、普通の観客は三半規管が混乱して気分が悪くなるだろう。

さらに言えば、視点人物が撮影されてしまったらカメラというそれを視る別の視点が存在するということになるのだから、厳密に言うならカメラそれ自体が視点人物の視界でなければ手記的な性格は発生しない。つまり、劇映画における一人称一視点というのは原理的に整合しない「見立て」でしかないのである。

大昔には実験的な試みとして、一人称一視点文芸の典型的な作品であるチャンドラーのマーロウ物を「ミラーショット以外一切マーロウが映らない厳密な一視点映像」で描いた作品があるらしいが、オレは未見である。まあ、大方の予想通りそんなことをしても映像的にはちっとも面白くないので不評だったらしい。

普通一般には、映像文芸における一人称一視点の語り口は「見立て」でしかないのだから、不用意にナレーションの語り手を増やすのは観客を混乱させる。たとえば「北の国から」や「役者魂!」のように、ナレーションの語り手が一人の人物に特定されるのがまず当たり前である。映像作品においては、本来語りのためのナレーションには必要性が薄いからである。

一人称一視点の小説の場合なら、「その朝俺はどこそこに行った」と言葉で語らないとそもそも劇中事実が伝わらないが、映像の場合は絵で見せればわかるからであり、そのようにして絵で見せるのが本来的な劇映画の叙述だからである。そこに一人称の言葉によるナレーションを被せるというのは本来不必要な余剰であり、その映像が一人称人物の主観であることを示すサインでしかない。

これはたとえば「ブレードランナー」の各バージョンを見比べればわかることだが、基本的に劇映画においてナレーションはあってもなくても事実性を伝えるレベルでは何ら変わりがないし、そう在るべく撮られるべき筋合いのものである。小説のように叙述の本質的な部分にナレーション的な語りが組み込まれているわけではないからである。ブレランのナレーション附きバージョンは、単にこの物語を一人称一視点文芸の典型であるハードボイルド小説のテイストに近附けるという効果しかない。

だから、元々原作が二人の人物の一人称一視点の叙述を往還する形で書かれているからといって、その映像化作品においてもそれを踏襲する絶対的必要性はない。ドラマ版のほうでは、松子視点のパートだけナレーションを附けて、川尻明日香が中心人物となる現代のパートではナレーションを廃しているが、まあ本来これが妥当なラインだろう。

明日香のナレーションを省いた結果、明日香のパートは一視点の物語ではなく多視点の物語となり、汐見刑事の捜査のプロセスや笙と明日香の関係性を客観視点で満遍なく描くようなテイストにシフトしており、小説版のように松子と笙の語りの対称性は成立していない。

劇場版のほうは、原作通り笙と松子の視点を交互に交えて夫々に一人称のナレーションを附けているが、オーセンティックな見方をすればやはりこれが少々煩瑣い側面は否めない。小説ならば現状の構成でも笙と松子の視点の別々の物語であることが明確に理解出来るが、劇映画の場合、過去の物語は何うしても劇中人物の回想のように見えてしまうからである。

それは映画の制度上そう見えてしまうということであり、この劇場版の筋立てでは笙と直接面談した沢村めぐみと龍洋一が直接見聞きしていない部分の物語は誰の回想でもあり得ないはずなのだが、映画の制度的に言えばマギー演じる汐見刑事が松子の人生の前半をひかり荘で笙に語ったように見えてしまう。

彼の言葉をきっかけに最初の松子のパートが始まるのだし、少なくとも修学旅行の一件については場面転換のきっかけとして「修学旅行でちょっとした事件が」と言葉を接いでいる以上、幾らかのあらましを話しているはずだから、制度上そこから繋がる大野島出奔までの松子の物語は、すべて汐見刑事の語りのように見えるということである。まあ、劇場版においては笙が松子の公判記録を読む場面が描かれていないのだから、そう見えても一向に構わないわけである。

逐次的に視ていけば、河川敷で笙と大倉が龍洋一を目撃する場面で初めて笙は紀夫から松子がトルコ勤めをした上に殺人まで犯したことを識らされるわけだから、ひかり荘の場面で汐見が小説版における公判記録に相当するような内容の物語をすべて語ったとすると辻褄が合わないし、細かく言えばそこで松子の転落の最初のきっかけである修学旅行の一件だけ語るのは、松子殺害という近々の事件を捜査する刑事の語りとしてちょっと不自然である。

さらに、そこから続く小野寺殺害までの一連については、紀夫が識っているのは出奔直後に金を無心されたデパートの屋上の出来事だけだし、紀夫の立場としてそれすらも倅に話すはずはないから、その一連は誰が話したわけでもない、現代のパートとは完全に無縁の物語である。沢村めぐみは受刑以前の松子の来し方についてはまったく識らないような口振りだし、龍洋一はすべてを識っているわけだが、彼の語りはこのずっと後なので、この時点のこのパートは完全に宙ぶらりんの語りになっている。

だから、普通に考えると劇場版の笙は、受刑以前の八女川や岡野や白夜時代前後についての詳細は識らないということになるのだが、観客は何となく笙がそれを識っていると思っている。汐見が何か話したか龍洋一が事の序でに語ったと思って済ませているのだが、実際の事実性の次元において、笙にそれが伝わっているのかいないのかは実は曖昧なのだし、それを劇中の時制で「いつ」識ったのかというのは笙の演技にも関わってくる重要な問題のはずである。

劇場版においてはっきり笙が識り得た事柄は、沢村めぐみと龍洋一が語ったことだけがすべてであり、さらに言えばこの二人がどこまでを語ったのかは明確には描かれていない。それなのに観客は、恰も物語の進展に連れて笙が少しずつ松子の人生を識ったかのように思っているし、ラストで笙が松子の最期を幻視する場面は、笙が松子の人生を具に識っていないと情感が成立しない。

だから、ある意味では観客はこの混乱した映画の語りに騙されているのである。

普通の意味で言えば、それまで笙視点のナレーションで進行してきた物語が、いきなり松子視点のナレーションに切り替わるのは、掟破りの作法である。さらに言えば、汐見刑事の言葉がきっかけで松子のパートが始まるのだから、意図的にこのパートを汐見の語りによる回想のような呼吸で描いているのである。

繋ぎの呼吸で言えば汐見刑事の語りによる回想であるはずのパートが、いきなり松子視点のナレーションに転換しているから何となく観客は違和感を感じるのである。この繋ぎ方で視ると、汐見刑事が笙に向かって松子の来し方を語っているようにも、松子視点の別の物語が始まったようにも見える。

それはその他の人物との絡みでも同様で、沢村めぐみや龍洋一の語りがきっかけで始まるパートも、そのような逐次的な内容を笙に向かって語っているようにも、それとは別に松子視点の別の物語が進行しているようにも見える。

結果的にすべての松子視点の語りのパートは、松子が光GENJIの内海光司に向けて書いた長い長いファンレターの文面であったというオチが附くわけだが、その中でさらに松子の幼少時代のパートは、松子が体育教師の佐伯に語った自分語りとなっていて、別の語りから引き継がれた語りの中にさらに語りが入れ子になっており、この語りの錯綜はかなり観客を混乱させる。そうだとすれば、沢村めぐみも龍洋一も、劇中のセリフで語った以上の話をほとんどしていない可能性が出て来てしまう。

この二人が笙に何をどの程度話したのかは、劇中の描写を視てもサッパリわからないのだが、それはつまり、観客には笙がどの時点で何をどれだけ識っているのかわからないし松子に対する見方がどのように変遷していったかがわからないということで、要するにラストシーン以外の笙の心情芝居は窮めてあやふやな扱いを受けているということである。逆に言えば、物語が最終局面を迎えるまで、笙の芝居は何うとでもとれるような曖昧なものとして演出されているということだろう。

小説版やそれに準拠したドラマ版では割合にこの間の関係性はハッキリしていて、笙もしくは明日香が何をどの程度識っているのか、内田あかねや沢村めぐみ、龍洋一がどの程度の話をしたのかがわかりやすくなっているが、ドラマ版について言えばその故に明日香のドラマと松子のドラマの乖離度が高くなっている。松子の殺害という事件を契機にして明日香個別のドラマが進行しているだけで、視聴者の前に徐々に明かされる松子の人生が、物語的な求心力を持っていない。

だが、劇場版のほうでは恰もすべての松子の物語を観客が見終えるのを待っていたかのようなタイミングで、劇中の笙もまた観客と同程度に松子の人生を識っているかのような前提でラストの芝居場が組まれている。

衒った言い方をするなら、この場面で笙が松子の人生を識っているのは、観客がそれを識っているからである。描写の実際としては、原作のキモである笙が松子の人生を徐々に識るプロセスを徹底的に曖昧に描き飛ばしておきながら、最終局面において笙を観客の代替的な位置附けに据えて、最後の最後まで希望の星を諦めずに自身の殺害現場となる場所へ向かって蹌踉と歩を進める松子の背姿を見送らせているのである。

これは叙述的な意味で言えば、やはり混乱した構造であることは間違いない。

オーディオコメンタリーを聞くと、中島哲也監督は川尻笙を演じる瑛太にかなり粘り強くダメを出したらしいのだが、敢えて想像を逞しくするなら、役者が普通に脚本を読み込んで演技を組み立てると、この曖昧さが出なかったからではないかという気がする。

実際、劇中の笙の態度を視ると、ナレーションから感じるほどに松子の人生に興味を感じている節はないし、原作の笙のように積極的に動いて松子の人生を後附けているわけではなく、すべて成り行き次第で状況の動きに巻き込まれているだけである。トルコ勤めや殺人のことを識っても、ニヤけて「すっげ!」とDQN臭いリアクションを返しているだけだし、沢村めぐみの話もろくに聞いていない在り様である。

そのくせ沢村めぐみの問わず語りに妙に穿った鋭い返答を返していたりして、瑛太視点で考えるなら川尻笙という人間の心理の変遷がサッパリ理解出来ないだろう。それはやはり、原作ではある程度のウェイトをかけて描かれている笙の探求行を大幅に割愛したことのツケで、当たり前に考えるならこの映画の川尻笙という人物の態度には大きな矛盾があり心理の流れが破綻している。

この映画における川尻笙は、彼の時制の物語の進行と併行して描かれる松子の人生の物語を、ほとんど識らないと同時にすべてを識っている。その両方であってどちらか一方ではないのである。芝居が心底面白くなりかけてきた程度のキャリアの若い役者の生理としては、演出者にそのどちらであるかを決定して欲しいというのが本音だろう。

それは、人の生きる現実において、識らないと同時に識っているなどという曖昧な状態はあり得ないからである。だから、川尻笙を演じる瑛太という役者の視点では、劇中事実として笙が何も識らないのかすべてを識っているのか、そのどちらかの想定において役を組み立てるしかない。「その両方」などという曖昧な状態を問わず語らずで演じられるのは、自身の風貌や演技の「見え方」を知悉した、もっとキャリアを積んだベテラン俳優だけである。

オーディオコメンタリーをはじめ、監督自身や他の証言者の言葉の端々に現場の混乱が伺えるわけだから、そんな修羅場の撮影現場においてどこまで監督が映像作品としての全体的イメージを堅持し得ていたかは定かではないし、脚本起草時点でこの語り口の混乱をどれだけ予想出来ていたのかも定かではない。

その意味で、剰りこの映画における監督の役割を結果から逆算して想定するのも幻想だと思うのだが、演技指導の面で中谷美紀と並んで瑛太に細かくダメ出しをしたのであれば、その側面における意味という以外には考えにくい。

はっきり言って、この劇場版のシナリオのように脚色するなら、川尻笙の役どころは物語的な文脈においてはさして重要な役回りではない。中心的に語られている川尻松子の物語に接することで何かしらの新たな物語を紡ぎ出す存在ではなく、一方的に松子の物語を引き出すためのダシにすぎない。彼の役どころが演技的に重要性を持つとすれば、それはこの緩い混乱した構造の物語を「嫌われ松子の一生」個別の物語として成立させるためだろう。

再々陳べていることだが、この物語の本質的な骨格には、川尻笙という人物がそれまで識らなかった川尻松子という伯母の存在を識り、その生涯を識りたいと望み、すべてを識った上でその生涯を肯定するという鎮魂の作業が据えられている。

当エントリーで語ったように、この劇場版ではその小説的な仕掛けに依存せずに松子の人生を娯楽として成立させているのだが、最低限川尻笙が演じる鎮魂のプロセスだけは絶対省くわけにはいかない。それがなかったら、この劇場版がこの原作に基づいた意味がなくなるのである。

それ故に、笙の探求行のくだりを最低限度にまで削ぎ落としたこの劇場版において、そこから生じる構造的矛盾や断絶の辻褄を合わせるのは役者の仕事なのである。松子視点の物語のきっかけ出しに過ぎない笙視点のパートにおいて、整合的に解釈することが難しい笙の獲得した情報量やそれに基づく心理の変遷の曖昧さに、役者の演技で辻褄を合わせる必要があるのである。

その意味で、この映画で中谷美紀と瑛太に演技上の負担が過酷なまでにのし掛かったのは、ざっくり言ってしまえばこの映画が構造的にはかなり混乱していて、剰えインチキをしてそれを胡麻化しているからだろうと推察する。

中谷美紀の視点で言えば、すべての芝居が情感や劇的ロジックの繋がりではなく音楽の繋がりで連続しており、その場で扱われる楽曲の性格に場面毎の芝居のリアリティが支配されているために、普通の劇映画の感覚で統一的な演技を貫くことが難しい。さらに瑛太の視点で言えば、そんな混沌のレビューショーのインターミッションとして劇的なロジックにおいては決して繋がらない心情を補完する必要を迫られる。

そらまあ、「自由にやっていいから」と振られても困るだろう(笑)。

この種の胡散臭さがこの映画の魅力であると同時に、オーセンティックな劇映画としては一種破綻した部分を多分に具えていることも事実だろうと思う。


■生れて、すいません

さすがにもう疲れてきたので(笑)、後はパラパラと思い附く儘に雑談調で語って風呂敷を畳みたいと思う。はっきり言って、これを書いている間中DVDを廻しっ放しにしているわけだから、ながら見も含めてもうかれこれ二〇回以上は観ている計算になり、日本で一番嫌われ松子を観た観客としてギネスに申請しようかと真剣に考えている。

さて、この映画の重要なモチーフとしては、ドラマ版のタイトルバックにもエコーが視られる「花」があるわけで、修学旅行のシーケンスをはじめとして、執拗に画面手前で花をナメる絵面が繰り返されるが、これを中島哲也監督は冗談めかして「女の一生=花でしょう」と語っている。

まあこれをどの程度真に受けるかという問題はあるが、松子視点の物語が色とりどりの花に飾られている以上、事実においてこの映画では女の一生は花なのである。さらに言えば、この「花」と同程度に重要なモチーフとして、博い意味での「星」がある。

太陽、月、星、すなわち空の高みに輝く天体すべてが松子の希望の象徴として用いられていて、それは音楽のくだりで詳説した通りである。どんな逆境に置かれても、懲りずに夜空の星を掴もうと手を伸ばし、お日様を身体一杯浴びようと大きく拡げるのが松子の人生なのであり、腐臭漂うドブの中を這いずり廻るような人生でも何度も星の高みに手を伸ばすその姿が女の花と意味附けられているのである。

そして、この物語全体に一貫して陽光を湛えるハレーションのフレアが溢れていて、デイシーンでは必ず何処かで何かが光っていて目映い光を投げ掛けている。規則性に無頓着なこの映画においては、そこに何か統一的な意味性を読み取るのは難しいが、これらのモチーフ群が、場面毎に比較的ルックのまちまちなこの映画全体の統一的なイメージを緩やかに規定している。

星と花に彩られ「まげてのばして」を繰り返した松子の人生は、一面ではまったく成長しない愚かな女のファースの天丼でもあるわけだが、その松子の流転の人生のささやかな伴侶としてスポーツバッグと「太陽の搭」のキーホルダーがある。

ここでいささかの註釈を加えるなら、この太陽の搭というのは一九七〇年に開催された大阪万博のシンボル的なモニュメントであるから、年表と突き合わせると松子が教師になった年、つまり大野島出奔の前年に購入したものということになるから、おそらく大学の卒業旅行として万博に行ったという設定なのだろう。

その大阪万博のスローガンは「人類の進歩と調和」であり、生涯を通じて進歩とも調和とも縁のなかった松子の人生の伴侶としては皮肉な小道具であるが、以前少し語ったように、大阪万博というイベントは、当時の高度経済成長期を迎えた戦後日本の未来への希望に溢れた無有郷でもあった。そんな希望に根拠などなかったのだが、人々は懸命に働き抜けば明るい未来が待っているのだと、信じようとすれば信じられたのである。

その希望を求める流転の旅の象徴であるスポーツバッグとキーホルダーも、ひかり荘に入居してからは押入で埃を被るに任せられていたわけだが、常に前へ進み続けることでより一層の転落人生を歩みながらもその都度新たな希望を掴んできた松子の人生において、一所に留まることは老いの絶望に繋がるのである。

この流れを表面的に視るなら、あたら女の花の時期を泥水にまみれて浪費し、男に入れ込んで失敗を繰り返した人間が、老いが忍び寄るに連れて誰にも相手にされずにそのツケを払わされ惨めに死んだように見える。せっかく旧友の厚意で浮かみ上がれるというその刹那に無意味に殺され犬死にした、とことんついてなくてつまらない人生に見えるだろう。

この松子の晩年のひかり荘逼塞から殺害までのくだりは、原作よりも劇場版の脚色のほうが劇的に効いているとオレは思う。原作の筋立てだと、見ようによってはやはり松子が無意味に無念の犬死にをしたように見えなくもないし、殺害犯を若い男たちに設定したことで世間の悪意へのやり場のない憤りのような余韻が残るが、劇場版の脚色では殺害犯への応罰そのものが情感的な焦点を外され何うでも好くなっている。

河原へ向かう松子の背に向かって名を叫ぶところで川尻笙の語りは実質的に終わっているが、原作のラストシーンである裁判の場面を省いたことで、この松子殺害事件の意味がより際立って見えるとオレは思う。

松子の生涯の終焉は、希望を掴みかけたところで殺された不遇さ口惜しさに意味があるのではなく、荒川河川敷で撲殺された醜い初老の女が、十数年に及ぶ逼塞期の殻を破り死の瞬間まで希望に向かって手を伸ばしていたという事実が重要なのである。

懲りないということ、学ばないということ、成長しないということ、それだって見ようによっては生きる支えに成り得るのである。とことんダメな人間だって生きていかねばならないのだし、生きていてはいけないということなどないだろう。どんな人間だって基本的に「生れて、すいません」などということはない。他人から視てどんなに何うしようもないダメな人生でも、自分自身が肯定的に視られなかったら、それこそ生まれてきただけの意味がない。

人生最後の恋(実質的に(笑))となった龍洋一との関係まで悲運に終わり、その聖痕として引きずる脚まで抱えるに至った松子は、「もう誰も愛さない」「誰にもわたしの人生に立ち入らせない」と堅く心に決めてひかり荘に逼塞する。しかし、これまでの松子の男の愛し方が客観的に視てダメだったとしても、だからもう誰とも関係を持たないと自分の殻に閉じこもることはもっとダメなことなのだ。それによって、これまで松子の生涯のただ一つの取り柄であった、善き人々との出逢いにまで門戸を鎖すことになってしまうのである。

教科書的に言うなら、どんなにこれまでの他者との関係がダメだったとしても、その失敗から何某かを学び取り、新たな人間関係をより良いものにしていくのが「ダメではない」生き方である。「人は成長なんかしない」と嘯く向きもあるだろうが(笑)、少なくとも「より良い人間関係」は自他を幸せにするのだし、そのような実践的な智慧を身に着ける過程をかりそめに「成長」と虚構的に名附けているだけの話である。

しかし、そのように利口に立ち回れない人間だってたくさんいることは事実であり、そんな人生には価値がない、意味がないという言い方は出来ないだろう。

そもそも川尻松子という人物は、最初の最初から幼稚な人物として現れ、その幼稚さの儘に一向成長することなく無惨に年老いて、社会的な観点では何ら褒められたところのない人生を荒川河川敷という寒々しい場所で終えた。

何処かでオレは、「父親の愛情の欠落」という言い回しを便宜的に用いたが、この父親が松子を愛していなかったわけではないことは、何も死後に事新しく日記の記述で識らされるまでもないことである。

劇場版のほうでは父親役の柄本明の演技というか佇まいが非常に良く、松子に対する愛や優しさを言外に匂わせながら、不憫な妹への想いに囚われ疲弊した父親の姿を好演していて、彼の立場では表面上病弱な妹のほうばかりを気に懸けるのが無理からぬことであることを説得力を持って表現している。

成人するまで生きられないかもしれないというほどの重篤な宿痾を抱えた娘が心配でない親などはないだろうし、一人の人間としてそちらのほうの気懸かりや不憫さで手一杯だという限界もあっただろう。また、外の世界の幸福を殆ど識らない娘に対してせめて愛情を注ぎそのハンディを埋め合わせてやりたいと願うのも人情である。

父親の視点で視れば、姉の松子は身体強健に生まれて外の世界で幸せを勝ち取る機会に恵まれただけで妹よりも幸福なのである。彼の立場においては、公平に二人の娘を愛するということは、決して二人の娘を同じように扱うということではないだろう。理不尽なハンディを抱えている分、妹の抱える欠落を少しでも埋め合わせるほうに限られた力を注ぎたいと考えるのが、当たり前の親心というものである。

姉が美しく健康な身体に生まれ、妹が明日をもしれないような虚弱な体質に生まれた以上は、この二人の娘の生まれ附きがそもそも公平ではないのである。人の親としては、そんな無理からぬ不公平にまで自責の念を覚えてしまうのは自然だし、そもそもそんなことは子の立場としても大人になったら察して然るべき事柄である。

それは七つ児の少女が、父親にかまってもらえないこと、妹ばかりにかまけることを寂しがるのは当然だが、二三歳にもなってそんなことに真顔で拘ることがそもそも沙汰の限りの幼児性である。実際には松子のような女性もたくさんいるのだろうが、本当に父親の愛情の欠落に悩んでいるのであれば、父親の歓心を買おうと自分の希望を殺してまで努力するよりも、距離をとって自身の人生を充実させるのがマトモな生き方である。

それは、不承不承であれ、父親の優しさや気遣いが妹に集中している現状を妥当なものと受け容れることとイコールであり、父親ばかりではなく妹をも視野に入れた物の考え方を身に着けるということであり、要するに自身の愛する父親の心情を理解することであり、妹の愛情を受け容れることであり、それはつまり年齢相応の精神的成熟である。

そうすることで幼少期の寂しさや他者の愛情に対する飢渇が癒されるわけではないだろうが、少なくとも愛されなかった過去に拘って愛を乞い続けることや、妹に集中している愛情を少しでも自分が奪い取ろうと努めることが、未熟で不毛な生き方であることは間違いない。

そのような過去と折り合いを附けるためには、ある程度成熟して自身の辛い来し方と向き合うだけの強さや智慧を身に着ける必要があるだろう。しかし、残念ながら川尻松子という女性は、二三歳にもなって嫉妬や口惜しさや他責的な態度から発作的に妹の首を絞めてしまうほどに幼児的な人格の儘、成熟した人間関係を涵養しにくい裏街道の生活に陥ってしまったわけだが、これはやはり、大人になっても特定他者の愛情という優先度の低い対象に拘泥し続けた結果の自業自得と言えるだろう。

娑婆に出て荒波に揉まれながら一人で飯を喰っていくということは非常に厳しいことなのだし、他家に嫁ぐにせよ働いて自活するにせよ、子どもの頃のように誰かが楯になり護ってくれるわけではなく、自分自身で何とかしなければならないことが山のように立ち現れるのである。その際に、父親が愛してくれなかったからとか、妹ばかりが可愛がられたからとか、くだらない泣き言を言っている時点でヌルい幼稚な人間だと言われても仕方がないだろう。

いい歳をした大人の松子が佐伯とのデートを妹に語り聞かせるということは、誰が視ても父親と同じように無神経だと感じるだろうし、それを父親に詰られたからといって妹本人にその不満をぶつけるというのは、この人物が自分の愛情に対する飢えにしか目が行かない自己中心的で幼児的な性格だということの顕れである。いつもいつもお姉ちゃんお姉ちゃんと慕ってくれる妹の優しい愛情など何うでも好いし、一途に父親の愛情を求めながらも、彼の辛い心中をちっとも理解しようとしていないということである。

そして、実家を出奔した後の松子の人生はその愚かな繰り返しであって、大切な人々との得難い出逢いを何度も繰り返しながら、自分だけを見詰めてくれる誰かを求めてそれ以外の自分を真剣に想ってくれる人々の愛情に応えることはしなかった。たとえば、沢村めぐみが松子を見限ったのではない、松子が龍洋一を選んで沢村めぐみの真摯な諫言を拒んだからその友情は断絶したのである。

こんな生き方をダメでないと擁護することなど誰にも出来ないだろう。しかし、最前陳べたように、ダメな人間でも生きていかねばならないのだし、どんなに苦労を積み重ねても何も学ばない人間だって生きていかねばならないのである。事実においてそんな人間であらざるを得ない人間の生には何の意味もないのか、人々から蔑まれるばかりなのか、万人が納得して称揚するような「成果」がなければ人生には意味がないのか、要するにこの物語のキモはそこにあるのだろう。

少なくとも多くの人間が価値を見出している女性の「貞操」を抛って金に替えたり、剰え人一人の未来を永遠に奪い去る殺人という大罪を犯したこと、それ自体を世人が称揚すべき必要などないだろう。こんな女だから身体を売っても構わないとか、こんな屑だから殺されてもしょうがないという話にはならない。

同様に、大勢の男たちとの関係についても、たしかにダメな男ばかりだったが、松子のダメな愛し方が相手のダメさを共依存的に引き出したり、積極的にダメにしていたりした側面もあっただろう。龍洋一だって松子の愛によって救われたわけではなく、ダメさに拍車が懸かった部分も多分にあるし、劇場版の龍洋一は寧ろ自責と自罰に囚われた破滅的な余生を約束されている。

川尻松子という人間は人生の岐路において必ず過ちを犯すのだし、実際に多くの人々を不幸にしたのだし、世間並の価値観で言えば、その人生には何の生産的な「成果」もなかった。こんな人生に意味を視るのは彼女を愛した人間だけだろうし、それはそうあるべきものなのである。どんなダメな人間でも、その人間を愛した人間がその生に意味を視てくれる、だからすべての人生には必ず意味があるのである。世間並の価値観とは別の次元において、人間には生きる意味があるのだし、それが他者に対しても意味を持っているのである。

生き方の是非は何うあれ、その生において犯した過ちが何うあれ、それがどれだけ愚かしくあっても、懸命に生きることはそれだけで意味があるのだし、他者にとっても意味を持つのだという優しい人生観がそこにある。

原作ではサイコパス的な今時の若者と設定されていた松子の殺害者が、劇場版では剰りにも稚ない中学生に変更されているのが一見ショッキングだし、考えようによっては原作よりも暗澹たる真相なわけだが、松子が老残のどん底にありながら生きる希望を取り戻したことで、そしてそれによって人との関わりに踏み出したことで、それが最終的に松子の命を奪うことになるというサタイアはより鮮やかになっている。

ラストの映画的な映像は実は原作の松子の最期を比較的忠実に映像化したものだが、ここから逆算するなら、松子の人生の終焉は一種の家路と意味附けられている。嘗て紀夫が語った久美の末期の言葉が伏線となって、時空を超えた彼岸の彼方で和解を果たした姉妹の物語とそれを視ることも可能だろう。

その意味で、沢村めぐみの名刺を探し当てた松子が、深夜の河川敷で遊ぶ中学生たちに向かって「家に帰りなさい」と一喝するのは、転落以前の中学教師の姿に立ち戻ったという意味であると同時に、「帰れる家があること」の有り難みを思い知った老女の苛立ちの発露でもあるだろう。今ある松子の生は「家に帰らなかったこと」のツケなのであり「帰るべき家をなくしたこと」の結果である。

いつも帰りたいと願いながら遂に帰ることが叶わなかった松子の人生は、帰れる家がありながら外で遊ぶ子どもたちを叱ったために終わりを迎えたのである。勿論、このように脚色してしまうと、未成年の子どもたちが松子と関わったばかりに、松子が家に帰って幸せに暮らせと叱ったばかりに、却って殺人者としての暗い人生を抱えてしまうというやりきれなさをも生み出してしまうわけだが、そこはスッパリ切り捨てて子どもたちの顔を影で塗り潰し、点景として描き飛ばしている。

この場面で、全編を通じて初めて松子はマトモな大人として振る舞ったわけだが、そのマトモさがまったく容れられずにアノニマスな悪意によって理不尽な迫害を受けるという皮肉さとして描かれているわけである。

描写上重点が置かれているのは、ひかり荘の低迷の後に松子が希望を取り戻し、それによって死へ誘われながら過去へと遡行し、彼岸において妹と再会するというプロセスの映像的説得力である。劇場版では松子が「まだやれる」と思うきっかけを妹の幻想に設定していて、その幻想を引き出すために妹の病床に吊ってあったものと同じ折り紙のモビールを松子の部屋にも仕込んでいる。

すでに、死せる妹の姿に導かれて希望を取り戻す時点で死への布石が置かれているわけだが、たとえその松子の再生が惨めで頓珍漢な客死に決着したとしても、未来への希望を信じて懸命に足掻きながら死んだ松子の生には意味があったのである。結局松子がどれだけ足掻いても明るい未来は訪れなかったわけだが、沢村めぐみの名刺を探しに出た瞬間に決定附けられた死の運命は、妹との再会という「ハッピーエンド」から逆算した過去への遡行として描かれているわけである。

松子の意識が途切れる瞬間からこの遡行をスピードアップして描くカメラワークはハングライダーの滑空で撮影されたらしいのだが、普通なら松子の進行方向とは逆の方向にカメラが動くことで時間の逆行を表現すべきところを、このシーンでは松子の進行方向にカメラが動きながらそれを追い越すことでどんどん時間が遡っていく。

この撮り方に何とも意外性があると同時に、当たり前の意味では後ろ向きな情熱と捉えるべき松子の望郷の念をポジティブに意味附けて見せている。この撮り方では、大野島出奔以後の松子の人生は、すべて一途に家路に向けて急いでいるような見え方になるのである。

その意味では、後先も考えずに飛び出した実家にいつも帰りたいと願っていたのが松子の人生なら、それは何うにも後ろ向きな生き方に見えてしまうのだが、父親の気持ち、妹の気持ちをいつも手遅れになってから識らされた松子が、死の瞬間に父親や妹が待つ家路を急ぐという映像は、死出の旅路の象徴であると同時に一種の生き直しのプロセスでもあるだろう。

最早この世の人ではない父親も妹も、本当は松子を心底愛していたのだし、生前の父親や妹の愛情に気附けなかったのは松子の未熟さ故の過ちではあるのだが、生者の世界ではそんなボタンの掛け違いやタイミングのズレが命取りとなるとしても、彼岸の世界ではそのような過酷な決め事は意味を持たないだろう。

父親の気持ちを理解せず、妹の愛情を蔑ろにしたことが松子の転落人生のすべての発端だとしたら、そのような転落人生の果ての死の瞬間において、時のない彼岸の世界で死せる父親と妹の愛情を素直に受け容れることは、松子が自身の生を生き直してみせることになるだろう。

そのように考えるのは、生者の死者に対する思い遣りであり、同時に生者自身の為の喪の仕事の一環でもあるだろう。この一連を死の瞬間に松子が視た幻覚と視るのも尤もなことだし、この物語を語る生者から語られる死者へ贈られたせめてもの餞と視ることも可能である。

その意味で、川尻笙が一夏の探求行の果てに伯母の松子の人生を理解し受け容れ、それを「世間並の価値観」に基づいて蔑む顔のない悪意に対して口惜しさとやりきれない憤りを感じるという原作の結末と比べ、劇場版のラストシーンは松子の死そのものによって完遂される映像の説得力で語る鎮魂としての性格がより際立っている。

勿論それは、原作と比べて劇場版のほうが優れているという意味ではない。川尻笙の探求行と伯母の人生を物語として読み解く手続にヴォリュームを割いている小説版の在り方と、そのような手続を踏むべき原理的な必要性が薄い映画版の在り方とでは、自ずから落とし所が変わってくるというだけの話である。

ただまあ、何を何うしたところでドラマ版のあの落とし所は野暮だろうと思う。劇場版の筋立てを捻った引っ掛けには笑ったが(そのために先週から教会ボランティアの話を仕込んでいたのかと思うと尚更)、外国人犯罪者が下手人なら後腐れがないという発想自体がちょっと厭だ(笑)。

松子と明日香の妊娠や、赤木と龍洋一の絡み、松子逼塞の理由を覚醒剤中毒の後遺症に設定したり、遺品の確認の一連とか、「これでもか」の泣かせに走っていて、ドラマ版オリジナルの脚色が悉く厭味である。

たしかにドラマ版の松子像がかなり変わっていることもあるし、幾ら何でもあの原作の幕切れの儘では陰惨すぎるという判断があったのかもしれないが、すでにこの作品をストレートに連続ドラマ化した時点で十分陰惨なんだから、今更結末だけ取り繕って何うなるというのか。

要するにドラマ版の嫌われ松子は、松子の人格的な美点や在り来たりの劇的感動、松子の生きた意味を後附けで附加することで、原作や劇場版のような松子の「くだらない」生き様では生きた意味などはないと意味附けたことになりはすまいか。

それがお茶の間の一般視聴者を対象とする連続ドラマという性格故の改変だというのであれば、そもそも嫌われ松子の一生という原作を連続ドラマ化するということは、原作に潜む根本的な想いを踏みにじることになるのではないのか。

———つか、ぶっちゃけエヴァオチって今時何うなのよ(笑)。

ひょっとしてアレなのか、このドラマ版の後に待っているのは「嫌われ松子の一生 鋼鉄のガールフレンド」という驚愕の新展開なのか?


■総評に替えて

そういうわけで、これで一応アタマからお尻まで浚い終えたことになるのだが、途中で語った通り構造的に視るとかなり難のある映画でありながら、それを窮めて映画的な手法でリカバリーしており、この映画のように弾けた勢いのあるダイナミックな作品は、この種の相反する要素群の足し算引き算をトータルでデザインすることが重要なのだという感を更めて強くした。

メイキング映像で中島哲也監督が(やっぱり冗談めかして)語っているように、若い頃には「小津のように」映画を撮りたいと考えていたとしても、それでは現代の娯楽映画としてつまらないのである。小津は小津の時代性において革新的な映画監督であり得たが、今時小津映画を愛好するのは小津マニアの一部シネフィルだけだろう。

現代の観客にそう見えるような小津映画のように自身の映画を撮るということは、やはり現代の感覚の娯楽性とはズレたレトロスペクティブなのであり、要するに撮り手の自己満足にすぎないだろう。小津の影響を公言して憚らない周防正行や竹中直人のような小津フォロワーですら、自身の映画文体を確立するに連れて、現代的な「面白い映画」としての弾けた肉体性を生み出している。

便宜的に中島哲也監督が直接言及した小津安二郎の名を挙げたが、これは今日古典的傑作と見做されている映画全般に言えることである。黒澤映画を文芸的で「高尚な」映画だと思い込んでいる若い映画ファンは、実は吃驚するほど意外に多い。たしかにそう表現しても間違いではないかもしれないが、それはまず第一に普通の観客が観て普通に面白い娯楽映画なのである。

小津にしろ黒澤にしろ、自分の「高尚な」芸術が理解出来る一握りのマニアにだけ映画館に来て欲しいと望んでいたわけではなく、出来るだけたくさんの普通の観客に観て欲しいと考えて、「誰が観ても面白い」大衆娯楽映画を撮っていたのである。

たとえば小津映画のような、若干癖はあっても文体や形式が洗練され四隅の整った静謐な映画はたしかに今の目で視るとかっこいい撮り方であるが、昔はこのように撮ることが万人にとって面白い映画の撮り方であると信じられていたのだし、事実昔の観客はそのように撮られた映画を面白いと感じていたのである。

当然、大衆の一般的な趣味嗜好の傾向には時代に伴う変遷があるのだし、その意味で小津映画や黒澤映画をさしたる理由もなく敬遠する若者がいることは、割合自然なことなのである。

ならば、嫌われ松子の一生という一本の映画を観る時、現代の観客はどのような感想を覚えるのだろうか。「楽しい映画」と言う人もいるだろうし、「感動的な映画」と語る人もいるだろう。「哀しい映画」と視る人もいるだろうし、「勇気附けられる映画」と賞揚する人もいるだろう。間違いなく言えることは、選れて現代的に「面白い映画」であるということで、この映画を観て退屈を覚える観客は少ないだろう。

世の中には、それが「どのように」描かれていたとしても、「何が」描かれているのかに特化した映画の見方をする人もいる。どんなに楽しく描かれていても、そこに描かれているのが楽しくも何ともない愚かな女性の陰惨な転落物語であることで、顰蹙する人もないとは言えないだろう。

だが、昔の小津がそうであったように、中島哲也もこのような撮り方が万人にとって面白い映画の撮り方なのだという信念の元に、事実として現代の観客一般にとって無類に面白い一本の映画を撮り上げた。レイティングがPG12ということで「子どもが観ても」とは言いにくいが、おそらく物語や寓意を十分に理解出来ない子どもが観てもそれなりに楽しめるのではないかと想像する。

中島哲也監督を一種の異業種監督と表現するのも一種微妙だと思うが、PVやCMを主体に映像に携わっていた期間が長かったことも事実であり、キャリアの根っこに劇映画があって監督デビューも古い割には劇場作品の本数が少ない。昔の作品でオレが観ているのは「バカヤロー!」くらいなのだが、「小津みたいに」撮っていたか何うかはさておき、さして面白い映画ではなかった。

現在のポップな作風の原型のようなものは、二〇〇一年一〇月の「世にも奇妙な物語 秋の特別編」の一編である「ママ新発売!」で初めて目にしたが、元々この番組の枠組みでは「何でもアリ」なので、この作品のようなポップさも目新しいものには感じられず、とくに演出者の名を意識することもなかった。そういう意味では、業界では識る人ぞ識る有名人だったのだろうが、映画の一般観客層には「下妻物語」で初めて名を意識された存在と言えるだろう。

今回オレに嫌われ松子をプッシュした友人はこの下妻物語も激賞していて、オレも当エントリーを書き上げたら観てみようと思っているが、ぶっちゃけ奨められた当初は食指が動かなかったし、だから嫌われ松子のほうもDVDが出るまでほっぱらかしにしていたわけだが、面白いというだけならこの歳になって面白い映画を一本見逃すことなどはさして惜しく感じない。

この世に面白いものはたくさんあるのだろうが、それを一人の人間がすべて味わうわけにはいかないのだから、まあ縁があれば向こうのほうからやってくるだろうというのが甚だ怠慢なオレの処世テツガクである(笑)。

今回嫌われ松子の一生という一本の「面白い映画」にこれほどどっぷり首まで漬かる羽目になったのは、剰り真剣に観ていないドラマ版をタコ殴りに叩くためのアリバイ作りという不純なきっかけだったのだから、やっぱり世の中のいろんなモノゴトというのは縁があれば向こうのほうから勝手にやってくるものなのである(笑)。

その上でその「縁」がこれほど膨らんだのは、やっぱりこのポップで弾けた現代的に面白い作品の根っこの部分に「映画」があったからだろうと思う。優秀なCMやPVを数多く撮ってきた人材が、一五秒なり四分強なりの短い時間でショートストーリーを語るスキルを活かして劇映画を撮ったというだけではなく、根っこの部分に長尺の劇映画に対する見識があり、そこからCMやPVの世界で実績を積んだ経験が窮めてポジティブにフィードバックされているという手応えがあって、それが現代における劇映画一般に対する挑発的な言及と成り得ていると感じたのである。

凡そ一〇〇年の歴史を持つ映画という文芸ジャンルは、最早開拓すべき沃野が残されていない一旦成熟を迎えたジャンルではあるのだが、それは一面、映画を撮るという行為の振れ幅の中で多様な試みを許容する懐の深さを具えるに至ったということでもあるのだろう。

この作品のように、窮めてポップで構造的に破綻していながら、同時に窮めて映画的な映画が在り得るという事実が、そのように感じさせるのである。オーセンティックな観点では、この作品を綺麗に整った佳作と評するわけにはいかないだろうが、類似のポップな作風をひけらかす作家たちの作品群とは一線を画す濃厚な「映画らしさ」を湛えていることは事実であり、この映画のもたらす楽しさや感動はその「映画らしさ」に根差したものなのである。

まあ、この映画を観る気にさせただけでも、オレにとってドラマ版の存在にまったく意味がなかったわけではなかったとでも言っておこう(笑)。甚だ散漫な〆ではあるが、いい加減長くなったので、今回のエントリーはここまでにしたい。

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