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2006年12月 9日 (土曜日)

In the Mood

「怨み屋本舗」といい「嫌われ松子の一生」といい、どうして「イン・ザ・ムード」をタイトル曲に据えたドラマは不愉快な番組ばかりなのだろうか。序でに言うと、オレは篠田正浩の「瀬戸内少年野球団」も嫌いなので、識っている限りでは例外は「スウィング・ガールズ」しかない。

今回語るのは、当ブログではすっかり「アタマの悪い局」という芳しからざる評価が定着しているTBSの嫌われ松子であるが、この番組もやっぱりアタマが悪いという以外に言い様がない。誰もが予想する通りのイヤな話になっている辺り、剰りに知恵がなくて萎える。

あの貴島誠一郎がプロデュースしているからには、おそらく今季のTBSの目玉ドラマなのだろうが、TBSが力瘤を入れたドラマは大概ダメだ。視るからに鬱陶しい話を視るからに鬱陶しく演出し、攻殻機動隊紛いのおどろおどろしいブルガリアンヴォイスをイヤガラセのように被せるセンスは、「オカルトかよ」とツッコミを入れたくなるくらい不愉快である。

初期エピソードをチラ見した段階ですでに、発作的にタコ殴りにして視聴中止を決定しようかと思ったのだが、劇場版を観た友人から「比較検証の意味でも劇場版を観てからコメントしたほうが好いのではないか」という意見を貰ったので、DVDが出るまで振り被ったグーパンチを懐に納めておいた。

DVDを入手してからも、事前情報からまったくの別物と識ってはいながらドラマ版の悪印象の故にこの題材自体に胸焼けがして気が進まず、今までほっぱらかしにしておいたのだが、このメンテを機会に漸く劇場版を観る気になった。

その上で更めて言うなら、やっぱり劇場版はドラマ版とは別物であった(笑)。

持って生まれた貧乏性なので、せっかく鑑賞した劇場版についても別に一項を設ける予定であるが、今回は主にドラマ版を腐してこの糞ドラマに永遠にケリを附けることにしたいと思う。

とにかく劇場版のほうは、この鬱陶しいストーリーを万人を楽しませる映像の娯楽とするには乾いた「笑い」として提示するしかないと結論附けて、その乾いた笑いを活かし得るリアリティ構築のための工夫をさまざまに凝らしているのに、ドラマ版はそこから何も学んでいない。

これは何も劇場版と同じようなノリで描くべきだとか、手法的に連続性があるべきだという話をしているわけではない。何故劇場版があのような語り口を採用したのか、それは単に中島哲也監督の個性というだけなのか、その辺の事情を何も考えていないということである。リアリティに対する勘が最も鈍い局が、その鈍さの故に最もデリケートなリアリティを要求される題材をうっかり選んでしまった印象である。

そもそもドラマ版のスタッフの話を聴くと、視聴者を笑わせよう、楽しませようという気がこれっぽっちもないようで、この鬱陶しい筋立てをみっちりと寄りの視点でシリアスに描き込んでいるところを視ると、どうやら感動のヒューマンドラマに仕立て上げたいらしい。やはり今現在、民放局のなかで最もドラマのリアリティに対する勘が鈍い局であるという確信を益々深めた。

オレは原作は読んでいないが、ストーリーラインや周辺情報を視るだけでも「あんまり極端に不幸な人生は、下世話な世間話にしかならない」という認識を核にした物語だということくらいはわかる。不幸や堕落というのは「程良く」人生に降り掛かるからシリアスな文芸のテーマになるのであって、のべったりと不幸や失敗ばかりが続くのでは最早真顔で語り得るテーマではなくなってしまう。

要するに、近所に一人はいるような「身持ちの悪いお嬢さん」の噂話にしかならないのであり、それはシリアスな意味では感動的な話になりようがないのであって、この物語はそんな作劇上の困難性が挑戦の対象となっているのである。

人づてに聴いた話では、原作者の山田宗樹の認識としてもそのようなものらしく、川尻松子のような「田舎町の芳しからざる噂話の主人公」を愛すべき人物として描くことが本作の執筆動機だったようで、その意味では原作とは大幅に語り口の異なる映画版をかなり好意的に評価しているらしい。

だいたい、ちょっと男に優しくされるとコロリと入れ上げて次々に男を渡り歩くような女性が、シリアスな意味で感動的な存在のはずはない。ドラマ版のつくり手は松子の存在を多情仏心的な文脈で視ているのだろうが、事実性の次元においてはそんな大層な地母心的存在ではなく、単に昔はたくさんいた身持ちの悪い多情で短慮な女性の一人というだけであって、そのような冷徹な認識こそが重要なのではないかと思う。

そのような、世間的に視てどうしようもない女がそのどうしようもなさの故にお定まりの転落人生を歩みながら、本人視点ではそこそこ幸せだったのではないか、端から視るほど不幸な人生でもなかったのではないのか、それなりに関わった人間に何かを与えていたのではないか、という辺りの微妙な人生観のバランスがこの物語のキモである。

そもそもこのお話で松子が転落人生を歩むのは、徹頭徹尾自業自得の流れであって、世間が悪いわけでも運が悪いわけでもない。その意味で、東海テレビ枠の昼ドラのヒロインたちとは全然違う。

別段、悲運に弄ばれたわけでも社会の歪みの故に望まぬ境涯に陥れられたわけでもないのであって、愛に飢えた短慮な人間だから、普通ならもう少しマシな人生が送られたはずなのに自業自得で転落していくのである。昼ドラのヒロインたちがそれらの逆境に毅然として清廉に対峙し、それでも悲運の故に波瀾の人生を送るのに対し、松子は単にだらしない人間だから当たり前のように転落するのである。

この物語の特異性というのは、基本的に立派な人間である昼ドラのヒロインとは違って自業自得で転落するだらしのない女をヒロインに仕立て、そのような褒められたものではない不遇の人生だって本人がそこそこ幸せだったらいいじゃないか、そんなだらしない女だって可愛いじゃないか、という善し悪しの価値観を捨象した視点の物語であることだろう。

劇場版のほうはそのような原作の特異な視点を活かすために、この鬱陶しい転落の物語を虚構性の高いレビューのように仕立てたわけで、要するに容れ物の視た眼がすでに楽しく現実感が稀薄である。そこに劇中で描かれている陰惨で生々しい筋立てとのギャップがあるのだが、松子視点ではこのろくでもない人生がそこそこ楽しかったのであり、だから劇場版は、有無を言わせず楽しい映像として全体のテイストを規定しているわけである。

当初中谷美紀にはその意図が理解出来なかったようで、昼ドラの主人公のように悲運に弄ばれる純心な女性の一代記という見方をしていたようだ。下世話に言えばただの身持ちの悪い莫迦女なのだが、それは世間の誤解で、実は多くの男性を常に慈母のように愛し慈しみ真心込めて尽くす立派な人だったというようなヒロイン像の捉え方だったのだろうし、原作もそのような読み方をしていたのだろうと思う。多分、それで大筋間違った原作の読み方でもないのだろう。

それが現場に入ってみると、何うも監督のほうは下司なダメ女の部分を強調して演技を附けるし、語り口がああいうふざけたノリなので、大分面食らったようである。その点を巡って監督と激しい衝突があったようなのだが、そんなことを演技者サイドが理解する必要はないと言えばない。リアリティを奈辺に設定するかというのは完全に演出サイドが考えることだからであって、演技者はどのラインの芝居が求められているのかさえ理解すればいいからである。映像作品においては、所詮演技者は俯瞰的な視点に立つことなど出来ないのである。

中島監督は、事ある毎に他の共演者を持ち上げ中谷美紀を貶めるという指導テクニックを用いることで、「ダメ女の中谷美紀だけが非道い目に遭う世界」を構築したようである。中谷美紀以外の共演者はすべて褒めて伸ばすことで普通に余裕のある演技をさせ、中谷美紀にだけ散々な罵倒と侮辱を浴びせて追い詰めることで常にテンパった演技をさせ、慈愛に満ちた立派な人物などではなく、世間からズレた夢の世界を一杯一杯で生きる愚かで多情でどうしようもない女であることを肌身に覚えさせたのだろう。

この指導法を視ると、たとえば「シャイニング」で監督のクーブリックがニコルソンの演技を褒めそやす一方で不条理なまでにシェリー・デュヴァルを苛め抜き(人格を否定するような罵詈雑言の数々は勿論、スタンバイが出来ていないことを見越してスタートをかけたりするようなイヤガラセ紛いの演技指導を施している様子がメイキング映像として残っている)、狂気に駆られた夫のDV(笑)に追い詰められるウェンディ・トランスの心理を醸成した例を想い出す。所詮、現場において積極的に動く有能な映画監督は善人ではあり得ないのである。

オレは基本的に、無意味に演技者を追い詰めるタイプの演出者は嫌いだが、不思議なことに、この題材で中谷美紀だけを追い詰めることにはまったく反感を覚えないのである。中谷美紀の大ファンで寝ても覚めても中谷美紀のことばかり考えているという奇特な方がおられたら申し訳ないが、おそらく日本人の大多数は、中谷美紀に劇中で非道い目に遭うような役柄を期待していると思うのである。

そのような中谷美紀個人に対する下世話な悪意と、女優中谷美紀の演技によって成立する劇中人物への共感の相互作用として、男にだらしない女がどんどん不幸へ転落する人生喜劇の健全な娯楽としてのリアリティが成立するのである。

そもそもこういう話を実写化する場合、キャスティングのキモとしては、どれだけ非道い目に遭っても、心の底で「ざまみろ」と思える役者でないといかんという気がする。たとえば中谷美紀以外なら中山美穂や南野陽子など、何となく高慢さが鼻に附くようなパブリックイメージがあり、何となく私生活上にヨゴレイメージがあって、それなりに芝居が出来る女優というのが好いバランスである。

物語の上ではちゃんと同情しなきゃいけないキャラではありながら、戯画的なまでの不幸と転落の釣瓶撃ちを寄りの視点で描く物語であるだけに、その境遇に過剰に思い入れると辛く感じられてしまう。だからこそ、素のパブリックイメージがイケ好かなくて演技力の部分で役柄にリアリティを付与出来る女優が、受け手が主人公と相対する場合に好適な距離感を醸し出すのである。

そういう意味では、内山理名は松子役に最もミスキャストな人材であると思う。おそらく内山理名個人をイケ好かない女だと思ってる視聴者など殆どいないだろうし、彼女に対して無根拠に悪意を抱き、劇中で苛められているのを視て「いい気味だ」と感じるのは、普通の感覚の人間なら気が咎めるのではないだろうか。

それは、この女優の取り柄が「好意を抱かれることはなくても最低限悪意を抱かれることだけはない」という人当たりの良さだからである。別段異性として女優として魅力を感じていなくても、何の理由もなく悪意を抱くことを躊躇わせる、そのような普通っぽい清潔感や悪く言えば柄の「薄さ」が内山理名の持ち味だろう。

それ故に、各回の演出や脚本もさりながら、こういう柄の人がどんどん転落して春をひさいだり人を殺したり刑務所で苛められたりという成り行きが、何となく後味悪く感じられてしまうのである。これなら、多少柄は違うとしても、まだしも小池栄子が演じたほうが違和感がなかったのではないかと思う。

中流家庭の出の元女性教師が教え子に裏切られて教職を追われ、トルコ勤めやら覚醒剤中毒やら殺人やら受刑生活やらの最底辺の経験を舐め尽くすというのは、普通に考えればちょっと痛々しくて視ていられない成り行きなのだが、乱暴な言い方をすれば他人が思うほど本人は可哀想ではないだろう。

何らかの些細なボタンの掛け違いから表街道の人生を踏み外して日陰の生活を渡り歩くような女性はゴロゴロいるのだし、元教職者の風俗嬢などそんなに珍しい存在ではないだろう。そのような生き方をしながら日々自分は可哀想だなどと思っているのあれば、そっちのほうが余程不毛な人生である。

それこそ東海テレビ枠の「紅の紋章」のヒロインのように、尊敬に値するような清潔で立派な女性が、貧しさや悲運の故に意に染まぬ数奇な人生を歩んでいるわけではない。たしかに登場する男は大概ろくでもないダメ人間ばかりだが、それに比べて松子だって如何ばかりもマシな人間ではない。そんな人間だからダメ男ばかりが寄ってくるのであり、それぞれの局面における転落の責任は大概松子の側にあるのだから、それはそういう人が辿る当たり前の成り行きである。

教職を追われたからと言って実家から出奔することはないのだし、男に棄てられたからと言ってトルコで働かねばならない理由もない。殺人に関してはシチュエーション的に微妙だが、進んで殺すほどの話でもないだろう。無粋な言い方をするなら、要するに本人の責任でないことなど何一つないのである。大多数の人々はそういう状況に置かれてもそうしないのだし、そうしないから普通の人生を歩んでいるのである。

だとすれば、川尻松子という人は、まあ最低限、どんな非道い目に遭ってもあんまり可哀想に見えない人であるべきなのだし、可哀想に見えるよう演出すべきでもないのである。その意味で、内山理名というのは明らかに「可哀想に見える」ことを狙ったキャスティングであって、これは話がまるで逆である。

今週どんな非道い目に遭っても翌週のほほんと楽しそうにしているのを視て「ああ、こいつならこんなもんで当たり前だろう」と自然に受け取れるような人をキャスティングすべきだっただろう。それが内山理名だと、ちゃんとしたお嬢さんが逆境にめげず健気に頑張っているように見えてしまっていただけない。

内山理名という女優は、要するに未だに本質においておぼこのお嬢さんであることが明白なのだし、そのような売りの女優である。それはそれで、十代の裡から剰りにも簡単に「腹を括る」「一皮剥けた」人ばかりの世の中において貴重な人材だとは思うが、こういう人材を松子役に持ってくるセンスはやっぱり間違っているだろう。順序から言えば、この物語においては、すでに「一皮剥けた」ような女優におぼこなお嬢さんを演じさせるのが筋であると思う。

おぼこなお嬢さんが本質である女優を松子役に持ってくるというのは、要するに転落人生の直中を生きる松子の本質をおぼこなお嬢さんに設定するということで、散々裏街道のドブ板人生を歩み逆境にあっても、その人柄自体は清廉であるような見え方を意図しているということである。本来清潔な人生を送るべき女性が、何か人生の歯車が狂って非本来的に不遇の人生を送っているような見え方を狙っているということである。

しかし、普通に考えれば、松子のような人間は男に振り回されて底辺の暮らしに甘んじているほうがその本質なのであって、逆に言えば世間によくいる男運の悪い女性というのはそもそもこういう資質の人間なのだということである。

長じてこのようなダメ女になる女性でも稚ない頃は純粋だったし愛に飢えるだけの理由がある、最初から転落している女性などそうそういない、そういう順序になるはずなのだから、転落人生の出発点の女性教師役が好適な柄の女優を持ってくるのがおかしいのである。

まあ、その辺のメインのキャスティングに関しては何某かの大人の事情が絡んでいるのが常なので、どのみち作品本位で決定したわけではなかろうから剰りしつこく追及することでもないのだが、演出面においてもそういうキャスティングの性格通りの人物観になっている辺り、もう失敗を約束されたようなものである。

松子は要するに、今さえ楽しければ昔の失敗に懲りずに同じことを繰り返し、どんどん落ちぶれていくダメな人間なのであり、今が楽しいから昔のことを忘れているだけなのであって、それは普通に言えば単にアタマの悪い生き方である。その主人公の愛すべき愚かさやダメさ加減が画面に出ていないし、降り掛かる不幸を剰りにも真に受けて演出しているから陰惨なばかりの物語に見えてしまうのである。

そしてこれは劇場版を観て更めて感じたことだが、普通一般の視聴者はこんな陰惨な人生など上っ面を掻い摘んで説明していただけばそれでお腹一杯なのであって、微に入り細を穿って事細かに描写されると大概の人間は引くものである。それはたとえばファラオ式割礼の苦痛を事細かに延々説明されるようなもので、劇場版のほうでは、精々二時間強という尺の制限があるから総花的に描いているというより、それがこの種の人生を映像で生々しく物語れる限度だから、あのようにアッサリ描いているのである。

ドラマ版は劇場版より原作に忠実との触れ込みだが、文字面で読むのと映像で観るのではまったく印象の強度が違うし、受け手の姿勢やモチベーションとしても活字文芸に接するのと映像文芸に接するのとでは全然違う。精々一日二日で読み終えてしまう小説と三カ月で一〇時間みっちり続く映像作品では、後者のほうがしつこく生々しく感じられて当たり前である。

一日二日集中して読書する間に経験する病的な気分とラストにおけるカタルシスは娯楽と成り得るだろうが、毎週毎週一時間そういう鬱陶しい陰惨なドラマを具体的な映像の芝居で見せられることを望む人間というのは、それらをすべて他人事と割り切れるようなよっぽど自分の幸福に揺るがない確信を持った人間だけだろうし、今の不安定な世の中で、そんな窮め附けに幸せな人間が多いか少ないかは考えるまでもなくわかる。

その意味で、最初からこんな原作を連続ドラマで描くというのは、コンセプトからして娯楽作品として破綻しているのである。しかも、そのような決して娯楽番組とは成り得ないような代物を、黙っていても数字が穫れる超人気作「Dr.コトー診療所」の裏にぶつけるというのは、何ういう料簡なのか理解に苦しむ。

もしかしたら前の時間枠の「渡る世間は鬼ばかり」からの牽引効果を狙っているのかもしれないが、平凡な商売人の家庭(今や平凡とは言えないが)の日常生活の範囲内で起こり得る事件を対象にした守旧的なホームドラマを愛好する中高年層が、そのような平凡な人生を踏み外した極端な底辺の生き様を描いた陰惨なドラマを観たがると思うのが間違いである。

一応内容面に関しても言及するなら、オレはこの原作を二次メディア展開する場合、川尻松子という人物の主人公性を剰りにも真に受けてしまうのは危険だと思う。常連読者の方なら、当ブログにおける「主人公性」というタームのニュアンスはすでに御存知のことと思うが、それは要するに特定の劇中人物の、物語の中心に据えるに値するだけの他者より秀でた資質や周囲に対する影響力のことである。

この物語の場合なら、たとえばキーパーソンの龍洋一が松子を「神」と呼ぶことで松子のどうしようもない転落人生が最終的にはポジティブに意味附けられ、そこに松子の主人公性が発生するという見方も出来るだろう。父親に愛されていないと感じて育った孤独な女性が愛に飢えて男に振り回される転落人生を送ったという三面記事的な事実を、男たちに対して至純の愛を捧げて生きた女性の一代記のように意味附け、松子の主人公性を保証しているわけだが、それは本当にそうなのだろうか。

物語というのは本来そういうものだという見方もあるだろうが、この物語においては甥の笙やドラマ版なら姪の明日香が生前松子と関わりがあった人々から松子の生き様を聞かされるわけだが、主人公の人生がその死後に伝聞によって語られるという叙述の手続は無視出来ない物語の性格を規定しているだろう。

すでに死んでしまった人の生き様を残された者が語るというのは、その人が故人をどのように視ていたのかを語ることであって、夫々の話者の意味附けというバイアスを蒙った別々の物語を語ることである。笙や明日香の父親に当たる松子の弟にしてみれば、口にしたくもない家族の汚点であり、アパートの近隣住人にしてみれば近所迷惑なアタマのおかしい中年女である。

要するに、この辺が世間の視る目の代表的なところであって、おそらく掛け値のないところの川尻松子の人生というのはそういうものなのである。ところが、松子により近い位置附けの龍洋一や沢村めぐみの口から語られる松子像は違っていて、彼らの語るような肯定的松子像が物語の中心に位置附けられるわけだが、これは彼らが松子を好きだからそう語るのである。そして、おそらくその好意というのは、松子に他に秀でた資質があるからとか立派な人物だから得られたものではなく、単に夫々の関係性の問題にすぎないのである。

劇場版のほうは、何故彼らが松子を好きなのか、彼女のどのような部分に美点を視て好きなのかを大胆に省いている。ドラマ版やおそらく原作でしんねりむっつり描かれているのは、劇場版で省かれたその好意の根拠となる美点の部分であって、何故松子と関係した人々が松子を好きなのかを後附けて描いているわけだが、本来それは何うでもいいことだろうと思う。

人間が他の人間を好きになるのに大した根拠は必要ないのであって、沢村めぐみは単に松子と馬が合っただけだろうし、龍洋一は自分自身の転落人生の歴史の中心軸に松子を置いているだけである。だから彼らは、その無根拠な好意に基づいて、ただ男にだらしがなかっただけの不遇な川尻松子の人生を肯定的に意味附けているのである。

それは一種、鎮魂の作業でもあるだろう。父親の愛情の欠落を出発点として、常に松子は人から愛されたいと望んで生きてきたわけだが、愛によって平凡な幸福を得ることは出来なかったけれど、まあそこそこいろいろな人から愛されたわけである。不器用だったり愚かだったりしたために不遇の人生を歩んだが、まあそれだってそこそこ幸せだったと言えるだろう。他人から視て最底辺の生き方にだって、そうでない生き方と比べて遜色ないほどに幸福な瞬間はあったのだろう。

そのように思うことは、川尻松子という故人にとって意味のあることではなく、残された人々にとって大切なことなのである。人生は、生きられている間は何の意味もないのだし、死んでからはじめて残された夫々の他者が抱く記憶の中の物語として意味附けられるものである。そのような物語は、半分真実で半分虚構だろう。

川尻松子という人はいろんな非道い目を味わった挙げ句に無意味な暴力の故に寂しく死んだことも事実だが、その時々に束の間の幸せを味わったことも事実だろう。残された人々は、そのどちらに重点を置いて視るかによってまったく違う物語を描くだろう。

だから、残された人々が「川尻松子の人生は悲惨で不幸だった」としか意味附けないことは、川尻松子という人物の人生をそのように決定してしまうことなのだ。そのように意味附けられた人生は数限りなく存在するはずだし、彼女のような人間は、それこそ昔はその辺の田舎町に大概一人はいたものである。この物語はそのようなありふれたダメな人生を寄りの視点で肯定的に語ることで、死んでいった人の生き様に意味を与える作業なのである。

この物語の特異性は、客観的に言えば何処も取り柄のない人物のどうしようもない転落の連続という単なる田舎町の醜聞を、故人を愛した人々がせめてポジティブに意味附けて語ってみせる鎮魂の物語である部分にこそあるのだろう。その意味で、劇中で語られた彼女の一生の叙述的な事実というのは、その程度を誇張して語ることで松子の主人公性を規定し物語性を保証する意味しかなく、それ自体は何うでも好いことなのである。

川尻松子の人生が剰りに極端な不幸と転落の連続に彩られているのは、何の取り柄もないどうしようもない人間を、そのような人間として物語の中心に据えるためには、その程度を誇張するしかないからである。

この物語を、たとえば「復讐するは我にあり」のような極限の人間ドラマとして視るのは違うだろうと思う。松子の人柄にも転落の理由にも極端な部分は何一つないのだし、劇中で松子が起こした極端な事件は、精々痴情の縺れで人を一人殺しただけで、それはちっぽけな新聞の三面記事の埋め草という以上のものではない。川尻松子の一生が物語として成立しているのは、普通にあり得る程度を超えて不幸と転落が連続するというただその一点のみの故である。

大概の人間はこの連続の何処かの地点で安定を得るものであり、この物語に描かれたような成り行きを全部経験した上に最低の死に方をするという窮め附けに不幸な例は珍しいだろう。つまり、このような成り行きが珍しいから物語に成り得るのであり、それを逆に言えば、物語として成立させるためにこの極端な連続が描かれているのである。

だから、松子が置かれた夫々のシチュエーションのプロセスをほとんど具体的な心情ドラマとして描かない劇場版が何故劇映画として成立するのかと言えば、この物語においては常識的なレベルを超えて不幸が連続していればそれで物語として成立するからである。夫々のシチュエーションの心情ドラマというのは、実は何うでもいい肉附けにしかすぎないのだし、龍洋一は大した根拠もなく松子が忘れられないのだし、沢村めぐみは大した理由もなく松子が好きなのである。

原作の小説がほぼドラマ版と同じストーリーを語っているとすれば、それは読書という娯楽が要する時間の間だけ読者を川尻松子の人生に附き合わせ、川尻松子を好意的に視る視点の故人語りを聴かせるためである。それはそういう客観的事実が厳としてあったという見せ方とは微妙に異なるのだし、視聴覚的再現性の高い映像作品として見せる場合には原作をそのまま見せればいいというものではなくなってくる。

何故このような鬱陶しい陰惨な筋立ての物語が娯楽小説として成立し得るのか、そこに想いを致すなら、「松子の人生はリアリズムで表現したくなかった」「エンターテイメントという話ではない」と語った中島哲也監督の洞察は炯眼である。原作を娯楽として成立させているのは、活字文芸という形式にまつわる印象の強度の問題だろうし、読書という娯楽が要する実時間や作品と向き合う姿勢の問題でもあるだろう。

それはすでに映画館へ赴く一般的観客の姿勢や求めるものとはズレがあるのだし、まして況やお茶の間で連続ドラマを観ようとする一般的視聴者のそれとは完全にズレているのである。そのズレ具合から考えれば、このドラマの在り方は嘗て同枠で放映していた「白夜行」のそれと似ているだろう。

オレは白夜行ドラマ版それ自体はそれなりによく出来ていたと思うが、TVの連続ドラマとしては映像化する意味がないと思った。あれは第一に活字文芸として娯楽たり得る物語なのであって、主人公たちの陰鬱で悖徳的な犯罪人生の大河物語はプロットとリーダビリティに優れる東野圭吾の小説としてまず成立した娯楽物語である。

それをたとえば劇場映画として映像化するのでも、二時間前後の鬱屈したストレスに見合うだけの映画的感興を奈辺において提示するのかというコンセプトの練り込みが必要となる。ましてそれを連続ドラマとして毎週一時間さしたる視聴モチベーションもないお茶の間の視聴者に見せるとすれば、各回毎にどのようにして視聴者にカタルシスを与えるのかという緻密な作劇的計算が必要となってくる。

ところが、白夜行ドラマ版にはそのような連続TVドラマとしての計算がまったく視られず、視点を変えているとはいえ原作の強烈なストーリーラインをそのまま映像にして視聴者にぶつけてくるのみで、そこで揺さぶられた視聴者の病的な心理状態を何らサルベージすることなく次週へ興味を繋ごうとする作劇となっていた。つまり、一方的に視聴者の心理を追い詰めるような作劇となっていて、毎週毎週観ていると間違いなく陰気で病的な気分に追い込まれるのである。これはまあ、TV番組の制作姿勢として計算が効いていないと言われても仕方ないだろう。

活字文芸の場合、ストーリーを追う過程で追い込まれる非日常的な緊張感こそが小説を読む醍醐味なのであり、さらにそんな病的な心理とストレスからの解放を望むモチベーションが一種のリーダビリティを生むのであって、あの大部の原作を一気呵成に読ませるのはそのような心理機序である。

ところがドラマ版は、活字よりももっと生々しい映像として一時間みっちり陰鬱な筋立てを語りながら、区切りの好いところまで来ると視聴者の心理を何らサルベージすることなく引きを設けて投げっぱなしで次週まで一週間待たせる。受け手が自由にその先を読み急ぐことが出来ないTVドラマにおいて、このような断絶感とストレスはただ苦痛に感じられる危険性が高いだろう。

それは現代の一般的視聴者の物語的な緊張感へのトレランスが低くなったという問題とは別の話なのではないかとオレは思う。それはおそらく、TVの娯楽に携わるつくり手の姿勢面の問題なのだろう。東野圭吾がそうであったような姿勢で、同じ物語をTVドラマとしては語り得ないのである。

小説文芸が密やかな私的な場で物語に耽溺して楽しまれる娯楽であるのに比べ、TVドラマはもっと開かれた場で散漫且つ受動的に楽しむものであり、ただ漫然と見ているだけでも何らかの視聴覚的快楽が保証されねば誰も観たいとは思わないものだ。それは小説を読みTVドラマを観る、受け手の場と姿勢の問題であると同時に、たとえば東野圭吾という個別の書き手の技倆に身を委ねるか否かの問題でもあり、TVドラマの基本的にアノニマスなつくり手が、同じような態度を取り得るものでもないのである。

その意味で白夜行は積極的に物語に没頭することを求めながら、視聴者を病的な心理に追い込むばかりで、観ていて楽しいとか快い要素が描かれないし、一時間の区切りにおいてその病的な心理状態にカタルシスが得られる構造でもない。それは「シリアスな人生の真実」的な文芸性を大義名分にした、お説教臭く圧し附けがましい高圧的な語り口だと言えるだろう。

そして、嫌われ松子ドラマ版は、白夜行ドラマ版と同じ失敗を犯しているのである。

どんな文芸性があってどんな人生の真実があるとしても、ただ一時間しんねりむっつり厭な気分にさせられるだけの映像作品など、誰が観たがるものか。それを使い古された言い回しで表現するなら、つくり手のマスターベーションにすぎない。少なくともそのような集中的且つマゾヒスティックな鑑賞姿勢を要求するような作劇は、TVというメディアにおいては成立し得ないのである。

仄聞するところによると、コトーに押されたとはいえ松子の平均視聴率は壊滅的で、その故に話数短縮も囁かれているとのことだが、オレだって吉岡秀隆が嫌いじゃなかったら迷わずコトーを観るだろう。

イレギュラーの「セーラー服と機関銃」を除いて、今季の同局の非長期シリーズドラマはほぼ全滅の結果となったのだから、これを機会にドラマ制作の姿勢を全面的に見詰め直してはどうかと思う。おそらく、このままTBSが同じようにドラマをつくり続けても、CXの水準はおろか日テレの水準にも届くまい。

アカネを語った際にも触れたことだが、TBSドラマ全般の作劇観はある特定の傾向を持ってピントがズレている。おそらくそれはTBS独特の組織形態に関係する制作体制の問題を示唆しているが、それを詳細な下調べに基づいてつまびらかに語るだけのモチベーションはオレにはない。とにかく、同じタイプの失敗を何度も犯す、それだけは事実であり、その性格を一口で言うならば「時代遅れ」というものである。

水戸黄門や渡鬼、金八だけつくっていればいいのなら、それでも構わない。それらの番組についてはそのような作劇観で何ら間違っていないからである。だが、これから何らかの新しいジャンルに挑戦し、広範な支持を得たいのであれば、守旧的な作劇観を刷新して新たな対象に相応しいフレキシブルな技術研鑽に努めるべきだろう。

CXや日テレ、NHKなど、ドラマが好調な局は必ずしも視聴者に迎合的な好ましからざる下品な手法で視聴率を稼いでいるわけではない。ドラマも文芸の一半である以上、不変の部分もあれば時代に即応した部分もある。新しいジャンルに個別の作劇要件もあるだろう。新しい時代のドラマはやはり、辛気くさい言い方をすれば絶えざる情報収集や勉強の連続によってしか生み出されないだろう。

普通一般の技術職というのは、いつだって技術革新に即応するように情報収集やスキルのアップデートに追われている。文芸の語り手だって実は技術職なのであり、この分野だけはそんな必要がないと思っているのであれば、「あっという間に時代に追い抜かれちまう」のは当たり前の話なのである。

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