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2007年1月26日 (金曜日)

An actual feeling

最近調子に載って仮面ライダーカブト関連のエントリーが続くが、まあ終了記念ということで今暫くご容赦を願いたい。

さて、ここ一年ほどの白倉Pの発言には随所に食に対する関心の深さが伺えて、公式ブログのトピックスにもかなりの頻度で料理を語ったエントリーがあった。

盟友井上敏樹が玄人裸足の料理名人ということで、何度もホームパーティーや打ち合わせで手料理を振る舞われているようだし、凝り性である白倉P自身もいろいろな食材に興味を持ち積極的に料理にチャレンジしているようである。

その関連からか、個人ブログでは食育や食の安全性に言及する発言も多く、カブトでも料理に関連した描写がこの種のヒーロー物語としては異様に多い。就中二九、三〇話の前後編で描かれた生簀一郎との料理対決は、ファンの間でも両論併記で行くなら賛否両論で(なんーだそのくっだらない表現は(笑))、井上敏樹の趣味が暴走した夏場恒例のギャグエピソードと見做されているようだが、積極的に食をテーマに掲げていこうという思惑は最初からあったのではないかと思う。

この場合、「食」というテーマの重要性は、たとえば不寛容性の問題や世界の受容や正義一般の問題のように、物語性の観点でライダーに惹かれているヤングアダルト層に向けたメッセージというより、食育の観点から言えば、幼児番組としての主要視聴者である子供たちを対象にした思想であると言えるだろう。

その関連で、たとえば初期に問題になったビストロ・サルにおける煙草水かけ事件を顧みるなら、あれはあのシチュエーションにおいて天道の正義に妥当性があるか何うかが論点となるのではなく、喰い物屋での喫煙行為一般に対する忌避感情を表現したものとしても見えてくる。それならわからないこともないのだが、子供番組だからと言ってお手軽に悪者扱いしてくれるなよというのが喫煙者の立場からの意見である。

その意味では生簀一郎との料理対決も、ギャグ編ではありながら食を追究する全体的なテーマの一環ではあったのだろう。つまり、カブトという番組においては、人間性の尺度は味覚や食の実感によって量られているのである。

たとえば天道も絶賛するほどの鋭い味覚と料理の腕を持つひよりが最終的に「悪」として描かれるはずはないのだし、これまで食の快楽を自身に禁じてきた非人間的な来し方の蓮華が、天道の導きで人間回復を図ることは料理修行という形で描かれるのである。

また、加賀美の善き上司である田所は代々続く老舗蕎麦屋の惣領息子で食の礼儀作法に無闇に煩瑣いとか、キャリアウーマン風の岬が押井守も真っ青の立ち喰い師だったり、世間識らずの神代剣は日本人のソウルフードである「ラ・メーン」の存在すら全く識らなかったというふうに、人間性の表現と食の在り方が密接に関連附けて描かれている。

それ故にオレ的には初期の段階で、食の快楽という最も大きな生活実感を識らない味覚障害の三島が最終的に「悪」として描かれるのは予想が附いていたのだが、これも煙草水かけ事件同様、ちょっと極端な描き方かなと感じないでもない。

オレの縁者にも味覚と嗅覚に軽度の障害を持つ人がいるが、別段それだからと言ってその人に人間として偏跛な欠落があるわけではないのは当然である。たしかに食の快楽を充分に識らないということは、人間が味わい得る実感の大きな領域を経験出来ないということではあるが、だから悪者に仕立てるというのはちょっと悪い意味でベタに過ぎるのではないかと思う。

作劇論の観点で言えば、人間性の欠落は特定の能力資質や肉体性、環境の欠落として描く以外に描きにくいものではあるから、さほど神経質に批判すべきことでもないのかもしれないが、味覚障害という極端な形でなくても好かったのではないかと思う。

食に重要性を認めない考え方の人間というのは未だにたくさんいるのだし、サプリメントの形で必要な栄養分を得られるならそれでも好いという誤解もまだまだ罷り通っている。ましてや、子供を対象に説く思想であるのなら、子供が考えそうな食に対する負の偏見を三島に仮託する程度でちょうど好かったのではないかと思う。

さらに言うなら、大人とは味覚が違う子供に対して「美味」という実感の絶対的価値を語っても、じゃあ子供が大好きなケチャップやマヨネーズをダダがけにして料理を喰うのは正しいのかとか、焼き魚に海苔や生卵を添えたちゃんとした朝食ではなく朝マックを喰えとでも言いたいのかとか、だからスポンサーがマクドなのか(笑)とか、モヤモヤした部分が出て来てしまう。

以前、夕方のニュースショーで子供に対して懐石のフルコースを振る舞う店が紹介されていて、当然味覚の未発達な子供たちは懐石料理なんて美味しいとも何とも感じていない様子であったが、「子供の裡に本物の味に触れさせる」という考え方でそのような試みを行っているとのことだった。

ただまあ、子供の未熟な味覚を前提にして食育を語るのであれば、大人視点の最高峰の料理を喰わせても舌が奢るか喰わず嫌いのトラウマを植え着けるだけで、あんまり意味のある試みではないよな、不味いと思われながら喰われる高級食材が勿体ないなと生温い気持ちになったことはたしかである。実際、子供相手とは言え量が若干少ないだけで結構なお値段だった記憶があるから、金持ちの子弟にしか必要のない素養だと言えばそれまでの話である。

その上で食育の問題を語るのであれば、それは家庭における日々の食事の問題に帰結するのだろうし、そこで近代大規模農法を否定するような自然食品を喰わせるのが正しいのかと言えばそうでもないだろう。食品流通や安定供給の観点においては、近代大規模農法にも意義はあるのだし、その意味では自然食品というのは一種の贅沢品である。

近代的な効率的農法以外の手法で育成された食材は、それだけの手間と人手が懸かっている希少品なのだから割高になるのも当たり前で、貧乏人が日常的に喰えるような代物ではない。現代社会に生きながら昔のような滋味豊富な食材本来の味を求めるのはやはり贅沢でしかないのであって、それが贅沢品でしかない以上、金で購うしかない事柄ではある。

実際、TV番組できちんと「本物の食」の重要性を謳うことは難しい試みである。

TV番組というのは、マスプロダクトの大企業から金を貰って宣伝枠を提供するものであり、宣伝枠の波及効果を高めるために面白い番組を作るのである。当然その大企業の中には食品会社や外食産業も多々名前を連ねているわけで、たとえば先ほど触れたようにライダー枠のスポンサーが日本マクドナルドであったり、佐藤祐基が加賀美新の役どころの儘でステーキ屋チェーンのCMに出演したりするという現状において「本物の食の価値」を謳うのは困難である。

たしかに企業のマスプロダクトとしての食品が、日本人の食生活のバラエティを拡げ食料需給を安定化し食に対する関心を高めた側面は否定出来ないのだから、絶対的に善くないものであるわけはないのであるが、それがプロダクトである以上、食の論理ではなくプロダクトの論理やマーケットの論理が最重要視されるのは当たり前であって、その範疇においてのみ肯定されるべきものである。

たとえば日本マクドナルドも「食の安全、安心」を社是に掲げて大々的にブランディング戦略を展開しているが、所詮は子供の大好物の身体に悪いジャンクフードに過ぎないのであり、「食の安全、安心」への取り組みというのは企業活動の免罪符に過ぎない。

何を何うしたところでマクドのハンバーガーが本来的な意味における食育の観点から優れているとは言えないわけで、おそらく現在の日本マクドナルドのブランディング戦略の観点から言えば、「食の安全、安心」を謳う番組をスポンサードすることはそれほど矛盾してはいないだろうが、ならばそのスポンサードを受けた番組の言い分自体は何うなるのかと言えば、「ジャンクフードに金貰って作ってる番組なんだろ?」「あんたらが言う『本物の食』ってのはビッグマックやチキンナゲットだったりするのか?」的なモヤモヤした見え方になってしまう。

この辺がTV番組の限界として痛し痒しの部分だと思うのだが、たとえばグルメ劇画の草分けとして有名な「美味しんぼ」は、原作者の(まあ無駄に)闘争的な姿勢の然らしめるところとして数々の食品企業とのトラブルを抱えている。当然これをTVドラマ化しようとしたら、名指しで喧嘩を売られたサントリーや味の素などの食品企業がスポンサードするはずがない。今妻第一話の冒頭で描かれたように、輸入缶詰の問題点を告発することで広告主の食品会社の逆鱗に触れるという事態も幾らでもあるわけである。

正月のアレは何うだったかしらと思って更めて再見してみたのだが、自動車メーカーと大衆消費財メーカーがメインで、それにアサヒビールが一〇時跨ぎでキリンビールに交替するというのが剰りにアカラサマで笑ってしまった。但し、塩の専売問題や喫煙批判で喧嘩を売られたJTが堂々とスポンサードしていたのにはちょっと驚いた。JTの位置附けからして、普通の私企業のように正面から喧嘩を買いにくいということもあるのだろうと思う。

カブトの話題に戻るが、この番組のテーマの一つが「食」だったとしても、TV番組である以上、それを正面から謳うことは危険であり、だから正面からそう言い切ってはいないのだろうと思う。単に凝り性の白倉Pが井上敏樹の影響で料理に凝っているというだけなら、人物描写の根底に食の論理が据えられるということもなかっただろう。

最終回だけを視ても、野望の完遂を目前にした三島が祝勝のディナー宜しく設えられたステーキに憎々しげにフォークを突き刺すという描写があって、これだけでも直接のスポンサーではないとは言え「加賀美新」をバイトに雇った「ステーキのどん」に喧嘩を売っている(笑)。というかまあ、前後の状況から考えるとネタの範疇だとは思うが。

結局三島という男は、最後の最後まで喰い物が美味いという実感を識らないことを強調され続けたわけで、それはカブト世界においては重大な欠落と意味附けられているのである。この物語に登場する人物は、須く何らかの形で食に関係して描かれているのであり、加賀美の父である陸ですら生簀との料理対決の審判を買って出るほどの食通として描かれていた(んだよな?)わけで、人の生を端的に肯定する根拠というのは、日々喰らい続ける飯が美味いという素朴な実感と位置附けられていたのである。

どんな辛いことがあっても人間は毎日飯を喰い続けるのであり、辛さの直中で飯も喉を通らない時期があるとしても、腹が減るだけ減ったらやっぱり死ぬほど飯が美味く感じられるのが当たり前の健康な肉体性なのである。人が自身の肉体性を強く意識する契機こそが食であり、喰い物が美味いという幸せは無前提に生き続けることの正しさを理屈抜きで人に思い知らせるのである。

少し極端な描き方ではあるが、カブト世界では食を楽しまない者は人生の楽しみや価値を識らない者として位置附けられているのであり、食の実感を通じて無前提に生を肯定出来ないからこそ、自身の生を肯定するために観念的な正当性を追い求めるのである。

この種の認識は、たとえば「男は子供を産めないからこそ、それに代わる何かを作ろうと足掻き続けるのである」という考え方と同程度にやや形式的に過ぎる嫌いはあるが、一面の真実ではあるだろう。たとえば恋愛やセックスという今一つの欲望に関しては、人により関心の度合いや接する頻度は異なるだろうが、食事はほぼ万人に平等の日々の営みとして常に目の前に在る日常的な行為である。

以前坂東眞砂子の問題に絡めて少し触れたことではあるが、恋愛やセックスというのは基本的に種としての側面から付与された社会的欲望であるが、食というのは個としての在り様の根本となる欲望であり、食の快楽はまず生物個体として在る自身の存在基盤と密接に結び附くものである。

飯を喰って美味いと感じるという当たり前の感覚こそが、生物個体としての自身の生を無前提に肯定する最初の契機となるのである。どんなに辛い目に遭って自身の存在意義が根こそぎ否定されたとしても、飯を喰って美味いと感じることが出来るのであれば、いつでもその実感からやり直せるのである。

三島という男は、最初の最初からこの大切な実感を識らない男として登場し、この手でしっかりと触れられるリアリティのある世界を生きている者ではないことを強調して描かれてきた。自身の存在基盤の根となるべき実感を識らぬ者が、まして他者に対する愛を抱けるはずがない。

毎度お附き合いを戴いているquonさんのところで少し話したことなのだが、三島の最終的な選択が石ノ森的な父親殺しのモチーフに基づいているとしても、それが加賀美陸に対する愛の故であったのか、それは少し疑わしいとオレは思っている。

所詮は表現の違いと言ってしまえばそれまでだが、オレの個人的な意見としては、三島はやはり一種の内面なき男だったのであり、自身の存在意義を加賀美陸という父性的な権威に認められることに置いていたのではないかと思う。陸の為に無私の姿勢を貫いて献身を尽くすという「行為」によって陸から認められ必要とされることで、自身の存在意義を辛うじて繋ぎ止めていたのではないかと思う。

その加賀美陸の父性をベースに考えれば、まさに三島と加賀美新の関係はカインとアベル的な兄弟の物語と表現することが可能であり、所詮加賀美陸にとっては盲目的な献身を尽くす三島よりも自分に楯突いてやんちゃの限りを尽くす新を愛するのが当然の肉親の情である。それはつまり、三島が有能な部下に過ぎないからであり、新は理も非もなく自身の血を分けた「唯一人の」息子だからである。

カインとアベルの物語は、聖書の記述をその儘真に受けるなら、父の依怙贔屓が招いた悲劇である。勿論、陸にとって三島は肉親でも何でもないわけだが(笑)、三島視点では陸にとって必要欠くべからざる働きをしているのは自分であるにも関わらず、実の肉親であるという「だけ」で陸が新だけを視ていることで、自身の存在意義を否定されたかのような苛立ちを覚えたのだろう。

この意味で、たとえば血が繋がっているという「だけ」で無条件に息子が可愛いという感情は、飯が美味いという「だけ」で自身の生が無前提で愛おしいのと同じ生の実感に纏わる問題性なのである。その実感を識らない三島にとって、普通なら当然の肉親の情が不条理で不当なものに感じられたとしても不思議ではない。

そもそもの最初から、三島の献身は本当の意味で酬われるものではなかったのだし、だから必然的に三島は新を殺し、陸を殺し、自身が父の権威に成り代わるしかなかったのである。それ以外に三島の空っぽな内面を埋める術はないのである。

三島がワームを過剰に憎んだのは、自身の権威である加賀美陸を頂点に戴くZECTにとってワームと敵対することが存在意義だからであり、白倉Pがその著書で謂うところの「われらと彼ら」の不寛容である。さらに当初ネイティブの根岸に対して敵愾心を隠さなかったのは、自身の存在意義を成立させていた加賀美陸の父性的権威を泥足で踏みにじる上位的な存在だったからである。

いわば根岸は、たとえば普通一般の家族関係に喩えれば「父親の上司」のような存在であり、家庭の中では家長として厳かな権威を保つ父親が卑屈に尻尾を振る上位者的存在として、家庭内における息子のレゾンデートルを脅かす存在として顕れたのである。

その場合、その上位者も憎いが本当に憎いのは嘗て自身が世界のすべてに対して決定権を持つかのように権威的に振る舞うことで子供を「欺いた」父親なのであり、だから父を殺し自身が父の立場に成り代わり、その上位者と対等の存在に成り上がる以外に、三島の喪われた存在意義と個人の尊厳は回復され得ないのである。

オレがそのように三島を視るのは、やはり執拗に最後まで描き通された味覚障害という個別性の故である。飯が美味いと感じられない人間が真に人を愛せるはずがない、おそらくこの物語の人物描写のロジックはそのようなものなのである。人と人の肯定的な繋がりを食に仮託して描こうとする意志は一貫していたのだと思う。

その意味で、食の概念が根本から欠落した男として描き通された三島には本当の意味での愛はなかったのである。それは、三島が陸を蹴落としてZECTのトップに立って以降の冷淡な態度に顕れているだろう。この冷淡さは、復讐の残忍さというより最早無用の存在に対するドラスチックな無関心としてオレには見えてしまう。他者へ向かう感情ですらが、自身の欠落した内面を埋める為の自己中心的な関心の一環でしかなかった非人間性の象徴、それが三島という人物なのだろうと思う。

それを愛と呼ぶ見方もあるだろうが、オレはそのようには視ないということである。

この物語における愛とは、美味しいものを食べさせてあげたいと願う心、共に味わいたいと望む心、そのような温かく実感に満ちた感情なのである。それ故に神代剣の遺志を継いでディスカビル家再興(って具体的に何うするつもりなのかは識らないが)に邁進する岬は、じいやの手ほどきを受けて嘗て剣が愛したようなフレンチのレストランを営むのだし、漸く他者に心を開き最高に美味しいものを食べてもらいたいと望むようになれたからこそひよりの料理は完成をみるのである。

ネイティブであるはずの田所がZECTを離れて蕎麦屋を継いでいることは、まあいろいろ詮索すれば微妙な話にはなるだろうが、やはりネイティブと人類の和解を表現しているつもりではあるのだろうし、それでなければひよりがのうのうとビストロ・サルで料理に励んでいるわけはない。そもそもネイティブであるひよりや田所が、人間と同じように食を堪能し得る存在であると描かれていたこと、それがおそらくこの大団円の伏線だったのだろう。

甘っちょろいと謂えばそれまでの話ではあるが、嘗て武力によって世界の為に戦ってきた人々の大半が食に纏わる職に就いているのは、一人でも多くの人に美味い料理を喰わせることこそが平和な世界において争いを否定する為の戦いであるという結論だろう。

この大団円の中で加賀美だけが平の交番勤務から警察官としての生活をスタートさせていて前職との関係が近いわけだが、最初の時点でZECTのトップと末端の工作員という裏の顔で顕れた親子だからこそ、最終的には警視総監と平警官という表の顔で親子関係をやり直す必要があるのだろう。

そして天の道を往く人は、やっぱり今日も豆腐を買いに行っている。第一話の登場時がそうであったように、天道総司はいつでも妹たちに喰わせる朝飯を作る為に美味い豆腐を買いに出ているのである。それは、どんな時でも朝は必ず来るからであり、朝が来たら美味い朝飯を喰って一日を始めるのが天の道だからである。

だからと謂ってフランスまで豆腐を買いに行く必要など微塵もないが。

まあ、終わることだけはちゃんと終わったんだから、オレ的には以前の白倉ライダーに比べて如何ばかりも悪い番組ではなかったということにしておこうか(笑)。

このような考え方自体は、満更嫌いではないのである。少なくとも訳知り顔で「人は成長などしない」と言い切って終わる物語よりも、多少思束なげではありながらこのようにおずおずと語り終える物語のほうが格段に信じられるとオレは思う。

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コメント

でも先生。生簀編でワームは味覚も優れてるって言ってるんですよ(笑。
<ささやかなつっこみ

このエントリの要旨自体はまったく異存ありませんが、
つっこんでいただいた三島絡みで少しだけ自分のところに追加しました。
前の発言の補足程度のことですけど。

あっちにも書いてますけど私の三島周りのとらえ方って
非常に黒猫亭さんのいう「白倉ライダー」的で
描かれ方はどうあれ、そこにもっとも面白みを感じるのは、
自分の好みがとことんそこだってことなんですかねw。

投稿: quon | 2007年1月27日 (土曜日) 午前 03時16分

大変良いところにお気附きになられましたね(笑)。

オレも生簀編でワームが味覚的に優れているということが言われている以上、普通に考えたら人間とワームはわかり合えるという話になるのが論理的に言って当たり前の作劇だろうと思うんですが、あの話が素敵なのは、quonさんがレビューされたように、人間体での料理勝負が終わった途端に問答無用でワームに変身して襲い掛かってきて、問答無用のライダーキックで爆殺しちゃっているところで、ああトシキ様って豪快でステキ、とうっとりしちゃったんですが(木亥火暴!!)。

あの辺がやっぱり米村の芸風と違うんでしょうね。とにかくこれはライダーなんだから最後にワームと殴り合うのは当たり前だろう、尺も限られてるんだしドラマは人間体の芝居で終わってるんだから、いきなりバトルでいいじゃん、という割り切りが井上敏樹にはあるんだと思うんですが、その辺米村先生はラストで生簀と天道が実力で対決するような劇的雰囲気を用意しなければ気が済まなかっただろうな、と。

真面目に言うなら、やっぱりこの物語は途中でネイティブという存在をでっち上げるのではなく、飽くまで人類とワームそれ自体が和解しなければ最善の物語として整合するものではないはずなんですね。そのワームにカギカッコを附けてネイティブとして仕切り直すのは、やっぱり次善の策でしかないだろうと思います。

神代剣のワーム=人間の二重性の設定も、それを礎として人類とワームそれ自体の和解が描かれなければ最大限に効いてこないはずなんですよ。現状、何となくテーマ的にぼやけて見えるのは、最終クールでバタバタと描かれたワームと人間の愛の悲劇というのが、直接ワームとの和解に至らず、ワームの殲滅という悲劇に終わっているからだと思うんですね。その意味で、勿論この物語が味覚のロジックだけで成り立っているわけではないというのは当然で、ライダーの闘争の直接対象であるワームと、これまでの恩讐を忘れて和解するなんてのはリアルじゃないよな、直接ワームとの和解が描ける枠組みにはならなかったな、結局直接集合名詞として敵対し殺し合っていない相手との間に平和を確立するのが精々のリアリズムだろう、という感覚もまたあったのだとは思います。

オレ的には個人の悲劇の屍の上に世界の平和が勝ち取られるという物語性それ自体は好きですし、それこそが石ノ森イズムだと思うんですが、トンボとカニの悲恋、サソリと岬犬の悲恋が、結局人類とワームの和解をもたらすことがなかったために、何の為に描かれた悲劇なのかがわかりにくくなったと思うんです。

この辺、戦隊だったらバンドーラ一味が封印はされたけど滅ぼされることもなく結構楽しげにグリフォーザ親子を囲んでいたり、星を花火にするのが趣味の極悪人だったはずのボーゾック一味が人間社会に溶け込んでハッピーエンドを迎えたりするわけですが、著書でボーゾック一味の描き方を槍玉に挙げて批判している以上、そういう安直な割り切りが出来ないのが白倉Pのメンタリティという奴ですね(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2007年1月27日 (土曜日) 午前 04時45分

こんばんわ。こちらでは初めまして。
えーと、クウガで瞠目して以来、結構真面目にライダーは見てきたのですが、正直白倉Pの作物には食傷気味だったのです。今年は出だしこそハードボイルドでしたが、剣のエピ以前にトンボでめげましたw

なのに、きちんと終わりを指向したこの最終回は?
私は加賀美のような見えてはいなくても何かをしたくて足掻く人間に好感を持ったので、正直今年の殆どに渉って彼が貶められたのはイヤwだったんですが、ヒラ警官の彼を父親が見やるあのシーンがお約束でありながら十全以上に情感を伝えているのを見て、この一年は一体何だったのか、虚しさを新たにしておりますw

まあ、最終回の逆転ホームランというと、言わずとしれた「セラムン」だったりする訳で、いつまでもあの23分の奇跡について語られるコトを待っているのですw 象は忘れないと申します。いずれ白倉Pのある時期の到達点として、これが総括されてほしい、そう願っています。

投稿: shof | 2007年1月27日 (土曜日) 午後 11時47分

shofさん、いらっしゃい。今日は来客があったので、ご挨拶が遅れてすいませんでした。

やっぱりあなたもそう思われましたか(笑)。その辺については、先にいらしているquonさんのところでも詰めたお話をしていますので、好かったらTBを辿ってみてください。まあ、結局いつもの白倉節だったねという言い方も出来ますが、頭とお尻だけでもこれまでの作品からの進歩が視られるというのは、やっぱり基本的に真面目な人間だからだと思うんですよ。そんなに嫌わないで、生暖かく見守ってあげませんか?(笑)

それから、一応牛縄については、全編完結を目指して営為努力しておりますので、最終回についても必ず何らかの結論は出しますからご安心ください。問題は、それがいつになるかオレ自身にもわからないというだけのことですので(木亥火暴!!)。

投稿: 黒猫亭 | 2007年1月28日 (日曜日) 午前 02時52分

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