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2007年1月29日 (月曜日)

DEN-O 01

ちょっ、おまっ(w それなんて戦隊?

というわけで「仮面ライダー電王」の第一話が無事放映されたわけだが(って、そうそう無事じゃないことなんてあるわけがないが)、まあ全体的なテイストについては龍騎リターンズという印象で、話法的には戦隊的なリアリティという印象を覚えた。

従来の平成ライダーは、基本的にはウェットなシリアス路線でそこにデジタルなギャグテイストが暴力的に襲い掛かってくるというパターンだったのだが、この番組のように最初の最初から奇妙な明朗調を提示したライダーというのは、響鬼くらいではなかったかと思う。ただ、響鬼の明朗調というのは旧時代のホームドラマ的な健全性を意図的に狙っていたわけだが、電王の第一話から感じたのは戦隊的な文脈の明朗調である。

ライダーと戦隊を隔てる最もベタな要素というのは、着ぐるみキャラの芝居をドラマに織り込むか否かという部分だと思うのだが、そのように言うと「ライダー怪人だって芝居するじゃん」と不審に思う方もいるだろう。

だがちょっと待って欲しい(笑)。

これまでのライダーにおける怪人側のドラマというのは、基本的に人間の役者芝居で成り立っていたということには誰も異論はないだろう。

トンボとカニワームが恋仲になるという筋立てがあるのなら、カニワームというのは端的に言って擬態された間宮麗奈とそれを演じる三輪ひとみのことであって、着ぐるみ怪人のカニワームではない。神代剣だって、誰もサソリワームをイメージして剣を視ている視聴者はいないのだし、ドラマ的意味性においても神代剣とは擬態された神代剣やそれを演じる山本裕典であってサソリワームという着ぐるみ怪人ではない。

つまり、ライダーの芝居的なドラマ性の中には「着ぐるみキャラ」というものは存在しないのである。たとえばオルフェノクという存在が基本的には人間とイコールだったとしても、ライダーやフェノクという着ぐるみキャラ同士の対話は、原則、影に合成された素面の人間同士の対話として表現されていた。

これは要するに、従来のライダーのリアリティレベルにおいては、TV特撮のレベルの造形の着ぐるみが人間と同等の演技的リアリティを演じることは出来ないという認識に基づくものだろうと思う。

几帳面に考えるなら、CGでも使わない限り口元も動かないし表情も変わらない着ぐるみ怪人が、普通の人間と同様に人語を口にして会話を演じるというのは不自然窮まりないわけで、テレパシーで喋っているという設定でもない限り人間のような意味での発声器官は不必要なわけである。そんな着ぐるみ怪人がスーツアクターの熟練の身振りの演技で恰も本当に喋っているように見えたり表情芝居の陰翳があるように見えるのは、要するに「見立て」のリアリティなのである。

平成ライダーの芝居のリアリティは、この種の「見立て」のリアリティとは別次元で成立しているところがあって、人間のキャラクターもアニメ的に記号化することなくかなりアクチュアルに肉附けしている。そのようなアクチュアルなライダー芝居のリアリティにおいては、精々着ぐるみ怪人は動物のように唸ったり吠えたりするくらいでちょうど釣り合うのであり、剰り長々と着ぐるみ同士がセリフによる芝居場を演じるようでは、そのベースとなる劇的リアリティにそぐわない。

しかし、戦隊のリアリティにおいては、着ぐるみ芝居が人間の役者芝居と同次元で存在するのであり、戦隊的リアリティの他愛のなさというのは、言ってみれば着ぐるみや吊り人形と人間の芝居が同次元で並立するような「見立て」のリアリティに基づくものだと言えるだろう。勿論それが価値的に何うだとかこうだとかというような話をしているのではない。戦隊とライダーでは、語るべき内実の要求するリアリティが異なるというただそれだけの極普通の話である。

たとえば人間とモンスターの恋と一口に言っても、ジェットマンにおけるマリアとグレイのような描き方もあれば、シャンゼにおけるエリと黒岩や暁とジローのような描き方もある。まあこの場合、夫々の俳優の演技力という変数的なファクターを抜きに言っているわけではあるが(笑)、普通のナリをした人間同士の芝居として描くか、変な被り物や着ぐるみ同士の芝居として描くかでは、やはり見え方が絶対的に異なるのである。

電王の話題に戻るが、この第一話を視て驚かされるのは、これまでの平成ライダーでは人間体の存在する怪人は人間体を演じる役者が声もアテていたわけで、設定的に視てもそれが正しい筋道であるわけだが、電王におけるイマジンは憑依される人間とは別の存在であり、随って人間体の役者とは別の声優が演じる独立した着ぐるみキャラであるということである。この先、イマジンの本来的実体として未来人が登場したとしても、それとは別の劇的存在である着ぐるみキャラのイマジン怪人という実体は存在し続けるわけである。

些細な趣向面の違いのようだが、これはかなり大きなリアリティレベルの違いをもたらすはずである。そもそも電王の基本設定では、人間が怪人なりライダーなりに変身するわけではなく、イマジンというエネルギー体もしくは思念体が人間に憑依した結果、ライダーや怪人として実体化するわけで、だとすればイマジンという存在の本然的実体に当たるのは、憑依された人間の童話的イメージに基づいて造形された着ぐるみであり、それに声を当てるイマジン役の「声優」のアテレコ芝居なのである。

これまでの平成ライダーで、こんなリアリティの存在が前面に立って芝居を演じることなどはなかったと記憶している。グロンギは何うやら人間が何らかの超古代科学で怪人に変身したものだし、アンノウンは各エルを除いて現代語を話せないし、エルを含めて人間との間でドラマを演じる存在ではなかった。ミラーモンスターは文字通りの凶暴な怪物で人語を解する存在ではないし、前述の通りフェノクは人間そのものだからこそ人間の役者が前に立ってドラマを演じていた。

剣は後半観ていないからアンデッドの描き方が何うだったかは正確には覚えていないのだが、芝居の観点ではフェノクと扱い的にさほど変わらなかったように思う。魔化魍も基本的には大型の猛獣だからそもそも芝居などはしないし、童子・姫コンビや身なりの良い男女や傀儡たちはどんな劇中設定が施されていようとも、芝居の実態面の観点では普通の人間なのである。

要するに、少なくとも人語を解するだけの知能があって、素面の人間と芝居を演じるような着ぐるみキャラは、これまでの平成ライダーには存在しなかったのである。それ故に、従来の平成ライダーのリアリティで電王を描くとすれば、イマジンがエネルギー体として現代に襲来し、憑依した人間のイマジネーションに基づいて怪人として実体化するという設定は採用しなかったはずである。

普通に未来人が現代にタイムトリップしてきて、何らかの科学力や世界原理に基づいてモンスターに変身するというパターンになっていただろう。簡単に言えば、タイムレンジャーのシリアス版である(笑)。

そのタイムレンジャーは、寧ろディフォルメされた着ぐるみキャラが不釣り合いなくらいシリアスな芝居を演じる奇妙なリアリティの戦隊だったわけで、短足のクジラが直立したようなでっぷり肥えたマンガ的なキャラクターを、ベテラン声優の大友龍三郎が重厚で凄みの利いたアテレコ芝居を一切ギャグ抜きで演じるという、何う受け取ったものか戸惑うような芝居のリアリティであった。

但し、如何に貫禄があろうとも大友龍三郎はアニメや洋画の畑で声の芝居を演じる専業者であって、その演技は顔出し芝居のリアリティではないという辺りが、戦隊的な着ぐるみキャラの文脈に納まっていたと言えるだろう。

要するに、着ぐるみキャラというのは基本的に声優が声を当てるものであり、多くの場合着ぐるみキャラの芝居のリアリティというのはアニメのリアリティであることなど、更めて指摘するのも莫迦らしいほどに当たり前の話である。

平成ライダーが忌避してきたのはこのようなアニメ的なリアリティだったはずで、声優が洋画やアニメで演じるような虚構度の高い演技が、素人に毛の生えた程度の新人俳優によって演じられる(結果的に(笑))アクチュアリティの高い演技によって成立する芝居のリアリティにはそぐわないという作劇認識があったはずである。

これがキャスティングの経済性という現実的な理由から導き出された智慧なのか、それともそれとは別の理由に基づくリアリティの嗜好なのかは定かではないが、まあありそうなのはその両方が上手い具合に釣り合ったというところだろう。これまでは、そのような演技的リアリティの相違がSHTの二本の番組の色を分けていたと言えるだろう。

着ぐるみと人間が分け隔てなく語り合いドラマを演じるリアリティと、飽くまで現実に存在するようなアクチュアリティを具える人間同士の間でしかドラマが演じられないリアリティ。賺して言えばその相違とは、人形浄瑠璃のリアリティと世話物歌舞伎のリアリティの相違である。

その平成ライダーでイマジンのような怪人設定が罷り通る以上、語りのリアリティが変わってくるのも当然である。さらに、怪人のみならず電王サイドの設定もまた、従来のライダーにおいては変身アイテムや世界原理が現実離れしているのみで主人公サイドの人脈はすべて普通の現代人なのが通例だったが、電王においてはライダーとイマジンの戦いに絡む組織的人脈が未来人という現実離れした絵空事の存在に設定されている。

秋山莉奈が演じるナオミなど、見た目はファイズのスマートレディのバリエーションに見えるのだが、スマレが奇抜な身なりをしているのは、劇中のスマートブレインという企業が自社のマスコットキャラクターとして「コスプレ」をさせているからである。つまり、本来的な意味でいえば普通の現代人がああいう妙なキャラクターにコスプレしているという設定の劇中存在であって、見た目のコスチュームの奇抜さが顕わすようなアニメ的リアリティに基づく存在ではない(スマレのアタマの中に限って言えばアニメ的かもしれないが(笑))。

しかし、電王のナオミが妙な恰好をしているのは、何時とも知れぬ未来に属する人間だからであるか、もしくはデンライナー職員の制服だからである。要するに、イマジンが裏も表もない着ぐるみキャラなのと同様に、裏も表もなくあのような身なりの劇中存在なのである(単に当人の趣味だといううっちゃり技も当然アリだが(笑))。

変身アイテム及び怪人を成立させる世界設定以外は極力現実社会のアクチュアリティを強調するという従来のライダーの劇的リアリティから考えれば、電王の設定はたしかに剰りにも大胆な平成ライダーの自己変革であり、ライダーのそれというより戦隊のそれに近いのである。

さらにテレ朝公式サイトの情報によれば、イマジン怪人の暴走体としてギガンテスという巨大化システムも設定されているようで、これを迎え撃つのにデンライナーが変形合体して巨大ロボになるというのであれば、戦隊と何処も変わらないということになってしまう(笑)。ギガンテスへの電王サイドの対抗手段は今のところ公式には伏せられているようなので、これは来週以降のお楽しみということになるだろう。

別に、それだから平成ライダーとして何うだとかこうだとか教条的なことを云々するほど、オレは平成ライダーに義理などはない。白倉P自ら言う通り、平成ライダー自体が昭和ライダーのアンチであり裏の裏は表なのだから、平成ライダー原理主義などという変梃子な代物がもしこの世に存在するとしたら、滑稽窮まりのない話である。

それよりも問題なのは、常にライダーと半月前後のズレを伴ってスタートする為に未だ全容が掴めない新戦隊のほうのテイストは何うなのかということである。今年の新戦隊が「いつも通り」の語り口で企画されているのであれば、戦隊とライダーの話法上の相違はほぼなくなってしまい、つまり、戦隊が二本続けて放映されるような編成イメージになるわけで、これは主要視聴層の観点から視れば明らかに諄い。

ここでゲキレンジャーのほうが非戦隊的なシリアスなリアリティの戦隊としてスタートすればかなり面白い転倒になるのだが、白倉Pと塚田Pがかなり以前から結託してそんな悪戯を企んでいない限り、そんなにベタな連携プレーはないだろうとは思う。

だがまあ、東映が一社で制作するSHTという一続きの放映枠として成立しているのだし、そっちはそっちでご勝手にということもないだろうから、それなりに連絡はあるのだと思うが、何ういう見え方になるのかはゲキレンジャーが始まってみないとわからない部分である。

それ以外にはまあ、さして例年と変わったところもないだろうと思う。カブトの水嶋ヒロは天道総司という色物的なキャラから考えれば案外の拾い物だったし、基本的に平成ライダーのキャスティングセンスは好みではないオレもカブトのキャストは全般に好きだったのだが、今年の佐藤健や白鳥百合子まあまあ普通というところである。

意図的なものか何うかは識らないが、主人公が史上最弱の少年ライダーということでそれとの対照を狙ったものか、ヒロイン白鳥百合子のごつい柄が凄いと思ったが、倒れ込んだ良太郎に手を差し伸べるという芝居で、小柄とはいえ大の男を小揺るぎもせずに助け起こしている絵面にかなりインパクトがあった(笑)。

メインライターが萌えより燃えの小林靖子ということで、剰りヒロイン萌えは期待出来ないのでその方面はスッパリ諦めて(笑)、まあ男気溢れるヒロインとして燃えの描写を期待するのが正解だろう。

それよりも、ナオミ役の秋山莉奈のほうが白倉作品のキャスティングとして視れば面白いと言えるだろう。常々正攻法のお色気サービスは照れくさくて出来ないと発言している白倉Pだが、嘗てアギトで一年間附き合いのあった秋山莉奈は、今や美尻アイドルとして押しも押されもせぬお色気人材であるわけで、彼女がそっち方面で売り出したときはかなりショックを受けたようなことを何処かで言っていた(笑)。

たしかにアギトの風谷真魚役はどちらかと言うとご清潔な美少女という役どころで、劇中でテニス部に入部した際にはヒラヒラスコートで駆け回るような視聴者サービスも期待したのだが、何だかもっさいデザインの露出度の低いテニスウェアでガッカリした覚えがある。

あの頃の秋山莉奈は、色白で整った顔立ちのU15系アイドルで、オッサンの不埒な妄想を許さないような清潔感があったことはたしかだが、現在の売り方を考えればあの頃の出し惜しみは何だったんだと釈然としないものがある(笑)。

山崎潤や弓削智久のように、ある程度連続的に出演している所謂ライダー人脈の役者連と違って、秋山莉奈はアギト一本でライダーを離れて、まあ言ってみれば世間の荒波に揉まれて泥水も呑んで、その結果美尻アイドルとしての今が在るわけである。

オレもアギト以降の秋山莉奈の仕事は時々目にしているのだが、とにかく仕事に恵まれなかったという印象で、TVドラマの脇にチョコチョコ出た他は、円谷のダメOV企画「オタスケガール」だの「ゾンビ屋れい子」だのという何う考えても売れるわけがない仕事ばかりしていた。一般的にはアギト以降から二〇〇五年辺りまでが秋山莉奈の低迷期と視られているようで、とにかく何をやってもパッとしなかったらしい。

偶々何かの撮影のときにカメラマンから尻のきれいさを褒められたのがきっかけで積極的にグラビア系として売り出すことになったらしいのだが、それまでは厚ぼったい尻の形がコンプレックスだったと語っている。顔立ちや肌の質から視ると西欧の血が混じっているのではないかという気もするし、それなら成長に伴って腰回りに集中的に肉が附いてくるのは体質的に仕方がないのだが、プロフィールで公開していない以上はプライバシーの範疇の事柄ではある。

まあ白倉Pにしてみれば、十代の頃のビスクドールのような清楚な美少女が、ちょっと見ない間にTバックのお尻をこちらに向けてにっこり微笑むお色気さんになっていたのは当然ショックだろう。喩えは悪いが、中学校の教師が出来心で借りてきたAVを視ていたら、主演嬢が嘗ての教え子だったという感覚ではないだろうか(笑)。

勿論、パーツフェチ的な売りのグラビアアイドルだって立派なお仕事だが、直接男性の欲望に応えて女を売るような仕事というのは、やっぱり身内の女の子にはやって欲しくないという勝手な願望があるものである。まして清楚な美少女だと思っていた女の子の崩れた肉感的な媚態が野卑な衆目に曝されているというのは、ロマンチックなオッサンにはかなりきっつい現実である(笑)。

昨年のボウケンにもゲスト出演していたから、事務所サイドの方針として再びこっちで売ろうという思惑があるのかもしれないし、当の秋山莉奈以降、ライダーのキャスティングにはかなりキリンプロが喰い込んでいるという現実もあるわけだが、穿った見方をすれば、美尻一本で売るのも限界があるだろうし、また一年役者で頑張ってみないかという白倉Pの親心だったりすると美しいストーリーだなぁと思わないでもない。

最近の特撮誌の座談会で剰り脈絡もなく秋山莉奈に触れていたこともあって、美尻で売れた直後からもう一度ライダーで使おうと考えていたのだろうとは思う。それはまあ、無粋な見方をすれば、秋山莉奈の知名度が上がったから、もう一度お礼奉公でライダーをやらせているという見方も出来るわけだが、白倉ライダーの原点であるアギトのヒロインを演じた少女に対して相応の感傷もあったのではないかと邪推する。

六年経てば清楚な女子中学生も大人の女になって尻を丸出しにするわけで、この辺も最近当ブログで話題にしている本人の自己認識と関わってくる問題ではあるだろう。人はいつまでも若くはいられないのだし、本人に歳をとった実感がなくても、嘗て思い入れた少女が大人になることで、否応なくそれを思い知らされてしまう。

その辺の葛藤がナオミの中途半端なお色気コスに顕れているように視るのは勿論オレの僻目だが(笑)、白倉P個人の心情の忖度から離れれば、このような感慨が生じるのはやはり平成ライダーが歴史性の萌芽を具え始めているからだと思う。清楚なU15アイドルから美尻グラビアアイドルへの脱皮というのは秋山莉奈の個人史にすぎないが、個人に歴史が生じる程度のスパンの時間というのは、やはり歴史を醸成するのである。

そこで秋山莉奈の起用という点的な選択から、平成ライダーの歴史性というマクロな問題性が垣間見えてくるのである。

たとえば、個人の発意の自然な表現として一連の作品を語り得る裡は、一繋がりの現在に属するのだろうと思う。平成ウルトラで言えば、ティガからガイアまでのMBSウルトラの流れは一繋がりの現在に属する時間の問題だったと思うのだが、間にコスモスという個別のムーブメントを経て、NプロジェクトのネクサスからCBCウルトラのTVシリーズが再起してメビウスに続くという地点までを鳥瞰する場合には、歴史の文脈の時間感覚が生起してくる。

MBSウルトラを平成第一期、CBCウルトラを第二期と位置附けるような平成ウルトラの歴史性が生じるわけで、そのCBCウルトラの最終作となってしまったメビウスにおいて、平成ウルトラに昭和ウルトラを包含する歴史性が意識されているのは、ウルトラ全体の歴史性を鑑みる場合、非常に美しい論理であると言えるだろう。

それを平成ライダーで言えば、クウガからファイズまでが一繋がりの現在で、それが歴史性を具えるに至る契機はカブトであったとオレは考える。高寺ライダーのクウガを起点として第一期白倉ライダー三部作が続き、この時点で平成ライダーの「現在」は最高潮に達したのであり、ネット上の情報を真に受けるなら、本来ファイズ終了直後に高寺ライダーのリベンジである響鬼が続き、その後にブレイドが構想されていたという順序になるはずなのだが、諸般の事情からこれが逆になり、ブレイドも響鬼も視聴率的に苦戦を強いられる場面が頻出した。

そのどちらも、たとえば會川昇や白倉・井上コンビなどのホワイトナイトが登場して後半を盛り返したわけだが、クウガから続く一繋がりの現在はここで終焉してもおかしくはなかったわけである。それ故に、東映が響鬼で平成ライダーに幕を引いていたら、それはクウガから続く一連の現在、つまり特撮史というもう一つ上の階層の歴史性の中の点的個別事象として終わっていたことだろう。

響鬼・高寺問題が影響する「現在」という時間のスパンを考えれば、当初の構想通りに響鬼→ブレイドの流れになっていたとして、現実にそう在るような響鬼問題がその時点で発生していたのなら、ライダーはブレイドで一旦打ち止めという芽もなくはなかったわけで、カブトの制作は未然の可能性に留まっていたわけだが、現実にカブトが制作され電王も白倉Pが手掛けるという流れになった以上、それは最早歴史なのである。

何故なら、クウガで現場を追われた高寺Pにとって響鬼はクウガから続く現在の時間性の埒内に在る作品だろうし、それは初めてライダーを手掛ける日笠Pにしても同じことである。当時の噂では、ほぼ総ての東映特撮枠に携わった日笠Pが今後管理職に昇格して一線を退く花道として、未だ手掛けていないライダーを一本だけ担当したのではないかと言われていたのだが、問題児の高寺のお陰で予想外に大変な作業になったという観測に落ち着いているようだ。

その意味で考えれば、クウガから続く平成ライダーは響鬼→ブレイドという流れで一旦終了していてもおかしくはなかったわけで、第一期白倉ライダー三部作を最盛期と位置附ける平成ライダーの「現在」は、高寺リベンジ、日笠勇退という人的な括りの試みが一渡り廻った段階で終わりを迎えるのである。東映特撮においてライダーをつくれるほどの人材が一渡り自分の抽斗を出し切った段階で、点的個別事象としての平成ライダーは一旦終わったのである。

カブトを平成ライダーの歴史性生起の契機と位置附けるのは、その意味で一旦すでに自身の抽斗を出し切った最盛期の立て役者が、平成ライダーを自己意識化して自己再生産の試みを始め、それが電王へ継続したからなのである。

それはつまり「仮面ライダーという観念」を核とした個々人の発意の流露の場としてかりそめに平成ライダーという結節点があるのではなく、平成ライダーというシリーズが目的的に継続すべきであると考えられているということで、だからこそ、すでに個人の物語性を語り終えた白倉Pが平成ライダーシリーズ継続の方図を手法的に模索するという形になるのである。

秋山莉奈に関連して触れたように、白倉ライダーで山崎潤や弓削智久を起用するということは、単にアギトや龍騎という「現在」の時間において循環していた人的なストレージが踏まえられているというだけの話だが、アギトしか関わっていない秋山莉奈がいろいろな個人史を刻んだ上で再びライダーに復帰するという流れは、「現在」の連続性の埒内で考えるべき事柄ではないだろう。

そのような歴史性の意識で考えれば、カブトが「過去の白倉ライダーの二番煎じ」と揶揄されたことも、過渡的な意味では別段否定的に評価することではないのだし、白倉Pの一つ節的な要素が俗化して扱われることも慨嘆するには当たらないだろう。

たとえば電王でも、モモタロスの見かけが昔話の赤鬼であるのは、別に響鬼に対するイヤガラセというわけではなく(笑)「桃太郎は鬼ヶ島に流れ着かなかった鬼であり、桃太郎の鬼退治は両義的なヒーローによる同族殺しである」という白倉Pの一つ節を意匠として俗化して織り込んだだけの話である。

イマジンの一人として現代に送り込まれ、偶々特異点である良太郎に憑依してしまった為に仮面ライダー電王として同族のイマジンと戦うモモタロスは、将に「鬼ヶ島に流れ着かなかった鬼」であり、モモタロスの憑依によって成立する電王の戦いは「両義的なヒーローによる同族殺し」そのものである。

この辺は、白倉Pの著書「ヒーローと正義」の拙い理論化を超えて「石ノ森ヒーローのスタイル」を受け継ごうとする彼の一つ節の装置でもある。以前触れたように、白倉Pはカブトの特写写真集のインタビューで、そのような石ノ森ヒーローの在り方をTV特撮でストレートに描くことは困難だが、何とかそのエッセンスくらいは伝えたいと語っていて、その意志はモモタロスの設定にも視ることが出来る。

要するに、白倉Pは石ノ森ヒーローの類型を「同胞殺し、父親殺し」の文脈で捉えているわけで、これまでオレが語ってきたような白倉文芸観の根底には、そのような血腥い石ノ森ヒーロー観があるわけである。その意味でモモタロスは最初の最初から裏切り者の同胞殺しであり、電王の存在意義から考えれば何れはイマジン勢力全体の首魁、即ち自身の父親を殺すべきストーリーを担わされているわけである。

白倉Pはそのようなストーリー自体を本来的なヒーロー物語の主軸と認識しているわけで、前掲の著書冒頭における桃太郎論は要するにそれを表現するための牽強付会的プレゼンテーションである。ライダーは本質的にショッカー怪人なのであり、醜い機械仕掛けの化け物である自身を生み出したショッカー首領を倒すという「復讐」を果たすことがライダーのヒーロー物語なのである。

それが本来的なヒーロー物語の王道であると主張したいという動機で、桃太郎の物語は両義的なヒーローの同族殺しの物語と意味附けられたのである。しかし、嘗てはそれが白倉Pにとってシリアスな問題性だったとしても、今はすでに意匠面の問題であり物語類型の問題に過ぎないのではないかと思う。

モモタロスとイマジンの同族性は怪人を成立させる為の世界原理のレベルのものにすぎないのだし、それを言い出したら人類皆兄弟というレベルの話にしかならない。緩い意味での悪漢の野合でしかないイマジンという勢力が同床異夢の他人同士であるというのは当たり前の話だし、モモタロスとイマジンを兄弟視するのは視聴者視点の意匠面の問題でしかない。

目先の暴力的センセーションを求める為にイマジンに荷担したに過ぎないモモタロスをイマジン組織の裏切り者と規定するのは、組織内のアクチュアルな都合の問題にすぎない。たとえばキカイダージローがダークロボットを己の同胞と視るような、プロフェッサーギルを光明寺博士と同格の邪悪な父性として視るような観点の問題性は、この設定では生起しようがないだろう。

この物語では、すでに白倉Pという個人が石ノ森作品に受けた影響下に育んだ物語性は一個の意匠の次元に客体化されている。

では電王の本筋の物語性は何かと言えば、やはりメインライターの小林靖子のそれであることを期待したい。ウィキによれば、白倉Pは今回小林靖子の起用に関して「時間・歴史改変をテーマにする以上、構成はどうしてもややこしくなるし、設定の把握に頭を使う。小林さんなら上手くまとめてくれると思った」と語っているようで、たしかに緻密な辻褄合わせを要求される物語には打ってつけの人材ではあるだろうが、それはカブトの米村正二にも当てはまることだろうし、では何故またしても小林靖子でまたしても時間・歴史改変をテーマに据えた物語なのかという疑問が残る。

オレの鑑定としては、電王が歴史改変テーマなのは、メインライターが小林靖子だからであってその逆ではない。次のライダーは小林靖子をメインに、と決めたから白倉Pの中の必然として時間・歴史改変というテーマが立ち上がってきたのだと睨んでいる。

それは一種龍騎リベンジということなのであり、タイムレンジャーリベンジでもあるのだろう。時系列的なことを言うのなら、井上敏樹の推挙があったとしても白倉Pが龍騎の時点で小林靖子でライダーが出来ると考えたのはおそらくタイムレンジャーの仕事を視たからだろうし、メインが小林靖子だったから龍騎はパラレルワールド物としての全体的骨格を具えるに至ったのだと推測している。

その種のややこしいロジックを整合的に語るためには、たしかに小林靖子的な資質が必要なことはたしかだが、それは他に代替可能な資質ではあるだろう。龍騎の時点で白倉PがSFホラ話的なタイムパラドックス・パラレルワールドオチ的な関心から小林靖子の資質を買っていたのだとしても、龍騎からセラムンへの流れにおいて、書き手としての小林靖子には別の期待を寄せるに至ったのだと思いたい。

以前語ったように、龍騎の時点では自身の気の利いた構想を整合的に実現出来る書き手として小林靖子を視ていただろう白倉Pも、セラムンにおいては文芸の人としての小林靖子の資質に完敗を喫したと言っても好いだろう。セラムンにおいては、明らかに小林靖子の文芸性やそれを受けた演出陣の技倆こそが得難い価値なのであって、白倉Pのコンセプトワークやシリーズ構成術には何ほどの魅力もなかったのだし、結果的に後半の流れでは白倉的イデアが前面に出たことがシリーズ全体の物語性に対してネガティブな効果を及ぼした。

その認識において再び小林靖子を起用して、再び時間・歴史改変テーマに挑むのであれば、それは自身のコンセプトワークの容れ物として終始した龍騎を、小林靖子の文芸性を前面に立てたシリーズとして語り直すという目論見があるのではないか。

だとすれば、仮面ライダー電王とは、タイムレンジャーと龍騎とセラムンがコンデンスされたような物語世界を目論むシリーズとして見えてくるわけで、たとえばカラフルな怪人デザインや「契約」という概念などに見える龍騎要素や、イマジンが憑依する個人の物語を挿話の単位とするシリーズ構成術などにその辺の構想が伺えるのではないか、オレはこのように期待しているわけである。

それが引いては、ファイズの物語性の余韻が零れ出すことでスポイルしてしまったセラムンの豊穣な物語性のリベンジとなること、これがオレの期待の核心である。

その一方で、これがタイムレンジャーリベンジであり龍騎リベンジでありセラムンリベンジとしての試みであるのなら、物語の結末が「リセット落ち」であるのは最早既定事項とすら言えるだろう。

生真面目なSF考証としてタイムレンジャーの何処がおかしいかと言えば、言うまでもなく、彼らの活躍が現代人に周知されていて、ロンダーズ一味の犯罪が時間犯罪ではなく通常犯罪であったことにトドメを刺す。要するに時間犯罪を未然に防ぐという意味で言えばタイムレンジャーの活躍が人々に周知されることは疎か、ロンダーズ一味の犯罪が現在の時制において一定の死傷被害をもたらすことなど言語道断である。

その意味で言えばタイムレンジャーの活躍はロンダーズ一味の「時間犯罪」を防止するどころか積極的に荷担していたとさえ言えるのであり、後半で出て来た歴史改変の是非を巡る問題が莫迦莫迦しかったのは、物語設定がそもそも歴史改変の未然防止という観点からは完全に破綻していたからである。

その意味では、龍騎はそもそもタイムパラドックスの問題性には直接触れず、世界原理としてミラーワールドの万能性を設定することで、直接タイムトリップを正面的なアイディアに据えずにパラレルワールド物を展開していたと言えるだろう。

さらにセラムンではミラーワールドの万能性に替わるギミックとして銀水晶を位置附けて、地球の滅亡を一旦描きながらそれをリセットする装置として銀水晶が発動するという流れになっていたわけだが、銀水晶の発動にそれまでのシリーズ全体のドラマ性が噛み合っていなかった為に、便利な物語装置に堕していた嫌いは否めない。

そして今回の電王の設定を子細に検討すると、歴史改変を未然に防ぐ為には最終的に電王の物語全体を一旦リセットするしかないことは明らかであり、良太郎がハナたちと出逢い、電王として戦う物語全体が最後にリセットされる以外に歴史改変を防ぐ手立ては残されていない。

その意味では、電王の劇中イベント単位の客観的なストーリーラインを整合的に語り終える為の道筋は最初から決まり切っているのである。おそらく、第一話のハナとの出逢いに至る筋立て、つまり自転車が立木の天辺に引っ懸かった時点から不良たちに搦まれるイベントまでをやり直すことで、嘗てそこから始まった一年間のシリーズの物語が丸ごと「なかったこと」にされ、おそらく良太郎の中にも一年間の物語の記憶は残っていないだろうけれど、不良たちと対峙する良太郎の姿勢や行動にのみ一年間の物語を踏まえた明瞭な成長が視られる、そのような落とし所に成らざるを得ないだろう。

この道具立てで誰が考えてもそのような道筋になるだろうし、それ以外に整合的にこの出発点から物語を語り終えることなど出来ないのである。そして、今週から始まった電王という個別の物語がその決まり切った「予定調和」の結論を目指すのか、それともそこから整合性を踏み外してでもダイナミックな振れ幅を目指すのか、そこがこの物語におけるシリーズ構成の見どころであると言えるだろう。

度々引き合いに出している特写写真集におけるインタビューの「予定調和が良いんだろうけれど体質的に得意ではない」というウィークポイントに対する手当てとして小林靖子の文芸的資質がプラスに作用するのか、それともカブトのパターンでアタマとお尻だけがホテルニュー白倉なのか、または全然そんなこと出来ませんでしたという惨憺たるギブアップの結果に終わるのか、まあ白倉ストーカーとしてのオレの興味は、そんなところがメインである(笑)。

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