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2007年1月18日 (木曜日)

Editors

毎度一週ズレでスタートして、連続枠で初っぱなとお尻の喰い合いを回避するという常套的な手法を採る火曜CXドラマ枠であるが、それにしては片や歴史的権威だけはありながら社内のお荷物と化した斜陽の総合誌編集部、片や社内で軽んじられながらも売上の大部分を計上する漫画誌編集部を舞台にしたドラマということで、妙なシナジー効果でも狙っているのだろうか。

言うまでもなく今週から始まった「今週、妻が浮気します」と「ヒミツの花園」の話であるが、二時間続けてクライマックスが編集者の土下座というのは奇妙なシンクロニシティと言えるだろう。この種のシンクロニシティは、確か昨年のSHTでもあったことではあるのだが、その際にCXドラマ枠なりSHTなりを続けて観ている人間が覚える興味というのは、同じような要素がただ単純に同じように語られるのではなく、各々のドラマの性格を浮き彫りにするような対照が視られるか何うかである。

その意味で、毎度毎度のお粗末なトラブルを安直な土下座を十八番にして切り抜けてきた「九州男児」の総合誌デスク堂々ハジメと、おそらく出稿者に土下座する経験など初めてだろう北関東出身の「新人」漫画誌編集マン月山夏世の間で、同じ土下座をするのでも劇的対照が設けられていることは事実である。

普通なら十八番の土下座と生まれて初めての土下座は、視聴者視点のドラマ性では重みが違うのだから、夏世の土下座が通じてハジメの土下座が通じないという話になるのが自然だろうが、敢えてここに転倒を設けて夏世の土下座にナンセンスなオチを附けているのが、一応の捻りと対照にはなっていると思う。

さらに言えば、ヒミツの花園のほうでは夏世がキャリアを積んだファッション誌については、向上心に欠ける腰掛け編集者のやっつけ仕事が事実上の廃刊という事態を招いたように描かれているが、「今週、妻が浮気します」長いから略して「今妻」のほうでは男性ファッション誌の「Buono」が版元の看板誌として売上を稼いでいる花形部署として描かれていて、設定面においても一種の対照は設けられている。

本来夏世たちの「connu」も順当に売上を稼いでいれば「Buono」同様社内で幅の利く部署だったのだろうが、前回論じたように「残業を先輩に圧し附ける」ようなお気楽OLノリの人材ばかりでは何をやったところでダメだろう。両者の位置附けの差違は偶々場を形成した人材レベルの差ということで、総合誌の斜陽化という全体的な趨勢とはまた別の話である。

その部分の対照を主軸に据えて比較論を論じるのも面白いかもしれないが、ヒミツの花園についてはすでに一度語ったことではあるし、後ほどまた詳しく語る機会もあるだろうから、今回は新番組の今妻に話題を絞って語ってみたい。

さて、劇中の「現代公論」という安直なネーミングは、モデルとしている総合誌をベタに示しているのだが、「中央公論」の場合は看板誌名を社名に直接冠した中央公論新社にはまだ総合誌幻想が残っているようなので、飽くまでも自社の雑誌体系中における年代戦略の一環と位置附けていて、必ずしも総合誌をフラッグシップ扱いしていない講談社の「現代」に近いのかもしれない。

またこの現代公論編集部が、デスクの堂々をはじめ無能そうな連中ばかりで、明らかに社内ではダメ人材の掃き溜めと見做されていることがわかる。まあ、伝統ある大版元の間では総合誌を刊行することがステータスと見做されていた時代があって、七十年代から若者の総合誌離れということが言われ始め、総合誌は版元の歴史的もしくは理念的な体面を繕うものであって利を生む媒体であるとは見做されなくなっている。

そのような風潮にあっても、一九九〇年に「文藝春秋」が一〇〇万部の売上を叩き出したこともあったが、まあこんなのはフロックに過ぎないだろう。必ずしも売れていないから社内で幅が利かないということもないのだが、力の入れ具合は各社の経営姿勢次第の部分ではあるだろう。一概に劇中の現代公論編集部の描き方がリアルではないということも出来ないだろうし、そんなことを気にする視聴者もいないだろう。

しかし、そんな設定面の問題ははっきり言って何うでも好い。この枠のドラマについては前季も同じことを言ったのだが、この枠組みで何がしたいのかサッパリわからない。総合誌編集部の描き方が何うこうというより、何でこのお話の主人公が総合誌の編集デスクでなければならないのか、第一話を視た限りでは全然見えてこない。

事前情報を視る限りでは、このドラマの主眼は謎の相手から妻へ送られたメールを盗み見てしまった夫が妻への信頼と疑惑の間で懊悩するコメディのはずであり、原案となった媒体の性格を考えれば、匿名の質問者に対して匿名の回答者たちがさまざまなアドバイスを送るという道具立ての物語であるはずである。

早い話が、総合誌の編集者という職業面の問題はまったく中心的課題ではないはずなのである。しかし、このドラマの体裁上、エピソードの骨子は総合誌の編集マンが自分の失敗で我から招いたトラブルを相手の度量によって免責されるという曲のない筋立てになっていて、妻の浮気という主題は後景の縦糸として仄めかしの描写が点景されるに留まっている。

それはまだ与えられた題材をどのようにアレンジして使うかという範疇の事柄ではあるだろうが、妻の浮気疑惑という家庭劇と業界物の側面が上手く噛み合っているとは到底言えないだろう。そもそもエピソードの性格自体、編集職でないと成立しない内容とは言えないし、寧ろ一般企業の営業マンであったほうがより普遍的な内実を語り得る筋立てだったのではないかと思う。

さらに、原案の個別性であるOKWEBがラストで漸く登場するので軽々には判断出来ないが、この枠組みの物語に匿名者同士のWEB上での語らいという装置が上手く乗るとも思えない。匿名者同士の語らいにおいては、その人物の現実生活における職業的な立場は中心的な課題ではなく、匿名性の直中において一般論に普遍化されるものだからである。

要するに、総合誌編集部という業界物の性格に過剰なウェイトが掛かっているのが何うにもちぐはぐな印象をもたらすのである。この原案を物語化する場合、必要な劇的要素というのは、予想される妻の浮気という家庭劇のサスペンスとWEB掲示板という相談の場であって、その相談者がどのような職業的日常を送っているのかというのはどちらの要素から視ても最も何うでも好い無用な要素である。

その最も無用な修飾要素でドラマを組み立てているのが何ういう狙いなのかがサッパリわからない。妻への疑惑は始まったばかりだし、それが堂々ハジメにとって最大の関心事であるにも関わらず、それが刺身のツマ扱いされていて、職業的日常の側面で挿話的な骨格をつくっているのが不可解なのである。

逆に言えば、現代公論編集部の業界物という側面で視れば、妻の浮気というイベントは職業的日常とは無関係な家庭の要素が不釣り合いなほどに重視されているように見えるし、職業人の成長物語として視れば、私的な家庭問題という特殊事情で業務を失敗するというのは、職業的成長とは全然無関係な話である。早い話が、堂々ハジメの職業を食品会社の営業マンに置き換えてもそのまま成立してしまう、寧ろそのほうがわかりやすくなる筋立てである辺り、業界物であるべき必然性が全くないということである。

その問題性は家庭対職場という普遍性において生起する問題性であって、そこに総合誌の編集職という特殊性を充てディテールを描き込むのは、作劇の筋道が整合していないのである。寧ろこのような題材を扱うなら、可能な限り特殊性を排した「無名の職場」という一般論に相応しい容れ物でなければ焦点がぼやけてしまう。

そもそも総合誌編集部の中間管理職という位置附けで「土下座が十八番」という営業マン的なキャラにしてしまうのも無理がある話で、如何に社内の窓際部署とは言え、こんな人物を責任者の立場に置くというのは理解出来ない。一応重鎮のベテラン編集マンとして江波杏子の編集長が控えているわけだから、これほど土下座の機会が多い総合誌って何ういう雑誌なんだと首を傾げる。

如何に部下が無能で失敗ばかりしているとは言え、それを最終的に判断して事故や無用な訴訟を回避するのが編集長の仕事である。「売れない」というだけなら、どんなに有能な編集長がいても時代の趨勢ということもあるだろうが、デスクが毎度失敗の尻ぬぐいで土下座して廻っているというのが明らかに不自然なのである。さらに言えば、それを同期の編集マンが他人事のように「恥ずかしくないのかよ」的に嘲っているのは何ういう話なのか理解に苦しむ。

敢えて広告主に楯突くような記事を特集するなら、そこを何う手当するのか突っ撥ねて対立するのかは事前に織り込み済みでないとおかしいし、広告主の業務に抵触することに気附かなかったのであれば編集長のミスだろう。広告引き揚げも厭わずという硬派な姿勢で書かれた記事でないなら、責任者が出向いて理も非もなく謝罪するのは当たり前の話で、それを同僚の編集マンが軽蔑するのは無責任な話である。

さらに、この現代公論という総合誌が売上倍増というコマーシャルベースの成功を目指すのか、硬派な社会的使命の実現を目指すのかが、現時点では窮めて曖昧に描かれていて、それは要するに語り手にその問題に対する興味も関心もないからだというふうに見えてしまう。やはり、語り手の中でもこの物語における最大関心事は、堂々ハジメの家庭に対する気附きの物語や、妻の三枝陶子との間の夫婦愛のドラマであるはずである。

これはもう、業界物としてリアルであるとかないとかという問題ですらない。家族の為なら土下座も厭わないという堂々ハジメの人物設定を語るのに、業界物という容れ物が絶対的に不適当だということである。たとえば今回のエピソードでも、編集者としての職業的成長は個人の公的側面を語るものだし、家族の為に何が出来るかというのは私的側面を語るものであり、公的側面における失敗を私的側面の要素で解決するのは絶対的に整合していない。

そもそも今回メインのトラブルにしたところが、ハジメが妻のことで頭が一杯でさまざまな初歩的ミスや対応ミスを重ねた上で出来したトラブルなのだから、それを解決するということは一方的に相手の温情を期待するという話にしかなりようがない。冒頭の一件のような、公器の使命と広告主との対立という理念的な課題に纏わる問題性ですらないのである。

要するに、「家族の為なら土下座も出来る」と言うハジメの言葉に緒方が理解を示したのは、お定まりの「私には五人の妻と二〇人の子どもがいて」的な惨め臭い泣き言を聞いて、「おまえもいろいろ大変だな」「まあオレにも心当たりはあるから今回は勘弁してやる」的に同情したということであって、職業人としての成長や業界の職業的な理念の問題とはまるで無関係である。

それは要するに、惨めな泣き落としが成功したというだけの話で、本来的な業界物のドラマ性でも何でもない。公私混同と自業自得の失敗を「勘弁してもらう」という冴えない落とし所でしかない以上、職業的な問題を語るドラマ性でも何でもないのは当たり前の話である。

家族を養うためならどんな不本意なことも厭わないというのは編集職であろうが食品会社の営業マンであろうが同じことで、業界物の建前論的な視点から普遍的な泣き落としのぶっちゃけ論にシフトしただけの話である。そんな男が「偉い」「格好良い」というのは、単に一人のお父さんとして視た場合の解釈であり、職業人として視た場合はお話にならない。だったら最初から私的な問題なんかでミスするなよという話にしかなりようがないからである。

たとえばこの場合なら、ハジメ視点の職業的理念上の正義感を貫いた結果、取材対象からパージされるという現実的な障碍が立ちはだかり、それが結果的に他部署に迷惑を掛けるという筋道で土下座が描かれたのなら話はわかる。

しかし、この場合、取材対象から版元丸ごと忌避されてしまったのは、ハジメが私的な悩みから窮めてくだらないミスを繰り返したからであって、職業理念とは何の関係もない。緒方サイドが態度を硬化させたのは、ハジメの職業人としての態度がなっていないからであって、こんなダメ人間を飼っている会社を信用しないからであり、それは職業的な文脈では当たり前の筋道である。

この部分の「てにをは」が絶望的なくらい間違っている。緒方のマネジャーに倣って言えば、初回からこんなロジックの間違った筋立てを語るドラマの職業観など、一切信用出来るはずがない。

ともさかりえが出演してバツイチの編集マンを演じているのが「タブロイド」を想い出させるが、タブロイドで演じた役柄の年齢相応の未来の姿を思わせる役柄であることからも、何うしてもあの種の業界物の「公人としての職業的要諦」を描くニュアンスを感じてしまうが、それと堂々ハジメの人物設定や彼が抱える個別の物語とはまったく無関係なのである。

本来業界物のドラマ性というのは、本音の実態論から出発して建前論に回帰すべき性質のものである。どんな職業にも、公的使命という建前論の部分と個別の現実的な都合という実態論の部分がある。業界物というのは、まず当該職種個別の現実という実態論を一般視聴者がリアルに感じる程度のリアリティで深耕して提示し、そこから業種個別の理念的な使命の重要性を謳う方向性に回帰するのが筋である。

ところが、このドラマでは一応ある程度リアルに総合誌編集部の実態論の部分を描きながら、肝心のエピソードの骨格を普遍的な家庭対職場の文脈で構築し、その落とし所を普遍的な夫・父親の職場における実態論に持って行っている。

たとえば前掲のタブロイドにせよ天海祐希の「トップキャスター」にせよあの「踊る大捜査線」にしたところが、夫々の年齢性別の主人公が、年齢相応の私的な現実と職場が抱える現実的実態に翻弄されながら、自身が帰属する職域が理念的に持つ使命に目覚めていく、もしくはそれを追及するというドラマ性になっているのだが、この今妻の場合には、メインのエピソードの骨格がそれとは全く逆の構造になっている。

主人公が帰属する職域が何であろうが、それは妻子を養うためであって、職業的理念や職業的プライドは重要な要素ではないという話になっている。つまり、そもそも業界物でも何でもない物語的構造なのである。

その思想自体は別段おかしくないだろう。世の中の職業人はすべからく仕事を第一義に考えて働いているわけではないのだし、家族のため、経済的な必要のためというのは現実的な実態論として普遍的な要素である。ただし、それでは業界物は成立しないのだしそもそもその場合は職業の個別事情はぼかして描くべき事柄なのである。

当該職種の個別の実態が刻銘に描かれるからこそ、その個別の職業的理念や使命という建前論が作劇の落とし所の面で重要な要素となってくるのである。個別の建前論を描く気がないのであれば、では、その職種の実態論的ディテールを描き込む劇的必然性は何かという話になってくるのだが、現状ではその必然性が全く見えてこない。

要するに、劇的経済のロジックでは「彼はタクシーを拾ってそのまま帰宅した」と書けば済むところを、「彼は国道○○号線から一本入った間道沿いにある○○煙草店の前の歩道から若干車道に身を乗り出して、折しも通りかかった東京無線の緑色のタクシーに手を挙げた。彼の前を数メートル過ぎて駐車車両が停まっていない歩道寄りの車線に停車した無線番号○○○のタクシーは、駆け寄った彼に自動ドアを開けたが、彼が乗り込むと薄暗い車内灯の明かりの中で振り向いた小太りで初老の運転手は、彼に一瞥を暮れたのみで何も挨拶しなかった。彼が手短に目的地を告げると運転手は無言で頷き、ドアを閉めた。車が発車すると彼は窓外を流れる夜景をぼんやりと眺めながら(以下略)」というふうな塩梅の無駄な細部の描写でしかないのである。

そのような細部が描かれるためには、話法上の必要性や劇的な必然性がなければならないのである。彼がタクシーで帰宅したことに、劇的事実の提示という以上の必然性がなければ、また劇的事実を提示するのにそのような煩瑣な手続を要するような話法上のリアリティでなければ、そんな細部を詳細に描き込むのは無用で退屈な逸脱でしかないのである。

このドラマの劇的リアリティは非常にマンガ的にコミカルで、普通一般のコメディドラマと何ら変わるところはない。それはつまり、抽象度の高いリアリティのドラマであるということで、作劇的に無意味な修飾要素に過ぎない業界物的ディテールをこれほど主眼に据えて語るだけの意味は何ら読み取れない。

エピソード前半において、飛ぶ鳥を落とす勢いを鼻に掛けたイケ好かない連中として登場したBuono編集部の面々が、時代の潮流を作るために目先の売上に囚われず真摯な姿勢で信念を抱いて働いていて、それが売上という結果に結び附いていることが明かされても、それが堂々ハジメの抱える物語性には何ら関係して来ない。

「ああそうなの、意外と真面目な人たちだったのね」という物語とは無関係なみみっちい意外性にしか結び附いていないのである。

今回のエピソードが要求しているような描写の深度というのは、たとえば缶コーヒーで言えば、何ら個別的な特定のない「缶コーヒー」であって、「プルトップ側のリムが少し潰れたジョージアエメラルドマウンテンブレンドのプレゼントキャンペーン期間限定プレミアム缶」ではない。今回の堂々ハジメの筋立てを語るのに必要な描写の深度というのは、何ら個別的な特定も細部の描写もない「職場」であって、「斜陽の総合誌『現代公論』編集部」という個別性や細部は徹底して無用な逸脱である。

それはつまり、物語設定からして躓いているということで、今後これを何うすれば整合的なドラマの枠組みとして描き得るのか、オレにはちょっと見当が附かない。今回のエピソードで提示されたような思想を語り手が持っているのであれば、業界物という無用なお荷物のディテールを、本筋の家庭劇に効果的に絡めることはまず出来ないだろう。

個人的に感じるこのドラマの唯一の取り柄は、石田ゆり子が演じる三枝陶子が割合魅力的だということくらいである。石田ゆり子の主演で世間的に最も印象に残るドラマと言えば「不機嫌な果実」ということになるだろうが、今回も不機嫌な果実で演じた人妻と連続性のある役柄で、あのドラマで演じた大胆な濡れ場を想起してちょっとエロティックなニュアンスを感じる視聴者もいるだろう。

今妻においては陶子の「浮気」自体が確定要素か何うかは縦糸の要素として曖昧に暈かされているのだが、スタイル抜群の美人で有能な職業人であり貞淑な妻であり善き母でもあるという完璧超人として描かれている陶子というキャラは、石田ゆり子という配役と「浮気」というキーワードで、まあ他局の作品ではあるが不機嫌な果実のエロティックなイメージを仄めかしとして籍りているわけである。

元々オレは石田ゆり子自体が好きなので「がんばっていきまっしょい」のコーチ役も好きだったのだが、今回は表面上飽くまで有能な職業人であり清楚な良妻賢母という役柄でありながら、夫がふと覗き見たメールによって意外な内面が仄めかされるというミステリアスな役柄で、これが石田ゆり子の柄に合っていると思う。

この人の女優としての良さというのは、それなりに芝居も出来るし本人のイメージとして清楚で賢そうに見えながら、何となく腹の読めない胡散臭い部分があるというところである。「しょい」のコーチ役はそれこそ何を考えているかわからない曲者という使い方でその柄を活かし、不機嫌な果実では「秘密を抱えた人妻」という使い方で活かしていたのだが、妻の視点の不倫劇として描かれた不機嫌な果実と比べて、今妻では夫視点の不倫疑惑を視聴者に共有させることで、その胡散臭い柄を最大限に効果的に活かしていると思う。

最初の最初に予想した通り、いや、それよりもっと低いレベルで石田ゆり子くらいしか見どころがないドラマ、それが第一話を視た時点でのオレの鑑定である。

ところで、オレが一冊しか刊行されなかった石田ゆり子の水着写真集を初版で買って現在も所有していることを識っている人がもしいたとしても、くれぐれも他の人には黙っていて欲しいとお願いしつつ、今回のエントリーはこれでオシマイである。

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