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2007年1月22日 (月曜日)

仮面ライダーカブト FINAL

おばあちゃんが言っていた。とりあえず最後なんだから、「感想」くらい書いてもいいんじゃないか ってな。但し、普通の意味で物語を観た感想を語るわけではなく、飽くまでオレがこの最終回に接して感じた雑感という意味での「感想」である。

まあ何というか、予想通り余所余所しい最終回だったんではないだろうか。以前語ったように、すでに白倉Pの中ではライダーに対する「個人的な関心」は一度終わっていると視て好いだろう。

その個人的な関心こそがこれまでの白倉ライダーの根底にあった語りのモチベーションだったということはすでに陳べたが、それが終わってしまっていたとするなら、このカブトという番組はどんなモチベーションに基づいて語られたのだろうか。少々長くなるが、思い附く儘に語っていきたいと思うので、暫くお附き合いを願いたい。

過去の白倉ライダーが、偶々仮面ライダーを観て育った白倉伸一郎という個人の関心において語られた「オレライダー」だったのであれば、その個人が自身の関心を完遂した以上は、同じ人間が同じ作業に当たっているからと言って、それは最早以前と同じような「オレライダー」ではあり得ないだろう。

では、何故仮面ライダーカブトという番組は作られたのかと言えば、それは物語を語る個人の関心が終わってしまっていたとしても、物語を観たいと望む不特定多数の関心は終わっていないからである。普通一般の通俗的な大衆娯楽においては、このような個人と不特定多数の間の関心のズレは「拡大再生産」という機序によって調停されるものである。今回は最終回の内容面の話はひとまず措いて、この部分のマクロな観点の話を中心に少し語ってみたいと思う。

たとえば同じSHT枠のスーパー戦隊が何故四半世紀以上に亘って不断に継続しているのかと言えば、「スーパー戦隊」とはトクサツの一ジャンルであって個人の作物ではないからである。その意味で、戦隊の起源を石ノ森章太郎原作で区切るか八手三郎原作で区切るかという論争は、本質的な問題ではないように見えて意外に重要な論点だったと言えるだろう。

そのような長い歴史的背景を持つ関係からか、内容の如何に関わらず幼児番組であるという自己認識を喪わずに延命してきたわけだが、幼児番組であるということは流動的で通時的にある程度均質な不特定の視聴層を想定するということである。その辺の事情は学年誌等に近いわけだが、幼児番組の視聴層は常に不断に代替わりするということであり、固定的な視聴層という想定は主要なものではないということである。

スーパー戦隊という枠組みがどれほど長い歴史を持っていようと、主要な視聴層は常に本来的に初めてスーパー戦隊というヒーロー物語に接するのである。その最初の邂逅から僅か数年でトクサツというジャンル全体から「卒業」するのがスーパー戦隊の主要視聴層であり、その想定において各年の番組コンセプトは成立している。

この場合、幼児層が二、三年のスパンで継続的に戦隊を見続ける以上、少なくともその程度のスパンにおいては意匠面の差異を設けなければならないということになり、またその間も不断に視聴層の代替わりが起こっている以上、マクロな観点においては不断に同じことをやり続けなければならないということである。

つまり、スーパー戦隊という枠組みが長い歴史を生き延びてきたのは、それが自己認識において紛れもなく幼児番組だったからだと言えるだろう。「特撮ヒーローに入れ込んで玩具を買う」という男子児童の行動様式が普遍的なものであり続ける限り、戦隊という枠組みには常に延命の可能性が残されているのである。

そして、さらにこの場合に重要なのは、それが幼児番組である以上、本質的に重要視されるのは意匠面であって物語性ではないということであり、特定の作家性など如何ばかりも重要ではないということである。つまり、日笠Pに出来て塚田Pに出来ないなどということはないのだし、高寺Pに出来て白倉Pに出来ないということもない。小林靖子には出来るが井上敏樹には出来ないということもないし、宮下準一に出来て會川昇に出来ないということもない。

戦隊において重要な人的資質とは、個別の作家性ではなく平準的な制作スキルであるということである。どんな優れた作家性を持っていようと、それが幼児番組である以上は意匠面の差異に解消されてしまうのであり、要求されるのは幼児を乗せられるだけの平準的な語りのスキルであり、幼児が好むような意匠を盛り込めるだけの企画力である。そこに玩具会社のシーズンビジネスに基づいてオモチャを売るための、個別的な方言としてのスキルが加わるということで、戦隊制作の資質面の要求要素は成り立っている。

それ故に、戦隊を作劇面から語ることがモチベーションの面で辛いのは、大人視点における作劇論というのは本来的な意味では重要な要素ではないからである。戦隊という枠組みは、本来幼児番組というかなり特殊なロジックに則って成立している容れ物なのであり、苟もそれが物語である以上は大人視点の作劇論も可能ではあるが、それは戦隊という対象の本質を論じたことにはならないのである。

非常に雑駁に括ってしまえば、幼児番組としての戦隊は本質的に「他愛のないもの」でなければならない。でんでん太鼓や竹とんぼが他愛のないものであるように、幼児の偶像である特撮ヒーローは毒にも薬にもならない存在でなければならないのだし、それでいて子供が入れ込んで楽しめるものでもなければならない。

戦隊という容れ物は、幼児視点でヒーローが格好良くて楽しめればそれが本質的な価値なのであり、挿話の語る思想やテーマやドラマ性は余剰要素でしかない。男児には一生の裡の特定の時点で、そのようなアイドルが必要な時期があるからである。

その意味で、従来の平成ライダーというのはそのお題目通り幼児番組だったのかと言えば、必ずしもそうではなかったのではないかと思う。クウガに始まる平成ライダーの物語性それ自体は、やはり幼児に理解可能なものではなかっただろうし、寧ろアニメやラノベに関心のあるヤングアダルト層にいちばん馴染みやすいリアリティだったのではないかと思う。

視聴率面で視ても、戦隊と比較してライダーには常に数%程度の上乗せがあるが、これは幼児が特撮ヒーローとして戦隊よりもライダーが好きだということを表しているのでは決してないだろう。おそらく純然たる幼児番組としての視聴率の上限値というのは戦隊のそれなのであって、ライダーの数字に上乗せ幅があるのは「それ以外」の層も観るからなのだとオレは考えている。

この想定はつまり、戦隊が対象としているような幼児層の試聴習慣として、戦隊とライダーのどちらが好きでも概ねSHTの一時間枠を見続けるし、そこにライダーから見始める「それ以外」の層が合流するというのがSHTの視聴率変遷の実態だということである。毎分視聴率などの細かいデータから得た結論ではないのだが、一般的に考えてライダーは好きだが戦隊は好きではないから「観ない」という幼児の視聴行動を大勢として想定しづらい以上、そのように考えるのが自然だろう。

これはライダーと対置されるウルトラでもそうだろうが、純然たる「幼児番組」としてのパイの尺度は戦隊のレベルが基準なのだろうし、少なくとも「それ以上」の視聴率は「それ以外」の視聴層を巻き込んだ結果として顕れるものと視たほうが好いだろう。幼児番組が、本来想定すべき視聴層を漏れなく浚った場合、そのパイの規模は戦隊の視聴率のレベルであるということである。

これはSHTという枠組みが成立したことで明確化してきた視聴率実態のディスクライブなのであるが、戦隊の平均的な視聴率を上回る成果を納めた番組の場合、その視聴層が幼児だけで構成されていることはまず「あり得ない」ということである。

視聴率の実態がそのようなものである以上、平成ライダーは戦隊的な玩具会社との提携ビジネスモデルの要件を満たしつつ、「それ以外」の視聴層を意識した物語性の面でも要求要素が乗るという構図となるのである。戦隊では本来余剰な要素でしかない物語性の側面が、幼児番組的な要求要素と同レベルで重視されるということである。この意味で平成ライダーというのは多分に鵺的な側面を持ついびつな「幼児番組」なのである。

これを以て平成ライダーの歴史を批判するつもりなどオレには毛頭ない。従来平気で罷り通ってきた誤解だが、NHK教育の番組やセサミストリート、ポンキッキーズのような正面から「幼児向け」を謳った番組以外、TV番組の何処にも「対象年齢○○歳」などというレッテルが貼られているわけではない。

成人向け番組を幼児が観ることには実害があっても、幼児番組を成人が観ることには何ら実害はない。それ故に「成人指定」というレイティングはあっても「幼児指定」のそれはないのだし、「指定」というレイティング面での客観規定ではない以上、語り手側の自己認識の問題でしかないのである。

そして、そんな自己認識を語り手の側が真正直に視聴者に明かすべき絶対的な必要性はない。つまり、語り手が商売の都合で「幼児番組ですよ」と言ったからといってそれが実態において幼児番組である保証など何処にもないし、実害が出ない限り誰かが文句を附ける筋合いの事柄でもない。つまり、過剰な暴力や性的描写等、子供が観て不都合なことが描かれていないものは、制作サイドがそう言えば幼児番組になるのだし、その一方でその物語性が幼児向けであるべき絶対的な必然性などはない。

物語性の側面で言えば、それがどんなに単純でわかりやすかろうが、どんなに複雑で難解だろうが、わかる子供にはわかるしわからない子供にはわからない。明確な線引きなどはないのであり、どんなスタンダードを求めても必ずそこから擦り抜けるマッスが無視出来ない割合で存在する。土台、TVの「幼児番組」を物語性の側面から規定しようとすること自体が空しい徒労でしかない。

児童文学の物語性がそれとは違うロジックで成立しているのは、それが児童教育における文芸的リテラシーの目標値と成り得るからで、そこに「あって然るべき文芸的リテラシー」という教育面での根拠があり、指導という強制力が期待出来るからであって、観るも観ないも子供の関心次第というTV番組でそんな規定が成立するものではない。

同年齢であろうとも、桃太郎の童話すら理解出来ない子供がいる一方で、ある程度難しい大人の小説を子供なりの深度で読みこなす子供もいる。どこにスタンダードを求めるかなど無根拠な断定でしかないのである。

ならば、純然たる幼児番組としての自己認識を具えるドラマの語り手の身の処し方としては、物語性が通じても通じなくても楽しめるという方向性を模索するしかないのであるし、その物語性から乖離した楽しみこそが幼児番組としての本質なのであり、物語性を保証するのは「わかる子供」という「部分としての対象」に対する追加要件としての誠意なのである。

そして、平成ライダーの特殊事情というのは、その物語性の保証が「わかる子供」に向けたものではなく、視聴率の上乗せ分に相当する歴とした成人視聴者に向けた追加要件であるということである。

そんなあやふやな言い取り次第の雑駁な括りを真に受けて、平成ライダーの物語性に関して「幼児番組としては」などと語っている素直な人を見ると生温い微苦笑を禁じ得ない。平成ライダーが幼児番組であるかのように思わされているのは商売のロジックに過ぎないのであって、実態論的な物語性の問題ではない。

ここでそもそもの話題に戻るなら、平成ライダーの物語性がヤングアダルト層を前提にしたもの、つまりアニメやラノベを愛好する大学生のような層を想定しているのだとすれば、スーパー戦隊とは別種の性格の物語であるということになり、それが端的な事象面で顕れるのは、継続的な視聴層を相手にしなければならないということである。

平成ライダーの大人のファンというのは、作品の枠組みとしてのライダーを見限るということはあるだろうが、そこから一般的な年齢的成長の文脈で「卒業」するわけではないのである。それを面白いと思える限り継続的に視聴するのだし、その意味で規模は小さいが月九や土九と意味的にはそれほど変わらない。

そして、その視聴実態がさらに意味するのは物語性を保証する作家性の重視である。平成ライダーをトクサツ「だから」観ている層によって上乗せ幅が確保されているのでない以上、たとえば高寺ライダーなり白倉ライダーなりという、基本的にPの作家性に基づく物語性のクオリティが視聴者を確保しているのである。

これはライダーの大人の視聴者は漏れなく高寺成紀だの白倉伸一郎だのというPの名前や、井上敏樹とか小林靖子というホン書きの名前を意識して番組を観ているという意味ではなく、その逆である。名前というDB的知識に基づく先入観とは別次元の、物語性に実態的に顕れる作業者の作家性が人々を魅了しているということである。

それをさらに言えば、平成ライダーを手掛けられる人材はかなり限られているということでもあるだろう。

だから、最終的な結論はこうなる。

白倉伸一郎が個人的関心を完遂し、高寺成紀が東映を放逐されてしまった以上、最盛期のような平成ライダーの物語性を確保出来る人材は、現時点の東映には存在しないということである。言い方を換えれば、平成ライダーという物語性の器は、おそらく響鬼の時点で一旦容れ物としての寿命を終えているのである。

嘗て数%程度の上乗せ視聴層を確保した物語性を統括的に語り得る人材は、ファイズが終了した時点では高寺成紀しかいなかったのだし、響鬼が終了した時点、というより響鬼二八話の時点で一人もいなくなってしまったのである。これが後期響鬼を批判する意味ではないというのは何度も繰り返した通りで、後期響鬼のような物語性を高寺成紀が通年で語り通すべきであったという意味であり、高寺Pの名代としての仕事と視るなら後期響鬼に批判すべき点などはない。

巡回させていただいているブログの方々の情報によれば、カブトの特写写真集には白倉Pのインタビューが載っているそうなので慌てて取り寄せたところであるが、ざっと内容を読む限り、そのような認識は白倉Pにもあるようである。

以前も似たようなことを語ったが、カブトにおける白倉Pの試みとしては、その物語性の面において彼自身の個人的関心を離れたところでシリーズが成立するか何うかを試しているように見えて仕方がないのである。というか、それが出来るか出来ないかで、平成ライダーが戦隊のような「ジャンル」として存続するか何うかが決まるのだろう。

今回のインタビューで白倉Pが語っているのは、ズバリ「他者の要望を容れること」であって、「皆さんの望んでいるものをやりましょう」というのがカブトの出発点であったことを語っている。白倉伸一郎という個人の関心を離れた部分で、視聴者が望むような物語を語り得るのかということで、これまでの白倉ライダーは善くも悪しくも白倉伸一郎個人の物語だったわけだが、結果的に発生した「平成ライダーファン」という受け手のマッスのものである物語を、今後継続的に語り得るのかという観点の問題性においてカブトは語られたのだということである。

だから、仮面ライダーカブトという番組が何故こうも余所余所しい距離感において語られたのかと謂えば、それが白倉伸一郎個人の物語ではないからである。ファイズを終えて白倉伸一郎個人の関心が終わってしまったことを肯定的に捉えるのであれば、たとえばスーパー戦隊のように、平成ライダーという枠組みを継続的に語り続けるシステムは果たして成立し得るのかという観点が必須のものとなる。

そして、たとえば東映特撮のような業態において、シリーズを統括するP自身の個人的関心や物語性を離れたところで成立する物語性とは、たとえばメインライターの抱えるそれだろうと思うのだが、その意味で米村正二は過去の平成ライダーとの親和性が強すぎたのではないか、それがカブトの迷走をもたらした一因ではないかという気がする。

スタート時点で目論まれていたのは、これまでのライダーとは違う物語性だったと思うのだが、結局米村正二の物語性とは、白倉・井上ラインのライダーをもう少し會川昇方向へ寄せたようなものだったように見える。簡単に言えば、井上敏樹が書くようにライダーを書いていることに、書き手としての自己満足があったのではないかという気がする。それが何うにもスタート時点のカブトのコンセプトと噛み合わなかったのではないかというふうに思うのである。

何故この最終回がシリーズ全体から浮いていると感じるのかと言えば、クライマックスで天道が口にする「自分が変われば世界が変わる、それが天の道」という成長物語や世界の受容を肯定するセリフは、本来天道が加賀美の成長を認める父性的な言葉のはずだからである。天道自身が変わるか変わらないかなどは何うでもよく、本当は加賀美が成長していなければ、出発点から有意に変化して己が自身の問題性として世界を引き受けるに至っていなければ、この言葉に意味はないはずだからである。

天道が往く天の道は揺るぎない摂理としての正義であり、最初から世界を背負った個人のそれである。対するに、加賀美が往く地の道はその摂理を受けて手探りで掴む人間的な正義のはずであり、その手探りの探求の過程で世界を引き受ける納得を購い、天道が加賀美の成長を認め肩を並べるに足る友としてその正義感を肯定することで、カブトの物語世界は大団円を迎えるはずなのである。

しかし、この物語においては加賀美の成長はまったくと言って好いほど描かれず、揺るぎない摂理を体現するはずの天道は揺るぎまくってしまった。そのために、天道は加賀美の成長を認める優越的な視点を持ち得なくなったのだし、加賀美は天道に認められるほどの成長を獲得し得なかった。

また、この大団円から逆算するなら、先週加賀美との激闘に敗れて瓦礫に埋もれた天道の内面の葛藤は丸ごと不要で、この物語が天道の気附きと成長を描く物語「ではない」という大前提が忘れられているのである。

前回の物語は徹底した加賀美視点の物語であるべきで、たとえ根岸の綺麗事に手もなく騙される加賀美が進歩のない阿呆のようにしか見えないとしても、ラストでうだくだと天道の内面の対話を挟まなければ、何が意図された物語でそれが何故失敗しているのかという筋道だけは明確に見えていただろう。

つまり、天道総司という超越的な人物は加賀美という発展途上で未熟な人物を導く為に存在する劇中装置なのであって、加賀美が過ちを犯して倒してしまったとしてもそれは単に加賀美視点の物語の表舞台から一旦退場するというだけのことであり、必要な時が来ればそこから何の心理ドラマもなく劇的に復活するのが天道総司という主人公の在り方なのである。

一種これまでは、カブトという無敵の切り札が存在することで猶予されてきた加賀美の未熟さが、そのカブトですらも敗れるような強敵を前にして成長の完遂を強いられることこそがこの最終回でぼんやりイメージされていた青図だろう。カブトの超越性による庇護を前提にするからこそ、ガタック加賀美の未熟さ故の試行錯誤が猶予されていたのであり、カブトによる庇護が得られない最終局面にこそ、加賀美の成長の真価が問われるからである。

それ故にこれまでガタックはスペック上で上回るはずのカブトよりも絶対的に弱い存在と位置附けられていたのだろうし、ガタックのスペック面での優越は「モビルスーツの頑丈さで命拾いをしたな」的なニュアンスだっただろうが、何というか、これまでの物語における加賀美の扱いの何うでも好さというのは目を覆いたくなるほどで、要するに語り手に愛されなかった主人公なのである。

本来は、連続ドラマとしてのカブトの主人公は加賀美であったはずなのに、いつの間にか語り手自身もそんな位置附けを有耶無耶に忘れてしまって、賑やかしのはずの脇役ライダーの物語ばかりに入れ込んだ結果、なんで天道のような莫迦莫迦しい表向きの主人公を設定したのか、加賀美のようなつまらない視点人物を設定したのか、その必然性が曖昧になってしまった。

あるいは変人揃いの脇役ライダーとの接点において加賀美のドラマを語り起こそうと目論んでいたのが、脇役の変人キャラばかりが立ってしまって加賀美の凡人キャラのつまらなさが際立ったという流れだったのかもしれないが、要するにギャグマンガにおいてはツッコミ役である凡人の主人公の影がどんどん薄くなるような機序が働いたのだろうと思う。

この辺の機微について、白倉Pは「後から出てくる人物ほどキャラを濃くしないと埋もれてしまう」と語っているが、カブトについては後から出てくるキャラの濃い人物ほど物語の本筋において何うでも好い人物だったからこそ、何うでも好い人物の間に本来の主人公が埋もれてしまったということだろう。

それはまあ、白倉Pの謂う「ライブ感覚」ということもあるだろうから、一年五〇話の挿話群の中では脇役キャラのキャラクタードラマに振れる瞬間もあるだろうが、何処かで適宜軌道修正して、加賀美の成長物語というシリーズの骨格を見詰め直すべきだったのではないかと思う。それが撤回不能になってしまったのは、やはりひよりを巡って天道の内面の葛藤や弱さが描かれ、本来外連の為の装置に過ぎない天道総司が普通の人間になってしまった辺りではないかと思う。

これによって、劇中の天道総司という人物はメタレベルで加賀美と同等の存在になってしまったのだし、それまでは加賀美のドラマだけを語れば好かったのに、天道までが同等の存在になってしまった為に天道のドラマを描く必要性も出て来たのだろう。あるいは、加賀美視点のドラマの剰りの動かなさ加減の故に、天道のドラマを附け足して水増ししたという経緯であったのかもしれない。

もっと作業実態に即して謂えば、やはり途中で劇場版の為に米村正二が抜けたことが決定的な躓きの元だったように見える。飽くまで繋ぎのゲストライターに過ぎない井上敏樹が予想を遥かに超える分量のエピソードを担当せざるを得なくなった為に、本筋を進めるわけにも行かず、消費的なエピソードが無視出来ない分量で語られてしまい、無駄な物語要素が無闇に増殖してしまったのだろう。

不可解なのは、それはそれとしてカブトという番組の一回的な個別事情に過ぎないのだから、米村の不在の間に井上が繋いだ消費的なエピソードのことなどスッパリ忘れて軌道修正を図るべきだったのに、その儘消費的な娯楽性に載っかってしまったという部分である。要するに、番組中盤の二クール分くらいのエピソードが、すべて持て余された時間を潰すための消費的な娯楽要素にしか見えないのである。

カブトの物語の本筋が進んだのは第一クールと最終クールだけであって、中間クールは間を繋ぐ為に何うでも好い枝葉を語っているようにしか見えない。ここで漸く最終回の内容面に触れる辺りが当ブログの暢気なところであるが(笑)、カブトの最終回を視る限り、これまでの平成ライダーになく最終回らしい最終回が描かれており、

・世界的な陰謀の最終局面
・力及ばず一旦敗れる副主人公
・主人公の死地からの劇的復活
・両者共闘して強力な敵を倒す
・崩壊のカタストロフで因縁を清算
・平和な後日談のエピローグ

という、絵に描いたような「戦隊的大団円」が描かれているが、いろいろな方が指摘しておられる通り、その大団円はこれまでの物語と見事なまでに整合していない。

これまでトンボーグだのスコーピオンだのアクセルホッパーズだのという本筋には無関係なライダーが最前面で無意味にうろうろした挙げ句、本筋のラストバトルがカブトとガタックの共闘のみに留まるというのは、要するにシリーズの大半が物語性の文脈では要らないエピソードだらけだったということなのだし、このダブルライダー以外はすべて要らない脇役だったことをヌケヌケと明かしているわけである。

カブトとガタックを除くライダーズの中で、物語的に必要だったのはサソードくらいだと思うのだが、そのサソードにしてからが、神代剣のキャラを弄ぶことによって本来想定される物語性をスポイルして、決着編に入る前に贅沢に使い棄てている。

これもいろいろな人が指摘していることであるが、本来物語全体の最後の敵はサソードでも好かったと思うし、一種それによってデビルマンに近似の黙示録的な世界観が描き得たと思う。一年間を通じて戦い続けたワームの脅威に対する手当てとして、たしかに神代剣を一種ワーム側のラスボスとして使ってはいるのだが、ワームについての物語が終わった時点でネイティブの陰謀を最終局面に据えたために、剣の物語的重要性が矮小化された嫌いは否めない。

たとえばアギトにおけるギルス的な位置附けのライダーとして描き、カブト&ガタックの主役ライダーとの相互接近を徐々に描きつつ、世界とリンクする個人の悲劇としてサソードの末路を語り得ていたら、ある種「平成ライダーとは何だったのか」という出発点におけるコンセプトに対する応えとも成り得ていただろう。

神代剣の人物設定には、人とワームが存在する世界全体に言及し得る契機が内在していたと思うのだが、結局彼の抱える宿命は世界とリンクすることはなく、神代剣が個別に抱える情感のドラマ性の中に解消されてしまった。いわば、神代剣の個人の物語が世界という全体へ拡大するべきであったのが、世界の文脈に属するワーム殲滅というイベントが神代剣個人の物語に矮小化されてしまっているのであり、それ故に劇中事実としてこの挿話によってワームが殆ど全滅しているという実感が薄いのである。

神代剣が本来抱えるドラマ性は、トンボと間宮麗奈の間の色事とは本来次元の違う問題性を孕んでいたはずなのに、サソリもバッタも全部同じ雛形で個人の情感の物語として手仕舞いをしてしまった。だから、最終回ではすでに世界に言及すべき物語性の契機など残ってはいなかったのである。

本来、ネイティブ編で提示したような問題性というのは、ラストバトルで豪快にラスボスをぶっ飛ばして終わるような種類の話ではないと思う。オレがネイティブの登場で想起したのは、ガンダムにおける政治的な部分のニュアンスで、若者の闘争劇が終わった時点で事態の収集に乗り出してくる大人の政治劇のニュアンスである。これは善い悪いで断罪すべき要素というより、世界の不純な在り様に対する若者の潔癖な苛立ちとして表現さるべき事柄であるように思う。

それが割合アッサリと「実はネイティブはもっとタチの悪い悪党でした」という形に見えてしまうのでは、やはり単にネイティブがワームに取って代わった、終盤で突然出て来た奴がラスボスになった、というだけのお手軽な見え方にしかならない。

ラスボスをぶっ飛ばして豪快に〆たかったのであれば、やはりネイティブの陰謀は不要だったのである。ネイティブをイケ好かない奴として描きたかったのであれば、それはつまり大人の為政者がイケ好かないのと同程度の描写で描くべきであって「本当に悪いのはこいつらでした」というような描き方をすべきではなかっただろう。

この辺、いろいろ試行錯誤の時期ということで手痛い失敗は数々あったと思うのではあるが、響鬼が終わった後にカブトが必要だったという白倉Pの歴史的認識それ自体は絶対的に正しい。現状の誰も個人の関心において物語を語れなくなってしまったのであれば、まだ個人の物語を持っている不特定多数の語り手に対して開かれた容れ物としての途を模索するしかないのである。

たとえばファイズまでの白倉作品が、彼とタッグを組むメインライターの選出に慎重であったのは、それが彼個人の関心に基づく物語性だったからである。今回、米村正二という附き合いの浅い人材とのタッグが実現したのは、すでにカブトの時点で白倉Pが語るべき個人の物語を持っていなかったからである。

だからこそ、次回作の電王では非意図的に個人の無意識の物語を生成してしまう小林靖子がメインを張るのだろうし、未だ自身の物語性を模索していた頃の龍騎とどれだけ違う物語性が語り得るのかが次なる関心となるのだろう。

ただまあ、ぶっちゃけ「小林靖子+時間ネタ」の数式には自動的に「リセット落ち」という解が予想出来るだけに、激しく不安なことも事実である。はっきり言って、すでにシリアスなSFの文脈では時間ネタは成立しないというのがわかりきっていて、SFホラ話として細々と延命しているに過ぎないので、やめといたほうが無難ではないかと思うのだが、なんで必ずそっちに行きたがるのだろうか。

ただ、楽観的な見通しとしては、カブト以降白倉Pのシリーズ構成術が少し変わってきているということがあって、ファイズの頃までの白倉Pの物語観というのは劇中イベント単位のもので挿話構造という意識がなかったのだが、カブトからははっきり各話の挿話構造を重視するという傾向が強くなっている。

たとえば龍騎で言えば、「サノマンが死ぬ話」と言えば誰でも「あれか」と思い当たるだろうが、あのエピソードがどんな挿話構造だったのかをはっきり説明出来る者はいないだろうと思う。要するに、大筋のダイナミックな流れと劇中イベントの印象はあるのだが、各話に明確な挿話構造がないのが過去の白倉ライダーの特徴である。

おそらく龍騎で剰り小林靖子の持ち味が活きなかったのは、小林靖子は短期的な挿話構造の中でお話を考えるタイプの書き手だからで、結論が無限留保された全体の流れの中の一部分として各話を書くということは不得手なのではないかと思う。その場で語られた物語のお尻までが見えていないとお話が掴めないタイプの書き手だと思うのだが、その意味で常にお尻が開いていて各話の明確な意味構造が「ない」従来の白倉ライダーでは、存分に持ち味を発揮出来なかったのだろうと思う。

しかし、カブトを振り返ると、割合各話で挿話構造が完結するスタイルのエピソードが多く、何処で一連のエピソードが完結したのか明確な区切りが存在する。たとえばセラムンもそのような各話の構造が重視されたシリーズ構成で、それが故に小林靖子の書き手としての資質が存分に発揮された側面はあるだろう。

このシリーズ構成術の儘で行くなら、白倉+小林コンビという一度経験のある組み合わせのライダーでも、これまでにない作品が生まれ得る可能性が残されているのではないかと思う。そもそも龍騎で展開された物語には、徹頭徹尾小林靖子個人の物語性の要素は視られないので、まあ簡単に言えば他人の考えたお話を書いただけである。

ここで主客転倒して小林靖子個人の資質に基づく物語性を補佐し、カブトで米村のためにそうしたように小林靖子が書きやすい環境を配慮するなら、少なくともカブトよりはマシなライダーになるのではないかと思いたい。実際、事前に電王の設定だけを視るならば、ライダーというより戦隊に近い世界観という印象なのだが、「東映がライダーだと言い切ればライダーになる」というほどにライダーという語りの枠組みは確立されているのか、それを占う意味でも電王を見守っていきたいと思う。

余談だが、カブトのシリーズ構成の迷走感は初期のライダーと後期のライダーのネーミングセンスの違いにも顕れていて、たとえば主役のカブトはカブトムシのライダーだからカブトだという以前に、「兜=KABUTO」という力強い語感の国際語から採られていると言えるだろうし、二号ライダーのザビーにしたところで「THE BEE 」を「ザビー」と表記するのは、「THE O 」を「ジオ」と発音するような字面の美意識の産物だろう。

三番目のドレイクも「DRAGONFLY→DRACO→DRAKE 」というシリアスなセンスでネーミングされているが、サソリだからサソード、サソードの刃だからサソードヤイバーというのは、「ちょっ、おまっ(w」という突き指感を免れ得ない。挙げ句の果てにもう一人の主役ライダーであるガタックに至っては、クワガタだからガタックって、テントウムシだからテントリーナ、カブトムシだからカブタック方式かよ、いつの時代のセンスだよという感じである。

そもそも兜と鍬形というイメージ上の連鎖もあるのだから、その儘「仮面ライダークワガタ」で何処が悪かったのかと首を捻る。カブトムシとクワガタムシという昆虫界の二大スターのイメージに重ねて戦国武将の兜を飾る鍬形という雄壮な対のイメージも生起してくる。カブトムシやクワガタムシという、一種幼児的なアイテムを、兜や鍬形という語源のイメージにまで遡ることでポップに異化出来たのではないかと思う。

このネーミングセンスの何処が問題かと謂えば、カブトやザビー、ドレイクなら劇中事実としてのZECT開発陣のネーミングセンスとしてリアリティがあるが、ガタックやサソードというのはオモチャ屋とか東映特撮など、メタレベルのネーミングセンスだということである。

要するに、ガタックだのサソードだのという幼児的なもじりのネーミングを劇中の誰も不自然に思わず、「戦いの神=ガタック」などという滑稽なセリフを大真面目に口にするようなメタ的なリアリティレベルにシフトしたということである。最初からそんなリアリティレベルであればオレだってそんな無粋なツッコミは入れないが、前半と後半のライダーでははっきりネーミングセンスが変わっているのである。

劇中のZECTのようなシリアスな組織が、マスクドライダーシステムの中核を担う切り札にマジで「ガタック」などという巫山戯た幼児的なコードネームを与えるかという話である。これが「カブト」なら、たとえばカワサキやスズキが自社のバイクのフラッグシップモデルに「ニンジャ」「カタナ」というペットネームを与えるようなセンスと言えるだろう。

ライダーのネーミングという要素には、オモチャのセールスも密接に絡むだけに、これは最早東映内部だけの話ではなかったはずである。だとすれば「テコ入れ」の文字も脳裏に浮かぶし、中盤の脇役ライダーズのフィーチャーにも何かしらの事情があったのかもしれないが、まあ何の材料もないのでこの話はこれまでのことである。

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