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2007年1月13日 (土曜日)

Four Men and A Baby

実を言うとオレ的に今季いちばん期待していたのは「ヒミツの花園」と「きらきら研修医」なのだが(笑)、勿論これは主演女優が個人的に好きだからという以上のものでは決してない。きらきら研修医については後日に譲るとして、まずはヒミツの花園から語ってみたいと思う。

前回の前フリでこの番組について触れた際には、キャスティングのしょぼさを指摘するのみで少し突き放した言い方になったが、関テレ火一〇枠で釈由美子・要潤の顔ぶれとくれば、誰でも「曲がり角の彼女」を想い出すだろうし、同一路線で釈由美子があのドラマにおける稲森いずみ的な役柄を演じるということで、それなりに期待はしていた。

オレ的にはテレ朝の「7人の女弁護士」もゲテモノ的に面白かったと思うし、主役の藤堂真紀役は別段釈由美子でなくても構わない役柄だと思ったが、あの釈由美子が頑張り屋の若い娘を普通に演じているのが妙に薄気味悪く倒錯的で好かった(笑)。

今回の月山夏世役も従来の女優・釈由美子が得意としていた役どころから飛躍のある役柄で、ここ数年の釈由美子は色物的なイメージを払拭して女優としての芸域を拡げようといろいろ頑張っているようだが、折角ゴールデンで主役を張った7弁がコケて大舞台で味噌を附けた形となった。

たしかにあの弁護士事務所の無闇に濃い面子や息苦しいほどねっとりしたゲスト俳優陣の中で、いつものフィールドとは違う爽やか路線の元気娘役を演じていたために、旧シリーズの賀来千賀子ほど存在感がなかった感は否めなかったが、それなりに好い芝居をしていたと思う。テレ朝の編成慣習から言えば、悪くない程度の実績を残せていたならシリーズ化の目もあっただけに、釈由美子個人の芸歴的には惜しいことをしたと思う。

今回のヒミツの花園でも不器用で真面目な女性誌編集者という従来のパターンとは逆の役柄で、主人公を振り回す側から振り回される主人公のポジションにシフトしているわけで、第一話目ということでちょっとコメディ演技がこなれていなくてクサいという嫌いはあったのだが、芝居の勘は悪くない人なのでそれほど不似合いな印象は覚えない。

個人的な印象としては、少し前と比べて顔がくたびれている印象を覚えていて、半ベソをかいたりする表情が不細工に見えたのだが、単にこれまで無表情な役柄が多くてそのような表情芝居を演じたことがなかっただけかもしれない。沢口靖子のように顔立ちは綺麗だが表情が汚い女優ということでもないので、まあ単にこちらの慣れの問題ではあるだろう。

オレの関心としては、当然釈由美子をメインに据えたアイドルドラマ的なものを期待していたわけだが、7弁と比べて脇に華がないことに若干物足りなさを覚える。実質的に釈由美子や要潤より格上のベテラン俳優が真矢みきくらいしか出ていないのが、何うにも殺風景に感じるのである。たしかに寺島進もベテランではあるのだが、元々脇の人だしブレイク自体が最近の話なので、主演級の俳優と比べるのも無理がある。

そもそもヒットドラマの脇をメインに持ってきて同一傾向の作品を作ろうというのが縮小再生産なわけで、ドラマ単体の企画として視ると、何うしても点が辛くなってしまうのである。曲がり角の彼女の場合は、一応過去にゴールデン主演級の実績のある稲森いずみをメインに据えて、要潤も伊原剛志の対抗馬的な位置附けで、周囲の脇役や毎回のゲストもそれなりのクラスだったから華やかな印象があった。

しかし、今回は主演の釈由美子や要潤を含めて、従来のドラマで脇役として地歩を固めた人々が堂々のメインに据えられ、当然のように脇のキャストはそれ以下のクラスという「ダンドリ。」方式の下方修正キャスティングになっているのが、しょっぱい印象を否が応にも高めている。

つまり、幾ら何でも池田鉄洋がこんなに画面に映るドラマがあってはいかんだろうということで(笑)、普通にこの顔ぶれで考えればヒロインである釈由美子の相手役になるのは、釣り合い上二枚目俳優の要潤ということになるのだが、公式サイトその他の仄めかしから考えると長男を演じる堺雅人らしいというのがかなり地味である。

おそらく、従来の月九的ドラマ観の連続上にあるワーキングガールの恋模様を描いた曲がり角の彼女とは違って、ヒミツの花園は「結婚出来ない男」のようなイケズで奇妙にオフビートなノリのスラップスティックという性格の物語になるのだろう。堺雅人も不似合いな主役級の二枚目を演じているわけではなくて、従来の役柄の延長上にある一見常識人だが腹の読めない変人的な役柄を演じているわけで、要するにこのドラマはそのような脇役的な人物同士が演じるリアリティの物語だというわけである。

要するに、過剰に曲がり角の彼女的な物語を予想するから違和感があるのであって、その種の華やかさとは別種のドラマ性に基づいた小粒でヒネたテイストの作品と割り切って観るべきではないかと思う。

ドラマの内容自体は善くも悪しくも完全に予想の範囲内という印象で、設定も筋立ても窮め附けに古典的だし、飛び抜けてここが面白いという各話の面白みもなかったように思う。しかし、関テレ火一〇枠でMMJ制作ということなら、長い目で視てみないと何ういう面白さを狙っているのか軽々に判断は出来ない。

歯切れの悪い口調になっているのは、何うもオレは個人的に真矢みきと池田鉄洋が好きではないからである。まあ真矢みきは役柄によりけりだが、ベテラン女優でこれだけ演技力もあるのに、これほど心のない話し方の出来る女優さんはいないと思う。

たとえば榊原良子が優しいお母さん役を演じているときのような、セリフの芸や発声としては綺麗に演じられているのに妙な嘘臭さを感じさせるセリフ廻しが、どんなドラマに出ても違和感を感じさせるのである。まあ、宝塚出身ということで舞台芝居が残っている部分なのかもしれないが、普通のTVドラマに出るとリアリティのズレた奇妙なセリフ廻しに感じられる。

NHKの「風のハルカ」で母親役を演じていたときは、ヒロインのハルカをはじめ周囲がすべて熊本方言や関西弁で話している中、彼女とその夫の渡辺いっけいだけは綺麗なイントネーションの標準語を通していて、その際に感じた違和感は人物設定の一環だろうと解していたが、妙に流暢で心のない話し方をする人だなという印象は覚えていた。

そのような違和感は、職員を前にした演説や職業人としての堅いお説教のような場面ではさほど気にならないのではあるが、たとえば、妙竹林なドレスを着た儘スーパーで買い物をする夏世と出会う場面などでカジュアルな会話を演じると、妙に芝居臭くて居堪れない感じになる(笑)。

ったく、ドジな子ねぇ」みたいな下世話なセリフを、あんな歌うような調子の発声と滑舌でお上品に語られたら大概引く(笑)。

同じ宝塚の男役出身でも天海祐季なら、元々声が太いのでセリフ廻しが過剰に芝居臭くなく、上手くTVのマンガ的なリアリティに合っているが、真矢みきの場合、声の細い女性が張って演じるヅカの発声まんまなのが、TVドラマのリアリティには合っていないと思う。

今一人の舞台出身者である池田鉄洋に関しては、個人的に芸風が嫌いという単純な理由である(笑)。この人の風貌と芸風で、幼児的な芸術家肌の畸人役をやりたい放題に演じられると気持ち悪くてしょうがない。四人兄弟でいちばん旨味のある役なんだから、もう少し華のある役者でも好かったのではないかと思う。

妙に顔が濃いので、「下北サンデーズ」のときのようにちょっと胡乱な程度の人物を画面の隅っこで演じていると丁度好いのだが、「医龍」や今回のように始終画面の真ん中で諄い芝居をしていると鬱陶しく感じてしまう。オレのようにその存在感を不快に感じる人は生理的に厭だろうから、やはりこの人も剰りTV向きの人材ではないと思う。

さらに言うと、実は要潤と本郷奏多の龍洋一コンビもあんまり好きではないので、主要キャストの大半が剰り好感を持っていない役者で占められているのが、何となく個人的なイマイチ感に繋がっているのである。

公式サイトの人物相関図もやけにアッサリしているし、漫画家四兄弟と女性編集者のスラップスティックということでそれほど世間の広い話でもなさそうだから、その四兄弟が剰り好みの面子でないのがオレ的にはイマイチである。

それから、前回のエントリーのコメント欄では業界物的な話もしたが、よく考えてみるとあんまり夏世が雑誌編集者であることに重要性がないような気もしてきた。約束した手前一応の説明はするが、以下はまあ単なる豆知識のレベルである(笑)。

コメントの流れ上難癖を附ける形にはなったが、編集者というのは基本的に作業者と印刷所の間に立って他人の割を喰わされる仕事なので、大括りな意味ではそれほど外した描写でもない。商業誌の編集を手掛けた経験はないからそれほど実情に詳しいわけではないが、まあ一般論として責任感がないとやっていけない仕事ではあっても、大概責任感のある人間が割を喰うように出来ているものである。

コメント欄で「他人に仕事を振ると却って面倒くさい」と陳べたが、それは要するに編集の仕事は個別のプロセスを切り出して定型化出来ない作業が多いからである。最初からきちんとコンセプトや経緯を呑み込んで細々とした細部も時系列に沿って心得ていないと、赤の他人には何も出来ないものである。すべての作業に対象業務の細部を最初から順を追って知悉している必要が伴うので作業を平準化しにくいのである。

それを他人に細々と説明する手間というのは大変なもので、他人に作業を肩代わりさせる場合は附きっきりでチェックしないとまずマトモな仕事はしてもらえないし、そもそも附きっきりでチェックするくらいなら自分がやったほうが数段速いのが当然である。OJTの場合には仕方がないが、仕事を教えるという目的以外ではまず他人に作業を振ることはない。その意味で、作業当事者性の重要度が高く(つまり担当者本人にしか出来ないことが多い)独自裁量の領域が広い非効率的な職業である。

寧ろ、編集業界では作業手順をフローとして平準化出来ないことが重要課題になっているくらいで、一般企業の業務のように定型化された作業を他人に振るようなことは普通は出来ない。特定業務と特定個人の密着性が非常に高いので、このドラマの当該箇所のように、他人に作業をやらせて自分がやったような顔をするというタイプのズルをする編集者は普通はいない。

逆に、そっちのほうが面倒くさくないという理由で、他人や部下に振るべき作業を自分でやるというタイプのズルをするほうが多いだろう。だから、劇中のナカムラちゃんのような責任感に欠けるメンタリティの編集者がやりそうなことというのは、そもそも入稿チェックを「きちんとやらない」「次工程に丸投げする」というタイプのズルで、他人に肩代わりさせるという中途半端でメリットのないズルはそもそもあり得ない。

商業誌の編集業務なら、コンセプトや決まり事が作業フローとしてある程度定型化しているのかもしれないが、基本的に担当業務に関しては作業者ではなく担当編集者が一義的に責任を負うので、他人に入稿チェックを任せることなど怖くて出来ないだろう。何かあったときに責められるのは自分であるし、つまらないミスが進退問題や処遇の問題にまで発展する場合がザラである。

リアルに考えると、本来ナカムラちゃんがやるべき作業を夏世がやっているということは、担当ページに関してろくに引き継ぎをやっていない(そのレベルの責任感があればそもそもナカムラちゃんも最終チェックのために一緒に残業しなければならないので他人にやらせる意味がない)状態で、最終的に自分が責任を問われる作業を丸々他人任せにしていることになる。

これはつまり、どんな印刷事故が起こって責任を問われてもまったく気にしないということなので、普通の腰掛けOL的な無責任さのレベルを超えた度外れの無責任さということになる。

しかし、この場面で描かれているのは、普通のOL物で言えば「残業を替わってもらう要領の好さ」的な感覚だろうから、そこをリアルに考えてはいけないということだろうと思う。編集者が残業するのは、自分でなければ出来ない作業を期限までに仕上げるためなのだから、それを書式や作業手順がキッチリ定型化されている帳簿整理のような感覚で「替わってもらう」というのがそもそもあり得ないわけだが、それを言い出したらキリがない。

コメント欄で指摘したように、他人から肩代わりした作業のお尻や入稿スケジュールを確認していないというのでは作業の目途が立てられないし、そもそも幾ら長期休暇に入るからと言って、入稿が迫っているわけでもない作業を他人にやらせる意味がわからない。ルーズなライターを急かすだけの意味なら、別に自宅からでも幾らでも進捗管理が可能である。それすらもしたくないのであれば、正月明けにケツを叩けば済む話であるから、リアルに考えればこの冒頭のくだりはまったく意味がない。

夏世が他人の作業を肩代わりするのにスケジュールを確認しないほど編集者として無能であるか、ナカムラちゃんが印刷事故が起きても気にしないほど無責任であるか、ナカムラちゃんが夏世を苛めているという描写ということになるが、勿論そんな莫迦なことはない。そんなことを気にするのは編集を生業にしている人間だけだろう。

職業考証なんてのは所詮その程度のものであって、まあ業界に詳しい人が観るのであれば「ああ指定紙のチェックの入れ方が無意味だな」「ポジの付け合わせをしなくていいのかよ」「ファッション誌なのに写真印刷の指示を入れないのかよ」とか笑ってツッコミを入れればそれでいい部類の事柄である(笑)。行きがかり上一通りの説明はしたが、別段この描写を以てこのドラマを批判するつもりなどは毛頭ない。

寧ろ、毎年何やかやの力仕事で正月休みが潰れるとか、読者アンケートの集計やらブツ撮りやら逃げたライターの替わりに担当編集がエッセイを書くとか妙にリアルな部分があって、割合ちゃんと取材していると思うくらいである。一年坊主が先輩に企画書を圧し附けられるというのはちょっとアレだが、まあ企画書を朗読してオシマイというタイプの人間もいれば、ペーパーをちゃんと纏めないでプレゼンの場の舌先三寸で丸め込むタイプの人間もいるので、ギリギリそんなモンかと思わないでもない。

殊に、オレも誕生日がお盆の真っ直中なので、慌ただしい正月明けに誕生日を祝ってもらえない気持ちはよくわかる(笑)。せめてもの慰めは、四年に一度しか誕生日が来ない二月二九日生まれの人よりも幾らかマシだということくらいである。

そういう不遇な誕生日と業界残酷物語を組み合わせて三十路を控えたワーキングガールの焦りを初っぱなから強調しているのは、まあ手堅い語り起こしだろう。ただ、翌日の「ハケンの品格」を続けてみると、今時の世知辛い時代性で独り暮らしの女性が仕事が厭になったからといって後先も考えずに会社を辞めるというのは、甘ったれているように見えることはたしかである。

そういうのはもう少し景気が好かった頃のドラマの作り方かなと思わないでもないのだが、堺雅人が「逃げる場所なんてあるのか」と言っているから、その辺は今後の展開次第の部分があるだろう。この時点で彼女が次の仕事も決めずに会社を辞めたら、この出版不況のご時世では最終的には郷里に帰って嫁に行くしかなくなるだろう。そこまで押さえていればリアルだが、ハケン同様妙に世知辛い話になってしまうことは否めない。

まあ、岐路に立った若い女性が「辞めてやるぅ」とか嘯く話というのは、辞めても幾らか潰しが利いた時代のことで、機会均等とか女性活躍支援とか調子の好いお題目を謳いながらも、長期不況と低成長時代の到来で企業の対応が冷たくなった昨今の時代背景では、そんな悠長なことも言っていられないというのが本当のところである。辞める辞めないで主人公の課題を設定すると、結局その辺の世知辛いご時世に言及せざるを得なくなるというのが昨今の風潮だろう。

そういう意味では、幾ら誕生日に非道い目に遭わされたからと言って、辞めるという選択肢ありきの話になっているのが、ちょっと二八にもなってという気がしないでもないだろう。普通この年齢のワーキングガールは、今の自分の現状に疑問を持ちながらも折角得た定職を抛つことも出来ないという現実ありきで悩んでいるはずである。

生活の為にはその場で働き続けるしかないのだし、その定職を抛つとしたら所詮は男性の経済力を頼るしかなくなるわけだが、条件の好い男性と恋愛結婚をしたかったら定職に就いてリッチな男性との接点をつくるしかないという堂々巡りである。仕事まみれで男性との縁もなく厭なことだらけだからと言って、仕事を辞めて実家に帰ってしまったら意に染まぬ相手との見合い結婚くらいしか途が残されていない。

普通、三十路を前にした女性はそういう風に段々具体的に見えてきた自分の人生設計を見据えた上で悩むのではないかという気がしないでもないのだが、現状が厭だから後先考えずに退職を決めるというのは、ちょっとオレ的な感覚では剰りリアルではない。漫画家や編集者の職業実態の考証が何うこうというよりも、主人公の年齢設定と課題設定がマッチしていないことのほうがリアリティに欠けるのではないかと思う。

鍋底不況の直中で新卒でストレートに大手版元に就職出来たこと自体が恵まれた出発点なわけで、そこからの五年間が3K的な力仕事の明け暮れでロマンティックな恋などなかったというのは単なる贅沢で、仕事の手応えがないとか先行きの不安の故ではなく、単にこれまでいいことがなかったから厭になったというのが、何うもオレには共感出来ない。そういうのは、あり得るとしても廿代前半くらいまでの、まだ何も職業人生が始まっていない時点での幼稚な感傷である。

仕事の面では「どんぐりの背比べ以下」と痛罵された同僚の中で一人だけ編集長に評価されているのだから、やってきたことの結果は出ているわけで、それが直上の上司に正当に評価されている。社会で活躍するという選択肢を選んだ以上、仕事に不満があるというのは解せないわけで、私生活上でいいことがなかったというのは、まあ当たり前に考えれば本人の責任であって仕事のせいではない。

こういう性根の人が仕事を辞めたからといってこの先いいことがあるわけがないし、その意味で、不器用だとか真面目だとか言う以前に、年齢の割には料簡の甘いダメ女に見えてしまう。殊更「女二八歳の分かれ道」的に謳うのはテーマ的に外していると思う。二八歳のワーキングガールが抱える普遍的な問題性とはかなりズレがあるからである。

そういう意味で、夏世が退職を決意する理由からして納得が行かなかったし、それが撤回されるのも四兄弟に誕生日を祝ってもらったからというのは、筋こそ通っているが、何というか主人公の幼稚さや料簡の甘さを過剰に強調していて、同年代の女性の共感は得られないのではないかと思う。

多分、同世代の女性としては「社会に出て一度も誕生日を祝ってもらったことがない寂しさ空しさ」というのは「わかるわかる」的な感情だろうが、「だから辞めます」という筋道には「はあ?今何とおっしゃいましたかしら?」という感覚だろう。すでにその時点で「そんなくだらない理由で辞められるんならとっとと辞めちまえ」という感覚になるのではないか。普通なら、このような年齢的な岐路に立って辞める辞めないで悩んでいるわけではないからである。

たとえば、漸く仕事が面白くなってきて懸命に頑張っているのに正当な評価が得られない、ステップアップのチャンスがない、結婚しても働き続けるなら子供がつくれない、ボヤボヤしていたら高齢出産になってしまう、普通の家庭を諦めるべきか否か、その決断が目睫の間に迫っている、そのようなシリアスな人生設計に関して悩んでいるのが普通であって、二八にもなって「働き続けても何もいいことがなかったから辞める」などというフラフラした人は、まあかなりダメな女性の部類である。

だから、劇中の月山夏世の問題性というのは、二八歳のワーキングガールが普遍的に抱えている悩み事ではなく、二八歳にもなってそんなことしか考えられない幼稚さなのである。それが寂しい、辛いという感情は誰にでも共感可能でも、だから耐えられない、辞めるという感覚は決して共感されないだろう。却ってこの年代の職業女性を舐めているのかという不快感に繋がるのではないだろうか。

ある種、月九的なドラマ性であろうがなかろうが、特定年代のワーキングガールを主役に据えたドラマである以上、その年代の女性の一般的問題性が正確にディスクライブ出来ていることが最低要件であって、その上で主人公がその平均的なディスクライブと比較してどのような位置附けになるのか、これが正確に見積もられていなければ同世代の女性の共感は決して得られない。

果たしてその辺の機微がつくり手に理解されているのか何うかというのが今後のキモになるのではないか。夏世が年齢の割には幼稚なダメ女であるという認識をきちんと踏まえた上での作劇になっているか何うか、そこを見守っていきたいと思う。

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