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2007年1月23日 (火曜日)

Poetaster

誰もいない静かな街。
真昼の月が浮かび。
そして。

東映公式ブログに「Sh15uya 」最終回シナリオのラストシーンのト書きが転載され、それに絡めて「米村=ポエマー」説が語られて以来、脚本家・米村正二の芸風を語る場面ではそれが大前提となっている感がある。

しかし、たしかに米村脚本のドラマツルギーの特徴というのは、詩的な抒情味を情感込めて気恥ずかしい直な美意識で語るところにあるのだが、定説視されている「セリフが感情に訴えるもので論理がない」というのは少し違うのではないかと思う。

以前余所様のブログのコメント欄でそのような話も少ししたのだが、米村正二の書き手としてのメンタリティというのは、ロジカルに組み立てるべき部分を情感でぶっ飛ばすような豪快なものではないと思う。寧ろ、些末な細部を過剰に気に懸けるところがあるのではないかと感じていて、ごちゃごちゃ細かい筋道を組み立てずにセリフ一発の迫力で押し切るというのは、井上敏樹のほうの芸風だろうと思う。

米村セリフのわかりにくさというのは、一種視聴者のリテラシーを過剰に見積もっているというのか、自分の中でセリフを揉み込むプロセスにおいて、それを前提視してしまうことに伴う弊害ではないかと思う。もっと言えば、TVで伝わる意味性を過大に信用しいてるのではないかと思う。

前後の文脈は省略するが、嘗て小林靖子は「何気ない一つのセリフを書くのに、脚本家はどれだけ苦労するか」と啖呵を切ったそうで、ダイアログそれ単体にはキレのない小林靖子の言い分だと思うとちょっと生温い気分になるが(笑)、実際、脚本家の王道というのはセリフを書いてナンボなので、どんな脚本家でもセリフに心血を注ぎ彫琢を尽くすのが常である。

いろいろ言われている最終回の脚本であるが、少なくともセリフで語られるテーマのロジックに関しては別段破綻はしていない。単に、それを視聴者がすべて最初から一語一句漏らさず注意深く聞き取って真意を探ることを期待しているのだが、そんなことはかなり難しいというだけの話である。

クライマックスの各人のセリフの流れを逐次的に追えば、根岸一派はネイティブ全体を統括する組織ではないし、天道と加賀美の最終闘争が根岸一派という個別の派閥を対象としたものであることや、この二人が人類とネイティブが共存する世界を肯定していることがわかるのだが、はっきり言って一回観ただけではそんなことがわからない。

これには、その前段階として加賀美が三島ワームにボコられていて、重要なセリフが聞き取りにくくなっているせいもあるのだが、一つ二つのセリフが抜けただけで全体が理解出来なくなるようなダイアログはTV向きの脚本作法ではない。

井上敏樹はその辺をわかっていて、とにかく決めゼリフ一発で核心的な意味性を明らかにして、その他のセリフはそれを補助するものに留めているのが常だが、この最終回の米村ダイアログは、全部聞き取らないと何を言っているのかわからない。

クライマックスで復活した天道は、根岸が天道や加賀美を含めて「人類」という集合名詞を遣っているのに対して、終始一貫して「おまえ」「おまえら」という人称で根岸一派という個別の集団と直接対話している。つまりこの場面の対立構造では、根岸は天道や加賀美を「人類」という集合名詞の代表と視ているのだが、天道は根岸=ネイティブと括ってはいない。

この場面で描かれているのは、人類対ネイティブの対立構造ではないのである。試みにこの場面の各人のセリフを逐次的に書き出してみよう。


根岸:己自身さえ変えられぬ、愚かな人間がぁ!

天道:それがおまえらの限界だ。人間は変われる。人間もネイティブもあるものか。この世界に生けとし生けるもの、すべての命は皆均しい。他者の為に自分を変えられるのが人間だ。自分の為に世界を変えるんじゃない、自分が変われば世界が変わる。それが天の道!

加賀美:人類とネイティブが一緒に暮らせる世界を、争いのない世界を、オレたちの手で掴んでみせる!

根岸:では敢えて言おう、そんな世界は必要ない! ましてや人間など必要ない!

天道:所詮おまえはその程度だ。

Aパートの演説で根岸が語ったのは、人類という集合名詞に対する侮蔑であり、人類の愚かさや不寛容さの故に人類同士の間ですら争いを一掃することが出来ないのだから、ましてや異種族であるネイティブとの共存など望むべくもないという結論である。

現在地球上にネイティブという異種族が存在するということを前提視し、ネイティブ視点で考えれば、平和共存と侵略という二つの選択肢があり得るわけだが、人類は他者との平和共存に不向きであるが故に侵略という選択肢しか残されていない。これが根岸の演説の骨子であり、侵略の正当化の論理である。

それを受けてBパートで展開される前掲の対話では、根岸が「己自身さえ変えられぬ愚かな人間が」と罵るのを受けた天道が、「それがおまえらの限界だ」と返す。これは一見して噛み合った会話には思えないが、実際にはそうではない。

Aパートの根岸の演説を踏まえて考えれば、人類の血塗られた相互闘争の歴史を根拠に掲げた人類への不信が根岸一派の侵略のロジックとなっているわけだが、そのような他者不信に基づく侵略行為もまた、自身が蔑む「人類」と選ぶところのない愚昧な不寛容さではないのか、人類の愚かな相互闘争の歴史はそのような不寛容に基づいて繰り返されたのではないのか、天道の言う「限界」とはそのような意味である。

根岸は「己自身さえ変えられぬ人間」と断言するが、それに対して天道は「人間は変われる」と応酬する。他者への不信や不寛容さから争い合う人間の愚かさは決して変わらない、だから他者である人類を自分たちに同化させると断ずるなら、それは結局彼らがディスクライブして見せた人類の愚かさと変わらない。人類への不信と蔑みを根拠として侵略を行うのであれば、ではそんな人類と変わるところのないネイティブもまた誰かもっとマシな存在に侵略されるべきだということになる。

根岸の論理は根本からウロボロス的に矛盾しているのであり、ネイティブが存在する世界の在り様を肯定するのであれば、論理的に考えて「人は変われる」と信じ、それに努めるしか道はないのである。そのように語る天道と加賀美に対して、根岸は「そんな世界も人類も要らない」と返すわけで、これは端的に言って「愚かな人類」の不寛容そのものの論理である。自らと等質な存在しか認めない不寛容さ、異物を排除しようとする不寛容さ、これはまあ白倉Pの一つ節の問題性でもある。

しかも、そんな細かい理屈を視る以前に「おまえら何う考えても亜種レベルの形態趨異しかないワームと同種間闘争をやっとったやないかい」というツッコミが入る。

要するに根岸の理屈は最初からバレバレの侵略の口実に過ぎないのであり、根岸一派は単に地球のドミナントである人類に対して同化政策を強行して実質的な侵略支配を目論んだだけである。おそらくここには皇民化教育や姓氏改正など過去の侵略戦争における同化政策一般が象徴されているわけで、異質な他者性を許容しない不寛容さ一般が仮託されているわけだが、その正体は、自身が属する「世界」が最終勝者となって他者を収奪支配したいという剥き出しの欲望である。

最後の根岸のセリフはそんな剥き出しの本音であり、平和共存がもし可能だとしてもそんなことなどハナから望んではいないという偽善の暴露である。ハナから平和共存なんかしたくないから、それが不可能であるという結論ありきのロジックを組み立てて、それを侵略対象の愚昧の責に帰しているだけである。

だからこそ、天道も加賀美も一貫して「人間もネイティブもない」という前提の話をしているのであって、ここの論理は噛み合っているのである。異質なものを許容しない不寛容さや等質化という暴力に対して、自身が変わることで世界は変わるのだ、他者を許容することで多様な「世界」が共存し得るのだと主張しているわけで、これは一種年来の白倉Pの思想が語り続けてきたテーマでもある。

その年来のテーマに対して、今回のカブトにおいては、ドラマの裏附けは持たないとは言え、目の前にある他者のものである世界を積極的に自身が担うことで変えるのだというポジティブな結論を提示しているわけである。これは白倉P自身の成長の文脈で解釈したいところであるが、今回の論題からは逸れるので軽く触れるに留める。

今この場で語るべき問題性とは、このような筋道を語るセリフの在り方である。

細かく拾っていけば無理なく解釈可能な筋道が、何故一度観ただけではわかりにくいのかと言えば、その端的なダイアログの陰にいろいろな思考の過程が折り畳まれて詰め込まれているからである。その意味で彫琢の形跡は見えるのだが、セリフ全体の流れが一続きの思考のプロセスを語っているために、息の長い一連のシーンをすべて順を追って論理立てて考えない限り、全体的に語っている内容が読み取れないようなセリフの組み立てになっている。

おそらく、これは脚本単体を読み物と想定するなら美しいダイアログになっているのだが、TVドラマというのはそもそもそんなに息を詰めて深く考えながら観るものではないのだし、一カ所セリフが聞き取れなかったら後の流れが繋がらないようなダイアログというのは、どんなアクシデントでそれが起こるかわからないのだから、TVでは避けるべきだろう。

実際、現状の作品でもスラッと聞いただけでは、加賀美が「人間とネイティブが一緒に暮らせる世界」と言うセリフがよく聞き取れない。ここで「人間同士が一緒に暮らせる世界を、争いのない世界を」と聞き間違う人がいても無理はないし自然に繋がってしまうが、そうするとここで語っている内容が、ネイティブとの共存からネイティブの排除という一八〇度違うものになってしまう。

逆に言えば、普通一般の人間は、程度の差こそあれ相手が何を話すか必ず予断を持って言葉を解釈するのだから、相手の予断の埒内の内容を話すのであればそんなに細かい言葉尻を考える必要はないが、この場面のダイアログのように独自の一繋がりの思想を語る場合には、芝居として自然か何うかという観点とは別の次元で、佐藤祐基のセリフが聞き取りにくいと思ったらもっとハッキリ言わせなければならないし、SEもセリフを殺さない程度の音量に絞らなければならない。

一般の予断を裏切るような意味性を語る箇所に関しては、そこを受け手が俗化して聞き流さないように、聞き手の自然なリズムを崩すようなエロキューションで個別の意味性を強調しなければならない。

要するに、剰り息の長い意味性を語るセリフというのは、芝居の演出を制限してしまうのであるから、この観点からも剰り歓迎出来ないわけである。一般則で言えば、そんなに意味性がコンデンスされたダイアログはTV向きではない、ちょっとセリフを揉みすぎてわかりにくくなった(セリフという最終的表現は、揉めば揉むほど明晰な説明セリフから遠ざかる)というだけの話なのだが、一方では、だからこういうダイアログは良くないと断ずるのも硬直したドラマ観だろう。

オレは割合こういうダイアログ観が嫌いではないし、現代の視聴形態から考えればそこまで意味性を追及して語る論者は、当然録画を何度も観るくらいの熱意はあるはずなので、スラッと聞き流すような視聴者はその程度に解釈しておけば好いという言い方も出来るだろう。たしかにそれでそんなに困るということもない。ああ、最終回なのに何か変なコト言ってたなという程度の理解で好いのではないだろうか。

そこからさらに踏み込んで解釈するのなら、二回ほど録画を見直せば初見時よりもセリフの意味性がわかりやすくなってくるから、その前提で論じれば好いことだろう。そもそもそこまで踏み込んで考えること自体、そのレベルの鑑賞姿勢を要求するのだとオレは思う。

ただ、そのように誤解する人が割と多かったのは、冒頭で挙げた「米村=ポエマー」説の負の影響もあるのではないかなとも思う。先ほど陳べたように、オレは米村正二という書き手は普通よりも細かく理屈を考える部類の書き手だと思うが、ポエマー=非論理的という印象があるから、そこに折り畳んで込められた思考のプロセスに思いを致す以前に「ああ、ポエマーだからね」で済ませてしまう嫌いがあるのではないだろうか。

たとえば冒頭に引いた「そして。」にしたところで、この書き方の何処がいかんのかと言えば演出を指定しているからまずいのであってポエムだからまずいのではない。これを端的に「ポエム」という俗化した表現で括ってしまうと、過剰に非論理的に見えてしまう嫌いはあるだろう。


誰もいない静かな街。
真昼の月が浮かび。
そして。

このト書きが何故「そして。」で終わるのかと言えば、ツヨシとエマが崩壊の危機に晒されたシブヤで再び出会い、「そして」何かが起こるわけだが、「そして○○○○が起こる」という一連の芝居の呼吸があるとすれば、「そして」の時点で芝居の呼吸を止めて欲しいという要請である。つまり、今まさに何かが起こらんとするのだが、何が起こるかは描かず、何かが起こりそうな呼吸だけで終わらせて欲しいという要請である。

そのように考えるのであれば、この部分の書き方は詩的であるというより「演出的」なのだし、脚本で芝居の呼吸、映像の呼吸まで指定するというのは、本来剰り褒められたことではない。このような書き方は、たとえば小中千昭がト書きを小説的に書くのと同じような意味だろうし、そのようなニュアンスを残しつつ芝居を附けて欲しいという演出者に対する希望となる。

田崎が頭を抱えてしまったのは、普通の脚本は「何があったか」を書くもので、それがどのようなニュアンスとして表現されるかを考えるのは演出の領分だからだろう。それなのに、「何があったか」を書かずにどのようなニュアンスとして表現されるかだけを指定されても、作家ならぬ演出家の手には剰るからだろうと思う。

そのようにTVドラマを終わらせたいと望む美意識自体がポエマーだという言い方も出来るだろうし、事実米村正二の物語的美意識が前時代的にロマンチックなものであることは否定出来ないだろう。しかし、実態的な狙いをすっ飛ばして「ポエマー」と括ってしまうと、「ああ、このホン書きって、ト書きに書いてもしょうがないことを勢い余って書いちゃうロマンチックな人なのね」と受け取られる懼れがある。

現に2ちゃんのスレでもそのような前提で米村脚本を非論理的だと視ている人も多いように感じるし、その為に「意味がコンデンスされ過ぎていて、書いた人間以外にはわかりにくい」という問題性を「非論理的で情緒的」という問題性と取り違えている人も多いように思う。その意味で、公式ブログもちょっと罪なことをしたと思う。

要するに、「論理を酌み取るのに苦労する」のと「最初から論理がない」のとは全然違うということだし、概ね論理の裏附けがあることを信じずに、読み取る努力すらしてあげないのはちょっと可哀相かなと思わないでもない。

寧ろ米村脚本の欠点は、視聴者が覚えているはずがないような過去の描写を前提視して再掲せずに現状を組み立てたり、視聴者が全部追えるはずがないような息の長さで意味性を構築したり、彫琢の過剰によってリテラシーの問題を超えた難解さを具えるような描写を指向するような部分だとオレは思う。そのどれをとっても、もう半歩踏みとどまるくらいでちょうど好いのである。良く言えば視聴者のリテラシーを過信しているのだし、悪く言えば書き手の「ええかっこしぃ」の自己満足である。

まあ、それ以外に一般的に指摘されている米村脚本の瑕瑾については特段の異論もないので、米村脚本に関してはこのくらいのことしか思い附かない。シリーズの中盤でいろいろワケのわからないことがあったのは、やっぱり書き手自身が過剰に細かくトリビアルに物語全体の意味性を整合させようと努めても一年五〇話の息の長いシリーズでは無理があったということだろう。

それを踏まえて米村正二とカブト全体に関する問題点を一つだけ指摘すれば、おそらく米村正二は平成ライダーのいわゆる「謎解き」要素を過剰に真に受けていたのである。これほど細かい芸風の人材なのに、カブトの最終回はこれまでの平成ライダーに例を見ないほどの豪快な「伏線投げっぱなしエンド」を迎えたわけだが、米村正二には平成ライダーにおいては謎というのは説明さえあればそれで好いのだという機微が納得出来ていなかったのではないかと思う。

オレは常々平成ライダーの「謎解き」というのはつまらないと思っているのだが、それは何故かというと、その謎が物語性に密接に結び附くものではなく、単に真相が伏せられていることに対する興味を惹くガジェットやマクガフィンにすぎないからである。

その真相が明かされたからと言って、物語の図と地が反転し、ドラマチックな意味性が立ち上がるという用い方はされていない。「ああそうだったの」という単純な納得が得られるだけであり、語り手の意図としてもそれ以上のものを狙っていない。

そして、平成ライダーのような物語においては、その謎というのも語り手がどのような裏設定を構築しているのかが伏せられているというだけの意味しかないのである。物語の観客としては、そのような裏設定が開示されたからと言って、物語性の文脈に何ほどの関係もないのであれば、それは何うでも好い細部にすぎない。

その意味で、伏線投げっぱなしエンドだからと言ってオレ的には何ら不満は感じないのだし、そもそも最初から白倉Pは細かい細部を詰めてから物語を語っているわけではないと明言している。つまり、謎が投げられた時点ではそんな謎には何の物語的な意味もないのだし、真相の開示とは予め後先を考えずに投げた伏線に後から辻褄を合わせただけの話である。

そのような思わせぶりが活きていたのは、過去の白倉ライダーに各話の挿話構造が欠けていたからであって、それらの謎の真相が、緊密な意味構造を持たない各話のエピソードの挿話的意味性を解明するキーアイテムになるのではないかという期待が、視聴者の側にあったからだろう。

各話を鑑賞した時点では、確固とした意味性を語らないエピソードによって掴み所のない不安定な気分を催させられるが、そこに適宜謎解き要素が振り掛けられることでこの謎さえ解き明かされればこの不安定な気分は解消されるに違いないと思い込む。これまでの白倉ライダーの「謎解き」要素とは、そのようなマクガフィンで視聴者の視聴モチベーションを掻き立てるもので、要するに番組を見続けるモチベーションさえ維持出来れば彼我の間で満足なのであって、その先には何もないのである。

前回挙げた写真集のインタビューでは、視聴者の生活が慌ただしくなったことでそのような手法も通じなくなっているというようなことを語っているが、簡単に謂えば白倉ライダーの謎解きには最初の最初から確信犯的に何の意味もないのである。

ここで米村正二の話に戻ると、何うも彼はそんな何うでも好い謎解き要素を過剰に真に受けてしまったのではないかと思う。物語の要所要所に設けられた伏線が最終的に合流して物語性の文脈で大きな意味を持つ、そのような作劇を夢見たのではないだろうか。

たとえばこれがチャールズ・ディケンズほどの天才であれば、後先考えずに思い附きでコキ混ぜた伏線を後附けで見事に回収して良質な物語性を完遂するという離れ業が可能だったわけだが、不幸にして米村正二はそんな天才作家ではなかった。やっぱり従来の白倉ライダー的なテンポで複数の謎が釣瓶打ちされてしまったら、それを「説明」という以上に物語性に深く織り込むことは困難だろうし、やっぱり出来ませんでしたという話だったのではないだろうか。

最終回でそれらの数多くの謎の解明が投げっぱなしになったのは、物語的に意味を持たない謎というのは、別段必ずしも最後に回収すべき劇的必然性はないからである。

たとえばクウガでもグロンギの襲撃意図や超古代文明の因縁というのは、グロンギ語やリント語というギミックを通じて伏せられていたわけで、クウガ世界の設定は謎の儘に終始したわけだが、東映チャンネルなどで放映していたグロンギ語対訳版を視れば謎でも何でもないわけである。なんでそれで通じたかと言えば、そんな細かい設定面のシステムや前史などクウガの物語性においては何うでも好いからであって、クウガの物語性というのは裏にちゃんと一貫した論理が通っていればそれで成立したからである。

つまり、クウガにおける「謎解き」要素というのは、グロンギ語の文法さえ識っていれば謎でも何でもなかったのだし、最初の最初から物語設定に織り込まれていてその前提で各話のエピソードが構築されていたのだが、時折劇中人物が伏せられた部分に対する疑問を口にすることで大筋の引きの要素として機能していたわけである。

ところが、白倉ライダーにおいては、ほぼまったく物語設定には織り込まれていない内実のない思わせぶりを謎として強調して配置することで、大筋の引きの要素を前面に立て、その実各話の物語の流れはそれらの伏線とは無関係にオープンエンディングでダイナミックに語られていたのであるから、クウガの場合とまるで逆である。各話の挿話的意味性の不在に対する不安感が、謎解きに対する期待に振り向けられることで、この先も観たいというモチベーションに繋がるのである。

つまり、白倉ライダーとは、各話のエピソードを観て挿話的意味性を感得することで視聴者満足が完結するような物語構造ではなく、継続的に見続けるという運動それ自体が挿話的意味性の文脈を離れて視聴者満足をもたらすような物語構造であったのである。

その意味で、カブトは各話の挿話構造が従来の白倉ライダーに比べて明確だったわけだから、本来は各話で物語性の情動が完結しており、謎解きというのは余剰のスパイスとしての意味しかなかったわけで、要するに従来の白倉ライダーよりももっと何うでも好い瑣事でしかないことがアカラサマであった。

だから最終回ではそれらの細かい謎を全部無視して、物語性の文脈で必要なことだけを描いたというところなのだろうが、やはりこれは当初の物語観が中途で挫折したことを受けてそのように割り切ったのではないかと思う。伏線を総て回収して最終的に意味附けるには、それと同程度に何うでも好いことが描かれすぎた。最終話の情動を犠牲にしてまでそれらの「説明」を盛り込むのは剰りにも莫迦莫迦しい。

ある意味、米村正二は白倉・井上ラインのライダーをオレ流に格好良く書いてみたいという色気がありながら、実際には文芸的な体質がそれに全く向いていなかったのだろうと思う。

先ほど触れたように、何うも白倉Pは現状で一般的な視聴姿勢を考えれば、この手法も効果的ではないと考えているようなので、今後はこの種の謎解きの大盤振る舞いも控えめになるのではないかと予想しているのだが、そうすればライターの物語性が無意味にスポイルされることもなくなるのではないかと期待している。

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