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2007年1月 8日 (月曜日)

黒猫亭とむざうの誰でも語りたがっているくせにちょっと語りにくいあのPのすべてについて語りましょう

PARALLEL LINE
[カブト]おまえの言うことは正しい。だが
[特撮][カブト]じゃあなんで戦うの?

日頃巡回させていただいているquonさんのブログの上記エントリーに、つい出来心でコメントを書き込ませていただいたことから、白倉Pの文芸性に関する話題が膨らんでしまい、それが機縁で久々にこちらでも白倉Pについて語ってみたくなった。

これまでも部分的に白倉Pを引き合いに出したエントリーは上げていたが、そろそろ現時点における白倉伸一郎に関する作家論的なテクストを総括するべき頃合いだろうということで、今回は作家としての白倉伸一郎をかなり踏み込んで論じるつもりである。

とは言え、はっきり言ってオレの中ではすでに「仮面ライダーカブト」という作品は終わっているし、米村正二という人材に対する期待も終わっている。それは番組の放映がそろそろ終了するからというより、番組開始時に期待したことがもう起こらないということをとっくに確信しているということであって、それはオレがここで何かを語ったところで変わらないのは当たり前である。


■基本的スタンス

勿論こちらで何度かレビューしている以上、嘗てはオレの中にもこの番組に対する関心はあったわけではあるが、その関心は番組それ自体の面白さとは別次元のものだったと思う。オレはこの番組を最初の最初から「白倉伸一郎の自己変革の試み」として注目するのみで、その意味合いにおいてそれに有効な機能を果たすかもしれない米村正二という新しい人材に期待を掛けていただけである。

そういう意味で、オレがカブトや白倉Pをそのような関心において語るのは、この番組自体を愛好する他者を意味もなく不快にするだけの行為ではないかと考えていたので、ある時期を境に、つまりシリーズの問題点が表面化してきた頃合いを境に、この番組について語ることを避けてきた。

リンク先での発言で語っている通り、オレは開始時点におけるようなカブトの在り方自体は肯定していたし、白倉Pがそのような自己変革の試みを行うべきであることをカブトの放映開始以前から———具体的には実写版「美少女戦士セーラームーン」放映終了後からだが———一貫して語ってきた。

だとすれば、それが白倉Pにとって現時点のキャパシティを超える試みであることはオレにとって大前提なのだから、それが失敗したからと言って殊更に批判する気にはなれなかった。オレの立場としては、そういうことをやろうとしただけでも原則論としてはもう満足なのであって、具体的各論については作品に愛情のある人が講ずべきではないかと考えていたからである。

それがまあ、ちょっとした出来心でそうも行かなくなってきたわけだが(笑)、そろそろ各論の時期を過ぎて総論の時期に来ているだろう、それならオレの関心においても何某かのことは語り得るのではないかという判断もあった。

そこでまず最初に確認しておくが、オレと上記リンクのquonさんやkorohitiさんのスタンスの最大の相違点は、オレ個人は白倉ライダーをちっとも面白いと思わないというところである。但し、自分の文芸観に合わない作品が面白くないのは当然だが、自分が面白く感じないというだけの理由で、その作品を面白がること自体が間違っていると考えるのは、まあマトモな人間の考え方ではないだろう。

自身の愛好する作品とそうでない作品を客観的な観点から比較検証して論じるというスタンスならあり得るだろうが、その場合、個人の主観的実感から出発するのでは、個人の心象現実を語るという意味しかない。面白いとかつまらないが出発点になるのなら、つまんない作品については、言うだけ時間の無駄だから黙っとけという話にしかならないだろう。

このような作品を面白いと感じる方が存在することは充分理解出来るのだが、その一方では、まったくそのような実感を共有出来ないのである。随って、オレ自身が白倉ライダーを論じることに興味は感じないが、それを面白いと感じる方がその実感の正体を言語化しようとする試みには大変興味があって、自身の実感をきちんと他人に通じる言葉で言語化出来る方が、オレが面白いと思わない作品を論じているテクストを読むのは大変面白く感じる。

オレはそれを面白がる人々の感じ方に興味があるのであり、それはオレがそれを面白がらないから成立する他者性に向かう関心、相対視点に対する関心なのであり、ジャンル作品を包括的に概観する上で大変参考になる意見だから興味があるのである。

その場合、オレ自身はオレがそれを面白いと思わない理由なら幾らでも言語化出来るのだから、他者の感じ方を識ることでそれが面白くなるというものでもないことは、これもまた当然と言えば当然である。だから、平成ライダーを面白いと感じている人と語り合う場合に議論の出発点となる前提が違うのは当然である。

そのような人々に向かって話をさせていただく際に、これこれこういう理由でオレは平成ライダーを面白いと思わないという話をしても、まったく意味はない。平成ライダーを面白がるという関心に基づいて成立している言説の場において、面白くないと思う理由を幾ら筋道立てて語っても、相手にとって興味のある話題ではないだろう。

何かを愛好する人間は、そうではない人間の意見になど基本的に興味がないのが当たり前だからであり、逆の場合、つまりそれに関心がない人間がそれを愛好する他者の意見を聞く場合よりも不快感が強いのは当たり前だからである。

今回敢えてそのような場で白倉Pの文芸性に対する批判的な言及を行ったのは、相手先の話題が、白倉ライダーを愛好するという観点において現行作品の問題点を批判的に論じるものだったからである。それを愛好するか否かと、それが文芸として成功しているか失敗しているかは無関係である。そして、大概の場合作品の失敗を惹起した個人の文芸性の問題点は、その作物に対する受け手個々人の距離感や嗜好とは関係がなく客観的に取り扱い得るものである。

個人の嗜好と無関係に、文芸を語る上で客観的な問題性を抱えているから文芸作品は失敗するのである。ならば、その問題性を何う視るかという観点の相違はあっても、それが何であるかという関心は共有出来るだろうと考えたのである。

そこから説き起こさねば気が済まないのがオレの性分の因果なところだが(笑)、ここを押さえておかないと、ただの無粋なイヤガラセととられる畏れがあるだろう。オレのようなスタンスで敢えて白倉Pの文芸性を公に語るのなら、寧ろ白倉ライダーを愛好するような方々に読んでもらえるようなものでないと意味がない。

以上がオレが白倉Pを語る場合の基本的スタンスであり、以下の論述はそのような前提で読んでいただければ幸いである。


■その馴れ初め

そもそも、ライダーに関しては好悪の嗜好が分かれるとは言え、博い意味で白倉作品として括るなら、オレは実写版セーラームーンを絶対的に支持する立場なのだから、そのプロデューサーである白倉伸一郎が手掛ける新作としてカブトに期待をかけたという経緯はリンク先の方々と同じである。

リンク先で語ったように、従来オレにとって何ら意味を持たなかった白倉伸一郎という名前を意識するようになったのは、彼が実写版セーラームーンのプロデュースを務めてからのことである。平成ライダーの全盛期と目される白倉プロデュースの諸作品についてはちっとも面白いと思わなかったオレだが、実写版セーラームーンに関しては、大袈裟ではなく一〇年に何度かというレベルでのめり込んだ。

それまで特定作品を巡る相互コミュニケーションの議論には興味があったが、個人の独立した発話としての批評行為を行うことには興味のなかったオレが、作品の文芸性や作劇術を踏み込んで論じることに興味を覚える契機となったのがこの作品であり、当ブログの発話スタイルはこの作品を論じた全話レビュー「失はれた週末」のコンテンツ作成を通じて確立されたものである。

ここ一〇年の特撮シーンで最大の収穫を一本挙げろと言われたら、躊躇いなくこの作品を推すだろうし、個人の嗜好として愛好しているというだけではなく、オレ個人の文芸観において現時点におけるTV特撮シリーズが到達し得る作劇の最高水準を達成していると考えている。

つまり、個人の嗜好の面からのみではなく、多角的なアスペクトにおいて「面白さ」を感じているわけだが、その詳細については「失はれた週末」をご一読願うとして、ここでは具体的な各論は論じない。このテクストにおいては「オレが実写版セラムンを最大限に評価していること」は既定の結論であり大前提であって、直接の論題ではないということである。今更「失はれた週末」を一から語り直すのだけは絶対に御免蒙る(笑)。

この場合、プロデューサーとメインライターの組み合わせは、過去の「仮面ライダー龍騎」と同一であるわけだが、オレは他の白倉ライダーと比べてもとくに龍騎を面白いとは思わなかった。だから、同じ人材の組み合わせであるにも関わらず、何故この番組を面白いと感じるのかと考えた場合、白倉ライダーとまったく似ていないからだと結論附けるしかなかった。

それを経験則からざっくり考察するなら、オレはこのプロデューサーの作物を面白いと感じたことは殆どないが、この脚本家の作物を面白いと感じたことは何度もあるのだから、龍騎を面白いと感じなかったのはこのプロデューサーの資質が前面に出ていたからであろうし、セラムンを面白いと感じるのはこの脚本家の資質が前面に出ているからであろうと考えた。

さらに言うなら、この番組においては従来の東映特撮とは違って「シリーズ構成」として小林靖子がクレジットされているので、普通の感覚で考えるならPの文芸面への関与度は一般の東映特撮作品よりも低いのではないかと予想した。

実際、「失はれた週末」でも初期の認識はそのようなものであった。そのような認識を改めたのは、おそらくプリンセスムーンの登場以降のことではないかと記憶している。プリムンというキャラクターの設定自体が激しく白倉思想臭いわけで、その前後に刊行された彼の著書における作劇思想を色濃く反映した存在に思えたため、当初の予想を超えて白倉Pの関与度が高かったと判断せざるを得なくなった。

シリーズ構成的にはこのキャラクターの存在が全体の物語性を破壊したわけで、このような劇中存在が必須であると考えるこの人の文芸観は何故こうも不可避的に奇妙ないびつさを抱えているのだろうと考えたのが、白倉Pに興味を覚えるに至った発端である。

当然ながらその時点の白倉観は剰り好意的なものではなく、頭でっかちなインテリ気取り、それでいて文芸的な素養の面ではかなり欠落があるという散々な評価だった。まあそれにはやはり「東大卒」という輝かしい学歴に対する逆差別的な先入観があったことは否めないが、それ以前に本人の衒学癖が招いた自業自得という面もあっただろう。

その時点では、かなり表立った場面でしか彼の公的発言を目にしていなかったので、オレの印象としては「テキトーなリップサービスをするだけの調子の好い人物」というものでしかなく、Pというのはテキトーに威勢の良いホラを吹くのが商売なので、その限りでは別段何うということもない普通のプロデューサーだと思っていた。

しかし、オレもいい加減しつこい性格なので、白倉Pの公的発話を現在は固より過去にも遡って追跡するように努め、彼の著書である「ヒーローと正義」も再三精読し、この人物の物の考え方や文芸観を少しでも理解したいという意欲だけは抱き続けていた。何故なら、たしかにプリムンの投入によってセラムンの物語世界を破壊した「戦犯」は十中八九まで白倉Pだが、オレを興奮させた良質な劇的世界の構築に重要な役割を果たした人物もまた白倉Pだからである。

現在では、ツテを頼っていろいろ非公式に情報を仕入れた結果、あの時点で小林靖子が独自裁量であのような劇的世界を構築し得たはずがないことを個人的に確信している。形式上「シリーズ構成」とクレジットされているのは、小林靖子が「結果的に書いてしまったこと」を最大限に活かしたシリーズ展開になっているという意味であって、普通の意味でのシリーズ構成的な役割はやはり白倉Pが演じていたのだろう。

当然ながら、一人の書き手としての小林靖子固有の文芸の力がなければあのような作品は生まれなかったのだが、その力をこれまでになく引き出して書かせ、そのような高度な文芸性を肯定的に捉えて援助したのはやはり白倉Pなのだと考えるようになった。

つまり、オレがまず白倉Pの資質を好意的に評価したのは、作業の実践において他者と協業出来る柔軟さやプロデューサーとしてのスキルだったということである。今ではこのような比較をすると特定作品の信者と疑われ笑われる畏れがあるが、高寺成紀が相手ではこうは行かなかっただろうというのは、彼と小林靖子が組んだ「星獣戦隊ギンガマン」の実績から推測出来る。

ギンガマンのTV文芸としての美点は、揺るがないシリーズ構成の美しさであり、良く出来た戦隊としての良さである。各話のドラマ性もたしかに優れているが、この番組の最も注目すべき部分は、一年五〇話のTVシリーズを整合的に語る構成の堅牢性だろうし、そのシリーズ構成術はたとえば「魔法戦隊マジレンジャー」の塚田Pに受け継がれていると思う。TV文芸におけるこの種の美点は、やはりシリーズを統括するPの文芸性に多くを負うものであり、各話の作業者はその全体的水準を下支えする存在であると言えるだろう。

一方、実写版セラムンの凄みは、各話のドラマ性の高度な水準と独自のリアリティを語る話法の先鋭さ、プロットの複雑玄妙さ、そしてそれを映像化する場面における各話演出者をはじめとするスタッフの技倆の突出である。さらに言えば、少なくともシリーズ前半におけるシリーズ構成も、各話の先鋭なドラマ性を突き詰める上で最大限に効果的なものであった。つまり、各話の作業者の文芸性が突出した作品であって、Pはその実現の黒子や舵取り役に徹していて、理想的な協業を実現しているということである。

そして、たしかにこの作品の表面に顕れている文芸性は紛れもなく小林靖子ならではのものではあるのだが、その高度なレベルは従来の小林脚本には視られなかったものであり、白倉Pのプロデュースでなかったらそのレベルにおける文芸性が成立することはなかったとオレは考えている。

セラムンの文芸性が従来のトクサツ番組のレベルを遥かに超越したものであることは前掲レビューにおいて再三に亘って論じてきたことだが、何もオレは「一般ドラマにも恥じない文芸性」をトクサツ「であるにも関わらず」実現しているから凄いんだなどというDQN臭いことを言っているわけではなく、トクサツという容れ物によって語り得る文芸的内実の地平を、手心一切抜きで飛躍的に拡大したことがこの作品の凄みであると考えている。

オレがこの作品に対する考察を通じて、最終的に白倉伸一郎という作業者への興味を感じるに至ったのは、女児向け実写特撮番組という前人未踏の領域への参画に際し、目先の商売の理屈に囚われない美しい理想を持っていると感じられたからであろうと思う。

文芸において未だ何人も踏み込んでいない領域を伐り拓くためには、理想がなければならないとオレは考える。現代におけるTV文芸はたしかに一つのプロダクトではあるのだが、それと同時にプロダクト的なるもの一般に対するアンチテーゼでもあるというのがオレの文芸観であり、文芸一辺倒でもプロダクト一辺倒でもなく、その両者の高度なバランスによって成立するものであると考えている。

人の生の現実を語る意味構造が現代的な「モノづくり」の方法論のみで成立し得るものではないのは当然だが、それは受け手との間で流通する実体においてコンテンツとしての良質なパッケージ商品の体裁をとらねばならない。その意味で、プロダクトとしての性格を斟酌する現実的な必要性はあるが、受け手が過剰にプロダクトとしての側面を重視するのでは、真っ当な作品論とは成り得ないと考えている。

そもそも商売の理屈で言うならば、人気アニメ「星のカービィ」の大人の事情による終了で空いたニッチの枠で新規視聴層向けのコンテンツを必ず当てろというのが無理筋であり、最初からシーズを探るための一種の実験枠であったと視るほうがわかりやすい。

この作品の今後の方向性を占う分岐点となったのが第五話であることは公的な資料からはっきりしているが、各種の証言から組み立てたオレの推理としては、それはおそらく偶々小林靖子が「いつも通り」逸脱的に先鋭なリアリティの脚本を書いてしまったというだけの話であって、それだけならTV脚本家としての小林靖子の「悪い癖」というだけの話で終わったと思う。

ただ、この枠の手垢の附いていない性格を鑑みる場合、「こうでなければならない」という縛りはそれほど強くなかっただろうし、それが実現可能なのであればこの方向性を否定する根拠はなかったと言えるだろう。その分岐点の決定が外様の舞原賢三に一任されたのは、その突出を効果的な映像作品として成立させ得る可能性が、言葉は悪いが東映特撮とは縁が薄い寄せ集めの外部演出者陣にあるのか否かが実験的に試されていたのだろうと思う。

そして、この脚本に仮託された小林靖子内部の逸脱的なリアリティの物語が舞原賢三によって映像化されたことで、書き手のイメージを超えた異質な文芸的リアリティとして実現されてしまったのであり、それが小林靖子の中のセラムンという物語をも決定附けてしまったのだとオレは考えている。

このエピソードは、脚本だけを視る限りそれこそ「ちょっとトンガリすぎ」「また黒い小林靖子が出ましたね」という程度のレベルだったと思うのだが、それを映像化する舞原演出が脚本と同程度に雄弁な仕事をしていることが、外部の血を入れたことの好影響として効果的に機能したのである。

たとえばセラムンに先行するガオレンジャーの舞原演出回を視る場合、「諸田演出よりちょっとマシ」程度の出来にしか見えないが、「諸田演出よりマシ」というのはある意味当たり前なので、何を言ったことにもならないだろう(笑)。これはフリーランサーとしての舞原賢三のいつもの作法であって、彼は何処の現場へ行ってもその番組のカラーにキッチリ合わせた演出を心懸けて外さないというのが基本的な持ち味であり、演出家の個性を前面に出すタイプの監督ではなかった。

しかし、四半世紀以上の伝統を誇る戦隊とは違って、新規枠における新規ジャンルに確たる番組のカラーはないのだし、出発点においてすでにパイロットの田崎竜太が抜けることが確定していたという事情もあった。つまり、実質的にこの番組のカラーを今後つくっていくのは舞原賢三や高丸雅隆なのである。

その前提において「黒い小林靖子」の一筋縄では行かない脚本を渡され、その出来如何で今後の方向性を決めるとプレッシャーを与えられたことで、舞原賢三という演出家独自のカラーが発揮されたことから、実写版セラムンの伝説は始まったのである。

この脚本と演出のせめぎ合いが実現した高度な映像的リアリティは、それまでのトクサツジャンルには存在しなかったものであり、この良質なアウトプットが小林靖子を刺激してさらにこの種の先鋭な文芸的リアリティを追及させ、その脚本のレベルに舞原演出がガッチリ応え超克し、その協業のレベルの高さが他の演出者に伝播するという好循環が起こったというのが、この番組の作業実践に関するオレのディスクライブである。

つまり、最前指摘した通りこの作品の表面に見える具体的な美点は作業者ベースのそれであって、上手く機能している限りにおいてはプロデュース的な仕事の側面は見えてこない。それ故に、オレの全話レビューにおいて初期エピソードの解析に欠落があるとすれば、作業者ベースの解析に徹している部分であろうと考える。

シリーズ全体を通じた白倉Pの関与度を妥当に見積もっていれば、その全体的シリーズ構成に内在する白倉的文芸観を視野に入れた論述が可能だったのだろうと思うが、如何せん、当初は(笑)リアルタイムでのレビューが基本スタイルだったので、その部分はプリムン登場後に顕在化した問題性に絡めてのみ論じており、全体的な言及とは成り得ていない。

セラムン終了後のオレの白倉Pへの拘りは、全話レビューを通しても見えてこなかった白倉伸一郎の文芸性を見極めたいという動機に基づくものであり、セラムンという作品単体だけを何度繰り返し視てもそれだけでは充分に見えてこない。

それまで興味を覚えなかった平成ライダーの諸作品や、これから語られるであろう未生の作品群を視ていくことによって、漸く白倉文芸の総体が見えてくるのであり、その体系を背景としてセラムンを捉えることが可能となる。

それを見極めることで、漸くオレの中のセラムンという事象にケリを附けることが出来るのである。


■著書と知の在り方

その考察プロセスにおいて第一に興味深かったのは、白倉伸一郎の思想の表明として最も纏まったテクストである前掲書「ヒーローと正義」である。あとがきの内容や奥付の刊行日時を視るに、このテクストは主に二〇〇三年から二〇〇四年にかけて書かれたものらしい。

時期的には早くとも「仮面ライダー 555」初期の時分に執筆依頼があり、セラムンを手掛けていた頃は執筆の真っ最中だったはずなので、この書籍の内容がまさしくセラムン制作時の白倉伸一郎の物の考え方を如実に顕わしているはずである。

今回のエントリーを書き起こすに当たって久しぶりに軽く目を通してみたのだが、大筋の印象は初読の際から一貫して変わらない。ネット上の目の利いた意見の大勢に違うことなく、整合的な内容を語るテクストとしてはお粗末の一語に尽きる穴だらけの詭弁と言えるだろう。この種の教養書まで「ライブ感覚」で書いているのでは、マトモな読者が相手にするはずがない。

オレの識る限りでは、当該書籍の刊行時におけるパブリックイメージとしての白倉像は「腹の読めないインテリ策士」というイメージの埒内で納まっていたと思うが、そのイメージの連続上でこの著書を検証する場合、その論述の穴や矛盾は自己正当化のための強弁の胡散臭さとしてしか感じられなかった。

若干イヤガラセめいた動機もないではなかったが、初読当時はこの書籍の矛盾点を逐次的に検証したテクストを全話レビューのコラムとしてコンテンツ化しようかと考えたくらいで、正直、現時点における特撮界きっての知性派論客と目されている人物の考えることがこれなのかとかなり失望したことは事実である。

どの辺が何う矛盾しているのか、どのような穴があるのかを指摘することには、当時ほど意欲を感じていないので、興味のある方はネット上にその種のテクストがたくさん転がっているから一度検索してみるのも一興だろう。要するに、マトモな読解力と論理性を具えた読者なら到底そんな内容を真に受けることはないというのは確かで、これは白倉シンパと視られる論客でも批判派の論者でも大筋同じような結論である。

しかも、内容の稚拙さもさりながら、あとがきで堂々と「知的誠実性」の重要性を強調しているのには、失望を通り越して腹立たしくさえ感じる向きもあるのではないかと思う。論述内容の論理の飛躍や牽強付会、イメージ連鎖やタームの曖昧さに基づく論旨のすり替え、引用作品の恣意的誤読が氾濫したこの論述の何処に「知的誠実性」が視られるのかと、小一時間説教をしたくなる人もいるだろう。

オレの白倉Pに対する不信感は、この著書を精読検証したことでさらに高められたと言えるだろう。井上敏樹が嘗て白倉伸一郎を指して「尤もらしい理屈は附けるが、その中身は野獣」と評したが、要するに結論ありきでその結論を強弁するための後附けの理屈でしかない。オレは基本的に、勝てば好いという類の議論は嫌いだし、言い負かせば勝ちだとも思っていないので、結果として他人に納得を強要するための詐術でしかないこの種の詭弁は大嫌いである。

しかし、あれから時間も経ったしその間にいろいろなことも起こった。ネット上の引用で過去の白倉Pの発言を目にする機会も増えたし、白倉ブログも隅から隅まで漁ってみたし、例の騒動に際しての彼の言動から本音の資質の部分が伺い知れたようにも思う。

そこでいちばん認識の改まった部分というのは、白倉Pは現場の作業者に対して非常に誠実で好意的だということである。最前指摘したような表立った場面におけるハッタリや詭弁は職掌柄当然だが、現場の作業者を交えた懇談では驚くほどナイーブに本音で話しているという印象を受けるのである。ある意味そのぶっちゃけぶりは、人前では建前論的姿勢を貫く高寺Pの発話などよりも数段純粋な印象すら受ける。

リンク先の発言でも少し触れているが、たとえば西遊記に触れたエントリーでは、別段東映という企業組織が絡んでいるわけでもないまるきりの他人事の作品を敢えて持ち前の詭弁で擁護してみせているが、これは彼のそのような現場の作業者に対する強い共感が動機となっているのだろう(などと理解者面をしつつも、イヤガラセのエントリーを上げたりしているわけだが(笑))。

響鬼騒動の際の同僚高寺成紀に対する好悪相半ばする態度も、確固として自分自身の物語観を持っている積極的な現場の作業者である高寺Pへの共感と、我執から現場を圧迫する高寺Pの企業人としての不適格性への生理的嫌悪感のようなものの葛藤の結果だろうと思う。

つまり、その言動や思想の是非はともかく、動機面における誠実さは信用してもいいのではないかと思うようになったのである。但し、大人の社会人である以上「悪気はないんだけど」というのはまったく留保にならないのであって、どんなに純粋な動機から発していようと詭弁は詭弁であり、その種のお粗末な詐術で既定の結論を圧し附けるのは表現者としてフェアな姿勢ではない。

ただ、白倉Pが抱える文芸性の問題点の捉え方がそれで少し変わったことは事実だろうと思う。当初の白倉像におけるディスクライブでは「多寡を括った傲慢さ」に見えた事柄が、その人となりを多少識るに連れて「知的な場面で要領が好すぎたツケ」として見えてきた。

著書のグダグダな内容も、自身の穴だらけの知の在り方をさらけ出してまで文芸的な実感を言語化しようとする真剣な試みなのかもしれないと思うようになってきた。少なくとも、当初抱いていたような社内プレゼン的な胡散臭さは剰り感じなくなった。

従来のイメージからすると違和感を感じるかもしれないが、オレは白倉Pの文芸性におけるいちばん身も蓋もない具体的な問題性とは「勉強不足」もしくは「文芸修行の手法面の失敗」だと考えている。以前全話レビューで「文芸の勘がない」と斬って棄てたことがあるが、要するにちゃんとみっちりやっておかねばならない基礎的素養の形成に失敗しているという印象なのである。

映像作品というのは認識の制度である以上、つくる場合にも観る場合にも一定の基礎の研鑽が必要である。以前から当ブログでは諄いくらい強調していることであるが、文芸一般には約束事があるのであり、それが約束事である以上、文芸を生業とする者は一生の裡のなるべく早い時期に地道にそれを学ぶ必要があるのである。

オレが白倉作品に感じる妙な文芸上の違和感は、白倉P個人の文芸観にこの種の研鑽を積んだ形跡がないことに起因しているのだと思う。これもリンク先で少し触れたことではあるし、以前当ブログで語ったことではあるが、これから突っ込んでミステリを論じますよという場面で「倒叙推理」を識らないということは普通はあり得ないのである。

御存知の通り彼はテレ朝出向前後に何本かミステリドラマを手掛けているし、まあ、東映に所属する限り刑事物やサスペンスの製作に携わる可能性は高いわけである。そのような企業に属するプロデューサー職の人材が、まったくミステリの基礎を識らないというのは普通ならあり得ない。文芸に興味を持ちながら、生涯を通じてミステリにハマった時期が一切ないというのは、オレの個人的な想像力の限界を超えている。

些末な事柄をいつまでも引っ張るのも何うかと思うが、一事が万事で、彼の言動にはすでにとっくの昔にケリが附いたような文芸上の問題性を事新しく喋々する傾向があり、以前のオレはそれをただの安っぽい衒学趣味や啓蒙家気取りであると考えていたのであるが、周辺情報や媒体上の発言から彼の人柄を詳しく識る裡に、それは素で識らないのだと考えるようになった。

要するに、白倉伸一郎という人の文芸的な見識にはランダムな偏りや網の目状の不可解な穴があるのである。何というか、小難しい先鋭な現代思想に適応性が高かったりする半面、体系的に勉強した形跡がなく、博く浅く独学で囓り読みしたような基礎的素養のムラがあるのである。

せっかく本邦の最高学府に在籍していたのだから、何かを体系的に学ぼうとすれば幾らでも機会があったと思うのだが、何うも彼は在籍期間を通じてずっと映画を撮っていたらしく、素養の仕込みは独学で行っていたのではないかと思う。しかし、独学だから絶対ダメだということはないわけで、実際、文芸の手筋など大概の玄人は手探りの独学から始めるのであり、偉い先生から親しく教わるという恵まれた環境の人などそれほどいるわけではない。

では何故彼の素養がここまで偏っているのかというと、おそらく知的な勘が好かったために、却って実直且つ網羅的に研鑽を積むということに不向きだったためではないかと想像する。その想像が当たっているか何うかなどオレは識らないが、何うもブログ上で松岡正剛を度々引用しているところを視ると、体系的な学びのプロセスの重要性を軽んじている可能性が多分にある。

この松岡正剛というのは編集界の大立て者だが、白倉Pが度々引用する「千夜千冊」は初学者には結構危険な罠である。このコンテンツは、松岡が掲げる書籍をすでに網羅的に読みこなしている人間にとってはエキサイティングな知の挑発と成り得るだろうが、どんな本をどのような手筋で読むことが勉強になるかという観点の、初学者向けのブックガイドとしては全然役に立たない。コンテンツ中のハイパーリンクも、そのような目的で張られたものではない。

ブックガイド的なリンク観で言うなら、特定の箇所に張られたリンクはその箇所を理解する補助となるようなテクストに向けて張られているのが当たり前だが、このコンテンツではそうではない。その特定の箇所と別のテクストが出会うことで新たな意味性が生起するべくハイパーリンクの機能が設定されているのである。それ故に、ここに掲げられた書籍にまったく馴染みのない人間がこのコンテンツを読むと、リンクを辿る毎にどんどんわけがわからなくなる仕組みになっている。

普通一般に考えられている学の体系を、松岡の所謂「編集工学」に基づいて再編集することで、新たな独自の意味性の生起が目論まれているのである。決してサラの状態の初学者に学びの道筋をガイドするためのものではない。それはテクストを書いている松岡自身が学の体系を総合的に渉猟し、オーセンティックな意味での「見識」を具えていることからもわかるだろう。

松岡正剛自身の知の在り方は、充分以上にオーセンティックな識者的見識を信頼しているのであり、だからこそそれを体系的な学と見識に基づいて再編集することで新たな意味性が生起することを信じられるのである。若き日の白倉伸一郎が、その辺の妥当な理解もない儘にそのようなセイゴオ思想にかぶれた時期があったのであれば、松岡正剛もかなり罪作りである。

松岡正剛がこのような知のリンク構造を構築し得るのは、彼がオーセンティックな意味における体系的な学の必要性を疑わないからではないかと思うのだが、この種の戦略的でダイナミックな知のリンク構造それ自体が新たな知の在り方だと真に受けてしまった若人がいたなら随分可哀想である。

「読みの手筋」を考える場面においては、オーセンティックに共有されている道筋を外して我流で恣意的に読むのでは意味がない。そういうオーセンティックな体系をまず会得してから、編集工学的観点における新たな読みの手筋を考えてみなさいということなのだろうが、それは一歩間違うと、いろんな書籍をランダム且つ恣意的に関連附けて読むことが創造的読書術だという誤解に繋がるだろう。

それが学の体系的前提を共有していない初学者であれば、頓珍漢で他人に通用しない奇妙な恣意的理屈を育んでしまうのも無理からぬところだろう。これもまったくの憶測に過ぎないが、白倉Pの基礎的素養の奇妙な飛び石的性格が、このようなセイゴオ理論の誤解に基づいているのであれば割合腑に落ちる。

そもそも、和歌や漢学、書画骨董の嗜みのあるような古典的教養人が、そんな我流の読みを推奨するはずがないだろう。これらの教養は、優れた師に就いて暗黙知的に学ばねばマトモな素養が身に附くはずがない。それはつまり、オーセンティックな学の体系的前提を共有することであり、我流の読みの対極に位置する知の在り方であり、松岡正剛の縦横無尽な一流人士との間の知の人脈あったればこそ、この種の試みが意味を持つのである。

相関連する個々の書籍の特定の箇所における知識情報が、孤立した点として繋がり合うのではなく、一見関連性のない書籍の特定箇所における知識情報という点に繋がる学の体系と体系がぶつかり合うから、このコンテンツのリンク構造はダイナミックなのである。その点としての特定の知識情報が膨大な知の体系に繋がっているという認識があるからこそ、点と点を結ぶハイパーリンクが、異質な体系と体系を繋ぎ合わせる知の結節点に成り得るのだ。

乏しい小遣いを遣り繰りして買った限られた数の本を自宅で寝転んで読んでいるだけの怠惰な学生さんが、ちゃんと体系的に学ぶこともなく恣意的に本を読むだけでその真似が出来るはずがない。

普通一般の独学者は、初学者的濫読の中から、一般に共有されている知の体系を暗黙知的に掴み出し、個々の書籍に顕れている点としての知識情報が、どのような文脈上に位置附けられているのかを識る。その体系において、個々の情報の断片がどの程度の妥当性を持っているのか、偏差を持っているのか、それに対する相対的な判断力を身に着ける。点としての知識情報が、どのような体系的根拠を持っているのか、先人のどのような試行錯誤を由来として持つ現状なのか、そのような知を身に着ける。

しかし、白倉的知の在り方は、点としての知識情報を既存の学の体系上にプロットして全体の文脈を共有するのではなく、初学者的濫読の儘に各個の点的知識情報を既存の文脈から離れた自前の体系上に恣意的にプロットして白倉的思想を構築しているように見える。体系的文脈から切断され恣意的に意味附けられ恣意的に組み合わされた知が、一般的に共有されている妥当性を具えるわけがないのは当たり前のことである。

ウェブやハイパーリンクに関する白倉Pの種々の言及は、そのような恣意的で分断的な知の在り方が根底にあることの傍証になっていると思うが、この種の軽やかな知の在り方の提唱は、たしかに八〇年代に流行った格好いいアカデミズムのトレンドだったのだが、腰を据えて何かを体系的に学ぶという泥臭い基礎研鑽の必要性がなおざりにされがちだったという弊はあったと思う。

ニューアカ直撃世代である白倉Pの知の在り方が、そうした時代性の弊を免れていないというのも、一種個人の責任や資質というばかりではないのかもしれない。あの時代性が後にどんな知の禍根を残したかというテストケースとしても興味深いだろう。


■響鬼論争が示すもの

そのような弱点を抱えているからこそ、たとえば例の東雅夫との論争(にはなっていないが)に際して「せめて一般的な《鬼》《妖怪》概念や、《鬼譚》という物語が、陰陽道に立脚した上で成立していると論証しなければ虚論にすぎない」などというような、ちょっとアレなことを言ったりするのだろう。

東雅夫は別段大して独創的なことを言っているわけではなく、一般的なトレンドとしての「鬼学(つまり一般的に「オニ」と考えられている存在に対する研究)」の文脈上の前提を共有しているにすぎない。

その文脈の大前提となっていることを論証する必要があるというのは、議論のスタートラインにすら立っていないということになる。それを論証せよと迫るのは、一般的に共有されている「鬼学」の体系を一から講釈しろということである。これはまあ、東雅夫個人の論旨の妥当性云々以前に、その筋の専門家と議論を交わす際にはお話にならない知的に怠惰な姿勢だろう。

当ブログの論述スタイルも、現時点における点的事象を語る場合にはそこから遡ってしつこく体系的文脈のあらましを浚うほうだが、それをウザがる読者がいることは充分承知している。響鬼論争で白倉Pが要求したことというのは、このような手続を一冊の本になるくらい徹底的にやれということにしかならない。まあ、それで本当に一冊の本を作ろうと考えた東雅夫も大概大人げないが(笑)。

あの議論を内容面ではなく事象面から論じるなら、前期支持者である東雅夫が前期響鬼の鬼学的な面白さを語っている意見に対して、このようなナイーブな意見をぶつけることで「あ、こいつ、やっぱわかってねーじゃん」という「結論」を出してしまったということは言えるだろう。つまり、論争相手の視点では、殊更議論するまでもなく最初から答えが出てしまったということである。

高寺Pがそれほど鬼学のトレンドや知の体系に堪能なのか何うかはわからないし、それを判断する材料が製作された作品しかないのに比べ、白倉Pのほうは自身の発言でそれらの体系に対して全く無知であることを暴露しているわけである。あの後東雅夫がこの議論から発した論考を引き継いだのは、単に彼個人が論争好きだからである。

しかし、響鬼論争個別のアスペクトで考えるなら、これは別段白倉Pの非でも何でもないだろう。あの時点における白倉Pの立場としては、企業人として他人の企画の手仕舞いを引き継がされただけなのだから、そもそもそんな知の体系に明るいはずがないのである。白倉Pの失礼な受け答えも、単に2ちゃん的な卓袱台返しの口喧嘩のテクにすぎないだろうし、ぶっちゃけ東雅夫的な動機の議論には一切興味などなかったのだろう。

但し、この場合に問題となるのは、それが白倉Pの知の在り方一般の傾向でもあるということである。彼は各個の知識情報に接する際に、それを体系から切り離された点として扱っており、その前提で各個の知識情報の内容の妥当性を判断している。これは大変危険なことで、普通一般の書籍に顕れている知識情報は、その前提となる学の体系を共有していないと妥当に判断し得ないのである。

考えてみればそれは当たり前のことであって、よほど入門者向けに特化した一般教養書でもない限りは、体系的な文脈においてすでに妥当性が保証されている事柄までその都度論証するはずがない。数学を論じる場面で、一々定理を論証してから個別の論題を論じるなどというアフォな真似をする論者はいない。数学の定理は纏まったコンパクトな命題の形で流通しているから直観的にわかりやすいが、これは人文系統の学においても同じことである。

たとえば「一般的な《鬼》《妖怪》概念や、《鬼譚》という物語が、陰陽道に立脚した上で成立している」というのは、鬼を突っ込んで論じるという場合、まあ普通一般に妥当だろうと考えられている定説の類である。それはこの問題に関心を持っている多くの人がいろいろな情報から考え合わせた結果、そう考えるのがまあ当たっているだろうという判断の集積である。

それと同程度に有力視されている別の定説があって、その両者の間に決着が附いていない以上は一方を当たり前のように前提視するのは何うなんだ、という議論はあり得るだろうが、そもそもそのような「有力な定説を前提視する」という手続自体に疑義を呈されたら深く踏み込んだ議論が成立しない。

たしかに人文系統の事柄に関しては、数学や物理学のように「これだ」という定理や法則はないのだが、多くの人々の考察や研究の結果として最も「本当らしい結論」が定説として採用されている。その問題について論じるのならば、せめてこれまで先人がそれを考察した体系的プロセスを諒解していなければ、そもそも関心を共有する他者との間で議論が成立しない。それこそ、「オレ理論」では誰にも話が通じないのである。

どんなにアタマが良くても、その知の歴史に連なる多くの人々の真剣な考察と研究の結果に勝るだけの結論を、一個人が一から考えて得られるわけがない。その種の知的な謙虚さや誠実さを持たない論者の意見は必ず誤るし、それ以前にそもそも原理的に一切の妥当性を獲得し得ないだろう。「確からしい」ということが多くの人々にとって納得可能であるということなら、多くの人々が納得している結論の体系的根拠を識らずして新たな結論を出せるはずがない。

リンク先のコメントで「旧世代に対する侮り」と表現しているのは、その種の知的な謙虚さや誠実さに関する問題である。これは知の在り方一般に関する問題であると同時に一般則としての言説の妥当性に纏わる問題でもある。

たとえば若者一般には年寄りのすることが一見愚昧に見えるだろう。失敗から何かを学んだ経験が乏しい若者から視れば、年寄りのやることは「こうすればいいのに」という不満を覚えることだらけのはずである。

それはたとえば、昨年放映された古畑任三郎ファイナルの「今、甦る死」で、新社長に就任した藤原竜也が自信満々で重役連に披露した自社の経営改善案がすべてやり尽くされ失敗した後だったことを識るというくだりにも顕れている機微であって、たとえば平成ガメラの樋口真嗣が「人がやらないことにはやらないだけの理由がある」と表現した通りの筋道である。

学を体系的に学ぶことが必要なのは、また先人の経験則を尊重すべきなのは、大概の凡人が思い附くようなことは、すでに誰かがやっているものだからである。自分が誰でも思い附くようなことしか思い附かない凡人ではないと無根拠に思い込むのは、結果的には廻り道でしかない。

殊に文芸の歴史は数千年を遡るのだから、大概の問題性は残らず掘り起こされているのであり、そのような問題性に対して先人がどのようなアプローチを行ったのか、その試みがどのような経緯を辿ったのか、今現在定石とされていることにはどんな体系的根拠があるのか、それを識らずしてその問題性に向き合うのは一種の徒労である。

すでに蛍光灯が発明されている時点で、一から白熱電球を発明しようと奮闘努力するのが如何に他人から視て無駄な営為であるかを考えてみればいい。同じような努力を敢えて行うのであれば、もっと優れた蛍光灯を生み出す方向性にその労力を費やせばいいのであって、今更一から独力で白熱電球なんか発明されても、凄いのは凄いけれど他人にとっては何の意味もないだろう。

しかし、人間の営みには実際にやってみて実感しないと学ばない事柄というものもたしかにあるのだし、その悪戦苦闘の試行錯誤を試みる猶予期間として若者の時間があるのだが、何度も繰り返す通り、人の生に有限の時間しか与えられていない以上、人はいつまでも未熟な若者の儘ではいられない。

成長するための猶予期間の裡に若さの過ちを犯し尽くしたら、一人前の人間として従来の知に対して新たな何かを附け加えることが要求されるのである。そのような立場を自覚し、引き受けた者が「大人」と呼ばれる存在である。

嘗てオレが白倉伸一郎という個人を「若い」「大人ではない」と感じたのは、彼の知の在り方が未だ先人への侮りを払拭しておらず、体系的な知を軽んじているように見えたからでもあった。


■自己認識としての「大人」

しかし、そのような白倉観を覆すかのように、ここ一、二年の白倉Pの発話は旧世代の智慧に対するリスペクトや自身の未熟さに対する反省のような論調のものが増えてきている。昨年末に更新されたエントリーなどが典型的だが、若き日のトンガっていた自身の姿勢を振り返り、自身の周囲に存在した大人たちの智慧や経験に今になって気附くというストーリーの懐旧談が増えている。

それはやはり、事実において彼自身が大人の世代になってしまったことと無縁ではないだろう。自分よりも若い世代の人間が、嘗て自分自身がそのように考えていたことをぶつけてくることで、そしてその若さに対して最早視点を共有出来ないことを思い知ることによって、人は自分が大人になってしまったことを識るのである。

若さ故のイタさというのは、客観視しなければわからない。自分以外の他者が同じことを演じるからこそ自分自身のイタさに気附くのであり、その他者のイタさに対する責任を感じるのである。

何故なら、大人は嘗て若者であった経験はあるけれど、若者は大人だった経験などないからであり、その意味で大人と若者は公平ではないからである。若者が自分のイタさに気附いていないことや、その若さがどのような顛末を辿るかということ、大人がそんな若者に何をしてくれたのかということ、これを嘗て若者だった大人は識っているが、若者自身は識らないのが当たり前だからである。

たとえば、大人が自身の経験に照らして若者にする助言は、大概そんな経験的実感を持たない若者には通じない。しかしそれは、「通じなくて当たり前」と澄ましていればいいというものではなく、原則的に通じさせようと努力する必要があるのである。そのように努力することで、今は通じなくても、たとえば今の白倉Pがそうであるように、その人物が大人の立場に立ったとき、良い大人になり得る可能性があるからである。

そして、マトモな想像力さえあれば、自身の若き日に立ち塞がった保守的な大人たちが当時自分がそのように視ていたようには自信満々でなく、内心では弱い迷いも抱えていたことを、自身の立場に照らして更めて識るはずである。そのような迷いを超克して、若く未熟だった自身に何かをもたらしてくれたことを識るはずである。

それを識ってしまったら、若者に対して「大人は信用するな」と本心からは言えなくなるのである。信用出来る大人もいることを、自身の行動を通じて若者に信じさせる絶対的な義務が生じてくる。嘗て自身が接した大人がそうしてくれたように。

自分自身が若者の立場であれば、「大人は信用するな」と叫べばそれでよかった。

しかし、その自分が大人になってしまったのであれば、それは単に自分に対して公平ではあり得ない他者を、一方的に悪者に仕立て上げただけのことでしかないことを理解してしまう。世界に責任を持っていない人間が、責任を持っている立場の人間を糾弾していただけの話であることがわかってしまう。若者にとって、世界とは大人のものであって自分たちのものではないからである。

大人であるかないかという立場上の違いは、要するに現在の世界に責任を持っているか否かの違いでしかない。若者たちにとって、世界が自分たちのものでない以上、その世界が気に入らなければ責任者である大人を責めればいい。

オレが白倉ライダーを若い物語であるとするのは、語り手自身が劇中でさすらう若者たちと同等の目線で、世界を他者のものとして眺めているからなのであり、この世界がこの物語を語っている自分たち自身のものであるという認識「だけ」はないからである。

オレがこの種の物語に批判的になるのは、事実において大人の世代にある者には、たとえ文芸の上であれそのような認識の欠落が許されるとは思えないからである。人間の生は無限に社会参画が猶予されるものではない。特定の年齢になったら、否も応もなく世界は自身の責任において廻っているのであるという認識を持つ必要があるのである。

大人は汚い、勝手だと嘯くなら、それは自分が汚くて勝手なのである。自分の生きる世界を決して他人のものだと思わないということが、「大人になる」ということなのである。世の中が悪いと思うのなら、その不満を他人にぶつけるのではなく、自分自身が奔走して何とかするのが大人という「立場」なのであり、それは個人の内面の成長とは一切無関係に特定の年齢に達したら引き受けねばならない世界に対する責任なのであり、成長はその過程で意志的に勝ち獲るしかない筋合いのものである。

たとえば井上敏樹は、切通理作によるインタビューに応えて、「シャンゼリオンがオレと白倉を大人にしてくれたんだ」と語っているのだから、この言によれば、一〇年前に彼らは大人としての自意識を獲得しているはずである。

オレの観点では、「超光戦士シャンゼリオン」と「仮面ライダー 555」を並べてどちらが後年の作であるかと問われたら、シャンゼリオンのほうがよほど大人の考えた物語らしく感じられる。それは、シャンゼリオンの主人公涼村暁が、自身が大人であることを思い知っていながら子供として傍若無人に振る舞っているからであり、それが最終的に「楽しい夢」でしかないからである。

この作品に顕れている井上敏樹の世界観とは、つまり生真面目な生き様の生きにくさであり、そんな大人としての責任を放棄して不真面目に笑い飛ばすことでしか生の残酷さに一矢を報い得ないという苦い認識だからである。

劇中で、真面目一辺倒の堅物である速水はスチャラカ男の暁に徹底的にコケにされ騙されるし、シリアスなライバルキャラとして登場した皇帝・黒岩省吾は愛する女に騙されたことから権力欲に走りながらも、最期は女のくれたハンカチを握り締めて子供たちに射殺される。

生真面目に生き様を貫く者は必ず莫迦を視るのだし、それが厭なら世界に対する責任を放棄し、毀れた大人として斜に構えて不真面目に生きるしかない。その意味で、この物語の主人公が毀れた大人の涼村暁であるのは、井上敏樹の中では必然性のあることなのであり、きちんと生真面目に世界に対する責任を引き受けられない禁治産者的な遊蕩児は、せめてスーパーヒーローとして悪と戦うくらいしか使い途のないダメな人間なのである。

それは、語り手である毀れた大人の井上敏樹にとっての必然性なのであって、劇中世界の要請ではない。こんな物語においてすら真面目な堅物の速水がスーパーヒーローを演じて涼村暁には何の必要性もないのであれば、生真面目さが酬われない世界の残酷さに痍附く者としての毀れた大人には辛すぎる。

速水がシャンゼリオンに変身するような物語においては、おそらく過剰に生真面目な速水は最終的に死ぬしかないだろうし、たしかにその犠牲によって世界は救われるのかもしれない。そして、速水の死によって平和を獲得するような生真面目な世界では涼村暁は徹頭徹尾不要な人間である。

世界に対する責任を過剰に真に受けて自身を犠牲にするような人間の存在を前提に安定を購う世界、その残酷さに耐え得ずに敢えて不真面目な生き様に徹する者が不要とされる世界、多分、井上敏樹はそんな世界が厭だったのだろう。ある意味で、この番組はそのような慨嘆を共有する大人の視聴者に向けて語られた物語なのだと思う。

最終話のお説教は物語的感興としては蛇足だったとは思うが、それも或る意味では井上敏樹らしい不器用で誠実な「ジャリ番としての」ケツの持ち方だったのかもしれないとは思う。彼は決して不真面目に楽しく生きれば世界の残酷さに対抗し得ると考えているのではなく、残酷な世界に対しては自身の生き様を貫くしか誠実に生きる途はないと考えているのだろう。

生真面目に生きることで何れは殺されてしまう残酷な世界に反撥しても、結局はその世界で生きていかざるを得ないのだし、生真面目に生きることも残酷なら不真面目に生きることもまた残酷なのである。そんなことを百も承知の大人の視聴者には言わずもがなの無粋な蛇足ではあるのだが、形式上の主要視聴層である子供たちには「こんなのは嘘なんだよ」とはっきり言わずにおれなかったのだろう。

余人は識らず、たしかに井上敏樹はシャンゼリオンを語り、自身の納得を得ることで大人になったのである。そのように、大人になり損ねた大人の物語を語る視点は充分に大人の目を感じさせるのだが、そこから未だ世界に対する責任を問われない少年の物語にシフトしたのがオレには一種の退行に思える。

オレは、シャンゼリオンという作品は井上敏樹の文芸性からの要請として成立した物語として視ているし、555 を頂点とする平成ライダーの物語は、そこから触発された白倉Pの文芸性からの要請として成立した物語であると視ている。井上敏樹は涼村暁のような立場であれば「自分のために」戦えると考えたのだし、白倉伸一郎は乾巧のような立場であれば「世界のために」戦えると考えたのである。

この二人の間の差異は何かと言えば、おそらく、井上敏樹には父親の背中を追っていつか追い越したいという成熟に対する幻想があるが、白倉Pには大人に対する懐疑はあっても、成熟に対するそのような幻想がなかったという違いがあるのだろう。

オレは白倉伸一郎という人物の来し方や家庭環境など勿論識らないが、彼の公的発話に父性一般に対する言及がないことから、彼の大人観の雛形は若干年長のパートナーである井上敏樹ではないかと視ている。何故なら、井上敏樹という脚本家は、一人の大人として格好良く生きたいと望み、事実格好良く生きているからである。

普通の男性には「ガキでも構わない」という自身の幼児性に対する受容など決してないのであり、まして自発意志でフルコンタクトの格闘技を学ぶような男性には、自身の幼児性を許容する余地などはない。男と名の附く生き物は、どんな人間であろうと結局は自身の審美的基準において「格好良い男」になりたいのだし、男性にとって格好良い男=強い男=大人の男である以上、成熟に対する憧れは必ずある。

何故に制作者の間で公然とカブト・天道総司のモデルが井上敏樹とされているのか、その意味を考えてみるのも一興だろう。三年前の時点において、白倉伸一郎がこのような形であれば世界のために戦えるとして自身を仮託したのが乾巧であれば、現時点において自身の物語の主人公たり得ると考える人物が井上敏樹をモデルとした(わけではないんだが)天道総司であるというのは、窮めて象徴的である。

自分の納得を購う行為にシャンゼリオンで片を附けた井上敏樹は、今はたとえば可愛い後輩たちや盟友白倉Pのために何が出来るかという動機で役割論的に動いており、たとえば響鬼後期問題に際しては「おまえの頼みは聞く。そういうものだろう」と、格好良いハードボイルドなセリフを吐いている。オレは今の井上敏樹は自身の文芸面における納得よりも、自身を取り巻く小世界に対して自身の影響力の範疇で何が出来るかという観点で動いているように思えるのである。

だとすれば、555 で自身の納得を購った白倉伸一郎は他者のために何が出来るのか。そのような関心の下に響鬼後期問題は立ち現れてくるのだし、ある意味白倉伸一郎と高寺成紀の直接対決という局面が実現したのである。ここで高寺路線を死守してみせるのは白倉Pにとっての勝負所であっただろうし、自身の名の残らない部分で高いレベルを保とうとするのは今後への布石であったとオレはディスクライブしている。

それには、セラムンの経験から、直接自身の文芸性を実現しようとするばかりではなく他者の文芸性に賭けてみることもプロデューサーの重要な役割であることを理解したという経緯もあったのではないかと視たい。高寺Pのやろうとしたことが白倉Pには到底完遂し得ないとだけは視られたくなかったのだろうし、自身の企画であるカブトを犠牲にしても、それは死守されねばならなかったのだろう。


■成熟と未成熟

白倉ライダーにおいて、成熟と未成熟という問題は、語り手の自己認識の部分で問題になってくるのではないかとオレは考えている。従来の白倉ライダーが成長物語では「ない」ということだけは割合はっきりしていて、白倉Pにしろ井上敏樹にしろ「人は成長なんかしない、変化するだけ」という趣旨の発言をしているが、これは少なくとも井上敏樹の本来的な思想ではなく、白倉Pの思想だろうと思う。

成長幻想とそれを否定する立場の違いとは何かと言えば、人の変化を不可逆的と視るか可塑的と視るかの違いだろうし、本来無前提に其処に存在するだけである人の在り様に意味的なストーリーを仮託するか否かという違いだろう。

その意味では、たとえば父親の背中を追っていつか追い越すという「親父越え」を幻想として持つ井上敏樹が、その幻想を「偶々一回親父に勝っただけ」と視ているはずがないのであって、それではドラマでも何でもない。少年は成長し、自分を生み育てた男に対する憧れを先取りされた自己像としてわが物とし、いつかその幻像を追い越すのであり、それは不可逆的な変化であり、だからこそドラマたり得るのである。

人間関係については、飽くまで状況次第のかりそめのものとしか考えていない井上敏樹ではあるが、おそらく人間の変化や成長が可塑的で無意味なものとは決して捉えていないのではないかと思う。子供はいつか成長して大人になるし、大人になったらそうホイホイと身軽に生き様を変えられなくなる、自身の生き様に殉じて死に様を演じる必要が出てくる、それが井上敏樹の人間観だろう。

たとえば白倉・井上コンビが後を引き継いだ「仮面ライダー響鬼」が、寧ろ物語性の面では前期よりも真っ当に成長物語を語り得たのは、井上敏樹の資質として成長物語を信じているからではないか、また、他者の作物を引き継ぐという意味で、白倉Pにも成長物語を否定する動機がなかったからではないかと思う。

井上敏樹と白倉伸一郎という個人の成長幻想に対するスタンスの違いは、おそらくこの父親像・先取りされた自己像の有無に関係してくるのではないかと思う。井上敏樹には格好良い大人像というビジョンが確固としてあって、それが彼の浪花節のハードボイルド嗜好として顕れている。彼にとってのヒーローは完全無欠の結構人などではなく、嘗て「賤しい街を行く高貴な男」と呼ばれた西海岸の私立探偵たちだろう。

世の残酷さに痍附きながら、ガラスの心を犀の皮膚で鎧い、軽薄な警句を口にしながら精一杯強がって世界に対峙するリリカルなタフネスに対する憧れが井上敏樹のヒーロー像には見え隠れする。世代的に「傷だらけの天使」や「探偵物語」を愛して育ったに違いない井上敏樹が、そのような一種気恥ずかしい美意識を持っているのは自然である。

また、女性脚本家の小林靖子も「格好良い男=強い男=大人の男」という大人像を自明の前提として持っていて、小林脚本に現れる大人の男性は決して型通りの頑固者として対象化されておらず、善くも悪しくも劇中の若者たちよりも数歩先の人生を歩む成熟した男性としてその生き様の陰翳が深く表現されている。つまり、小林脚本の大人像には現在の生き様に必ず生の連続上の緻密な実感的根拠があり、上っ面の小理屈でその生の連続の重みを軽々に否定することは出来ないように描かれている。

一方、白倉伸一郎という個人には、何うもそのような先取りされた自己像という格好良い大人像がない。白倉ライダーが未成熟で肥大した自我を抱える若者たちの青春の彷徨を描きながら、それでも成長物語では「ない」のは、その物語全体を統括する人物にその彷徨の果てに行き着く先のビジョンが「ない」からであり、それが「ない」ことに最大限の「拘り」があるからで、この拘りがあるからこそ、各話作業者やライターの資質とは無関係な「白倉ライダー」的資質が決定附けられるのだとオレは考えている。

成熟と未成熟という対置をここで改めて持ち出すなら、語り手として成熟した視点とは若さの先にある生のビジョンを責任を持って揺るぎなく提示し得るような腹の括り方だと言えるだろう。年齢の問題が云々されるのは、たとえば555 を語った頃の白倉Pのような三十代後半の男性なら、劇中で描かれたような青春の彷徨を嘗て経験し、すでにそれを超克していて然るべきと期待されるからである。

最前指摘したように、大人と若者の違いは、大人は嘗て若者だったことがあるが若者は大人だったことがないという、突き詰めればトートロジー的な相違である。普通の大人にとって青春の彷徨は嘗ての経験の記憶なのであり、今現在その先を生きているから事実において大人なのである。若者から視た場合、大人は自身の現在とは断絶した存在であり、大人から視た場合、若者は自身の現在と連続性を持つ存在である。そのような時系列的な認識の相違がある。

若者たちには、今現在自身が生々しく生きている内部葛藤の堂々巡りがどのように決着するかというビジョンがない。その先を未だ生きていないのだから、そもそもないのが当たり前であって、予めあるならそんな葛藤を生きる必要などない。それ故に、若者には今現在の自分がどのようなプロセスを経て目の前にいる大人と繋がるのかという想像に実感がない。それで当たり前の存在である。

今現在、事実において大人である世代の人間は、嘗てそのような彷徨を経験し、何らかの形でそれに決着を附けたからこそ今現在大人になっているのだし、若者に向けて青春の何たるかを語っているはずなのである。

大人の若者に向けた発話とは、若者同士の横の連帯意識とは確実に違う何ものかでなければならないのである。幾つになってもそんな連帯の物語を語りたいのであれば、大人になることを「事実において」拒絶し、幼形成熟のグロテスクな生き様死に様を莫迦正直に選んだ尾崎豊のように生きるべきである。

それ故に、そのような内部葛藤にケリを附けられない若さを語って好いのは事実において若い裡だけなのだし、好い歳をした大人がその若さのさすらいに何らビジョンを示さずに物語を終えるのは、個人として恥ずかしいことだとオレは考えている。

若さのさすらいを嘗て経験しそれを超克したからこそ、今現在大人の一人として充実した生を生きているのではないのか。それを語らずして若さの堂々巡りに共感してみせることは、現在の自身の生き様を否定することになるのではないのか。超克の途を自力で見出したからこそ、青春のさすらいには意味があったのではないのか。

ならば青春の彷徨には旅路の果てがあるのだし、人はやはり成長するのであり、それは本質的に「善い幻想」なのであり「善い幻想」だから「善い物語」たり得るのである。

たしかにそれは若者が苦闘の末に自力で勝ち取るべき何ものかではあるから、それを他人が「教えて差し上げる」というのは違うだろう。しかし、大人がこの種の物語を語る場合に最も重要なことは、そんな手応えが必ず「ある」という強い確信を描くことではないのか。「ない」のであれば、そんな苦闘には意味なんかないのだから、若者が自暴自棄で自堕落な生き様を選んでも、そんな物語を語った者に何かを言う資格はない。

オレが「ヒーローと正義」を初めて読んだ際に感じた不快感は、人は成長なんかしないとして「善い幻想」「善い物語」を否定してみせた世代人が、偉そうに若者に講釈を垂れる姿勢に欺瞞を感じたからである。だから、たとえば「何故白倉Pに自己変革を求める必要があるのか」と問われたならば、オレが一個人としてそのような欺瞞的な姿勢の大人を激しく不快に感じるからだというのが本当の動機である。

人間は若者でなくなっても生きていかねばならないのだし、大人でなくても生きていかねばならない。若者の生も大人の生もその時々の視点において等価である。意味ある生を生きねばならないという結論ありきなら、その結論を肯定する以外に生を意味附けることは出来ない。その結論が圧し附けられたものだからと言って反撥して好いのは、それこそ若さの特権である。

若者が大人になることを厭がるのは当たり前であって、誰だって見ず知らずの他人がつくった世界になんか責任を持ちたくない。他人がつくったんだから他人に責任があるというのは一見論理的に整合しているからこそ、若者は世界に対して他人事のように異議申し立てを行うのである。

しかし、今現在世界の責任を担っている大人たちだって、嘗て他人がつくった世界を圧し附けられたのだし、他人に求めていた責任を自身が引き受けただけの話なのである。自分ではない他人だから、大集合としての大人を糾弾して好いというのは、未熟な若者だから斟酌されているだけの過ちである。

若さの彷徨の物語とは、その当然の苛立ちの記録であるのが本当だろうし、その先には世界の受容という和解の結末が待っていることを、今現在大人である人間は識っているはずだし、識っていて然るべきなのである。世界と和解を果たしたからこそ、今現在大人は世界を自身の責任において動かしているのだし、それなりに充実した生を生きているのである。

白倉ライダーにおいてその受容と和解が描かれているかと言えば、決してそうではないだろう。他人のものである世界のその末端に自分のものである特定の誰かがいる、それ故に行き掛かり上世界を救うのであり、世界はその誰かと基本的に等価である。

特定の誰かから拡がる世界認識というのは白倉ライダーには存在しない。世界という曖昧な概念は、特定の誰かに対する具体的感情と等価で二重写しになっている。それは果たして世界を受容したことになるのか、和解を果たしたことになるのか、オレは違うと思う。世界というのは、たとえばスマブレであったり流星塾であったりという総体としての在り様であって、真理や敬太郎という特定の誰かとイコールではない。

結局白倉ライダーは、人は特定の誰かのためにしか戦えないという部分的実感を補強するに留まっているのだし、若者は若者を取り巻く他人のものである世界の中で自分のものである部分としての何かを見出すのみである。つまり、他人のものでしかない世界の中で自分のものとは何なのかを探求する物語なのである。

世界との和解を物語に織り込めないということは、やはり語り手自身の視点の稚なさとして問題視さるべきであろうし、自身の偽らざる実感を語っているつもりでも、事実において今現在一人の大人として充実した生を生きているのなら、若者に嘘を語ったことになるのである。嘗て未熟さ故の苦しい葛藤があったからこそ、今の充実があると思わない大人などいないはずである。そうでない大人は、単に自身の現在の生を肯定出来ないだけだろう。

苟も大人たる者が若者に向けて物語を語るのであれば、「とっとと大人になれ」などと急かす必要はないだろうが、「その葛藤には答えがある」「その彷徨の末に何らかの手応えは掴める」というビジョンを力強く語るのが大人の話者の責任である。

若者が苦悩するのは、周りの大人たちが虐めるからでは決してなく、何かを掴みたいからなのだし、何かもっと善い存在になりたいからこそ、周囲と軋轢が生じるのである。だったら、「掴める」「なれる」と言ってやればいい。

今現在、たとえば特撮番組の脚本家であったり特撮番組の監督であったり特撮番組のプロデューサーであったりする大人である自身の現状の生を肯定出来るのなら、意味のある生だと思えるのなら、それは残酷な若さのさすらいの果てに掴もうと思った何かを掴んだからだろうし、嘗てなりたいと思った何ものかになれたからだろう。

そうでない者が、何をもって若者たちに物語を語ろうと思うのか、オレにはまったく理解出来ない。それを掴めなかったしなれなかった敗残の人生の話など、それこそ悪い意味での「大人の繰り言」など、誰が聞きたいと思うものか。必ず得られる保証など何もないけれど、そのように努めない限り決して掴めないしなれないものをこそ、物語は語るべきなのである。

それは、少なくとも白倉P自身が常々公言している通り、本当に子供たちや若者たちに向けた発話ということを意識しているのならば、という話であって、それが建前にすぎず、散々身も蓋もない人生の葛藤を経てきた大人たちに向けて、若さの感傷を語っているのであればその限りではないだろう。


■俺が正義

たとえばリンク先のquonさんは、白倉ライダーを「身に余る重責を行きがかり上引き受けた若者が、自分の無力さに泣きながら世界を守るという構図」として視ているわけだが、この場合守るべき「世界」が若者に意識されているか何うかという論点もあり得るが、今は捨象しよう。

この構図はシャンゼリオン・涼村暁の設定にもある程度視られるわけだが、シャンゼの場合ならば納得可能だというのは、世界を守ろうとしているのは暁の周囲の人物であって暁自身ではないからである。

当たり前なら、超越力を持っている以上世界のために戦えよと言いたいところだが、そのような動機も必然性もない人間に偶々物凄い力が与えられてしまったという辺りがシニカルなわけで、そのような人物が身勝手な動機で戦ったり戦わなかったりして生真面目な人々をハラハラさせるという構図は、世界の記述として納得可能である。

だが、たとえば白倉ライダーの最高傑作と目される555 の構図はそうではない。オレはそもそもこの物語を正義や若者へ向けたメッセージの文脈で意味附けること自体が白倉Pの牽強付会ではないかと思うのだが、この物語の構造はTVシリーズより寧ろ井上敏樹が執筆したノベライズ「仮面ライダーファイズ正伝 異形の花々」のほうがはっきりしているのではないかと思う。

勿論、スマブレが表面に登場しなかったり流星塾が単なる孤児院であったり、設定面や人物描写の観点でTVシリーズとは異なる独自の物語世界ではあるのだが、井上敏樹があとがきで「本当のファイズ」「ファイズの真髄のような物語」「自分が書きたかったことを自由に表現」と語っているのはその通りだろうと思う。

小説としての完成度は、文体的にアレな人が二週間で書き上げた作品なりのものでしかないが、勿論ハコはしっかりしているし、入り組んだ複雑なTVシリーズの人間模様が窮めてコンパクトに刈り込まれているだけに、物語に内在する観念がわかりやすく顕れている。それはつまり、教養小説的な成長物語とは無縁のドラマ性に基づいて成立するリリカルな人間悲劇である。そのリリシズムを指してquonさんが「いじらしさ」と表現するのは理解出来る。

この番組の企画書の一節に「そこには正義も悪もない。人間が生きている、ただそれだけのこと」という有名なくだりがあるが、本来この物語は成長とも正義とも無関係な子供たちの群像劇であり、物凄く簡単に言ってしまえば、「仮面ライダー 555」とは、決して大人になることなく子供の儘に死に逝くべく宿命附けられた子供たちの物語なのである。

そもそも劇中設定からして、実に敬太郎以外の登場人物全員が一度死んだ人間だけで構成されており、さらにオルフェノクとして覚醒した後もアークオルフェノクの力がなければ短命に終わるという、徹底的に「夭逝」をモチーフとした設定に覆われた作品なのである。

夭逝とはすなわち成長しないということであり、子供の時間の儘に生を終えるという心象現実である。この物語の主人公たちは、敬太郎以外はすべて大人になるという可能性を絶たれた子供たちなのであり、表向きほとんど不安要素の仄めかしがない真理の行く末も、流星塾でオルフェノクの記号を埋め込まれて蘇生した以上、無事に寿命を全う出来る可能性は低い。

この物語は、すでに一度死んだ人間が機械の力を借りて同じ死者と戦うという本質的にグロテスクな構造の物語である。劇中のライダーギアがアギトのG3ユニットと共通するイメージであることはよく識られているが、劇場版のG4のイメージもエコーしているのではないかと思う。

そして、劇中で世界原理となっているオルフェノクという存在が何故従来のライダー怪人よりも不気味に感じられるのかと言えば、外見的に異形の存在だからとか普通の人間が変容するからということではなく、人類進化という小綺麗な口実とは裏腹にその本質が死者という忌まわしい存在だからである。

巧にせよ勇治にせよ雅人にせよ真理にせよ、どんなにカジュアルなギャグを演じていても、精々生者らしく振る舞っている死者という不気味な存在にすぎないのである。このような世界設定においては成熟も未成熟も意味を持たないのが当たり前であり、戦う意味も正義も蜂の頭もないだろう。

何せ全員すでに死んでいるのである。人の生の肯定的側面というのは、未来があると仮定してのことであり、すでに死んでいる人間の未来など概念矛盾でしかない。「人間、いつ死ぬかわからないんだから同じこと」というのも理屈だが、普通一般には何もなければ八〇年くらい生きるのが自然であり、それに対して「短い」命だと明確に限定を附けている以上、劇中の子供たちは当たり前の意味では未来が残されていない存在なのである。

正義だの理想だのというのは「言ってるだけ」の話であって、そんなものはテーマでも何でもない。彼らが手探りで探し求めているのは、死者である自身が今世界に存在する意味であって、世界との関わりではない。たしかにこれは痛ましい物語であり、若者たち一般の心象にマッチした世界観だとは言えるだろう。

だが、これを正義だのヒーローの存在意義だのに絡めて意味附けられても困ってしまうのである。この物語で写し取られている心象現実とは、生温く猶予されながらも確実に終わることを宿命附けられた子供の時間の悲痛さである。借り物の生の中で自身の存在理由を見出そうと必死に藻掻く子供たちの悲劇である。

夭逝というメタファーで糊塗されているのは、子供の時間のその先にあるものに対してビジョンが断絶していることによる恐怖だろう。最前指摘したように、大人は若者や子供が自身と連続性を持つ存在であることを経験上実感しているが、子供は子供である自分の現実しか実感的には識らない。自分が大人になるということは具体的実感を超えた事柄であり、それは子供にとって子供である自分の死や消滅としてイメージされているだろう。

異形の花々のほうは、限られた紙幅の中に凝縮されているだけにその間の機微がわかりやすいのだが、TVシリーズのほうはそうでもなく、成熟という未来があってこそ意味を持つ正義や理想の問題が表面的な課題として語られることが多かったように思う。しかし、この枠組みの中でそれを語ろうとすること自体がそもそも無理筋なのである。

所詮劇中で扱われている正義も理想も、子供たちが自身の居場所を確かめるための口実でしかない。要するにヒーロー物語は枠組みとしての口実なのであって、子供の時間の儘に鮮烈な生が終わりを迎えるファンタジーや子供たちの心象現実の表現としてはよく出来ていると思う。

世界のために戦う正義というのは、まず世界に対する責任を引き受けるところから始まるのだから、まあこの文脈で言うところの子供には無関係な概念である。白倉Pが従来の物語性の文脈上で幾ら戦う意味や正義を考えたところで、答えが出なかったのは当然と言えば当然なのだし、ぶっちゃけて言えば、それはその当時の白倉Pの思想に、世界の責任を引き受けるという受容の概念がすっぽり抜け落ちているからなのである。

無粋な試みだが、「正義とは何か」という問いに対して窮めてベタな答えをぶつけるとするなら、それは「自身が責任を引き受けた世界のために戦うこと」である。だからアメリカの正義があり、アル・カイーダの正義があり、オウム真理教の正義があるのであり、個人の視る世界の数だけ正義は存在するのである。

それを批判的に「MY正義」と表現することは容易いが、それでは正義の問題に潜む本質的な問題点をスルーすることになる。その本質的な問題点とはつまり、正義を掲げる個々人が「どんな世界に対して責任を引き受けたのか」という論点である。その論点をスルーする限り、どんな形で戦う意味を設定したところで、それはアメリカの正義やアル・カイーダの正義とまったく意味的には変わらない。

白倉思想の問題性に沿って正義を考えるなら、正義それ自体に問題が内在しているのではなく、その正義の根拠となる世界の見方が問題となるのである。アメリカはアメリカが世界だと考えているからアメリカの正義を振り翳すのだし、アル・カイーダはアル・カイーダを世界だと考えているからアル・カイーダの正義を執行するのである。

つまり、そのような限定的正義はその正義を共有する者が世界と考えるものの外部に対して不当な側面を不可避的に具有している、逆に言えばどんな正義もその正義を共有する者にとっての世界の埒内でしか意味を持ち得ない、そういうことではないのか。

その意味で言えば、戦う理由を具体的個人への感情という限定の極みに求める白倉ライダーの正義は大多数の他者にとって不当なものであり、それはたとえば日下部ひよりという特定個人への想いを中心に動く天道総司の「正義」とやらが、他の登場人物にとっては傍迷惑なものとなるような筋道である。

物語中盤で突如浮上した「ひより=世界」という天道の世界認識はやはり稚ないとしか表現しようがないのだし、従来の白倉ライダーたちが獲得した世界認識とまったく相同であり、そこから個人の正義が立ち上がるという機序も同じである。

しかし、それが「アメリカ=世界」という世界認識に基づくアメリカの正義と比べて何処がマシなのかという疑問は当然あって然るべきである。それならば個人にも納得可能だという実感的説得力を持ち出すのであれば、アル・カイーダの構成員が自身の正義を確信している納得とその納得の何処が違うのか。

555 の場合、少なくとも物語の埒内ではどんな幼稚な正義や理想が語られても本質的な問題にならなかったのは、それが本質において成長物語でもなければ正義や理想を巡る物語でもなかったからである。

しかし、本来人が未来を信じて成長を果たし、積極的に世界に関わっていくことが前提となるようなカブトの物語構造の中で、その物語的正義を体現する人物の正義の根拠が具体的個人への想いだというのはまったく「てにをは」が合わないだろう。

お天道様に陰日向があるのはやっぱりまずいのであって(笑)、ニッポンは照らすけれど北朝鮮は照らさないようなものをお天道様とは呼ばないのである。その依怙贔屓の対象が「日和り」だというのはいっそギャグですかとツッコミを入れたくなる。

しかし、オレが最初に天道総司というネーミングも含めて彼のキャラクターに興味を覚えたのは、要するに白倉Pの所謂「MY正義」の問題というのが世界を何う視るかの問題だからであり、「天の道を征き総てを司る男」ならば世界を包括的に視る視点を持ち合わせているだろうと期待したからである。

たとえばアメリカの正義とアル・カイーダの正義をさらに高次の階層において裁き得るのは、その両者を等分に視る「神の視点」なのである。そして、そんな視点において世界を裁き得るような人間など、まあ現実には存在しないのだが、物凄い超越力を持った存在が「オレが神だ」と大きな声で言い切っちゃえば「物語的には」アリである。

そして、物語内部において「オレが神だ」と言い切っちゃった人間は、最早血肉通った情念のドラマ性を具える存在ではなく、装置としての何かである。さらに、カブトの物語構造においては、その種の血肉を具えたドラマを演じるべき凡人としては加賀美という立派な「主人公」がいるのだから、天道が正義の装置に徹していても問題はなかったはずである。

そもそも限界のある人間のやることである以上、誤らない正義などは存在するはずがないのだが、それでも正義は希求されねばならない何かであって、懐疑を抱いて排除すればそれで済むという問題ではない。だから白倉Pも正義の問題を無視出来ないのだろうと思うのだが、物語においては正義それ自体を具体的テーゼとして提起する必要などないものである。たとえば、北朝鮮問題に関してはこれこれこうするのが正義だ、などという具体的論述を物語に期待する者などいないだろう。

物語に要求されるのは、正義が行われなければならないという確信であって、何が正義かなどは個々人が考えるべき事柄である。物語上正義とされるのは、まあ受け手の多くが賛同出来るような緩い選択肢であればそれで好いのであり、それ自体を語り手が定義しようと考えるのはよけいなお世話様である。


■戦うことが罪なら

たとえば「これが正義だ」「これが理想だ」とコンクリートな結論を求め、その全面的な実現を求めること自体が破綻を宿命附けられているのである。現実には絶対正義など存在しないのだし、理想が理想の姿の儘に実現することなどあり得ない。

それはたしかにそうなのだが、アメリカの正義やアル・カイーダの正義よりもマシな正義はあるのだし、現実が身も蓋もない醜さ一辺倒に塗り潰されないのは、そこに理想を求める人の努力があるからである。リンク先の遣り取りでは充分意を尽くすことは出来なかったが、理想=青臭さだとはオレは考えていない。人の世に、当たり前のように理想というものはあるのだと考えている。

正義や理想を追い求める若者の彷徨の行き着く果てに得られるのは、このように、正義も理想もその儘実現することはあり得ないという苦い認識の受容であり、それでも弛まずそれを追い求めていかねばならないという力強い認識の堅持であり、それらの認識に対する実感的納得である。

その具体的な獲得プロセスとは、自身が正義も理想もない剥き出しの現実として視ているこの世界が、実は嘗て若者であった大人たちが自分たちと同じように正義と理想を追い求めて精一杯苦闘した結果として在るものであるという事実を、肯定的に受け容れるということだろう。

正義も理想も、今このように在るような微温的な形でしか実現しないのだし、その生温さに対する若者の苛立ちがその儘に酬いられることはない。若者たちはその苛立ちに駆られて精一杯藻掻きながらも、いつかその感情と折り合いを附けねばならない。

その苛立ちの正体は、自分に力があればその生温い現実をもっとマシなものに変革出来ると信じ、大人は何をやっているのかと憤る若さの傲慢ではあるのだが、一面ではそのような傲慢な若さのエネルギーがなければ世界は一切変わらない。そのように若さを肯定的に捉えられるのも、それを自身の経験として意味附けられる大人の視点だろうが、若さの苦闘の直中にあるときは、世界も大人も自分自身でさえも肯定的に意味附けることは困難だろう。

嘗ての白倉ライダーには、そのように何ものをも積極的に肯定し得ず、過ちから身を遠ざけるために世界に対して一歩を踏み出し得ないような、若さの潔癖が見え隠れする。嘗ての白倉的文芸観の完成形が、本質的には正義も理想も口実に過ぎない夭逝する子供たちの人間悲劇であったのは、全体的に物語を統括する白倉P自身に世界を肯定し得るような実感的納得が得られていなかったからではないだろうか。

巧視点で考えれば、555 は「何かを為すことによって過ちを犯すことを怖れる潔癖」の超克の物語でもあったはずだが、「オレはもう迷わない」と言い放ち「戦うことが罪なら、その罪を背負ってやる」と堅く心に決めたはずなのに、自身喪失から早々にファイズギアを手放す流れとなるのは、語り手が本心からはそんなことを信じていなかったからではないだろうか。

成長物語の文脈ではこの種の事柄は、一旦主人公が口に出してしまったら最後の最後まで堅持されねばならないものだが、そのように、巧が戦いの決意を固めてから遠からぬ裡に早速戦いからの離脱が描かれるのはかなり拍子抜けの流れであり、普通に考えれば巧の戦線離脱のくだりは巧の成長物語としては明らかに無粋な逸脱である。

さほどストーリーラインが迷走したわけでもないのに番組後半が「グダグダ」と批判されるのは、この種の無粋な行きつ戻りつが多いからではないかと思う。実際、この物語を巧の成長物語として視る視点ではたしかに作劇ロジックがグダグダである。

この種の無粋さはセラムンにも顕れていて、地場衛がうさぎと再会を果たし、うさぎと共に宿命へ挑戦することを心に誓う場面で「星なんか滅びない」と決然と断言したにも関わらず、結果的には衛の奮闘も空しく地球が一度滅びている。何というか、人の成長や心の力を一旦否定しないと気が済まないとでもいうような奇妙な拘り方なのである。

乾巧が口に出して「オレはもう迷わない」と断言するということは、決して迷わないだけの心の力が巧に具わったという証しなのだし、地場衛が「星なんか滅びない」と断言するということは、何が何うあれ地球の滅亡を回避するだけの心の力を身に着けたという標しである。そのような力の獲得に説得力を与えるために、それまでの苦闘の物語があるのではなかったのか。

そのような心の力が物語上の困難を克服して不可能を可能にするものなのだが、白倉作品においては、そのような心の力は、大概現実に対する決定力に欠けている。心に思ったからといってそうなるとは限らないというのは誰だってわかることなのだが、何うにもならないことを何うにかするのは最終的に心の力でしかないだろう。

理屈で考えたら無理なことなど世の中には腐るほどあるだろうが、無理な儘で誰も何もしなかったら、世界は今在るようには在るべくもないだろう。その無理を何うにかしたのは最終的には人の心の力であったはずだ。

心に思ったからといって現実はその通りにはならないということを殊更に物語上で強調することにどんな意味があるのかと疑問に思うことが屡々で、この意味で白倉Pには文芸に対する勘がない。物語というのは、そういう留保を附けることで何か意味が発生するものではないのである。

「裏切ることが怖いから他人と距離をとる」という、窮めて現代的な潔癖さを具えた乾巧が、さまざまなドラマの果てにその逡巡を乗り越えて決然と「もう迷わない」と言い放つことは、普通のドラマの感覚では巧の成長物語のプラトーのはずである。戦うことの罪を背負うということは、普通の意味では世界に対する責任を引き受けるということのはずであり、それは人としての成長を意味するだろう。

それなのにその舌の根も乾かない裡に、自信喪失だのオルフェノク化に対する不安だのの理由で早々と巧が迷ってしまうのでは、そのとっておきのセリフの重みが軽くなる。翻って、あのときあんなに盛り上がって引き受けた戦いの罪って何よ、という白けた話になってしまう。要するに、語り手が人の成長や心の力なんか信じていないのである。

異形の花々を書いた井上敏樹が、夭逝せる子供たちの亡霊が演じる痛ましい悲劇というドラマ的枠組みをこの物語に視ていたのだとすれば、成長や心の力に重きを置いていないのは理解出来るのだが、正義や理想というプラグマティックな思想面の問題を物語に投影して視ていた白倉Pがわざわざ人の成長や心の力の意義を否定してみせるのは、やはりその時点における思想の限界と表現するしかないだろう。

その意味で、巧の物語が「世界中の人々を幸せにする」という夢に帰結する流れは断絶している。巧の心の変遷は、具体的個人に対する想いから世界へ拡大する機序が描かれていない。その世界を引き受けるか否かの部分が「グダグダ」揺らいだ挙げ句、それを決意するに至る契機、またその決意が揺るぎないものとなる契機も具体的に描かれていないのだから、巧の成長物語としての後半は失敗しているとしか言えないだろう。

このように、前半で描き掛けた成長物語を後半で否定するという類型は、セラムンでも視られる性質である。そして、オレの意見ではこの拘りはどのライターと組んでもうまく相手に伝わっているとは言い難いと感じる。最もうまく行っている井上敏樹の場合でも、最早「平成ライダー調」としか言い様のない「造られた芸風」がその成長物語の否定と全体的トーンとの折り合いを附けさせているだけである。

この「造られた芸風」という観測は、本来の井上敏樹の芸風や文芸観というのは、果たして白倉ライダー的なる作劇思想と整合しているのかという疑問から出ているのだが、後の白倉ライダーよりも井上敏樹の従来の作風と連続性がある「仮面ライダーアギト」を視る限り、一旦語られた成長物語をわざわざ否定するという不可解な嗜好を井上敏樹までが共有しているとは思えない。

これまで積み重ねてきた物語とは整合しない相反する物語要素を無理矢理ねじ込むのはおそらく白倉Pの資質であって、苟もTV文芸の人である以上井上敏樹にそのような劇的必然性の薄い無駄な拘りがあるとは思えない。それ故に、井上敏樹が平成ライダーとの関わりを通じて造り上げた芸風とは「積み重ねでドラマを描かない」という特異なものであったとオレは視ている。

quonさんなどが指摘する井上脚本の瞬発力的な部分というのは、そういう白倉的文芸観との整合上、不可避的に生み出された個別的なティップスであって、実際には本来の井上敏樹の文芸観でも何でもないと思う。

著書の論旨を真に受けるなら、白倉Pがこのように整合的な物語性を破壊してみせるのは、物語という虚構が一義的なテーマを語ることへの忌避感の故であるということになるだろう。しかしどんな思想にも情緒面での動機があるのであり、この場合のそれは、何かを一義的に語ることへの逡巡であろうと嘗てオレは語ったことがある。

そこに「何かを為すことによって過ちを犯すことを怖れる潔癖」という心性を視ることも可能だろうと思う。乾巧が言うように「戦うことが罪なら、その罪を背負う」ことが「何かを為す」ということの本質なのだが、それはたとえば物語を語る行為で言えば、誤謬を含んでいる可能性があるとしても意味ある何かを言い切ることであり、不可避的に包含される誤謬の責任を引き受けるということだろう。一義的に何かを言い切ることで、そこから排除されたその他の可能性に対する責任を引き受けるということだろう。

意味ある何かを語るということはそういうことであって、何かを語りつつ相反する何かも同時に語るということは原理的に不可能であり、当たり前の意味ではそれは矛盾せる不徹底な言説としか受け取られない。そしてこの場合、矛盾や不徹底は何らかの新しい方法論というより、使い古された決定留保の常套手段であり、わかりやすい言葉で言えばモラトリアムである。

このありふれた若さの怯懦をして、白倉Pは「両義性」「多義性」と理論化せざるを得なかったのであるが、勿論言葉本来の意味では両義性でも多義性でもない。一義的な断定に相反する付箋を附けて留保を設けるという手続は、頭の良い若者が大昔から採用してきた、実感なき論題を前にした逡巡の韜晦手段なのである。

その意味では、555 後半で当たり前の作劇セオリーを無視してまで巧の決意を揺らがせたのは、二重三重の意味で白倉Pが「何かを為すことによって過ちを犯すことを怖れる潔癖」から脱却していないということなのではないかと思えてならない。さまざまなドラマを経て乾巧が到達した「過ちを犯してでも意味ある何事かを為す」という決意の重みを、白倉Pが実感的に信じられなかったのではないのかと思う。

それは一面では、頭の良い若者の知的な誠実さであることもたしかである。過ちから身を遠ざける潔癖には、怯懦としての側面と誠実としての側面があるのであり、自身が納得出来ないことは決して言わないという、語り手としての過剰な誠意であるとも言えるだろう。

それが仕事なんだから普通に「正義」とか「成長」とか言っちゃえばいいじゃんというのが普通の感覚だろうが(笑)、そこで自分が納得出来ないからそうは言えないというのは、まあ青臭いけれど誠実ではある。そこに白倉Pのもう一つの問題性がある。


■ライダーになりたい

白倉Pの自作に対する発言を読むと、「自分ならこの状況で戦えるのか」という拘りが常にあるようで、先ほど指摘した誠実さというのはこの面で最も極端に顕れているだろう。それはつまり、自分が納得出来ないのに他人に対して「正義のために戦え」と言いたくないという過剰なまでの誠意である。こんな状況に置かれたら自分なら戦えないだろう、それなのに他人に戦えと強要するのは偽善ではないのか、このような拘りがあるということだろう。

その意味においても、すでに劇中の若者たちに自己投影出来る年齢ではなくなったことで、従来の白倉ライダー的文脈で戦いを根拠附けることが出来なくなったのではないかという推測は、リンク先のコメントで陳べた通りである。

それを別の表現で言えば、白倉伸一郎という個人の納得が得られない限り白倉作品の主人公は戦えないのだし、その納得のレベルに合わせて物語が描かれるという限界が附き纏うということである。

かなりぶっちゃけて言えば、普通一般のヒーロー物語の語り手が、現実において自身が戦えるか否かということにそれほど拘っているとは思えない。ヒーローというのは自分とは違う何かであり、自分自身が投影された等身大の人物像ではない。オーセンティックな意味でのヒーロー観というのはそういうものだろう。

以前オレは、「ウルトラマンティガ」の最終回の脚本に関して、それを書いた小中千昭が「ウルトラマンになりたいという憧れ」を語ったことに驚いた経験がある。たしかに子供はヒーローやヒロインに対して自己同一化の憧れを持つものだが、オレにとって人間がウルトラマンになりたいと夢みる心性は、「電車が好きだから将来は電車になりたい」「うどんが好きだから将来はうどんになりたい」と言っちゃう子供のそれのように不可解である。

白倉Pのタームを籍りれば、ヒーローというのはたしかに自己同一化の憧れを喚起する存在ではあるが存在論的な他者でもあり、その意味で両義的な存在である。その中でもウルトラマンというのは微妙な存在であって、本来的にはハヤタがウルトラマンの力を行使しているというより、ハヤタに憑依していたウルトラマンが三分間だけ実体化したものであるから、厳密に言うならそれを「変身」と言えるのか何うかさえ微妙である。

しかも、その見かけは身長四〇メートルの巨大な銀色の仏像であって、たとえば見かけ上等身大の人間がお面を被ってジャージを着ているだけのゴレンジャーや仮面ライダーになりたいというのならまだしも話はわかるが、巨大な銀色の仏像になって怪獣と戦ってみたいというのは、オレにはちょっと共感不能な心性だと思った。

子供の心象現実におけるヒーローの万能性というのは、飽くまで自身が実感的に把握可能な世界の埒内におけるそれではないかと思うので、巨大な仏像になってもクラスの乱暴者に仕返ししたり怖い犬を撃退したり出来ないではないか(笑)。なまじに正義の超人という縛りがあるだけに、幾ら子供視点で悪いことをしたからと言って、身長四〇メートルの巨人が子供や犬を踏み潰すというのは、チャイヨー製作でもない限り外聞が悪すぎる

その点、仮面ライダーならいじめっ子や怖い犬と同次元の存在なのだから、やんわりとぶちのめす分には充分「正義の味方」の体面が保たれる。これになりたいという心性ならわかるが、それだって正味な話が不便な改造人間とか醜いバッタの化け物とかになるのはイヤだと思った。

精々オレに理解出来るのは、ウルトラマンや怪獣の「ガワ」を着てみたいという無邪気な憧れだが、大人になってスーアクの証言を聞くと、閉暗所恐怖症の人間には到底無理だということが判明したので、稚ない頃の夢が無惨に砕かれた(笑)。

しかし、その後ネットの反響などを読む限り、男の子には一定の割合で「ウルトラマンになりたかった派」が存在することを識った。ウルトラマンはやっぱりそれほど多数派ではないと思うが、改造人間でもバッタの化け物でもいいから、ライダーとかイナズマンになりたいと憧れる子供はかなり多かったのだろうし、おそらく、一人のヒーローマニアとしての白倉伸一郎は、基本的に「なりたかった派」なのだろう。

ヒーローを超越的な他者と視る場合、自分に戦えなくともヒーローなら戦えると意味附けることは別段怯懦な心性でも無責任な姿勢でもない。すでに悪の秘密結社の改造人間だの頭高四〇メートルの大怪獣だのという敵の設定が極端に悪魔的なのであり、それと戦い得るのが極端に英雄的な人物であるのはバランスがとれている。

そのような英雄譚の次元から人間ドラマの次元までヒーロー物語を引き下ろすというのはメタファーのレベルの話であって具体的なシミュレーションの問題ではないだろう。白倉Pの所謂「オレなら戦えるのか」という想定は、白倉伸一郎という嘗てヒーローに憧れた子供がヒーローに「なる」ためのシミュレーションに過ぎない。

それはつまり、「オレでもヒーローになれるのか」というシミュレーションであるということである。すでに白倉Pよりも先に大人になっている井上敏樹にとってのヒーローというのは、たとえばシャンゼリオンではなく涼村暁のほうだろうが、何うも白倉Pにとっては、未だにシャンゼリオンであり仮面ライダーであるように思えてならない。

井上敏樹にとって、ヒーローに「なる」ということは、彼がヒーロー視するような人物の生き様を身に着けることであり、そのような生き様を身に着けたヒーローが偶々ライダーの力を揮って怪人と戦っているという構図になるのだろうが、白倉Pにとってのそれは、やはり仮面ライダーになって戦うことそれ自体なのである。

その意味で、度々引き合いに出している555 の主人公が「三本のベルト」であるという設定は井上敏樹にとっても白倉Pにとっても納得可能なものだっただろう。但し、それはすでに井上敏樹にとってはヒーロー物語でも成長物語でもなかっただろうし、白倉Pにとっては、怪人(オルフェノク)なら誰でも仮面ライダーになれる世界観において仮面ライダーというヒーローに「なる」ということ、同種のヒーローであるライダーや同族の怪人と殺し合いを演じるということは何ういうことなのかというシミュレーションだったのだろう。

そして、白倉Pにとってはすでに555 はスーパーヒーローになって悪の怪人と戦う物語ではなく、そのシミュレーションを推し進めた結果、人間が人間と戦う話になっているのである。オルフェノクが人間の進化形であり、主人公であるライダーもまたオルフェノクである以上、オルフェノク化という個別事情は最早意味を持たなくなっている。

アギトや龍騎では辛うじてオーバーロードやミラーワールドという異質な世界原理が機能しており、アンノウンやミラーモンスターという「存在論的な怪人」が残っていたのだが、555 における怪人は詰まるところ人間であり、オルフェノク化という世界設定を除けば「人間が生きている、ただそれだけのこと」なのである。

白倉Pが555 を終えてもうライダーをつくれないと感じたのは、素朴な「ヒーローになりたい」という憧れや「オレでもライダーになれるのか」という疑問をとことんシミュレートした結果、「ライダーになって怪人と戦うということは、その力で厭な奴を叩きのめすということだ」という結論に達してしまったからではないか。

つまり、稚ない頃の夢を突き詰めた結果、ヒーローになりたいという憧れの正体は、詰まるところ、クラスの乱暴者や怖い犬を強い力で叩きのめしたいという剥き出しの暴力への欲望でしかなかったことを見届けてしまったのである。大好きなミヨちゃんを泣かすいじめっ子のケンタくんを、自分が仮面ライダーだったら叩きのめすことが出来るから仮面ライダーになりたかったのである。

ヒーローに「なる」というシミュレーションを突き詰めた結果、555 はまさに剥き出しの形でそのような物語として自身の前に立ち現れてしまったのだし、それによって自分がこれまで語ってきたヒーロー物語は、いつだってケンタくんや怖い犬からミヨちゃんを護りたかったという稚ないルサンチマンだったことに気附いてしまったのである。

それは本来、正義とも世界とも無縁な欲望だったのである。

555 の物語でライダーの超越力を無機物のベルトに仮託することで相対化し、怪人という存在論的異形もまた同じ人間として相対化することで、「ライダーになりたい」という稚ない憧れは解消されてしまったのである。ライダーになって悪と戦うことが自身の青春の葛藤や稚ない自責に対して何事かをもたらしてくれるわけではないということを見届けてしまったのである。

そんな物語を語り終えてしまった以上、たしかに白倉Pには語るべき自身のヒーロー物語など残されていなかったのだろう。盟友の窮地に手を差し伸べた「Sh15uya 」や他者の文芸性を最大限に尊重したセラムン、同僚の遺志を引き継いだ響鬼、そのように他者の物語性に手を貸すことに徹したのも、自然な流れだったのではないのか。

その上で、おそらく心ならずも引き受けざるを得なかった仮面ライダーカブトという作品で、この上に何を語ろうとしたのか、オレはそこに興味があったのである。


■カブトでやろうとしたこと

この時点で、本来カブトでやりたかったことは何かということを推測するなら、他者的な主人公性を描き得るのかという課題ではなかったかと思う。その意味で、ネットで話題になっている天道総司の戦う理由という論点については、本来何うでも好い問題だったのではないかという気がしてならない。

自分視点の視点人物性については加賀美などに仮託し、物語装置としての超越的な主人公性を天道に仮託したのではないかと思う。いわば、雷光太郎に対するダイヤモンド・アイのような解決者としての主人公性に挑戦したのではないかという気がする。従来のような、世界に対する納得を購うために苦闘する「若い」主人公と、物語に解決をもたらすための装置としての「成熟した」主人公を、意図的に二人の人物に分裂させたのではないかと視ている。

それ故に、当初の見込みとしては加賀美が本当の意味で戦うに至るまでの物語は描き通す予定であったが、天道自身が戦う理由については「主人公だから」で押し切る腹だったのではないかと思う。そのように考えるのは、当初のような天道像なら、内面の描写がまったく不要ではないかと思うからである。

平成ライダー的な意味における本来の主人公は加賀美新で、加賀美を陰ながら導き道を示す男として予め完成された男性像を提起したかったのではないか。そして、成長する未成熟な主人公である加賀美の前に何れ立ちはだかる超えるべき壁として機能すればそれでよかったのではないか、そういうふうに思える。

最終的に加賀美と対決するためのアリバイ作りにすぎない部分を、平成ライダー的な変心のドラマのノリで描いてしまったために、ひより絡みの部分が過剰に重くなって浮いてしまったという筋書きは何うだろう。何もあそこで天道が人間的な弱さをさらけ出す必要はないのであって、いつも通りの天道の儘に身勝手な動機を暴露したほうが物語的に効いていたと思うのだが、要するに主人公の揺らぎを描く場合にあれ以外の語り口を識らないのである。

本来的には、アムロに対するスレッガー中尉とかランバ・ラルとか、成長物語に必須の先取りされた自己像のようなものとして天道を造形したかったのではないかと思うのである。たとえばリンク先のquonさんが結局天道総司という主人公を好きになれなかったのは、天道が本来的には物語装置に過ぎず、自身の情念に基づく物語を持っている劇的な存在ではなかったからではないかと思う。その意味では、quonさんが嫌いなタイプのキャラを揺らがずに貫き通すべきだったのである。

たとえばシャーロック・ホームズや桃太郎侍が、物語の解決装置としての役割程度しか担っていない存在であるにも関わらず、ドラマ性から乖離したキャラクター性に基づいて人気を博したようなノリを狙っていたのではないかと思う。所詮超越的主人公という存在は、物語性の外部の存在であるにすぎない。錯綜し危機的状況を迎えた物語性の外部から顕れて問題を解決する超越的存在として天道の存在を設定していたのであれば、一種連続的なストーリーを想定することが可能である。

その場合、シリーズ構成面における挿話とストーリーラインのバランスとして、ドラマ上の主人公・加賀美を軸とする各話の挿話的面白みと、物語装置としての主人公・天道総司が物語世界を動かしていく縦糸の要素というバランスが考慮されていたのかもしれないが、これは事新しく指摘するまでもなく、普通のジャンルTVシリーズのシリーズ構成セオリーである。

白倉Pがカブトのシリーズ構成で考えていたのは、そのような一種ごく普通のジャンル作品の作劇法だったのではないかという気がしないでもない。

そのように推測するのは、加賀美新という未成熟な人物は物語を通じて成長する必要があるのだし、そのためには成長を促す契機としての個別のドラマを抱えていなければならないが、天道総司という自己完結的な人物は成長する必要がない、随って自身のドラマを抱えている必要がないからである。

一種、カブトという作品を鳥瞰する場合、劇中人物自体の成熟と未成熟という対置構造で視ても真相は見えてこないのではないかと思う。発展途上のダイナミックな人物設定と、自己完結的な物語装置としての人物設定、そのような対置構造において、加賀美新と天道総司という二人の主人公が物語世界の中心にあるような構造が設計されていたのではないだろうか。

その意味で、よく考えてみれば天道総司自身が大人であるか幼稚であるかは作劇上さほど重大な問題ではないという言い方も出来るだろう。加賀美新という人物は紛れもなく幼稚な未熟者でなければならないが、天道総司は意匠としてのキャラの完成度が高くそれを演じる俳優が格好良ければそれで成立した人物だろうと思う。

つまり、共感可能なドラマ性の次元における主人公は加賀美新だけであって、天道総司は装置としてのヒーローという共感可能性とは別次元で設定された他者であり、共感出来ないから格好良いという超越的なキャラ造形が目論まれていたのではないかと思う。

それを結局未熟な若者として共感可能性の文脈まで引き下ろさないと扱い得なかったというのは、まああんまり格好良い成り行きではなかったわけだが(笑)、おそらく出発点における天道総司は、白倉ライダー定番の「戦う理由」とは無縁の存在だったのではないか、翻って「自分なら戦えるか」と自問するのが常だった白倉Pにとって初めて他者的なヒーロー像を描こうとする試みだったのではないかと思う。

それはおそらく、カブトにおける白倉Pは、嘗てのように自分がライダーになることにはさほど拘りを持たなくなっているからではないかと思う。自分なら戦えるのか、そのような拘りから解放されたからではないかと思う。

何故なら、白倉伸一郎という個人は、これまでもこれからも仮面ライダーになることなど決してないからである。苛められているミヨちゃんを見たら、仮面ライダーに変身したいと望むのではなく、生身の白倉伸一郎がケンタくんと戦う必要があるからである。

仮面ライダーというヒーローは、自分の具体的な生の在り方とは関係ない地点に存在する何ものかであって、そこから新たにヒーロー物語とは何かを模索する必要があるのである。オレがカブトに感じるのは、従来の白倉ライダーとは異なる、ヒーロー物語と白倉伸一郎個人の余所余所しい距離感である。

たしかにカブトという番組単体で視る限り、当初の目論見が上手く行っているようには見えないが、自作に対してそのような距離感を持つことは、今の白倉Pには必要な手続ではあるのだろう。そこから新たなヒーロー物語を紡ぎ出すだけの文芸的意欲が白倉Pに残っているのか何うかはまた別の話ではあるが。

一年間息を詰めてカブトの物語を見詰めてきた人々が、その上でさらに電王に附き合うのはしんどいとは思うが(笑)、カブトを踏まえた上で電王ではどのような展開があり得るのか、それともこのまま東映という企業の都合に合わせて身を処すばかりで生温い縮小再生産が行われるのみなのか、それくらいは見届けたいと思う。

但し、旧三部作と同様なノリを期待しても、それだけは実現しないだろうと思う。

そういうわけで、カブトまでを語り終えたところで、いつも通り尻切れ蜻蛉ではあるが今回は終わりにしよう。正直、これ以上粘りきれないというのが本音のところで、大分重畳的で荒削りな論考になったと反省している。

所詮今回のエントリーは、作品や周辺情報から個人の思惑をかなり無遠慮に踏み込んで忖度した憶測でしかないが、現時点におけるオレの嘘偽りのない白倉観はこのようなものである。いずれまた、新しい動きがあれば適宜修整の必要が出てくるとは思うが、一旦このような形に纏めさせていただいた。

最後に、これまで当ブログで白倉P及びカブトを語ったエントリーの一覧を、参考までに掲げておく。

●白倉伸一郎関連エントリー一覧
最初の話題は当然これだ
批評と合目的性
高寺騒動に視るリスクマネジメント
蓮實重彦についてオレが識っている二、三の事柄

●仮面ライダーカブト関連エントリー一覧
仮面ライダーカブト 01
仮面ライダーカブト 02
仮面ライダーカブト 03
仮面ライダーカブト 04
ヒヒイロ『ノ』カネ
仮面ライダーカブト 11
オリジナル ということでもないだろうが
仮面ライダーカブト 16
TV特撮徒然
仮面ライダーカブト FINAL

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コメント

こんばんは。なんか無理矢理書かせる流れにしたみたいですみませんw。
カブトの天道総司については、結局彼が正しいという前提の世界が出来上がるこ
とを、誰よりも白倉さん自身が嫌がってしまったことがああいうはなしになった
一番の原因なんだと思ってまして(自分ちで敏樹さん登板の際にいってるのはそ
ういうことです)、「天道がヒャビョってんのが楽しい」というのは、つきつめ
れば「もう別にカブトじゃなくって良いよ」ということなので、彼が揺るがずに
当初のキャラを貫くべきだったという点に異存はありません。……が、私は白倉
ライダー的なキャラが好きだというだけで、天道が嫌いだとは別に言ってないっ
すよ、とは言っておきます。黒猫亭さん的にはどうでもいいこだわりでしょうが
、別にそういう点が気に入らなくて楽しめなかったわけじゃないので。
企画としてのカブトは白倉さん流な響鬼の焼き直しなんじゃないかと思っていま
して、そういう意味ではヒビキに戦う理由がなかったように、天道にも戦う理由
は要らなかったんだと思います。ドラマ性としてひよりという個人的理由を設定
したのがそもそもまずかったんじゃないかと思うんですが、自分に引き寄せなけ
れば結末をイメージできないこと、自分に引き寄せた時点でその世界が美しく収
まることが我慢できなくなることが、白倉さんの問題点なんじゃないかと最近感
じてます。

投稿: quon | 2007年1月 9日 (火曜日) 午前 01時04分

早速コメントいただいてありがとうございます。
まあ、無理矢理ということでもありませんからご安心ください(笑)。そちらに書き込ませていただいたのも、そろそろ白倉Pを語りたくなったってこともありますから、良いきっかけだったということで。

>>天道が嫌いだとは別に言ってないっすよ

誰かの誰かに対する気持ちというのは、他人が迂闊に「こうだろ?」的に書くと大概怒られますな(笑)。気持ちのニュアンスというのはなかなか難しいものだということで、一つお許しください。
そちらのコメント欄でかなり話し合った後ですので、ご意見自体にはこちらも異論はありません。やはり、他のPと違って白倉作品の場合には、かなり彼の個人的な資質や思い入れが重要な要素になってくるみたいですね。それがかなり独特の拘りとして表面化して物語性に干渉してくるので、彼個人の資質に言及せずに作品を論じることが難しいというのが厄介なところです。自分に引き寄せすぎるところ、一義的に意味附けて美しく物語化することに対する抵抗感、この辺りが課題なんですかね。エントリー中の「ライダーになりたい」云々に関しては一種の試論というか喩え話のようなものですが、過剰に「自分が戦うなら」「自分が納得出来る形は」という拘りがあると、ひとまずこうとでも解釈するしかないというのがあります。
それでも、旧三部作の頃から比べるとそこから脱却しようという意志は伺えるとは思うんですが、未だに別の方法論みたいなものを見出せていないというところでしょうか。とりあえず第一段階として天道を突き放してみたけれど、やっぱり土壇場で日和っていつも通り引き寄せて考えてしまった、そんな感じに見えますが、その辺が井上敏樹の言う白倉Pの中の「野獣」なんでしょうか。
そこから先を論じるとなると、本当に白倉伸一郎の個人史に基づくトラウマやオブセッションを追及するしかなくなるし、土台そんなことは赤の他人にはわかりっこないことですので、何とか個人の問題性から脱却してくれることを願うのみです。まあ現状のテクストでも、一種の作家論とはいえまだ存命中の人間についてここまで踏み込んだ憶測を語るのもあんまり行儀の良いことじゃないので、何処かからねじ込まれたらアッサリ謝ってしまうつもりですが(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2007年1月 9日 (火曜日) 午前 02時03分

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