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2007年1月20日 (土曜日)

The fugitive

非現代劇の二クールシリーズということで水戸黄門等と同様の扱いになるから、今までさほど突っ込んで触れなかったテレ東金八の「逃亡者おりん」ではあるが、個人的に好きな番組なので一度くらいは正面から採り上げてみようと思う。

ネット局の関係で地方では観られないところのほうが多いと思うのだが、定期的に時代劇大作を制作している局だけに、他局に比べてそれほどしょっぱいということもなく、スタッフは水戸黄門と共通らしいのであのラインの見え方の作品である。

スタート前の会見ではテレ東社長が「九・五%、いや一二%を狙う」と威勢良くぶち上げたが、如何にこの想定視聴層に関しては決定的に強い対抗馬がいない金八枠とは言え題材的に地味な感は否めず、初回SPこそ一〇・三%とご祝儀が乗ったが、その後じりじり数字を落として一時期は四・七%まで下落したが、これは正月ドラマの激戦区のどさくさで前枠の通常番組が忘れられた格好となったためということもあるだろう。

正味なところの実力は七〜九%が精々というところで、その意味では当初の予想をそれほど下回ったわけではない。真逆にテレ東の連続TV時代劇が本気で二桁の大台を突破するとは誰も信じていないだろうから(笑)、九・五%が努力目標、一二%というのは完全に理想であってマストではないだろう。全国ネットのキー局制作現代ドラマとは話題の波及力が違うのだから、これでも健闘しているほうだと思う。

製作のインフラが東映太秦映像ということで、東映特撮でメジャーデビューした若手俳優のステップアップの場としても機能していて、これまでのエピソードでは、ライダー関係の役者としてはナイト=松田悟志と威吹鬼=渋江譲二、また村上峡児の村井克行が各話ゲストで出演している。

ライダーたちの出演エピソードに関しては、役柄自体が昔なら森田健作が演じたような役どころで誰が演じてもそうそう変わらないから新鮮味はなかったが、バラ社長は若干キャリアが上ということからか、おりんの嘗ての同僚という大きな役を貰い、二人の女の間で揺れるという美味しい役どころでなかなか見せた。

それ以外には、おりんを陰日向に助ける「タキシード仮面」役である倉沢弥十郎の宅間伸、おりんとは愛憎唯ならぬ間柄の悪の黒幕植村道悦を演じる榎木孝明、その道悦が御輿に担ぐ田安宗武を演じる倉田てつを辺りがトクサツ経験者ということになるのだが、冷静に考えればすでに時代劇で地歩を固めた俳優ばかりという言い方も出来る。

だが、その他にも田中健や石橋保、大高洋夫、吉野紗香、西村和彦、それに上記の若手三人ということで、トクサツを想起させる名前が有意に多い。以前7弁に関連して語った通り、勿論これは単に現代においては「トクサツ俳優」などという特定のポジションは存在しないという事実を示しているにすぎないわけで、細かく各人の芸歴を追っていけばトクサツ臭がどんどん希釈されていくわけである。

それについては思うこともあるにはあるのだが、論点が大幅にズレて長引くのでこの辺で軌道修正しよう。キャスティングに関しては措くとしても、以前語った通りこの番組の枠組みは割合特撮ヒーロー番組に近縁性がある、というか、特撮ヒーロー番組のほうが時代劇の枠組みを籍りていると言うほうが歴史的に正確な言い回しだろう。

東映という製作母体がトクサツと時代劇をジャンル物の両輪として継続的に取り扱っているのは歴史的に自然な経緯と言えるだろうが、このおりんも一種の抜け忍物と表現出来るのだが、国家転覆を企む悪の暗殺集団からの逃亡者が凶悪な追っ手を倒しながらまだ見ぬ我が子との再会を目指して旅路を急ぐという物語構造は、たとえばキカイダーやアクマイザー3などとも通底する東映特撮定番の構造である。

おりんのような番組を観て更めて実感するのは、言い古されていることではあるが、東映特撮の根底に時代劇があるという歴史的文脈であり、たとえばライダーの超越力がベルトという無機物に仮託され、その争奪戦が描かれている「仮面ライダー 555」も、メインライター井上敏樹の実父である伊上勝が得意とした「鳴門秘帖」系統のお宝争奪戦のバリエーションである。

伊上が全話脚本を担当した「仮面の忍者赤影」もギヤマンの鐘や黄金の仮面等のお宝争奪戦で縦糸を作ることが多く、たとえばライダーでも「死神カメレオン」の前後編などは完全に時代劇テイストのお宝争奪戦で挿話が成り立っている。そもそも、その仮面ライダーの設定自体、悪の組織の力で生まれた超人が当の組織に立ち向かう最大の強敵になるという構造に抜け忍物の影響がある。

まあ、詳しく研究したわけでもないので逐一跡附けることは出来ないが、東映特撮を語る上では時代劇の素養も不可欠な要素ではないかと思う次第である。

閑話休題、本題に戻ってこのドラマの基本設定をお浚いすると、おりんが属していた手鎖人と呼ばれる暗殺集団は、頭領の植村道悦が自らの野望を実現するために組織した実質的な私兵集団である。

御庭番十七家の影に潜む別家の頭領であった植村道悦は、次期将軍職への野心を胸に秘める田安宗武を御輿に担いで現将軍の家重を打倒し、国家権力を一手に総攬しようと企んでおり、その目的のためなら如何なる卑劣な手段も厭わず非道の限りを尽くすという今時珍しいくらい裏も表もない極悪人で、トクサツファンの視点で言えば「タオの月」の角行と連続性のある役柄である。

おりんは御庭番十七家側の頭領小坂平九郎とその妻妙の娘として生を享けたが、父は道悦の陰謀で無実の罪に陥れられて憤死を遂げ、母はその際に生き別れとなり、稚ないおりんは父の仇とも識らず道悦の許で手鎖人の一員に仕立て上げられ、手鎖人集団が現政権の安定と平和を図る為に危険分子を排除する公安組織であると思い込まされている。

嘗て父の配下であった老御庭番の宇吉は、忠義の志を圧し隠して手鎖人組織に下り、旧主の忘れ形見であるおりんの成長を見守っていたが、おりんが苛酷な任務の直中で手鎖人集団の存在意義に疑問を感じ始め、道悦に対する不信感を募らせるに至って、道悦の真の目的や父の死をはじめとする陰謀の真相をおりんに明かす。また嘗ておりんは道悦により手籠めにされた過去があり、その際に孕んだ娘は死産であったと識らされていたのだが、実は根来の里に無事生きて暮らしていることも識らされる。

一切の顛末を識るに及んでおりんは決然と道悦に叛意を示し、手鎖人集団を抜けてまだ見ぬ我が子の暮らす根来の里を一路目指して逃亡の旅に出る。脱走者に対して死の制裁を下すため、また、道悦の野望の行方を左右する重大な密書がおりんに託されたと思い込んだ為に、道悦は「のがれもの」となったおりんに執拗に追っ手を差し向ける。併せて、邪魔者である将軍側近大岡忠光を亡き者にすべく手鎖人たちが再々行った襲撃事件の罪をおりんに着せ、公儀からも追われるように仕向けることで、おりんの口から陰謀が漏れることを防ぐ。

ここまでの設定提示編が第一話の二時間スペシャルで語られるのだが、この辛気くさい陰気な筋立てを、現時点のTV時代劇シリーズで望み得る限りの豪華キャストの謀略劇として見せた映像は悪くないものだった。

本筋的に言えば榎本孝明のラスボスに青山倫子のヒロイン、それにおりんの窮地に手を差し伸べる謎の剣客として宅間伸が絡むという多分に劇画的でミニマルな暗闘劇なのだが、その発端編としてオーセンティックな御家騒動物の体裁を具えたダイナミックな政治背景を提示するという意味で、経済的且つ瞬発力のあるプロローグであったと思う。

東映特撮とのアナロジーで言えば、各話の構造は「快傑ズバット」に近いのだが、おりん自身が手鎖人の脱退者ということで、刺客として差し向けられた過去の同僚との因縁を巡るエピソードも多く、最前名を挙げたアクマイザー辺りとも近縁性がある。

各話の筋立ては七〇年代の劇画時代劇を思わせるテイストで、「子連れ狼」や「三匹の侍」、「無用ノ介」とか「乾いて候」、最近の例で言えば「あずみ」辺りに近縁のリアリティのドラマではないかと思う。そのせいか何うか、当ブログにもこのドラマの原作を検索して辿り着く人もいるようだが、いろいろ調べても原作がクレジットされていないので、劇画原作ということではなくオリジナル作品のようである。

おりんが旅の途中で出会うさまざまな人々と触れ合う中で手鎖人たちが卑劣な襲撃を仕掛け、大概ラストではおりんが身を寄せた先の人々の何人かが死ぬというやりきれない流れとなる。それは必ずしも無辜なる民間人がおりんの巻き添えで死ぬというのではなく、夫々の人々が抱えるドラマがおりんと手鎖人の暗闘をきっかけに露呈し、そのドラマの然らしめる決着として死ぬべき人が死ぬという筋道になっている。

単純に言えばおりんはそれらの人々にとって疫病神で、手鎖人と公儀の両方から追われる身であり、自分に関われば巻き添えの累が及ぶことを重々承知していながら、何うしようもなく他者と関わり合ってしまうおりんは、平和に暮らす人々にとっては迷惑千万な存在である。

その逃亡の動機もまた天下国家の為に道悦の野望を砕くという大義名分ではなく、一目娘に会いたいという個人的な感情でしかなく、おりんは飽くまで私的な動機に基づく逃亡者であって、道悦の政治的野望と戦う正義の志士ではない。普通に考えれば、身勝手な動機で他人を巻き添えにしているわけである。

しかし、当然のことではあるが、苟も時代劇の主人公たる者が自ら進んで民間人を楯にするわけはなく、後ろ暗いお尋ね者の身であることからも可能な限り他人との接触を避けようと努めるのだが、行く先々で行き掛かり上已むなく人々に関わり合い、結果的にそれらの人々が抱えるドラマに深く絡め取られ、そこへ道悦の謀略や刺客の襲撃が絡まり合うことで大概のエピソードは不可避的に悲劇的な結末に至る。

シリーズ初期のエピソードは、冷酷な殺人マシンの手鎖人として教育され人並みの情緒の面で欠落を抱えていたおりんが、逃亡の旅の道すがら出会う人々との触れ合いを通じて人間性を取り戻すという性格のもので、人々との接触を避ける動機も当初はお尋ね者としての本能的な警戒心からであった。

絶望的な状況の中でただ生き延びて目的を達することのみを考えていたおりんは、可能な限り他者との接触を避け、行く手の関所を破って獣道を行くのだが、追っ手との闘争で傷を負ったり疲労に倒れて他者と関わり合う裡に、徐々におりんの中に人間的な感情が目覚めていく。当初、人間らしい感情を解さぬおりんの思考はともすれば冷酷で非人間的ですらあったのだが、人々の命を賭けた悲劇のドラマを目の当たりにすることで、少しずつ人間らしさを取り戻していく。

その人間回復のプロセスは必ず他者の血の犠牲を伴うものであるが故に、逃亡の旅程は逃れようもない自責の念をおりんに植え着けるが、一目なりとも娘に会いたいという情愛の念だけがおりんの生きる支えである以上、その血塗られた旅の歩みを一足たりとも止めるわけにはいかないのである。

その意味で、各話のおりんの行動原理は常に一見矛盾しているように見える。要するにこの劇中世界における最大のトラブルは偶々おりんと関わり合ってしまうことであり、仮におりんを正義の味方と位置附けるなら、彼女に為し得る最善の行動は他者との関わりを避けることである。にも関わらず、おりんは毎回行く先々で心ならずも他者と関わり合い、悲劇の進行を為す術もなく見守り、死者の恩讐を浄化するだけの為に戦うのだから、最初から最後まで非意図的な成り行きに過ぎないのである。

これはおりん視点の「一刻も早く根来に到着する」という目的からも不都合な事態であり、おりんは逗留の必要がなくなれば直ちに出発してその地を後にするのだが、最終的にはそれらの人々の為に踵を返して戦いの場に赴く羽目になるのである。

これはつまり、この物語は徹底的に非目的的な運命の悪戯によってエピソードが構築されているということで、劇中の不条理な悲劇をもたらすのもその浄化をもたらすのも、おりんの置かれた非意図的な状況のダイナミズムであるということである。おりんはいつも最も都合の悪いタイミングで人々に関わり合い、最も都合の良いタイミングでは決して間に合わない鈍くさい主人公なのである。

視聴者視点で言っても、水戸黄門のように主人公がトラブルを抱える民間人と接触することを「待ってました」と歓迎することが出来ない。水戸黄門は予定調和の勧善懲悪物語であり、主人公である御老公一行が民間人と接触することは、つまり彼らが抱えるトラブルに解決の糸口が与えられることになるわけであって、劇中事実のレベルから言っても一行の目的はそのようにして行く先々の不正を糺し人々に平和をもたらすことなのだから、視聴者がそれを忌避する動機は如何なるレベルにおいても存在しない。

しかし、このドラマの場合、本来おりんは他者と接触すべきではない逃亡者の身の上であり、接触した人々がどんなトラブルを抱えていようと、自分自身重大なトラブルを抱えるおりんにはそれを解決する絶対的な能力は与えられていない。しかも、物語的な枠組みのレベルで言えば、この物語においてはおりんとの接触を端緒として必ず血塗られたカタストロフがもたらされる構造となっている。

その意味で、黄門一行は旅の過程で積極的に他者と関わっていき、彼らが抱えるトラブルに深く関わって行動し、最終的に巨悪を摘発して不正を処断すれば好いのだが、おりんの場合はそもそもあるべきではない邂逅が不可避的にもたらされることで、おりんの行動「以外」の部分でドラマが動いた末に逃れ難いカタストロフに辿り着く。つまり、水戸黄門的な勧善懲悪物語の陰画的な構造の物語となっているのである。

そのような陰気くさい構造の物語を成立させるのは、おりんの人物設定やこの物語の劇的リアリティであって、おりんは凄腕の女暗殺者でありながら、絶対的に強い女剣客ではない。そのような絶対的な強さは寧ろおりんを助ける倉沢弥十郎のほうに与えられていて、ステロタイプの時代劇の主人公は弥十郎のほうなのである。

しかし、劇中最強の存在である弥十郎は世直し旅を暢気に楽しむ主人公ではなく、この物語の背景にある政治状況を動機としておりんに味方しているのであり、簡単に謂えば裏も表もない正義の味方ではない。だから、劇中の悲劇的ドラマに接しても弥十郎の動機においてそれを解決しようと動くことはなく、飽くまで他者のドラマに翻弄されるおりんに最低限の助力を与えるのみである。

片や主人公のおりんは、他の手鎖人との一対一の対決においては無敗の凄腕暗殺者ではあるのだが、ラスボスの道悦よりは絶対的に非力であり、相手が雑魚でも集団で襲撃された場合に無傷で撃退し得るほどの無敵の剣客ではなく、それ故に負傷や病気で簡単に倒れてしまう。つまり、時代劇の主人公としてはかなり弱い。

おりんを演じる青山倫子が骨格のしっかりした大女ということであんまり陰惨に見えないせいなのか、大概おりんは毎回一度は負傷したり行き倒れたりしていて、そういう意味ではかなり苛め抜かれる可哀相な主人公である。追っ手の雑魚共をバッタバッタと薙ぎ倒すようなパワフルな主人公なら、各話の悲劇的展開において「おまえ、何をボーっと見てるんだよ、何とかしてやれよ」とツッコミを入れたくもなるが、おりん自身が弱い立場であることが強調されているのでそこまで期待するに忍びない気分になる。

勢い、無敵の超人剣客という位置附けの弥十郎に対してその不満をぶつけたくもなるのだが、そもそもこの男がおりんを助け好意的に振る舞うことからして正規の任務からの逸脱くさいので、剰り過剰に期待するわけにもいかない。つまり、この物語には劇中の悲劇を回避し得る絶対的な能力と動機を両方兼ね備えた人物が一人もいないのである。

おりんに出来るのは、各話の悲劇が完遂された「後に」悪人が嗤うことのないよう捨て身の戦闘で成敗することくらいであって、残された人々がせめて安寧に暮らせるように禍根を断つということくらいである。その意味では「必殺仕置人」などと同傾向のエピソード構造と表現することも出来るのだが、必殺シリーズのように非命に倒れた人々の怨みを晴らすというニュアンスは薄いし、たとえば「破れ傘刀舟」のように自らの義憤を爆発させ私刑によって正義を回復するというニュアンスもない。

そもそも人々との接触それ自体が已むを得ないものであったように、最終的におりんが敢然と敵に立ち向かい激闘を繰り広げるのも已むに已まれぬ感情からであり、敵を倒したからと言って今さら何が得られるわけでもない。人々を護りたいと望みながらも、彼女が悲劇に先駆けることは決してなく、状況の然らしむるところとして手鎖人と対決して倒すことで、彼女と闇の世界を繋ぐ鎖がまた一つ切られるというだけなのである。

その意味で、このドラマはスカッと爽快なカタルシスに欠ける哀切な物語なのだが、不思議と「怨み屋本舗」のように復讐を描くために無理矢理不条理な非道をでっち上げたような不自然さは感じない。それはやはり、主人公のおりん自身がかなり可哀相な境遇の人物であり、能力的に限界のある弱い主人公だからであって、その限界内で精一杯自他に誠実に生きているからである。

彼女が人々と関わり合ってしまう「已むなさ」もかなり気を遣って描かれており、最終的に悲劇的な結末が描かれたとしても、それにおりんが自責の念を覚えること自体が不条理に感じられるような作劇になっている。このような痛々しい感情を催させるキャラクターというのは近年では剰り見かけないので、それが一種このキャラクター独自の魅力と言えるだろう。おりんを演じる青山倫子も、この役柄に限って言えば割合妥当な配役に感じられる。

以前この番組に触れたときに陳べたように、青山倫子は何う考えてもキャリアの割には大根女優でアクションも上手いとは到底言えないのだが、何というか、飽くまでこの役柄に限って言えば技倆の観点で切って棄てられない妙な味がある。

映像作品のリアリティが細分化しているこの現代において、演技の巧拙というのはかなり複雑且つデリケートな問題であるということは以前言及した通りだが、まあ青山倫子の演技力はそういうデリカシー以前の問題だろう(笑)。

セリフ廻しは目立って悪くないのだが、ちょっと爬虫類系の顔立ちで表情が硬いというのもあるし、他人との掛け合いにおいても、相手がセリフを喋っている間の顔は何う視ても自分のセリフの間を計っているようにしか見えない。無言の間で物思いを表現するような芝居でも何かを考えているようには見えないというのは、非常に古典的な意味で大根だということである。

また、アクションに関してもコリオグラフィックな勘が絶対的に悪いという印象で、スラリと長い四肢に恵まれながらそれを持て余しているようでは、まああんまり殺陣や舞踏に向いた人材ではないだろう。ぶっちゃけ、番組開始当時はこの人の主演で大丈夫かいなという懸念を覚えたのだが、慣れると妙に憎めない女優さんである。

本来おりんというのはかなり陰惨な来し方を強いられた女性であって、もっと表情芝居が雄弁な女優が演じたらちょっと居堪れない感じになると思うのだが、青山倫子のように少し人間の芯が抜けたようなボーっとした柄の女優が演じると過剰に生々しくなくてちょうど好い塩梅である。

シリアスな芝居場ではちょっと弱いが、先ほど少し触れたように、このドラマの定型的な挿話構造においては、おりんが身を寄せた先で暫く「何もしない」というプロセスがあって、そこで各話の主人公たちのドラマが動き、おりんがそこを出立した矢先にカタストロフが訪れるというパターンが多いのだが、その「何もしない」プロセスにおいて殆ど何も考えていないように見える青山倫子の柄がとても好い。

このプロセスにおいては、おりんは単にそれらの人々のドラマを見守るだけの役割になるので、受け一方の芝居になる。これまでのキャラクター描写を視るに、こういうシーケンスにおいておりんの内部で何かしらの情感的なドラマ性が生起するわけではないので、本当に嘘も隠しもなく「何もしない」のである。こういう場面でおりんの内面に何かしらの情感が「ある」ように見せ掛けるのが普通の意味での芝居だと思うのだが、青山倫子の場合、その儘何も「ない」ようにしか見えない。

平和で好ましい場面が描かれた場合は普通に半笑いで視ているだけだし、感情的対立が描かれた場合は険しい顔をしているだけなので、その演技におりん自身の情感のドラマ性が何も「ない」ということがアカラサマに顕れている。そして、情感のドラマ性が何も「ない」ことが明白であるにも関わらず、青山倫子がボーっと状況を視ているだけで主人公が傍観者として在る場の間が何となく保ってしまう。これはこれで、大根ではあるだろうが一つの柄というものでもあるのだろうなと思わないでもない。

ないものをあるように見せるのも芝居だろうが、ないものをないままで間を保たせてしまうのも芝居の肉体性だろう、とちょっと小難しいことを考えてしまったのだが、しかしまあ、それはオレが一般的に視て変なところのある女優が好きであるという個人的な嗜好の故もあるだろうから、あんまり真に受けられたも困るんだが(笑)。

その半面、ちょっと困っちゃうなぁと思うのは、たとえば冒頭で植村道悦を「おりんとは愛憎唯ならぬ間柄」と表現したが、何う考えてもそういうニュアンスを想定された劇中設定のはずなのに、ちっともそんなふうに見えないというところである。

嘗て自身の操を穢したばかりか生まれた子供をも奪い去った極悪非道な男に対しておりんが単純な憎しみしか覚えていないとすれば、えらく底の浅いお話だし道悦が男でおりんが女である対立構造の意味も殆どないと言うしかないのであるが、現状ではおりんと道悦の間で男女のニュアンスの感情があるようには決して見えない。

おりんが生きる支えにしている娘は、父の仇でもあるこの憎い極悪人の道悦との間の子なのだから、そこを「我が子は恋しいがその父親は何うでも好い」とバッサリ割り切ってしまうのでは過剰に現代的で、時代劇としての潤いや設定の旨味がない。

これは倉沢弥十郎に関しても言えることで、毎度ピンチを救ってくれる頼もしい快男児に対しておりんの側にも何かしらの想いがあって然るべきなのだが、おりんの側に何ういう感情も読み取れないのである。それはまあ、たしかに弥十郎には弥十郎の使命や思惑があっておりんを助けているのだから、おりんが過剰に思い入れる必要はないと言えばないのだが、それを言ってしまっては身も蓋もないだろう(笑)。

気の利いた女優さんなら、脚本に何も書いてなくても、ライターやプロデューサーの思惑にそんな狙いがなくても、勝手に道悦や弥十郎に対するおりんの感情を想定して演じてしまい、そのようにして結果的に生まれたニュアンスがシリーズの展開を動かしたりするものなのだろうが、その辺に関しても青山倫子の芝居だと何も考えていないようにしか見えない。

全部が全部青山倫子の芝居のせいだとは思わないが、苟も女優たる者が自分の演じる人物が劇中の個々の男性をどのように視ているのかという想像力を働かせないというのも何だか解せない。オレは女優じゃないからよくわからないが(笑)、普通の女優さんというのは、「この○○という女は、自分でも気が附いていないけど○○が好きなんじゃないかしら」とか想像しながら役を膨らませるものなんじゃないだろうか。

少なくともオレがもし女で青山倫子の立場だったら、おりんの中で娘を想う感情と道悦に対する感情がどのように同居しているのか想像するし、弥十郎がいつも危ないところを助けてくれることを何う視ているのだろうと想像して、その想定で芝居を組み立てると思うのだが、そういうふうな組み立てが顔に表れない人なのだろうか。

ただまあ、そういう潤いがあってほしいというのもこちらの一方的な期待なので、ある意味ではそういう関係性の想定すら「ない」というのはかなり独特の柄であるとも言えるだろう。ライターや演出者の意図は識らないが、一種おりんというのは何処か人間としての自明な在り様が壊れた不自然なキャラクターでもあるので、普通の女優なら多少は出るはずの道悦や弥十郎に対する感情のニュアンスがまったく「ない」というのもある種新鮮な人物像ではある(笑)。

若いアイドルさんのようにたどたどしいセリフ廻しなら、「ああ、この子はまだ素人で芝居が出来ないんだなぁ」で済んでしまう話なのだが、ある程度の年齢の美人女優さんでセリフを喋るのだけは普通に流暢に喋っているので、その感情表現の欠落をただの大根と断ずるのを躊躇うのである。

纏めて言うなら、何だか不思議な女優さんだなというのが本当のところで、上手いとか下手とかの規範で計るのを何となく躊躇わせるところがある。それで判断すれば下手なのがわかりきっているからだが(笑)、じゃあ何で割合好きなのか、面白いキャラクターだと感じるのかが理解出来ないからである。

いちばんわかりやすくキャッチーな魅力というのは、戦闘場面でいきなり時代設定無視のエロいレオタード姿になる辺りだとは思うのだが(笑)、何だか最近は饅頭笠に合羽に膝までの袷という変な道中姿でもそれなりに可愛く見える。前述の通り大女の和風美人なので御殿女中風に拵えても華があるし、慣れるに随って当初懸念したようなヒロインとしての適格性については不安はなくなったのだが、やはりかなり癖のある変な女優だという印象は拭い去れない。

それと、この番組に対して好印象を覚えているのは、テーマ曲やEDが印象的だということもあるだろう。EDは「PINZORO」という東京スカパラダイスオーケストラの時代劇的なイメージの楽曲で、陰鬱な悲劇が描かれた後に軽快なスカのリズムでブラスの効いた道中物的なイメージの楽曲が流れるのは適切な後口のバランスに感じる。

また、タイトルバックやアイキャッチ等で流れるテーマ曲は、臭いくらいにストリングスがむせぶリリカルな楽曲で、女性主人公の劇画的時代劇というイメージにマッチした好い意味でキャッチーなモチーフとなっている。

戦闘場面で流れるアレンジ曲も同じモチーフでありながらヒロイックでデフォルメの効いた高揚感があって、喩えて言うなら如何にもワイドショーの音効さんが好みそうなわかりやすい魅力がある。その楽曲に合わせて真っ黒な羽根がパッと散ってタイトルロゴが出るタイトルバックのCGも印象的で、事前情報から想像するよりも垢抜けたアニメ的なイメージなのは、こういう細部のセンスが良いからだろう。

冒頭で触れたように、この題材でしかもテレ東で一二%は欲張りすぎだとは思うが、たしかにそのくらいの数字を狙うつもりで作っているような全社姿勢の気合いは感じる番組である。従来のテレ東時代劇は高齢者層狙い決め撃ちの題材だったと思うのだが、この番組に関しては若い世代が観ても楽しめるような配慮はあると思う。ただ、若い世代が積極的に観たいと思うような題材ではないので、結果的にどっちつかずになったという嫌いはあるのかもしれない。

多分、七〇年代の若者なら相当数の視聴者が観たと思うのだが(笑)、如何せん「ネオ時代劇」とでも銘打って有名ポップスターの楽曲を使い現代ドラマの花形キャストでも立てない限り、今の若い視聴者は時代劇になど関心を持たないだろう。

真面目に力を入れて作っているのはわかるのだが、まあこの道具立てでは現状の数字でかなり成功している部類だとは思う。

余談に渉るが、この番組は一〇月期の第三週という半端な時期のスタートで、翌月も一回放映を休んでいるために何だか中途半端な話数配分になっているのだが、期末の第七話では二時間SPとなっていて、それ以前の通常エピソードよりも若干スケールの大きな内容のエピソードとなっている以上、期首跨ぎの前提で制作されたエピソードとしか思えない。その辺の放映時期と話数配分の混乱には、何か編成上のトラブルでもあったのかと勘ぐりたくなるのが人情である。

そのせいなのか何うか、第五話までのサブタイトルには必ず「哀」の一字を入れるという形式上の縛りがあったようなのだが、一二月に入ってからの第六話以降のサブタイトルではそのような縛りが撤廃され、形式上の統一感がなくなっている。第五話までで視ても、第四話のサブタイトルが「哀紡ぐ女の里」となっているが、それ以外のエピソードでは「哀しみの○○○」で統一されていて、これが甚だ中途半端な印象を与える。

必殺シリーズや紋次郎をはじめ、TV時代劇シリーズでサブタイトルの形式を統一するというのはよくある手法なので、当初はこの形式で全話統一するのかと思ったが、時期的にも話数的にも中途半端なタイミングでこの約束事が破棄されているのに関しては何ういう事情があったものか、放映時期の混乱と併せて何とも気持ち悪いというのが正直なところである。

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コメント

黒猫亭さん、どうも。
一応、補足です。
青山倫子は歳はそれなりにいってますが(笑)、これまでモデルが本業で演技経験はほとんどなかったようです。
ちなみに土曜日の昼間になぜか上戸彩の「李香蘭」のメーキングとカップリングで放送された「おりん」のメーキングSPってご覧になりました? 「おりん」の今後の展開について青山倫子がいろいろ語っていて、本人にはかなりクレバーな印象を受けました。おりんの本当の目的は(本人が意識しているかどうかは別として)娘に会うことではなく、娘に会ったうえで自分の血塗られた人生を処断することではないか? とか。
「おりん」についてはいろいろ書きたいのですが、まだ仕事が終わっていないので、ここではぐっと堪えます。

投稿: マサキ | 2007年1月22日 (月曜日) 午後 03時33分

マサキさん、いらっしゃい。何というか、選りに選って「おりん」の話題で喰い附いてくる辺りが窮めてマサキさんらしいなあとちょっと感動しました(笑)。

たしかに青山倫子は、つい数年前に「ビギナー」にゲスト出演したのが女優デビューということで、演技経験自体は少ないですね。ただまあ、井上訓子時代から算えると結構なキャリアと言えますので、そういうことも考え併せれば、という意味だったのですが、ちょっと言葉足らずでしたね。芝居の勘というのは実際の演技経験だけではなくて、芸能活動全般から吸収するものではないかなと考えているということですが。

まあそういう細かい経歴面のニュアンスが本題ではなく、おそらく役者としての「伸びしろ」に関してのご意見だとは思うのですが、まあこれからもっと経験を積むとしても劇的に演技が変わるとは思えないというのがオレの意見ですかねぇ。

その一方で、この人の場合、普通に「上手い芝居」に見えなくてもいいんじゃないかという気もしていて、そういう捉え所のない感じを受けたことからこういう論旨になったということがあります。オレは割と好きな女優に関しては、普通の女優とは違う変な持ち味にばかり目を惹かれるもので、結果的には糞味噌に貶してるように見える場合が多々ありますから、そこは反省しています(笑)。

言うに事欠いて「大鼬」とかね(木亥火暴!!)。

それから、件のメイキングは後から識ったので未見なんですが、公式サイトに同内容のインタビューがあって、そちらのほうはこれを書く前に読んで参考にしました。たしかに仰る通り、おりんの人物像について的確に考えているとは思いますし、おりん自身が暗殺者として道悦の陰謀に一時期荷担していたわけですから、娘と平和に暮らすハッピーエンドというのは考えにくいですね。

おりんの立場で旅を続けるということは、そのプロセスで関わり合った人々の悲劇の業をも背負って生きていくということで、自分一人だけ幸せになるわけにはいかないというのは既定の結論とすら言えると思います。そこを、たとえばおりんを生かす方向で結末を設けるなら、そこに一山なければならないだろうし、おりんの背負う他者の業を何う浄化するかというのが物語上の課題となると思います。

で、青山倫子の役作りというのはその限りでは的確なのですが、普通の女優の役作りから考えると、道悦や弥十郎に対する感情にまで及んでいない以上、ちょっと余裕のないところがあるなとは感じました。それが劇中人物としてのおりんの追い詰められた心情という表現に結び附いているのであれば、結果論的にはOKだろう、でもこの次となると実態的なスキル面として何うなのかなぁ、というのがオレの意見です。難癖を附けた立ち回りについても、第一話の時点よりは幾分マシになっていますが、まだちょっとスタイルの割に動きに華がないかなと感じるもので。

まあ、本人視点の芸歴上のことを考えると、何処かで一皮剥けるなり劇的に芝居の性質が変わるなりしなければ、この先主演級としては活躍していけないんだろうなとは思うんですが、そこが何うなのかな、というのが正直なところです。いちばんの近道は、存命中に大林映画に出ることですかね(木亥火暴!!)。

一応、今回のコメントに対するお返事としてはこんなところですが、お仕事が片附いた折にはもっと突っ込んでお話ししたいところですね。おそらく当ブログを気に掛けてくださっているような方々はあんまりこの番組を観ていないと思いますので(笑)、このエントリーにご意見をいただけるのは有り難いです。

投稿: 黒猫亭 | 2007年1月22日 (月曜日) 午後 04時33分

いやいや、忙しいのは本当なんですが、ネタが「おりん」となれば別腹ということで。メーキングSPのインタビューを見たかぎりだと、青山倫子という人はそもそも男女関係の機微とか考えたこともない、めちゃくちゃ男っぽい人間なのかもしれません。見てる時はあまり違和感がなかったのですが、後から考えてみたら「女優」がインタビューで喋る内容じゃないですね、あれは。よくも悪くも(笑)。
メーキングSPはこんどアレでナニしますが。かなりわかってる人間が作っているようで、短い時間なのによくまとめてありました。手鎖人大百科とか、青山倫子にわざわざあのエロタードを着せて「パーツ紹介」的に各部を接写してみせたり、ちゃんと大人向けの動く「超全集」になってました。
黒猫亭さんと被らないところで不満を挙げるとしたら、敵の手鎖人ですかね。時代劇の範疇と思えば十分にキャラ立てはしてると思うんですが、特撮モノとしてみるなら、もうひと味あってもいいかな、と。最大の疑問は「手鎖人」なのに手鎖を使うのはどうして、おりんだけなのか? ということですが……(鎖を使う敵はいましたが)

投稿: マサキ | 2007年1月22日 (月曜日) 午後 05時15分

お忙しいところ、どうもです。

何というか、語弊があるかもしれないけれど、普通の女優さんというのは女としての対人感情の部分にまず関心が向くんじゃないかと思うんですが、青山倫子に関しては自身の人としての筋目がまず気になるというところで、まあ真面目な人ではあるんでしょうなぁ(笑)。勿論、そういうところは嫌いじゃありません。

手鎖人については、ご指摘の通り現状の設定はちょっと生真面目すぎて面白みに欠けるところがありますね。トクサツで言えば怪人に当たるのが彼らなのですから、赤影の魔風忍群や根来十三忍衆とまでは言わずとも、ちょっと人間離れした怪物的な個性が欲しかったところです。少なくとも各々得意の武芸や戦術にケレン味があれば少しは違ったんじゃないかと思うんですが、一応の描き分けはあっても地味なリアリズムですしね(笑)。

あと、手鎖人というのはやはり「咎人」というイメージからのネーミングだと思うんですが、おりんが手首に巻いてるアレが手鎖人の証というのでもないように見えますね。その辺、語感からのイメージだけで考えているということなんでしょうが、実際に「手鎖」という名前で武器を出しているのがややこしいんですね。

その繋がりで言うと、「闇の鎖、また一つ切りました」という決めゼリフも、手鎖人を一人仕留めるごとにおりんがまた一歩自由に近付くという見え方なら効いていますけど、現状の構造だとまるっきり逆で、寧ろ他人様の血腥い因縁にどんどん絡め取られているように見えるのが気になります。自身に繋がる因果としての鎖ではなく、闇の勢力の結束を示す意味で「鎖」と言っているのなら、それはそれでおりんは正義の味方ではないですからちょっと不似合いな感じですしね。

何だか気が附くとネガティブなことばっかり言ってますが(笑)、最近の時代劇には剰りない傾向のドラマなので、かなり注目して楽しんでいることは確かです。

投稿: 黒猫亭 | 2007年1月22日 (月曜日) 午後 11時03分

えー、先週が弥十郎の生い立ちにどっぷりだったせいか、今週は彼も道悦も申し訳程度にしか出て来ない上、田安も大岡も絡まない御三家も陰謀も関係の無い「ただただ追われるおりんが他人に迷惑をかけるだけ」の話になってましたね(笑)。
しかも、関わり合いになる理由が「腹減ったから」(^^;
そんでもって、博打好きで金にだらしないだけの男が心入れ換えたら姉共々殺されちゃいましたが(^^;。
とゆーシリーズ屈指の小さい話になってましたが、不思議と泣けるのはなんででしょーね?(^^;

投稿: ぷら | 2007年2月13日 (火曜日) 午後 07時04分

どうも。ちょっと慌ただしくてお返事遅れました。

オレはむしろ先週弥十郎の育て親役で登場した坂本スミ子みたいな婆さんが誰だかわからなかったほうが泣けたがな(木亥火暴!!)。ちょっと見ない間にいきなり老け込んだような印象だが、あれで年相応ということなんだろう。

投稿: 黒猫亭 | 2007年2月15日 (木曜日) 午前 11時24分

(^^;;;;;
おそらく、妖しく茸喰う女とかおかっぱ黒鞭打ちの人の記憶のままという人は少数派だろうけど、ルビィの真田広之の母親役のままずっと…みたいにはみんな思ってたワケで、そーゆー衝撃だろうなあ(^^;。
時代劇の白髪のヅラ乗ってる状態じゃなければもうちょい違うかも、とも思うんだけど。
なんにせよ、単純に時代劇だからという以上にサプライズのある番組だとは思う。おりんって(笑)。

投稿: ぷら | 2007年2月16日 (金曜日) 午前 10時22分

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