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2007年2月 3日 (土曜日)

Dororo

割合出足は好調らしいのだが、塩田明彦の「どろろ」を観に行ったので今回はその話である。TVで再放送すら出来ないあのネタを比較的原作に忠実に映画化するということで、それだけでもよくやったと言えるだろうから、原作マンガやアニメ版に熱中した世代としては一応観に行くべきだろうと思った。

それ以外の動機としては、調べてみると塩田明彦という映画作家はパロディアス・ユニティー組の中でも後発の世代で、オレとは同い年で一級上(深い事情は菊名(笑))ということになるらしい。だとすれば、オレが二度ほど行ったあの教室にもいたかもしれないということで、ある種のアクチュアルな同時代感を感じたのである。

たとえばオレと同世代の映像人、同い年ということで言っても相当数の人材が存在するわけで、オレがもこみちみたいに田舎からポッと出でボーっと周囲に流されて生きていた頃にも頑張っていた人たちがいるんだなぁとか感心するわけである。

そんな後ろめたさのような感情が動機で、その世代の人々の仕事をちゃんと視ていかねばならないという変な義務感のようなものを感じてしまうのだが、就中同じ学校の同じ教室にいたかもしれない相手となると、やはり見過ごしにすることは出来ないだろう。

しかし、これまで頑張って塩田明彦の作品を観ようとしてみたのだが、「カナリア」も「害虫」も開巻一〇分くらいでギブアップしたというのが本当のところである。一言で言って、映っているものがつまらないのである。これを以てして塩田明彦というのはつまらない映画作家だと断じるつもりはない。何だかオレにはわからない才能があるのかもしれないし、オレがつまらないと感じる映像をつまらないと感じない観客もいるのかもしれない。

ハッキリしているのは、オレ個人が最後まで見終えることが出来ないくらいこの作家の映像をつまらないと感じるということであり、何故世間で塩田明彦がそんなに評価されているのかサッパリわからないということである。

以下、本格的にどろろ本編の話に移るが、オレという個人が従来の塩田明彦作品に対してこのような印象を持っているという前提で本論を読んでいただいたほうがフェアだろうと思う。一応封切りで観た映画に関しては積極的にレビューしていく方針だから一通りの講釈はするが、多分相性の悪い映画作家だろうとは思う。

それと、当然ながらネタバレありありなので、これから観に行く予定の方は観賞後の座興に取って措いて、今は続きを読まれないほうがよかろうと思う。

この映画の個人的感想を一言で表現すれば、「イラッとくる映画」である。

何がそんなにイライラさせるのか、他者に対して説得力を持つような決定的な理由は剰り思い附かないのだが、「映っているものがつまらない」という印象は他の塩田作品と剰り変わらなかった。実際、この映画に映っているものでつまらなくないのは柴咲コウのどろろくらいである。

とにかく、ルックが気に入らない。

全編の半分がニュージーランドロケということで、映画を撮る為のすべてのインフラが国内並に整っている映画王国ニュージーランドならではの試みとして、全編が銀残しの手法で現像されているように見える。普通ならこれで陰翳がしゃっきりぽんと舌の上で踊って黒味が引き締まった映像になるはずなのだが、何だかだらしのない緩い絵面にしか見えなかった。

銀残しの手法に加えて、画面の彩度をギリギリまで落としてモノクロ映画のような雰囲気も狙っていて、詳しく聞いてみないとわからないことだが、おそらくフィルター遣いとディジタル加工を組み合わせてこのようなルックを確立しているのだろう。

当然それはモノクロアニメ版の見え方と重なるはずなのだが、普通に観ていると何故かそんなふうにはちっとも見えない。全編に亘ってCGを多用したトクサツ映画ということで、「CGが強制するルック」に対する抵抗という側面もあるのではないかと愚考するのだが、その割には、CGが頻出する場面ではしっかりCGトクサツ映画の見え方になっているので妙に中途半端な印象を覚える。

さらに言えば、何うもこの映画のショットの性質は彩度を落とす手法と絶対的に相性が悪いような印象を覚えた。たしかにニュージーランドでロケしているのだから、その儘撮ったらニュージーランドの風景しか映らないというのはわかるのだが、そこで彩度を落としたりディフューズを入れるという技法的選択が、アナザーワールドの戦国時代の見え方の見立てとして妥当だったのか疑問に感じる。

プログラムを読むと、塩田監督がどろろ原作と出逢ったのは大学時代ということで、あの当時の映像ソフトの流通状況やリピート皆無の放映状況でモノクロアニメ版を観ているか何うかというのは頗る怪しい。だから、この手法がアニメ版の雰囲気を狙ったものだという観測は無根拠な予断にすぎないわけで、この変なルックは単純に劇中の世界を表現するのに最適な見え方だという判断で採用しているのだろうと思う。

だが、ぶっちゃけた言い方をすれば、このルックは決定的に美しくないと思う。

何というか、彩度の落とし方がレンビ屋のワゴンで叩き売られている百万回磁気ヘッドで擦られた中古VHSテープのような、厭な落とし方なのである。つまり、本来色彩的であるべき映像が非本来的な理由で色落ちしたような見え方なのだ。このような見え方を狙った映像設計というより、本来的なフィルムから何かが欠落してこういう形に落ち着きました、という見え方に見えてしまうのである。

さらにぶっちゃけ、戦国ニッポンその儘でないのなら、ニュージーランドや北海道がその儘映っていて何処が悪いの?という話である。ルックを統一するというだけならあんな見え方でなくても好かったのだし、何でまたこんな中途半端で気持ち悪いルックを選択したのかサッパリ理解出来ないのである。

断っておくが、オレ個人は別段総天然色の派手な色使いの映像だけが好きというわけではないし、ハリウッド大作のようなCGの技術要請に合わせた単調で画一的なルックは大嫌いだし、モノクロ映画でも好きな映画はたくさんある。彩度が低いから単純に嫌いというわけではなく、彩度を落としたルックのトータルの計算が美しくないと感じると言っているのである。

モノクロ映画というのは、原理的にグレースケールの階調でしか映像を表現出来ないのだから、モノクロ映画で言う色彩感というのは飽くまで階調表現による見立てでしかないのだが、モノクロ映画の表現としての色彩感というのは確固としてある。しかし、この映画のルックは、モノクロ映画的な見立ての色彩感覚を狙ったのか、飽くまでカラー映画としての自意識を堅持しつつ微妙な色彩表現を狙ったのかサッパリわからない気持ちの悪いルックである。

彩度が落ちているだけで、やっぱり青空が青かったり血が赤かったりするわけで、それがこの映画の絵面における色彩の表現として見えてこない。本来青かったり赤かったりするものの彩度が落ちているという即物的な見え方でしかない。そのような気持ち悪さを包含した上でこの映画の映像を肯定的に語り得る批評的アイディアはオレにはない。

本来この映画はスペクタクルアクション時代劇とでも冠すべき内容で、道具立てとしてもスペクタクル映画的なプレゼンスを主張すべき色彩的な存在に溢れている。それを敢えて色味を抑えて表現するのであれば、その映像は最低限美しくあるべきではないかと思うのだが、何だかマックでちゃちゃっと作業しました的な粗雑な安さを感じてしまうのである。

この厭な感じは開巻劈頭のファーストショットからして感じられる。意味的な側面から言っても、題材がどろろだからと言ってファーストショットが合戦場の死屍累々というのはベタ過ぎて何うなんだろうという気がするが、要するにこれは「影武者」のイメージの本歌取りで、開巻劈頭から何処かで視たような映像の縮小再生産というのが激しく萎える。

この時点ではわからないことながら、この場面は醍醐景光が仕える室戸一族の負け戦を表現したものらしいのだが、室戸一族と敵対する金山一族を視覚的に弁別させる手段は「武具甲冑の色」である。角川映画「天と地と」とまったく同様に、室戸と金山は黒と赤の鎧甲冑で識別されるのであり、ファーストショットでは室戸側の黒甲冑の死体が無数に斃れる戦場を寄りの視点の横移動でナメていく。

死屍累々の合戦場というスペクタキュラーな場面を、そこだけ影武者の本歌取りで寄りの視点の横移動でナメていくという絵面がすでにつまらないわけだが、この場面からしてすでに若干彩度が落とされ、ディフューズが懸かっている。

その横移動は横たわる甲冑の胴中にずぶりと突き立てられた赤い槍の縦の動きで制止するわけだが、そこでカットして赤い甲冑の集団が死体を検分しながら槍で留めを刺して廻っているセミロングになる。この合戦場のシーンは逃走を試みた生き残りの黒甲冑を数人の赤甲冑の槍が背後から柄本まで突き抜ける田楽刺しにするという絵面で終わり、そこからカットして醍醐景光が山谷初男の和尚の案内で「地獄堂」という扁額の懸かった堂宇に入る場面になる。

まず痍の手当てを、という和尚のセリフ通り、景光の背中には数本の矢が野深く立っているのだが、そんな手負いの身ごなしは殆ど視られない(笑)。さらには、景光が身に着けている甲冑は黒いのだが、黒い甲冑を単体で視た場合、それは武具甲冑としては当たり前の色使いなので、映像的直観で最前の場面の負け戦から景光が逃れてきたものという連想には繋がらない。頭で筋道を考えるから辛うじてそのようにわかるのである。

たとえば室戸と金山の武具の色が逆で、この場面の景光が赤い甲冑を着用していたらその間の連想は働いていただろうが、イメージ的に言ってもその後破竹の勢いで版図を拡げるワルモンの醍醐一族が赤い甲冑を着ているというのは様にならないので、結果的に冒頭の一連が景光敗走を用意する映像というふうには素直に繋がらない。

黒い鎧と赤い鎧の色彩的対比は景光契約後の合戦シーンでも用いられていて、アカラサマに天と地とのパロディになっているのだが、全体的に彩度を落とす映像設計を採用するなら、何故にこのような色彩的な対照を思い附いたのか理解に苦しむ。

室戸と金山の武具甲冑の色彩対比が用いられる場面だけ妙に赤を鮮やかに立てているのだが、黒の締まる銀残しの絵面で赤の彩度を若干上げたような見え方で、こういうふうに黒と差し色の対比が立つ映像計算なら話はわかるのだが、そのような映像設計はこの二つの場面限りで、他はのべったり色が落ちているので甚だ統一感を欠く。

要するに、合戦の場面を影武者や天と地との本歌取りで撮りたいと思い附いたからここだけ変に色彩的な表現になっているのである。

この辺がもうすでに中途半端でイライラしてくるわけだが、地獄堂の中での四八体の魔物との契約の一連における中井貴一の芝居はさすがに見応えがある。魔物像の多くが仏教的文脈を離れた意匠の「怪獣」「怪人」にしか見えない辺りの失笑感は、設定上アナザーワールドの戦国時代なのでしょうがないだろう。

景光が端座した際に一旦刀を横たえる演出なども効いていて、割合に見せる場面なのだが、愈々景光の呼びかけに応じて魔物が応える描写が「作り物の鼠」なのは芝居の風格に比べて脱力の流れである。何だかスチュワート・リトルみたいな絵面の不細工な鼠がパクパク口を動かして語るわけだが、清順辺りならこういう安い作り物で充分に不気味な雰囲気を醸せるのに、塩田明彦ではやっぱりスチュワート・リトルにしか見えないのである(笑)。

ここで芝居場の緊張はぶっつり切れて、「ああやっぱりお安いトクサツ映画なのね」と思っていると、景光の契りに応じて何処からともなくCGの怪光線が飛んできて脳天を直撃するわけで、もうこの辺になってくると「ヤマトタケル」とあんまり見え方が変わらなくなってくる(笑)。

で、そこへ何故か山谷初男の和尚がいきなり飛び込んできて「魔物と契られたか」とか寝言を叫ぶわけで、敗将をそんな魔物だらけの曰く附きの堂宇に通した以上何う考えてもそういう流れになることは予想していて然るべき人物がそんな不自然な寝言を叫んだかと思うと、やっぱり唐突に景光が一刀の下に切り伏せるわけで、もうこの時点でこの映画のなんちゃって具合が透けて見えて厭な気分になる。

たしかに芝居の流れ上辻褄が合わなくても成立する劇的呼吸というのはあるのだが、それを時代劇に不慣れな作家が無闇にやると激しく「なんちゃって感」が漂うのは、たとえば「タオの月」で身に染みている。この場面でも、和尚が事前に景光の堕落を戒めるようなセリフを一言でも吐いていれば無理なく成立するのだが、単に地獄堂の曰く因縁を語っただけで求めに応じて景光を独り残している為に、この和尚が何をしたかったのかがサッパリわからない。

しかも、この和尚がこの場限りの棄て駒ならばそれほど煩瑣く論うこともないのであるが、後ほど霊的な存在として百鬼丸を導いたり嘉葎雄の琵琶法師と語らったりするのだから、ある程度の徳を積んだ高僧という設定のはずである。それがこの場面ではアタマの悪い俗僧に見えて、剰え袈裟懸けの斜め切りにされるという絵面の間抜けさは劇的な意味でも辻褄が合わない。

紅蓮の炎に包まれる地獄堂を背に負って景光が「うわははははは」とかベタに哄笑する絵面で変梃子な音楽と共にタイトルが出るわけだが、このアバンの一連ですでに窮めて微妙な気分になってしまう。そんなに悪い出来の描写ではないが、いろいろイマイチな気持ち悪さを感じてしまうのである。

地獄堂の芝居場は中井貴一と山谷初男という演技巧者によって演じられていて、その意味では時代劇としての芝居の呼吸は満たされているはずなのだが、段取りがイマイチだと演技だけではやはり映画の芝居は成立しないのだということがよくわかる。

タイトルが明けると漸く主役である百鬼丸が登場するわけだが、無人の荒野にフード附きのマントを羽織った怪人のロングショットという絵面でファーストアピアランスは印象附けられ、カットを割って寄っているわけだが、だから何だという描写でもない。

ロングで視た絵面に寄ってみましたというだけで、カットを割っているのにロングと剰りアングルも変わらず、分析的に対象の細部を見せるという見せ方にはなっていない。要するに、ただ単にカットを割って寄っているだけなので格好良く見えないのである。諄いようだが、大概の凡作映画がこんな程度の話法なのだから、それで悪いというものでもないが、その剰りの引っ懸かりのなさに再びイラッとくるわけである。

その百鬼丸の絵からカットすると、いきなり何処ぞの宿場の路地裏に視点がジャンプしていて、そこで菰を被って蹲り獲物を窺うどろろを紹介するショットになる。つまりその直前の百鬼丸は「出ただけ」である。しかも、それに次いで顕れたどろろも実はこの絵一枚でカットしてしまい、要するに「出ただけ」なのである。

そこからカットするとSWのタトゥーインのカンティーンみたいな無国籍風の酒場の場面にジャンプしていて、一応、宿場外の荒野における百鬼丸と宿場内のどろろを交互に見せることで、百鬼丸が同宿場内の別の場所であるこの酒場に顕れる時間と距離の飛ばしの段取りを用意しているわけだが、この理屈で考えたような縮地の話法がまた何となくイラッとくる。

そこでまたきたろうの手相見が小ネタを演じるわけだが、百鬼丸が何ういう存在であるかを識っている観客は、このバレバレのネタフリが剰りにもベタすぎてやっぱりこの芝居の一連の間中何となくイラッとくるわけである。逆に言えば、百鬼丸固有の危ない設定を差別的なニュアンスを排除して印象的に提示する手法としてこの手相見の小ネタは間違っていないわけだが、何故かオレは妙にイラッと感じた。

さらに言えば、この無国籍酒場の演し物が何処から何う視ても「ショーガール」なのはやはりアナザーワールドの設定から言えば無理はないのだし、原作の手塚治虫のセンスからしてそのようなエログロナンセンスな宝塚的卑俗さを具えているのだから間違った世界観ではないのだが、ベリーダンスに託けてでもあればギリギリ手塚風に見えないこともないのだが、剰りにもラスベガス的デザインラインのショーガールそのまんまなので、これがこの映画の描写としてアリやナシやで劇しい内的葛藤を覚えてしまう。

もうこの時点でかなりイライラしているわけである。

何うも塩田監督はこの映画のロケ地候補として中国をイメージしていたらしいので、そこから敷衍すれば中央電視台制作の武侠ドラマにおける欧亜境界の宿場街のような無国籍イメージを抱いていたのではないかと思うのだが、結果的な見え方として、インチキ臭いオープンセットの中に何故か「フロム・ダスク・ティル・ドーン」のトップレス酒場のような店があるという中途半端なものにしか見えない。

実際、ショーガールのトップが変面して魔物に変わるという流れは明らかにフロムダスクからインスパイアされているわけだが、そこで静から動へ転じて激しいアクションが演じられるのに、剰り盛り上がった印象はない。ああ、CGと殺陣が映っているなぁと思うばかりで、映画的なエモーションを剰り感じなかったのである。

それとカットバックする形でどろろが三人組の男から財布を掏り盗って追われるくだりが描かれるのだが、化け物が顕れてもう一匹の化け物と戦い始め、我先に客が逃げ出すというパニックが描かれた割には、それが全然宿場には伝わっていない辺りが何だか間抜けで、劇団ひとりに追われたどろろがこの店の前に逃げ込んできても、何だかちんたら客が出てくるばかりで中で起こった事件の描写と釣り合っていない。

普通こういう場面では「化け物だぁ」的な騒ぎがあってそれが宿場全体に波及するのが常道だと思うのだが、何故かその時点ではみんな黙ってやる気なさそうに店を走り出てくるだけである。さらに不自然なのは、どろろがその店に恐る恐る入っていくことで、何を思ってそんなところに入り込んだのか全然わからない。

絵面で視ても追っ手から逃れる為に已むなくというふうでもないので、ここの一連はかなり不自然に見える。そのように不自然に見えることに何か映画的な仕掛けがあるのかと言えばそうでもない。化け物が出るのが日常茶飯事な劇中世界という描写でもないのだから、要するにこの劇中世界のロジックでもこの描写は不自然なのである。話の段取り上、どろろがそこに入っていかないと話が動かないから、何の理由もなく入って行っただけである。

一々この調子で語っていくとキリがないが、一事が万事で、悪いとは言えないが何だか微妙な性格が何処までも附き纏う映画で、それがえもいわれぬ厭な気持ち悪さに繋がっている。一般的な感想としてそのようなイマイチ感を多くの人が感じたのか何うかはわからないのだが、映画的な強さを全然感じない作品であることは間違いない。

原作の戦国時代という設定をアナザーワールドに拡張して何でもアリ感を狙っている割には、戦国ニッポンの正史的風俗からのズレが剰り効果的に表現されていないのもなんちゃって感を煽る。正史的な時代劇イメージを異化する装置としてアナザーワールド設定を用いるのならポジティブだが、原作のファンタジー性に対する言い訳として用いるのであれば単なるボロ隠しである。

最前の無国籍酒場の道具立てなどもそのような異化効果を狙ったものだろうが、そこで登場するのがラスベガスのショーガールなのでは、単なる逸脱としての考証の嘘にしか見えないのである。たとえば「浮浪雲」でピンク・レディーの「UFO」を歌い踊るのと剰り見え方が変わらない。

百鬼丸の養い親である寿海の設定変更は、この異化の振れ幅が最もわかりやすく出ている部分だろうと思うが、世の「なんちゃって時代劇」にアリガチなつまらないSF的ガジェットにしか見えない辺り、劇中世界全体の見え方を異化するまでには至っていないだろう。正統的な意味での時代劇では「ない」為の必然性がないのである。

たとえば「真田幸村の謀略」では、超能力だの宇宙人だのと言ったSF的な道具立てが用いられているわけだし、正史からの奔放な逸脱が描かれているが、それで立派に伝奇時代劇としての首尾結構を整えているわけで、その連続性で考えればこれも伝奇時代劇なのだと言われたら、そんなモンかと納得してしまう。これが戦国時代のお話では「ない」と定義した意義は何処にも顕れていないのである。

また、寿海をアヤシゲな呪術と科学の融合した技術で生命を弄ぶ「ノロイ師」と設定した物語的な意義も剰り感じられない。寿海が生涯賭けて完成させた技術を自身の死と共に焼き払うという流れも、「もっと早く気附いたほうがよくね?」的な間抜けさにしか見えず、物語全体のテーマと関連しているようでいて、別段何処も繋がっていない。

それまで封印していた呪われた技術を、百鬼丸を不憫に思って一度だけ開放するという見え方になっていればまだしも、親切なキ○ガイ博士が拾った赤子を丁度自分が研究していた技術で救ったという流れにしか見えないので、死に際になっていきなり唐突に焼き払えとか言い出すのが「今気附いたんかい」的に間抜けなのである。

寿海を普通の医者ではなくSF的な科学者に設定した映画的な意味などは、精々百鬼丸の腕が繋がるカットでCGを使えてバイオ的なイメージを附加出来るというだけのことである。原作通り、ただの義手義足を超能力で動かしているという設定で何の不便もなかっただろう。

それではいろいろ多方面でマズイという大人の事情があったのだとしても、素知らぬ顔で同じようにCGを使えば、差別的ニュアンス抜きでファンタジー的な意匠として見えたはずである。所詮、魔物との契約で産まれた異常出生児なのだから、下手な理屈を附けなくても何でもアリは何でもアリである。変に理屈を附けるから、理屈の粗が目立つのである。時代劇という器には、それくらい柔軟な許容度があるのである。

さらに言えば、寿海がヒルコの百鬼丸に補綴技術を施す場面は、明らかにケネス・ブラナー版をはじめとする「フランケンシュタイン」映画を本歌取りしているのだが、百鬼丸だからってフランケンシュタインパロディというのは、何も考えてないだろ感がひしひしと伝わってくる。

影武者や天と地と、フロムダスク、そしてこの場面のフランケンシュタインなど、この映画では他の映画からの引用が豊富に用いられていて、その辺が蓮實門下生のパロディアス・ユニティーらしい部分だと言えるだろうが、塩田明彦がそんな芸風だというのは今まで聞いたことがないし、その方向性で莫迦正直に映画を撮って当の蓮實重彦にボロクソに貶された先人の行き詰まりを覚えていないのだろうか。

死屍累々の合戦場だから影武者、鎧武者の戦闘だから天と地と、踊り子がいる無国籍酒場だからフロムダスク、人造人間だからフランケンシュタインというのは、安直を通り越して卑俗ですらある。その夫々が絵面の上でも安直に表現されていて本家の矮小化に過ぎない辺り、くだらない悪ふざけにしか見えない。つまり、異化装置としてのコラージュのセンスがないのである。おそらくこれに一番近いパロディセンスの持ち主と言えば、林海象や大森一樹くらいではないかと思う(笑)。

ただ、そのように糞味噌に貶すほどに悪い映画かと言えば、やっぱりちょっと微妙な躊躇いを感じてしまうことも事実である。大幅に間違った部分はさほどないのは事実なのだが、要するに、映画の好きな人が本気で入れ込んで練り込んで撮った映画に見えないのが何となくイラッとくるのである。この映画の映像の語り口には妙に突き放した事務的な感触がある。

セットや衣裳、妖怪たちのデザインなども、もっと練り込んで世界観を組み上げていくべきではなかったかと思うのだが、何だか事務的に当たり障りのないレベルで纏められているという印象で甚だ中途半端な印象を覚える。過去語りの多い物語である都合上、頻繁にカットバックが用いられているのだが、その呼吸が妙に事務的なのもイラッとくるし、それが清潔さというより冷淡さに見えてしまう。

拘りのなさと表現すれば聞こえは好いが、一般的に観客が映画に期待するような映像の官能が殆ど得られないのである。それがもっと別の題材であればこういう拘りのない冷淡な生理もアリかと思わないでもないのだが、この映画のようなドラマチックで神話的な題材をこのように語られると単なる物足りなさとしか受け取れない。

たとえば北村龍平の「あずみ」が具えているような映像の官能が、この映画にはないのである。

これは一番のネタバレなのだが(笑)、TVスポットや予告編でこの映画の目玉のように編集されている多彩な妖怪とのバトルは、実はドラマの流れとは切り離されてただ続け様に三つのバトルが描かれるだけなのである。

鯖目のくだりでどろろと百鬼丸の接近のドラマが一山あった後、いきなりカットするとそこから妖怪との戦闘が三連チャンで描かれる。桜魔人、オオサンショウウオ、カラス天狗の順で、ただのべったりとバトルが続くのである。挿話的な意味性として、この描き方が間違っているという言い方は出来ないだろう。

鯖目のくだりで充分どろろと百鬼丸の邂逅が描かれているのだから、その後の妖怪退治の旅は、文字通り反復と強化のプロセスでしかない。鯖目のエピソードのような各個の挿話があり、そのクライマックスとして妖怪とのバトルがある、原作マンガのシリーズ構造はそのようなものである。その旅の最中に醍醐景光や母百合、実弟多宝丸との因縁のドラマがあり、景光との決着がある。

だから、原作の全体構造を忠実に圧縮すると、このような描き方になるというのは割合筋が通っているのである。四八体の魔物との戦いの旅という複数の挿話群を圧縮する場合、観客が最も視たいのは怪談的な挿話よりも妖怪バトルであり、バトルシーンというのは映像要素として完結的に切り出し得る映像の単位である。だから妖怪バトルだけを抜き出して三回反復して見せているのである。

単調なバトル三連チャンの描き方を視ても、最初の桜魔人との戦闘では足手纏いでしかなかったどろろが、オオサンショウウオとのバトルでは彼女の活躍が勝機をもたらし、カラス天狗とのバトルでは百鬼丸が父親との因縁を仄めかされるという具合で、反復を反復として描きながらどろろと百鬼丸の関係の深まりや物語の進展を織り込んでいる。

また、連続するバトルの対戦相手を、最初はCG、次は着ぐるみ怪獣、最後は特殊メイクの怪人というふうに変化を附けているわけで、こういうふうに説明すると別段間違った段取りであるとは思わないだろう。

だが、説明で聞くと間違っているようには思えなくても、やっぱり映像にすると単調で面白くないのである。何故つまらないかと言えば、これまで語ってきたようなすべての映像の生理が、反復の退屈さを退屈さとして露呈してしまうからである。

それに、実を言うと百鬼丸の独特のアクションはマンガやアニメだから成立していたのであって、よく考えると肘から先が刀になっていても意外と戦いにくいものであることがハッキリしてしまったということもあるだろう。つまり、バトルアクションがあんまり見栄えがしないのである。

チン・シウトンのアクションがつまらないという言い方は出来ないだろうし、実際かなり高度な殺陣やワイヤーアクションをほぼ素人同然の主演カップル(笑)に演じさせているわけだが、基本的に百鬼丸の戦法は肘から先が刃なので剣法というより拳法や掌法に近い間合いのアクションになる。

チン・シウトン自身も言っていることだが、普通剣法のアクションというのは、手首の返しで動きが出るものだし、手許から三尺+三尺の間合いのアクションになるはずなのだが、百鬼丸の設定の場合、普通の意味では手首くらいまでのリーチしかないことになるので、普通の拳法よりもさらに短い間合いになり、実質的に肩の動きだけの可動範囲になるので剣尖の動きが単調である。

また、肉体の構造上あのような形で刀が附いていると、手首から肘までの間で刃を交わす形になるのでさらに間合いは近くなる。要するに、相手の懐に果敢に飛び込んで回転の動きで戦うという形になるので、見た目の派手さがない。中国武術とのアナロジーで言えば、環とか輪とかの戦闘に近いだろう。

これがアニメなら「でえーーーーーーい」とか一直線に駆け抜けるともう相手が切れているというふうに誇張出来るが、実写ではそんな嘘は吐けない。さらに、原作やアニメ版では、膝から焼け水が噴出したり鼻が爆薬になっていたりと、身体四八箇所の義手義足がすべて武器というサイボーグ兵器的な設定だったので戦法に多様性があったが、さすがに現代の実写映画でそこまでの描写は出来なかったのだろう。

その為、とにかく短い半径で廻って斬るという見た目の攻撃力が低そうなアクションに終始したのがちょっと殺陣としては弱かっただろう。武侠ドラマや香港映画を視ればわかることだが、回転によって大きな攻撃力が生じるのは、直観的に遠心力を感じさせるような半径が大きい場合なのであり、百鬼丸のように遠心力が回転の力に結び附かないような形だと、手数が多目で浅く斬り附けるような女性的なイメージの殺陣になる。

流石に本場のアクション監督だけにそこを呑み込んでいて、トドメは両手の刃で挟み斬る・切り開くような型を多用していたが、多様性に欠けるアクションだった嫌いは否めない。殺陣にストーリーがあってドラマチックなのだが、選択肢が絶対的に限られていたということだろう。

因みに、「殺陣にストーリーがある」という言い回しを用いると、バトルにドラマが組み込まれていることだと誤解する方がいるのだが、そうではなく、「こう斬り附けてきたからこう払って、その流れでこれを狙ってこう返す」という戦闘それ自体の物語性のことである。見た目の動きの流れだけでなく、戦闘それ自体に起承転結的な筋道の流れや根拠附けがあって、手数が格闘の物語を語るような殺陣のことである。

初手に続けて出された二手目に根拠と狙いがあるということであり、相手がそれをどのように受けるかで次の手が決まるという形で、根拠と意図と連続性のある手数が交互に交わされて、全体的な格闘のストーリーが生まれるような、つまり名人同士の棋譜に物語があるような意味でのストーリー性のことである。

実は、殺陣のリアリティという場合、型がキマっているとか動きが派手だとか本式だとかということより、このような論理的な筋道に裏打ちされているか何うかが最も大きな決め手になる。その筋道の論理の組み立てが、引いてはそのバトルを演じる者の人物描写にも繋がるのであり、多寡がバトルと言っても、そこで人間を描くことは可能なのである。オレがたとえば「牙狼」のアクションを評価するのは、そのようなストーリーが見てとれるからである。

格闘技ファンには容易に理解出来る機微だと思うが、意外とこれは一般的な文芸ファンには意識されていないことだと思う。

話が逸れたが、頼みの百鬼丸のアクションもちょっと地味で、映像の生理もいけ好かないものであるとなると、見せ場であるはずの妖怪退治の反復強化プロセスがかなり単調に感じられたことは事実である。このように、この映画は本当は面白いはずだったものがさほど面白くなく映っているという場面が異様に多く、それが個人的には全体的な苛立ちに繋がっている。

脚本的な部分で視ると結構考えた形跡があって、たとえば原作にはない設定として百鬼丸の通り名だったどろろという名を盗むという段取りで柴咲コウがどろろを名乗るというのは面白い。また、これは原作にあった設定だったか何うかは胴忘れしたが、実弟の多宝丸というのも本来百鬼丸の名であったということで、どろろも多宝丸も本来百鬼丸のものである名前を奪っているというのが面白い設定である。

つまり、百鬼丸という存在は、劇中のいろいろな人物にさまざまなものを奪われている存在であり、奪われることで何某かを共有する、欠落としての中心部として意味附けられているのであって、彼から奪ったものを物語のラストまで返さないのはどろろだけなのである(厳密に言うとまだ二四体の魔物が残っているわけだが)。

どろろという名は劇中世界の南方の言葉で妖怪小僧とでもいうべき意味であり「百鬼寄り集う怪童」を意味する百鬼丸と同列の名前である。宿命に導かれ喪われた肉体性を補完する旅を続け己の出自を探求する百鬼丸と、父母の仇である醍醐景光を倒し得る力を求めるどろろは、怪物性を意味する名を分け合うのであり、世間から蔑まれる名を分け合うことでこの二人が分かち難い絆に結ばれたことの象徴となっている。

一方、多宝丸とは百鬼丸自身も識らぬ己の真の名であり、その名を簒奪して醍醐の正嫡としての暮らしを営む多宝丸は、「多くの宝に恵まれた童子」という名に象徴される豊かな富に囲まれ、景光が勝ち取った国を譲り受けるべき立場にあり、母の愛情を一身に浮け、あり得べき百鬼丸の現在を奪っているのである。

この映画の文脈では、多宝丸が百鬼丸と争うのは、多宝丸という名を取り返されるのではないかという懼れが動機であり、その名が象徴するすべてを奪われるのではないかという不安が動機で実の兄に襲い掛かり、却って自身の死を招いてしまう。

さらにまた、宿命性の観点から言えば、百鬼丸もどろろも共に醍醐景光の悪魔的な権力欲の犠牲者であり、何れは景光と血塗られた戦いを戦うべき運命にあり、景光は片や血を分けた父親、片や父母の仇であるが故に、本人たちの与り知らぬところで憎しみの因縁が宿命附けられている。

その意味で、百鬼丸とどろろの因縁を改変した設定は劇的論理が通っているし、多宝丸との最終決着をあのように潤色したことも論理的な作劇である。この三人の童子は戦国の世に蹂躙された子供たちの悲劇を背負う分身たちなのであり、同胞殺しの悲劇と惜別のラストではなく和解の結末を用意した脚本の思想は買うべきだろうと思う。

また、脚本か演出かどちらのアイディアかは不明だが、景光が魔物との契約の徴として額に受けた十字の痍を、百鬼丸もまた父親との死闘の最中に父親自身の手によって負わされるという描写も、三人の童子の間の関係性との関連で視ると劇的論理が通っていると言えるだろう。

景光が最終的に人間としての心を残しており、決して単なる私利私欲の為に魔物と契約したのではないという意味附けから考えれば、王であり父である存在を貴種流離の長子が帰還して自らの手で殺すことによって父権の象徴である聖痕と王国を受け継ぐという筋立ては、考えに考え抜かれた神話的ドラマ性と言えるだろう。

その結果、法的な意味では王国を継承する立場にある多宝丸が実兄の百鬼丸に本来彼のものであるべき王国を返還するという筋立ても、この血塗られた悲劇の幕引きとしてはよく考えられている。どろろと百鬼丸の間の因縁をこのように改変したことで、どろろによる憎しみの放棄というきっかけが百鬼丸の同胞殺し・父殺しの悲劇を救済し、父の命と引き替えに復活した弟が兄に対する憎しみを棄てるという筋書きには文句の附けようもない論理的完成度がある。

どろろが女である意味、百鬼丸の父である景光を親の仇と附け狙う意味、百鬼丸との関係性、このような劇的要素が密接に結び附いて、敵討ちの憎しみを諦めるという結論に至る。通俗的に言えば、それは愛の故である。だから、クライマックスでどろろが他ならぬ百鬼丸に向け「おいらは憎しみを棄てた」と叫ぶことにはエロスが伴うのである。

だが、何度も繰り返したことではあるが、そのような神話的なドラマ性が胸に迫るような映像表現にはなっていないと感じることも事実である。これを塩田明彦ではなく北村龍平が撮っていたら、途轍もなくパセティックな神話的家庭劇として胸に響いていたのではないかという夢想を禁じ得ない。

辛うじてこの映画の見どころと言えるのは、冒頭でも陳べたように柴咲コウのどろろが大変素晴らしいということである。たしかにこれまでも柴咲コウの女優としての潜在力は認められていたのだろうが、この映画のどろろは言ってみれば「七人の侍」の菊千代の役どころであり、鯖目の村で百姓に啖呵を切る場面など、例によって直接的な引用となっているわけだが、それはつまり全盛期の三船敏郎並の瞬発力とスピード感が求められるということである。

幾ら若手女優として有望株だと目されていても、そのタイプの演技力とこのタイプの演技力は違うのである。最初はちょっと現代的な芝居の癖が附いた柴咲コウではこの手の役柄は何うかなと不安視していたのだが、蓋を開けてみれば柴咲コウだけがこの映画の拾い物というくらいに演技が好い。

まあ、私生活も乗っているようなので、その影響もあるのかもしれないが、おそらく黒澤明が全盛期の三船敏郎を買っていた「スピード感」というのは、こういう演技なのだろうと思う。他は何うであれ、この映画の柴咲コウを貶めることだけは、オレには出来ない。

黒澤が言う演技の「スピード感」とは、たとえば通常ならカットを割らねば成立しない場面をワンカットで成立させてしまうような肉体性の速度である。その意味で、どろろの役柄が本格的に動き出してからの柴咲コウの演技は凄い。走るとか跳ぶとかそんな意味ではなく、全身の芝居の速度のキレが違う。彼女にこの種の演技の才能があるというのはまったく予想だにしなかったことである。

個別の芝居が速いというだけでなく、芝居から芝居に移る間が抜群に速い。活発で抜け目なく戦国乱世を生き延びる逞しい少年盗賊という役柄に相応しく、周囲とは違う時間が流れているかのようにスピーディーである。この種の才能は、三船敏郎の実娘である三船美佳も受け継いではいるのだが、現在は夫婦芸人としてバラエティ番組でしかその勘の好さを活かしていないのが残念ではある(笑)。

事前の懸念通り百鬼丸役の妻夫木聡がドラマチックな場面で演技が弱い部分を、柴咲コウの演技が見事に補っているわけだが、まあ対比上妻夫木の演技がかなり落ちて見える感は否めないだろう。

黙っていればたしかにいい男だし、百鬼丸の内面の優しさが出るような軟調の芝居はそれほど悪くないのだが、何うしても妻夫木聡の肉体性には現代的な甘さやふらつきが附き纏っていて、戦国の世に生きるニヒルな怪童というイメージを抱きにくい。大河や東映時代劇にでも行ってある程度揉まれてくれば大分変わると思うが、現状ではやっぱり時代劇の主役が演じられるような演技ではないと思う。

そこに柴咲コウのどろろが附き纏って芝居を受ける分には場が成立しているのだが、たとえば多宝丸に誘われて一人で醍醐城に赴く場面や、一旦どろろと訣別した後の流れで単体で妻夫木の百鬼丸を視ると、やはりかなり芝居が弱い。

さらに、瑛太の多宝丸が、これぞいつもの瑛太の芝居というくらい瑛太向きの役柄なので、大分妻夫木が損をしている印象である。方向性はかなり違うが、妻夫木聡も一種キムタク的に本人の柄で演じるタイプなので、この種の題材ではイマイチ感が強い。

原作の設定ではたしか百鬼丸はまだ十代の少年なので、少年役で通ってそれなりの予算の映画の主役で客が呼べる役者となると妻夫木くらいしかいないわけだが、もうちょっと頑張ってほしかったところである。

まあこんなところでこの映画に費やすべき労力はキリだと思うのだが(笑)、結論を纏めるなら、決して道具立てとして悪い映画ではないのだが、想定される「撮られるべき映画」と比べて「今フィルムとして在る映画」が絶対的に弱いという印象である。

そこがオレを苛立たせたのだし、映画という枠組みを不自由に感じさせた。

これはやはり監督である塩田明彦の責任だろうと思うし、結局オレはこの映画作家が何故世間でそれほど評価されているのか、皆目理解出来なかった。こういう映画でさえなければ楽しめた物語なのに、と思わせるのは、やっぱり映画作家として不面目だろう。

その一面で、別段観に行って損な映画ではないし、この種の映画がもっとあっても好いのではないかと思うので、行くか何うか迷っている人がいれば観に行ったほうが好いと言うだろう。イマイチということは、良い部分も多分にあるということである。

まあ、とりあえずDVDが出たら柴咲コウを観る為だけでも買うと思う。

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コメント

えー、多宝丸が本来捨てた百鬼丸につけられる筈の名前だったというのは原作には無いです。映画のアイディアでしょう。
ということで、こんばんわ、とむざうさん。
ブログのエントリーへのコメントとしてはちょっと長すぎるだろうし、エントリーへの意見というより個人の感想という傾向が強い文にはなっちゃったけど、この場を借りて少々言わせてください。
まあ、原作やアニメに思い入れが強いある個人にはこんな意見のヤツもいると見過ごしてくれれば幸いです。

時代と舞台設定改変の賢帝暦云々に関しては、海外売りとかの事情とかもある方便だろうとまあそれはそれで良いんじゃないのと思ってて、でも別に「日本」だと言って特に困るような作りにもなってないと思った方だな。
考証の緩さの言い訳としては機能しててもそこからの世界観として発想の広がりが余り無いので、メイキング番組等で言う「神話的世界」にはあまり見えずに「案外日本じゃん」というのが正直なところ。
でもまあ、それに対して特には不満もなくて、それならそれで良いけど、ぐらいの感想だなあ。だいぶ言及されてる元ネタがすぐに割れる安いコラージュについても、それはそれで良いけど、で済ませられたクチかな。

オレが引っかかりを覚えたのはもっと別の点で、最初に「え?」と思ったのは、「ばんもん」についてが百鬼丸とどろろの会話と、何か思いの丈を叫ぶだけで済ませてたあたりで、肩すかしというか、原作のある意味最重要エピソードの採用の仕方がそれかい、という食い足り無さがあった。
もちろん、ベルリンの壁が崩された今と、その風刺として描かれた当時とは「ばんもん」が意味するところが違ってくるのは判るが、戦に民衆が犠牲になる象徴としての「ばんもん」は今昔問わずに普遍であるはずで、ここに虐げられる民草の姿が描かれずに語られてだけ終わるというのは物足りなくて仕方なかった。
原作にある一揆の軍資金にする埋蔵金の在処を隠したおしろい彫りを背に持つ設定はオミットされていても、どろろは盗賊家業に身を窶したいずれは一揆衆を率いて立つ虐げられた民衆の代表という位置づけではある筈。映画でのどろろのキャラクターをそう理解していたので、あれ、個人的な仇討ちレベルになっちゃったのか、とそこでまず違和感を覚えたのだよなあ。

そして、醍醐景光との決着。親子の関係性の論理がどうこうという観点は見終わってから沸々湧いたもので、最初に感じたのはクライマックスの映像的な盛り上がりの無さだった。
なんかだだっぴろいススキ(違う草だろうけど)の生えた野っ原で、ラスボスの景光が48の魔物の内の四化入道に憑かれて「角の生えた鬼の形相の中井貴一」になって自害して百鬼丸が介錯して終わり。映像的にはそんな感じだった。
正直、すごくつまんない絵だった。青野獣赤野獣はインターバル的に見るとしても、マイマイオンバから三連チャンで畳みかけた桜魔人、大山椒魚、烏天狗を上回る化け物としてのスケールと迫力というのを、特撮者としてはついつい期待してしまう。
だが、実際に目の前にあるのは「特殊メイク貴一の腹切り」だし(^^;。深作の八犬伝みたいに敵の魔城に乗り込んでいってというのでもないから、禍々しい悪の居城といった様なセットが雰囲気を盛り上げてくれるわけでもない。野っ原で鬼貴一が切腹してるだけだ。
たぶん、特撮者の悪い癖に過ぎないんだろうけど、オレはこの醍醐景光の姿がまさか最終形態だと思ってなかった。景光本人の意志としては多宝丸を蘇らせるために四化入道に憑依させてから自ら命を絶つつもりであっても、それを上回る魔の力が暴走、膨れ上がった巨大な魔物を「それは既に父ではない」として葛藤の末の百鬼丸が一刀両断。そういう展開が瞬時に頭に浮かんだから、実際の映画の展開と映像が随分とスケールの小さいものに感じられてしまったのだ。
いや、中井貴一的にはもうキワモノをやらんでも済む格の役者があそこまでの特殊メイクをしてくれたんだからってな評価になるんだろうけど、もっと強大で巨悪のビジョンを期待してしまったから、鬼形相の貴一父ちゃん、ぐらいにしか見えないのである。
たぶん、最初に感じたクライマックスの物足りなさは、この様なスペクタクル映像的な物足りなさだったんだろうと思う。ラスボスバトルが物足りないから、中ボスならこの程度良いかと思ってた烏天狗とのリーチの短い空中戦も、遡って「手足ばたつかせてた宙吊り」ぐらいにしか思い出せなくなってくる。

で、見終わった後でいろいろ考えるのである。別に期待した映像ではなくても、それに代わる満足感が与えられれば不満が残ったりはしないはず。だったら、親子対決の場面で、絵面ではなくドラマの内実がオレの満足のいくものではなかったから物足りないのではないのかと、こう思うわけである。
ここでオレが思うのは、醍醐景光に改心されちゃ困るなあという感情だ。自身が百鬼丸であれば、自身の恨みを親であるからこそ自らの手で葬るという形にスライドさせるだろうし、その上で敵に自害されたりしたら、自分の怒りや憎しみやもっと形にならない膨れ上がった感情をどこに持っていけばいいのか、そのやり場の無さに発狂しかねないと思う。この感情が掬い上げられないのが、多分、個人的に「違う」と感じてしまう原因なんだと思う。
理屈では、どろろが仇討ちを捨て、だから百鬼丸も親殺しを捨てる。父自らが命を絶つなら、百鬼丸が己が手を下す事から解放されるという筋立てが正しいのは解る。頭では解るが、それで気が済むのか?という感情がどうしても残るんだよなあ。
今更改心するぐらいなら何故俺の体を魔物に売った?同じ自分の子供の命を救うために自分を犠牲に出来るなら、多宝丸にはそう出来るのに何故俺の事は魔物に売った?そういう憤りが残ってしまう。
きっとそう叫ぶのは、妻夫木聡の顔ではないオレの顔をした百鬼丸なのだろうという自覚はあるんだけども。

で、自身をつい百鬼丸に投影してしまうから、映画で選択された筋書きに納得行かないというだけなら単純なんだけども、ここでちょっとややこしいのは、かつて原作を読んだ時からいつの間にか醸成されてしまっていた「オレどろろ観」とでも呼ぶべきものとその自己投影とが重なり合ってごっちゃにさえなってしまっていること。
編集者の弁に依れば、駆け足で終わらせた嫌いはあるものの原作は決してよく言われるような未完ではないということらしいが、一読者的には長らく「打ち切り」という認識で、それ故に本来目指された最終回は別の形であり、そこに「オレどろろ最終回」という夢想を作り上げる余地が生じてしまった。これがそんなに個人的な事じゃないだろうと思うのは、アニメ版どろろにも漫画とは違う48匹の魔物を全て倒しその最後の一匹が醍醐景光その人という別の最終回があるからで、ならば原作が打ち切りにならなかったら本来描かれていただろう最終回があるのだろうという想像に結びつく。
たぶん、中にはそういう「オレどろろ最終回」をアナザーストーリーとして具体的に描いちゃうファンもいるんだろうけど、一般的にはそれは漠然とした想像のレベルで、今回の映画化の際、それは「原作からのクライマックスの改変」への漠然とした期待に還元されているんじゃないかと思う。それで、実際の映画が自身の期待したものに近ければ納得がいくんだろうけど、そうでない場合はオレのようにモヤモヤするんじゃないだろうか。

で、あらためて原作を読み直してみると、その未完と誤解されていた原作の最終回は、言われてみればそれなりに完結しているように見える。
自分との立場の違いから百鬼丸はどろろと別れ、単身醍醐景光の屋敷に乗り込み、そこで母との再会を果たす。一方、どろろは夫役にこき使われ虐げられていた農民と合流し、一揆衆として醍醐景光を攻める。百鬼丸は父との対決をせず、屋敷に巣食っていた集合体の魔物のぬえと戦い、一揆に敗れ敗走してきた景光と母百合をむしろかくまい逃がしてやる。歩く道が異なった事を認識した百鬼丸は、改めてどろろに別れを告げ、単独で魔物を追う旅に出る。
というのが原作の最終回で、改めて読み返すと、どろろと農民一揆衆との関わりを除くと、案外映画のそれに近い。少なくとも一読者が勝手に夢想したオレどろろより、よほど原作と映画は近いものだったと思う。
多宝丸は「ばんもん」の回で百鬼丸に討たれているので絡んでこないし、景光も己の所業を返り見はしないが、既に権力を失っている父を百鬼丸は許すのである。
その点を考えると、クライマックスで父子対決を描き、なおかつ原作に準拠した父を許す筋道を作るとなると、出来上がった映画のそれは考えられた結果だったように思う。

と、今ではそう思うのだが、その理屈で納得できるというのももう後付けで、結局は最初に素直に感じたように、ラストバトルが映像的に物足りなかったから単純に物足りなく思ったというただそれだけだったのかも知れないなあ。

ということで、最終評価を敢えて言うと「マイマイオンバのくだりは良かったね」ということになるのかも知れない(笑)。そういえばマイマイオンバの幼虫の七つ子だけど、その人間体を演じた少女が誰なのかクレジットを見ただけでは判らないねえ。パンフやムック、公式HPでもスチルさえ抜いてなくて、どこの誰なのかちょっと気になってたりする。

投稿: ぷら | 2007年2月 5日 (月曜日) 午前 03時22分

どうも。

原作から改変した部分というのは、あんまり気にするようなことでもないかなと思っていて、原作は原作、映画は映画で独立したお話ということでいいんではないかと思う。

要するに、クライマックスの物足りなさもそうだが、ルックの問題なども、スペクタクル大作として求められる見え方がわかっていなかったということだろうと思う。本来小さい映画が似合う人なんだろうな、塩田明彦って。

投稿: 黒猫亭 | 2007年2月 5日 (月曜日) 午前 04時28分

見てきました。
スクリーン前に舞台のある古い形式の映画館だったので、最前列かぶりつきで見たわけですが、何というか、とむざうさんの「苛立ち」が良く分かるというか、色んな意味で「惜しい」映画だとw

普通こういう異世界ファンタジー(時代劇や古装片も含まれる)なら、時制による法則性、世界観を異にする者間の違い、ロードムービーでもあるのなら、通り過ぎる土地の風景の移り変わりなどを厳密に考え抜き、それをビジュアルインパクトで表現する、とそう思っていた訳ですが、これはなあ…

何しろ、カットごとに「こうでなければならない」という論理が全然見えない。ビジュアライザーとしての監督の職能が全く反映されていないとしか思えない訳です。特に室内シーンのフィルムの荒れ(にしか見えない)は、カメラマンがあれでOKを出せたのが信じられない低クオリティで、しかも意味が分からないw

例えばなんちゃって時代劇では全く無い「五条霊戦記」の到達点を、塩田監督はどう思っているのか、聞いてみたい感じですw 異界である「森」の使い方、彼岸と此岸を表す水辺、鬼同士の激突の舞台としての橋、火花散る対戦を生かす闇、すべてを燃やし尽くす炎、とちゃんと撮れる人間がいるのに何故、と。

また、トンデモCGの使い方がとかく槍玉にあがるチェン・カイコーの「無極 PROMISE」はコンセプチュアルデザイナーが「どろろ」と同じ正子公也、舞台は「どこでもないアジアのどこか、今ではないどこかの時間」なので、似ているところがあるのにその意識に決定的な差がある。世界観の統一や異なる集団の対比、それを「映画として」提示する手続きの違いが際立ちます。この映画の冒頭シーンはやはり「紅」と「黒」の合戦シーンだったりするわけですがw、俯瞰で見せられる荒野に布陣する紅の軍団の美しさは特筆ものだし、白一色の舞台に立ち尽くす黒衣の人物、銀の鎧や海棠の花の意匠の素晴らしさは、やはり映像として強く印象に残るわけです。

ただ、「どろろ」の「物語」はある結末を強烈に志向し、ちゃんと成立しているので困るw 映画としては「悪くない」点が一杯ある。多宝丸の心理描写は細かいし、彼が兄と和解する成り行きもいい。母がわが子の生死を前に、見せる芝居も素晴らしい。過ぎてしまった事は変えられない筈なのに、一種の償いとして兄弟の絆を残していく父親の揺れ動きも納得です…あの国境における芝居場はビジュアルを脳内補完しつつ見ていたので、ドラマの濃密さは十分に味わいましたw どろろが百鬼丸を生かしたいと願うその切実さにはちょっとほろりと…

でもまあ、非常に考えられたホンである反面、百鬼丸が自分の正体と使命を知るのが訳分からん「天の声」とか、琵琶法師が物語の語り部には全然見えないとか、そういう齟齬もあります…全体としては「隔靴掻痒」かも。なんだかむず痒いw

主演陣での弱点、妻夫木クンは、殺陣はそこそこ出来ているので、訓練次第では何とかなるかと。 ただ歩くだけで異界からの化け物のように見えないと、初登場シーンは成立しない。「ゼイラム」のアバンでの吉田瑞穂程ではなくてもいいから…って、これも「撮り方」の問題かな?

投稿: shof | 2007年2月 6日 (火曜日) 午後 12時26分

shofさん、いらっしゃい。

オレも「PROMISE」は観ましたが、要するに「CG使わなきゃいいのに」ということに尽きますね(笑)。二〇年くらい前の感覚で言えば、やっぱり光学合成を使う映画ってルックが限定されてくるもんですが、映画における特撮の使い方というのは、どうしても映画全体のルックの観点では不自由さを伴うものだと思います。

オレは特ヲタでもあるのでこういうことを言うのもちょっと矛盾しているのかもしれませんが、「五条霊戦記」のルックの良さというのは、CGを最低限度しか使っていないということもあると思うんですよ。今の映画はCGでいろいろなことが出来るようになった半面、CGの技術要請に合わせた画一的なルックが横行している嫌いがあると思います。

そういう意味では、この映画のルックがのべったり彩度を落としているのは、CG前提の映画である為の手当という側面もあると思うんですが、場面によって適当に色彩感を立たせたりモノクロっぽくしたり、全体的な見え方についてのイデアがないんですね。機械的に彩度を落として、それで統一したつもりになっているというのが何ともお粗末です。

また、スチルやTVで視るダイジェストのほうがマシなルックに見えるということは、大スクリーンでの見え方を考えていないということもあるのかもしれません。剰り状態の良くないフィルムを小さなスクリーンに掛けているような見え方ならこれでも好いのかもしれないし、最終的にDVDスルーやウェブ映画のような流通形態ならこんなものでいいのでしょうが、大スクリーンで視ると粒子が粗かったり彩度の低さが画面密度の低さに見えたりということもあるかもしれませんね。

まあ、いろいろ文句を附けましたが、一言で言えばちゃんと視覚的娯楽として成立していれば気にならないことばかりなのではないかと思います。山谷初男の和尚や琵琶法師の便利な使い方も、ビジュアルとして彼らが固有の物語性を抱えた存在のように見える、つまり、観客の想像を刺激するような「物語性の尻尾」が附いていれば、煩瑣く論うことでもなかったと思います。

現状のこの映画では、言葉で説明出来るようなショットしか映っていないし、窮めて情報量の少ない、視覚的刺激に欠ける映画になっていると思いますね。百鬼丸の顔なら顔しか映っていないので、彼の表情を視ていればいいということがハッキリしている。その顔も大した情報を抱えていないので、悪い言い方をすれば紙芝居のような映画にしかなっていない。まさに、言葉で説明出来るものを絵にしただけの映画なので、逆に言えば説明されていること以外に対して想像の拡がりがない。

塩田明彦の師に当たる蓮實重彦がこの映画をどのように評価しているのか、是非聞いてみたいところです。

投稿: 黒猫亭 | 2007年2月 6日 (火曜日) 午後 02時00分

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