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2007年2月 9日 (金曜日)

Girls talk

毎週割合楽しく観ている「ハケンの品格」だが、これが楽しいというのもちょっと複雑な気分だなぁと思わなくもない。今回は、ドラマの内容ではなく、そのようにオレが感じるむず痒い感覚について少し語ってみたい。

勿論、こういう徹底的に無内容な変化球のオフィスラブコメ以外にさほど視るべきものがない今季ドラマシーンの現状は何うなんだろうという疑問もあるのだが、細かいところでいろいろアレなこの番組のアレさをまったく無視してしまえる自分の社会的感覚も剰り好ましいものではないなと、微かな警戒感を感じるのである。

要するに、この番組における脚本・中園ミホのポジションというのは、詰まるところ森ちゃん目線なわけである。企業の現状なんか識ったこっちゃなく、きちんとお時給が貰えるのなら抜ける手は抜くし要領良く立ち回ってイケメン正社員をゲトしようとか考えている先輩ハケン社員にも馴染めず、かと言って単なる変わり者の一匹狼である大前春子のようにもにもなれない、そういう中途半端な立ち位置の平凡な女性である森美雪が書き手の視点を代替するものだろう。

先輩ハケン社員にせよ大前春子にせよ、一貫しているのは「企業の存続なんぞ識ったことではない」という姿勢で、春子の決めゼリフである「労働を切り売りして対価を貰っている」という言葉に象徴されるように、その対価を支払う企業の立場の視点がこの番組の語りには一切ない。

徹頭徹尾「使われる側目線」のお話なのであって、第五話で小笠原の去就を巡る問題性がいろいろ有耶無耶なのは、書き手の側に企業活動を維持する側の視点が一切ないからであり、そもそも春子に支払われる三〇〇〇円という破格のお時給が、企業の経済収支の中で引き合うか否かという視点などハナから存在しないのである。その意味で、前回語った「華麗なる一族」とは対極的な視点のドラマであると言えるだろう。

最初に語ったように、春子がどんなに有能であろうが、その有能性が会社にとって破格のお時給や特別扱いに引き合うのか何うかという視点は、最初からスッポリ抜け落ちているのである。企業が個人に労働の対価を支払うのは、その労働が労働単体で凄いものであるからではない。企業にとってその労働が、企業利益を生む上で一定程度の必要性を具えているからであって、その必要性の割合に応じて対価が決定されるのであり、労働単体の凄さや出来の良さが基準となるのではない。

しかし、このドラマで春子がハケンとして優れているとされるのは、会社サイドの必要性とは無関係に、春子個人が凄いことをたくさん出来るからなのであり、その凄さを見せるために毎回の事件が設定されている。第五話で言えば、エレベーター点検士というスキルを見せる為にエレベーター故障という事件が設定されているわけだが、会社は別にエレベーターが故障しても直せるから春子を雇っているわけではないはずである。

その意味でドラマ的には春子の凄さは伝わってくるが、劇中の企業の論理では、データディスクを紛失したとかマグロの解体ショーの実演者が怪我をしたとか必要書類が間に合わないとか、そのようなリスク要素のソリューションとして春子を雇っているわけではないはずである。

本来それは、企業がリスクマネジメントの一環としてシステム的に手当てすべき事柄であって、個人の能力に一義的に頼るべき事柄ではない。だから、春子の凄さを表現する為に危機的状況を設定すればするほど、この会社のシステム面での脆弱さや杜撰さが暴露されるわけで、そこにOL目線の書き手の限界が顕れるわけである。

つまり、そもそも会社がどんな必要性を基準にして対価を見積もっているのか、このドラマを視ていても決してわからないわけであるが、それはこのドラマの書き手には「使う側の視点」がまったく欠けているからであり、会社を存続させるのは雲の上の偉い人の考えることであるという視点しか持ち合わせていないからで、本来労働の対価というのは、雇用者の個別的な能力ではなく、労使間の需給バランスによって決定されるべきファクターであるという認識がまったくないからである。

以前すでに語ったことの繰り返しだが、たとえばハガキの宛名書きという体力勝負のバイトを募集する際に書道の有段者が応募してきても、その書道の腕前に応じて破格の時給を払うなどということはないだろう。また、常識離れして宛名書きが速く二人分の仕事をこなすことが出来るというのなら多少の上乗せはあるとしても、単にその分要らなくなった別のバイトを一人馘にして会社が得をするというだけの話である。

企業が人材を募集する場合、想定される利益を生む上で必要にして充分な能力と労働を求めるものであり、「凄い能力」というのは想定以上の利益を開拓することが期待される戦略レベルのポジションにのみ求められるのである。

このような誤解は、たとえば大量リストラの嵐が吹き荒れる以前の終身雇用前提の社会に蔓延していた考え方であり、馘を切られてから初めて「オレは一生懸命失敗もなく働いていたのに何故」という疑問を感じるのは、その「一生懸命の労働」が会社にどんな利益をもたらしたかという視点が欠落した物の考え方である。

勿論、オレがここで論じているのは使う側の都合論の問題ではないし、削減人員目標数ありきの安直な身振りとしての大量リストラを肯定する意味でそう言っているわけではない。ましてや、国の終身雇用政策を信じて頑張ってきた世代全般を貶めようという意図では決してない。自身の労働を客観視するということは、その労働が単体でどれほど優れたものであるか、瑕瑾のないものであるか、という視点ではなく、企業の払うコストに見合うものであるか何うかという相対的な視点が不可欠だという話である。

それが釣り合ってこそ、初めて胸を張って自身の労働を誇れるのだし、原理的に企業と対等の視点に立てるということである。企業も従業員も、夫々互いの視点を共有した上で事実において一方の利害当事者の立場に立つことが合理的なのであり、どちらか一方の視点だけあれば好いという話ではない。

企業には従業員の視点がわからん、従業員には企業の視点がわからんというのなら、最初からコミュニケーションが成立しようもない。だから「使われる側の視点」しか持ち得ない被雇用者はダメなのである。企業は被雇用者の視点がなくてもそれほど困らないけれど、被雇用者はそんな企業より弱い立場なのであり、企業と対等に交渉すべきニーズは被雇用者側のほうにあるからである。

このドラマのように、「自分は高い時給に見合うだけのスキルは持っているしその対価に見合うだけの仕事をしているのだから後は干渉するな」という姿勢の主人公に何の疑問も持たないような視聴者は、まず企業社会では真っ先に切り捨てられると視て好い。

この前第三話を論じた際には、フリーランサーのツネさんとハケンの春子を同一視する論理を単なる韜晦として華麗にヌルーしたわけだが、まあこのドラマの語り口から考えると、その両者の本質的な相違にはそもそも一切興味がないわけである。春子のスキルの描き方からすれば、中園ミホの物の見方は、大量リストラに遭って「オレは一生懸命働いていたのに何故」と叫んだ労働者と何ら変わらないということで、だからリストラを行う企業を簡単に悪者に出来るのである。

ハケンと正社員を隔てる根本的な要件として「企業が面倒を看てくれるか何うか」という条件を前面に出している辺り、その種の物の考え方にまったく興味がないことは明らかである。本来の理念では、正社員というのは企業の存続や発展に責任を持ち主体として業務を推進する立場であり、ハケンというのは不特定の企業が不定期的に求める労働力を外部からサービスとして提供する立場であり、その需給を円滑に調整する為に人材マネジメント会社が存在するのである。

それ故に、労働市場が健全に機能していれば、正社員は特定企業の存続発展に主体として努めることで安定と利益還元を得るのだし、派遣社員は不特定多数企業からの求人に一定の時間単価で応じることで倒産やリストラのリスクを回避して安定を得る、このような差異になるはずなのであるが、企業のぶっちゃけ論が一方的に幅を利かせて労働基準法や派遣法を無視して使っているから問題があるというだけである。

だから、本来的には正社員とハケンをこのドラマのように視る見方は、終身雇用制時代の、企業に寄生する思想の産物であると批判されても仕方がない。本当は、企業が一生面倒を視てくれるか何うかで正社員とハケンが区別されるべきではないからである。

この辺の雑駁な労使観に対して微かにイラッとくる感覚は、給湯室で勝手な愚痴に華を咲かせている腰掛けOLに対して感じる苛立ちと同種のものだと思う。このドラマの背景にあるのは、徹底的に浅いOLトークレベルの世間話なのである。

企業の存続というのは企業中枢が勝手に考えて自己責任でやるべきもの、自分たちには関係ない、潰れたら潰れたで別の会社に移るだけ。それは要するに、女性労働者やハケンを差別する企業社会に対して、「そっちがそうならこっちはこうだ」「向こうがそうしないからこっちもこうしない」的に下世話な引き算で安定した現状である。

所謂「給湯室のOLトーク」には、企業の事業活動に参画しているという大局的な視点が一切なく、自分中心の視点ですべてを語るという弊風がある。また給湯室のOLトークが怖いのは、こういう本来冗談混じりの自嘲であるべき事柄が、集団内部のコンセンサスが得られることで、建前と同等の立派な名目にすり替わってしまうところである。

何故企業内における女性集団が未だにそのような性格を脱却出来ないのかと言えば、企業社会というのは明確に男性社会で、大多数の男性企業人は女性を企業活動の中枢に関与させたくないと考えているからである。それ故に女性が事業活動を主体的に推進する立場に立つのは容易なことではなく、一方的に「使われる立場」に置こうとする有形無形の圧力が強力に存在する。

そのような圧力が存在するからこそ無視出来ない数の女性労働者が「使われる立場」に甘んずることとなり、その立場における視点以外獲得し得ないのである。これでは男性総合職員が感じているような「企業の存続と発展に対する主体としての責任」など感じようがない。

たとえば、こんな莫迦莫迦しい安直なオフィスラブコメを観ながら「わかるわかる」と共感出来るような一面的な視点しか持っていない女性労働者は、企業の人的主体としての自己認識は薄いのだし、それは多くの企業がそのような主体として女性労働者を扱っていないからである。

基本的に男性社会である企業社会では、「女は健全に二人ばかり子供を産んで大人しく家事をやっておれば宜しい」という女性蔑視を抜きに言っても、女性固有の問題性を解決して公平性を立脚するのは面倒くさいし、その為にコストを掛けるのは原資の無駄だと考えられているのだし、男性だったらそういう面倒くさいことを考えずに済むから男性ばかりを優遇するのである。

既製事実として企業社会が男性社会である以上、そういう面倒くさい問題を解決する積極的な動機が男性側にないことは明らかで、現代社会が公平性の原則に立脚している以上は「いつかはやんなきゃなんない」という建前があるから、やってるフリをして時間を稼いでいるだけである。そして、「いつか」という日は決してこないというのは大昔からの真理である。

現在ですらそうなのだから、過去の企業社会には女性の居場所など存在せず、今現在企業中枢で活躍している女性企業人は男性以上の過酷な労働を強いられてきたわけだが、それで成立していたということは、一面では大多数の人々にとってある程度安定したシステムだったということでもある。

戦後の終身雇用政策によって安定的な人生設計が可能だった時代には、出産育児というハンディを抱えた女性のほうが家庭に入り家事全般を担当するという体制がロスなく合理的なものと見做され、未だにその前提で国のシステムが成り立っていて、何処かの爺さんもそんな前提で寝言を語っているわけである。女性の自己実現の権利という公平性を一旦捨象するなら、たしかにこれで安定していたのだから、相対的に女性の社会進出を希望する勢力が少数派となるのは統計的に当然である。

女性が労働参画しなくても安定的にシステムが機能するのなら、企業活動における両性の平等は理念的「建前」に過ぎないということになるのだから、誰も本気で手当てしなかったのだろうと思う。そんなことをわざわざしなくても社会が安定的に機能しているのだから、権利や理念の文脈で無理をしてまで公平性を確保することなんてないじゃないか、そのような考えが一般的に罷り通っていたのだろう。

それ故に、普通一般に「OL」と言った場合に想起される、「制服」「一般職」「玉の輿狙いの腰掛け」というイメージは、要するに男が推進する企業活動において男所帯に必要な「女手」を補う意味合いで成立したものである。お茶汲みやコピー取り、職場の清拭など「大の男がやることではない賤しい雑用」を「嫁さんOR愛人候補の女の子」にやらせる為に雇うというのが、所謂「OL」というものである。

東京などの大都市では採用時の性差別を撤廃する企業も徐々に増えてきたが、地方ではまだまだ「女手」要員として女性社員を視ている企業も多い。女を雇うのだから女でなければならないことやらせる、という発想の企業も多いわけである。これはやはり現代の職業観からすればかなりおかしいわけで、理念的に言えば特定の業務に関して男女を区別することそれ自体が無根拠な不平等である。しかも、会社の雑用が「女でなければならないこと」という考え方自体が不当な女性蔑視である。

極端な肉体労働に関しては適性というものがあるだろうが、それだって男女という上位概念で括るより、個人として視ていけばそれで足りる話である。オレなんか多分同世代の逞しい女性よりも体力は劣るだろうから、身体を使う仕事ということで言えば男だからこれだけ出来て当たり前、女だからこれが出来なくて当たり前とか考えられても迷惑である(笑)。

本来、企業活動においては、男だから何うこうとか女だからこれこれという特殊事情はなるべくオミットして考えるべきであって、出産育児や体調管理の面においては一定の手当ては必要だろうし、男女入り交じりの場に伴う配慮は必要だろうが、業務面での男女のメンタルな偏差は可能な限りクロスプラットフォームで行くべき事柄である。

つまり、業務において「男の考え方」だの「女の考え方」だのがあってはいけないということで、飽くまで企業利益と社会的大義の文脈で合理的な対話が成立する必要があるのだが、その面ではまだまだ「男の考え方」「女の考え方」という概念を男女共に認めているような印象がある。

しかし、求めるものが共通する企業活動において、男女共に男だからとか女だからという固有性を主張しても意味がないことであって、職場においてはジェンダーフリーの合理的なプロトコルが確立されねば男女共同参画社会など夢の夢だろう。要するに「男だから話が通じない」「女だから話が通じない」ということなどあってはならないのだ。

オレ的には、職場の女性集団が口さがないというのは歪な状況で笑い事ではないと考えているのだが、女性自身でさえ「女なんてそんなもの」と考えている裡はまず状況全般変わることはないだろうと思う。

しかし、現在のように大多数の夫婦者が共稼ぎをしている現状においては、男性に一方的に都合の好いシステムで社会が安定するものではない。どうせ両方働くのであれば、性別によらずに労働参画が可能で、男女問わず社会の基本単位としての個人が公平に自活手段を得られるようにするのでなければ、単に「女が損をする世の中」でしかない。

真に男女の公平な共同参画が達成されるには「男なんてこんなもの」「女なんてこんなもの」というような口実が廃されなければなるまい。労働の観点においてはそんな個別性には何の意味もないのだから、「女だから」という口実で「女の言いそうなこと」ばかり言っているのでは話にならないだろう。だったら男だって「男だから」という口実で「男の言いそうなこと」を言うばかりで平行線である。

給湯室で幼稚な愚痴や噂話を言っている裡は決して給湯室から出られないのである。

そんなところが一般論だが、このドラマの話題に戻るなら、結局このドラマが語っているのは、性差別によって不当に扱われ近視眼的な視点しか持ち得ないOLの、「会社はちっとも良くしてくれない」的な給湯室の愚痴であり、要するに世間の見方では「女の言いそうなこと」であり、企業社会の本質に迫るものではまったくない。

言ってしまえば、大前春子という人物は企業社会の冷酷さに痍附き、「そっちがそうならこっちはこうだ」的に開き直った可哀想な人でしかない。企業というものの在り様を考えるなら、きちんと主体としての責任意識を持ち、自身が得ている対価に見合う労働を客観的に見積もって主体的に働けるような企業姿勢が望まれるのは当たり前で、企業は面倒なんか視てくれないんだから企業にしがみついてる奴は阿呆だ的な結論は、最終的には感情的な企業否定にしかならない。

オレ個人としても現在一般的な国内企業の現状は望ましいものではないと思うが、だから悪者にして開き直るというのは、親に拗ねる子供のような発想である。現代人の経済活動を成立させる基本単位は企業なのであり、日本中の企業が倒産しても生き延びられると嘯くのは、要するに現代社会の全否定である。

大地震で関東が潰滅しても私は生き延びられるというのは、本質的に企業論でも何でもないのだし、曲がりなりにも企業が経済の単位として機能している現状において、企業の現状が望ましくないから焼け野原と同等に見做すというのは、単なる感情的な極論に過ぎない。

一生面倒を看てくれるか何うかという問題とは別に、企業それ自体の誠意を信用するということは間違ったことではない。その種の信頼がなければ、主体的な責任意識というのは生じようもないだろうし、それなくして企業の存続発展はあり得ない。それが裏切られたというのなら、裏切るほうが悪いのであるし、裏切りの横行を何とかすべきなのである。良くないと感じたことを全否定するのではなく、改善しようと努めるからこそこの社会というのはこのように在るのではないのか。

何もしないで「信じられない、見損なった」と開き直るのは、ガキの発想である。

このドラマの春子の思想に微かにイラッとくるのは、一度男に裏切られたからすべての男を信用しないというのと同様のヒステリックな論理になっているからで、だからこのドラマは企業社会に対するマトモな言及ではなく、本質的に現代文明が潰滅した焼け野原前提の話にしかなっていないのである。

企業社会が拙いことになっているという認識があっても、それを主体として何とかする話ではなく、それがなくなっても生きていける道を探す話になっているから極論なのである。要するに、男で痍附いた女が男なしで生きていける道を歩んだというのと同じ論理の話になっているのである。そして、この物語が結局のところツンデレラブコメという以上のものではないのは、企業に裏切られることと男に裏切られることが重ね合わせてイメージされているからだろう。

春子が企業など信ずるに能わずと断じながらも、已むに已まれず東海林や里中に肩入れして「べ、別に(ry」とツンデレてしまう流れは、嘗て手酷い裏切りに遭って男なんて信じないと誓ったはずなのに、何うしようもなくまたしてもダメ男に入れ上げてしまう哀しい女の一代記的なノリの呼吸なのである。

しかし、もっと哀しいことは、企業に手酷く裏切られたから企業に頼らずに生きる道を選んだはずの春子の描き方が何う考えても絵空事でしかなく、何ういう筋道で得られた金であるかをまったく理解せずにお給料を押し頂く「使われる側」視点の考え方を一歩も脱却出来ていないということだろう。自分は凄いことが出来るからそれに見合う金を払えというのは、結局そういうことだ。

企業社会においては、凄い芸をたくさん持っている人間が評価されるのではなく、自分の芸を企業の利益に変える方法論を持っている人間が評価されるのである。その意味では、企業の主体としての位置附けを抛った人間にはそもそも芸を活かす機会など与えられないのだし、企業と対等の立ち位置に立てる芸を持っている人間は、自分の名前で利益が生み出せる人間だけである。

つまり、ハナからツネさんと春子はまったく別種の人間なのであり、その違いがわからないからこの書き手は腰掛けOL目線と嗤われるのである。

言い方は悪いが、この考え方が如何にも腰掛けOLの夢物語で浅墓だなぁと苦笑いしてしまうわけで、それをラブコメにしか興味のないホン書きの戯言として無視してしまえる自分がちょっと厭なのは、無意識の裡に「腰掛けOLってしょーがねーな」的な見下しがあるのではないかと思ってしまうからである。

これまで長々と語ってきたように、腰掛けOLたちにそういう弊風がたしかにあるのだとしても「しょーがねーな」で済ませて好いことではないのだし、一面的な視点で聞いた風な処世を語る給湯室の愚痴が如何に莫迦莫迦しいと感じても、そういう人々がそういう見方しか出来ないことは企業社会の構造が然らしめるところなのだし、それは誰か他人の責任というだけではない。

「社会の歪み」というのは便利な言葉だが、その社会に責任を持っているのは誰だということになると、わが身にも跳ね返ってくることである。無意識に腰掛けOLなんてこんなものという見下しがあり、実際に腰掛けOLなどそんなものでしかないのだが、それをそのように見下すことでそのような現状は持続するのだし、そのような現状が持続するからそのような見下しも変わらない。

男性論・女性論が必ず泥沼化するのは、このように原因と結果が合わせ鏡のように無限に連鎖しているからであって、論じている人間が男か女かのどちらか一方の当事者でしかないからである。個人的には、この現状を打破する為には受益側の女性労働者の認識もかなり変わる必要があると考えるのだが、それを事実として男性である人間が言えるものではない。男に変われと言えるのは男だけなのだし、女に変われと言えるのも女だけなのである。

だからこそ、多くの人が男性論・女性論に関心を持ちながらも、男性に不満を持つ女性は何れ黙り込むのだし、女性に不満を持つ男性も同じように黙り込み、やがて同性に向けて「変わらないか」と語り始めるのである。そうすると決まって「相手が変わらねばこちらも変わり様がない」という堂々巡りの話になる。

男の敵は男なのだし、女の敵は女なのである。

結局のところ、某カブトの最終回のように自分がとりあえず変わってみるという微温的な選択肢しかないわけだが、まあ一人の人間にはその程度のことしか出来ないだろう。

この番組を観ていて、「ああ中園ミホって結局腰掛けOL目線だよなぁ」とか嗤うのは仕方ないところなのだし、そう割り切らないとこのドラマが本質的に具えているおもしろみは享受出来ないわけだが、その中園ミホ個人に対する罪のない見下しに、背景となる巨大な社会問題に繋がる尻尾のようなものが附いていて、それは到底「罪のない」ものではないからこそ微かに厭な痛みが伴うのだろう。

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コメント

こんばんは。
娯楽としてテレビを見る際に満足させて欲しい点には個人差があって、
“こんなに物事考えている自分”だったり“そんなこと考えないで楽しみたい”だったりするんでしょうが、
こういう“本質的な視点の欠落したドラマ”はそこを気楽に楽しみやすいんだと思います。
その点が「14才の母」とか「女王の教室」辺りと大差ない気がして私は苦手なんですけど
OL目線であろうと楽しんでいる層の大半はそのOLなわけで、
その部分で多少の底上げが望めればそれで良いんじゃないですかねー?

投稿: quon | 2007年2月10日 (土曜日) 午前 03時40分

たしかにこのドラマは、男性中間管理職である私がセクション内のドラマ好き女性と話題を共有しにくいものがあります。

それはともかく、

>「女は健全に二人ばかり子供を産んで大人しく家事をやっておれば宜しい」という女性蔑視

>未だにその前提で国のシステムが成り立っていて、何処かの爺さんもそんな前提で寝言を語って

あーぁ、こういうのを蛇足って言うんだよなー。せっかく、「いつも長さと内容を楽しく拝見しています」だったのに。いや、扱うのは自由だけど、とくに前者は柳沢発言全文を100回くらい読んでから書いてほしい。とか言うと「別に柳沢とは一言も書いてないだろう」とか言うのでしょう。小宮山級認定。

投稿: ホッピー | 2007年2月10日 (土曜日) 午前 07時04分

>quonさん

たしかに扱っているテーマの本質の外し方が日テレライクという言い方は出来ますね。まあオレも基本的には楽しんでいるわけですが、OL目線の書き手の作品をOLが楽しんでいるドラマ、それってやっぱり給湯室トークだよなぁと思わないこともないので、こういうのを書いてみました。

こういうことを感じるのは、やっぱりオレが乏しい会社員経験の中で「男と女って話通じねーな」と感じることが多かったからだと思うんですが、そういう人ばかりじゃないこともわかっていますし、それはやっぱり「男と女って」と考えるのではなく、「こいつとは話通じない」というふうに考えるべきなんだろうな、と思います。まあ、実際には話通じない奴には男も女も関係ないですしね。

ただまあ、男でも「言われたことをやるから金をくれ、それが事業全体の中でどのような利益に繋がるかは僕の考えることじゃない」って発想の輩も多いわけですが、男性労働者の場合は、企業社会の風潮として「わかって然るべきなのに」という期待があるわけですが、これが女性労働者だと「女なんてそんなもん」で括られちゃう嫌いがあるわけですね。

何というか、このドラマを視ていてオレが微かに苛立ちを覚えるのは、「女なんてそんなもん」と男が思う気持ち好さ、女が思われる楽さ、そういう厭なところで釣り合っている現状が垣間見えるからなのかなと思います。

quonさんの仰る通り、ドラマがちょこっとでもきっかけになるかもしれませんね。

>ホッピーさん

いらっしゃい。いや、間違いなく柳沢厚労相の話です(笑)。彼の発言については先日ちょっと触れていますので、ここでこういうふうに言及していることを疑問に思われたら、読んでみていただけますか。

まあ、簡単に言いますと、柳沢厚労相はやっぱり本音の部分では昔の安定していたシステムが一番合理的だと考えているのだろうし、彼個人に侮辱的意図があろうとなかろうと、そのビジョンをよしとする姿勢自体が女性に対する蔑視に「なる」ということです。そういう本音をペロッと言っちゃったんだねぇという話ですね。

論理的に言えば、そういう理想を抱いているなら、女性が労働参加しなくても安定的に成立する社会システム自体を保証する、もしくは今後成立する信念でも抱いてないと無責任なわけですが、実態は逆になってますし、そんなシステム自体イビツで無理があったわけですよね。じゃ、現状で破綻しているし将来的にも成立する見込みのないシステムを前提にした理想を抱いている閣僚なんて信用出来るかって話になりますね。

だとすれば、彼の立場では今の実態に即して女性が子供を産みやすい環境を整えるのが現実的な急務のはずですし、それはこの現状では即ち彼の管掌する労働政策だと思いますが、それちゃんとやってから言ってんのかって話ですね(笑)。

まあ、本題から逸れる話題ですし、オレのほうからはこんなところで。

投稿: 黒猫亭 | 2007年2月10日 (土曜日) 午前 11時58分

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