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2007年2月 6日 (火曜日)

misfortune

だから泰造はやめておけとあれほど(ry

……というわけで、気は進まないのだが今の裡に「演歌の女王」の話を済ませておくことにしよう。ネットでも随分評判が悪いようだが、まあ「ごくせん」以後の土九自前コンテンツ興隆の立て役者である天海祐希の主演でコケるのなら、日テレも以て瞑すべしというところだろう。

水一〇の「ハケンの品格」がヒットしているのだから、日テレのドラマ分野への力の入れ具合から考えれば一月期の打率はこんなものだろう。オレ個人としては、当初は保険の福田麻由子狙いで観ていたのだが、とくに好きでも嫌いでもなかった成海璃子が悪くないので保険要素が増え、何となく継続的に視聴しているというところであるが、このドラマ自体はまったく評価していない。

純粋に一本のドラマとして視るなら、フロックの要素も殆どなく、当たらないドラマの王道を順調に往っていると言えるだろう。内容と視聴率が合致していて、何ら不思議な部分のない番組である。まあ、所詮「女王の教室」のヒットは夢だったのだと諦めて、別の途を模索するのが好かろうと思う。

映画「嫌われ松子の一生」のヒット以来、不景気で暗い今の世の中だからこそ不幸の釣瓶打ちにもめげずに前向きに生きる主人公が当たると勘違いしているつくり手が一定数いるようだが、今はそんなお話を絵空事として楽しめるほど余裕のある世相ではない。

今年のライダーの電王も、主人公の良太郎が「あり得ないほどついていない男」という設定で、何となく松子の影響を感じさせないでもないが、人は理不尽な逆境が連続した場合、己を「ついていない」と感じるものである。そして、今の世の中では別段社会の底辺でも何でもない普通一般の人々が、一度や二度は「理不尽な逆境の連続」に翻弄された経験があるものだろうし、それは生々しくて不愉快なリアルタイムの記憶である。

今現在のTV番組の視聴者は、多かれ少なかれ自身の現状を「ついていない」と感じているのだろうし、それをテーマに据えることは、文芸の力では何うしようもない社会的状況に対する言及という性格を不可避的に具えるのである。多くの視聴者にとって、そんな気の滅入るような物語をお茶の間で気楽に楽しめるかと言えば、剰りにも身につまされてそれどころではないというのが本当のところだろう。

以前語った通り、映画版の松子は「ついていない女」の誇張された不遇な人生を一編のレビューショーのような絢爛の映像的娯楽として描ききっているわけだが、この物語的要素だけを抜き出して考えれば、別段今の社会の雰囲気に特別にマッチしているわけではないし、物語要素それ自体がヒット要素だったのではないだろう。

原作のヒットは時代のアクチュアルな空気を剔抉していたからではなく、一般的な小説読みが求めるような普遍的な波瀾万丈のロマンを、ミニマルで等身大の下世話なリアリティにおいて描くという試みの成功がヒットに結び附いたのだと思うのだが、その原作及び映画のヒットがTV屋さんの読みを惑わせたのではないかと思う。

この種の物語要素を楽しめるのは、今現在のような辛い状況を過去の記憶として客観視出来るもっと先の段階であって、逆境の直中にあるときはそんな現実をドラマにおいてまで直視したいと望む視聴者は殆どいないだろう。

劇中の大河内ひまわりは、演歌歌手にみた夢を忘れられずに四十路近い現在まで未練たらしく芸能界に縋り附きながら、スーパー店頭やイベント会場での地道な営業活動以外は弁当屋のパートタイマーとして細々と生計を立てている。

これを、華やかな夢をみたツケで何十年もの時間を棒に振った敗残の人生と視ることも可能だが、ほんの一〇年ほど前までこの儘一生続くと思い込んでいた人生設計が無惨に費えた経験を持つ視聴者もかなり多いだろうし、その意味では大河内ひまわりのついていない人生が過剰に身につまされて感じられる視聴者も多いだろう。

その前提において、「どんなに不幸が連続しても、前向きな気持ちと他者に対する思い遣りさえあれば力強く生きていける」という人生の応援歌的な物語を語るというのはご立派な志だが、はっきり言ってこの現状においてはそれは単なる「お説教」にしかならない。

事前にコンセプトを聞いた段階では絶対ヒットしないだろうと踏んでいたのだが、やはり予想通り驚異的に低い水準で視聴率が推移しているらしい。ハケンの品格が雇用不安の世相に切り込んだアクチュアルな物語と見せかけておいて、その実は強気万能女のツンデレラブコメという他愛ない絵空事に終始しているのに比べ、演歌の女王は弱気無能女の人生最高についていない一時期を描くという対照が明暗を分けたと言えるだろう。

嘗てのヒット作「女王の教室」では悪魔的万能性を具え劇中状況を操る役どころの阿久津真矢を演じた天海祐希が、本作では一転して劇中状況に翻弄される弱気で無力で不幸なキャラを熱演しているわけだが、これは要するに天海祐希の従来の持ち役である「有能なキャリアウーマン」的イメージと「親しみやすいがらっぱち女キャラ」的イメージの間の振れ幅だと言えるだろう。

お話的には「美女か野獣」の焼き直しに過ぎなかった「トップキャスター」で視るべきポイントとは、この天海祐希の持ち役の振れ幅の両方を貪欲に取り込んだ点だろうと思うが、土九の両「女王」はそれを両極端として提示しているわけである。

ただ、この物語の語り口で言うなら、飛びきり運が悪くて芸能人としても最底辺を這いずり回る彼女の現状を積極的に肯定する方向で筋立てが描かれている為に、物語の最終局面に至っても、大河内ひまわりの客観的生活状況や運の悪さがまったく好転しないことがわかりきっている辺り、こんなしんどいロワーな人生がこの先も続くのはかなわんな、という鬱陶しさに繋がっているだろう。

また、このドラマではイマジナリーフレンドの福田麻由子の存在をはじめ、「妄想」という道具立てが中心的作劇ギミックとして用いられているが、それが不健全で病的な現実逃避というふうに感じられてしまい、剰り効果的ではないだろう。

一三歳当時の自分の姿が昼日中から見えて会話してしまうというのは、ドラマの誇張というより普通に「そういう病気の人」なので、第一話で勿体を附けて提示されたこの道具立てが、天海祐希の演じる一種健康的なキャラ演技を裏切って何だか妙に病的な印象を与えてしまう。

クライマックスに至るひまわりの行動の分岐点で「女のわかれ道」が妄想で描かれる段取りや、他者の悪意に晒された場面で痛快な立ち回りが妄想で描かれる段取りも道具立てとして視ればマンガ的な誇張としてそこそこ面白いし、天海祐希のダイナミックな柄を一瞬でも活かす装置として目論まれた仕掛けだろう。

その意味で、常に人として真っ当な選択肢を選ぶが、妄想のようにスカッと爽快でドラマチックな成り行きには決してならずに、何となくなし崩し的に情けない流れになるというルーティン構造としてよく出来てはいるのだが、爽快感に欠けるルーティンを意図的に狙っているのだから爽快感に欠けるのは当たり前の話である。

ある種、このドラマのそのような全体構造は、不全感に裏打ちされたデスペレートでマゾヒスティックな情感を狙っているものだと思うのだが、そのようなプロセスを経て最悪の展開に陥った挙げ句、ひまわりの想いが相手に通じることでそこそこの結末に落ち着くという「そこそこ感」がお話全体のつまらなさという印象に繋がっていると思う。

運の悪さや洒落にならない家庭環境、病的な妄想やら他者の悪意というネガティブ要素のテンコ盛りに対して、結局物語的に得られる結末が「一生懸命な想いが通じる」という非常にしょっぱいものなのが、物語の情感の経済として「割に合わない感」を煽るわけである。

これだけ極端に悲惨な道具立てに彩られた人生なのに、その差し引き勘定で得られるものが、陰気なコメディを一時間見続けて得られるカタルシスとしては絶対的に物足りないのである。それが語り手の「人生なんてこんなもの」という思想を体現しているのだとすれば、こんな辛気くさい世の中でわざわざドラマをつくってまで視聴者の気を滅入らせるとは何ういう料簡なんだと不愉快になるわけである。

視聴者は今、もっと優しい物語を期待しているのだし、今季数字がとれているドラマは全般に罪のない絵空事のラブコメである。その意味で言えば、後ほど一項を設けて語る予定の「華麗なる一族」も、内容的に成功しているか何うかは微妙だが、今より社会に活力のあった時代の内幕を回顧する一種の感傷ではあるだろう。

この番組のスタッフは女王の教室とまったく同じで、彼らは女王の教室スタート当初の世間のバッシングの嵐に痍附いたトラウマがあるということなのだが、それは要するにTVマンとして世間の空気が読めていないということに尽きるだろう。女王の教室では結果的に吉と出たが、懲りもせずに同じような鈍感さでつくった演歌の女王は当たり前のように外したという普通の成り行きだったのではないか。

人々が現在只今TVドラマに求めているのは、辛い現状を一時忘れて没頭出来る楽しい娯楽なのであり、人々は、楽しい絵空事の娯楽の中で原理的に語られるポジティブ思考の手応えを現実の生活に持ち帰り、無根拠な希望のよすがと成すのが精々であって、ドラマの中においてまでアクチュアルな現実の理不尽さをこれでもかと見せ附けられて、それでもちょびっとくらいは好いこともあるんだから満足して頑張れと言われるのではやりきれない。

たしかに人生そんな程度のモンだというのは本当だが、わざわざ人心が疲弊している時期にそういううんざりするような正論のお説教をドラマに仕組むというのは、やっぱり何処か語り手の姿勢に思い上がりがあるのではないかと感じてしまう。

嫌われ松子の一生を鹿爪らしいヒューマンドラマのお説教に仕立てたTBS然り、このドラマ然り、ついてないご時世で「ついてなくても頑張ろう」などとTV屋に言われなければならない筋合いはない。たしかに松子の場合は具体的なつくりも拙かったが、要するにそういう空気の読み違いが視聴率不振の大本なのであって、この種の辛気くさい物語が辛気くさい時代の空気にマッチした物語だという読みがそもそも間違っているのである。

たとえばこのドラマで言えば、どんなに好いところがあるかは識らないが、昔の女を騙して一五〇万も借金させたり、前妻との子供を圧し附けて自分だけ結婚したりするような男など、何を何う描いたところで大多数の視聴者は許せない。

それはつまり、相手にどんな憎めない善良な意図があろうとも、騙されて一五〇万も借金したり子供を圧し附けられたりするのは自分だったら絶対御免だからであるし、他人がそれを許しているのを視たら断じて許すべきではないと感じるからである。

その意味で、第一話からして視聴者はヒトシに対してもひまわりに対しても強烈な不快感を抱くのだし、ひまわりのような人間がいるからヒトシのような屑が生きていられるんだなぁと暗澹たる気持ちになる。ヒトシのような屑でも心根は優しいとか、ひまわりの不器用で真っ直ぐな生き様が誰かの心に通じるとか、そんなことは正直何うでも好いという気分になる。

一五〇万というリアルな金額を借金させてそれを巻き上げるような屑はこの世からいなくなれという気持ちに些かも変わりはないのだし、それが独り善がりな思い遣りの為だと明かされても、その目的がちょっと好いからと言って詐欺行為に救いが出るというものではない。それを許すひまわりの気持ちも、善良な資質というより男に甘いダメさとしか映らないのだし、結局この第一話は出てくる人物の誰にも共感出来ない。

ヒトシのキャスティングが原田泰造なのは、視聴者視点で「こんないい男なら騙されても仕方がない」と納得出来ない人材を意識したものだろうし、一見パッとしないダメ男に入れ上げるひまわりを客観視する距離を設ける狙いがあるのだろう。

ヒトシの造形としては、とんでもない屑男だが何処か憎めないキャラというところが狙いだろうし、そんな可愛げのあるところについついひまわりがほだされてしまうという筋道なのだろうが、視聴者視点では普通に腹立たしいだけの人物なので、そんな男に入れ上げているひまわりが作劇意図を遥かに超えて愚かに見える。完全にキャラ設計が失敗しているということだろう。

ヒトシの意図を善良なものとして描く為に、昔の同級生の旦那の手術費用が必要だったという口実を設けているわけだが、だから昔の女に確信犯の詐欺を仕掛けても好いということにはならない以上、大概の視聴者はヒトシの行為が許せない。そして、ヒトシの行為が許せないことで、人の生き死にを救いたいという善意よりも銭金の問題のほうを重視してしまう自分の感覚に嫌悪感を抱いてしまう。

筋道から言えば、そんな安い筋書きでヒトシの詐欺行為をチャラにして、憎みきれないろくでなしのように描こうとする物語のほうが料簡が間違っているわけだが、それで何となく自己嫌悪を覚えるのは視聴者のほうなのである。

これは割に合わない。何が哀しくて、TVドラマを視て当たり前の憤りを感じたからと言って自己嫌悪を覚えなくてはならないのか。しかも、何処から何う視ても間違っているのは物語の筋道のほうであって自分の倫理感覚ではないのである。

剰りにも莫迦莫迦しいから指摘するまでもないことだが、知人の窮状を金で救いたいと思うのなら、身を削って自力で工面するのが筋であって、別の知人を騙して巻き上げるべきではない。そんなことは語り手だって百も承知で、だからヒトシは人間の屑のダメ男なのである。しかし、ひまわりを騙したことと知人の手術費用を工面したことを表面上一本道で描いているから、ヒトシの詐欺を咎め立てすることが手術費用を工面したいという善意それ自体を否定するように感じられてしまう。

つまり語り手が視聴者を引っ懸けているわけであって、ひまわり自身もそこの矛盾を追求しようとするのだが「おまえだから」という殺し文句で明後日のほうに論点が逸れてしまうわけで、それがまた歯痒い想いを掻き立てる。要するに確信犯で視聴者を不愉快にしているわけである。

結果的に、ついてない人生を送る不幸な女をシニカルに嗤うという厭な構造の物語にしかなっていない。そして、ひまわりのような不遇さが徹底して他人事なら、視聴者の隠微な悪意や嗜虐心を刺激して悪趣味な娯楽物語として成立するだろうが、前述の通りそれはまったく他人事ではないのである。

ここに底辺の人生に対する見下しを視ることも可能だし、どんなについてなくても人の真心の触れ合いがあれば人生には生きるだけの価値があるなんて、本気で信じてないだろ的な不信感にも繋がるだろう。それなら、OLのお便所トークのレベルの下世話なラブコメのほうが、語り手自身の下流目線が信じられるだけ罪がない。

余裕のない社会情勢下における娯楽づくりというのは、デリケートな心遣いが必要なのだし、そういう気遣いがあるかないかでヒットの明暗が分かれるのである。今時こういう無神経なドラマを語るというのは、企画書でどんな脳天気な能書きを垂れているのか一度読んでみたいとすら思う(笑)。

まあ、そういう意味でドラマのコンセプトとしてはダメダメだと思うのだが、何とかそれなりに毎週観られているのは、流石に具体的なキャラ描写がそれほど悪くないと思うからである。

主役の大河内ひまわりも設定で視るほどには厭味のないキャラだし、天海祐希の肉体性があってこそ不幸の釣瓶打ちや毎回瀕死の重症を負うルーティンもさほど不快感なく観られると言えるだろう。演じる天海祐希本人に心身共にタフなイメージがあるので、ある意味でたしかに天海祐希想定の役柄としては間違っていないだろう。

ヒトシと前妻の子の信を演じる武井証も見た目が可愛いので、役柄的には小憎らしいマセガキなのにそれほど不愉快な印象がない。これに第三話からひまわりの「弟子」として成海璃子の五味貞子が加わってひまわりの疑似家族が構成されるわけだが、成海璃子については常々南方系の割には陰気臭い顔だと思っていたので、「瑠璃の島」のような溌剌とした健康児よりも貞子のような陰気でべたっとした役柄のほうが違和感がない。

登場編から一貫して鈍くさくて清潔感のない変な女として描かれていて、ひまわり・信友幸子の少女時代を演じる福田麻由子より明らかに気持ちが悪い。ちびまる子ちゃんの野口さん系統の陰気キャラだが、成海璃子の悪くスレていない柄のお陰で「厭味のない陰気キャラ」という変なキャラになっていて、嗜虐心のそそり方に妙な説得力がある。オレの個人史的にはイジメ側に積極的に荷担した過去はないのだが、たしかに身近にいるとムラムラといじめたくなるというリアリティがある。

第三話のエピソードを視ても貞子個人の問題性はちっとも解決されていないわけで、ひまわりの失言のお陰で援交未遂がバレたのは何うなったのかとか、両親に金を弁済したのはともかく、その後いじめっ子たちとの確執は何うなったのかとか、いろいろいい加減で有耶無耶な作劇なわけだが、学校にも行かずにひまわりをストーキングしているところを視ると別段劇的に学園生活が改善したわけでもなさそうである。

貞子がひまわり組に加わってから、不運さと鈍くささがダブルになった相乗効果でドタバタとしては賑やかになってきたし、まあ漫然と観ている分には笑える部分が出てきたと言えるだろう。「ししょぉ〜〜〜」と言って附き纏う変な女ということでは妙な懐かしさを感じることもあり、割と貞子のキャラは嫌いではない。

ただまあ、それはやっぱりキャラ転がしや場当たり的な面白みの話であって、だからこの番組の見え方が何う変わるという話でもない。

この疑似家族の描き方や妄想シーンの使い方に「役者魂」の影響が見えるという声もあるが、まあ実際そのような影響関係はあると視ていいだろう。文芸の世界においては、個別的な物語のアイディアもいつかは公共財になる。要は別個の作品として立派に成立していれば、要素レベルの影響関係を過度に論う必要はない。

まあ、そういうことを喋々する人々が言っているのは「パクリ」云々という話ではなくて、何故前季無惨に失敗した松子や役者魂の道具立てを用いて懲りもせずにドラマを語りたがるかということだろうが(笑)、おそらく同じ道具立てでも、自分たちならもっと上手くやれると思ったんだろうねぇ。

それにしては、DVや小児誘拐という洒落にならない問題を扱っておきながら、ひまわりが信を引き取るに至る筋道を有耶無耶にしているし、最前触れたように貞子の問題も有耶無耶で胡麻化していて、後半の展開で夫々との別れが描かれるとしても、疑似家族を形成するに至る過程が有耶無耶なのだから剰り効いてこないのではないかと思う。

就中、信のケースでは親が信を手放す気があるのかないのか、ネグレクトなのかDVなのかを至極曖昧に描いていることもあって、ひまわりが赤の他人の信を未成年の信自身の判断に基づいて扶養するのは違法なのではないかという疑問もあるので、後半で実は違法でしたとか親が取り返しに来ましたとかという流れになっても、今更感が強い。

それはつまり、信とひまわりの同居を決定する要件が、最初は親の意志だったはずなのに、いつの間にか信自身の意志の問題にすり替わっているからである。信がひまわりと同居するに至る話は、有耶無耶の裡に完全に筋道が破綻しているのである。

この辺、全体構成としてはふらふら迷走したものの、役者魂のほうが各話のお話の面では割合しっかり描いていた分まだマシなのではないかと思う。

前季の「たったひとつの恋」がオレ的には何うでも好い地縁的人脈内のロミジュリ物語だった為に、それよりは誇張の度合いが激しいコメディということで、一縷の希望を抱かないでもなかったのだが、コンセプトのダメさに加えてこの種の作劇の無神経さがあるので、一編のドラマとしてはダメダメの部類だろう。

今週のエピソードで言えば、冒頭から厭な予感はしたのだが、保健所で飼い主と偽って高価な犬種を騙し取るという犯罪行為がちょっと洒落にならない不愉快さで、たしかに確信犯で棄てた飼い主もいるだろうが、「飼い主と偽って」と言っている以上、迷子になった飼い犬の可能性もあるだろうし、ヒトシがかっぱらった愛犬を必死で探している飼い主もいるのではないかと厭な想像をしてしまう。

ここでわざわざヒトシのダメさを強調する為に犯罪行為に仕立てようとするから不愉快な話になるのであって、保健所では常時普通に捨て犬の里親を募集しているのだから、それを転売目的で譲り受けたということで構わなかったはずである。それを何の手当てもなく人間の屑の犯罪行為として笑い事にしている辺り、現実に犬を飼っている人間には耐えられない不愉快な話である。

こういう話を平気でギャグとして書けるというのは、やっぱり何処かしらこのドラマの語り手には視聴者の神経を無遠慮に逆撫でするような無神経さがあるのだと思う。

そんな心のネジが何本も抜けた語り手に、「ついてなくても前向きに生きよう」とか語られても真に受けられないのは当たり前の話で、何というか、分際を弁えろよと痛切に感じてしまうのである。

とりあえずオレの中では、前季の井上由美子に続いて今季の遊川和彦も、「信用出来ない書き手リスト」に名を書き入れることにする。試みにウィキでこの書き手を調べてみたところ、女王の教室に関して以下のような愉快な記述があった。


近年のオリジナル脚本の弱さを憂い、舐めてる視聴者の横っ面を引っぱたくつもりで大きな賭けに出る。鬼教師が児童を徹底的に管理するといった番組内容が大きな反響を呼び、初回から日本テレビに抗議の電話が殺到した。番組ホームページの掲示板は賛否両論、議論が沸騰。自身も初めて視聴者に放送をやめろと言われたが、プロデューサーと覚悟を決めて曲げずに信念を貫いた。

この記述が遊川和彦本人の発言に基づいて書かれたものだと仮定するなら、つまり、女王の教室の頃すでに「上から目線」の人だったわけで、「曲げずに信念を貫いた」結果があの阿久津真矢賛美の「仰げば尊し」だったのだとすれば、まあオレはあの番組を大いに誤解していたわけである(笑)。

別段オレはあの番組で語られた「正論」になど興味はなく、強大な大人に対して子供たちが団結して戦うという筋立てを丹念に語るプロセスがオーセンティックな物語のロマンとして面白かっただけなのだが、要するにそれは単なるフロックで、つまらなくなるべくしてつまらなくなったドラマだったわけである。

莫迦じゃねーの、この人?

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