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2007年2月 3日 (土曜日)

Political matter

練馬の片田舎で猫と戯る生活を送る畸人の分際でありながら、天下国家を語るなどかたはら痛い、という気兼ねがあったので、今まで剰り政治向きの話はしないように心懸けて来たのだが、一人の貧乏独身者として先般の柳沢厚労相の問題発言にはかなり呆れたので、この際一言だけ言わせてもらおう。

そもそもオレは前小泉内閣からして相当ダメ政権だと思っていたが、下には下があるのだということを更めて思い知らされた。安倍首相就任当時は、小泉時代の愚劣な施策の数々が招来する危機的事態の尻拭いを圧し附けられた安倍政権は気の毒だと思ったものだが、だからと言ってここまでぶっちゃけ政治をやられたのでは国民が迷惑である。

そもそもこの失言の何処が愚かであるかを言えば、腹で思っていても口に出すべきではないことをヌケヌケと口走る辺りのぶっちゃけ具合である。柳沢厚労相の本音の思想傾向が如何にガチガチの性差別論者であろうが、個人生活の埒内でどんな性差別を実行していようが、厚労相として差別的な施策を講じるのでなければそれはそれであの人の勝手である。彼個人の性差別的な日常生活など国政レベルでは何うでもいい話である。

だが、ああいうつまらん本音をぶっちゃけたお陰で、今後すべての厚労省の施策は女性蔑視の思想が根底にあるという前提で解釈されてしまうだろう。その施策が結果的に女性に対して不当な結果を呼んだ場合は、トップの性差別から発した恣意的不公正と解釈されるだろうし、そう言われても反論は出来ないだろう。これは、今後の同省の政策全般の重い足枷となるはずである。

まあ、オレの私見ではあれは性差別というほど大層なものですらなく、官僚的な発想で国民を「頭数」と見做す考え方の産物だろうとは思う。そのような統計的観点はたしかに国政には必要なのかもしれないが、人を頭数扱いしておいて「一人ひとりの頑張り」とかくだらない矛盾を続けるからお里が知れるのである。

「頭数」という観点において、一人ひとりの頑張りなどという精神論は関係ない。これこれの施策の結果としてこれこれのマッスがこのように動くという緻密な計算においてこそ「頭数」という冷徹な統計的観点が政治的意味を持つのである。無策の閣僚が頭数に対して頑張れなどと檄を飛ばすのが莫迦な我儘である。

また、厚労相という立場の観点から言えば、失言が何うこうという以前に彼の立場でそんなことを言えた義理ではないはずである。彼の論旨を掻い摘んで読むと、これ以上少子化傾向が進むとこれこれこういう不具合が出てくる、これを何とか出来るのは出産適齢期にある一人ひとりの女性だけなのだから、頑張って子供を産んでくれ、そういうふうに読める。

これが省庁再編以前の厚生相の発言ならわからなくもない。厚生省を代表する閣僚の意見としては、それ以上のことは言えないだろうからである。しかし、現在この省庁は厚生労働省となっていて労働政策も管掌しているわけで、はっきり言って今現在の「一人ひとりの女性」が出産を渋っているのは、女性の労働環境が思わしく改善されていないからという理由が大きい。それを管掌省庁の人間が手当てせずに、一方では国民の自己責任で子供を産めと訴えるのは片手落ちというか政治的怠慢である。

小さな政府という場合に、厚生省と労働省が一つになる実効的意義とは、福祉政策と労働政策を両輪で運営出来るメリットであるはずだし、少子化問題はそのメリットがとくに顕著に顕れる問題のはずである。

今現在、出産適齢期にある女性はかなりの割合で働いているわけで、それは必ずしも働きたいから働いているというわけではなく、女性も労働参加しないと家計が立ち行かないからでもある。すべての家庭がそうだとは言えないが、景気の低迷に伴って個人生活が逼迫し、昔ほど専業主婦が一般的ではなくなってきたわけで、夫婦共稼ぎでようやく人が二人生きていけるという家庭が増えてきている。

そして、仕事をしている女性が子供をつくるということは、数年間仕事を休まなければならないということで、今の現状において数年間休職するということは、それまで積み上げてきた職場におけるプレゼンスやキャリアを放棄するということである。それはつまり、稼ぎ手が一人減って食い扶持が一人増えるということであり、女性が数年間休職してストレートに現職復帰が許されるほど今の世の中は上手く機能してはいない。

たしかに育児休業制度を採用する企業も徐々に増えてきているが、それは一握りの大企業のみであり、しかも制度はあっても運用実績が皆無という企業のほうが多い。何故なら、立派な勤続実績がある社員でも明日馘を切られない保証など何もないのが今の世の中なのだから、働き続ける意志があるのであれば、どんな名目であれ職場を離れることなど以ての外の愚挙だからである。つまり、今の企業には従業員に対して育児休業制度を保証するだけの信用などないのである。

そんな現状の中で、たとえば出産育児の為に職歴を棒に振ったとして、国がどんな保障をしてくれるのかと言えば、何もしてくれないわけである。寧ろ従来の保障をどんどん切り捨てたり労働環境を悪化させる方向で国政が動いているのだから、この状況で「産まなきゃ困るから産んでくれ」と主張するのは筋違いも甚だしい。

産まなきゃ困るのなら、産めるような世の中にしてから「産め」と訴えるのが政治というものではないのか。柳沢厚労相の立場であれば、福祉や労働環境に関してこれこれの施策の手当てを積極的に講ずるから心配することはない、国家を信用して一人でも多く子供を産んでくれと発言するのが閣僚としての筋だろう。

国家というものは基本的に国民に真っ当な暮らしを約束するからこそ一定の義務の履行を求め得るのであって、何う考えても大多数の国民の人生設計が破綻している世の中において、国家が国民に何を強制出来た義理があるというのか。

何にも保障はしないし寧ろ退行するけれど、産まないと国家が困ったことになるから産めというのは単なる恫喝であり、失政のツケを国民に廻しているだけの話である。その困ったことを何とかしてから、その為にこれこれのことをせよと求めるのが政府の役割ではないのか。政治はこれだけの努力をして、これだけの成果が上がっている、だから国民もこれこれの対価を払ってくれ、それが国政というものではないのか。

ぶっちゃけ今わが国はこんなに困ってますので、国民の皆さんにはこれこれをしてもらわないと困ります、そんなのは責任ある政治でも何でもない。前政権から如実になってきているのは、そういう身勝手なぶっちゃけ政治や乞食政治の横行である。昨日今日俄に突発的な何かが起こって問題が急浮上したというわけではない。多くの問題はすでにかなり以前から予想されていた構造的問題であり、それまで国政がユルいことをしていたからそのツケが廻ってきたというだけの話ではないか。

柳沢厚労相の訴えに応じて子供を産めば、間違いなく個人生活は現在より逼迫するわけで、その困窮を国政が何うにかしてくれるということなどはないことだけははっきりしている。下手をすれば一家心中という最悪の事態に立ち行かないとも限らない。

大人二人が働いてギリギリ生きていけるような世の中なのに、わざわざ子供を産んで一家全員生き死にの狭間に迷っても、それを促した人は何もしていないのに「頑張ってくれ」と繰り返すだけなのである。そんな先行きが読めているのに、誰がそんな訴えに耳を籍すものか。

たしかに今積極的に子供を産んでおかないと将来の国力が減衰し、さまざまな困難が生じてくることや、それが年老いたわが身に跳ね返ってくることなどわかりきっている。だが、その名分の為に個人生活を犠牲にして一家心中のリスクを犯せなど、国が国民に言うべきことではない。幾ら何でも一国の政府たるもの、それではぶっちゃけすぎの手前勝手というものではないのか。

前首相が「痛みを伴う改革」という便利な殺し文句を発明して以来、一方的に国民に負担を強いるこの種の収奪政治が堂々と罷り通っているのである。そろそろ国民は、あの愉快なオジサンが改革維新の英傑を気取って自分だけ気持ちよく檜舞台でロカビリーを歌っていたに過ぎないことを検証すべき時期に来ているのではないのか。

前首相に比べて現首相の器不足を論うというのは片手落ちで、前政権が無意味な暴挙を繰り返したツケを、現政権が厚顔無恥なぶっちゃけ論で取り立てているというだけの構図なのである。要するに現首相だって前首相とやってることは大差ないが、歌や踊りが下手だから出鱈目政治のボロが出たというだけのことなのだ。

無論労働政策には経済政策が密接にリンクしているわけであり、経済政策にはほぼすべての政策がリンクしているのだから、厚労省単体で出来る手当てには限界があることもわかるが、現状では厚労省単体で出来ることすら満足に徹底されていない。最低限、勤労女性の出産育児に伴う休業に対してはすべての企業に対して現職復帰を法律で厳しく義務附ける、そのレベルのことでもやらない限り、女性が積極的に子供をつくろうなどという機運が生じるわけがない。

さらには、如何なる形であれ産まれた子供に対しては平等な法的経済的保護を保証するのも当然の話であるが、現状はまるで逆である。国が正式な婚姻関係ばかりを重視して私生児や母子家庭を差別するのであれば、どんどんハードルは高くなる。

また、代理母制度の確立や不妊治療援助の拡充など、産みたくても産めない女性に対して原理的に出来ることはまだまだあるはずである。しかし、母子家庭や私生児の差別と同様に、それは国としてやりたくないというのが本音なのではないのか。雑婚忌避や母性に対する幻想というようなワケのわからない保守的且つ男性的な道義感の圧し附けに拘る剰り、やれることすらも満足にやっていない。

所詮、「正式な婚姻関係」などというのは自分の子が紛れもなく自分の胤によるものであることを保証する為に男性が女性の性をコントロールする目的で出来たものである。自分の胤以外によって産まれた子供など何うでも好いのだし、そんな子供に自身の貴重な労働の対価を注ぎ込むのはイヤだから女性の性をコントロールするのである。

だが、柳沢厚労相が言うように、子供を産むという人間の営為が「一人ひとりの女性の頑張り」に懸かってくるというのなら、そこには男性の努力など一切関係してこないのだから、本来男は自分の遺伝的な正嫡以外にはコストを払いたくないという考え方を棄てるべきではないのか。そこまでぶっちゃけて窮状を訴えるのなら、何うしたってそのレベルの話にならざるを得ない。

この発言が国民の半数に対する侮辱であり失言であると同時に莫迦莫迦しい謬見であるのは、出産適齢期の女性の子供を産みたくないという意志が少子化の原因であるという前提の話になっているからである。

普通女性たるもの、産めるものなら一度くらいは子供を産んでみようかと考えないはずはない。産みたいか産みたくないかという問題は別として、子を産む自分という可能性に思いを馳せない女性など少ないだろう。国民を頭数と見做す統計的観点から視れば、産めるなら産みたいという女性のほうが多数派のはずである。

意志的に産まないという選択を選んだ者や、最初から産みたくないと考えている者がいるとしても、そんなのは統計的要因として本質的なものではなく、まず主要な原因は現代人全般の晩婚化であり、既婚者の場合でも産み育てられるような経済環境にないことが問題なのである。そんな情勢にありながら、是非とも子供が欲しいと望むなら、過酷な労働環境の中で過労死寸前まで追い詰められる。

だとすれば、当たり前の筋道として、婚姻を促進するような政策を打つか、法的観点において婚姻と出産を切り離して考えるか、子供を生み育てても親子共々に安定的に持続し得る生活モデルの確立を目指す以外に少子化を解決し得る術はない。

そのすべてがイヤだ無理だというのなら、政治は無策ですべてのツケを国民に負わせているというだけの話にしかならない。結局少子化問題の本質とは、あらゆる意味合いにおいて「産みたくても産めない」ということに尽きるのである。

これが動物であったとしても、厳しい環境が待ち構えている時期に子を産む莫迦な生き物などはいない。少なくとも子供が無事に育つまでは安定した環境が得られることを見越して子供をつくるのがどんな生き物であれ当たり前の摂理である。

自分たち自身が苦しい生活を強いられ、しかもそれが将来的に改善する見込みもない時代に、誰が好き好んで苦労ばかりの人生を子供に与えたいと望むものか。しかも、現代人は時代が進むに随ってどんどん一人前に成長するためのコストが高騰しているのだから、そんな金が何処にあるというのが国民サイドのぶっちゃけた本音である。

その上さらに、現代医療の発達によって自分たちがいつまで生き続けるのかわからないという奇妙な不安を抱えているのが現代人なのである。人生五〇年の昔なら、子供を生み育てて成人したら大概親の世代は滅びるものであり、七〇年も生きれば長生きしたねで喜ばれたのだから、そんなに老後の蓄えが必要ではなかっただろう。だが、今の時代には何もなければ人間は八〇くらいまで生きるし、少なくともそのくらい生きるという見積もりにおいて人生設計を考えねば、老残の悲劇が待っている。下手をして一〇〇まで生きてしまったら、そんな人生が幸福なはずがない。

老人がつましく暮らしても年に数百万の生活費が懸かるのに、それがいつまで続くのか誰にもわからないのである。それでも定年は否応なく来るのだし、セカンドライフの雇用が確保されている保証もない。第一、高齢期に安定的に労働参加出来る肉体的保証など誰にもないのである。

子供をつくって若い世代に老後を保護してもらうどころの話ではないのである。いつまで続くのかわからない「余生」の為に一円でも多くの現金を確保しておかなければならないという現状にあって、個人消費が振興するはずはないし、高負担の育児などしている余裕などはない。今時の親が子供に老後の扶養を要求出来るような風潮にはないのだし、それは自分たちの老後に何うなっているかなど誰にもわからない。

精々頑張っても一人育てるのが限界という現代の情勢において、それではすでに年金制度が破綻すると恫喝しているのだから、そんな焼け石に水の泥舟に乗るよりも、まずわが身の老後の心配から蓄財に励むのが当たり前の人情だろう。

間違いないのは、現状からのエクストラポレートで考えるなら、七〇になっても八〇になっても、身体が動く限りは自力で労働し続けて自身の生活費を稼ぎ出さねばならないし、身体を毀したら何の保証もないという暗澹たる将来像である。

多くの国民がそんなドブ板を踏むような生活を送っているのに、お気楽に頑張れとか言える厚労相の、引いてはそんな閣僚の発言をただの「失言」としか視ていない政権の政策が、今後自分たちの将来の為に役に立つなどと信じられるほどお人好しな人間などそうそういないだろう。

まずないだろうとは思うが、もしも柳沢厚労相個人が辞任したとして、それが慣習的に辞任に値するほどのミスであるかという問題もあるし、後任者がそれよりマシな人物である保証などもない。

しかし、それでも柳沢厚労相の責任が問われるべきなのは、そんな暢気で無責任な料簡で少子化問題が何とか出来ると考える国政の甘えに対して、実効ある何かを言うべきだからである。柳沢発言の根底にあるような「失政のツケを国民に払わせる」という下品なぶっちゃけ政治をやってるようでは政治家たるべき資格はないということをハッキリさせる為である。

今わが国がどんな厳しい状況に置かれているのだか識らないが、一国の政府の存在意義というのは、国民の大多数が安心して子を産み育てられ安心して老後を過ごせる社会を維持することではないのか。その為に積極的に施策を講じることではないのか。

そんな智慧を何一つ生み出さず、税源がなくなるのは困るから先行き何の保証もない世の中で子供を産んでくれとか言われても、国民は政治家を養い政府を維持するために生きているのではないのである。

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