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2007年2月 8日 (木曜日)

The steel

前回の約束通り、今季TBSの切り札「華麗なる一族」の話題を少々。

ここのところ全般に不振傾向のTBSドラマだが、同局現代ドラマ最古の枠である日曜劇場で周年記念作として華々しくスタートした「華麗なる一族」は、主演俳優に同枠最高視聴率を叩き出した「ビューティフルライフ」の木村拓也を担ぎ出し、錚々たる重鎮俳優陣と各世代の代表的女優陣を絢爛に配したオーバースペックなまでの大作ドラマであり、本作に賭ける同局の並々ならぬ意気込みが伝わってくる。

……とまあ、提灯記事風に書き出してはみたものの、いざ蓋を開けてみれば「猪・肖像画・メカ鯉」の三連発ネタとキムタク茶髪バッシングで、爆笑ネタ番組の名を恣にしているというお粗末な現状である。何度繰り返したフレーズかわからないが、今のTBSが力瘤を入れてろくなドラマが出来た験しがない。

第一話に関しては、他にも「劇伴とNRが煩瑣すぎ」という声もあり、実際その通りなのだから何の反論も出来ないだろう。とくに劇伴に関しては、ただ附け方が煩瑣いばかりではなく、楽曲の尺とカット長を揃えた節もなく、芝居のリズムとも無関係に同じ楽曲をのべったりエンドレスで流している辺り、自主制作映画でももうちょっとマシだろうと思わせるセンスである。

とくに万俵家新年会のくだりなど、万俵一族が入室してくるというだけの段取りで無闇にドラマチックなコーラス入りの劇伴が鳴るわけだが、あそこは普通の映像作品の生理で言えば、劇中のホテルの場内音楽で通すべき場面だろう。

ベタに言えば「春の海」かそれでなければ「四季」や「皇帝円舞曲」辺りが流れるのが相応で、何かドラマチックなことが起こっているというより、複雑な家族間の関係性を提示するじっくりとした会話を交わしているのだし、演出も荘重さ狙いの絵面になっていないのに、劇伴がそれとは無関係に大仰に盛り上げているのが何とも異様に感じる。

あそこで個別のドラマの情感の盛り上がりを後押しする劇伴を流すというのは、単に物語の主役一家が勢揃いしましたよ、という絵面の勿体附けに過ぎず、何らドラマ的な根拠もないけどここで盛り上がってください、という一方的なキュー出しになっている。

冒頭の丹波篠山の場面も、TBSドラマが大好きなプロローグがエピローグと直結する思わせぶりなスタイルの構成であるわけだが、原作の先行きを識らなければ、単にお金持ちのお坊ちゃんが鉄砲持って山に入っているだけの絵面なのだから、そこで一大クライマックスのような劇伴を流されても、やっぱりただの一方的な合図にしかならない。

普通劇伴というのは、芝居が醸し出す情感を効果的に盛り上げる為に附けるもので、芝居が存在しないのに劇伴だけで盛り上げようとするのは、ハナから劇伴観が間違っているだろう。

しかも、この冒頭から「大晦日の殺生は云々」という説明的なナレーションが入っているのだが、正味な話、そんな説明がなければわからないという場面でもないし、そこで煩瑣く説明するメリットと場面の情感が損なわれるデメリットを計算すれば、何う考えても邪魔でしかない。試みに、この場面がNRも劇伴もなく生音だけで描かれていたら何うかと想像すると、それで何の不都合もないではないか。

このNRは、キムタクの万俵鉄平がこの日に鉄砲を携えて入山したのは、慰みに他の生き物を殺める為ではなく———ということを暗に仄めかすものだろうが、ドラマの呼吸としてそんなことはわざわざNRで説明するものではない。普通は劇中人物のセリフなどで開示すべき事柄であって、それを入れる余裕がないのであれば潔く省くべきであって、お手軽にNRで説明するという選択肢はあり得ないだろう。

これも巷間言われていることではあるが、「大晦日の殺生が禁じられている」という言葉による説明で鉄平の意図を仄めかすのは、小説文芸の手法であって映像作品の手法ではない。映像作品のNRと小説文芸の地の文を混同しているから、こういう初歩的な失敗をやらかすのである。

以前松子のエントリーで語ったことだが、小説文芸の地の文は、それそのものが物語性の叙述装置となっているのだが、映像作品の場合はNRではなく映像とセリフが物語性を語る主要な叙述装置なのだから、小説の地の文と同じ感覚でNRを入れると明らかに諄いのである。つまり、映像情報をまったく得られない視覚障害者に向けた副音声の音声ガイドと何ら変わりなくなってしまう。

二時間サスペンスなどでは副音声でこのような視覚障害者向けの音声ガイドを入れている番組があるので、以前試しに副音声をONにして観てみたのだが、今現に目の前に映し出されている映像をリアルタイムの音声で説明しているのは、やはり異様な違和感があるものである。

つまり、視覚に障害のない一般視聴者は音声ガイドを入れないし、視覚障害者は映像情報が得られないのだから、音声ガイドを入れた状態で映像作品を視るという悪趣味な視聴者など最初から想定されていないのであり、異様に感じるのはそんな状態の映像作品を視る視聴者など原理的には存在しないからである。

この番組の第一話の語りの生理が何とも言えず気持ち悪いのは、絵面やセリフやさらに字幕まで使って充分に描かれていることを、わざわざNRによって更めて説明しているからで、この第一話のNRはほぼ丸ごと不必要である。普通は映像で語り得る以上の情報はオミットして語られるはずのTVドラマで、すでに映像で語っている事柄まで言葉で説明するのが剰りにも過剰で異様なのである。

鉄平の会社は阪神特殊製鋼と言って、その名の通り鉄を作る会社である」って、視聴者を何処まで莫迦だと思っているのですか? その直前に「阪神特殊製鋼専務 万俵鉄平」とでっかい字幕が出ているのですが(笑)。

この辺は完全に脚本の力不足で、たしかにこのドラマは、現在の視聴者には理解が難しい半世紀前の経済情勢や企業の業態などが筋立てに密接に関係してくるから、それを説明する目的でNRを使うのは経済的な話法である。

しかし、第一話においては、そのような概説的な説明以外にも、普通なら劇中の芝居で説明すべき事柄であり事実芝居で語られていることまですべてNRに説明させていて、これが甚だ締まりなく感じられる。

一般論としての経済情勢や技術解説以外のこのドラマ個別の物語性の要素、たとえば万俵家個別の家庭事情や人間関係などは、普通ならば芝居やセリフの流れによって描写すべき事柄であって、NRによって「説明」すべき事柄ではない。

また、たとえば鉄鋼を精製する場合に原料として銑鉄が必要不可欠であるということまでは親切な「説明」の範疇の事柄だが、それを阪神特殊製鋼潰しの為に帝国製鉄が出し惜しみをしているということなどは、ドラマ個別の筋立ての要素なのだから「描写」の範疇の事柄である。

芝居の「描写」で開示するには一般論に過ぎる事柄なら、一言「説明」するだけで構わないだろうが、ドラマ個別の筋立ての部分まで「説明」するのであれば、ドラマの全編を「説明」するだけでも構わないということになってしまい、その両者の使い分けの基準は語り手の好き嫌いという感覚的なものだけになってしまう。そして、「説明」された物語の中でドラマ的に盛り上がる部分だけ丁寧に「描写」したものは、普通は「ダイジェスト」と呼ぶべきものである。

第一話の語りが不潔に混濁しているのは、要するにそのような「描写」と「説明」の間の弁別が出来ていないと感じられるからで、視聴者の理解を助ける為の「説明」とすでに映像が「描写」していることの要約としての「説明」をごちゃまぜにNRに語らせているからである。

読者の理解を助ける為の「説明」とリアリティ付与の為の「描写」が渾然一体となっていて機械的に弁別出来ない小説文芸の場合ならともかく、映像作品においてはそれほど詳細な「説明」は必要ないものであり、最低限芝居が成立する為に必要な情報だけを整理して提示すべき筋合いのものである。

多分この脚本を書いた橋本裕志は、黒澤の「悪い奴ほどよく眠る」は観ていないのではないかと思うが(笑)、苟もホン書きたる者としてはこのような古典をきちんと観て複雑な背景状況の開示を最低限度簡潔に芝居に織り込む手際を是非とも見習ってほしいものである。勿論、すでに観ているのであれば、「あれを識っててこれなのかよ」と突っ込む気満々なわけだが。

そもそもこの小説が書かれた当時のマクロ経済の状況など「歴史」の範疇に属する事柄であって、豆知識レベルの教養でしかない。何うも語り手の側は当時の銀行再編の流れを現在の金融ビッグバンと重ね合わせて描くことで、これは決して「昔のお話」ではないんだよ、というニュアンスを醸し出したいと狙っているようだが、それを全一〇話のテレビドラマで描くのは、少し難しいだろう。

大体、この原作からして脂ぎっしゅな山崎豊子の覗き見根性の産物なのであって、原作刊行当時にホットな時事問題であった銀行再編政策と、山陽特殊製鋼事件という経済犯罪、セレブ一家の家庭悲劇の取り合わせという脂っこい三題噺なのであり、後の世の教訓の為に書かれた警世の書ではない。

その三題噺の中で中心に置かれているのは、「金持ち一家なんてこんなに乱れてるんですよ」的な下司な想像力によって生み出された家庭悲劇の要素なのだし、家庭内不倫や妻妾同居や3Pというセンセーショナリズムであり、当時ホットな話題だった政治経済的な背景状況などその道具立てでしかない。そんな小難しい情報を充分に理解しなければ物語が楽しめないのであれば、原作があれほどヒットすることはなかっただろう。

その意味で、第一話がダメダメだと思うのは、いきなり開巻劈頭に退屈なモノクロの資料を添えてだらだらNRで大状況を説明させている辺りで、誰が考えてもアバンに来るのは今回のドラマ版の主役である鉄平の入山のくだりのはずではないのか。本当の意味でのド頭に持ってくるのでなければ、プロローグをエピローグに直結させた構造面の対称は十全ではない。

家庭悲劇の添え物や道具立てに過ぎない大状況の解説など、タイトル明けで充分に間に合うのだし、そこで説明すべきことを全部説明してしまえば、格別理解しておかないと物語が理解出来ないような要素などそれほどない。

キムタク人気と初回ご祝儀の興味が持続するタイトル明け数分以内に、物語前史的に第一話時点の状況をすべてを説明しきってしまうくらいでちょうどよかっただろう。大介が置かれた銀行再編のマクロ状況と、鉄平サイドの鉄鋼業界の動向をダイジェスト的に語りきってしまい、そこからドラマの開始点である新年会の場面に繋げて、後はNRによるくだくだしい説明をいっさい入れずに、芝居で説明し得る事柄以外は説明しないくらいの割り切りが欲しかったところである。

その限りにおいては、その前史的描写においてのみあの仰々しい劇伴がだらだら流れていても誰も不快には思わなかっただろうし、その時点でもう、「これは金融ビッグバンの状況を生きるわれわれの時代の礎を築いた先人たちの苦闘の物語である」と言い切ってしまえばよかったのである。所詮、理屈で考えた映像作品の「テーマ」などその程度の扱いで好いのである。

それを「愛と、憎しみと、悲しみに満ちた壮絶な物語である」などと、随分戯けたことを言っているのがアタマ悪いなぁという感じで、愛と憎しみと悲しみに満ちているか何うかなどはドラマを観ればわかることだし、「壮絶な」物語であるか何うかなどという主観的な問題は夫々の視聴者が観て決めることで、ドラマのほうで予告するような事柄ではない。

そもそもそのような種類の事柄は、実際にドラマを観て感じるべき事柄であって、それを予め語り手が断言する辺りが幼児的に諄い。何うもこの辺りの、番組開始に先駆けて物語の性格を言い切ってしまう呼吸は嘗ての大映ドラマに倣ったものだろうが、大映ドラマのNRはそもそも映像作品としては畸型的に諄い。

役者に芝居をさせて、それに被せてそれがどんな感情を顕わした芝居で内心どんなことを考えていてその結果どんなことをするつもりであるかまでをNRが懇切丁寧に説明する。さらにその序でに、劇中描写一切抜きでその結果何が起こったかまでNRが語ったりするので油断がならない。もうそこまで行くと、それが映像作品であるべき意味まで消失する。NRが言葉で語ったことを絵で見せる為にドラマが存在するのであり、まさしく電気紙芝居である。

たとえば「スクールウォーズ」で梅宮辰夫が演じるラーメン屋新楽のオヤジがヤクザに刺されて死ぬくだりを「感動した」とか語っている人を見ると、オレは物凄く生温い気持ちになるのだが、普通ならガチンコの芝居で描くはずのそのくだりを、大映ドラマは全部語りで済ませてしまうのである。

苟も、嘗て「ドラマの」と冠されたTV局の周年記念作品を、そんな電気紙芝居の呼吸で描いて何うするつもりなのか。まあ、同局は嘗て大映ドラマを量産した過去もあるし現在制作しているドラマも大映ドラマ並の古臭い作品が多いのだから、それが相応しいという言い方も出来るけどな。

まあ、現実的な成り行きを邪推するなら、原作に盛られた膨大な付加情報をどのように提示するかを課題とした事前の討議で解説役としてNRの採用を決定し、倍賞千恵子という大物女優の起用が決定されたということがあり、必要があろうがなかろうがなるべく使わないわけにはいかないというところが実態なのではないかと思うが、清潔な映像作品を志向するなら、本来NRはなるべく使わないほうが好いに決まっているだろう。

全体的にはそんなところだが、やっぱりこの第一話が伝説のネタと化したのは、具体的な細部のつくりに雑な部分が多かったからだろうと思う。

キムタクの茶髪に関しては、オレ個人はそれほど気にならなかったが、このドラマのテイストでこのナリでは、いろいろと言われても仕方ないだろうとも思う。オレが気にしなかったのは、このドラマのような鉄平主役のアレンジで七〇年代にTVドラマ化されていたら、おそらく鉄平を演じるのは差し詰め田村正和辺りだろうし、その場合、おそらくあの独特の長髪のまんまで演じただろうからである。

近年は昭和を舞台にしたドラマもきちんと「時代劇」としてつくる意識が浸透しているから、考証もリアルに徹底するのが常ではあるのだが、所詮TVドラマはスターが恰好好くないと始まらないのだし、キムタクを使う以上はいつものキムタクのまんまで出て来るのは既定事項である。

その意味で、第一話を視た限りではあのヘアスタイルでも「ああやっぱりね」としか思わなかったので、寧ろいつもより芝居を控えめにして頑張ってるじゃない、くらいの感想だった。要するに鉄平は生まれつきああいう髪質で、小さい頃は学校に縮毛届とか出していたんだろうと脳内補完して視ることに一瞬で決まった(笑)。

まあ、北大路欣也がでんと控えている現場なのだから、誰かがちゃんと言えばキムタクも髪を染めるくらいなら何とも思わなかったと思うのだが、きっと誰も何も言わなかったんだろうと思う。

継続的にスマスマなどを視ていると、キムタクレベルのポジションになると自分の気紛れでいきなり髪型を変えたりするのも自由であるように見えるので、役作りの為に髪を黒く染めるくらいは気にしないのではないかと思う。別に「友情」の三船美佳のようにマジ剃り坊主にしろと言っているわけでもないのだし、髪色が黒くても成立するヘアスタイルは幾らでもある。実際、マジシャンのセロに扮したコントでは黒髪のヅラを被って演じているのだから、あれとこれと何処が違うという話である。

寧ろ制作サイドのほうに、オールバックや七三分け+銀縁眼鏡のオッサン揃いのむさい絵面の中で、主人公のキムタクを積極的に現代的でオシャレに描こうとする意図が視られたように思われ、髪型が何うこうというより、今時の若い遊び人のようないつの何処なんだかわからないファッションセンスのほうがよっぽど気になった。初っぱなの登場場面からして、宝田明のような派手なシャツにスカーフというのが、取引先に出向く企業重役のセンスではあり得ない。

戦後の影を引きずった時代性で言えば、如何に洋行帰りのハイカラなテクノクラートであっても、アイビールックとかピンストライプのシャツくらいが精々リアルに小洒落たところで、番組開始当初の鉄平のファッションセンスは、どの辺のリアリティを狙ったものなのだかサッパリわからない。

要するに、劇中の人物設定からの造形というよりも「オースティン・パワーズ」辺りと共通する虚構的な六〇年代センスのオサレな感じを狙ったものではないかと思う。この突飛な衣裳センスから考えると、キムタクの現代的な髪型も人物造形の観点であのような線を意図的に狙っていたのではないかとも思える。

しかし、たとえば映画「武士の一分」で東北弁の盲目の武士を演じたように、実際キムタクサイドにもこの辺で一皮剥けたいという意欲はあるだろうし、いつまでも「キムタク芝居」と言われるのは避けたいという意志はあるのではないかと思う。

それにも関わらず、何うもこの番組の演出サイドには、キムタクにはキムタク芝居しか出来ないと踏んでいるようなところがあるし、それ以上のものを求めていないような感触があり、無意識にいつものチンピラ芝居が出てもそれを直そうとすらしていないのではないかと思う。ある種、キムタクの現代的な芝居の癖を直すなら、明らかに格上の名優が大挙出演していて芸を盗む気満々のこの番組においてしかないと思うのだが、制作サイドのほうでは別段そんなことを望んでいるようにも見えない。

オッサン俳優の重厚な芝居の中でキムタクのチンピラ芝居が目立っても、かえって若い主人公らしくて好ましいくらいの認識のように感じられてならない。

ちょ待てよぉ!

なんて今時ホリくらいしか言わないようなベタなキムタクゼリフ、狙ったのでなければわざわざこんな重厚なドラマでは書かないだろうし、脚本のセリフとは違う言い回しを現場の判断で言わせたのであっても決して驚かない。

だからオレ的には、このドラマでキムタクが浮いている点があるとすれば、それは制作サイドのほうがキムタクをキムタクイメージで視ているからではないかと思うのだが、先日いつものように「王様のブランチ」を観ていたら、番宣に出ているキムタクの髪がいきなり真っ黒に染められ七三オールバックになっていて、グレイフラノのスリーピースにピンストライプシャツというオッサン臭い出で立ちになっていたのには笑った。

要するに、このほうが受けると思っていたら世間の笑い物になってしまったので、慌てて髪を染めさせたわけで、今更染めさせるくらいなら茶髪で通せよと何とも生暖かい気分になった。まあ、カットが変わったらいきなり黒髪の七三オールバックになっているわけはないだろうから、ある程度切りの好いところで鉄平のファッションセンスが落ち着いたものになるのだろう。

まあ、視聴率の期待を背負った主演スターだから何うしてもキムタクがとやかくや言われるのは仕方ない部分はあるが、このドラマで変なのはキムタクの造形だけに限ったことではないのだし、寧ろ全体的に細部のビジュアルが粗雑な性格の一環としてキムタクの造形があると言えるのではないかと思うが、何ともお粗末な認識である。

たとえば劇中で「メガバンク」などという単語をサラッと言わせている辺り、この番組のスタッフは細かいところに妙に無頓着で、他局が昭和の物語を「時代劇」として丁寧に撮っている流れの中で、飽くまで「なんちゃって」精神を貫いている。

その辺の無神経さというのは、たとえば神戸三宮という触れ込みで上海ロケしている部分にも顕れていて、関西出身で中華芸能方面に詳しい知人に聞いたところ、あの路面電車が走っている無国籍な街並みは、上海の実際の街頭風景ですらなく、「映画のパーマネントセット」なのだそうな(笑)。つまり、あれは上海の租界をイメージしたセットなのであって、昭和四〇年代の日本の見立てなのに、画面に映っているのは戦後の地方都市どころか戦前の魔都上海特別区の風景なのである。

まあその中華芸能ファンによると、あのシーンのエキストラもよく視ると中国人だとすぐにわかるそうなのだが、そこまで中国通な視聴者は、百分率で言えば無視出来るほどの割合だろうから敢えて問題視するには当たるまい(笑)。現代の日本人と現代の中国人の顔立ちが違うくらいに現代の日本人と昭和四十年代の日本人も顔が違うだろうから、まあ「見立て」としては充分にアリだろう。

ただ、やっぱりあれを昭和中葉の神戸だと思えというのはちょっと無理があって、阪神銀行の空撮などもとても日本の風景とは思えない。前出の中華芸能通の知人に言わせれば、昭和の日本の都市風景を求めるなら台湾辺りが穴場だそうだが、海外ロケなんてのは大概大人の都合で決まるもので儘ならないものと相場が決まっているのだから、これだけならまあ目を瞑っても好いのかもしれない。

しかし、ネットでネタになっている「猪・肖像画・メカ鯉」の三点セットに関しては到底黙過出来ないビジュアルセンスで、猪だけなら単に撮り方が悪くて着ぐるみや剥製にしか見えないというだけだから、一瞬の目の錯覚で済ませても好いのだが(笑)、肖像画にキムタクをまんま描いちゃうセンスとか、鯉に芝居させようとか考えちゃう無謀さ加減については、やる前に気附けよとツッコミを入れたくなる。

そもそも、肖像画をネタにするなら寧ろパッと見が似ていないほうがリアルだというのは誰でも考えることで、「何となくお爺さん」な肖像画をセリフで「似ている」と強弁すれば、視聴者には段々似ているように見えてくるものである。第一話のように鉄平に肖像画と同じポーズをとらせるというわかりやすい演出を用いるのであれば、益々肖像画それ自体がキムタクに似ている必要はない。

原作のネタ的には祖父と鉄平は実の親子の可能性があるわけだし、第一話から早々にネタバラシをしているわけだが、親子があんまり同じ顔をしているとギャグにしかならないという感覚は、たとえば街でそっくり親子を目撃して鼻から牛乳噴いた経験があればわかるはずである。

親子が似ているのは当たり前ではあるのだが、大人と子供とか老人と若者、中年男と美少女というふうに概念上の落差を持つ人間同士の顔が剰りにも似ていると、痙攣的におかしみが生じてしまう、それが自然な反応である。この番組のスタッフは、彼女の実家に挨拶に行ったら、頭の禿げ上がった脂ぎった中年男の父親が娘とまったく同じ顔をしていたのでかなり萎えたとか、そんな経験はないのだろうか(笑)。

大分昔の話だが、通りすがりの軽自動車の運転席と助手席に座っていたとくに何うということもない極々普通の小柄な二人のお爺さんが、何うやら双子らしくて顔がまったく同じだったのを目撃して爆笑した経験があるのだが(笑)、そもそも二人の人間が同じ顔をしているというのは不気味なことなのだし、その半面痙攣的に滑稽なことでもあるのである。

このドラマのムードからすれば、鉄平が日に日に祖父に似てくるというのは、「息子と出入りのクリーニング屋の顔がそっくりなんですけど」という下品なバレ噺よりはもっと重厚なタッチで描かれねばならない家庭悲劇の要素のはずである。つまり、爺さんの肖像画がキムタクまんまというのは、要するに下品なバレ噺のレベルのリアリティなのであって、一見ちっとも似てないんだけど、共に起居している人が視れば隠しようもなく明らかであるという程度がこの物語に相応のセンスである。

メカ鯉の件についても、別にキムタクと将軍のツーショットが不可欠なわけではないのだし、手を叩けば寄ってきて顔を出すというだけの段取りなのだから、本物の大きな鯉の自然な寄りの絵面があれば好いわけで、なんでわざわざ作り物を操演しないと成立しないような絵面を撮ろうと考えたのか謎である。ここで編集上の都合で絵を切り返したからといって、それに不満を抱く視聴者などいないだろう。

全国ドラマで自分の鯉を自慢したいという飼育家や養殖業者なら幾らでもいるはずなので、話を通して何カットかライブ映像を撮らせてもらって、編集で人間の芝居と組み合わせればそれで済んだ話だろう。

このレベルのシリアスなドラマのトーンでは、生き物絡みのシーンでは本物を使うしかないというのは理解していて然るべきで、わざわざメカ鯉の背ビレが水を切って驀進する絵面のアップを撮りたがる感覚はまったく理解出来ない。

オレが将軍の描写で厭なのは作り物が嘘臭いからではなく、生き物絡みの映像においては、それが作り物だとバレた瞬間、一瞬にして醒めるという感覚がつくり手の側にないからである。このドラマにおいては、視聴者は「よく出来た作り物の魚」が観たくて観ているわけではない。

そこが「よく出来た作り物」という前提で造形物を愛でる為に観る怪獣映画と違うところで、この物語のシリアスなムードからすれば、この場面の描写で「祖父の意志を宿した神秘的な池の主」であるべき巨魚を作り物で代替するわけにはいかないというのは、マトモな映像人なら察して然るべき事柄ではないのか。如何によく出来た作り物でも、多寡が一メートル前後の機械仕掛けの模型にそこまでの風格が伴うわけがないだろう。

剰え、それは龍だの麒麟だのという架空の生き物ではなく、実在のありふれた飼育用の淡水魚なのだから、誰だって本物を使うと予想する。本物を使うという以上の効果的な選択肢はないのだし、それが一番自然な選択肢なのだから、何故わざわざ作り物で表現しようとしたのか理解に苦しむ。

如何に精巧な仕掛けであろうとも、あのチャチな作り物を「祖父の意志を宿した神秘的な池の主」に見立てるセンスは、殆ど幼児がお風呂で水中モーター附きのおさかなちゃんを本物に見立てる「ごっこ遊び」のセンスである。

偶々音声をオフにしてこの絵面を視ていたのだが、オレの心の耳には気の抜けた玩具のラッパの音で

てってけて〜〜〜てけてって〜〜〜ぱぷ〜〜〜

という勇ましい伴奏が間違いなく聞こえた。

まあ、アッと驚くどんでん返しとしては、巷間メカ鯉だと考えられている将軍が実は本物の鯉だったりすると心臓が停まるほどビックリするのだが、そうすると今度は冒頭の着ぐるみ猪同様、本物を作り物のように撮れてしまう驚異の撮影技術が問題になる。今ちょっと調べてみたら、三菱重工の一〇〇%子会社が開発した「エンターテイメント魚ロボット」三号機だそうで(笑)、それならある意味一安心である。

しかし、第一話の時点では他にも細部の描写で疑問に感じる点が目白押しだったわけであるが、今週放映された第四話くらいになると、一応人間ドラマのほうも軌道に乗り始めて、それなりに真顔で見られるようにはなってきた。

何ういう脚本術なのかは識らないが、表向きの主役である鉄平サイドの物語に関しては第一話から一貫して諄いくらい明示的に語っているのだが、大介サイドの物語に関しては心理の動きをまったくセリフで語らせず、北大路欣也の芝居や間の取り方で上品に表現している。

真逆こんなバレバレの内面ドラマを縦糸の「謎」として引っ張るつもりはないだろうから、鉄平と大介の物語の語り口を分けて描いているということなのだろうが、第一話における「私は、いつも、おまえのことを一番に考えている」というセリフのダブルミーニングや、大川を切り捨てるに至る筋道の描き方が、第一話のようなヘボヘボの脚本を書く人間とは思えないほどムードが好い。

ここで「上品」という言い方をすると「時代劇みたいな大芝居じゃん」と思う方もおられるだろうが、本作のような大時代なドラマのムードにおいては、芝居が様式的で美しくわかりやすい分、説明的なセリフを少なくして身ごなしで語らせるという話法が上品に感じられるのである。

本文中でも何度か繰り返したことではあるが、昭和も遠くなりにけりで、このドラマは立派な時代劇なのであり、欣也のような時代劇スターが重厚な悲劇の中心的役割を大芝居で演じることは決して間違っていない。

大川の病の重篤を報告する大亀専務の電話を切った後の鈴の音が大介の耳に長く響く描写など、このドラマで初めて見応えというものを感じた。また鉄平の「是非一度、大川の父を見舞ってやってください」という言葉に、背中で長い間をとって話題を転じる辺りの大芝居は、時代劇スターならではの芝居の美しさである。

やはり、この物語を比較的原作に忠実に映像化するのであれば、大介の主人公性を鉄平に肩代わりさせることは難しいのであり、鉄平の背負っているものに比べて大介のそれは遥かに重い。

角田支店長の過労死を識って嘲弄するような美馬の軽口に見せた怒りの深さや、重病の大川を敢えて陥れる辛さが様式的に力強く表現され、財閥の長として数万の人々の生活を支える過酷さが雄弁に視聴者に伝わることで、そんな父親の表面上の冷酷さに反撥を覚える鉄平の若さがストレートに未熟さとして歯痒く見えてくる。

剰え、時代劇的な欣也の大介との対比上、過剰に現代的な造形を狙ったと思しき鉄平のファーストアピアランスが失敗しているのだから、何うしても鉄平サイドの筋立てが軽薄に見えてしまう。

キムタクの鉄平を表向きの主役に立てた意義としては、他にも技術立国ニッポンの成長期を描くことでプロジェクトX的な団塊世代の感傷を狙っているのだろうが、果敢な技術革新を基盤に据えた海外貿易で外貨を稼ぎ捲っていた時代も今は過ぎ、価格競争力が何うたらという能書きが現場を圧迫している現代においては、過去の栄華は空しい夢に過ぎない。

最終的には、冷血に徹して「痛みを伴う改革」を乗り切る父親に挑んで敗れるという結末が用意されている悲劇のプリンスではあるしその意味では美味しいのだが、悲劇というなら「三代に亘る因縁の出自」の息子を持って、しかもそれを冷徹に切らざるを得ない大介の悲劇のほうが重いのだし、そんな息子(孫)を通じて自身の父親(祖父)との対決のドラマも用意されている大介のドラマが複雑なことも間違いない。

ハナから喰えるなどと図々しいことは考えていないだろうが、やはり従来のパブリックイメージではこの種の題材に相応しくないキムタクは、本来のドラマ性にも後押しされている欣也の大芝居の美しさに対抗することなど困難で、その上さらに視聴率確保の重責を一義的に圧し附けられており、木村拓也という一人の若手俳優はかなり割を喰わされていると言えるだろう。

結論めいたことを言うならば、やはり今回のドラマ版も実は大介主役の本来的なドラマ化なのであり、不振続きのTBSが威信を賭けた周年作品の視聴率的保険として木村拓也という大看板を軒先の客寄せに懸けている、そのような構図となるだろう。

まあ、劇中の大介が万俵財閥に連なる数万社員の生活を護る為に過酷な日々を強いられているように、TBSに連なる何千人だかの人々の生活を護る為に、飛んだ貧乏籤だがキムタクよ頑張れと、まあこういうオチになるのだろう。

久しぶりだが、どっとはらい

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