« Let's kung-fu! | トップページ | 獅子の瞋恚 »

2007年3月 7日 (水曜日)

1 or 12

あっちこっちで好評な「仮面ライダー電王」だが、案の定仮面ライダーらしくないという声は附き纏うし、それを何う視るかで受け取り方も変わってくるのだろう。そういう話はすでに「仮面ライダーRX」の時点であったのだし、従来の平成ライダー自体が昭和ライダーのアンチで成立していたのだから、オレ的には平成ライダーがアリならこれもアリだろうとは思う。

まあ、オレが見聞した範囲ではそのような意味合いでの批判意見は殆ど見かけなかったので、元々平成ライダーから入った層には「かくあるべし」的なライダー観の持ち主はそれほどいないと思うのだが、万が一そんなことを言っている人を見かけたら生温く鼻で嗤ってあげましょう(笑)。「新しいライダーがつくられる度にこういう人が出て来るんだよねぇ」と。

トクサツTVシリーズを制作する場面において、視聴者個々人の「かくあるべし」論というのは大した意味などはないのである。視る人の数だけ「かくあるべき」姿があるのだし、その最大公約数的観念にプラスαとして何を乗せていくかで「新しい」作品の新しさが生起するのである以上、新しい作品であるということは必然的に多くの人の「かくあるべし」論を裏切るものである。

ウルトラマンにせよライダーにせよ戦隊にせよ、新作において最も重要なことは何かと言えば、シリーズタイトルを正式に名乗ることが出来る制作主体が、シリーズタイトルを巡る確固たるコンセプトワークの下にそのタイトルを冠して制作した番組が、シリーズ全体の歴史性の中でどのように位置附けられるかということだけである。

先月スタートした電王を一カ月半観てきて更めて思うのだが、何というか小林靖子という書き手は基本的に正しさや人倫という概念に疑問を持っていないのだと思うし、その意味で言えば、小林靖子が昨年のカブトのメインを張っていたら、無前提で力強い正義の象徴としての天道総司をもっと魅力的に描き得たかもしれず、実際のカブト劇中で描かれたようにアカラサマに変な理屈が無前提の正義として描かれるということもなく、さぞやオーセンティックで痛快な王道的ヒーロー物語になっていたのではないかと夢想する。まあカブト名物のトンデモ名セリフの数々は生まれなかっただろうけれど(笑)。

逆に言えば、小林靖子でカブトを描いてしまったら剰りにも王道的ヒーロー物語として強すぎる完結性の高い性格の作品となってしまうという勘が働いた為に、敢えてリリカルでめそめそした心性をも持ち合わせる米村で行こうと考えたのかもしれず、この辺を憶測すると白倉ヲッチャーとしてはなかなか楽しめる(笑)。

以前、某所で少し小林靖子の話をさせていただいたこともあって、脚本家としての小林靖子のパブリックイメージが、一般的には龍騎のムードで視られているということを再確認したのだが、元々の作風から考えれば龍騎の物語設定で小林靖子本来の持ち味が活きるはずがない。そこで今回は、更めて小林ライダーの先駆として龍騎を振り返って考察し、併せて今回の電王を語るという形で話をさせていただこうと思う。

某所の議論では、「多くの人が関わるものであるTVトクサツで作家性というものがどれだけ出せるのか」という疑問を頂戴したのだが、長くなるのでそこでは明確にお答えしなかった。前後の文脈から判断すると、この疑問は要するに、たとえばSHTならばオモチャ屋のプロモや視聴率向上の為のテコ入れなどの現実事情が大きく影響するのであるから、出来上がった作品をすべて個々人の作家性の文脈で解釈することは出来ないのではないか、そういう意味ではないかと思う。

しかし、出来上がった作品を視れば誰が何処で何をしたのかということはある程度推測可能なのだから、その範疇で作家性は充分語れるはずである。たとえばオモチャのプロモ要素やテコ入れ要素などもある程度外部からでも推測可能なのだから、それらの現実的な事情を判断して捨象すれば好いだけのことではないかと考える。それすらもわからないというのなら、そもそも番組を視て素朴な感想以上のことを論ずるのは不可能だという話になるから、まあオレとはかなり考え方が違いますねでオシマイになる。

だとすれば、その議論からインスパイアされた形で今回小林靖子論を展開するということになると、まず個別の番組をPや脚本家の作家性で語ることが可能なのか否かという問題をクリアしておくのも一興だろう。そこで、まずSHTをモデルにして一通りTVトクサツが出来上がるまでをおさらいし、根本的な前提条件を確認することにする。

たとえば戦隊などで言えば、ラジコンでこれこれのことが出来るギミックが社内の技術シーズとしてあるから、それを活かす方向でロボをデザイン出来ないか、たとえば携帯電話型の玩具にこれこれの機能を附加する技術的アイディアがあるから、それを変身アイテムに織り込むことが出来ないか、このような商業的要請に従って基本設定の出発点が設定されるわけである。

たとえばメタルのブルースワットなどはブローバック・排夾ギミックという技術シーズありきで、こういう比較的リアルなハンドガンのファンクションを前面に立てたトクサツ番組がつくれないかという商業的要請からあのような方向性の作品が生まれたという経緯が、特撮誌の記事等でハッキリ語られている。

これがライダーならば、今年は複数ライダーのバリエーションで商品を展開してカードバトル的な方向性でいきたいので、主力商品の変身アイテムを全ライダー共通にして、差し込むカードのバーコードとアイテムの音声ギミックで差別化するような設定には出来ないか、またガンプラや超合金の設計ノウハウを応用してフィギュア系の展開もやってみたいので、ライダーと何らかのメカが変形合体するような設定には出来ないか、そのような商業的要請が設定の出発点になるわけである。

今年の電王なら差詰め、大人に連れられて電車に乗る場合に子供がSUICAに興味を持つという点に着目して、ケータイに代わる「大人の道具のごっこ遊び」として非接触型ICカードを本格的に玩具応用したい、併せて電車型の大型玩具の展開と、連結するコンテナ車のバリエーションでNゲージ的なコレクタブル性を展開したい、そのような商業的要請が背景にあって、このような設定になっているのだろう。

何故東映特撮の場合、そこまでオモチャ屋に発言権があるのかと言えば、通常のTV番組のようにTV局が主導して制作会社に番組をつくらせ、スポンサー企業が広告枠を買うという形のビジネスではないからである。東映特撮の場合、バンダイが直接東映に対して応分の制作費を負担し、少なくともTV局とイーブン以上の形で制作主体として番組づくりに関与するという特殊な制作形態をとっているのである。

概ねTV番組の制作費は、スポンサー企業が支出する広告料の中からTV局を通じて制作会社に支出されるものである。その意味で、制作会社にとっての一次顧客はTV局であり、スポンサー企業はお客様のお客様という相対的に遠い関係性でしかない。

これが東映特撮の場合は、少なくともTV局と同等以上の距離感でバンダイが一次顧客となるわけであり、「優良な広告枠をつくりたい」という動機以上に「特定のオモチャを売りたい」というバンダイの思惑が直接的な制作動機になる。その故に、普通のTVドラマなら「多くの人が観るような番組」という意味で、広告を容れる容れ物の伝播力を高めるというだけの条件附けで比較的自由度の高い作品がつくれるが、東映特撮の場合コンテンツそれ自体から派生する特定商品を売るという具体的な制作動機があるのだから、相対的に制作の自由度が低くなる。

東映特撮がマニアの間で時に「オモチャのプロモ番組」と揶揄されるのは、事実としてそのような性質の作品になっているからという以上に、このような特殊な制作形態であることが種々の媒体の報道で周知されているからでもある。番組制作の直接動機が周知されている以上、それを基準にしてアウトプットを判断されるのは当たり前の話だ。

通常のTV番組の場合なら、まず視聴率的に当たる番組をつくろうという動機が出発点になる。TV番組というものの基本的なビジネスが、広告効果のバロメーターとしての視聴率を評価基準にして成り立っているものである以上それは当然で、これこれの視聴率が見込めるからこれこれの広告効果が見込めて、その枠への広告出稿によってこれこれの売上が見込める、このようなロジックに基づいて一般的なTV番組は制作される。

しかし、東映特撮の場合、大本のビジネスはバンダイの商品売上によって成り立っているのであり、広告効果の観点では間接的な評価基準である視聴率の上流にバンダイという特定企業の商品売上という直接的評価基準が存在する。視聴率は、そのコンテンツを放映することで二次的顧客であるTV局に如何なるメリットが発生するか、そのような場面で重要性を持つファクターなのである。

ライダーの場合は、ここに石ノ森プロがコンセプトワークで絡んできて、そこで一頻り石ノ森原作作品として通用させる為の基本設定の練り込みやデザインワークとの遣り取りが持たれるわけで、この作業プロセスは一種の版権ビジネスの側面を持っている。ライダーの看板が商業的な影響力を持っている限り、その看板に対して権利を有する主体が意匠の使用に対する対価を得ると同時に制作にも強い発言権を持ち、その容喙それ自体によっても一定の作業対価を得るという形のビジネスになるわけである。

一通りのコンセプトが確立した段階では放映局としてのテレ朝が絡んできて(というか形式上では東映サイドがプレゼンして売り込むわけであるが)、視聴率的な観点における保険要素やキャスティング等に対して「当たるTV番組」としての営業判断などを加え、広報的な役割を受け持つわけである。

バンダイ以外にコンテンツを商品展開する企業や、SHTの視聴層を中心的顧客層と認識しSHTの視聴率に一定の広告効果を認める企業は、テレ朝に対する広告出稿という形で広告費を支出し、そこから制作費の一部が東映に対して支出されるという複雑な仕組みになる。

種々の資料から簡単に纏めると概ねそのような流れになるわけだが、オモチャ屋との絡みに関しては、その意を受けたプレックスとのデザインワークの遣り取りがかなり重要な要素となり、プレックスの立ち位置は出資企業サイドと現場サイドの中間的な位置附けとなって、かなり複雑微妙な立場で制作に関与している。

たしかに番組制作にGOサインが出るに至るここまでの経緯を考えても、多くの人々の思惑や利害やアイディアが関係しているのだから、Pやメインライターだけで番組をつくっているわけではないのは当たり前である。

しかし、ここまでで出来上がるのは、TV番組のガワの部分だけであることは言うまでもないだろう。それはたとえばメディア展開していないオリジナル設定のキャラクター玩具のパッケージに記載されている設定要素のようなものである。ビックリマンやロボダッチと同列の話であって、たとえばアニメ化なりコミカライズなりというメディア化のプロセスを経て、漸くそれらの設定に文芸的な要素が乗る。

作家の文芸性というのは、所与の条件附けにおいてどのような物語を構想するのか、またそれをどのように描くのかという部分に顕れる個人の創造性の部分であり、ビックリマンやロボダッチのデザインワークスや世界設定を使ってどのような物語が紡ぎ得るのかという部分では、百人百様の可能性が想定し得るだろう。

オレが文芸性という言葉で語っているのは、その百人百様の可能性の部分であり、既存の設定にどのような物語を視るかという個人の物語観や語りの動機の部分である。その意味では、TVトクサツだろうがTVアニメだろうが漏れなく個人の作家性が表出するということに、何ら疑問の余地はない。

たとえばシリーズ中盤でパワーアップイベントがある、フォームチェンジが盛り込まれる、新ロボの投入や新たな合体変形パターンが登場する、それはビジネス上の要請であることは誰が視ても疑いない。また、シリーズ前半で人気が出たキャラクターの出番が不自然に多くなったり、キャラクターの性格が微妙に誇張されてきたりする、それは視聴率面からの要請に基づく手当てである。

文芸性とは、その所与の条件附けにおいてどのような物語を語るかということなのだから、オモチャ屋やテレビ局の横槍だから言うなりにやっておきますというのなら、普通に視ていればわかるのでそれだけの重要性として捨象すれば好いのだし、それが後々の物語を圧迫したのなら、現実事情によって思い通りの展開にならなかったのが惜しかったねという話になるのだし、その横槍を逆手にとって物語に織り込んでいれば文芸面での問題として扱い得るという話である。要するに、映像作品における個人の作業を視る場合には作業の具体を丹念に視て行かねばならないということである。

TVトクサツのみならず、映像作品全般がこのように多くの人々の複雑な利害や動機やアイディアに基づいて成立しているものなのだから、単一個人の名の許に語り得る内容は限られてくる。実際に誰が何をしたのかという事実関係の推測や検証に基づいて、その作業による影響力の範囲内でしか個人の文芸性を論じることは出来ないだろう。

映像作品における個人の文芸性を論じるということは、具体的な作業実態の推測や検証に基づいて、映像作品の裏面にある全体的な作業の「部分」を語るということである。決して「作品論」を作業者視点で裏返したら「作家論」になる、その作業当事者としての「作家」が誰なのかを見極めれば好いという単純なものではない。個人作業の活字文芸と分業制の映像作品が違うのは、そのような集団作業の複雑性の部分である。

だからオレは、個別の作品において、「作品論」を裏返した場合に「作家」に相当するのが白倉Pか小林靖子のどちらかもしくはこの二人であるという前提で話をしているのではない。たとえば「龍騎における小林靖子の作家性」を論じるのであれば、龍騎において小林靖子がどのような作業をどれだけどのような範囲で行ったのかという具体的なディスクライブが前提となるわけで、その上で、小林靖子のやったことの範囲の中でどのような文芸性が顕れているのか、そこに白倉Pや他の人間がどのような関与を行ったのかを論じていくことになる。

要するに、複数のスタッフや企業が関与する複雑で動的な事象である映像制作という全体的でダイナミックな実態に対して、特定作業者を中心に据えた同心円という視点を措定して、そのような視点において遡及的に全体的実態を視ていくという作業が映像作品における「作家論」なのである。

わかりやすく言えば、たとえばブギーポップシリーズで採用されているような相対視点の問題ということである。神の視点の三人称で俯瞰的に題材を語る話法に相当するのが作品論、特定人物の一人称一視点に固定して全体を語る話法に相当するのが作家論という相補的な関係になるだろう。

神の視点の話法は、物語という全体を中心に据えて、その全体的な物語を語る場合に最も効果的な視点を随時採用し、効率的に物語を語っていくものだが、特定人物に視点を固定する話法は、その特定の人物が具体的に何を思い何をしたのか、それが全体的な物語に対してどのような影響を及ぼしたのか、そのような観点においてミクロの観点からマクロな全体性にアプローチする手法である。

その意味で、映像作品を作家論の立場から語るというのは、複雑で面倒くさい作業になるが、面倒くさいというだけのことで不可能では勿論ない。映像作品における作家論の妥当性は、正誤のオールオアナッシングではなく、無段階の相対性で量られるべき事柄であるということであり、世の中の映像作家論というのは概ねそういうスタンスで論じられているものである。

たとえば小説やマンガを論じる場合と違って、映像制作という複雑で全体的な事象を相手どるのがこの場合の個別事情だが、「作品」というものの全体を特定個人の営為に還元して考えたいというのは創作に対する幻想ではないかと思う。たとえば監督主義、作家主義というのはそのような幻想の産物であり、「この監督だから観る」というのはそのような幻想から発した無根拠で素朴な博打でしかない。

映像作品における作家論とは部分論でしかないのだが、それを作家的エゴでゴリ押しすると高寺Pが陥ったような混乱に帰結する。世に高寺作品と呼ばれる作品群は原理的に高寺P個人の作物ではあり得ないが、可能な限り個人性の範疇で語り得るようにすべてのプロセスに口出しするようになったから、高寺成紀は映像作品のつくり手として破綻したのである。

彼は時代が下るに従って、小説やマンガを書くように個人の創作的営為として映像作品をつくりたいと望むようになったのだろうが、本来映像作品とは高寺成紀の本来の職分という「部分」においてのみ高寺成紀の作家性を語り得るような何ものかなのである。

演出においては演出者の作家性を視るのだし、演技においては演者の作家性を視る、具体的な語りの言葉に関しては脚本家の作家性を論じる、それが映像作品を語るということである。東映特撮においてPの職分が重視されるのは、そのすべてのプロセスに対してPに一極的な発言力があるからだが、それは飽くまで全体の中の「部分」でしかないはずなのである。

現実に個人が手を動かした「部分」に対してのみ作家論を語り得るのが映像作品の個別事情であり、だからすべての「部分」において手を動かすことで作品全体に対して一個人の作家性を及ぼしたいと望むなら、最初から一人で全部やれ、そんなコトは無理だろうという話にしかなりようがない。

たとえばライダーの立ち上げ時点における白倉Pの文芸性を視て行くのであれば、所与の条件附けが生起した理由については、バンダイやプレックス、石ノ森プロ、テレ朝等の関連企業の思惑や利害を、白倉Pが仲立ちになって調整したという形で視ることになるだろうし、その場面において白倉Pがそれらの要請をどのような白倉P個別の関心に基づいてどのようにリードしたのか、という実態論になるだろう。

その場合、白倉Pの関心や利害とは、企業人としては東映という企業体の代表者としての利害ということになるだろうし、それに整合させる形で白倉P個人が抱えている文芸的アイディアを、企業体レベルの要請とどのように調整して摺り合わせるかという話になるだろう。

そこで東映の都合や白倉P個人の文芸的関心に有利なようにどうやって立ち回るかというのがPの腕の見せ所だろうし、日笠Pのように自身の文芸的アイディアに拘らないPなら、純粋に企業間の利害を調停して持ち帰りメインライターと協議する、メインライターは独自の物語性に基づいてその前提条件の下に物語の素型を案出し、その上で大括りな意味での日笠Pの「理想的なTV番組観」のフィルターで判断する、という段取りになるだろう。

そこで文芸的アイディアを持ち合わせているか否か、自身の文芸的関心を通そうとしたか否か、またはメインライターの意を酌んで各利害関係者と交渉したか否か、そのような部分にPの文芸性は顕れると言えるだろう。何もすべての局面のすべてのプロセスでPが手を動かさなくても、充分にPの文芸性を語ることは出来るのである。

映像作品の裏面にある個人の作家性を視るということは、そのような作業実態の具体を論じるということであって、論者に可能な範囲で情報収集するなり推測の妥当性を検証するなりという作業が不可欠である。そして、その言説の妥当性は、個別の論者の推測や情報がどの程度妥当なものであるか、その妥当性の相対的な度合いに基づいて量られると言えるだろう。

そのような作業抜きで語り得るのは、今目の前に存在する映像作品に対して、それを観た一個人としての自分がどのように感じたのか、考えたのかという主観的印象論に限られるだろう。それは要するに、それに同意するか拒絶するかのオールオアナッシングの話になるだろうし、その両者を隔てる客観的に妥当な尺度は存在しない。それは、個人の主観的印象は他者には論議不能なものだからであり、論議不要の自分語りとして扱うべき事柄だからである。

以前から度々そのような話はしているのだが、映像作品全般というのは、多くの人々の利害に基づいて多くの人々の分業で成立する複雑でダイナミックな成果物である。その前提において個人の作家論、作風論、文芸論を語る場合には、それが圧し並べて複雑な成立事情を持つ映像作品の「部分」を、相対的妥当性の規範で論じることだという認識が必須である。

この場合、クレジットされている役職の範疇で作家論を語るというのは、たとえばレストランで気に喰わないことがあった場合に「店長を呼べ」というレベルの話だし、兄弟喧嘩を裁定する場合に諍いに至る細かい経緯は無視して「お兄ちゃんでしょ」と言って年長者のほうを叱るというレベルの話である。従業員の態度が好くないなら店長の監督不行届なんだなと解釈するし、度々兄弟喧嘩が発生するならお兄ちゃんがしっかりしてないからだと解釈するということである。

たしかに店長には従業員教育の責任があるのだし、お兄ちゃんには稚ない弟に対して指導的役割を演じる責任がある。だからそれは個別の立場に伴う「責任論」であって実態論では決してないのである。作家性や文芸性というのは、責任論とは別の次元において誰が何処で何をしてそれがどのような形になって顕れているのか、という実態的側面を論じるものだとオレは考える。

夫々それなりに誠実に自身の立場に向き合っていると考えるなら、店長が普通に指導を行っているのに従業員の態度が悪いことには、その店に個別の構造的な問題性があるのだし、お兄ちゃんが頑張っているのに兄弟喧嘩が頻発するのは、その兄弟間の関係性に個別の構造的問題性があるからである。そのような具体を視て行くのが本来的な意味での作家論ではないかとオレは考えているし、そもそもそのレベルの事柄に関心を持つようなヲタクでないパンピーが作家論を語るのも変な話である。

そして、オレ個人としては、ある対象の実態に沿った二者間の論議には客観的に妥当な尺度が存在すべきであると考える。個人の不特定多数に対する発話であればその必要はないのだが、対等な二者間において持たれる論議は、客観的に妥当に適用可能な判断基準がなければ単なる泥仕合の言い合いになる。

ある個人がある対象に対して何かを語っている、それを一方的に拝聴するだけなら、それを如何なる尺度で判断しても差し支えはあるまい。そこで問題になるのは、その発話が実態に即しているか否か、客観的に妥当であるか否かではなく、その話者の発話に対する関心が持続するか否か、共感し得るか否かの問題だからである。

極端な話、ある対象からインスパイアされた自身の想念の表現を詐述するという語りの方法論もあり得るだろうし、確信犯的にそのような騙りの方法論で書かれているブログを拝見したこともある。それはそれで構わないが、オレが語りたいのは可能な限り対象の実態に肉薄し客観的な妥当性を尺度に量り得る事柄である。何故なら、そのような事柄を語ることで多くの人と前提を共有した議論を持ち得るからであり、泥仕合ではない意見交換が可能となるからである。

このような前提において漸く仮面ライダー龍騎に関する具体論に入るわけだが(笑)、まず、龍騎の13ライダーズはすべて我欲で戦っていて、主人公である城戸真司の正義ですらもそれと対等のものとして位置附けられている。そのような真司のナイーブな正しさがライダーズの已むに已まれぬ過酷な現実事情と等価に置かれ、ちくちくと一年かけて真司は苛め抜かれる羽目になる。

そして、龍騎の出発点においては、フォームチェンジではなく複数ライダーの展開でコレクタブル性を出すという商業的要請があったのだろうと思うが、それを今あるようなバトルロワイヤル的な個人対個人の私的な闘争の物語性として「意味附けた」のは、白倉Pサイド(白倉P個人)の思惑だろう。

ライダー同士の対決でシリーズの大枠を組むという前提があったとしても、一カ月単位で一人のライダーが敵怪人の親玉として登場するような展開も可能だし、たしかそのような案も検討されたと記憶しているが、現実的事情との折り合いを附けるプロセスの中で、個人と個人の仁義なき闘争という物語性が盛り込めるという形で結果的に設定の揉み込みが落着した、そういう話になるのではないかと思う。

当然、個人の文芸性というのは現実事情や作業のプロセスとは独立して予め存在するとばかりは限らない。所与の条件附けが成立する過程の中で漠然とした観念が形になる場合もあるだろうし、現実事情の要請によって成立した条件附けに対して、自身の抽斗の中からこのような問題性が盛り込み得ると判断する場合もあるだろう。

肝心なことは、この番組の立ち上げに関わっていて決定権を持つ多くの人間の中で、白倉P以外の人間が、新しいライダーを「個人と個人の闘争の物語」にしたいという積極的動機を持つとは考えにくいということである。たとえばバンダイが、プレックスが、石ノ森プロが、テレ朝が、そのような一連の白倉作品に共通する問題性と合致した題材を偶然提案してきたと考えるのは普通の感覚では不自然であるということである。

それが不自然である以上、その推測を否定する場合には、それを否定するに足るだけのもっと自然な想定をぶつけるか、確度の高い証言が必要となるということになる。その場合には、たとえば龍騎で現実的な事情から決定した所与の条件附けが、逆にその後の白倉Pの文芸性に大きな影響を与えたという見方になるだろうし、要するに、一連の白倉作品に共通するテーマ性が龍騎にも顕れている以上、その共通するテーマ性を白倉Pの文芸性に基づくものと解釈することにだけは一定の妥当性があるということである。

そして、その部分を決定し得る確度の高い情報を持たないという前提で次の段階を論じるのであれば、「白倉Pがライダーバトルを提案した」という想定に基づかなくても成立するような範囲でしか物事を断言しないということになる。この場合なら「白倉Pが個人と個人の闘争の物語を描きたかったからライダーバトルという設定が導入された」と解釈することには妥当性が期待出来ないということである。

ライダーバトルが「個人と個人の闘争の物語」として「意味附けられて」いるのは、その後の白倉作品を考え併せれば、白倉P個人の文芸性に基づくものと解釈出来る、そのような言い方が最も妥当性の高い推測となる。オレが映像作品を語る場合は、常にそのような妥当性の規範において語っているつもりである。

そこに第三者からもっと自然に実態を説明し得る仮説や、オレの識らないような証言や確度の高い根拠が提示されればそれを織り込んで意見を修整し、全体的な推測の確度を高める、時には中核的なアイディアをまったく捨て去って一から構築し直す、そのような遣り方を採用している。

閑話休題、この調子で語っていったらいつまで経っても話が進まないのでこのくらいにさせていただいて具体論に戻るが、要するに以下はそのような考え方で語っていることだと理解していただければ幸いである。

さて、おそらく白倉Pの文芸性のテーマとは、13ライダーズが夫々抱えているような現実の過酷さに対して、真司が主張するような正しさに何の力があるのかという部分を巡ってうじうじと堂々巡りを繰り返すようなものであると言えるだろう。

龍騎の時点においては、小林靖子がそのような白倉Pのシリーズ構成に忠実に書こうとしたというのはある程度確実だろう。それまでメタルと戦隊の脚本しか書いたことがないのだから、それとはまったくリアリティレベルの異なるライダーの世界を自分の発意でどんどん引っ張っていけるような人材ではないからである。

実際に小林靖子と仕事をした人に聞いた範囲では、ネットでは豪快な女傑風のイメージもあるようだが、どうも小林靖子という人は未知の分野や不案内な現場に馴染むのにかなり時間を要するタイプのようで、馴染みのない現場で積極的に提案するタイプの職業人ではないらしい。作業への馴染み、人脈への馴染み、それらを引っくるめて新しいことに素早く適応するタイプの人間ではないらしい。

詳しいことは明かせないが、これは人伝の風聞ではなく直接関係者からの一次情報なので、オレを信用していただく他はない。要するに、この部分に関する妥当性をオレ個人の信用で賄うということで、オレ個人の一般的な発話姿勢に不信を持つ読み手に対しては妥当性を期待出来ない言説ということになる。つまり、ここでこの部分の妥当性には相対的な限定条件が掛かるということであり、この要素を前提にした推測には漏れなく限定が存在するということである。

とまれ、その措定的な前提に基づくなら、小林靖子が初期のアニメの仕事で剰り高い評価を得られなかったのは、トクサツの一年五〇話の制作テンポとワンクール一二話相当のアニメの制作テンポがまったく違うから、ということもあっただろう。要するに、作品の世界観を把握した頃には、もうシリーズの制作が終わっているのだし、アニメとして完成品が出来た段階では、もうライターの仕事は終わっている。

シリーズ構成として関わっている「灼眼のシャナ」や「ウィッチ・ブレイド」なら、他人に書かせる立場(東映特撮における「シリーズ構成」は当然そんな立場ではなく「シリーズ展開に割合影響があった」という緩い意味でしかない)なのでそうでもないのだろうが、どちらも未見なので具体的なことはわからない。

不慣れなアニメの現場での経験がライターとしてのスキルアップの肥やしになったことはたしかだろうとは思うが、まあメタル末期に認められて長らく戦隊で書いてきた彼女の本領は、一話完結形式で一年五〇話の長いスパンの物語を、実作品とのフィードバックで進めていくという、白倉Pとは違った意味でのライブ感覚だろう。度々触れているセラムンでも、本格的に物語やキャラ描写が深耕されたのは映像作品となったものを書き手が観られる時点になってからである。

具体的に言えば、ワンクール消化して一渡り演出陣のローテーションが落ち着いた段階からということになるのだが、その辺りからレビューの手応えが大分変わってきたという実感があるので、この辺は掛け値のないところである。そして、問題のAct.5 を小林靖子や白倉Pがその目で観てから書かれたことが確実な時点からの水野亜美物語の異様な充実ぶりについては、更めて強調するまでもないことである。

つまり、走り出しの時点でも脚本単体としてそれなりに面白いが、そこに演出や役者の演技が乗った完品を観ることで、正のフィードバックが起こるというのが小林靖子の体質的な脚本術が最も活きる局面である。これは勿論、映像作品のライターなら誰にでもあることで、井上敏樹も役者の演技を視て展開や描写を決めている部分はあるのだが、それが別段井上敏樹の作物の作劇法や描写のレベルに影響するということまではない。

つまり、井上敏樹のようなプロフェッショナリズムにおいては、村上幸平や草加を何う扱おうと何う描こうと、最終産品のクオリティに大きな上下動はないが、小林靖子の場合は、実際の映像作品が書き手の想像力にかなり大きな影響を与え、それが作劇法や描写の深度を左右する傾向が大きいようである。

ネガティブな表現をすれば、それはプロのライターとして不器用な部分と言えるのだろうし、一種のアマチュアリズムとして批判することも可能だが、井上敏樹のようなスキルの完結性が高いプロフェッショナルなライターの作劇と比較すると、そのような劇的想像力のフィードバックによって思いも寄らぬ突き抜け方をするという、プラスαの部分に小林靖子の取り柄がある。

いろいろと公式非公式取り混ぜた情報を綜合すると、小林靖子という書き手は出されたプロット通りに書くということが苦手らしく、頭とお尻が見えている一話完結形式のエピソードにおいて、局面毎の描写ではなく挿話全体の劇的ロジックで物語を構築するタイプの書き手なので、最初のプロットからかなり逸脱することが多いようである。

つまり、書き始めの段階で最終産品のディスクライブがそれほど出来ていない。この辺に関しては、打ち合わせが纏まった時点で各方面の合意が得られた雛形通りに書ける一般的なプロライターよりも、平準的なスキルとしては劣るだろう。

白倉プロデュース作品の公式サイトにおいて、白倉Pがいつものあの調子でヨイショ的に「上がってきたシナリオに喫驚」的なことを屡々発言するが、それは表現を変えると「最初にイメージした通りの話になっていない」ということでもあるだろう。

そのような書き方においては、実際に書くことで生起してくる劇的ロジックが要求する必然としての筋立てや結末というのがあるわけだから、挿話構造のロジックとはそぐわない筋立てで書けといわれると、甚だ生彩を欠いたものになってしまう。要するに、自分が信じていないことを注文通りに面白く書く能力が低い、つまり、必ずしも次善でしかない劇的ロジックの四隅を曖昧に擂り合わせて具体的な描写で面白みをつくることに向いていない資質なのである。

龍騎の場合などとくに一話完結のニュアンスが緩かった為に全体の劇的ロジックを掴みあぐね(というか白倉的シリーズ構成においては各話の劇的ロジックなどないに等しいのであるが)、局面毎の描写や劇中イベント単位で筋立てを考えなければならないということで、それ単体で面白い遣り取りを書くとか、気の利いたセリフを書くとか、劇中イベントをそのイベント叙述の範囲内で劇的に盛り上げるという、まあ言ってみれば通常のホン書きにとっては本領発揮の場面ではあっても小林靖子個人にとっては最も不得手なことをやっていたわけである。

オレが小林靖子の作物として龍騎をまったく評価していないのは、そこに顕れているのが一人のプロのライターとしての平準的な執筆スキル(しかも剰り冴えないレベルのもの)であって、小林靖子固有の文芸性ではないからである。

正直言って、オレに興味があるのは映像作品の文芸的な側面だけなのだから、一人のプロライターとしての小林靖子の平準的なスキルレベルが何うであるかということなど、割合何うでも好い問題である。武上純希が書いても、井上敏樹が書いても、小林靖子が書いても、書き手個々人の文芸性が味附け程度で物語全体の性格を既定しないような作品を観ていてもつまらない。

最初の話題に戻ると、龍騎の作劇が生彩を欠いていた具体的なポイントとは、真司のナイーブな正しさと、劇中人物個々人が抱える過酷な事情が等価に置かれるという物語世界の構造を、小林靖子自身が真に受けられなかったからではないかとも考えている。この辺が某所で話したような小林靖子の融通の利かない現実性や論理性の部分だと思うのだが、どんな事情があっても悪いことは悪いのだし、已むに已まれぬ想いがあれば悪いことをしても好いということにはならない。これもまた過酷な現実である。

「それはそうなんだけど……」と言葉を呑み込む、問わず語らずの「……」という間への共感や同情にブンガク的な潤いの余地はあるわけなのだが、そこで共感を拒絶することもまたブンガクだろう。

龍騎の場合などは一種の全滅エンドと表現して差し支えないだろうし、劇中の個々人の都合と都合がぶつかり合った結果、誰も勝者のいない闘争が全滅という形で終了しました、それは実は延々と果てしなく繰り返された数多くの物語群の一つにすぎませんでした、物語が終わったのは、皆さんが観てきた一年間の物語に物語を終わらせるだけの特別な意味があったからではなく、一年間のTVシリーズは一年経ったら終わるものだからです、そのような虚無的な終わり方である。

つまり、龍騎というのは正面から人間対人間の我欲による闘争を主軸に据えた闘争否定の物語だったのだし、城戸真司の一種の人倫的な観点における素朴な正しさを個々人の都合と等価に置くことによって、正しいから戦っても好いというわけではない、そこに勝者はいないのだ、という屈折したテーマを語っていたのである。

それを構造化する仕掛けはかなりわかりやすく、ライダーバトルというアイディアを一言で表現すれば、「他の一二人が死ねば恋人一人が生き延びられる」「他の一二人が死ねば自分が生き延びられる」そのようなものであり、つまり、一種のカルネアデスの舟板的な条件附けである。赤の他人一二人の命と、自分の大事な人一人の命が天秤に掛けられているわけで、恋人や自分が死にかけていることに対して、それ以外の一二人にはまったく責任関係はない。

つまり、自分個人の想いや都合の為にまったく無関係な他人を犠牲にすることが闘争というものの正体だということであり、これには城戸真司の正しさも等価で並列されているのだから、要するに人間対人間の闘争一般というのは、自分の都合で他人を犠牲にすることであって、それは正義の闘争ですら例外ではないという考え方である。

さらにそこに一般人を無差別に襲うミラーモンスターの脅威を附け加えることで、それでも一方的に迫り来る理不尽な脅威に対しては防衛の為の戦いが必要であるという観点が付与され、この二つの闘争観の間でグルグルと堂々巡りを繰り返したのが龍騎という物語であると言えるだろう。

しかし、何うもメインの小林靖子はそんな白倉Pのうじうじした堂々巡りにまったく共感出来なかったのではないかと思う。おそらく小林靖子にとっては、一人の為に無関係な一二人の犠牲を求めるというのは、疑いの余地もなく間違ったことなのだし、問答無用で迫り来る脅威に対して愛他心から防衛の闘争を戦うことは、正邪の観念の問題ではなく現実の問題として疑問の余地なく肯定されるのである。

つまり、彼女にとって13ライダーズ中で唯一意義のある戦いとは、理不尽なミラーモンスターの脅威から人々を護り、我欲に基づく暴力闘争を止めようとする城戸真司の戦いだけなのは明白であるにも関わらず、その真司が不条理なまでに軽く扱われ、「世間識らずの甘ちゃん」的に見下されるスカした世界観が、納得出来なかったのではないかと思う。何故なら、全体を概観すれば龍騎の世界観とは小林靖子がそれまで好んで描いてきたようなタイプの主人公の無力さを強調し、自嘲的に揶揄するものだからである。

たとえば、13ライダーズのように戦う力とそれに見合う対価を与えられた場合、自分の大事な人の為にそれ以外の人間を犠牲に出来るかと問われた場合、「オレならそうする」と嘯く人もいるだろうが、「オレには出来ない」と否む人もいるだろう。それはたとえばアンケート調査を行って集計してどちらが一般的な見解であるかを決定すべき事柄ではない。どちらが多数派であるかという問題ではなく、人の現実において同時局在する二つの側面を夫々表現したものにすぎないからである。

我欲の為に平気で他人を犠牲に出来る人間がいる一方で、どんなに烈しい想いに駆られていたとしても、そのような理不尽な暴力を選ぶことが出来ない人間もいる。同じ一人の人間の中でも、自己中心的に他者を攻撃するような側面と、無償の善意で我が身を犠牲にするような側面が同時に存在する。

観念上「大事な一人と赤の他人一二人」を天秤に掛けることは誰にでも出来るが、自分の手でそれを行い得るか否かはまた別の話であり、正しさとはその行いの局面で問題になる観念である。

腹でどんなぶっちゃけ論の葛藤があろうとも、現実の行いとして最終的に何を選び取るのか、そのような局面においてこそ、正しさや正義の観念は重要なテーマとなってくるのである。「燃える正義の心」というような言い回しが誤解を招いている側面もあるだろうが、そのように表現されているのは「決してやってはいけないこと」「黙過してはならないこと」を嗅ぎ分ける人倫の感覚のようなものを謂うのだとオレは考えている。

その意味で13ライダーズは、正しさの観点を捨象した極端な行いを敢えて為し得るような極端で先鋭な人物ばかりであり、そのような基準で神崎士郎に選抜された異端的な人物ばかりなのだが、観念上では誰でも「大事な一人と赤の他人一二人」を天秤に乗せられるからこそ、この極端な虚構がある程度の普遍性を持って感じられるわけである。

たとえば、若くして死を宿命附けられた女性がいるとして、その恋人である男が、何故他にたくさんいる赤の他人ではなく自分の大事なこの人がそのように宿命附けられているのかと感じる理不尽さは誰にでも理解出来るだろう。何故他の誰でもなく自分の大事なこの人なのかという想いは、普遍的に共有可能な心情である。

そこを一歩踏み込めば、他の人間を犠牲にすることでその大事な人が生き延びられるのであれば、赤の他人を犠牲にすることの何が悪いという話にもなるだろう。死の宿命に意味などはないのだから、決定権さえ与えられればそれを赤の他人に振り替えてしまいたい、それも人情だろう。しかし、人倫の観点から言えばそれは疑いもなく間違っているのであり、どんなに共感出来てもそれをしてはいかんだろうとも人は思うのである。

龍騎の物語においては、「それをしてはいかんだろう」という役回りが主人公の城戸真司に振られ、行く先々で「いかん」と止めて廻るのだが、その都度「じゃあおまえはその替わりに何うしてくれるんだ」と言われて何も出来ないから黙り込む、そういう話になっていたわけである。

身も蓋もないことを言えばこれは非常におかしな話で、金がなくて飢え死に寸前だから強盗をする、それを止めたら、じゃあおまえはオレにこの儘餓死しろと言うのかという話になっているわけである。それも、たとえば戦国時代のように非常に過酷な社会環境において、本当に強盗でもしないと餓死してしまうような条件附けを設定してそういう問いを投げ掛けているわけである。

電王に関してquonさんが仰っている良太郎の正義の「曖昧さ」というのは、要するに相手の都合に対して何もしてやれなくても悪いことは悪いと頑固に主張することだろうと思うのだが、本来的にはその「何うしてくれるんだ」を真に受けることと正しさは違う規範の問題なのであって、たしかにヒーローというのは正義を行うと同時に個人の都合に対して何かをしてあげられる存在のことを謂うのだが、それを正義で割り切ろうとするから無理が生じてくるのである。

正義と愛他心を摺り合わせるヒーロー性というのは、純粋観念の問題ではなく語りの問題に帰結するからである。正義と愛他心は元々別々の規範であって、純粋観念の問題として扱うなら、正義によって他者を救済するということは他者の都合を何とかすることとは無関係であるし、他者の都合を何とかしてあげることは正義の文脈で扱い得る問題性ではない。その両者を摺り合わせるヒーロー性を成立させるのは、純粋観念の議論ではなく物語というテクストの使命だからである。

龍騎において、正しさという概念が現実の過酷さに対して力を持つのか、という問い掛けはその混乱に根を持つ錯誤であって、正しいことだけをしていたら自分の大事な人が理不尽に死んでしまうのだし、自分がこの儘死んでしまうのだから、正しい行いを強要するなら、この現実の過酷さに責任を持て、解法を示せ、そういう話になっているのが観念的に混乱しているのである。

龍騎の物語構造はそのような問題性を扱う器として設定されているわけだが、それを書いている小林靖子自身は、「金がないからって強盗して好いわけないじゃん」「雑草を喰っても死体を喰っても生きていけるじゃん」「悪いことをしないでやるだけのことをやって、それで死ぬんならそれは仕方ないじゃん」というふうに思っていたのではないかと思う。その意味で、白倉Pは過剰に優しい心性の持ち主だというquonさんの認識には一定の妥当性があるだろう。

たとえば蓮が恋人の命を救う為に戦っているのだとして、たしかに死んでしまう恋人は可哀想だし、それを助けたいと思う蓮の想いは理解出来るとしても、その為に他人の犠牲を求めるというのは明らかに間違っているわけである。誤解をおそれずに言うなら、そういうのは、言ってしまえば「仕方のないこと」なのであり、「仕方のないこと」の冷酷さに耐えられないけれどその冷酷な強力さから目を逸らすことも出来ない弱くて優しい人間が考えるから破綻した物語になるのである。

正しさというのは、現実の過酷さを救済する何かではない。それがなければ生きている甲斐がないと思える何かだろう。正しさを貫くことで恋人が生き延びられるわけではないとしても、恋人の為に他者の犠牲を求めることは間違っているのだし、死すべき命を一二人の命で購うことは今目の前で死のうとしている恋人の生を穢す行いなのである。

突き放した言い方をするなら、自身の生に納得して宿命の儘に従容として死ねと命ずるのが剥き出しの正義なのであり、その生の充実を確保した儘に冷酷な死の宿命を回避し得るのが物語装置としてのヒーローの超越性なのである。

龍騎の問題性が恋人の命を奪い去る宿命の理不尽さに対する憤りを根に持つのだとすれば、正しさというのは辛い死の宿命を受け容れる為の規範なのだと思う。たとえば蓮が最終勝者となって恋人が生き長らえるのだとしても、彼女が明日不慮の事故で死なないとは誰にも言えないだろうし、事故で死ぬのも病気で死ぬのも同じだけ理不尽である。

その都度彼はライダーバトルを望み、一二人の犠牲を望み、恋人の復活を望むのだろうか。それもたしかに物語のテーマとは成り得るだろうし、人の想いの真実を剔抉していることも間違いないだろうが、人はいつか理不尽に死ぬのだし、残された者はいつかはその理不尽な死を受け容れなければならないのである。

ゲームマスターの神崎士郎に至っては、ミラーモンスターを生み出した元凶である妹の死の宿命を回避する為に13ライダーズ全員を欺き、数限りないやり直された時間の中で人を殺し続けたわけで、最終的に妹の説得に応じて妹共々「成仏」することで劇中世界が救済されるという筋書きになっていて、結局この物語は個人の身勝手な妄執によって世界全体が迷惑を蒙るという身も蓋もない話になっている。

結局この物語は、或る孤独な兄妹が死の受容を拒んだが為に無関係な人間を巻き込んだ悲劇という話になっていて、一年間のライダーバトルには整合的な物語としては何の意味もない。実際の作品として語られた物語は数多くの可能世界の一つにすぎず、劇場版やスペシャル版などでもその相対的な性格を強調していたが、この物語内容自体は直接神崎士郎の妄執に決定的な影響を及ぼすような内容ではなかったのだから、龍騎の劇中で語られたのは「こういうことを繰り返してそのうち諦めた」「妹がその都度説得したからいつか兄が折れた」というだけの筋書きなのである。

普通、物語というのはまず物語が展開するようにロジックが構築され、その展開された物語のロジックが物語自体を終わらせるべく働き掛けて終わるものである。龍騎という物語には最初からそのようなロジックが存在せず、自律運動として物語が転がることだけが目的化され、時間が来たから機械的に終わっただけである。以前白倉ライダーとは物語が転がることだけが目的化された物語であると語ったことがあるが、そのようなスタイルはこの龍騎によって確立されたと言えるだろう。

本題に戻ると、蓮や北岡の場合も神崎士郎の場合も、ミラーワールドという超越力がなかったら、普通に自分や大事な人の死を受容する個人の内面の問題に帰結する物語性である。それは要するにオーセンティックな意味ではタヴーの侵犯なのだし、それが禁忌であることを識りながら罪を犯す人間の情感の物語性の問題であるはずである。

その範疇では別段おかしな話ではないのだし、死ぬのがさだめの命を人倫に逆らっても救いたいと切望するのも人間の痴愚心の物語としてアリはアリである。しかし、龍騎の物語が妙に気持ち悪いのは、そのような痴愚心が絶対的に「間違ったもの」だという認識がないということである。

間違ったことを敢えてしているという疚しさがまったく描かれていない。個人の都合論の観点で言えば、死すべき運命にある人を活かそうと願うことは間違っていないという前提の話になっているから気持が悪いのである。

たとえば蓮の場合なら、恋人の恵里はミラーワールドの実験中の事故で意識を喪ったのだから、ミラーワールドの謎を解明して恵里の意識を回復させる方法を模索するのが本筋であって、手っ取り早くライダーバトルに勝って願いを叶えようとするのは卑しい易道でしかない。

正しいとか間違っているとか言い出すのであれば、真っ当な手段によって恵里を覚醒させることが出来ないと判明した時点で更めて次善の選択肢を模索すべきなのであって、如何なる手段であれ恵里の意識を覚醒させようとすることそれ自体が無前提で正しいなどという話にはなりようがないだろう。

ミラーワールドの秘密を探ることで恋人の意識を取り戻そうと努力すること自体は何ら間違っていないだろうが、その為にライダーバトルに勝って他のライダーを全滅させようと考えたら、それは間違っているというだけの話である。恵里の意識を覚醒させたいという願いそれ自体は正しいとか間違っているとかいう問題ではないが、それを実現する手段、その選択において正邪の別が発生するのである。

正邪の観点において最終的に問題となるのは、恋人の死の宿命を回避する為に間違った行為を行うのか否かという問題であるにも関わらず、その観点の認識がまったく視られない辺りが気持ち悪いのである。ミラーワールドの秘密が解明されても、如何なる手段でも恵里の意識を取り戻す術はないというのであれば、それは恵里が必滅のさだめにあるということであって、それを受容するのが人の途というものであり、そこには何ら疑問の余地はない。

正邪で判断するなら、最終的に蓮はライダーバトルに勝って、自身で手を下したか否かはさておき、それまでに供された他者の犠牲の上に恋人の命を購ったわけだから、目的を達成する為に間違った手段を選んだという話であり、蓮が間違っているか否かという事柄に関しては何ら疑問の余地はない。それが間違った選択であるという認識さえあれば、蓮の最期を巡るドラマは正邪の観点を離れて情の物語となるのである。

しかし、龍騎の物語はこの辺の情の問題と正邪の問題とを敢えて区別せずに語ってきた為に、どちらの観点で視ても中途半端な物語になっているように思える。土台、個人の望みを叶える為に他人を犠牲にするということ自体間違っているのだし、それは個々の事情を掘り下げていけば正しくなるというものではないし、「そうしなければ恋人が死んでしまう」と言われても正邪が覆るものではない。まさしく盗人にも三分の理という俚諺の通りである。

たとえば妻の死を受け容れられずに冥府に妻を訪う冥界行という神話類型は多くの文化圏に残っているが、その神話類型が常に語るのは死の受容という結論であり、オルフェや伊邪那岐命の冥界行が語るのは、妻の醜く腐乱した真の姿を視て、死が撤回不能な決定的越境であることを思い知らされるという結論である。

この神話に仮託されているのはタヴーの発生であって、生死の境を越境してはダメだよという絶対的規範の起源論である。そこに陰陽五行説の反克のタヴーとか異種文化の影響があって、たとえば西行法師の反魂の術が何うしたとかいう話にもなるわけだが、普遍的な意味性としては、死んだ人間はもう戻らないからそれを受け容れなさいという非常に日常的な、寧ろ死という非日常的な事象を日常化する為の規範である。

その意味で、素朴な人倫を信頼するなら、たとえ恋人や自分が理不尽に死んでしまうからと言って、その死を阻止する為に赤の他人を一二人も殺すなんてのは論外の外の話である。世間一般では、そういうのを自己中心的な我欲というのであって、如何にその動機に共感出来るからと言って、実際にそれをするか何うかというのはまた別問題なのである。

身も蓋もないことを言えば、蓮や北岡がすべきことは恋人や自身の死の受容であり、死の宿命自体を阻止することではないだろう。人はいつか死ぬ。自分だって大切な人だっていつかは必ず死ぬ。そういう当たり前のことが受容出来ないというのは、やはり歪なことである。簡単なことではないが、誰だって必死でやっていることであり、「大切な人の命を助けることが出来るなら他人を殺しますか」と聞かれて「はい殺します」と答える人はそうそういないだろう。

今現在生きて幸せであるということは、そのような人倫の感情に概ね則って自身の生があるからであり、自身の生に意味があると信じられるからであり、生きていればどんな状態でもいいというわけではない。「正しい行いをすれば、恋人の、オレの命を救ってくれるのか」と言われても、本来は「んなこと識るかよ」「甘ったれんなよ」でオシマイの話である。

龍騎の劇中論理が変なのは、他の一二人も納得済みという仕掛けによって一人と一二人の命を天秤に掛けた殺し合いが「無理もないこと」「正邪で判断し得ないこと」であるかのように描かれているからであって、それを止める真司が何ら説得力のある論理を持たないということである。

正義の味方が個人の事情のすべてを救済出来るものではないというのは、大昔から識られていることである。しかし、人倫に悖る行いが人の生を穢し人の生きる意味を抛つことだということも事実であり、人としての正しさを選ぶなら恋人が死んでしまうとしても、だから正しさに意味はないというのは違うだろう。そこで恋人の命を助ける為に人倫を踏みにじることは、本来疚しいことである。その疚しさを持つか持たないかが物語の倫理として重要なのであり、人倫と情を等価で対置させるというのは、やはり倫理感に欠ける作劇と言って差し支えないだろう。

それまでの作風から考えて、小林靖子個人がこのような考え方を受け容れていたとは思えない。小林靖子と白倉Pの間で鬩ぎ合いがあったとすれば、この枠組みにおいて彼女が考える結論と白倉Pの考える結論が絶対的に相容れないというところを巡ってのことだろう。

最終的な結末で謂えば、北岡は結局自身の死を受け容れたわけだが、真司との関係性の確立によって揺らいだ蓮は有耶無耶の裡に最終勝者として恋人の回復を勝ち取ってしまうわけで、この結末は違うのではないかとオレは思う。蓮が真司の言葉に揺らいだことやライダーバトルが如何なる形で帰結したのかという描写とは無関係に、ライダーバトルによって恋人の復活を購うという選択自体が「間違ったこと」だからである。

蓮が真司に対して如何なる想いを抱くに至ったとしても、最終的にライダーバトルの勝利によって望みが成就してしまうのでは、真司の死は蓮に対して何ほどの影響も与えない犬死にということになってしまうだろう。真司が劇中でこれまで一貫して訴えてきたこととは「他者の犠牲の上に何かを得ようとするのは絶対的に間違っている」という主張だったからである。

この折衷主義的に中途半端な結末が、白倉Pと小林靖子の両者にとって納得の行くものだったとはオレには到底思えない。

城戸真司自体はこれまで小林靖子が好んで書いてきたような熱血単純莫迦で、うじうじと考える前に行動する、自身の直観的な倫理観を信じるタイプの人物であるわけだが、従来の小林靖子の作物では、そのような人物の行動力や倫理感覚が周囲の他者に通じて問題の解決が得られる的なストーリーが多かったのだが、白倉Pのシリーズ構成はそのような物語観に対して「じゃあ、こういう場合は何うなの?」というふうにどんどん障害を設ける方向で進んでいったように見える。

セラムン後半問題というのは、そのような小林靖子と白倉Pの考え方の鬩ぎ合いが現出した事態だとオレは考えているのだが、前半で周囲の人物を引っ張ってきた直情行動型主人公のうさぎに、日下陽菜との三角関係という抜き差しならない個人問題をぶつけて身動きをとれなくしたり、後半でプリムンとの二重性という足枷を設けてうさぎの戦い自体が世界の破滅をもたらすという設定により、素朴な倫理感覚と行動力を持つ主人公が劇中世界を救済するという物語性の成立に障害を設けていた。

ただまあ、そらぁちょっと一方的に白倉Pに分の好いゲームなんじゃねーの?と思うのは、普通は特定の物語的課題の解決というのは、所与の前提条件から計算して整合的な論理を構築するものなのだから、その成立の過程において成立を阻むような障害を設けるというのは、何うしたって後出しジャンケンだからである(笑)。

或る物語が成立する過程において、所与の条件として与えられたこれこれの障害を回避する為にこれこれの智慧を遣う、そのプロセスに決定的な影響を与えない範疇でスパイスとして不測の事態を織り込んでサスペンスを醸し出す、普通の作劇はそのようなものである。

それを、逐一回復不能な障害を織り込んでいたら、纏まる話も纏まらなくなるのは当たり前であって、白倉プロデュース作品が大筋の部分でいつも迷走するのは、そういう悪い癖があるからではないのかとオレは考えている。課題→解決という整合的な物語性というのは飽くまで所与の条件附けにおいて成立するのであって、途中で「こうなったらそうはいかないんじゃないの?」的に不測の事態が頻発したら大概の物語は破綻する。

その意味で、物語というのはよく出来たゲームと似ていて、誰もクリア出来ないゲームなどプレイアビリティの面では糞ゲーであり、誰でもクリア出来るゲームもまたつまらないゲームである。ほどほどにクリア困難な課題を設定するからこそ、ゲームの面白さが成立するのであるから、クリア出来そうになる都度新たなルールが発生してステージクリアを阻むというのでは、誰もそんなゲームで遊びたいとは思わない。

ステージが上がるに従って難易度がアップするのは、新たなステージにおける所与の条件附けなのであり、クリアされたステージ以上の面白みを付与する為に設けられたものなのであり、プレイヤーのクリアを阻止することそれ自体が目的なのではない。ゲームの設計者がプレイヤーのコンプリを阻止することそれ自体は窮めて簡単なことだからである。

その意味では、白倉プロデュース作品における課題の設定は、何うも整合的な物語性の成立を阻む目的で恣意的に課されるような性格が強く、所与の課題を解決する方向性で仕組まれた整合的な物語性が破綻するのは、言ってみれば当たり前の話だったと思う。

この喩えを聞いて龍騎を連想した方もいるだろうが、ライダーバトルの設定がつまらないのは、ゲームマスターである神崎士郎が剰りにも得手勝手に都合よくルールをねじ曲げるからだと謂っても好いだろう。つまり、胴元がイカサマし放題のインチキな博打であって、こいつの言いなりになっていても、ライダー個々人に好いことなんか何もないことが最初から剰りにも明白だからである。

普通はゲームの胴元でもゲーム自体のルールからフリーではあり得ないが、ライダーバトルの場合は神崎士郎に一方的な決定権があって、いきなりルールを変えたりルール違反を平気で犯す辺り剰りにも何でもアリで、マトモなゲームが成立していない。結局ライダーズは神崎士郎に一方的に騙されただけである。

ジョジョやハンタなどのバトルマンガにおいて、ゲーム要素を採り入れたバトルが面白いのは、ルールの厳格性がその設定者にも及ぶという公平性が保たれているからであって、そのルールを逆用して圧倒的に不利な立場のプレイヤーが胴元を負かすような緻密さが知的興味を満足させるわけである。

ところがライダーバトルの場合、プレイヤーが胴元の利害にそぐわぬ形で勝ちそうになると突然神崎が現れて「ルールを変えた」とか言い出すから、「なんだ、インチキじゃん」とげんなりするパターンになっている。要するに、それまで一〇〇点単位で進んできたクイズの最後の問題が一〇〇万点単位になるようなギャグに類似の感覚である。

この神崎士郎の描き方に顕れているように、白倉Pは何うも物語やゲームの醍醐味がよくわかっていなかったのではないかという気がする。物語もゲームも、所与の課題を解決するプロセスを楽しむものであって、所期条件として与えられた課題をどのように解決するかという論理の構築を楽しむものである。

当然続き物の場合は一つの課題が解決されたら次なる課題が立ち塞がるという連鎖で進むものではあるが、たとえばシューティングゲームで一面をクリアしたら二面からいきなり弾が出なくなるという課題の設け方などあり得ない。たしかにシューティングゲームで弾が出なくなったら敵を倒すのは不可能で、その意味では難易度が上がったと表現することも可能だが、シューティングゲームでシューティング出来なかったらそもそもゲーム自体が成立しない。

セラムン後半で何を考えてるんだろうと呆れたのは、主人公自身を一種のラスボスに仕立ててしまった為にラスボスを倒す役割の人間がいなくなってしまったことで、これは要するにシューティングゲームで弾が出なくなるレベルの課題設定であり、倒す人間がいないんだからラスボスが勝利するのは当たり前である。

普通、こういう場合にはその「当たり前のつまらない成り行き」を回避する為に残った四人の脇役に主人公一人分に匹敵するだけの重要性が付与され、主人公をラスボスの呪縛から解き放つという落とし所に持っていくのが常道だが、四人の裡の一人が決戦を前にして病死し、残った三人も為す術もなく敗れるという筋立てになっていて、何の智慧もなく世界が滅びるという唖然とするような結末になっている。

何うも白倉Pは、予定調和のご都合主義と課題解決のプロセスの整合性を混同している嫌いがあって、物事が整合的に解決することそれ自体が出来すぎていると感じてしまうのではないかと思うが、それを言い出すと課題という概念自体が存在し得ない。課題というのは、解決を前提とする思考の枠組みであって、天然自然に無前提の課題が存在するわけではない。解決がないのなら課題という概念もまたあり得ないのである。

たとえばオフィスが雑然としていて作業事故が頻発する、動線が混乱していて効率が上がらない、そんなのは無前提の自然状態では課題でも何でもない。そのような所期条件においてこれこれのプロセスに基づいてこれこれの結果が生じるというだけの話であって、何の思考の枠組みも設けないのであれば、作業事故も非効率も「課題」とは成り得ないのである。一定の割合で怪我人が出るという「コスト」によって最終産品が得られるというだけの話だし、効率の問題に至っては現状の効率に対する不満がなければ意識さえされないだろう。

それが「課題」となるのは、怪我人が出ることや現状の効率に対する不満という動機が前提となり、より良い状態として「怪我人をなくす」「効率を上げる」という「解決」を想定するから課題という概念たり得るわけで、「課題と解決」はセットで成立する思考の枠組みとしての虚構的な概念なのである。

その枠組みがなければ、たとえば大昔は大規模工事で死人が出るのは「大規模工事」という事業に付随する当然の「コスト」に過ぎず、だから大規模工事はイヤな課役だという結論にストレートに繋がっていたのである。

それ故に、たとえば物語において「課題」を設定するのはそれを「解決」することが所与の絶対条件として想定されているからであって、物語の具体というのはその解決に至るプロセスの描写である。

マトモな物語を語るのであれば、課題から解決に至るプロセスをどのように面白く語るかに注力するのが当たり前であって、その課題が解決可能であるか否かを論じるのであれば、クイズを出しておいてそれに正解があるかないかを論じるようなもので、そんな課題を設定するほうが作劇観として間違っている。物語とは、ある特定の課題が解決可能であるか否かを論じるものではなく、解決可能な課題を如何に解決不能であるかのように装うかということにキモがあるからである。

しかし白倉Pは、整合的な物語の出来すぎ感が我慢出来ず、所与の課題が巧みにクリアされればされるほど、「実際にはそんな上手く行くかよ」という不安を覚えるのではないか。「だったら、ここでこういう障害が発生したらそんなに上手く解決出来るのか」と畳み掛けずにはおられないのではないかと思う。

その結果、白倉Pの作物にはみなクリア出来ない糞ゲー、設計者が本気でプレイヤーのコンプリ阻止を狙ったイヤガラセのようなインチキゲームというモヤモヤ感が残るのではないかと考えている。

しかし、この傾向はカブトではかなり払拭されていて、ちゃんと整合的に所与の課題を解決しようという意志が視られたように思う。カブトという番組がかなり迷走した挿話群であることは事実だが、少なくともそれは、整合的に描こうとしたのだが種々の事情によって失敗したような見え方になっている。

それは一種、カブトにおいては白倉Pが或る程度距離を持って制作していたという事情も大きいのだろうが、途中で幾らでも邪魔立て出来るという条件では面白い物語が出来るはずがないということに気附いたのではないかと思いたい。邪魔が入ったから失敗するというのは、あれこれ論じるまでもなく「当たり前でつまらないお話」でしかないのはどんな莫迦にでもわかるからである。

そして、カブトを踏まえた上で始まった電王は、これまでの白倉作品とはかなり趣の違う性格があると思う。何がいちばん違うかと言えば、主人公である良太郎とハナが最初から善良な人物として印象附けられ、その善良性が肯定的に描かれていて、物語的な課題に対して解決的に働き掛ける部分である。

これまでのライダーで言えば、ハナのように物語世界をリードする人物の設定で最も強調されるのは、彼女が抱えている個人事情であり彼女が属している個別的な規範意識であり、要するに個人としての「都合」である。そして、常に物語的な課題を投げ掛けるのは、外部の悪ではなく主要人物たちが抱えるこのような「個人の都合」であることが多かった。

たとえばハナがデンライナーに搭乗している特殊な動機とか、オーナーとの契約が強いる行動規範の不可解さとか、そのような部分を強調して描かれるのが常であり、それが良太郎の素朴な正義とぶつかることで物語的課題が生じるというのがこれまでの白倉ライダーの定番的作劇だったと思うのだが、この番組のハナは非常にわかりやすいいい子キャラであり、個人の都合よりも劇中で接触する他者の利害の為に行動することが一般的で、それが結果的に物語的な課題の解決に影響力を持っている。

視聴者にとって未知の設定を抱えるハナを、最初の最初からこのように描くというのはこれまでのライダーには視られない性格で、彼女の行動原理は視聴者の誰もが共感可能な、普通一般の意味での善良さである。初期の数話のエピソードでも、デンライナーの規則よりも良太郎の善意を重視するという形で、誰もが共感可能な普遍的な善良性が強調されている。

また、史上最弱と位置附けられた良太郎の行動原理も、「間違っていることは間違っている」という極々自然な倫理感情であり、決して彼個人が抱えている「あり得ないほど不運な男」という個人事情の故の奇矯性でもないし、彼が抱いている個別的な規範意識でもない。

これまでのライダーの登場人物たちは、たとえばハナが良太郎の身を案じて行動するような場面なら、必ず「勘違いするな」と突き放して「良太郎が死んだら特異点が消失して目的遂行の障害になるからだ」などと必ず「都合論」を表に立てる傾向があったわけだが、電王では素性も知れない謎の美少女キャラであるハナが普通に良太郎を心配して行動するわけだし、単なる劇場型犯罪者にすぎないモモタロスも、良太郎の根性を気に入って信頼関係を樹立し友情を結ぶに至る。この辺りの、人間性に対する無前提の信頼のようなものは、これまでのライダーにはなかった性格である。

現実の人間は善意や好意ではなく、個人の「都合」で動くのであるという人間観も斜に構えた変化球としてアリはアリだがそればかりが真実というわけではない。ちょっとした善意や好き嫌いで動くのも人間なのだし、好意を抱いた相手には何か善いことをしてあげたいと望むのも人間というものの真実である。

このような自然な倫理感情やそれが具える力に対する無前提の信頼は、白倉Pのものというより小林靖子のものであるように見える。言ってみれば幼稚園レベルの「善いことは善い、悪いことは悪い」というプリミティブな感覚なのだが、ヒーロー物語が語り得る正義とはこれが限界なのだということは以前何処かで話したかもしれない。

ヒーロー物語はたしかに正義の看板を掲げてはいるが、正義とは何ぞやと語る物語ではないのだし、他者から圧し附けられる正義が信頼出来ないのだとすれば、これが正義だとかあれは正義ではないなどと語るのは自家撞着なのである。

ヒーロー物語が扱う正義とは、語り手と視聴者の間で最低限コンセンサスのある正しさでしかないのであり、それは非常にプリミティブな倫理感情以上のものではない。それこそ、北朝鮮問題に関してこれこれこうするのが正しいというようなレベルの具体論をされても、それを正義の名の許に描くことは不可能だろう。

これまでの電王で描かれている正しさとは、たとえば龍騎で言えば「一人の為に一二人を殺すなんて間違っている」レベルの正しさであり、真司のナイーブな正義が力を持つ世界観である。実際には13ライダーズ個々人の「都合論」など何の説得力もないのであって、恋人を病気で亡くした人はこの世に数え切れないほどいるけれど、そんな人々が恋人の替わりに一二人の他人を犠牲にしても顧みないかと言えば、そんなわけはないのである。

ライダーバトルの全員納得尽くという設定を外して考えれば、「一二人殺せば何でも望みを叶えてやる」と言われたら、弱い存在である人間は幾らか揺らぐものなのかも知れないが、そこで本当に一二人殺したらただの犯罪者である。全員納得尽くのゲームという虚構が設定されているから何となく胡麻化されているが、納得していようが何だろうが自分の望みを叶える為に他人を殺すのは犯罪であり、簡単に言えば「悪いこと」なのである。

龍騎の真司は「じゃあおまえが恋人の命を救ってくれるのか」的に詰め寄られると言葉を喪ってしまうわけだが、電王の良太郎は「でもそれで他人を殺すなんて間違ってる」と言い放って梃子でも考えを変えないわけである。「間違ってる」と言い放って頑固にそれを貫くということは、つまり倫理感情というのは個人の都合で変わるものなんかではないし、個人の都合と等価ではあり得ないということである。その上で、一二人の犠牲とは別の第三の選択肢を模索し、その為に必死で努力するのが人倫というものであり人間の可能性でもある。

従来の白倉ライダーの息苦しさというのは、「恋人の命か一二人の他人の犠牲か」という命題を純粋に成立させる為にあの手この手で状況を追い詰めようとする執拗さがもたらす感覚だと思うのだが、「恋人の命か一二人の他人の犠牲か」という純粋命題を追求しようとする姿勢そのものが、恋人を救う為に一二人の他人を殺させるのである。

現実には、一二人も他人を殺さなくても恋人は救えるのかもしれないし、救えないとしたらその死を受け容れて互いの生を充実させる途を模索するのが人間の生き様というものであり、最初から個人の都合で一二人の他者の犠牲を天秤に掛けること自体が間違っているのだし、そんな命題を追求することにプラグマティックな意味はない。つまり、幾らヒーロー物語が絵空事でも、そんな思考実験を突き詰めることは視聴者一般の日常に何ら益はないのである。

物凄く単純化して言えば、あなたはとっても困ったら犯罪を犯しますか、それは一概に悪いことと言っていいんですか、という命題が問われているのであって、その命題自体が非常に馬鹿馬鹿しいという言い方も出来るのである。勿論どれだけ困っていようが犯罪を犯して好いわけがないのであって、犯罪を選ばずに困難の解決を図るのが当たり前の話なのである。

その当たり前の話に対して、「でもこんなに困ってるんですよ」「こうすることも出来ないとしたらどうですか」とあの手この手で追い詰めて、困窮か犯罪かの二者択一の純粋命題に仕立てようとする辺りが息苦しく感じるわけだが、犯罪を正当化する目的でもない限り、そんな命題を仕立てるプラグマティックな意味はないのである。

ライダーに変身して殴り合うという見え方になっているから、ライダーズの都合論にも一応の理があるように見えるが、これが刃物を持って殺し合いをしているという見え方だったら何うかと言えば、何処から何う視ても狂気の沙汰にしか見えないし、最早それはホラー映画である。恋人を救いたいとか自分が生き長らえたいというだけならまだしも哀れな愚か者の痴愚心と表現することも可能だが、英雄になりたいとか遊び金を儲けたいとか面白そうだとかただ暴れたいとかいうのでは、名実共にただの犯罪である。

そんな理由で殺し合うことに対して「犯罪は善くない」という議論の余地なく正しい言い分がまったく説得力を持たず、互いに騙したり陥れたりして足を引っ張り合い殺し合うというのはまさに仁義なき戦いである。言ってみれば、龍騎とはヒーローが力を持たない犯罪者同士のドラマであって、何故こういう物語をヒーロー物語の枠組みで語らねばならないのか理解に苦しむ。

犯罪ドラマとして視れば一定の面白みはあるのだろうが、正論を吐くヒーローが無力であることを強調する構造は、恣意的なヒーロー否定でしかないだろう。そして、何うもこの劇中で真司が無力だったのは、単に騙されやすくて弱かったからだという見え方になっているのだが、それって「正義が力なのではない、力が正義なのだ」という話なんじゃねーの?という疑問が拭い去れない。

いつもナイトや王蛇が殴り合ってる周りで「喧嘩をやめて〜」と無力な女の子のようにうろうろした挙げ句にぶちのめされてオシマイという見え方なので、真司がもっと狡賢くて強かったら、蓮や北岡や浅倉をぶちのめして「これだけ言ってもわかんねーのか」と啖呵を切って13ライダーズの闘争を制止出来たというように見える。劇中人物の中で真司が最も騙されやすくて弱いのは、最初から出来レースでライダーバトルを継続させる為の仕掛けでしかない。

小林靖子の本音としては、間違っていることがわかりきっている枠組みの物語を何う描いて好いのかわからないのは当然で、真司は「自分の都合で他人を殺すのは間違っている」と主張しているのだから、まったく議論の余地なく正しいことを言っているにも関わらず、恰もライダーズ個々人の身勝手な都合のほうがそれよりも重いような物語世界が居心地悪かったのではないかと思う。

その意味で電王の良太郎が「弱いくせに頑固」というのは、城戸真司リベンジという印象もあるわけで、自身の無力さに悩み揺らいだ真司と違って、良太郎は幾ら弱くて不運でも自身の倫理感情に関しては決して揺らがない芯の強さがある。真司の善意が結局蓮を含めて他者の行動に決定的な影響を与えることがなかったのに比べ、良太郎の善良さはモモタロスやハナに影響を与えて、まったく戦う力を持たない脆弱な良太郎に力を与える存在となっている。

そして、電王というライダーシステムにおける良太郎の位置附けはどのようなものなのかと言えば、誰もが識る通り彼自身が戦う主体というわけではない。実際に戦うのはモモタロスであったりウラタロスであったりという良太郎に憑依するイマジンたちであって、良太郎自身は彼らに肉体を貸しているだけである。

当初はこの設定はヒーロー番組の構造として、また、変身という概念として何うなんだろうと疑問に思ったのだが、疑問それ自体は解消されたわけではないとしても、ここまでの数話においてそれなりの意味性が成立していること自体は評価したい。

つまり、ここまでのエピソードにおいては、良太郎は戦いの主体ではあり得ないが、戦いのリスクを一方的に負う存在なのであり、得手勝手な個々人の「都合」で戦うモモタロスらイマジンたちに対して、上位自我として倫理感情のコントロールを加える存在なのである。古臭い言い方をすれば、良太郎は正義の戦いに対して自身の肉体を犠牲として差し出し、戦う力であるイマジンたちの良心として機能する存在であるということである。

このような意味性とは別次元で、やはり変身ヒーローというのは変身前後の人格に統一性があったほうが燃えると思うし、ウルトラマン的な憑依型ヒーローに感じる違和感をさらにもっと強調したようなアイディアが幼児にウケるか何うかは疑問だが、ドラマのキャラクター描写として成立していることは間違いないだろう。

元々平成ライダーでは、今時のイケメンキャスティングや白倉的な屈折した設定の弊害で、ライダー・怪人ともに変身前後のイメージの統一感に欠ける嫌いはあったのだが、少年体型の優男がゴツいJAEのスーアクに変わる違和感どころか、設定面からして別人という割り切った試みが吉と出るか凶と出るかは微妙である。

小林靖子の話題に戻ると、そういう意味でデンライナーサイドのキャラ描写や物語性に関しては従来の白倉作品になく面白いのだが、各話のゲストキャラを巡るエピソードに関してはまだまだ本調子ではないように思える。

現在パートの部分に関してはそれほど不満はないのだが、過去改変を巡る物語構造の意味性が上手く提示されていない嫌いはある。元々事前に危惧していたように、歴史改変テーマというのは、今や最初からシリアスな物語テーマとしては成立しようがないものであり、精々映像作品におけるSFホラ話として命脈を保っている分野である。

映像分野では、たとえば「リターナー」の山崎貴のように時間テーマに拘りを持つ作家もいるのだが、要するにこの分野の物語は緻密なウロボロス的論理に基づくホラ話として語るべき事柄であり、真顔で語るならば何処まで厳密に整合を求めても「なんちゃってSF」以上のものには成り得ない。

たとえば、過去の世界で暴れたら二〇〇七年時点でも建物が消失するというのは、普通に考えたらおかしな話なのだが、それは要するにそのような視覚的面白みを現出する為の口実であるということである。小説の分野では最早廃れたテーマが映像分野ではまだ現役なのは、そのような視覚的面白みの口実としてまだまだ使いでのあるテーマだからである。

たとえばBTTFでも、マーティが生まれないように過去が変わり始めると彼の写真がぼやけて消えて行くという視覚的表現があったが、そんな莫迦なことがあるわけがないのは誰でもわかる。しかし、過去が改変されてマーティの存在が揺らぎ始めるという筋立ての視覚表現として面白いことは否定出来ないし、寧ろそういう面白くて多彩な視覚表現を可能にする便利な口実だから時間テーマは未だに映像分野で使えるのである。

だから、そもそも歴史改変を阻止するという道具立てそれ自体はシリアスな設定として真に受けるには当たらないのだが、このような道具立てを各話の物語的感興として昇華する手筋が未だ確立されていないという印象なのが現時点での課題である。

結局歴史改変テーマという道具立てでこの作品が狙っているドラマ的な感興とは、過去の悔恨を巡るドラマ性ということになるのだろうが、現実には過去に戻ってやり直すことが不可能である以上、「変えたい過去がある」という悔恨をドラマとして昇華するには、「実際に過去を改変する」という道筋では普遍的でストレートな感動には繋がらないような気がする。

小林靖子の思想性としても、オーナーが語るように「流れた時は戻らない」という考え方のほうが本筋だろうし、過去に囚われることなく前に進むことが重要だと考えているのだろうと思うが、タイムレンジャー以降ずっと過去の清算というテーマで苦戦しているような印象があるだけに、またしても時間テーマというのがちょっと不安要素として感じられる。

小林靖子が書いた過去を巡る物語で優れているものは、「決して過去をやり直すことは出来ない」という現実的な認識に基づいたものであり、タイムレンジャーのように実際に過去の歴史を変え得るような設定では、上手くその辺の折り合いが附けられないような印象がある。

実際、これまでの三つの前後編においては、良太郎が善意に基づいてゲストキャラの過去の悔恨を救済するという落とし所になっているが、現実世界においては、過去の出来事は決してやり直すことが出来ないから重い意味を持つのである。その意味では「あの時に戻ってやり直すことが出来たら」というのは魅力的なIFなのだが、本当にやり直してしまったら何の物語的感動もない。

この現実世界においてそれだけは決して出来ないことが、フィクションだから出来ましたというだけの話になってしまうからである。テツオが母親の死に目に会えたり、山越がオーディションに間に合って、現状よりちょっとだけマシな生き方をしていることは視聴者の感情を慰めるが、「過去をやり直せる」という特殊要件が如何なる普遍性にも還元し得ないリアリティに欠けるギミックであるが故に、なんとなくうそ寒い後味をもたらすことも事実である。

このギミックを、たとえば現実世界の普遍的実感に還元し得るような物語の枠組みを確立し得たならもう少し感動が得られるのだと思うが、物語の嘘事でしかない仕掛けによる普遍性に欠ける解決という辺りがイマイチ感動に結び附かない。

普通に考えればやはり、過去を改変したからもっとマシな現状になりました、というのは剰り力のある物語ではないわけで、過去をやり直せるという設定において、敢えて過去をやり直すことの意味を否定し、現在において前向きな努力で過去の悔恨を解消する以外にはないという落とし所でもないと、現実に生きる視聴者は落ち着かないだろう。

何故なら、物語の嘘事で普遍的な問題性を解決してしまうということは、そのような嘘事でもない限り過去の悔恨を解消することは出来ないという内実を背理的に語ってしまうことになるからである。良太郎がゲストキャラの過去を改変する際に感じるうそ寒い後味というのは、デンライナーのいないこの現実の世界においてオレたちが過去の悔恨と対峙することについて、この物語はまったく言及していないからである。

現実世界のロジックでは、テツオや山越が「あの時ああしていれば」と幾ら悔やんで生きていたとしても、過去に戻ってあの瞬間をやり直そうとしても無駄の皮で、現在只今の時制において性根を入れ替えて真面目に生きるしか再生の途はないのであり、そのようなモニターの向こう側の現実に力を持つ物語とは、飽くまで現在の時制において彼らの生を救済する物語的契機を描くことでしかないのである。

時を遡り得るという特殊な力を持つヒーローが、過去に戻って人知れず彼らの悔恨の種を排除してあげるというのはたしかに優しいファンタジーではあるが、現在只今を生きるオレたちの生活実感とは徹底的に無関係な夢物語である。逆に謂えば、時間遡航という道具立ては、時を遡ってやり直さなくても人は過去の悔恨に立ち向かえる、過去をやり直すのではなく現在を生き直すことが大切なのだ、そのようなポジティブなテーマを語ることでしか普遍的な感動を語り得ないはずである。

だから、出逢った人々の為に善意を実行する良太郎たちの物語としては活きているのだが、良太郎たちによって救済されるゲストキャラの物語は胸に迫ってこない。主人公たちの善意によってほんのちょっぴりマシな生き方を出来るようになって善かったねという、そのレベルの印象しかないのである。

やはり、視聴者の胸に強烈に迫る物語的感動というのは、嘘事の課題の解決を通じてそれを見守るオレたち現実世界の視聴者の生活実感をも普遍的に揺さぶるものでなくてはならないのだろうと思う。その意味で、テツオや山越に関するドラマは、この物語の特殊要件に依拠した普遍性に欠けるものであることは否めず、普遍的な感動には結び附いていない。

ならばここ数話の物語的な面白みというのは何処にあるのかと言えば、先ほど触れたように飽くまでデンライナーサイドを主軸に据えたキャラクタードラマとしてのものであるということになるだろう。

各話のゲストキャラの物語において立ち上がってくるのは、彼らに接した良太郎の心性の在り方であり、ハナの、モモタロスの、ウラタロスのそれである。その意味でゲストキャラ自体のドラマ性はまだまだ成立していないのだが、そのような劇中現実に対峙する際にどのように考えるのか、行動するのか、そのような機序に基づいてデンライナーサイドの人物たちが描かれている。

ある種、この形式の物語が目指すべき到達点とは、主人公サイドのキャラクター話ばかりではなく、それがゲストキャラを交えた全体のドラマに有機的に作用し、一方的ではない良質なドラマを語ることだろう。その意味で、現状のエピソード構築では十全に全体的なドラマとして機能していないという嫌いは否めない。

それが設定提示編として猶予されるのは、おそらくすべてのライダーフォームが出揃う第一クールまでだろうが、従来の白倉的シリーズ構成術では第二クールは設定提示編のエピソード形態を棄てて大状況のうねりを設けてくるので、この儘各話のドラマ的完成度が犠牲になる可能性は高いだろうし、それが電王というシリーズ全体の瑕瑾要素として結論附けられる可能性も高いだろう。

ある種、現状の作劇では事前に危惧した通り小林文芸の構造的負けパターンである時間改変テーマを採用した設定が負け目に出ている嫌いは否めないが、前述の通り小林脚本術の真価は、一通り演者や演出者によって具体化された映像作品を書き手が視られる第二クールを過ぎた辺りから発揮されることも事実なので、それがその時点における白倉Pのシリーズ構成上の思惑と上手く噛み合うか否か、この番組の将来はひとえにそこにかかってくるのではないかと思う。

所謂「エンジンがかかった」状態の小林脚本がどの程度化けるか、今後の期待はそこからの「伸びしろ」にかかっていると言えるだろう。

|

« Let's kung-fu! | トップページ | 獅子の瞋恚 »

コメント

なぜか引き合いに出されたので参上してみます(笑。
仰るのはhttp://d.hatena.ne.jp/quon913/20070306/1173208521の記述に関してだと思いますが、このエントリは愛他心と正義の混乱こそが龍騎や555当時の白倉Pの文学性だったと位置づけて、正義の確立を目指して混乱を巡る葛藤を否定したのがカブトであり、正義の名前にこだわることはないのだ、なにかしてあげたいと思うことこそが大事なのだ、と肯定したのが電王なのではないかというエントリでして、その行為の正しさを便宜上正義と呼んでいるけれど、本来の意味の正義に私は興味はないし、それは白倉さんもそうなんじゃないのかな、と思っているのは以前も言ったとおりですね。
龍騎のはなしをするなら、あのライダーバトルが倫理的に許されないのは当然だとしても彼等は個別の事情で納得してそのバトルに参加してるんで、なんで関係ないおまえが入ってきてバトルの邪魔をするんだ、俺たちは納得してやってるんだ、おまえは自分に背負うものがないからそんなことが言えるんだろう、と真司が言われるのも無理はないんですね。それでも正しいのは真司の方なのだからライダーバトルを力づくで止めるより他に彼等を救済する術はないのだ、というのを以前黒猫亭さんがうちのコメント欄で言ってらして、それはたぶん靖子にゃんにとってもそうなんでしょうけど、それを力づくで止めるという選択肢が救いになるとは思えない、というのが白倉さんの文学性なんだからそういうはなしを求めても無理だよ、という風にも思うわけです。
電王でいうなら「なにかしてあげたいけど、ここで過去を変えてもほんとの救いにはならない」と悲しい顔をしていたのでは真司や巧と同じなわけで、自己満足に過ぎなくてもほんの少し手を出せるのが良太郎の強さなんであり、その変化を一貫して自己否定のはなしを書き続けた白倉さんが自己肯定のはなしを書き出したと私は喜んでるんですけどね。
それがほんとの救いでないというのは私を含めて大人の視聴者なら感じることではあるでしょうが、それを否定してしまったらこのモチーフではなしを作る意味もないわけで、その辺をいかにドラマティックに持っていくか(ドラマティックに否定するという可能性も含め)も今後の楽しみだと思っています。

投稿: quon | 2007年3月 9日 (金曜日) 午前 01時14分

どうもです。さほど面白いと思って観ていなかった龍騎についてこれだけ語ったもんですから、ちょっと余所の方の意見も聞いてみたいと思って引き合いに出してしまいました(笑)。

正月のエントリーでは白倉視点から少し龍騎に触れたわけですが、今回は小林視点から逆に視てみようと思い立ちまして、白倉Pの文芸的関心がそのようなものであったとして、書き手の小林靖子はどのように考えていたのかな、という辺りについて書かせていただきました。

仰る通り、白倉Pの描きたかったものがアレなんですから、そもそもああいう話以外にはなりようがないんですが、それをメインで書いていた小林靖子にはピンと来ない命題だったんだろうという話ですね。たしかに真司は何ら重いものを背負っていないわけですが、他の人間のように何かを背負っていたら、間違っていることを間違っているとは言えないかもしれないという部分もあります。

小林靖子的には、普通に北岡には死の受容のドラマを用意して、蓮のほうは最終決戦でミラーワールドを破壊しライダーバトルを終息させることで恋人が目覚める話にすればいいじゃないか、そういう考えだったんじゃないかと思うんですね。他の連中なんて英雄妄想とかゲーム野郎とか小銭稼ぎとかただ暴れたい犯罪者とか、勝手にやってろよって連中ばっかりですから、幾らでもドラマで救済することは可能なんですよ。

ギリギリ龍騎世界のシビアさを演出していたのは、やっぱり自分や恋人の大事な命がかかっている蓮と北岡の事情だけだったと思いますし、それだって水も洩らさぬ究極の選択に仕立てるのは、SFファンタジーという自由度の高い器の中では無理があったと思うんですね。

だから、突き詰めて言えば白倉Pがああいう結末を望まなかったらああいう話にはなっていなかったし、それには白倉Pの文芸的関心という以上の根拠はなかった、まあそれが書き手のメンタリティと相容れなかったからいろいろ無理があったんだよね、という話がしたかったわけですね。

それと、平成ライダー的な正義の問題ってのは、やっぱり白倉Pの個人的な拘りでしかなかったんだなぁと更めて思うわけで、本来の意味での正義なんてオレだって関心はないですよ。最初の最初から、トクサツ番組の正義なんてそれこそ他人を思い遣る心とか弱い者を苛めちゃダメとか幼稚園レベルのことでいいんじゃないの?と思っていたわけで、白倉Pが過剰に正義に拘る動機がよくわからなかったということがあります。それは要するに、無力だけど人の為に何かしてあげたいと望む自身の心性を自己肯定することへの躊躇いだったわけで、そんなちっぽけな感情を戦隊みたいに正面から「正義」と言い切っちゃっていいの?という拘りだったわけですね。

電王に関しては、一応今後の課題として論じてはいますが、過去の悔恨をやり直すというルーティンは一種の棄て駒というか、「やっぱりこれじゃダメだ」という次の段階への布石だといいなと思っています。最初からオーナーや良太郎自身が過去の改変に関しては「これでいいんだろうか」という疑念を提示していますし、そこから今を力強く生きていく話にシフトしていけば理想的かな、と。

旧三部作の白倉ライダーは、「何もしてあげられない自分」という「結果を得られない無力さ」への絶望のようなものが主眼だったわけで、龍騎が全滅エンドありき的な悲劇を志向してポジティブな解決を残らず拒絶してしまったのも、何もする前から「結局何もしてあげられない」という絶望ありきの話になっていて、そのような悲観的な「気分」を表現することに特化した物語だったからだと思うんです。

しかしこれまでの電王を視る限り、「結果を問わず何かをしてあげたいと望まなければ何も始まらない」という地点へ進んでいるのかな、と。その意味で、主役陣のドラマが濃密でゲストキャラのドラマが脇に行っているのも、そのような積極的善意を抱く主体をまず描くことから始めてみようという試みかなと思います。まだこの段階では幼稚園レベルの善意を抱く少年に何が出来るのかわからないけど、でも先回りして絶望するんじゃなくてとにかく何かやってるんだよ、というニュアンスを残しているんでしょうね。

投稿: 黒猫亭 | 2007年3月 9日 (金曜日) 午前 07時24分

どうもこんにちは。korohitiさんのところではお世話になりました。

えと、つまるところ靖子たんは「いいことはいい、悪いことは悪い」と単純に信じられる性格であり、物語もそう描きたいと思っている、が、しかし、白倉Pはその単純な割り切りに疑問を感じ、「本当にいいのかそれで?」とぐるぐるしちゃってる、その齟齬が出ちゃってる龍騎は「小林作品としては」評価したくない、という話でしょか?
翻って電王ですが、確かに良太郎が過去で行う「小さなよいこと」には自分も違和感を感じます。
いつそれを断罪する気なんだろう、と思いながら見ていますが、この辺にも白倉Pの「よいことでもやっていいことと悪いことがあるんじゃないの?」というぐるぐるが見えているような気がしますね(笑)
靖「過去に行った悪いイマジンをやっつけるだけ、良太郎たちは過去をいじれない、っていう話じゃダメですか!」
白「いや、それだとライダーじゃないから(意味不明)」
というやりとりがぼんやり妄想できますw

投稿: H | 2007年3月 9日 (金曜日) 午後 12時12分

>Hさん

先日はどうもお世話になりました。

そうですねぇ、ネットでも「イマジンの過去改変と良太郎の小さなお節介の何処が違うの?」とツッコミを入れられていることはたしかなので、良太郎レベルの歴史干渉でも「いけないこと」ではあるんでしょうね。その意味でも、現状のパターンでゲストキャラのドラマを解決することそれ自体に疑問がないわけではないです。

ただ、小林靖子のメンタリティの「いいことはいい、悪いことは悪い」というのが、そういうような規則意識とはちょっと違うかもしれないとも思いますので(いいことだったらあんまり堅いコトは言いっこなし、みたいな)、このルーティンをどう思ってるのかは量りかねますねぇ。ゲストキャラ視点では抜本的な問題解決になってないことは気附いているだろうと思いますが。

まあ、「歴史改変テーマは複雑でややこしいからヤスコを呼んだ」とか言っといてこれなのでは、本人的には「タイムパラドックスgdgdじゃん」と思ってることはたしかでしょう(笑)。「歴史改変テーマは複雑だから」云々という話から予想すると、もう少し辻褄合わせのロジックを楽しむ普通のタイムスリップ物をイメージしてしまいますけど、まあ、番組立ち上げ時の白Pのパブリックステートメントを真に受けちゃダメなのはもうみんな識ってますし(爆)。

おそらく、過去をやり直すことでゲストキャラの現在を救済するというルーティンが劇中で「いけないこと」と意味附けられるとしたら、その小さな改変によって、大きな歴史は変わらないけれど、同じくらい小さな「いいこと」が「なかったこと」にされてしまうというような二律背反が扱われるんじゃないでしょうか。たとえば、誰かの過去の悔恨を改変してしまうことで、他の誰かが生きる支えにしている大事な想い出がなかったことになるというような。

そうだとすれば、これまで良太郎が「いいこと」だと信じて行ってきたような小さなお節介が、実は回り回って同じような小さな「いいこと」を消し去ってしまっていたのかもしれない、誰かの悔恨を他の誰かに圧し附けていただけなのかもしれない、これまでボクのやってきたことって何だろうと悩む、そういう「いつもの白倉節」的な鬱展開も予想出来ますね。神ならぬ人間が他人の人生を弄んでいいのか、そんな権利が誰にあるのかとか、そんな鬱話にもしようとすれば出来ますし。

いずれにせよ、ドラマの心情的課題をSF的な小道具のみによって解決してはいけないというのはドラマ一般の鉄則ですから、このルーティンが無批判で「いいこと」と意味附けられるとはちょっと思えないですね。

あ、それから、龍騎に関しては概ねそういう認識です(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2007年3月 9日 (金曜日) 午後 02時28分

私は電王に関してはかなり白倉さんの介入を色濃く感じてまして、その意志のベクトルが「とりあえず自己肯定」だと踏んでいるので、途中で白倉さんの気が変わらなければ良太郎が歴史改変の誤りに気付いても「いつもの白倉節」にはならずにライトに流してくれないかと思っています。というか、そう思いたい(笑。
ただそう思う理由が靖子にゃんがかなり自分の規範意識を犠牲にして良太郎の善意をポジティブに描いてくれているなと思うからで、番組がはじまる以前に「いつものように“ほんとにこれで良いの?”とグルグルするはなしにしたくない」という意志の確認があって白倉さんの意を汲んでくれているのではないかと邪推しているんですね。靖子にゃんはよく知りませんけど、歴史改変周りの微妙さは靖子にゃんより白倉色っぽいな、と。
そういう意味では今年も白倉さんはやらかしてくれそうだなあ、と不安と期待が半々です(笑。

投稿: quon | 2007年3月10日 (土曜日) 午前 08時47分

>quonさん

あ、すいません、公開承認がえらい遅れましたが、格別の理由があって承認を保留していたわけではなく、今朝から夕方まで高鼾をかくといういぎたない真似をしてしまったモンですから、ついさっきまで書き込みに気附きませんでした(笑)。明日ご出勤だというのに、重ね重ねすいません。

電王の構造的疑問点に関しては、やっぱり伸ちゃん主犯説ですか。まあオレも、以前から電王はタイムリベンジだなんて言ってますから、それこそ構造的に破綻していたタイムレンジャーとまったく同じ轍を踏むというのは、ヤスコ側の思惑ではないんじゃないかとは思いますが、もうちょっと視てみないとわからない部分ではありますね。

普通に考えても、ゲストキャラサイドのドラマは「めでたしめでたし」で終わっているわけではなく、毎回ある程度の含みを残して煮え切らない形で意味附けられていますから、次の仕掛けがあることはたしかだと思います。そういう意味では、カブトほど「他人の希望を実現する為に己を殺して頑張りました」という意識で作っているわけではないというのは、なるほどそうかもしれないと思います。

それが「息の長い仕込み」という結果として表れれば報われるんでしょうけど、それは毎年の「ライブ感」とは別の部分として辛抱強く我慢しないと効いてこないと思うので、果たしてTV番組のPとしては有能な伸ちゃんに辛抱しきれるかどうかというのが電王における正念場ですかね。quonさんの想定に乗るなら、書き手の小林靖子にはそういう息の長い作劇の生理はありますけど、そのような最初の約束を守りきれるのかどうかというのは、かなり重要なファクターになってくるんでしょうね。

臨機応変に変える部分と朴訥に変えない部分を堅持するという姿勢が必要なんだと思いますし、それをやり抜くことが出来たら間違いなく白倉Pは小林靖子にギンガマンを書かせた高寺Pを超えたと言えると思います。

ちなみに、この際だからハッキリ言っておきますが、オレは現状の電王に対してはさほど批判的な姿勢ではありません。ゲストキャラのドラマ性の希薄さという観点の問題性は現時点ではどう価値判断を下すという性質のものでもないし、どのような物語をどのようなペースで語るかという、語り手の自由度に任された部分だと考えています。

ゲストキャラのドラマが物足りない分だけ主役陣のドラマに重心が振られているわけだし、視聴者に我慢を強いる息の長い仕掛けに主役サイドの描写の面白さで手当しているのでしょう。また、このような問題性に対してどのように感じる人々が主役のドラマなのかを明確に提示することに徹するのも作劇として間違っているとは思いません。

少なくとも、小林靖子を自身の文芸性の表現の具として書かせた龍騎の時点よりも白倉+小林のコンビネーションは有効に機能するんじゃないかと期待しています。そういう期待というのは、電王という作品それ自体から受ける印象というより、龍騎からセラムンを経て三度目の試みとして顕れた番組に対して、作業実態的な側面から類推することなんですが、この三作の間で白倉Pの小林靖子に対するスタンスを推測すると、作業者同士の信頼関係がどんどん高まっていると感じるんですね。

龍騎では信頼する相棒の井上敏樹が推薦する有望な作業者というだけの認識で自分の語りたいことを書かせたのだし、セラムンでは小林靖子の書きたいことを書かせながら肝心の落とし所では自身の文芸観を押し通した、だとすれば、今のところ他の書き手では描けないような主役陣の人物像や関係性の濃密な描写でTVドラマとしての面白みを担保するというところで懸命に頑張っている小林靖子に、白倉Pはきちんと酬いることが出来るのか。

オレ個人としてはそういう興味が主眼ですね。この電王の成否如何によって白倉Pが度々揶揄される「ライブ感覚」の信頼性が高められるかもしれないという期待もあります。

投稿: 黒猫亭 | 2007年3月10日 (土曜日) 午後 11時10分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/136645/14180342

この記事へのトラックバック一覧です: 1 or 12:

» 仮面ライダー電王、関係者によるネタバレ [ヒーロー★マテリアル]
【Climax Jump のジャケットがカッコイイ】 Climax Jump 仮 [続きを読む]

受信: 2007年3月 7日 (水曜日) 午後 10時50分

» [電王] 人の尻馬には乗ってみる [そこがミソ。-特撮感想などを思ったままに]
タケちん、卒業おめでとう!学ランが眩しいなあ、マジレンで槐ちんの学ラン見たとき以来にトキめいた!(笑) 若い頃は自分とこが田舎ゆえに学ラン・セーラー服だったせいかブレザーに憧れたものですが、いい加減大人になると学ランの方が良くなりますな。そういうもんです... [続きを読む]

受信: 2007年3月 8日 (木曜日) 午後 03時23分

« Let's kung-fu! | トップページ | 獅子の瞋恚 »