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2007年3月 2日 (金曜日)

dignity

ここ暫くまったくPCに触らない仕事を出面でしていたので、またしても大幅に更新が滞った。義理のある仕事だったので一切単価交渉をせずに受けたのだが、ほぼ作業負荷はゼロに近い代わりにその分実入りも煙草銭程度で、世の不景気をしみじみと実感する経験になった(笑)。

まあやっぱりこういう体験をすると、更めて「ハケンの品格」のテーマは万人にとって他人事では済まない部分があるんだろうと思うので、今回もこの前のようにドラマの内容というよりテーマ周辺の話題で少し話をさせていただきたいと思う。

但し、上記の次第で暫く家を空けていたので第八話の時間帯変更には対応出来ず、帰宅して録画を確認したら見事に後半が切れていた。どうやらラブコメ的には盛り上がるエピソードだったらしいが、その辺は未見なのでドラマの実情にそぐわない記述があったら割り引いて受け取っていただきたい。しかし、元からドラマよりスポーツを優先させる社風の局ではあるが、自局で最も数字が稼げる番組をつまんないサカーの中継で三〇分もずらすとは、つくづく暢気な体質である(笑)。

久方ぶりのレビューがこれということで、何だか今季はこの作品ばかり語っているような印象であるが、これまで三度も二〇%を超えている人気作であるし、今季二〇%を超える作品といえば他にはTBSの二本しかないのだが、オレが個人的にTBSドラマを好まない上に花男2にはまったく興味を覚えないので、ハケンの話が多くなるのも仕方がないだろう。

はっきり言って何の中身もないツンデレラブコメにすぎないこのドラマを、これほど何度も語るのもおかしな話で、男性ならシノリョウや加藤あい、女性なら小泉の倅や勝地涼などのギリギリイケメンキャストに興味のない人間は、いっそ観なくても何の差し障りもない番組だと思うのだが、前季からの日テレ水一〇枠特有の厭な釣り要素が微かに尻尾をチョロつかせている辺りが気になるのだろう。

オレの知人にも、劇中の近耕作のような立場で就労している男がいるのだが、ラブコメのネタにされるなど冗談じゃないという感じで、観ると不愉快になるから一切観ないそうである。まあ、普通に考えてもこのドラマのような巫山戯た現状認識が勘に障るという人のほうがマトモなのだから、当事者としてはそのほうが余程自然な反応である。

本質的なドラマ要素であるツンデレラブコメに関しては剰り附け加えるような感想も持ち合わせないし、劇中のカップリングもほぼ固まってきた観があるので、それは実際にドラマを楽しむ上での関心要素だろう。それとは別の、妙な尻尾と表現した部分についてざっくり調べてみたのだが、この番組の派遣労働者観や企業観が妙に歪んでいるのにはそれなりに理由があるようである。

この番組のスポンサー企業として、人材派遣業者の最大手テンプスタッフや同業他社であるヒューマンが名を連ねていることは最初に触れたが、どうも人材派遣業者一般には現在の格差社会を是認する風潮があるらしい。人材派遣会社ザ・アール社長で政府の労働政策にも参画している奥谷禮子が「過労死は自己責任」発言で物議を醸したことも記憶に新しいし、番組スポンサーであるテンプスタッフ社長の篠原欣子も「格差は能力の差」との持論があるらしい。

要するに、「能力のある者が酬われる」という素朴な信仰を表に立てている人が多いということだろう。ある種、人材派遣業者の利害から考えれば、当然とは言わないまでも自然な立場である。「能力があっても酬われない」「社会がおかしい」という話ならば弱い立場の派遣労働者なんて莫迦莫迦しくてやってられないという話になる。

派遣労働者の主体である若年女性が、この先自力で働いていても芽が出ないからとっとと稼ぎの良い男を見附けて嫁に行こう、要するに既存の勝ち組に載っかろうと考えるようになったら、この種のビジネスには不都合である。一人でも多く企業へ斡旋すればその分収益になる業態なのだから、一人頭の労働者の生活が何うなろうと出来るだけ多くの頭数を確保したいというのがビジネス的には当然の課題である。

実際、絵空事だらけのこのドラマで最大の嘘というのは、物凄いスキルを持ったハケンが企業から下にも置かぬ厚遇を受けるという部分で、そんなことはまずあり得ないということは何度も語った通りである。

少し業務の評価法についてターム関係を調べてみたのだが、得られた成果によって労働が評価されることを「成果主義」といい、成果の如何に関わらず高度な能力を持った職員が評価されるのは「能力主義」、与えられた職務を着実にこなせる能力が評価されるのは「職能主義」ということになるようだ。

つまり、派遣労働者に求められる労働とは一般的に「職能主義」で評価可能な労働ということになるのであり、短期間しか在社しない臨時社員の労働を、必ずしも成果に結び附かない「能力主義」によって評価するということはあり得ない。能力主義とは長期間企業の主体として帰属する社員の潜在力や可能性を評価する考え方であり、成長拡大への積極的チャレンジを賞揚する評価法である。

奥谷禮子や篠原欣子は、要するに「職能」と「能力」を便利に混同して使っているわけであって、派遣就労の形式でどんなに物凄い「能力」があったところで宝の持ち腐れだということは再々語った通りであり、この場合に求められているのは一定の労働を高水準でこなす為の「職能」である。だとすれば、それは企業視点では期待値からの減点法で評価されるということで、極端に有能だから企業にとって掛け替えのない人材となるということは原理的にあり得ない。窮めて平準化されたスキルレベルの歩留まりの問題となるからである。

そのような高能力の人材が社会的成功を勝ち取るモデルケースとしては、本来業務以外の部分で潜在力としての「能力」を評価され、正社員登用されて総合職に就くか、もしくはツテを拡げて自営業者として独立するという形になるが、それはつまり「派遣労働者の地位を脱する」ことが前提の話になってしまい、ハケンの儘ではやはり職能主義で評価されるのが当たり前ということになる。

このドラマの場合、春子の飛び抜けたスキルはたしかに重宝で、霧島部長も正社員登用したいのは山々だが、春子がそれを頑なに拒んでいるということになっている。その意味では潜在力としての能力を並外れて評価されてはいるのだが、それは正社員登用を受け容れるという前提の話であって、ハケンの儘で企業に対して交渉力を持つということなど現実にはあり得ない。

さらに、先週の話などは春子がウグイス嬢として代議士を二人も当選させているという話になっているが、代議士が当選した場合にウグイス嬢の手柄になるかならないかという初歩的な問題はさておき(笑)、そういうスキルがあるからチョコレート売場でウグイス嬢をやってくれというのでは、要するに一般事務で雇われた人間が正規業務以外のことをやらされて便利に使われているだけの話になっていて、これと「雇用名目以外のこともやらされている」普通のハケンと何処が違うのかという話になる。

筋道としては破綻しているが、まだしも春子の能力を虚構的なサバイバルスキルと意味附けていたそれ以前の作劇のほうがまだしも納得が行く。つまり、各話のエピソードを構成する会社のピンチに、多彩な職歴で得たスキルを駆使して解決をもたらすという一種「企業戦士YAMAZAKI」や「特命係長只野仁」的なスーパーヒーロー物語と意味附けられていれば、それはそのような企業ヒーローとして雇われているのだという罪のない話になるが、飽くまでそれを職業人として求められる「能力」の問題としてアクチュアルなお説教を語りたがるところに無理があるのである。

以前語った通り、企業は物凄い能力を持った個人が欲しいのではなくて、その能力を組織内で利潤化するセオリーを求めているのである。霧島部長が如何に春子を評価していようとも、正社員登用を固辞している以上「惜しいね」でオシマイの個人的感情論の問題である。それなのにこのドラマの春子は「ウチの人間になってくれれば嬉しいのに」という漠然とした期待値だけで厚遇を受けているという見え方になるから、厭らしい印象を覚えるのである。

この辺、篠原欣子の語る「格差は能力差」論のまやかしと見事に足並みを揃えていて笑えるのだが、無理矢理整合的にそれを解釈するなら、能力のある人間なら企業が正社員として採ってくれたり、フリーランサーとして成功出来る可能性があるからスキルを磨いて頑張れというふうに見えなくもない。

だが、それは要するに玉の輿に乗りたかったら三高男の集まる会社に頑張って入れというのと同じ理屈である。賤しいお端女として出仕したら、美貌や和歌の才が止ん事無き辺りのお目に留まり入内が決定したというような、古臭いシンデレラストーリーと同骨格のお話である。派遣就労というのは何かの為のステップアップの踏み台にすぎないということであり、派遣労働者自体を肯定的に意味附ける理屈にはならないだろう。

派遣労働者のスキルアップとは、より寡占性の高い、つまり需給のバランスが崩れている専門性の高い職域に進出して、単価のレベルを上げるということである。その場合単価のレベル自体はたしかに上がっているが、そこで求められるのはやはり職能主義的な文脈の労働であり、期待値の上限が存在する以上、個人の能力によって得られる対価は頭打ちである。それでなければ、個々の派遣先で着実に歩留まり良く職務をこなし、その堅実な実績によって求人の流れを途切れなく維持して安定を得るという形になる。

ならば、労働単価の基準値自体が社会の実情にそぐわぬくらい低水準で推移している場合には、決して個人の能力が現状打開の切り札にはならないということである。最初から小さなコップには、容量以上の酒は入らないのだから。

ここまで講釈すれば大体結論の見当も附くだろうが、格差社会は個々人の能力差が公正に顕在化したものではあり得ない。雇用問題に限って言えば、労働市場の需給バランスが崩れて労働者がダブついているのが格差発生の主因である。経済の観点でいえば、本来企業経営においては雇用コストを抑えて企業組織に富を集積しそれを運用することで事業と利益規模を拡大するということが至上命題だったわけで、その努力によって最大限に雇用コストが抑えられた結果、極少数派である経営層にしか富が分配されないシステムが出来上がってしまったのである。

今の時代における企業社会は、有限の利潤を経営層に集積するお手伝いを一般労働者が担わされているという構図になっており、要するに引き算でチンケな成長が演出されている貧しい社会なのである。二〇〇〇年代以降はゼロ成長の時代になると九〇年代から警鐘が鳴らされていたにも関わらず、ゼロ成長時代に堅調に企業活動を維持し公平に富を分配し国民生活を高レベルで維持する仕組みを構築する動機など、経営戦略に決定権を持つ誰一人として持っていなかったということである。

さらなる雇用コストの抑制を目指す為にホワイトカラーエグゼンプションのような法律の導入も検討されているわけで、そうなるとストレートに事業発展の恩恵を蒙る企業主体の範囲が益々限られてくる。ヨーロッパの優良企業の企業理念などと比較するとビックリするくらい旧弊な悪しき資本主義の典型的な社会モデルを目指しているわけで、要するにこの先アメリカのような社会が到来するということである。

戦後一貫してアメリカのほうを向いてきた政策が実を結んで、日本もいよいよ極端な格差社会であるアメリカのような野蛮な国になりつつあるということだろう。アメリカンドリームという夢物語で「結果的に勝った奴が偉い」という野蛮な理念を賞揚している野蛮な国と同列になってしまうということだ。

どんなプロセスであろうが「勝てば偉い」という考え方は一見公平に見えるが、当然今現在すでに強い者が弱い者に勝つのが当たり前なのであって、たまにひょんなことから出来する弱い者が強い者に成り上がるという極々稀少な例をアメリカンドリームとして持ち上げているから夢があるように見えるだけである。アメリカ主義とはエスタブリッシュメントの既得権益を肯定し格差を固定する方向性に強力にシフトした超保守主義であることなどは子供でも識っている。

たとえば、どんなに身体強健で格闘能力に優れた人間でも、重武装した軍隊相手にして勝てますかという話であって、一個人で軍隊を潰滅に追い込んだら成り上がれるがそれ以外はひとしなみに最底辺の貧乏人という社会の何処が自由だという話である。アメリカ人の大好きなアクション映画にそういう夢物語が多いのも、そのような社会の在り方と無縁ではないだろう。

女性労働者出身のエスタブリッシュメントである奥谷や篠原がそのような思想を抱くに至った情緒的動機は容易に見当が附く。自身の能力や努力、社会的な成功を必然視する者は、たとえ同じだけの能力や努力があっても社会的成功が得られるとは限らないという現実を無視したがる。それはつまり、自分の成功が「運」でしかないということになるからであり、能力・努力と社会的成功は必然で結ばれる必要があるのだから、現状で成功していない人間は無能で怠慢だということになるのである。

何故格差社会を肯定するのかと言えば、おそらく彼女たちはどんなに頑張っても「出来ない奴、弱い奴、駄目な奴」と同列に扱われ、プライドを痍附けられたというルサンチマンがあるからだろう。そんな「能力のない奴」のせいで常に苦労を強いられたが、自分は自身の高い能力と死に物狂いの努力でここまでの社会的成功を得た、だから社会的弱者に対する配慮が一切ないのだろう。

自分より能力の劣る者、怠慢な者、弱い者、そんな奴等が自分と同レベルに対価を保証されている現状が我慢ならなかったのではないのか。殊に女性労働者は男性労働者に比べて歴然たる差別を受けるのであるから、「男だというだけで」無能な威張りん坊が高給を得ている現状に憤りを覚えていたのだろう。「この現状は公平ではない」「何故能力本位で仕事を評価してもらえないのか」「何故役立たずに高給を支払うのか」「この世は能力とは不釣り合いに甘やかされている奴が多すぎる」そのような不満が社会観の根底にあるのだろう。

そのような不満自体が間違っているとは言えないだろう。たしかに労働者の労働を妥当に評価することは困難だし、女だというだけで男よりも劣る者と視る風潮は無根拠な悪弊でしかない。前述の業績評価法もいろいろな問題を抱えているし、自己認識と他者の評価には常にギャップが存在するのだから、公平に報酬が分配されていると皆が満足することはあり得ないだろう。

しかし、そのような実感があるからと言って現状の格差社会を肯定し、能力主義を標榜することは剰りにもヒステリックな暴論である。結局現状の格差社会が実現したのは、公平な能力主義の企業文化ではなく、既得権益防衛の為の大義名分でしかない。世の中がどんなに激変しても、その余波が富裕層に及ばないように努める手当てでしかない。

嘗て彼女たちがそうであったような女性労働者は企業の中核的人材としての正社員登用の機会が益々縮小され、全般に派遣就労に偏る結果になり、単に「能力」発揮の機会を奪われただけに終わっている。これが公平な能力主義の社会であるとは何人にも言えないだろう。

頑張ったら頑張っただけ酬われるような無段階で公平に能力が評価される公平な社会ではなく、途轍もなくエスタブリッシュメント寄りの逆風の中でも頭角を顕わせるだけの運と並外れた実力努力を兼ね備えた一握りの人間だけが好い目を視て、その他大勢が貧困に喘ぐという選良主義的社会になっただけの話である。

これはつまり、国家とは社会とは何の為にあるのかという視点が根本的に欠けているということで、国家も社会も大昔からその成員が安心して子を産み育て自身の生を全うさせる為にあるのだという大義名分は変わらないはずである。偶々運良く強者に生まれた少数派だけに都合の好いシステムとしか視ていないのであれば、頭が悪くて才能もなく身体を動かすだけしか能のない民百姓は活かさず殺さずという、要するにそのレベルの野蛮な社会である。

強い人間に生まれること、知力や才能や精神力に恵まれること、それだって偶々の運でしかないという謙虚さがないということである。その上で、偶々強者に生まれた意味は何かといえば、自身が富裕層の一角を担い充実した生を正当な報酬として享受することであると考えるのでは、人間の程度が知れてくる。

善い社会というのは、優れた人間「だけ」が酬われる社会ではないのは当たり前で、平凡な人間が平凡に生きられるのが善い社会なのである。どんな優れた成功者だってその他大勢の平凡人によって生かされているのが社会というものなのだから、平凡人の平凡さを見下すような態度をとって好いわけがない。皆が皆優れた者になれと言うことが善い社会ではないだろう。

百歩譲っても、「格差は能力の差」と嘯くのであれば、常に現実に行われている公平性が十全なものであるかどうかに問題意識を持つべきだろう。個人の能力や職能が妥当に酬われているのか、能力を発揮する機会が公平に与えられているのか、そのような問題意識を持ち果断に行動するならば、社会的格差が生じてもそれは能力差が公平に顕れた結果であると考えることも出来るだろう。

派遣就労にポジティブなメリットより不遇感のほうが伴うような現状において、現状の社会を肯定するような意味合いで「格差=能力差」と言っているのであれば、人材派遣企業のトップの見識としてどうなのかという疑問が附き纏う。人材派遣会社としてはまずまず優良企業と目されているテンプスタッフにしてからが、トップの思想が思惑絡みの不潔なものなのである。これでハケン差別にもめげずに将来に希望を抱いて働けというなら、この国に明るい未来などはない。

そんなスポンサー企業の思想を反映するかのように、体力・知力・努力に恵まれた英雄的人物が下にも置かぬ厚遇を受ける、並外れたスキルに応じて酬われるなどという夢物語を語っている以上、まあタイトルの割にはさほど品の良いドラマではないだろう。

第六話の話なども、自分の怠慢を棚に上げて自分の扱われ方ばかりを論う視るからに不愉快なダメハケンを登場させ、春子の演説に感動してもう一度真面目に頑張るという挿話を入れるなど、要するに周りの扱いに不満を視るのではなく春子を模範にして自分が頑張れ的なニュアンスの話になっている。それは、その限りでは正論である。

大前春子という万能のスーパーヒーローが正社員以上に評価されるという絵空事は、それを正論として成立させる為にあるのだから、正論に見えるのが当たり前である。本当は能力があったところでさほど酬われる仕組みにはなっていないのだが、酬われないのは努力が足らないからだという、何処かの宗教のような循環論理を成立させる為に物凄い能力を持った主人公が物凄く厚遇されているのである。

しかし、実際には「ハケン三五才定年説」というのは単にコスト面の問題であるに過ぎず、学校を卒業して一〇年も頑張ればスキルも上がるし派遣企業内でのステータスも上がるわけで、単価もぺーぺーよりは若干高いだろう。しかも、社会の仕組みが見えてくるから、言いなり次第に安くコキ使うというわけにも行かなくなってくる。所帯持ちも増えるから、身軽な若者よりは時間に融通が利かなくなってくるだろう。

要するに、高く附いて使いづらくなるから切られてしまうということで、これは能力主義がどうのこうのというお題目とはまるで正反対である。本来マトモな扱い方をしていれば、多少時間の融通が利かなくても社会人としての常識が具わった有能な人間が使いづらいなどということがあるわけがない。後ろめたい使い方をしているから、智慧が附いてきて個人の都合が出来てくると使いづらくなるのである。

このような派遣労働者固有の問題性を扱う場面で、社会システムの歪みではなく派遣労働者自身の怠慢や意識不足という方向に持っていくのがこのドラマの定石である。そしてそれにはたしかにそのような側面があるから余計に始末が悪いのである。

以前語ったように、女性労働者や派遣労働者は現状の社会で歴然たる差別を受けているわけだが、それ故に一種全体的に士気が低下している嫌いはあるだろうし、モラールや自己研鑽意欲が下がっている嫌いもあるだろう。だから、労働者自身が自己改革すべきであるという意見には普遍的に一定の妥当性がある。まずいのは、個人の意識が改革されれば社会的問題が解決するというような薄っぺらい欺瞞である。

派遣労働者への代替の流れが雇用コストの抑制を主眼としたものである以上、みんなが頑張ってスキルを研鑽しても、単価レベルが向上した者は現場から排除されていくのは当たり前の話である。企業が派遣労働に求めているのが職能主義的な労働力である以上は、どんなにスキルを研鑽してもそれが企業との間で決定的な交渉力として機能することはないだろう。頑張ってスキルとキャリアを向上させたら仕事がなくなりましたという泣くに泣けない残酷譚は、オレの身近に限っても幾らでも耳にする。

つい最近まで吹き荒れた大量リストラの嵐は、そのような職能主義的な労働力を社外に放逐し外注化する動きだったのだから、それはつまり代替可能で企業に対する交渉力を持たない性格の労働力であるということを企業自ら堂々と主張しているのである。

現在の価格競争力一辺倒の企業論理では、職能主義的な労働者の高スキルや最終産品の品質レベルが真っ先に犠牲になるのであり、ハードからソフトに至るまで、この国のプロダクトの品質は圧し並べて急激に下落しているのである。現状の儘では「メイドインジャパン」が粗悪品の代名詞になる日も遠くないだろう。

その上さらに「傲れる正社員は久しからず」というようなお題目で、企業主体として頑張っている正社員たちも企業組織への安定的帰属の惰眠を貪る者というニュアンスで表現し、リストラの危機に怯えながらハケンを差別する者として描いているが、要するに正社員がハケンをコキ使うのは自分が一杯一杯だからである。

普通の一流企業でも、出来る限り人員を削減して一人頭の仕事量を増やしている一方でコンプライアンスの観点から表向き過重労働を忌避しているのだから、正規雇用者として扱われない職員にしわ寄せが行くのも当然である。この番組では、このような問題も迂回して正社員が「身分差」に胡座をかいて傲っているかのように描いているわけで、とにかく企業社会の現状を構造的な問題として描くことを徹底的に回避し、個人の意識の問題に還元している。

それはまあ、言ってみればTVドラマで描き得るのは個人の物語が限度だから、ということもあるだろう。しかし、世の中が悪くなると必ず出てくるのがこの種の「社会を批判せずに自分が頑張れ」的な論調であることもたしかである。それで何となく頑張れてしまうのも人間の逞しさではあるのだが、一家離散や高齢自殺、貧困由来の犯罪が有意に増加している世相において、「自分が頑張れ」論というのは場違いな精神論である。

一〇年以上継続する長期不況で疲弊した人々が、やっと景気の回復という朗報を耳にしたかと思えば、個人生活には何ら還元されずに却って負担増になるという落胆を覚えているのだから、「自分が頑張れ」論の甘ったれるな的なお説教口調が大いに鼻に附く。

大半の娑婆の人間は、このドラマに出て来るようなお気楽な人々よりもよっぽど必死に頑張っているのである。頑張ってはいるのだが、大概の人間は一〇年も頑張って世の中が上向きになる兆しが一向見えなかったら誰だって悲観して頑張れなくなるのである。頑張ってる人間が頑張れなくなったら、さらに頑張って死んでしまうか、泣き言一つ言わずに首を縊っちゃうのである。

最初に陳べたように、過酷な労働環境を強いられている派遣労働者をマネジメントする企業のトップが、現状の格差社会を積極的に肯定しているというのも驚きである。現場の労働者が不遇感を覚えているのは「自己責任」と認識しているというのは、人材派遣業というのは労働市場のマネジメントなどは建前で、結局のところ有限の原資からパイを貪り獲る中間マージン搾取の収奪事業でしかないということで、まあ神も仏もないことよと思わせる。

派遣労働者という女性主体の労働力をマネジメントする企業のトップである労働者階級出身の女性起業家が、公的な理念としてこれほど下手糞な富裕層擁護を動機とする助平根性丸出しの屁理屈を公言することで、結果的には女性労働者の「程度」というものがこれまで通り過剰に低く見積もられてしまう。

やりきれない悪循環である。

そのような当然の不遇感を託つ一人ひとりの労働者から得られるマネジメント料で収益を得ている企業なのに、現場の労働者の味方ではないのである。多くの派遣労働者がどれだけ頑張っても一向に酬われない、不当に扱われていると感じているのに、それは頑張りが足りないからだと公言しているのである。

多くのスポンサー企業の中の多寡が一社にどれだけ気を遣っているのか識らないが、このドラマの本質的な思想はそのような企業サイドの考え方に阿っているように見える。

毎度語っていることだが、それでも何となく許せてしまうような気がするのは、脚本の中園ミホが徹底して下流目線で、そのようなドラマの構造にカウンターとして機能しているからだろうと思う。毎日インタラクティブのインタビューなどを読むと、実際には「格差は能力差」的な労働思想と書き手の思惑にはかなりのズレがあることがわかる。

こういうのを読むと、ああやっぱりこの書き手は大上段にお説教するタイプじゃないんだなぁと思うわけで、そう考えると大前春子の設定に潜む「格差は能力差」肯定論的な思想とツンデレラブコメの乖離具合も納得が行く。中園ミホの目線から言えば、非の打ち所もない優れた人材なんて世の中には殆どいないんだから、みんなダメな所を支え合うことで成立してるのが会社なんじゃないですか、という辺りが本音のところだろう。

中園脚本を下世話だなぁと思いつつさほどの悪感情もないのは、あんまり自分を偉い人間だと思ってるような臭みが感じられないからで、篠原欣子的な「優れた人間だけが酬われる」というような、結果的に成功した人間の自己肯定論的な「上から目線」が剰り感じられないところに厭味がないのだろう。

ここで触れられているキャリアから考えると、やはり「使われる側」目線の人物であることはたしかで、「ダメな仲間をカバーし合う心」でやっていく企業が成功するか何うかとか、ダメな仲間に支払われる俸給がどんな収支計算で廻ってくるのか、という視点はまったくないわけだが、そのような前提でやっていかないと現場の仕事が廻らないという現場視点の智慧はあるわけだし、経営者視点の評価基準で要らないと思う人材をバサバサ切っていったら、そのうち現場は崩壊するという危機感はあるのだろう。

先日の小笠原を巡る顛末などは、具体的な描写の可否は何うあれ(笑)、経営者視点の評価基準では決して量れない人財の価値が、最末端に至るまで遍くあるんだよという視点で考えた筋書きだろうとは思う。

企業というものが人間集団である以上、どんなにダメに見えても一人ひとりに相応の人財的価値があるんじゃないですか、企業に長年貢献を為した人財の想いを無碍に切り捨てるのは間違っているんじゃないですか、まあ理屈は立っていないけれどもそのような考え方なのだろうと思う。少なくとも、土下座が偉いと思えるというのは「謝罪は無能の証拠」的な考え方よりも、人の心や仕事というものの実態がわかっていると思う。

表向きのセリフで論じられるのが厳しい企業社会の論理であるだけに、篠原欣子的な能力至上主義の考え方を前面に打ち出しているように見えるが、筋書き的にはそれとは相容れないような底辺の支え合いの人情話を展開している。その辺がこのドラマのテーマ的な腰砕け感に繋がっていることは事実だが、語るべきとされているテーマを十全に語らないことも一種の見識なのかもしれないとは思う。

この辺は、変に目標達成に前向きに取り組んでしまう前作の井上由美子よりも好感が持てるところで、いろいろアレな部分に対しては素直に「ちょっとアレだなぁ」と苦笑しつつも、井上由美子よりも人として信用出来るような気がする。

その辺は、たとえば劇中で春子が、仕事は出来るし出世するタイプではあるが細かい内的葛藤をすっとばして結果を重視する東海林よりも、甘っちょろい理想論に拘りを持ちつまんない失敗をして他人に迷惑をかける里中のほうを「人間的に」買っていることと通底するかもしれない部分である。

先週から引っ張っているハケン弁当のエピソードなどはそのような中園ミホの感覚がストレートに出ていて、助け合い学び合うという言い方は臭いが、会社というのは一握りの有能な人財が活躍する競合の場ではなくて、組織としての総合力で助け合ってやっていくものなんではないのかという感覚がかなり表に出ている。

ハケンの企画が通ることで潰れた正社員の面子を巡る弱い物苛めとして森美雪の契約打ち切りというイベントを設け、それを助ける為に大前春子が部長に負けてあげるという筋書きは、理屈で釣り合っているわけではなくて感情の部分で釣り合っている。扱われているのが「面子」の問題で、正社員の面子を潰した落とし前として馘にされようとしている森ちゃんを、部長の面子を立ててあげることで救うというのは、理屈から言えば何処も整合していない。

ここで整合した理屈を考えないというのが中園ミホの体質なのだろうし、整合した理屈に基づく理念によって、部長が体現するような企業論理に否やを唱えようという構えたところがないということだろう。ここで表現されているのは、面子を巡る確執が面子を立てることで回収されたという、ただそれだけの話で、理屈から考えれば何の意味性も語っていない。

このドラマの肌合いが何とも複雑なのは、理念的な部分と感情的な部分が妙に乖離していて、全体として何ういう思想を表しているのか掴みづらいということもあるだろう。シリーズ当初に提示された構造的な部分では、正社員対ハケンという構図の中で雇用の安定性を基準に両者の対立軸を設定し、企業社会の中で物を言うのは能力であるという理念を強調しているのだが、感情的な部分においては能力の特権性をまったく認めていないし、認めない理由を理念で表現することにも関心がない。

ここに設定構築に纏わるコンセプトワークと書き手の生理の乖離を視てしまうのであるが、要するに感情の部分では「正社員もハケンも同じ会社の仲間じゃん」的な窮めて素朴な組織観がある。この書き手の立ち位置が微妙なのは、能力至上主義的な理念に対して理念で対抗していない部分で、理念の部分に関しては「そういうものなんですか」的に流して書いている。

理念に理念で対抗して企業社会の理想モデルを提供するという上から目線がないわけだから、理念的な部分を華麗にヌルーしているような鈍感さがあり、でも会社ってこういうものなんじゃないですか的な実態論で書いている。そこが面白いと言えば面白い部分で、「男には、正社員には、面子ってものがあるんだから立ててあげればいいじゃん」「それで人間集団が円滑に維持されるならそれくらいいいじゃん」というのは仲々言えないところだろう。

おそらく、構造的には非常に不愉快な上から目線の脅迫的挑発性を内包しているこのドラマが何となく不快感なく観られるのは、こういう中園ミホの奇妙に東洋的な組織観がそのような建前の部分をかなりナチュラルにスルーしているからではないかと思う。

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