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2007年3月14日 (水曜日)

獅子の瞋恚

昨夏、坂東眞砂子の犯罪行為に関連して「一万年の蜜月」というエントリーを書かせていただいたが、幸いにも好評を博して有意義なご意見や言及をいろいろいただいたし、未だに時々アクセスがある。あのエントリーで当ブログの存在を認識している読み手の方も多いようである。

あれから時々ネットを検索して続報を追っているのだが、以前TBをいただいた春霞さんのところで若干関連情報があった程度で、坂東眞砂子当人の去就についてはさっぱり情報がない状態である。まあ、他国の政府による外国人の訴追であるから、それほど短時間に決着が附くものでもあるまい。今後も執念深く経緯を見守るしかないだろう。

そういうわけで今回は坂東眞砂子問題の本題ではなく、「一万年の蜜月」に関連した話題である。概エントリーでは現在に至るまでのイエネコの歴史を語り、家畜としてのイエネコの起源である古代エジプト文明から語り起こしたわけだが、古代エジプト文明においてイエネコが神に擬せられたこと自体は軽く触れるに留めた。

その重要なインフラの防衛を任されたイエネコは、益獣として尊重され古代エジプトでは神にも擬せられたことは周知の通りである。

この時点では、まだ一般知識の範疇でしかその詳細を識らなかったのだが、先日ふとしたきっかけで古代エジプト神話を実際に調べてみたところ、この猫神様にはちょっと興味深い神話があることを識った。

まあ、猫神様と一口に言っても、古代エジプトの神々の多くが、たとえばアヌビスは人身狗頭、ホルスは人身隼頭という具合に獣の頭部を具えていることはたしかだが、その動物の神と見做して好いかどうかは微妙である。つまり、猫の神様と言った場合に、普通は猫が神になったものとか神様である猫というふうに考えると思うが、古代エジプトでこの神が神性を具えた猫と視られていたのかどうかはよくわからない。

ネットで調べた限りでは猫の属性を具えてはいるようだが、たとえばお稲荷さんが狐の親玉というような意味で猫の親玉的なニュアンスで考えられていたかどうかはよくわからなかった。一般に古代エジプトの神は人身獣頭の図像以外では完全な獣身の姿で表現されているから、動物の属性を持つ神であることは間違いないようだが、セトのように何だかわからない合成獣の頭部を持つ神もいて、単純に動物神と割り切って好いものでもないようである。

普通に考えれば、元々はすべての神が個別の地域における「ただの神様」で、その発祥において「神様」というほどの意味で名前が与えられていたに過ぎないだろうし、神格を象徴する動物も神の御稜威を表現する「喩え」に過ぎなかったのだろうが、中央集権化の過程を経ることでその「ただの神様」が複数になるに遵って、他の神々と差別化する過程において徐々に属性が整理されていき、物語化によって体系化されたという経緯なのだろう。

多くの古代神話の例に洩れず、三〇〇〇年もの長きに亘る古代エジプト文明の歴史の中で、中央集権化の流れに遵って地方神が複雑な習合の過程を経ることで、個々の神格を単純明快に因数分解することが出来なくなってしまっているのだろうと思う。

今回採り上げる猫神様はバステトという神だが、「一万年の蜜月」で語った通り、イエネコが家畜化されたのは集約的大規模農業の成立以降のことなので、おそらくこれは比較的新しい神格なのではないかと思う。属性としても豊穣の神と位置附けられており、猫と豊穣を結び附けるストーリーこそがイエネコ家畜化の歴史そのものなのだから、前身はどうあれ、統一的な神格として纏まったのは比較的新しいのではないかと思う。

またこのバステトは同じ猫科であるライオンの頭部を持つセクメトという女神と同一視されることが多いらしく、二神を混同した神話も多いようである。さらにややこしいのは、セクメト同様にライオンの頭部を持つテフメトという女神がもう一柱いて、この三神は屡々混同され後には遂に習合したようである。

それ故に、バステトとセクメトとテフメトは、元来別々の神話であった挿話群を曖昧に共有しているようで、古代大規模文明ならではのユルさの故もあって地域ごとのバリアントも多いようである。今回紹介する神話はバステトとセクメトを同一神と見做し、且つその二神の習合を根拠附ける意味合いで比較的後代に形成されたものらしいのだが、ウィキには以下の通り記されている

また、別の逸話ではラーが年老いて、自分を信仰しなくなった人間に罰を与える為に自らの目を抉って生み出したのが雌獅子神セクメトであったが、彼女は多くの民を惨殺し、流れ出た血を浴びるように飲んでは踊り狂うという、あまりに苛烈な殺戮行為を繰り返した。国の惨状を憂いた神々はラーにセクメトを止めるように進言し、ラーもそれに同意するがセクメトの激情は生みの親であるラーにも抑える事が出来なかった。

そこで神々は策を嵩じ、赤土を混ぜて血に似せた大量のビールをセクメトに与え、酔って眠ってしまった所をラーが彼女の「憎しみ」の感情のみを取り除いた、その結果生まれたのがバステトであるとされている。これは、元来凶暴で、ライオンとその類を同じとする猫が市民と生活を共にし、ネズミを退治する一種の守り神としてエジプトで親しまれていた事を示唆する物語とも考えられる。

この神話によれば、猫頭神であるバステトは、元々太陽神でありへリオポリス九柱神の中核を成す主神的な神格であるラーが、人類の傲慢と背信を罰する為に生み出した復讐の使者だったわけで、まず人身獅子頭の怪物セクメトとして人々を殺戮する存在であった。その野獣が暴走してそれを生み出した神々にすら制御不能となるに及び、人間の血に見せかけた酒で騙して酩酊させ、憎しみの心を抜き取ったことでバステトという別の神格が誕生したというストーリーを語っているわけである。

この結果、無差別に人々を殺戮する復讐の野獣は、人々に日々の糧としての大地の穣りを約束する豊穣神バステトとして生まれ変わり、猛り立つ獅子の貌は柔和な猫の相貌に変じたわけである。実際、ウィキに掲げられているバステトの立像を視ると、現代におけるキャラクター商売の文脈でデザインされたアニメ的イコンのように愛らしい姿をしていて、死や暴力と関連附けられたアヌビスやセトのような禍々しい印象は感じない。

衒っていえば、これはウィキの記述にもある通りイエネコ家畜化の歴史を背景に持つと同時に、畏るべき猛威を揮う自然力を狡猾な智慧で懐柔して味方に附け、人類に隷属させるに至った大規模文明成立の経緯を語ったものと視ることも出来るだろう。

一方、獅子が猫に変ずるというイメージは、本邦の感覚では剰り好ましい意味を伴わないだろう。釈尊の説法を「獅子吼」と表現するように、獅子を高い霊徳を具える百獣の王と見做す東洋文明の感覚でこの神話を視るなら、そんな誇り高い霊獣が民百姓の飼い物である小動物に変わってしまうわけだから、説話の発端がラーに対する背信であることもあって、神を蔑する人類の倨傲という文脈で解釈してしまうのではないだろうか。

しかし、オレは最初にこの神話を目にしたとき、人類の傲りだの大規模文明の成立だのに思いを致す以前に、何だか切ない気分になってしまった。嘗て「一万年の蜜月」で想いを馳せたイエネコの歴史を想うとき、この愛らしい姿をした女神の出自を語る説話が剰りにも切なく感じられたのである。

この神話によれば、太陽神が象徴する自然の猛威というのは、本来禍々しく人類に敵対するものであり、それを鎮める為に一方的な畏敬を要求するものである。そのような敬意を喪った人類に対する劫罰として神が下した猛獣は、生みの親である神にすら制御不能なほど烈しく人類を憎んでいるのである。

人身獅子頭のセクメトは、古代エジプトの神々の一面である敵対的な自然力の象徴として、憎しみに駆られて無差別に人々を殺戮する存在だったわけである。そのような猛々しく憎しみに駆られた殺戮者である野獣から、人類への憎しみの心を取り除いたものこそがイエネコであるということを、この神話は語っているわけである。

おそらくこの神話が活きていた当時、獅子というのはナイル鰐などと並んで人類のコントロールの及ばない神聖な猛獣だったのだろうし、イエネコの祖先となったリビアヤマネコがその係累であることも人々に認識されていたのだろう。凶暴な猛獣であるライオンは人類の敵対者でしかなく、おそらく多大な犠牲を払えば人力で倒せない存在ではなかっただろうが、寧ろ日常的には「どうぞ私たちを殺さないでください」と懇願し一方的な畏敬によって鎮めるしかない存在だったのだろう。

遠い異国の伝聞だけで半ば伝説上の神獣として「獅子は百獣の王」と敬っていた東洋の場合とは違って、彼の地におけるライオンは日常的な脅威でもあったはずである。そして、獅子頭の神と猫頭の神が同一視されるのは、イエネコの祖先となったリビアヤマネコが「小さなライオン」であることを古代エジプト人が認識していたからで、元々の原種は人間なんか好きでも何でもなかったという記憶が、まだ人々の脳裏に活きていたということなのだろう。

リビアヤマネコが家畜化される経緯とは、一方的に人間を襲い貪り喰う存在であった野獣が、自然に敵対する傲慢な存在である人類への憎しみの心を棄てて、穣りを約束する女神に転生する赦しの神話として語り継がれたわけだが、それは人類の身勝手な願望の物語化なのだし、歴史的な意味としてはオレたち日本人が感じるようなイメージのほうが実態に即しているだろう。

人類は狡猾な智慧で欺いて本来自身に敵対するはずの「小さなライオン」を自身の守り神に変えてしまったのだし、リビアヤマネコが「小さなライオン」であることをやめてしまったからイエネコはオレたちの傍らで無防備に眠るのである。

無論オレはそれが不当なことだとか狡いことだとか自己欺瞞だとか、今更他人事のような顔をして人類を糾弾する為にこんな話をしているわけではない。そういう厚顔無恥な真似をするのは坂東眞砂子一人だけでたくさんである。

古代エジプト人は単なる気慰みに野獣を騙して面白がっていたわけではなく、より良い明日を生きる為に少しだけ自然の力を借りたのである。そこにプリミティブな敬意や疚しさがなかったら神の一柱に猫の姿を視るはずがない。人類の家畜として使役されているちっぽけな動物が、その本然において人類の殺戮者たる雄々しい獅子と同一であるという神話を残して記憶に刻むはずなどはない。人類の倨傲を戒める神話、神の寛容さを讃える神話として語り継ごうと望むはずがない。

この説話において神々がセクメトを止めようと思い立ったのは、剰りにも苛烈な殺戮を善しとしなかったからであり、セクメトを差し向けた復讐者としての貌と人類を哀れみ奸計を以て殺戮を阻止する守護神の貌がアンビバレントに顕れている。この矛盾に説話の成立やラー崇拝の興亡のプロセスを視るのは学究の領分であって、オレたち一般人はそこに隠喩として古代人の相矛盾する自然観を視ればそれでいいのだろう。

古代エジプト神話は割合性格的に日本の記紀神話に似ていて、へリオポリス九柱神を中核とする神格群は、大まかに言って創造原理を体現する創造神、自然力を象徴する自然神、技術や知識を司る技術神の類で、オシリス、イシス、ホルスの聖家族が具体的な神秘力の象徴というよりファラオの王権を正当化する文脈の祖先神と位置附けられているようである。

古代大規模文明圏における多神教とは、最前触れたように一種地方神の習合と公権力による系統化の産物なのだろうし、地方神祇間の勢力地図や信仰の興亡を反映してもいるだろうから、数千年もの歴史のある文明において単一的な自然観を抽出するのも難しいだろうが、このバステト誕生を巡る神話が語るのは、神の使者たる狂える殺戮者としての野獣への畏怖と、大地の穣りを約束する女神がそのような殺戮神としての前身を持つことを語る起源神話的側面だろう。

それは自然力が内包する神秘に対するリアルな畏怖の感情と、そのような神秘力に対する憧れと崇敬が綯い交ぜになった古代人の心性を物語っている。想像を逞しくすれば、セクメトの殺戮神話とは人肉の味を覚えたライオンの集落襲撃という非常にリアルな事件のイメージが素型となっているのだろうし、そのような現実的な災厄を神罰として解釈したプリミティブな宗教心がそのような説話を残したのだろう。

今ではアフリカの極一部にしか存在しないライオンだが、嘗てはアフリカ全土はもとよりヨーロッパの一部にも棲息しており、二百キロ近い巨体を持つ俊敏で強力な猛獣は人類の共同体にとって深刻な脅威だったはずである。神に祈ったところで人の味を覚えた猛獣が襲撃を止めるものではないから、単にその動物群が殺されたか、疫病死もしくは傷病死したか、集落が滅亡したか、もしくは人々がその地を棄てて猛獣の生息域外に移住したか、要するに自然に已むべくしてその災厄は已んだのだろう。

古代人はそのような冷酷な自然力のサイクルを、神々は災厄をもたらすと同時に人類を哀れんでその災厄から人類を救うものでもあると考えたのだろう。そのような考え方がセクメトを差し向けたラー自らがセクメトを阻止するという説話に結実したのだろう。

要するに、在るべくして在るのだしなるようにしかならない世界の姿に、虚構的な行為者の物語性を附加して世界を解釈していただけである。

その一種単純な説話が猫科の属性を持つ複数の女神の習合という無関係な性格の動機と結び附くに至り、ライオンとイエネコという対照的な存在を道具立てとして一種の起源神話が成立するわけである。勿論ライオンとイエネコは大まかな分類では同族だが、直接的な系統関係で結ばれているわけではない。ライオンが小さくなってイエネコになったわけでは決してないのであるが、古代人は直観的に同族性を認識して小さな家畜に強大で獰猛な獅子の姿を視たのだろう。

古代人にとって、イエネコとは憎しみを棄てて人々に味方し大地の穣りを護ってくれる有り難い獅子だった、そのように視ることも可能だろう。おそらく当時のイエネコは現在の品種改良を蒙った個体よりも、よりヤマネコとしての本然を残した気の荒い生き物だったのだろうし、一般民衆の家庭で女性が愛玩するような生き物では決してなく、喩えて言えば鷹匠の扱う鷹のような使役動物だったのだろう。そのような意味でも当時のイエネコは文字通り人類への憎しみを棄てた小さな獅子だったのである。

たとえば人間は、雄々しく力強い獅子の力と美しさに身勝手に憧れるのだし、その一方でその強さと美しさを妬みもし、折りあらば殺してしまおうとするのである。さらにまた、こんなに強く美しい巨大な生き物と自身を重ね合わせ、懼れると同時に愛しもするのである。古代人はライオンの威風堂々とした体躯や強力な攻撃力を懼れると同時に、その力を我が物としたい、自らも獅子の如くありたい、そのような優美な巨獣に愛されたいと望んだのではないだろうか。

この神話に触れてオレが切なく感じるのは、後附けであることは明白でありながら、それを物語化する動機の面において、そのような相矛盾する人間の心性が透けて見えるからではないかと思う。

センチメンタルに響くことはわかっているが、古代エジプト人がリビアヤマネコを家畜化するに至った背景には現実的な必要性があったにせよ、おそらく、その現状を物語化して解釈する際には、この「小さなライオン」を愛するが故に自身も愛して欲しかったという理由附けを施さずにはいられなかったのではなかったのかと夢想するのである。

畏怖と憧れという相矛盾する複雑で混乱した動機の下、人々を殺戮する獰猛な野獣に人間に対する憎しみを棄ててほしいと願う切実な心が、穀物倉庫の番人として人々の明日を約束してくれる小さな使役動物の中に獅子の姿を視させたのだろう。

このような心の在り方を一概に「人類の倨傲」と括るのは剰りに鈍感である。古代エジプト人が獰猛なライオンに無力に喰い殺される現状を「神罰」と解したのは、そうとでも思わない限り剰りにも不条理だからである。たとえば大人からの一方的な暴力に晒されている無力な子供が自罰意識に苛まれるように、対抗する術を持たぬ過酷な現状に対しては、人は「自分が悪いから罰されているのだ」と解釈するしか世界の冷酷な条理を受け容れる方図はないのである。

どこかの新興宗教ではないが、自身に災厄が降り掛からないように祈る心で信心するのであるから、災厄が降り掛かるのは信心が足りないからなのである。そのような循環論理で解釈する以外、無力な古代人には過酷な現実を受け容れることが出来なかったのである。

その意味で、人類に味方して日々の糧を護ってくれる動物に「憎しみを棄てた獅子」の姿を視る古代人の心性は剰りにも切なく痛ましい。たとえセクメトが憎しみを棄てることでバステトに転生し、人々に恵みをもたらしてくれるのだとしても、その一方で無情に人々を殺戮する人喰いの獅子がいなくなったわけではない。相変わらず人間は強大な獅子の力に対して基本的に無力なのであり、どんな運命の気紛れでそんな猛獣に殺されないとも限らないのである。

そのような不条理な殺戮者から自身を護ってくれるのは、現実的には中央集権化された大規模社会の人垣であり、寄り添って集団で生きることで人間は数々の災厄を凌いできたのである。そして、イエネコとはそのような人垣の外に生きていた野獣を社会の埒内に囲い込んだ存在であり、社会の人垣の中で人々とともに生きる存在であり、その意味ではまさしく憎しみを棄てた獅子なのである。

以前再々語った通り、オレは現代社会における愛玩動物の飼育実態を無条件に肯定しているわけではない(この記事だけではなく過去記事からの連続上の文脈で解釈して欲しいところであるが)のだが、人が動物を身近に置きたがる動機には、このようなプリミティブな心性も根っこのところにはあるのだと思う。

野生動物側の視点に立って言えば、他の動物を殺して喰う生き物が自分より弱い動物を殺すのは何ら罪ではあり得ない。人間の心のみがその残酷さに痍附くのだし、殺し殺されることで果てなく続く命の連鎖に痍附くのである。子供時代に平気で動物を殺した経験を誇る人間がいる一方で、それよりもっと大勢の人々が、可愛い動物を殺して喰うことに罪の意識を覚えた経験を持つはずである。

それが現実というものさ、現実は厳しいものなのさ、弱肉強食が世界の掟なんだと嘯くのは、たしかに一面ではストイックで格好良いが、それが人の心性としては一種の鈍感さであることも間違いない。まして子供の頃から平気で動物を殺してましたと言うのであれば、普通一般の人々が感じるような他者の命に対する痛みの感情を共有していないということを語っているにすぎない。

昨夏の問題に際して、主に団塊以上の世代からその手の「昔は平気で動物を殺したもんだ」的な「武勇伝」が語られたわけだが、それらの暴論が醜いのはその背後に「今の若い者は軟弱だ、自分たちの世代は過酷な時代をもっと逞しく生きてきた」的な自世代正当化の腐臭がプンプン臭うからである。

数千年前の古代人ですら自然力に対する懼れや家畜動物に対する畏敬の念を持っていたというのに、多寡が近代人に過ぎない分際で、野獣に生きながら喰い殺されるという恐怖など識らぬくせに、「この世は弱肉強食だ」と嘯く傲慢さが醜いのである。人間社会の埒内で、数千年の歴史の中で先人の努力の結果無害化された動物だけに囲まれて暮らしているくせに、自然の残酷さの何たるかを知り尽くしているかのような傲慢さが醜いのである。

毛虫を殺した、蛙を殺した、ヤマカガシを殺した、猫を殺した、犬を殺した、鶏を絞めた、そんなくだらない過去を誇るのは、文明社会の埒内で人とともに生き人に対する憎しみを忘れた愛すべき動物たちや無力な弱者を殺したと誇る蛮勇でしかないだろう。そういう人々は決して丸腰で熊と格闘したとか狂犬病の蔓延した野犬の群と戦ったなどという武勇伝の持ち合わせなどはない。人間を懼れて逃げ惑う小動物や、人間に心を許して殺されるなどと努にも思わない哀れな隣人を虐殺しただけである。

猛獣の恐怖に怯えた先人たちは、社会の埒外に棲息する聖なる野獣を殺しすぎ、今や人間社会の埒内にしか大きな動物は存在しなくなってしまった。戦後生まれの年寄り連中が誇っているのは、他人が用意してくれたそんな牧歌的な世界の記憶でしかないのであるし、人間を憎む動物たちに愛して欲しいと切実に願った古代人たちから続く営々たる歴史に甘えて、それが天然自然に与えられたものだと錯覚する鈍感さでしかない。

そんな連中のつくった近代社会は、到頭人間社会の内側以外では動物を見かけないような冷たいものになってしまったわけで、何処まで行っても人間しかいないような単調な世界の中で、今更になって更めて人々が動物を愛し愛されたいと望み、一つひとつの命を惜しむことの何がおかしいというのか理解に苦しむ。

あの一件では、たしかに坂東眞砂子自身の出鱈目な自己弁護にも怒りを覚えたが、更に不愉快だったのは無責任にしゃしゃり出て「今時の若者は軟弱だ」的な動機に基づく醜い自己顕示の昔話を誇らしげに語った年寄り連中の戯れ言である。人々の凡庸な愛他心を逆撫でし揶揄することこそがブンガクシャやゲンロンシャに課された崇高な使命であるとでも心得たかのような、利己的な動機に基づく醜悪な放言である。

オレたちの傍らでともに生きひたすらに飼い主の愛情を乞い求め、自身も飼い主を愛してくれる猫たちは、その起源において人間との相互信頼の約束に基づいて憎しみを棄てた獅子なのである。最早人を喰い殺さなくなった小さな猛獣なのである。

この愛すべき隣人たちがこの世に生まれたまさにその当時の説話として、彼らの前身が憎しみに狂う血に飢えた殺戮者なのだと語る物語が残されているというのは、剰りに切なくて胸が痛む。そんな愛らしい生き物がオレたちの周りに存在するのは、古代人たちが自身を烈しく憎み無慈悲に喰い殺す獰猛な猛獣に対して、どうかその憎しみを棄てて欲しい、自分たちを愛して欲しいと切実に望んだからなのだし、愛してくれれば愛と尊敬と保護を返すと約束したからなのである。

そんな旧い約束を忘れた近代人の分際で、世界の何たるかを誰よりも識っているかのような口振りも尾籠がましい。猫は天地開闢の大昔から猫なのだ、人間様の飼い物に過ぎないのだから、お猫様のお命大事と騒ぎ立てるのは軟弱な愚か者だ、そんなふうに鈍感に考えている年寄りはただの老害で年寄りたるの資格がない。

イエネコが家畜化されたのは、多寡が史料でうっすらと確認し得る程度の近過去の事件であるにすぎないのだし、天地開闢の昔からイエネコは人間様に頭を撫でられて機嫌良く喉を鳴らしていたわけではない。

獅子の眷属の中で比較的人間を喰い殺すことに興味を持たなかった者に対して「私たちを愛してください、私たちとともに生きましょう」と誘った結果生まれたのがイエネコという存在なのだ。そして家畜というのはおしなべてそのような存在なのだ。最終的には殺して喰ってしまうにせよ、この人垣の中で「ともに生きる」「命を戴く」という畏敬の心があるからこそ、人々は何れ自らの手で殺してしまう運命の家畜動物をも愛してきたのではなかったのか。

傲慢なのはどちらのほうなのか、考えるまでもない。飽くまで「作られた自然」でしかない戦後ニッポン農村部の姿を唯一無二の天然の世界と勘違いする鈍感さこそが傲慢なのだし、獅子の憎しみを忘れた者に命の何たるかを語る資格などはない。

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