教えて、テンプリンちゃん
前のエントリーでチラッとホワイトカラーエグゼンプションの話をしたが、数字に弱いオレによくわからないのは、正面から「雇用コストの抑制」を眼目に打ち出している政策であるにも関わらず、その一方で賃金の公平な再分配のシステム整備をもお題目に掲げていることである。これは、どっちが主眼だとかいう問題ではなくて、本来両立する命題なのか何うかに激しく疑問を感じる。
ホワイトカラーだろうが何だろうが労働者には違いないわけで、この制度を導入すればさらなる「雇用コストの抑制」になるという以上、労働者階層に廻る社会全体の原資の絶対量が減るということである。しかし、これまで不公平だった賃金格差を是正し、公平に「再分配」するというのであれば、全体で考えれば雇用コストは減らないのが当たり前だ。
公平な再分配という以上は不当な賃金格差が存在するという前提の話なのだろうが、それなら普通に考えて「賃金を貰いすぎているホワイトカラー」と「不当な低賃金で働いているブルーカラー」の割合は、後者のほうが圧倒的に多いわけである。だとすれば、貰いすぎている人間の賃金を減らしてその分不当に低い賃金の是正に充てるなら、行って来いで全体の雇用コストは変わらないのが当たり前だろう。全体のパイに変化がある前提の話になっていること自体おかしな話である。
難しい経済の仕組みはわからないが、今現在不遇感を託っている労働者全体が常識的に満足するだけ賃金が分配されるのだとすれば、全体の雇用コストは上がりこそすれ何う考えても減るわけがない。それが抑制出来ると算盤を弾いている以上、企業経営層や行政サイドは、今の日本の労働者全体が働きの割に賃金を取りすぎていると考えているということにはならないだろうか。
適用される年収額をどの程度に設定するにせよ、今の日本の労働者で飛び抜けて不当に高収入を得ている人間などどのくらい存在するのだろうか。経営に参画していない階層の労働者がどれだけ高収入を得ていようとも、働きの割に不当に高い収入が得られるほど世の中は甘いものなのだろうか。一〇〇〇万円前後の収入を得ている階層など労働者全体ではほんの一握りだろうが、それこそ毎日寝る暇もなく過労死寸前まで働いているはずである。
遊んで高収入を得ている人間など、それこそ財界人や経営者層のボンクラ二世三世くらいのものである。
今問題になっている賃金格差とは、そんな一握りの人間の賃金が絶対的基準で高額なのは不公平だから減らせという意味ではなく、低額なら低額なりにちゃんと働いた分だけ賃金を払えという意味ではないのか。人間が剰っているからと言って生活が成り立たないほど賃金を安く叩かないで、人件費を不可欠な社会コストとしてそれなりに負担しろという意味ではないのか。社会を維持する大切なコストを減らして儲けを出そうとするのではなく、もっと建設的な方向で収益を出せということではないのか。
普通一般の企業活動というのは、国民の消費によって成り立っているはずなのに、その活動で得られた収益をちゃんと国民に還元しないのは不公平だろうという意味ではないのか。国民から金を巻き上げることばかり考えて、国民生活を支えようともしない企業や政府などこの国に存在する資格はないという意味ではないのか。
どうも漏れ聞いた話では、国民生活にまったく影響のない「景気回復」によって、収益増を口実に国内企業の役員賞与の全体額が増加したそうである。雇用コスト抑制の施策によって得られた形ばかりの「成長」の見返りを、一握りの経営中枢が寡占するというのは、如何にもこの国の品性に相応しいさもしい現実である。
格差問題ってのは、そういう不公平を是正しろって話じゃないのか?
ゼロ成長の時代が到来しているというのに、たとえば財界人、たとえば中央都市圏だけが豊かな暮らしを享受しようとして、その他大勢を切り捨てる態度は不公平で不毛だろうという話ではないのか。
嘗て九〇年代にゼロ成長時代の到来を予言して循環型社会実現の必要性を訴えた人々が圧し並べて提唱していた将来的な企業モデルは、日本の高度な技術力を活かした高附加価値化の戦略なのだが、昨今打ち出されているような雇用コスト抑制による国際価格競争力向上というお題目には、いつの時代なんだという眩暈さえ感じる。
要するに、これからは薄利多売とか大量生産大量消費という古臭いドグマでは社会システムが成り立たなくなるから、良質なプロダクトを高額で売って、その主力商品の維持やアップデートに纏わる周辺事業で堅調な企業活動を展開するしかないということが随分前から言われているというのに、これから大量消費を前提とした本格的な安物作りに国を挙げて打ち込みますよと宣言しているわけである。
雇用コストの削減や職能主義的労働力の放逐が招来するのは、何うしたって国産プロダクトの質的低下という結果でしかないし、世界に冠たると自称する技術開発力の放棄でしかない。口幅ったい言い方だが、現在この国の舵取りを任されている人々は、嘗てわが国の社会システムの何処が国際的な価値として機能していたのかを完全に見失っているとしか言い様がないだろう。
嘗て韓国や台湾が日本に追い付け追い越せで頑張っていたような状況に逆行しろという話になっているわけであるが、あの当時のアジア諸国は、日本というアジアの成功モデルを目指して社会全体に活力があり、アジアンパワーとしてグローバル経済を活性化させていたわけであるが、今の日本は富める時代を経験しているだけに先行きの希望もなくそんなプロセスを逆に辿ることに耐え得るわけがない。
座布団四枚貰えそうな上手い〆め方を試みるなら、嘗て剽軽者の宰相が「改革に伴う痛み」と表現していたものとは、この国全体の緩やかな貧困化だったというお粗末なオチなのである。
「山田君、とむざうさんの座布団全部取り上げちまいな」
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