死んでる俺は誰だろう
最終回では関西地区で瞬間視聴率四〇%超えを記録したとも聞く「華麗なる一族」であるが、やはり山崎豊子原作物は未だ関西では強いのだろう。関東でも最終回の視聴率でようやく三〇%超えを達成して、まずまず周年記念ドラマとしての面目を維持して放映を終えたようである。
オレも別段このドラマは嫌いではなかったので最後まで継続視聴したが、結末を識っていても各話の芝居の面白みで興味が持続したので、ベテラン俳優の人海戦術が効を奏したというところだろう。スタート時点で細部の描写に杜撰な部分が多々あった為に味噌を附けた格好だが、徐々に微調整して何とか気にならないレベルに納めてはいただろうと思う。
ただまあ、クライマックスの丹波篠山山中のシーンで、地吹雪に巻かれて猪と見つめ合うカットだけいきなり髪が茶色くなってしまうのには苦笑したが(笑)、初回との繋がり上、丸々全部撮り直すというわけにもいかなかったのだろう。プロローグにクライマックスを持ってくる手法もなかなか面倒な部分がある。
調べてみるとメイン演出兼プロデューサーの福澤克雄は、昭和を舞台にした作品の演出は単発の「さとうきび畑の唄」くらいしかなく、剰り神経質な資質の演出者ではないということもあって、絵面の効果やわかりやすさ優先で道具立てを用意したのが裏目に出たというところではないだろうか。
それ自体は一演出家の計算違いというだけの話だが、ここに近年のTBSが陥っているドラマ不振の体質的問題点が顕れていると思うので、今回は華麗なる一族それ自体の話というより、この部分を中心にTBSドラマの問題点を語ってみたいと思う。
オレが直接目撃したわけではないのだが、人から聞いた話ではCXで土曜早朝に放映している「週刊フジテレビ批評」という自局の番組に対する批判意見を紹介する番組で、何故かコメンテーターの先生が他局の番組であるこの作品のネタ要素を、アナの制止を無視して延々ツッコミ続けたという話を聞いたことがあるくらいで、世間の反響としてはネットの臍曲がりな煽りとばかりは言えないようである。
まあ今時の批評家先生も2ちゃんくらい読むかもしれないので、そのときツッコミを入れたのがまさしく「猪・肖像画・メカ鯉」の三点セットとキムタク茶髪ネタだったのはネットのトレンドと無関係だとは断言出来ないのだが、それにしたって本人が禿しく同意していなかったらわざわざ他局の番組でまで話題にはしなかっただろう。
その意味で、ネットという触媒があったとはいえ、TBSが威信を賭けた周年記念番組で満天下に恥を晒したことは疑いない。他のTBSドラマと同様に芝居の面では無難に手堅く作っているだけに、体質的・構造的な課題とすら言える映像的・作劇的センスの欠如を早急に手当てしなければTBSドラマに明日はないだろうと思う。
たしかに視聴率面では最低限の目標値をクリアしているのだろうが、視聴率男のキムタクを三顧の礼で主演に迎えた全社体制の周年記念ドラマということでは当てて当然と視られるだろうし、おそらくジャニーズ事務所の局際を超えた影響力を背景にしたと思われる凄まじい番宣攻勢のお陰もあるだろう。また、決して表面には出てこないだろうがこの番組の為に他番組が割を喰わされた場面も多々あったのではないかと想像する。
たとえば仮面ライダーカブトの「ライダー三五周年記念」という冠が実は後附けに過ぎなかったという例もあるし、このドラマが最初から「開局五五周年記念番組」という中途半端な冠を戴いて企画されたものか何うかは微妙だと思うが、局視点で言えばコンテンツの一つに過ぎないライダーと自局の周年事業では、看板の重みが違うだろう。最終的に開局記念番組という冠が載ったということは、それに値するだけの自他に恥じない内容の作品であると視聴者に請け合ったことになる。
そこまで注力しておいてビジュアル面で笑えるツッコミどころがあるというのは、やはり軽く視て好いことではないはずである。たしかに連続ドラマというのは水物で放映を重ねる裡に微調整していく部分もあるだろうが、金看板のフラッグシップに関しては比較的余裕のある製作体制で臨んで然るべきで、最初から高い完成度が要求されるものである。周年記念事業と銘打っている以上、一人や二人のブレーンが意志決定しているわけではなかろうし、「船頭多くして」という大企業病の弊害もあるかもしれないが、健全なチェック機能もあって然るべきである。
今回問題になった爆笑ネタ三点セットやキムタク茶髪バッシングに関しては、多くの視聴者にとってその映像がどのように見えるかというディスクライブがキチンと出来ていなかったということなのだから、TVマンとしての基本的な資質の問題ですらあるだろう。この前の周年記念番組であった「輪舞曲」に某香港映画の盗作疑惑が持ち上がったことと言い、局の威信を体現する金看板でその種の素人くさいミスを犯す辺り、TBSのドラマ制作力低下を如実に物語っている。
たとえば輪舞曲の場合に何が拙かったのかと言えば、パクリだから拙いのではない。現今の劇場映画よりも余程アクチュアルな媒体であるTVドラマが、先行する文芸作品から何らかのアイディアを拝借するというのは寧ろ当たり前の話なのだが、何処までやったら盗作と騒がれるかという計算が出来ていないのが、某新人小説家レベルだということである。
盗作であるかないかということは、盗作であると指弾するほうの側に立証責任があるのだし、それを司法が判断する場合、常識的な判断基準に基づいて双方の主張を公平に勘案して裁定するのであるから、文芸作品においては天然自然に「盗作」という行為が成立するのではない。
そもそもネタ元や受け手に指弾されない範囲でネタを上手にパクることは、一種プロの作劇作法ですらあるだろう。その計算が出来ていなかった、作品個別のチャームをつくるべき部分までイタダキで構成していたから叩かれた、それだけの素人くさい失敗談なのである。
この輪舞曲の失敗にせよ、爆笑ネタ三点セットや茶髪バッシングにせよ、近年TBSが陥っているドラマ制作姿勢上の問題点が如実に顕れている。つまり、視聴者一般がどのように感じるかということに対して窮めて鈍感もしくは無関心になっているのであり、それを適宜補正する組織的信頼性もないということである。これは不特定多数のマッスをアクチュアルな時制において相手取るTV局として致命的な問題点と言えるだろう。
オレ的にはネタ三点セットのビジュアルセンスはオーセンティックな映像作品づくりの観点において失敗した映像設計だと考えるし、その詳細は以前語った通りだが、極論すればそれでも多くの視聴者がそのほうが効果的だと感じれば、それはそれでプロのTVマンの専門的判断が正しいということになるのである。
TVというメディアは基本的に数の論理が強い影響力を持つメディアなのであり、理屈はどうあれ無視出来ない数の視聴者に嗤われた以上、TVドラマのビジュアルセンスとしては絶対的に間違っているということである。
加えて劇伴遣いやナレーションのセンスの悪さが問われるようなら、要するに現在只今のTBSには重厚な大作ドラマを手掛けられるだけのノウハウや人財のストックが存在しないという事実を満天下に晒したようなものである。極々一般論で言えば、多くの視聴者はこの種のドラマを一定の「品格」を保って制作出来るのはNHKかCXしかないと考えているだろうし、嘗てドラマシーンをリードしたTBSとしては、視聴率云々という以前に、そのような屈辱的なステータスに忸怩たるものを感じなければ嘘だろう。
今現在のTVドラマシーンにおいてTBSが他局の後塵を拝しているのは、モノが良いのに視聴率面で苦戦しているということではない。視聴率なりのレベルの作品しかつくれない組織力が問題なのである。組織力が問題であるということは、要するに人材面において深刻な課題を抱えているということで、これは一朝一夕で解決出来る問題ではない以上、TBSのドラマ不振の根は深いだろう。
ドラマ畑で民放のトップを走るCXなどは、制作局内に膨大な人材ストックを抱えて一大企画者集団を構成しているわけだが、この現状に至るまでには二〇年以上に亘る長期的な展望に基づいて様々な試みが行われている。「北の国から」のヒットでCXドラマ隆盛期の礎を築いた山田良昭の指揮の下、大多亮や石原隆の世代が月九や世にも奇妙のヒットを経て組織としてのCXのドラマ制作力を底上げしたことが、今日の人材的な厚みに繋がっているわけである。
それはちょうどバブル最盛期と重なるタイミングであり、国民生活の内容が劇的に変化した時期でもあった為に、CXの表看板であるトレンディドラマの華やかで生活感皆無のオサレムードが持てはやされ、庶民の生活感に根差した実直で泥臭いTBSドラマの作風には逆風となったということもあるが、このバブル期にドラマ制作力という面ではTBSの衰退が始まったという歴史的経緯になるだろう。
その辺りの細かい経緯の検証を抜きに言うなら、トレンディドラマの隆盛期を境にしてTBSドラマの伝統的な人的インフラはアドバンテージでなくなってしまったようである。バブル過ぎ去りし後の現在只今に至っても、TBS的な庶民の実像ドラマのニーズはそれほど大きなパイではない。たとえば金八や渡鬼などの長期シリーズとして具体的コンテンツの形で資産となっているだけであり、これは当該シリーズとともに人生を歩んできた特定年代層にアピールするのみであって、新たな視聴層のニーズに合致したものでは当然ない。
その当時から今日に至るまで、トレンディドラマ全盛期の不利を押し返すだけの何らかの組織的方法論を確立したわけでもないし、人材面においては何ら戦略が視られないのだから、従来的なTBSドラマのノウハウを持った年寄りがどんどん櫛の歯抜けに流出するだけの話で、今現在のTBSドラマが面白くないのはある意味当たり前である。
華麗なる一族に話を戻せば、たとえば最前名前を出した福澤克雄などはオレよりも年下であり、広く括ればオレと同世代人なのだから、本来TBS最盛期の栄光とは不連続な人材である。TBSの非長期シリーズドラマが左前になってから入局し、トレンディドラマの立て役者であるキムタク主演のドラマで当てた人材なのだから「TBS制作だから堂々とした風格の大作ドラマがつくれる」という話にはなりようがない。人財や知財的な連続性が何もないのだから、そのように考える根拠がないのである。
現にこの諭吉の曾孫がロボ鯉を使おうと思い附いちゃった場面や、貴島の弟子がこともあろうにアジアセールスも睨んだ周年記念ドラマで香港映画を丸パクしようと思い附いちゃった場面において、当たり前の判断に基づいてそれを止めるフェイルセーフが機能しなかったのだから、過去の栄光の歴史がノウハウや人財という無形の企業資産として局内に存在しなかったということである。
調べてみると、このようなTBSの人材面での衰退は、九〇年代の諸々の経営危機を経てTBSビデオ問題で廃業の危機に追い込まれた一件がトドメを刺した格好で、有能な人材が多数社外に流出したことが主な原因のようである。TBSビデオ問題発覚時に筑紫哲也は「TBSは死んだ」と発言したが、まさにTBSの過去の栄華はその時に死んでいたわけである。このような経緯において、全盛期を演出した人財が温存されているはずがない。悪意的に言うなら、現在のTBSドラマに嘗てのクオリティを期待するほうが酷なのである。
CXが伝統的に三味線を弾く一月期に、キムタクを担ぎ出した総力体制の周年記念番組で悪くはないものの微妙な視聴率を獲得するというのが、如何にも現在のTBSのお寒い現状を如実に物語っている。
今季は華麗と花男という二作品が好調だったが、他局が実験期のストーブリーグと心得て癖玉を試している時期に、全社体制の周年記念大作やフロックで当たったキラーコンテンツのパート2をぶつけて総力戦を仕掛けるというのは、まああんまり見場の好い姿勢とは言えないだろう。
座布団三枚貰えそうなうまいことを言うなら、開局五五周年記念番組として放映された華麗なる一族が垣間見せているのは、九六年の一大危機を経て死に体となった現在に至るまでの暗い歴史の影で、今更言うまでもなく「ドラマのTBS」は一〇年以上前にすでに死んでいたのである。
これまで当ブログでは、一貫してTBSドラマに批判的な態度をとり続けてきたわけではあるが、まあつらつら考えてみるに、死に体のTV局だからつくる番組がイマイチなのであって、それには何の不思議もないわけではある。そうと決まれば、テレ朝のヌルいドラマにテレ朝補正を掛けて評価するように、TBS補正を掛けて評価すればいいだけのことで、これまで肩肘張って真顔で附き合ってきたのが莫迦だったというだけのことである。
四月期のラインナップを一渡り見回してみると、日曜劇場に織田裕二を持ってくる辺りは本気度が高いが、白鼬の後がキノコとハセキョーのピカレスクというのはよくよく投げてる枠だという印象だし、花男2の後がカツンの坊主と栗山千明というのもかなり微妙であるが、公式サイトを覗きに行ったら、初回は栗山千明のパンティラで数字を稼ぐ「結婚できない男」方式らしく、アカラサマにパンティラ予告していた。
予告ホームランならぬ予告パンティラというのは、男らしいのか卑怯なのかよくわからないが、まあオレは栗山千明の機関車柄パンツが見たいから見る。
TBSドラマってのは、そんな感じで観るのが正解なのかもしれない。
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