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2007年3月27日 (火曜日)

Unchain

結局何だかんだ言って今季一番満足度が高かったのはテレ東の「逃亡者おりん」だったような気がするのは、オレが特ヲタだからかもしれない(笑)。以前語った際に指摘したような弱点も感じるのだが、基本的にオレのブログではベタ褒めやベタ貶しということはないし、貶す処が見当たらないTV番組というのもそうそうないだろう。

ただ、前回のエントリーにコメントを下さったマサキさんが褒めてらっしゃるので言いにくいことではあるが、最終回二時間SPについては正直ちょっと期待しすぎた部分があったかもしれない。作劇要素の組み立てということでは文句はないのだが、何というか全体的な映像の組み立てがちょっとイマイチだったという感触を覚えた。

そもそもおりんのバジェットで剰り長々と豪華さを求められる絵面を流すのは危険だと思うのだが、最終回はサブタイトルに「江戸城大乱」とあるようにほぼ全編に亘って江戸城が舞台となり、大岡忠光の謀略や手鎖人の軍事クーデターという派手なスペクタクルが中心となるエピソードであった。

そうなると、これまではおりんサイドの地味な道中物の政治的背景として描かれることで剰り意識されなかった江戸城の描写のしょっぱさが否が応にも強調され、天下を再び戦国の世に戻し、戦火の渦に巻き込む為の政争という壮大なスケールの話の割には、甲賀者や手鎖人、場内警備の衛士や鉄砲隊などがそれぞれ数人程度しか出てこないという矮小感漂う映像なのが気になってしまった。将軍が政を視る大広間も、縁側から奥まで丸見えの何う視ても「お寺さんの座敷」なのがちょっと微妙で、最終回だからってこんなに大掛かりな話にしなくてもいいのに、と生温い気持ちになった。

ただまあ、政争の具として男に欺かれていた一人の女暗殺者の自己回復や庶民の安寧な日常を踏みにじる権力者の醜さを描くこの物語の最終局面で、ラスボスに刃を突き附けるヒロインという絵面を描かなければ嘘だろうという感覚も理解出来る。これまで逃亡者という弱い立場で男たちの謀略に振り回され、関わり合った人々の非業の最期を見続け、自身の母への思慕も娘への情愛も踏みにじられたおりんが、庶民の命を虫けらほどにも思わず国政を壟断する奸臣に、死んでいった人々の視点を代表して怒りを叩き附ける落とし所でなければ、カタルシスに欠けるラストになっただろう。

そういう意味では、男たちの権力闘争に対して庶民の生活感情を背負った女主人公が復讐を果たす物語の最終決着が、権力闘争の中心である江戸城内で描かれるのは仕方のない話なのだが、CXの「大奥」シリーズに比べてよっぽどしょっぱい絵面に終始してしまったのは残念である。

たとえば、それほど大勢のエキストラを用いるわけにはいかないというお台所事情があるとすれば、限られた同じ人員をフル稼働させて各場面で別の役どころとして集中的に投下すればモンタージュ的に厚みが感じられたはずなのだが、薄いところは薄い儘だし厚くて然るべきところも当然薄く人員を配置している為に、窮めて殺風景な江戸城に見えてしまった。

殊にクライマックスの場面では、比較的狭いお寺さんの座敷に将軍以下のお歴々を中心として警護の衛士や甲賀者や手鎖人や鉄砲隊が同一時点で同一場面にゴチャゴチャ入り乱れるという段取りなので、エキストラを各勢力に分割せざるを得ず、結果的に各勢力の厚みが貧相に見える為にスケール感が殺がれたということになるだろう。

こういう筋書きは大バジェットの劇場映画なら成立しても、連続TV時代劇では何う頑張ってもちゃちに見えてしまう。これが劇場映画なら、大掛かりなセットや生身のエキストラが使えなければ、最悪CGで作ったり増やしたりという荒技も使えるのだが、非特撮のTVドラマレベルだとそれは少しキツいだろう。

つまり、本来相応な規模の軍事組織であるべき警護の衛士や甲賀者、手鎖人、そのような一大軍事勢力同士の三つ巴の正面衝突をマトモに描かなくてもいいようなコンパクトな筋書きに徹するべきだったのである。あの程度の人数のエキストラでも、単一勢力の斬られ役としてなら充分豪華に見えたはずである。

しかしまあ、その辺のお台所事情に関しては、オレだって鬼じゃないんだから心の目で温かく補正することもできるのだが、それよりもっと気になったのは全体的なテンポの悪さである。作劇要素のテンコ盛りで間延びした話ではないはずなのに、何故か畳み掛けるようなテンポの良さを感じなかった。宇吉の最期を描く大奥潜入のくだりも、変なからくり仕掛けの部分はテンポを殺ぐばかりで不要ではないかと感じた。

東映の「RED SHADOW 赤影」でも感じたことだが、罠また罠のからくり仕掛けを踏破するというシチュエーションは、テンポ良く描かないとドリフの探検隊コントにしか見えないものである。そもそも奥向きの女性たちの生活の場である大奥に無闇に罠が仕掛けられていたら危なくてしょうがないという無粋なツッコミはさておき、この場合、おりんと宇吉のしんみりした昔語りの味附けとして罠の踏破が用いられている為に、何うしてもテンポが犠牲になってドリフのコントにしか見えなかった。

さらに、その前段としておりんの江戸城潜入のくだりが描かれるわけだが、宇吉の待つ抜け道の入口まで到達するプロセスが江戸城内の謀略劇とカットバックされる趣向が、時間配分の関係で緊迫感を醸し出すまでには至らなかった。あれなら城内潜入のプロセスをスピーディーに纏めて編集したほうがよほどテンポが出たのではないかと思う。

つまり、エピソード前半に関していえば、謀略劇の進行とカットバックしておりんが母と再会するまでの苦難の道のりを描いている部分がモタついて見えるのが、何となくテンポの悪い印象を醸し出しているのである。

さらに後半のクライマックスに関していえば、お寺さんの座敷で大人数が右往左往するくだりに剰りにも多くのイベントを盛り込み過ぎたのが爽快感を殺いでいる。大概の一時間ドラマの呼吸なら、あの大広間の場面は一〇分内外でケリが附くべきだと思うのだが、あの場面になってからが矢鱈に長くほぼ後半の殆どを費やしている。

ただ、この大広間のくだりが現状のようになっているのは、シリーズ全体の総ての劇的要素に完全決着をもたらす台詞主体の長丁場を描くに当たって、舞台芝居のような呼吸で描こうという意図があったのではないかとは思う。その意味では大広間がお寺さんの横座敷なのも、舞台劇の見立てに好適だったからという見方もできるわけである。

その意味では、人物の出し入れも舞台劇的な呼吸で、局面局面でスポットの当たる役者の芝居場や見せ場があって、演じ終えたら脇にハケて、というような呼吸も舞台劇的ではあるのだが、如何せん映像の撮り方や見え方が普通にTV映画で、カメラワークや編集でテンポを作るような映像の儘なのがちぐはぐな印象を覚えた。

黒幕・大岡忠光の処遇に関しても、野望の夢破れた局面で腹も切れない小者振りとか切羽詰まって狂気に陥る辺りの描写はいいのだが、いくら何でもお寺の縁側から足袋裸足で降りてその儘歩いてハケてしまうのはかなり間抜けに見える(笑)。

忠光の人物描写からして、陰腹を切って身の潔白を訴えた剛直な古武士の森川土佐守との対比上、潔く身を処断するという選択肢はあり得ないだろうし、将軍家重の心情としても狂乱し廃人となった嘗ての寵臣を斬れと命ずるのは忍びないだろうが、背後から手鎖人に斬られるとか幾らでも劇的な締め括り方はあっただろう。

また、大岡を呆然と見送った人々が我に返って形を改め、道悦の哄笑から弥十郎との決着に流れる辺りの呼吸もちょっとぎこちない。大岡退場のどさくさで手鎖人が鉄砲隊を何とかしたという流れなら、そこから道悦と弥十郎の対決の一連に流れるのも自然に感じるが、現状だと人々が大岡に気を取られているのを手を拱いて視ていたくせに段取り臭く長台詞を始めるからわざとらしく感じてしまうのである。

さらにそこから手鎖人が暴れ出し、鉄砲を突き附けられて再度制圧されるくだりも少し諄い。最初に道悦や手鎖人の動きを封じたのが田沼の手配した鉄砲隊であったことが忘れられているのである。ここで再度討ち死に覚悟で荒事を仕掛けるなら、いっそ手鎖人が全滅するくらいの筋書きでも良かったのではないかと思う。まあそれでも広大な江戸城を占拠しているはずの他の手鎖人集団の始末は何うなったんだ、それともあれは道悦のはったりだったのかという最初からの疑問は残る(笑)。

土台、道悦率いる手鎖人集団が江戸城を占拠している状況自体も絵で見せていないのだから、最初に鉄砲隊が到着した時点で「他の手鎖人は残らず討ち果たした」と一言台詞があれば成立した話である。バジェットがしょっぱいならしょっぱいなりに見せ方の工夫があったのではないか、そこに検討の余地を残してしまったことが残念なのである。

この場面は、道悦と手鎖人による江戸城制圧と大岡忠光の謀略の露見、田沼意次の裏切り、おりんと忠光の対決、家重と宗武の和解、弥十郎と道悦の死闘など劇的要素のテンコ盛りで、複雑で錯綜した登場人物たちの一人ひとりにスポットを当てて締め括りの芝居場を設ける段取りになっているが、これほど多くの劇的要素を一場面で処理するのはかなり難しいことは間違いないだろう。

その為に大広間という単一の場面で山場がのべったり続くような単調な段取りになってしまったことは否めないし、脚本か演出かは微妙な判断になるが、その単調さを上手くリカバー出来ていないような印象である。

そういうわけで批判的な内容からの話になったが、元々複数の勢力が夫々の思惑で三つ巴四つ巴の陰謀を巡らすこれだけややこしい物語に、急転直下の決着を設けること自体が難しいのだし、ある意味この番組も大筋の陰謀の真相を伏せて謎で引っ張る平成ライダー方式の縦糸を採用しているわけだが、伏線を実直に回収する姿勢には大いに好感が持てる。その実直さがクライマックスの手法的な難しさをもたらしたわけだが、ほぼ半年かけて語ってきた長い物語のケツを持つことの重要性を認識しているだけかなりマシな作劇である。

これまで陳べてきたように、クライマックスの場面が妙に間延びしてもっさりしたテンポに感じられたことは事実だが、物語の総ての要素に一挙に決着を附けようという誠意は買える。映像の生理としては若干気持ちが悪いのだが、物語として視た場合の完結度は高い。

映像的には貶した格好になったが、それでも序盤で描かれた寛永寺門前の乱闘のくだりは映像の組み立てが考え抜かれ、何度観てもじわっとくる感動的な出来になっていると思う。フルサイズで流されるテーマ曲の呼吸に合わせた芝居の段取りも美しく、眼前で自身を守る為に死闘を繰り広げる娘を見守る如春尼の視点映像が、ふわりとスローモーションに転じてカットバックされる流れの美しさは特筆物である。

通常の各話の感覚で言うなら、この場面がクライマックスに置かれてもおかしくないくらい力の入った映像的官能となっている。ひたむきに母を想い死闘を演じるおりんの心情とそれを見詰める母如春尼の心情が視点の切り返しによって絡み合い、乱闘の最中に遂に果たされた母子の再会をドラマティックに盛り上げている。その一連が待ちに待った弥十郎の颯爽たる生還で締め括られる呼吸もまた心憎い。

ある意味、この最終回二時間SPの大半は総ての人物が出揃った上でシリーズ全体に決着を附ける長大な解説的エピローグという性格があり、映像的な流れの美しさや剣戟のドライブ感で見せるような性格のエピソードではないわけで、寛永寺門前の乱闘から弥十郎生還までを描くくだりが今回の映像的なクライマックスであったと表現しても好いだろう。演出者にもその間の機微が認識されていたからこそ、事実上のクライマックスに当たるこのくだりの演出に力瘤が入ったのではないかと想像する。

この番組をTV時代劇として視た場合、どの階層に向けて作っているのか微妙な内容であることは以前語ったときに指摘したが、年寄り向けの明朗勧善懲悪物的な内容ではないのだが、物語としての実直な出来の良さは近年の若者向け番組にはない資質である。

誰もが予想する通りクライマックスを目前にしておりんの楯となって死んでいく宇吉の扱いをとってみても、その犠牲の下に漸く再会を果たした母如春尼に不殺を諭され宇吉の報復を思い留まることで活きており、それがクライマックスで大岡の髻を斬るのみに留める行為にも繋がっている。そして、人々の血の犠牲によって生き延びてきたおりんがその宿業を負いながらも、これからも一人の人間として生き続ける結末を用意するのは、この不殺の結論だと言うことも出来るだろう。母に制止されて以降、おりんは一人の敵も殺していないのである。

おりんの為に命を抛った人々の想いに応える為には、悪と刺し違えて死ねば好いというものではない。彼女に生きて欲しいと望んだ人々の想いを酌むことは、悪人を殺すことではないのだし、自身の身を処断することでもない。如春尼がおりんの報復を留めることは、抹香臭いお説教でもないし取って附けたような綺麗事でもない。悪人であっても殺すなと留めることが、我が身一身のことであろうが自由に命を棄てて好いものではないという結論に繋がり、この物語においておりんを活かす途はそれしかないのである。

表面上台詞で語られていないことではあるが、おりんが一人の人として生き延びるという結末が、亡父の仇である大岡の悪事を赦さずとも殺さないという選択と密接に関連附けられていることは間違いない。

おりんが暗殺者としてのこれまでの宿業を清算する為には、過去に幾多の血で穢れた手であろうとも、これ以上憎しみの為に人を殺さないという意志的選択によるしかないのである。殺し殺されることで決着が附く論理と訣別するということである。時代劇において髻を切るということは、士分の体面を象徴する髷を結えなくすることで、命は助けるが社会的には抹殺するという意味なのだが、この場合は男性原理に虐げられた女性であるおりんがそれを行うことでその意味性が強調されている。

少々図式的な話になるが、この物語は最初の最初から男性原理対女性原理のような観念的対立軸が基調に据えられていたと思うし、道悦という男性原理の体現者によって洗脳され強姦され子を生まされた「犠牲者としての女性」として位置附けられたおりんが、逃亡の旅の中で自身の女性性を回復していくという構造で設計されていたように思う。

権謀術数渦巻く政の世界で大義の為に我が身を犠牲にした父は、おりんの理念面での支えではあったのだが、母妙こと如春尼が生き延びていたことで、おりんは母の娘であり娘の母でもあるという女系の系統の中心に位置附けられる。当初は経産婦がレオタードのバトルヒロインなのはイヤな設定だなぁと微妙に感じていたのだが(笑)、物語性の観点から言えば、おりんが母を慕う娘であり娘を想う母でもあることは、おりんの女性性を扱う意味では必要不可欠な設定ではあった。

権勢欲や理非の義というのは基本的に男性原理であり、殺し殺されるという決着の附け方もまたその原理に基づくものであるが、その男性的な闘争の狭間で翻弄されるヒロインの女性性の確立を描くことで、「生きる」という結末を用意する筋道は立っている。

おりんの父である古坂平九郎が一死を以て大義に殉じたように、その妻である妙は生き延びて雌伏することで秩序の回復に一助を果たすわけだが、おそらくこの物語において男性原理と対置される女性原理というのは、死ぬことや殺すことではなく、生きること活かすことで何事かを為すというものなのだろうし、理念や観念ではなく具体的生活実感に基づく原理なのだろうと思う。おりんの自己回復が旅先で出逢った人々との情の通い合いによって果たされるのは、その間の機微を物語っている。

また、前回語ったときは「おりんの男たちに対する感情が演じられていない」と指摘したのだが、最終局面において道悦に「おまえも人になれ」と叫ぶくだりは、このボキャブラリーの貧困なキャラクターなりに道悦への愛憎を表現したものと言えるだろう。勿論、道悦の奈落墜ちを見守るおりんをさらに視る弥十郎の敗北者のような表情に助けられてのことではあるが、この最終対決には控えめではあるが一人の女を間に挟んだ男同士の対決のニュアンスが出ている。

ここでおりんが「殺したかったら私を殺せ」と叫ぶのは、これまでのように「悪人と刺し違えて己が身の業に決着を附ける」というニュアンスの言葉ではなく、道悦の飢餓感にも似た野望に対する哀れみであり、それを救済する為の自己犠牲のニュアンスで言われた言葉であり、道悦を活かす為の言葉である。

それを踏まえて考えれば、「死んで生まれ変われ」という言葉も潔く自身を処断しろという意味ではなく、血塗られた暗殺者であった自分が死んで一人の人として生きる決意を固めたように、道悦もまた満たされぬ復讐と野望の衝動に苛立つこれまでの植村道悦を殺し新たな人として生まれ変われという意味に聞こえてくる。それはまあ、言ってみれば愛と表現しても好いだろう。

哄笑と共に道悦が奈落へ墜ちる決着は、自身の運命を狂わせた男性性をも赦し救済しようと望む女性性の慈愛、さらにその慈愛の拒絶という結末だろう。ここに語り手の女性なるものへの憧憬と幻想を視ることも出来るが、前回語った際のコメント欄での遣り取りの通り、おりんを演じる青山倫子の物の考え方が割合男っぽい部分があるのが結果的におりんのキャラクターを屈折したものにしていて、通り一遍の女性性への幻想の体現という見え方にはなっていない。

おりんというキャラクターは、幼時に父母と引き離され、殺人機械である手鎖人として育てられ、愛なき相手に陵辱され、産み落とした娘を直後に奪われたことで、人としても女としても人の子としても人の親としても何かが欠落した人間であり、それらの欠落を一つひとつ回復していくのがこの物語の骨子である。その回復のプロセスこそが「闇の鎖」を一つひとつ切り落としていく道筋であると、この最終回に至って意味附けられたわけである。

人間なら当たり前に具えているような自明な感情や、女性なら当たり前に具えているような自明な情緒性の欠落した偏跛な人間として登場したわけだが、これがもう少し女臭い女優が演じていたら、芝居としてはもっとわかりやすい見え方になっていただろう。ただ、青山倫子が演じたことでおりんの畸型性やぎこちない人間性に一種のリアリティが付与され、独特のキャラクター性が生じた側面は見逃せないだろうとも思う。

おそらく、現実にある逃亡者おりんという作品におけるおりんのキャラクター性は青山倫子の個性と相俟って生じた一体不可分のものだろうし、柔軟な女性的情緒性や感受性を奪われ木訥な男性的論理という思考ツールしか持たないおりんが、人々との具体的な触れ合いによって愚直に人間性を回復していくプロセスに妙なリアリティが出ている。

青山倫子よりももう少し女性的な潤いのある女優が演じていたら、おそらくその見え方はアプリオリな女性的肉体性や母性の勝利というものになっていただろうが、現状のおりんは一歩一歩手探りで自身の女性的な肉体性を取り戻すというような、女性版百鬼丸的な見え方になっている。そういう意味では、おりんのキャラクター性の叙述は結果的にかなりストイックなものとなっており、ハードボイルドな雰囲気が漂っている。

大人の男なら、女性の肉体性が慈愛に満ちた母性一辺倒ではないことくらい識っているのだし、その意味でもっと女臭い女優が演じていたらおりんのキャラクターは女性性への憧憬と幻想を演じる「美しいお芝居」として見えていただろう。女性性の何たるかを自明な肉体性として体現しているとは思えない青山倫子の柄は、現状のおりんのキャラクターの嘘のないひたむきさにリアリティを付与しており、女性「だから」という図式的な見え方を拒否している。

おりんという個別のキャラクターが、多重的な欠落という出発点から裏表なくひたむきに欠落を回復していく嘘のなさにリアリティがあるからこそ、この結末が信頼出来るという見え方になっている。

亡父の墓前で祈るおりんの手首から手鎖が砕け落ち「闇の鎖、すべて切れました」と呟く台詞は、如何にも時代劇的な予定調和ではあるものの、亡き父への人間回復の報告として美しい場面となっている。おりんが血塗られた過去の象徴としての手鎖から解放される落とし所が用意されているならば、各話のキメ台詞である「闇の鎖、また一つ切りました」はメタレベルの結末の予告と意味附けられるだろう。

意味ありげな西岡徳馬のインサートや道悦の呼び声が木霊するラストカットなど、続編への色気がアリアリではあるのだが、このシリーズ一本で充分に完結している物語なのだから、考えなしに続編を繋いで台無しにすることだけは避けてほしいと思う。

殺し殺される論理から解放され、何処へともなく消えたおりんが再び修羅の闘争劇に巻き込まれるというのは、よほど再開へのロジックを練らないと蛇足の嫌いが否めないだろうと思う。ここまで確信犯的に続編への余韻を残す以上、放映中から続編の構想は練られているのかもしれないが、ただ単にもっとおりんが観ていたいからというだけの理由で続編を望む気には、少なくともオレはなれない。

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