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2007年4月25日 (水曜日)

domestic violence

通常営業の当ブログは、ペットブログでも動物虐待ヲチブログでもないので、オレ個人の心象などここで語る必要もないかなと思ったのだが、いろいろ調べているうちに何だか気持ちが悪くなってきたので、やはり触れておくことにする。ちょっとわかりにくい話になると思うが、一応覚書程度に書き留めておきたいと思う。

他でもない、今回は今頃になって例のニーソ社員によるフェレット虐待事件に関する話を蒸し返させていただくので、あんな不愉快な事件のことなど想い出したくもないという方は読まずにスルーしていただきたい。ことに実際にフェレットを飼育しておられる方には不快感が強い話題だろうから、敢えて関心を持たれるほどの提言を含む内容ではないことをお断りしておく。

これは実際の事件についての、オレの不愉快な想像の話である。

TVの報道などで視ると、この「頭のおかしい男」はフェレットや兎やハムスターなどの小動物を次々に数十匹も虐待死させ、2ちゃんに虐待動画を貼り附けて面白可笑しく書き込みをして愛好家を煽っていたというのだから、最初は例の福岡の男と同類の人間なのだろうと思ってかなり腹を立てていた。

しかし、さらなる詳報がないかとネットを検索していて辿り着いたまとめサイトの当該ログを実際に読んでみると、虐待だけでは飽き足らずにネットで暴露して他人が慌てふためく様を見物したいというのとは、ちょっと違うのではないかという気がしてきた。

この男は、当初はフェレットの虐待を「躾けの一環」と言い張っていたわけだが、スレの住人にいろいろ攻撃されるうちに主張の骨子がコロコロ変わり、結局主要な動機が何だったのかはイマイチはっきりわからない。一時は、フェレットのいる楽しい生活を夢みて飼育してみたものの、思うように懐いてくれないので関係が悪化し、躾けが虐待の色彩を帯びるようになった、そのようにも主張していた。

まあ個人的には、フェレットのように人懐こくて陽気で我慢強い生き物を数十頭も飼育していて残らず懐かなかったのだとすれば、それは本人の接し方に問題があったとしか言い様がないと思うのだが。

かと思えば、確信犯で虐待と殺害を繰り返す為に小動物を購入し続けたような露悪的な表現に傾くこともあり、実際にマスコミ報道でもそのような文脈で語られている。スレ住人の糾弾が激化して当局に通報されると、弱腰になって反省してみせるかと思えば一転して逆ギレ気味に「おまえらが騒ぐから証拠隠滅の為フェレットを殺した、おまえらが殺したんだ」と虚勢を張ったりと、まったく言動に一貫性がない。

警察でも「小動物には自意識がないから物と同じ。罪に問われるのはおかしい」と反抗的に嘯いたり、「反省して今後一切動物の飼育から手を引く」と殊勝に振る舞ってみたり、やはり一貫性のない態度に終始している。要するに何の考えもなしに行ったことの結果が予想以上の大事になってしまった為に普通に動転しているわけである。

このようなだらしない言動を視ていると、この男を強い嗜虐心を抱えた犯罪的傾向のある人物と視るのも少し違うのではないかという印象を持った。勿論、小動物をいたぶった挙げ句に殺害し生ごみと一緒に廃棄するというのは、法的には明確な犯罪行為だし、曲がりなりにも一定期間共に暮らした命に対する敬意も愛情も感じられない没義道な行為であることには違いない。

しかし、オレの印象では、この男はとくに小動物の虐待や殺害自体に興味があって何うしようもない嗜虐衝動に突き動かされていたというのとは違うのではないかという気がして仕方がない。

犯罪的傾向ということで言うのなら、世の中には病的な資質の持ち主がいて、何うしようもなく暴力や犯罪行為に走ってしまうような人間もいるわけだが、この男の場合は資質面に犯罪的傾向があるというより、思考停止や自律の不足によって、自覚なく法律を侵犯してしまうタイプの愚かな人間という印象である。たとえば、自分から好んでいじめを仕掛けるタイプではないが、周囲がいじめを行っていたら、さしたる抵抗もなく付和雷同し、調子に乗って一番非道いことをするタイプの人間なのではないかという印象である。

この男が奇怪な嗜虐衝動を秘めた怪物的な異常者ではないとしたら、ではどのようにして、何故このような常識外れの虐待行為が行われたのか、それを少し想像してみよう。

まず、下世話なことを言うなら、フェレットというのは決して安いものではない。毛色やファーム、ショップによって価格帯も変わるが、手頃な価格の個体でも三〜五万円前後する。報道では「十数頭」ではなく「数十頭」という言い方をしていたから、ざっくりフェレットが二〇頭以上と見積もっても六〇万円以上の出費である。

兎やハムスターも交えていたようだからそこまでの金額ではないかもしれないが、逆にそれ以上の額に上る可能性もあるわけで、何れにせよ結構な出費であることは間違いない。普通の金銭感覚で考えて(異常な犯罪を犯す人間だからといって金銭感覚まで異常とは限らないから)、生き物を虐めて殺す為にそれほどの額の出費を厭わないかと言われたら、高給取りのサラリーマンの場合でもそうではないだろう。

そんなことに大金を費やしていたからこそ「異常者」なんだ、そんな奴に常識が通用するものか、という声が聞こえてきそうである。だがちょっと待ってほしい

単に弱い動物を虐めて殺したいだけなら、それこそ福岡の男のようにその辺の野良猫を捕まえてきたほうがよほど「経済的」でお手軽なはずだし、違法性ということではどちらもまったく変わらないのだから、そんなことに数十万円も費やすのは無意味である。

ところがこの男は、ペットショップで飼育用に販売している小動物を、決して安くはない金額を払って購入した上で虐待している。近年では野良フェレットというのも存在するようだが、基本的にフェレットはファームを出る時点ですでに臭腺を除去して不妊処置を加えてあるので、脱走しても野生化して繁殖することはない。数十頭もの個体を継続的に入手する手段はショップでの購入に限られるだろう。

その意味で、「自分の『所有物』だから何う扱おうが自由」というのは本気で考えていたのかもしれないが、やはりそれで何う違うという話にはならないだろう。「小動物には自意識がないから物と同じ」というのなら、金を払って購入したフェレットも捕獲した野良猫も同じことである。

野良猫だって大概の場合は明確な所有者がいるわけではないから、物としての扱いの上では、所有権を正当に獲得したフェレットと同条件である。扱い易さの観点で視ても、狩猟用に使われているくらいだから、実はフェレットのほうが意外と猫より手強い生き物である。

断っておくが、勿論これは野良猫を殺すのが正常で購入したフェレットを殺すのが異常だという話をしているわけではない。本人が主張する論理の文脈では、この二者を弁別する基準が明確に成立しない、そこに何かこの件の動機面を探る上で有効な心情的なアヤがあるのではないか、という話をしているのである。とくにフェレットを虐めるのが好きで、野良猫を虐めても面白くないという特殊な嗜好があるのかもしれないが、だったら兎やハムスターも虐待しているのは理屈に合わない。

この種の頭の温かい人間にも、自分なりの理屈というものは必ずあるはずである。また世間様から視てどれだけ異常な行為でも、そのとっかかりになっているのは一般人の感覚とそれほど乖離のある心理ではないはずである。

たとえば福岡の男が日頃猫害を苦々しく思い、人間様の善意に甘えて勝手気儘に暴れ回る図々しい野良猫を処刑してやると思い込むに至るまでの暴力的な妄想それ自体に関しては、猫を愛する人間でも自然に想像可能だろう。また、坂東眞砂子が不妊処置一般に対する忌避感情とその結果に折り合いが附けられずに勝手な理屈を思い附いたという心理機序自体は、とくに女性には理解しやすい心理なのではないだろうか。

問題はそこからそれを実行するか否かなのである。

普通はそんなことを実行するには強烈な心理的抵抗があって出来ないが、上記の例が示しているのは、やろうと思い立って実際にやってみれば、どんなに非道いことでも案外簡単に出来るものだということなのである。心理的・倫理的抵抗というのは、それを実行に移すか否かの場面で実効を持つ感覚なのだし、それは本来そう在るべきものなのであり、「出来ないはず」という一般的認識を過信してはいけないだろう。

福岡の例で言えば、頭の中の筋書きではもっとスムーズに可能だと思っていたことに意外な抵抗を受けたりすると、ある種の人間は逆上して「やりすぎる」ものだということがわかるだろう。坂東眞砂子の例で言えば、ある種の人間は自分に納得出来る理屈が附くことでどんなことにでも思考停止の機序が働き、矛盾を矛盾と感じないということがわかるだろう。それは、残念ながら普通一般の人々とそれほど隔絶した心理ではないはずである。

だとすれば、この男にとって普通一般の人々と境界を接している理解可能なとっかかりの部分というのは何ういう心理なのだろうか。

オレが想像したのは、おそらくこの男は、ペットを購入するというプロセスそれ自体が楽しかったのではないかということである。ペットショップに赴いてああでもないこうでもないと迷いながら個体を選び、相応の金額を支払うことで所有権を獲得し、キャリアに入れてもらって自宅に連れ帰るというプロセスが、普通一般の人が趣味の買い物をするような感覚で楽しかったのではないだろうか。

ペットというのは生き物だから、飼育という購入後のプロセスの重要性が重くなるという事情が特殊なだけで、たとえばこれを女の人が洋服やアクセサリーを買う場面に置き換えて考えればわかりやすいかもしれない。フィギュアヲタクがアキバのショップを無計画にハシゴして買い物をする場面を考えればわかりやすいかもしれない。

その場合、そんなに洋服やアクセサリーが欲しいのか、フィギュアが欲しいのかと言われたら微妙に違うだろう。そんな場合に、何う考えても一生に一度くらいしか着ないような着廻しの効かない洋服や、開封すらせずに埃まみれで積んでおくような何うでもいいフィギュアまで買ってしまうのは、買い物自体が楽しいからである。

オレ自身は洋服もアクセサリーもフィギュアも買うのだが、その経験で言うと「これが欲しい、今この場で買わないともう二度と手に入らないかもしれない」と焦燥感にも似たセンセーションを感じる瞬間が一番楽しい。その欲求は、ネットショップなら購入ボタンをポチッと押したりバックボタンを押したりして迷いつつも、最終的に確定ボタンを押してサンキューメッセージが出た瞬間に、街角のショッピングなら散々逡巡した挙げ句少々無理目な商品に対してえいやっと目を瞑ってカードを差し出し署名する瞬間に情感の高まりはピークに達する。

ネットショッピングなら宅配で商品が到着するのを待ち焦がれる間が、街に出掛けて買い物をするなら綺麗にラッピングされた商品を抱えて電車で帰路に就く間が、多分一番欲求の満たされた情感のプラトーであり、買った物を何うするかというのはその楽しみとは別問題なのである。

その種の心理機序は何も物だけを対象に働くものではなく、たとえば恋愛における情感の高まりはこの文脈でディスクライブ可能だろう。特定の異性を「この人」と思い定めて好意を抱くことや、相応の犠牲を払って相手の好意を勝ち取ること、そして双方の想いの高まりの儘に同棲や結婚へと踏み切ること、これらのプロセスには買い物と同様のセンセーションの高まりがある。愛と恋が別物であり愛より恋が「楽しい」のは、センセーションの論理から言えば当たり前の話なのである。

そしてオレは、この男も同じように、ペットを飼うことよりも買ってくることのほうが数段楽しかったのではないかと想像したりするのである。それは確かに「生き物をモノと同列に考える嘆かわしい幼児性」とお説教することは可能だが、人間の心理がお説教通りに働くものなら苦労はしないのだし、そうではないからお説教が必要なのである。

ショップのケージの中で寝穢く眠りこける同胞を踏み附けながら元気に遊ぶフェレットを前にして、これも可愛い、あれも可愛いと散々悩んだ末、この子をくださいと店員に声をかけて金を払い、キャリアに入れられた生き物に対して「今日からウチの子になるんだよ」と声をかけながら、電車やクルマで帰宅する間のワクワクする気持ちが一番楽しかったのではないだろうか。

そういう気持ちは、今現在生き物を飼っている人間が、その生き物を初めて家族として迎え入れる瞬間に感じたワクワクする気持ちと幾らも違わないだろう。問題は、その大切な想い出の一期にしか感じ得ないセンセーションに淫して常習的に惑溺するような、締まりのない心性なのである。

普通の人が熱に浮かされて買い物を楽しんだ後に、自宅で戦利品を並べてみてなんでこんなものを買ったんだろうと訝るように、連れ帰ってから共に暮らすことよりも、可愛い生き物を金を出して獲得するプロセスのほうが楽しかったのだとすれば、それが積もり積もって数十万円になるという機序も理解出来ないものでもない。それは買い物の楽しみであり、一種の得恋の嬉しさと同じなのである。

さらに言えば、この男のように大企業でヒューマンストレスに晒されながら深夜まで過酷に働かされる人間が、案外手の懸かるこの種の生き物を無事育てられないというのも不思議なことではないし、先ほど少し触れたように、疲れ果ててぴりぴりした心理状態の飼い主に、早朝から深夜まで長時間放置されていた生き物が懐かないということも自然である。

割合無心に飼い主に懐く犬や猫と違って、兎やハムスターは警戒心が強いから容易く懐かないし、フェレットは人懐こい生き物ではあるが構われたがりだし、興奮すると敵意がなくても噛む。ハムスターも噛む。これは舐めてかかるとかなり痛いし、血を見るほどの怪我になる。粗暴な心理状態の飼い主がこれに過剰に腹を立てて、是が非でもやめさせようとすることもまた自然だろう。

また、オレにも飼い始めのときに経験があることだが、忙しい人間には私生活に喰い込むほどの動かせない仕事上の都合というものがあるものだが、動物を飼うということはさらにそれに加えて動物の都合にも合わせるということである。いわば扶養家族の分だけ家の中にもよけいな苦労を背負い込むことなのである。

夜中に帰宅して、ちょっと遊んで癒されて、明日早いからオレは寝るんでおまえも寝ろというわけにはいかないのである。長時間放置されて漸く飼い主が帰ってきたら、フェレットのような脳天気な夜行性の動物は一晩中遊べ遊べと騒ぎ、神経のささくれ立った飼い主を不眠に追い込むだろう。そして、動物というのはかなり強く叱っても人間の言うことなど聞かないように出来ている。言うことを聞かないことで蒙る迷惑よりも、言うことを聞かないことそれ自体を腹立たしく思う瞬間というのは、どんな心優しい飼い主にでもあるだろう。

自分に奉仕する可愛い僕のつもりで動物を飼ってみれば、何のことはない、自分がこの小さな生き物の僕に成り下がっているのである。普通一般の飼育者はその事実を何れ受け容れるのだし、やがてこの小さな暴君が機嫌よく日々を過ごすことを無上の喜びと心得るようになるのだが、一日高々数時間しか接触しない荒んだ飼育者の中にはその地位的逆転を決して受け容れない人間もいるのかもしれない。

とくに日中自分を圧し殺して散々他人の言いなりに動かされ、プライドを痍附けられている人間にとっては、自分が飼う小動物にすら言うことを聞かせられず、逆に言いなりに動かされることを快く思わないことも不自然ではない。誰からも自分の気持ちを思い遣ってもらえない人間が、自分の可愛い小動物にすら労ってもらえないことを不満に感じる幼稚な心理も理解出来ないものでもない。

マスコミ報道のように「ストレス発散の為に数十頭の小動物を次々と虐待死させた」という言葉で語られると常軌を逸した異常な心理のように聞こえるが、元々生き物を飼うということは結構難しいことなのだし、大概の飼育者はその難しいことを自然に学んでいくものだが、一向に学ばない人間もいるというだけなのかもしれない。とくに独り住まいの場合、同居者による歯止めや助力がなく、感情面で煮詰まりやすいから、かなり危険な飼育状況ではある。

生き物を飼うというプロセスにおいて、「思い通りにしたい」ということへの拘りを棄てられない人間は、何れ必ず虐待に走る。人間なら誰でも、他者を思い通りにする最も効果的な手段は暴力だと考えがちだからである。

しかし、人間同士の場合なら相手が強いている行為を理解してその通りに振る舞うということも出来るだろうが、動物の場合に不幸なのは、大概の動物は人間の意図が理解出来ないから、虐待しても思い通りにはならないということである。単に飼い主に対する恐怖と不信が刻み込まれるだけで、飼い主の意図を理解してその通りに行動するということなど在り得ない。

煩瑣く騒ぐには騒ぐだけの理由があるのだし、その理由を推し量って満足させてやるしかないのだし、単に騒ぎたいだけの場合にはそれをやめさせる術はない。トイレの躾けのように動物の本然に沿った習慣なら大概の愛玩動物で訓練可能だが、普通の感情生活の範疇の事柄を人間の都合で矯正することは、犬や猿のような高等な知能と訓練可能性を有する使役動物以外はまず不可能なものである。

普通の飼い主なら譲るところを、この男は譲らなかった。飽くまで飼育動物を自分の思い通りに強制しようと強情を張った、それだけのことなのかもしれない。この男の虐待手段が、普通一般の嗜虐傾向や逆上傾向を持った「異常者」のように酸鼻を窮めるような血腥いものではなかったのは、その故ではないだろうか。何うもこの男の場合、小動物と同レベルに立って「思い知らせてやる」「どうだ怖いだろう」というような幼稚な感情に基づいて暴力を揮っていたような印象を覚えるのである。

「懐かないから気に入らなかった」「躾けのつもりでやった」こういう言い訳は、ある特定の分野においてよく聞かされる一つ節である。この事件も、表面的な猟奇性を捨象して考えれば、それと同様に普遍的な人間の未熟さや愚昧さに根を持つ単なる惨めな失敗例なのかもしれない。

諄いようだが、これは飽くまでオレの想像である。本当にそうだったか何うかというのは、多分事件の性質からして決して明らかにはならないだろう。犯罪事由の重みと犯人の人権の兼ね合いから考えれば、逮捕されて氏名容貌勤務先がメジャーマスコミで公開された時点ですでに社会的制裁効果としては充分以上というのが穏当な判断だろうし、今後マスコミでこの事件が詳細に扱われることはないだろう。

報道に値するような新たな犯罪行為が確認されれば別だが、この男が具体的にどんな犯罪行為を犯したのかはすでに充分に開示されているのだから、これ以上詳細な情報を求めることは、この男の個人としての人権を過剰に犯すことになりかねない。

そのようなバランス感覚に対しては、オレ個人としても異論があるわけではない。しかし、その論理にはこの種の犯罪によって強く痍附けられる公衆感情のようなものに対する配慮は織り込まれていないし、簡単に織り込み得るものでもないだろう。

オレが今後明らかにされる当てのない事柄をこうやって忖度しているのは、この件が何故それほど気になるのか、何故「異常者」の一言で片附けられないのか、その疑問は捨て置いて好いことではないような気がするからである。それを考える必要があるような気がするからである。

動物虐待には、多分二種類ある。

それは、行為者が飼育者であるか否かという種別である。

坂東眞砂子のケースは前者であり、福岡のケースは後者である。後者のケースは他者に対する理不尽な暴力の問題だが、前者のケースは所謂ドメスティックバイオレンスの問題である。坂東のようなケースはかなり特殊な部類に入るだろうが、オレたちのような飼育者サイドの人間にとってより重要な課題とは、おそらくDVの問題のほうである。

昨夏の坂東問題でかなり多くの飼育者が痍附いたのは、福岡のケースのように自分の愛する対象を近所の「異常者」が惨殺したという衝撃の故ではなく、自分同様に猫を愛する飼育者の一人がこれほど残酷なことを常習的に行っていたからである。そういう想像を絶する残酷な常習行為と、飼育者一般が普遍的に抱えているような心の痛みを牽強付会で強引に接着する稚拙な論理が、自身もまた飼育者の一人である著名な言論人によって堂々と主張されていたからである。

福岡のケースはたしかに剰りにも衝撃的だったが、それでも非飼育者が見境のない残虐な暴力を揮ったという意味では他者性の範疇の問題ではあった。こういう人間が存在するということが治安の文脈で「怖い」と評価すればそれでよかったと言える。とくに猫嫌いな人でもない限り、その辺の野良猫を視て可愛いと思う感情は誰にでもあるし、それを残虐な手口で殺せる人間の心理は理解出来ないと感じられる。

そのような理解を絶する残酷な行為を行い得る人間が存在するということは、たまらなく不気味なことである。理解を絶する残虐行為であるという共通項で言えば、稚ない子供を拐って性的暴行を加えたり、通り魔的な傷害や殺人に走る人間と、世間の視る目は同じである。だから「怖い」。

これはとくに動物飼育の問題ではないのだし、地域社会の治安の問題として誰もが共通して抱える不安なのである。そしてこのケースが示唆するのはそのような「怖い」傾向を持つ「異常者」を排斥することによる予防的共同体防衛の問題性である。

あそこのアパートの学生さんが野良猫を虐めていたという噂があれば、そういう「異常な人物」に対して警戒し圧力をかけて排斥する、わが子が外で遊ぶ場合はあそこの学生さんには気を附けるのよと注意する、近所の大人同士が連携しその人物を徹底的に監視する、そういう流れになるはずであり、そういう少数の「異常な」人物を追い払ってしまえばとりあえずは治安上の安心が購える。「異常者」という排除の対象を仮構する他者性という概念はこのように働く機序なのである。

しかし、坂東のケースの衝撃は、「そういう飼い方」をする飼育者が存在するという事実によるものであり、飼育者視点における正義を動機に据えたことが「問題」だったのである。この件に関する論はすでに尽くしているので詳細には触れないが、従来とは別の視点でこの一件を視るなら、動物を飼育する者がどんな飼い方をしていても他人が何かを強制することは出来ないという問題が、グロテスクに誇張されて突き附けられたことが衝撃的だったと言えるだろう。

その辺を彷徨いている変質者が相手なら「正常・異常」の線引きをして排斥すればそれでとりあえずは安心出来るが、飼育者自身の虐待は、このような排除の論理では根絶出来ないのである。それが家庭内のプライバシーである限り、自身の個人的な自由意志に属する問題だと考える輩が後を絶たないからである。

坂東の問題に関しては、「これが自説を正当化する手段も能力も持たない平凡人だったら何うだったか」という疑問を呈したが、この男はまさにそういう人間であり、坂東ほど狂信的に自説に固執する人間ではなかったから、通報され警察が介入してきた時点で動転して恐れ入ってしまったわけで、結果的に猟奇的な異常行為という見方をされがちであるが、坂東程度の論理ならこのケースに関しても幾らでもこじつけられるだろう。

この男も「人間の躾けに遵わなければ愛玩動物に生きる余地などない」「現代人は鼬風情の機嫌をとって甘やかしすぎている」「狩猟用に用いられていた時代のフェレットは足手纏いなら簡単に処分されていた」「今現在も実験用に何万頭ものフェレットが殺されているのに、多寡が数十頭の個体の死で騒ぐ大衆の偽善を嗤う」と飽くまで頑なに主張し通し逮捕されても反省せず飽くまで法廷で争えば、プチ坂東の一丁上がりである。

逆に言えば坂東眞砂子の「問題提起」など、この男レベルの情緒由来のDVを表芸の辻説法で正当化しただけのものでしかないわけだが、この種の事柄では決して口先だけの理屈に耳を籍してはいけないのである。愛玩動物を飼育すると決めた以上、やっていいことと悪いことの規範は、個別の都合や事情、思想や意見によって動かすべきではないのだし、それは無前提の決め事として遵守の圧力が働かなければならない。

理解出来れば、筋道が通れば何か事情が変わるということでは決してない。同じ人間のやることである以上、あれは理解出来るがこれは理解出来ないという差別などはないのであり、福岡の男の例も坂東眞砂子の例も今回の男の例も、その情緒的動機や現実的な都合を理解しようと思えば幾らでも理解可能なのである。

大概の異常行動というのは、普遍的に万人が共有する心的動因の量の関数の問題にすぎない場合が多いのだし、理解しようという積極的な動機があれば理解することは可能なのである。ならば、坂東眞砂子とこの男を理解可能性や「正常・異常」の規範で弁別することは原理的に不可能だろう。

所詮この二人のケースを隔てるのは、理屈を捏ねた当人が作家であるか平凡な勤め人であるか、その場所が大新聞や週刊誌上であるか2ちゃんのスレであるかという違いに過ぎず、その違いは本来何うでも好いことなのである。

作家だからやってもよくて勤め人だからやってはいけないということもないのだし、大新聞や週刊誌に載った言い訳も2ちゃんのスレに書き込まれた言い訳も、どちらも取るに足らない戯れ言であることに変わりはない。

ここでさらに繰り返しの愚を犯すなら、オレがこれまで語ってきたのは実際の事件に関する根拠のない憶測であり想像である。それが実態に即しているか、犯人の心的状況を言い当てているかには何の保証もないのだし、ぶっちゃけそんなことは何うでも好い問題なのである。

そして、正直に個人的な考えを言うなら、こんなド阿呆の気持ちや事情などこればかりも理解して差し上げる必要はないと思っているが、「ストレス発散の為に数十頭のフェレットを虐待死させた」「異常者」の心性と雖も、普通一般の人間が理解可能な整合的なストーリーを描くことは幾らでも可能なのであり、そんな「異常者」の心のパーツは何も規格外のグロテスクな特注製品で出来ているわけではない。

してはいけない、すべきではない、ひどいことだと規定されている事柄を敢えて実行するには、何も特別な異常性は必要ないということである。特別な異常性があったから特別にひどいことが行われたわけではなく、極ありふれた自堕落さの結果が偶々人として許すべからざるひどいことになっただけなのであり、理由の如何によらずそんな行為は許すべきではないというだけの話である。

だから、いつの場合にも人々の公衆感情を痍附ける不倫の行為に対しては、個別の事情を考慮する以前に「してはいけない」という大前提を確認することが重要なのである。

今回の事件は、ネットコミュニティ的な文脈で言えば、在り得べき当然の扱いをされているのだから、坂東の場合とは違って「問題」ですら在り得ないわけである。誰もこんな阿呆の心情には理解を示さないし、寧ろ理解出来ない変質者として囲い込むことでこの男の行為の犯罪性には疑問の余地がないと確信出来るし、本来坂東眞砂子の件もそのように扱われるべき問題でしかなかったわけである。

この男が「異常な変質者」とされるなら、坂東眞砂子も同様に「異常な変質者」なのだし、本当にそうであるかないかということは、本来まったく重要な問題ではない。異常者であればしてはいけないが、尤もらしい思想や動機があればしてもいいということではないのだし、肝心なことは、この男と坂東眞砂子は同じ規範に基づく法律に同じように違反しているのだし、質的な違いは一切ないということなのである。

冒頭で「オレ個人の心象などここで語る必要もない」と表現したのは、日常的にその種の問題性に言及している場なら、この件に対しても日常的な期待として意見表明を求められるだろうから、とくに「問題」とは感じていなくてもコメントする意味はあるだろうが、当ブログの場合はそうではないからである。

それなら何故敢えてこのような駄文を書き連ねるのかと言えば、やはりオレもまた一人の動物飼育者として、この件を識ったことで痍附く個人的な心性の部分を抱えているからである。世間でこの件が騒がれることでこの男が行き過ぎた社会的制裁を蒙るのだとしても、一人の自由意志を持つ大人の社会人が自身の行為の酬いで蒙る被害がちょうどいいか何うかということよりも、そこで無意味に殺された人語を解さぬ知能の低い小動物の痛みのほうが、オレの中で重いからである。

それはつまり、社会のダイナミックなパワーバランスの中で自身の扱いの「ちょうどよさ」に精度を要求することなどは誰にも出来ないのだから、そもそも社会から指弾される行いを避けるだけの智慧と判断力と基本的自由は普通の社会人ならあって然るべきだが、自分が選べるわけでもない飼い主から虐待を受け殺されないように振る舞う智慧も自由も動物たちにはないからである。

その上でさらに、先ほどオレが座興までに挙げたような「実験用のフェレットが」という類の戯言をもっと考えてみたいという奇特な方がいらっしゃるなら、左側の柱にある「坂東」というリンクを踏んでいただければ無駄な労力が省けるのではないかと思う。昨年のまだ暖かい頃合いに、この懐で存分に温めておいたので、冷たく新しい草鞋をお召しになるには及ばない。

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