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2007年4月 2日 (月曜日)

ma maison

そういえばアレは何うなったかいなと思ってテレ朝のサイトを覗いてみたが、岡田惠和の「めぞん一刻」は未だ具体的な放映日時が確定していないようである。複数回のスペシャルドラマという形態で制作されているようなので、当然この春の一回目は設定提示の浪人編となるようだが、初期エピソードはそれほど面白くないので、これだけ見せられてまた延々待たされるのではフラストレーションが溜まるだけだろう。

そういう次第でとくに期待しているわけではないのだが、岡田惠和宿願の企画ということで、かなり気合いの入ったものになるのではないかという興味はある。また、オレも岡田惠和ほどではないが原作に相応の思い入れがあるので、一刻館の面々が生身の役者で演じられるというだけでもそれなりに視聴モチベーションはある。

連ドラ化出来なかった事情についてはいろいろ耳にするが、一言で言えば例によって伊藤美咲ありきの企画だったということだろう。岡田惠和やオレの世代の人間にとって音無響子というのはかなり特別なイコンだから、その時代なりの一線級女優の中から選抜することになるだろうし、ならば女優ありきの企画になるのも致し方ない。

巷では伊藤美咲の音無響子を不安視する声もあるようだが、元々音無響子というキャラは、リアルなようでいて何処か生身の人間としては連続性の破綻したマンガ的な人物なのだから、見た目と佇まいがキャスティングの勝負どころではないかと思う。世の中には、芝居が達者に見えてはうまくない役柄というのもあるのである(笑)。

そういう意味では伊藤美咲でも選択肢としてアリはアリだろうし、何を言うにも石原真理子よりもナンボかマシだし、無理矢理演じた「逮捕しちゃうぞ」の夏美役よりはよほど柄に合っていると言えるだろう。

また、鳴り物入りのオーディションで選抜された五代裕作役の中林大樹も、奈良出身のソボクなド素人という辺り、癖がなくていいかもしれない。未だ何者でもない一介の田舎者の青年が上京して、この作品の経験をステップとして役者稼業に踏み出していく現実の道のりを、浪人生五代裕作の成長物語に重ね合わせて描く趣向ということだろう。

そういう意味では、中林大樹の器次第の部分ではあるが、型通りの連続ドラマではなくクール毎の節目のスペシャルドラマという制作形式も、このキャスティングなら活きるかもしれない。

ちょっと五十嵐隼士をバタ臭くしたような顔立ちで、おっとりした天然ボケ風味の人柄なところも被っているような気はするが(笑)、上京して芝居を始めたばかりでもあり、関西弁の矯正に一苦労している様子なので、少なくとも今回のスペシャルで演技力を期待するのは酷だろうし、何ういう役者になるか現時点では判断は出来ないだろう。

一刻館の住人は、まあ現在のセンスで考えれば妥当な線だろうが、最適とまでは言えないような気がする。実写劇場版で朱美を演じた宮崎美子が一の瀬のおばさんを演じていたりすると笑えるのだが、別段実写劇場版にオマージュを捧げても何らメリットはないので、正味なところが芝居の出来るガハハオバサンなら誰でもいいという感じがしないでもない(笑)。酒樽体型の四十女ということで言えばイメージは違うが、のべつ前面に映っていて見苦しくない小柄なオバサン女優ということになると、岸本加世子で妥当な線だろうという気がする。

一方、四谷が岸辺一徳というのは、キャラは合っているが少し老けすぎのような気がするし、朱美を今キャスティングするなら白石美帆がマスト(シャレではない)だろうと思うのだが、マドンナ・伊藤美咲にビッチ・白石美帆の組み合わせでは、電車男まんまになってしまうという難点がある。まあ岡田人脈の範疇で考えれば高橋由美子になるのもわからなくもないし、四谷さんにしたところで、どのみち年齢・職業一切不明なのだから、多少年齢層が違ってもとやかく言うほどのことでもない。

オレ的な持論としては、劇画原作ドラマを制作するなら、キャラの本質を抽出して実写的に再現するようなキャスティングではなく、ベタに絵面として似ている配役を心懸けるのが本筋だと思うので、CXの唐沢版「美味しんぼ」のパート2(パート1は雄山と谷村部長が外していると思うので)辺りのキャスティングがベストだと思うのだが、まあ普通に考えて悪い配役ではないと思う。

前から言っていることではあるが、オレ的にはこの種のラブコメでは管理人さんよりもこずえちゃん、鮎川まどかよりはひかるちゃん、鹿島みゆきよりも若松みゆきのようなショートカットで活発な年下タイプのほうに目が行く(決してカマセ役の子のほうがいいという判官贔屓ではない(笑))ので、どちらかと言うと今現在に至るも明らかにされていない七尾こずえや八神いぶきのキャスティングのほうが気になる。

岡田脚本に関しては、思い入れが高じて妙な方向に突っ走らなければ、元々の芸風の原点になっている作品だけに危なげがないだろうし、監督が劇場畑の本木克英というのも無難な人選だろう。まあ多数ネタではあるが一応確認の為に強調しておくと、本木克英と本広克行は、清水崇と清水厚が別人なのと同じくらい別人である。

本木監督のフィルモグラフィを確認すると、松竹の社員監督で漸く一〇年選手という程度のキャリアだが、釣りバカを何本か任されているくらいだからそれなりの実力なのだろうと思う。デビュー作の「てなもんや商社」もそれほど評判は悪くないが、何を言うにも松竹嫌いの故に彼の監督作品を一本も観ていないので、個人的な感触に関しては何とも言えない。

とにかく具体的な放映日が決まらないことには何だとも言いにくい段階であるが、撮影状況の動画などを観てしまったものだから、すっかり懐かしい気分になって早手回しに今回のエントリーを書いてしまった次第である。併せてムラムラと原作を読み返したい衝動に駆られ、ついつい古本で全巻セットを購入してしまい、金曜の午後いっぱいをかけて全巻一気に読了してしまった(笑)。

いや、泣いた泣いた(笑)

なんでリアルタイムで熱狂的に好きだったわけでもないこんなラブコメで泣けるのかよくわからないが、五代裕作と共に青春期を過ごした人間でないとこういう気持ちは共有出来ないのかもしれない。オレ的には、月九の「東京タワー」には一切郷愁を感じないのだが、久々に読み返したこのマンガには妙な郷愁を感じてしまった。

それはまあ当たり前の話で、東京タワーのほうは現在只今のオッサンがあの当時の時代を振り返って書いた物語だが、めぞん一刻はあの当時描かれ続けたリアルタイムの生活劇である。ものによっては現在視点の回想のフィルターがかかることで時代の雰囲気がクッキリと際立つ場合もあるかもしれないが、やはりリアルタイムの「現物」の持つ時代性は濃厚で、読み手の個人史と密接に結び附いているものである。

これがドラマ化されることで、東京タワーと同様に現在視点に基づく再構成された時代性の土俵に上る(それどころか時制が現在に置き換わる可能性すらある)わけだから、ドラマ版のほうに過剰な期待を寄せることはないが、長らく折りに触れ読み返したいと思っていた作品だけに、再読のきっかけになっただけでもいいかという気分である。

個人的な話になるが、オレの中で連載中の受け取り方と終了時の寂寥感に最もギャップのあったのがこの作品で、普通一般のマンガのファンが「最終回を惜しむ」気持ちに近い感覚を覚えたのは、多分これだけだろう。

劇中の五代裕作とまったく同年齢でまったく同時期にまったく同様の境涯にあったという事情もあるにはある(いや、当然下宿の管理人の年上の未亡人に懸想していたりはしていなかったけどな(笑))が、メンタリティが全然違うのでそれほど自己投影していた記憶もない。

つらつら考えてみるに、何故この作品の連載終了時にそれほど寂寥感を覚えたのかと言えば、たしかに五代裕作の人生は不運続きの不器用なものでたくさんの回り道を強いられたのかもしれないが、就職して長年想い続けた相手との結婚を果たし、その後日談によって物語が締め括られるという結末が、未だフラフラしていた現実のオレ視点では過剰に祭りの後の寂寥として感じられたからなのかもしれない。

連載中は、すぐ側にいる隣人の奮闘記という程度の距離感だったのが、やがて彼が大人になり想う相手と添い遂げるだけの成長を果たし、いわば五代裕作の少年期への訣別を契機として物語が語り終えられたわけである。劇中で語られた五代裕作の日常生活は、コミカルではあっても劇的な事件の連続に彩られたドラマティックな青春物語だったと言えるだろうが、それを読んでいる現実のオレの生活には当然そんな劇的な起伏などはまったくなく、何となくのべったりと貧乏で非モテで凡庸な学生時代を過ごしていたというのが本当のところである。

言ってみれば、五代裕作のようにこれと見定めた何か大切なものの為に少年期と訣別を告げるだけの踏ん切りもなく、ただ何となく手許不如意ではあるが気儘な青年期が過ぎて行ったというところで、巷間言われるところではあるが、普通一般のラブコメというのはそういうモラトリアムでのべったりした青年期の無限猶予の気分に対応した物語のはずである。

しかし、めぞん一刻という作品は、浪人時代から就職までという特定の一時期に焦点を絞って運命的な恋愛劇を描く作品になっていったわけで、途中で中だるみはあったものの、それは永遠に物語を続ける為に水増ししたというわけではなく、大学生活四年間という有限のモラトリアム期間をコアに据えて物語を語り続ける為の方便であったろう。

普通に考えれば大学時代は四年間あるわけだから、その四年の間も連載を継続するなら何かしら物語を語り続けなければならない。卒業して就職浪人したほうが話を作りやすくても、実時間と対応するならまだ学生時代が続いている時期だから学生時代の物語が続いたのである。四年間の単調な繰り返しの生活の中で、常にハイテンションの物語を語る為に無理矢理ネタを捻出するから中だるみになるわけで、終末を無限猶予する為にループを設けたからでは決してない。

連載サイクルが変動した為に実時間その儘のペースではなかったが、劇中時間はほぼ実時間の流れと軌を一にしており、劇中の五代裕作は想う女性と添い遂げたいという窮めて「矮小な」目的意識しか持たなかったとは言え、選択放棄のモラトリアム気分が横溢していたあの時代の若者の「気分」からすれば、非常に堅実な人生観に基づいて描かれた作品ではあっただろう。

そういう堅実な物語性から、浮ついた気分の儘の現実のオレが取り残されたというのがあの当時感じた寂寥感の正体だろうし、オレが当時その中にいたようなヌルい若者の時間の中から五代裕作やその周囲の人々が去っていったという見え方なのが辛かったのだろうと思う。実際には現実のオレの人生の上でもとっくに若者の時間は終わっていたのだけれども(笑)、あの時代にはそういうボンクラでも何とか世間の一部として許容されているような雰囲気はあった。

そういうヌルさに対して物語のほうが訣別の言葉を残して終わってしまったわけで、たとえば同時期にスピリッツ誌の両輪として看板を担った美味しんぼのほうが、厳密な実時間との照応を曖昧にして(登場人物たちの年齢はさほど変わっていない)、山岡士郎や栗田ゆう子の緩やかな個人史の連続と共に今現在に至るも延々続いているのとは対照的に、ある特定の時間を明確に区切って、それ以降の個人史の物語は読者に開示すべきものではないときっぱり宣言して物語が終わったわけである。

だから如何にめぞん一刻が「大河的ラブコメ」と呼ばれようと、実際のボリュームで言えば、美味しんぼが一〇〇巻近く続いているのにめぞんのほうは多寡が一五巻程度のものでしかないわけで、そのボリュームの全体を実時間の流れにシンクロさせ、狂騒的なスラップスティックを具としながらも悠揚迫らぬテンポで進行する「多寡が貧乏下宿のラブコメ」を描いたからこそ「大河的」なのである。

実際には、たとえばかなり長く続いた印象のあるうる星にしても新書版コミックスで三四巻程度だったように、この当時の感覚で言えば一五巻でも青年誌のマンガとして長い部類であるが、続けようと思えば幾らでも続けられる超人気作の割には、人気絶頂の時点で終わるべくしてスッパリ終わったことは間違いない。

物語の語り口は、基本的に「うる星やつら」と同様にダメ男を中心としてその周囲の変人奇人の右往左往で賑やかなスラップスティックを演出するというものだが、当然キャラクタードラマとして視てみればかなりディフォルメされていて、それほど糞リアリズムのドラマではない。登場人物たちは現実的な人間性の生理ではなく、少年マンガの話法の生理で動いているのだから、何処もリアルではないわけである。

そこでたとえば、重要な節目の部分の劇的な盛り上がりにおいて、現実的な人間性の生理に即したシリアスで細やかな情感のドラマや台詞の遣り取りを展開することで物語的なリアリティが成立するわけであるが、目的的に描かれているのは飽くまで「ラブコメマンガ」なのである。

少年誌上で連載された高橋留美子の代表作は、SFや伝奇という奇抜な道具立てにおいて波瀾万丈のフィクションを演出するものだが、青年誌ビッグコミックスピリッツに掲載されたこの作品では、ポルノ映画の題材でしかない「未亡人下宿」という道具立てと平凡なダメ浪人生の成長物語という枠組みを用いて、道具立ての奇抜さを一切排したリアルな日常をマンガ化するという試みが目論まれていたわけである。

後から振り返って視るなら、この作品がうる星と決定的に違うのは、現実の時間の流れを絶対的な基準として必ず終わることが宿命附けられた物語だという部分である。サザエさん方式で実時間の流れを曖昧化することで無限に続く物語というものもあるわけだが、この作品においては実時間の流れと劇中人物の加齢を明確化して、その限定されたスパンの中で五代裕作と音無響子のすれ違いのラブロマンスを描くということで、この枠組みの中では三〇になっても四〇になっても永遠にすれ違い続けるということは不可能である。

いずれこの二人の間の関係性に何らかの決着が着くことは予感されているわけで、結果から言えばそれは結婚という予定調和のハッピーエンドであったわけだが、無限猶予の物語においてはその都度リセットされる各々の情感のドラマが、実時間に即した有限のスパンの物語と位置附けることで積み重ねとして効いてくる。うる星形式の物語においては過去の事件はその都度消費される娯楽要素なのだが、この作品においては過去の事件を踏まえて現在の事件が描かれ、その積み重ねが結末に結び附くという劇中イベント相互の序列関係と因果関係が明確になっている。

そして、この作品で描かれている物語の主題が五代裕作と音無響子のラブロマンスと位置附けられた以上、結婚という形で明確な結論が附いた時点で必ず物語は終わるのである。あたるとラムのラブロマンスには必ずしも明確な決着が着く必要はないし、寧ろいつまでそちらの決着を留保するかに「無限に持続する狂騒の宴」としてのキモがあるわけだが、めぞん一刻の枠組みにおいては、五代裕作と音無響子の関係性には必ず決着が着くのだし、決着が着いた時点で必ず物語は終わるのである。

そして、この作品の結末の附け方が心憎いのは、主人公夫妻が物語の舞台である一刻館を終の棲家として帰宅する部分で、スタート時点ではこの二人にとって一刻館はかりそめの出逢いの場でしかなかったのであり、そこに居合わせる人々もまたかりそめの疑似家族でしかなかったわけである。

五代裕作にとっては学生時代を過ごす為の一時の仮住まいに過ぎないわけだし、音無響子にとって亡夫の父が経営するアパートの管理人職というのは非常に危うい通過点にしか過ぎない。音無老人や千草の父母が言う通り、伴侶が亡くなった時点で本来なら婚家との縁は切れてしまうもので、亡夫への想いを動機として婚家との関係性において得られた社会的立場というのは、基本的にかりそめの通過点であることを宿命附けられているはずである。

どんな現代劇においても、夫を亡くした女性がその想いに殉じて一生操を守り続けるなどという旧時代的な結論をよしとするはずがない。だとすれば音無響子は必ず亡夫への想いを整理して新たな人生に踏み出すことが宿命附けられており、だとすればその想いと旧縁が成立させていた現在の社会的立場を清算して新生活に踏み出すのが一般的な常識である。

この物語の道具立てを一般化して非常に下世話なことを言えば、新しい夫が亡夫への想いを象徴する一刻館という場や管理人という立場を快く思うはずがないからで、普通ならここを出て新たな場所と身分で新生活を営むのが音無響子にとってのケジメとなるはずであり、だとすれば「めぞん一刻という物語の枠組み」それ自体の解体という結末に落ち着くのが一般的な物語の定石である。

しかしこの物語においては、五代裕作と「音無惣一郎を想い続ける音無響子」が初めて出逢い、お互いの想いを確かめ合った場として一刻館が意味附けられることで、この二人にとっても重要な場として新たな意味附けが成立し、そのような音無響子をその想いの儘に受け容れる五代裕作の心情ドラマによって、この二人が更めて一刻館を終の棲家と思い定めるという結末を用意している。

この結末は、亡夫への想いが最大の障害として立ち塞がり続けた二人の間の情感の決着が、「想いを整理することと忘れるということはイコールではない」という心情ドラマによってもたらされたことで成立するわけである。「亡夫を忘れられない寡婦」という一時的な通過点が音無響子の人間性と密接に関連附けられることで、「たしかにそこに在った人間の存在やそれを中心とする関係性」を「なかったこと」にすることが本当に過去の清算と言えるのかという問題が語られている。

生き残った人間が生き続けていく為には、死んでいった人間との間の充実した濃密な時間の記憶を代償にしなければならないのか、その記憶を何よりも大切に思うのであればその想いに殉じて残された長い後半生を抛つしかないのか、そのような非常にシリアスなテーマが語られているわけで、その意味ではこの物語の結末の附け方はマンガ的に甘いとも言えるわけだが、結果的にはその結末に至るまでのスラップスティックの連続に基づくキャラクタードラマが、その結末を成立させてしまったということになる。

本来的には、これほど頑固に過去の時間を大切に思う女性は決して幸福になれないだろうし、幸福になる為には過去の記憶を手放す以外に途はないのだろうが、男の側にそれを受け容れる度量と優しさがあれば決して不可能ではないだろう。この物語は半端なダメ男であった五代裕作がそのような度量と優しさを獲得するまでの成長物語を結果的に語ってきたのであり、その結末が得られたなら、最早この二人が一刻館という場を去り管理人職を辞す形式上の「ケジメ」の必要は消滅してしまうのである。

さらにその結末によって、普通一般の物語なら「物語の枠組み自体の解体」という形で終わるはずの物語が、枠組み自体は新たな意味性において存続しながら読者の前から去るという清潔な大団円が成立してしまう。これによってめぞん一刻の物語世界は永続的に固定化されながら、物語それ自体は議論の余地なく終わるという有無を言わさぬ完結を迎えるわけで、新たな命を伴って一刻館に「帰ってきた」五代裕作と五代響子を一刻館の面々が取り囲んで笑い合うという文字通りの大団円で物語は終わってしまう。

先ほど触れたような個人史上の感慨とは別に、このような、物語世界は永続的に固定化されながら物語自体は円満具足に完結してしまうという終わり方が一種衝撃的だったという言い方も出来るだろう。

一刻館という場が健在であり一刻館の面々や五代夫妻がそこに住み続ける限り、読者がそれまで見守り続けたような賑やかな劇中世界の狂騒は続くのだが、その物語世界を舞台にした物語はすっぱり完結してしまい、劇中世界の人々はオレたち読者に永遠に別れを告げて目の前から去ってしまうのである。

この人々をもっと見守っていたい、もっと附き合っていたい、そのような読者の惜別の情を余韻として醸し出しながら、五代裕作と音無響子の物語は語るべき何一つを語り残すこともなく見事に終わってしまい、読者が彼らを見守る口実が消失してしまうのだ。

たとえば最前名を挙げた美味しんぼの場合なら、山岡士郎と栗田ゆう子の恋愛模様は主要なテーマの味付けに過ぎないわけで、この二人が結婚したとしても、食を探求する求道の過程において夫々の人物が物語それ自体の進行に伴って選択する選択肢の一つであるにすぎない。

メタ的な意味合いで言うなら、この物語が完結を迎えるとするならその契機はこの二人の結婚という節目でしかなかったと思うのだが、その時点で終わらなかった以上、この物語はダラダラと事情が許す限り存続し続けるしかないだろう。

ただ、美味しんぼの物語は基本的にめぞん一刻がそうであったようなラブロマンスではないのだし、その意味で主人公二人の結婚を節目として物語が完結するのは、物語という意味構造の形式面の都合に過ぎないという言い方も出来るのである。

「食の探求に終わりなし」というのであれば、その求道の過程を本筋に据えたこの物語は、理念的に言えば終わる必要すらないのである。何処の節目で終わろうが食の探求のテーマを本筋に据える限り、「本当の戦いはこれからだ!」というジャンプ打ち切りマンガ方式で終わるしかないのだし、テーマに終わりがないのであれば、その物語を終わらせるのは意味構造の形式である物語の節目でしかないという話である。

美味しんぼが特殊なのは、食の探求それ自体が作品の本質的テーマであって、人間ドラマはその探求を成立させる為の口実にすぎないという部分であるが、物語という複雑怪奇な意味構造がそんな単純に割り切れるものではないことは言うまでもない。原作者の食への関心を表現する具としてこの作品があるのだとしても、読者の最大関心事は雄山と士郎の親子のドラマなのだし、士郎とゆう子のラブロマンスである。

その意味でこの作品は物語としての終わり所を見失ったのだから、現実的に続けられるだけ続いて、原作者の死や掲載誌の廃刊や版元の経営判断によって無理矢理終わるしかなく、そのような現実事情の許す限り終わるべき必然性もない儘に物語世界はオレたちの前にただひたすら在り続けるのである。

八〇年代初頭のスピリッツ黄金期を現出した両看板マンガが、このような対照的な途を辿ったことも面白いが、めぞん一刻がオレの中で忘れ難い印象を残しているのは、物語が終わるということの意味を強烈に知らしめたからであるということは言えるだろう。

最初の話題に戻るなら、マンガやアニメという具体的ビジュアルの形で提示された文芸作品を現代の視点でドラマ化するのであるから、リアルタイム世代が原作マンガに接した場合に感じるような同時代性のようなものが再現出来るはずがないのは当然である。

これを四半世紀近く経ってから実写ドラマとして描くのであれば、原作から普遍的に感得可能な劇的要素を抽出して現代の目で描くしかないだろうが、中核的なスタッフである岡田惠和には「オレめぞん」を描きたいという目的的な志向があるだろう。昨今のマンガ原作ドラマのように、原作を方便にしてドラマ個別の劇的世界を描く方向性とはまた違うわけで、このようなスタッフが中核になる作品は、マンガと実写というツールの違いはあっても、紛れもなくそれが「めぞん一刻という物語世界」を共有していなければならないだろう。そこに原作ファンという立場を離れた受け手としての関心が成立するデリカシーがある。

何故なら、脚本家岡田惠和が抱く「めぞん一刻が大好きだから自分の手でドラマ化したい」というクリエイターとしての動機は、わかりやすいようでいて具体的にはかなりわかりにくいものだからである。原作マンガは議論の余地なくそれ単体で成立し完結している既存の意味構造であり、そこに何を附け加える必要も差し引く必要も存在しない。そのような傑出した作品だからこそ岡田惠和も感銘を受けたのだろうし、一人の受け手として偏愛してもいるのだろう。

その岡田惠和が一人の脚本家として成長し名声を博した現在において、それ単体として成立し完結している作品を自身の手で語り直すということはどういうことなのか。一人の受け手として考えれば、自分の偏愛する作品を誰か別の人間が語り直すということには絶対的な抵抗感があるはずである。それが自分自身であったとしても、だ。

自分ならこうする、このように語りたい、そういう動機があるのだとすれば、作品としては評価していても、一人の受け手として絶対的に偏愛するという心理とはまた別のものだろう。対象となる原作の作劇要素は、一般化された所期条件に還元され、その所期条件において、オレなら私ならこのように語るという原作者との競い合いの機序になるはずである。

しかし、一人の受け手として絶対的な感銘を受けた作品を、一人の送り手の立場で語り直したいという動機は、そのような機序とはまた別のものだろう。要するにこのドラマにおける岡田惠和のスタンスは、めぞん一刻という作品を挟んで高橋留美子と勝負したいという対等のものではなく、めぞん一刻という自身が偏愛する物語を自身で語る快楽を我がものとしたいという個人的な動機、つまり「めぞん一刻の語り手としての高橋留美子」に対する自己同一化の欲求に基づいているはずなのである。

それ故に、岡田惠和が綴る実写版めぞん一刻は「めぞん一刻と同条件に基づいて語られた別の物語」ではなく、何よりもまず「メディアを変えためぞん一刻そのもの」でなければならないはずであり、それでなくては一人のクリエイターとしての岡田惠和を離れためぞん一刻を偏愛する一人の受け手としての岡田惠和のプライドと欲望は満足されないはずなのである。

何となくそれなりとしか言い様がないキャスティングでドラマ化されるめぞん一刻にオレが期待するのは、そのような岡田惠和のクリエイターとしての在り様とその仕事の具体に対する興味の故である。

文芸一般に関心を持つ者の一人として、「大好きな作品を自分で語り直してみたい」という動機は非常に身近なものである。たとえばチャンピオン誌上で剰り生産的ではない事情に基づいて展開されている「ブラックジャック」の競作企画でも、少なからぬ数の描き手にこのような動機が共有されているのだろうし、単なる版元の都合に基づくお祭り企画とは言え、一時期BJに入れ上げた経験を持つ描き手にとって、それはお遊びの域を超えた得難い経験となっているだろう。

それは、彼らが描いているのは紛れもなく「本物のBJそのもの」だからである。

BJの骨格を借りた別の物語でもないし、それにインスパイアされた自分独自の作品でもない。大手塚の遺した代表作であるBJを、正当な許諾を得て堂々と自分自身の手で語り直しているのである。これはおそらく、一人の受け手としてこの作品に感銘を受け学習ノートの片隅に「オレBJ」を描きながら、自身もまた一人のクリエイターとなった人間にしか得られない快楽だろうと想像する。

一方、基本的に個人作業であるマンガのリメイクとは違って、実写ドラマの場合は脚本だけが物語を決定する要素ではない。脚本家岡田惠和の仕事が何うであるかという視点とはまた別に、それが複数のスタッフの協業の成果物であるドラマとしてどのように結実しているのかという視点もまた成立するわけで、一本一本のコンセプトワークにタイムラグのあるこの制作形態において、その別個のプロセスがどのように有機的に絡み合うのか、そのダイナミズムに興味がある。

数本の単発ドラマが不定期に制作されるという形式であれば、おそらく監督や若干の配役に変更はあるかもしれないが、コアスタッフとして岡田惠和が書き続けることだけは鉄板と視て好いだろう。さらに、本木監督は知らず若い出演者たちに原作に対するリアルタイムの思い入れなど期待するほうが間違っているのだから、このドラマを「めぞん一刻そのもの」とすべき動機を持っているのは岡田惠和ただ一人である。

それ故に、オレにとってこのドラマを視る関心とは、岡田惠和という一人の同時代人がこのドラマを紛れもなく「めぞん一刻そのもの」として語り抜く為の戦いに対する個人的な関心に他ならない。その意味では、たとえば先日原作マンガを読了したときに感じたようなものをドラマに期待しているということでは一切ないわけだが(笑)、まあそんなものを期待するのは最初から間違っているだろう。

とりあえず、なんだ、その、早く放映日決めろよテレ朝

ちなみに、オレ的にベストだと思う音無響子の配役は、現時点ならちょっと若いけど香里奈辺りじゃないかと思う。

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コメント

ようやく放映日が五月一二日(土)に決定したらしい。詳しくは冒頭のリンクから公式サイトまで。本文で関心を示したその他のキャストに関しても一部公開されている。

けっこう萎える(木亥火暴!!)。

ゆかり婆ちゃんが管井きんとか三鷹コーチがエロエロ大魔王というのはともかく、あんなでっかい女がこずえちゃんというのはちょっと納得が行かないところである(笑)。まあ、五代もでかいし管理人さん自体でかい女なので、絵面的にはそんなに違和感はないと思うが、何も「危険なアネキ」まんまの面子でめぞんをやるこたぁないと思う。そっちのほうから引っ張ってくるくらいだったら、朱美役に白石美帆を持ってくる電車男パターンのほうがナンボかマシだったんじゃねーのか(木亥火暴!!)。 

それから、森迫永依の役柄に関しては、どの時制で出すかによって語りの枠組みが違ってくるので、ちょっと使い方を楽しみにしている。

投稿: 黒猫亭 | 2007年4月16日 (月曜日) 午前 06時18分

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