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2007年4月13日 (金曜日)

voices and words

オレ的には今季一押しの目玉である「セクシーボイスアンドロボ」が遂に放映を開始したわけだが、

松山ケンイチ、肥ったんじゃねーか?

まあ、オレ的には最初から松山ケンイチなんて何うでもいいので、肥ろうが痩せようが何うでもよさに違いはない。肝心なのは大後寿々花、そう大後寿々花なのである。竹井みどりの若い頃を円くしたような地味顔が何ともいえず萌える(笑)。

まあ、基本的には近所のオバサンが可愛かった頃的な造作の顔立ちなので、この儘順調にキャリアを積んでも月九のヒロインにはなれないと思うが、大竹しのぶ的なポジションの女優にはなれるだろう。これまで散々妙な趣味を披露して読み手を引かせてきたオレだが、最後の隠し玉を抛るとするなら、実はオレは地味顔フェチである。

つるっとしていて生活感がなくて人混みに紛れると個体識別の出来ないような顔が大好物なので、そんな奴が何うして蛯原友里とか山田優も好きなのかと問われれば、説明の必要を感じないとしか言い様がない。

おそらく大後寿々花のキャラクター的に、育てば育つほど萌えの文脈から遠ざかるような人材だと思うのだが、現状はオレ的にギリギリOKというところではないかと思う。ただまあ、今時の中学生の服装センスはあんなモンでリアルなのだと思うが、何だかかえってオバサン臭く見えるのは何うしたものだろう。

度々引き合いに出すセラムンでも、対象視聴層との兼ね合いでマジモンの中学生が好みそうなファッションセンスを採用していたわけだが、この手の子供自身が好みそうな煩瑣いセンスというのは大人の目から視るとかなり引くんだよなぁ。高校生くらいになると女の子はもう自己認識的に大人を意識するのでまた違ってくるのだが、中学生くらいまでの女の子の服装の好みというのは考えてみると結構独特だったりする。

以前スーパーの衣料品売場でレジに並んでいたら、前に並んだ母親と女子中学生の親子連れがパンツを買っていたので、視るともなしに視てしまったのだが(いやホントは一度着用してしまったら合法的には視られない代物なので興味津々だったが)、何というか、女性用の下着としては在り得ないようなポップな柄だったので、強烈に記憶に残っている。

単にその娘個人がそういう趣味だったという話なのかもしれないが、スーパーの衣料品売場で普通に売っているということは、ある程度そういう趣味が一般的だということだろうし、文字通り女児用のプリント下着と成人女性用の柄物下着の中間点というのはまさにこういうものなのではないかという柄だったので、やはり一種女子中学生という独自の発達段階があるのではないかと思う次第である。

キモい方向に話題が逸れたが、基本的な視聴モチベーションが大後寿々花であるオレにしてみると、もうちょっと普通に可愛い感じでも好かったかなという憾みはある。先ほど「育てば育つほど萌えの文脈から遠ざかる」と表現したが、何というかこの人の演技スタイルを視ていると、子役芝居的な天与の瞬発力で演じているというより地道に演技の努力をしているようなところがあり、映画関係のインタビューの受け答えを視てもかなりしっかりした子であることがわかる。ちょっと変な言い方になるが、昔風の子供なのだと思う。声質が低くてキャピついたところがないのもそういう印象に繋がっているのかもしれない。

こういう子供は大人になるのが早い。子供であることが楽しくて、いつまでも子供でいたいと願うような子供というより、子供であることが居心地悪くて、大人になればもっと楽になれると思っている子供なのかもしれない。そのような子供は、大人になって自由に何かをする為に、子供時代に要求されるようなことを淡々と辛抱強くこなしていくものである。

その淡々と子供時代を消化していくような部分が、萌えとは逆のベクトルなのだろうと思う。

このドラマの演技を視ていても、ふとした場面で妙に色気のある仕種を演じたり、奇妙な生活実感を感じさせる間を取るところがあって、年齢相応の真っ直ぐな演技を期待すると少し違和感を覚えるだろうと思う。目線の遣い方や表情の作り方、仕種で間を取る遣り方の計算に妙に大人っぽい智慧がある。普通の意味でちゃんと見場を考えて所作事としての演技をしているのである。

たとえば三日坊主が仕事のことを覚えていると言った場面の表情の作り方を視ても、そのときニコがどんなことを感じたのか、考えたのかが、視聴者にくっきり見えるように演じている。そういう気持ちで演じているというのではなく、そういう気持ちが見えるように演じているということで、この二つは別の事柄である。

役者というのは心で役になりきるものではなく、心や情という見えないものを表す為に身体を動かして所作を演じる職業であるということがわかっている辺り、アイドル子役というより立派に一人の俳優なのである。

普通一般の子役芝居というのは、心や情に入れ込むことで天然自然に身体の所作が附いてくるだけなのだし(実際、児童劇団では演技を一切教育していない)、演技の素人は本物の心には本物の所作が自動的に附いてくるものと考えているから、本物の心をつくることがまず大事なのだと考えがちである。

しかし、前のエントリーを書く為に実相寺昭雄の発言を調べていたら、彼は「演技は気持ちで演じるものではない」という持論だったということで、鈴木清順も「辻褄は役者が合わせるもの」と常々語っていて、おそらくこの二人の演技観は非常に似ているのだろうと思う。心も気持ちもその儘では見えないものなのだから、そんなものが本当にあるか何うかが重要なのではない、身体の動きがまずあってそれが見えないものを語るのである。

大後寿々花の演技を視ると、天才子役型の芝居のような本物の心に自動的に附いてくる所作や表情の持つ面白みや瑞々しい魅力は薄いが、大人の役者のように演技を表現の技術として捉え、意識的に演じようと努めているような部分は感じられる。おそらく、本人的な女優稼業の本番は大人になってからの話なのであり、一番可愛い盛りに人気者になりたいという年齢相応の自己顕示欲求とは、モチベーションが違うような気がする。

まあ大後寿々花の可愛さはアイドル的なものではないのだし、アイドル芝居・子役芝居的なナチュラルな演技の質で年齢相応に可愛いアイドルが欲しかったのなら、他に幾らでもU15の人材は存在する。そこを敢えて大後寿々花というTVドラマフリークが殆ど予想だにしなかったキャスティングを充てたのだから、ちゃんと芝居をさせてドラマをつくるのは、当たり前と言えば当たり前のことである。

このドラマについては、主演の二人が共に映画に軸足を置いていることもあって、おそらく、一般的に謂うTVの芝居とは別のリアリティになるだろうとは思う。そうは言っても、個人的には相変わらず松山ケンイチの芝居の何処が良いのか、オレにはよくわからないのだが(笑)、まあ多分あんまり好きな柄ではないから意地悪な目になっているだけだろう。

役者についてはこれくらいにして全体の話をすると、「野ブタ。をプロデュース」同様に木皿泉の作劇は、過剰なくらい大量にキーアイテムをバラ撒いて、そのアイテムを足掛かりにしてドラマの情感をつくっていくような手法である。この辺の作劇アイテムの捌き方を視ると、アウトラインプロセッサのようなツールを使って順列組み合わせをさまざまに検討しているのではないかという気がするが、基本的に線的な思考というより面的な思考を得意とする部分はあるだろう。

話それ自体をつくる部分に関しては原作のストーリーラインに任せて、それをドラマとして見せる場面で何う捌くのかという部分に特徴のある書き手である。全体の落とし所となる小鳥を冒頭で逃がし、ラストでニコとロボの関係を繋ぐ為に「大人は面倒なことを識りたがらない」という台詞を押さえておく。これは、最初から全体を計算して書いているというよりも、個々の局面で効いてくるような雑多なキーアイテムをまず入れ込んでみて、後から鳥瞰的にそれらの要素間の整合をとるように再配置しているのではないかと思う。

言ってみれば、かなり変な脚本の書き方をしている印象がある。以前野ブタを語った際にも指摘したことだが、ある物語を効果的に語る上での必然から道具立てを考えるというよりも、まず描きたい内容を象徴する道具立てを賑やかに配置して、その雑多な道具立てを組み合わせて物語全体の意味性にすり寄せるような書き方をしている。

今回のエピソードに即して言えば、ニコとロボと三日坊主が夫々に囚われている小さな世界の象徴として小鳥というキーアイテムがあり、家庭的なるもの一般の象徴としてカレーライスがあり、人が生きた証の象徴としてコレクションというアイテムがある。

ベースとなる筋立てをドラマ的にアレンジするに当たっては、それらのアイテムとそれが象徴する観念相互の関係性で意味を紡ぎ出すという作劇法を採用していて、線的な流れで物語を考える考え方とは大分違う。多分に観念遊戯的な性格の強い作劇法と言えるだろう。

また、冒頭のナレーションが野ブタの修二のそれと酷似しているわけだが、セカイ系とまでは言わないものの、「家と、学校と、コンビニで出来ている」個人の手触りの触感だけで境界線が区切られた狭い世界に鎖じ込められていた少女が、すべての人々が何らかの関係性で繋がり合っている大状況としての世界に関係していく、それこそが自由というものなのだという語り口は、一種ラノベに共通する感触がある。

割合独特の抒情味の文脈で語られがちだった前作の野ブタであるが、その抒情を醸し出す立脚点となるのは、世界の構造をダイレクトに掴み出そうと足掻く若い観念性なのかもしれないと思う。

セクシーボイスの第一話で語られているのは、夫々のキーアイテムに纏わる若い観想の言葉である。鳥籠と小鳥を象徴的媒介として語られる世界と自由に纏わる言説やカレーライスを媒介にして語られる場の共有と関係性の成立に纏わる言説、日々の垢として降り積もっていくコレクションを媒介にして語られる記憶と具象物の関係に纏わる言説、それらはやはり情感というより観念であり、もっと言えば言葉である。

それらの観想の言葉が一種の抒情味を醸し出すのは、その言葉が若いからではないかと思う。自らの持ち合わせる貧弱な経験則からでは規定しきれない、世界という巨大で複雑で不気味な対象の前に立った子供が、懸命にその対象を自身を画する境界線の内側に取り込もうと足掻く悲痛さや瑞々しさが、この観念的な物語の抒情味を生み出すのではないかと思う。

この第一話で最も木皿泉らしい部分というのは、ラスト近くで真境野に対して自分が何もしなければ三日坊主は死ななかったのではないか、自分のせいで三日坊主が死んだのではないかと問うニコに対し、事も無げに真境野が答える「そうよ、あなたのせいよ。だってあなた、独りで生きてるんじゃないもの」という台詞だろうと思う。

常套的に考えるなら、この遣り取りはこういう台詞では終わらないはずである。

三日坊主がいなくなっても代わりの暗殺者は幾らでもいるのだから、殺される人自体がいなくなるわけではない。飽くまでこの問題は、三日坊主当人が人を殺すという問題に収斂する。その場合、たしかにニコが三日坊主に人を殺して欲しくないと望まなければ三日坊主は死ななくても済んだかもしれない。

しかし、その場合三日坊主は今後も人を殺し続けるだろうし、人を殺した過去から逃げ続けるだろう。体質的に過去からの連続的な記憶に基づくアイデンティティを獲得出来ない三日坊主は、それが故に暗殺者の途を選び、望んでも得られない連続的な自意識を進んで放棄する生き方を選ぶ。

そのような三日坊主の在り様を識ってしまったニコは、そのような在り方自体をイヤだと拒絶し、三日坊主の暗殺を妨げる。しかし、すでに職業暗殺者として組織と深く関わり、多くの人を殺し続けてきた三日坊主は、その生き方を自分だけの都合で今この場で変えるということが許されないわけで、暗殺者としての過去を受け容れることでその過去の故に自身が抹殺されてしまう。いわば、ニコが三日坊主に迫ったのは、人を殺し続けるか自身が殺されるかの冷酷な二者択一である。そして、ニコ自身は自分がそんな選択を迫ったことなどは識らない。

ニコがそれを識ったのはすべてが終わって三日坊主が抹殺されてからであり、現実にそうならないとそれを識ることが出来ないのは、ニコが何も識らない子供だからである。それを識ってしまったニコが同じような状況に立たされたとき、違う行動をとるかといえばそんなことはないだろう。違っているところと言えば、それが三日坊主に死を迫る行いであることを予め識っているということだけであり、つまり大人になるということはそういうことなのである。

真境野が暗殺を思い留まった三日坊主を名梨に追わせなかったのは、「三日坊主は二度と戻ってこない」ことがわかっていたからである。彼女の観点から言えば、ニコが自覚なく迫った二者択一の意義を客観的に評価し得るはずで、人を殺し続けることと自分が殺されてしまうことのどちらが三日坊主にとって好かったのか、それをニコに説いて慰藉を与えることも出来ただろう。常套的なドラマなら、そのような落とし所でこの会話を締め括ったはずである。

しかし、相対的に考えればそのどちらにも特権的な意味などはないのだし、ニコが三日坊主に関わってしまった為に、真境野と名梨ではなく三日坊主のほうが殺されてしまった、それは真境野にとって都合の好い結果であった、確実に言い切れることはそれだけなのである。真境野自身が自分のほうが生き残る結末を絶対的な意味において正当化出来ない以上は、それはただそうなったというだけの意味しかない。

自分が三日坊主に会わなければ、あの角を曲がらなければと言い募るニコに対して、真境野が言えるのは、あの角は誰でも曲がるのだし、角を曲がったところにはいつでも世界が待ち構えているのだということでしかない。ニコが自分のせいで三日坊主が死んだのだと考えるなら、それはその通りである。

ニコが関わることで事態がこのように進展したことは誰にも否定出来ないのだし、それが最終的に三日坊主の死という悲劇的な結末に辿り着いたことも事実である。それを自分の責任だというならその通りだろう。だが、その一方でニコが関わったことで真境野と名梨は今も目の前で生き続けている。そのように事態は落着したのだし、責任というのなら、三日坊主の死だけではなく真境野と名梨の生に対してもニコには責任がある。

識ってしまうということは絶対的に関わり合ってしまうということなのだし、それで事態は確実に変化を蒙るけれど、それはそれだけのことなのであり、世界とはそうした無愛想で自分勝手なものなのである。

三日坊主を識ってしまうということは、三日坊主が殺し続けたかもしれないいろいろな人々に対しても関わり合うということなのだし、真境野や名梨が今回の危機を生き延びて今後行うすべての行為に対しても関わり合うということなのである。そのように考えるなら、ニコの周りで起こっているすべての事柄は他人事ではないのだしTVに映し出される虚ろな映像でしかない遠い場所で起こった事柄の数々もまた他人事ではない。

「家と、学校と、コンビニで」境界が区切られた安穏でささやかな鳥籠から、外側の世界に一歩を踏み出すということはそういうことなのである。そのような世界の在り様を識ってしまうということもまた世界と関わり合うということなのだし、あの角を曲がらなければと考えても意味はない。忘れてしまえばなかったことになるわけではないというのと同様に、曲がってしまったあの角を後戻りすることは誰にも出来ないのだし、世界が待ち構えている角の向こうはどんな場所にもあるのである。

だから生きることは「怖い」のである。

このエピソードが奇妙な抒情を湛えているのは、今現在大人である人間は必ず一度は角を曲がって世界と出逢ってしまった経験があるからであり、その巨大な世界の前で心細い戦きを感じた経験があるからである。

普通一般のドラマよりも余程観念性の高いこのドラマが情の部分に訴えるのは、そのような観念性が若さに特有のものだからだろう。そのようなプロセスを経ない限り人は大人になれないのだし、大人になったからといっていいことなんか一つもない、それでも自分が大人にならない限り、世界は廻っていかないのだということを識ってしまっているからである。

ともあれ、期待値以上に楽しませてもらったことは確実で、まだまだ語り残したことも多いように思うが、それは今後の楽しみにとっておこうかと思う次第である。日テレドラマは他の二本が一部キャストに対する興味しか覚えないのに対し、従来の土九路線をダイレクトに受け継いだこの新枠には今後も期待している。

ちなみに、誤解している方も多いのではないかと思うので附け加えるなら、大後寿々花の読みは「だいごすずか」ではなく「おおごすずか」なのでお間違えなきよう。

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コメント

7話、立てこもり事件でオクラですか(^_^;)
これでDVDに「地上波未放映の…」とかなんとか煽り文句が増えちゃうんだな。

投稿: ヴァイス | 2007年5月22日 (火曜日) 午後 10時54分

ワンシチュエーションで展開する意欲作らしかったんで、お気の毒な話ですなぁ(笑)。電王の銭湯ジャックもスレスレのタイミングだったけど、もうこうなると運のない番組としか言い様がない。まあ、オレ的に一番驚いたのは、あんたがこの番組観ていたということだけど(木亥火暴!!)。

投稿: 黒猫亭 | 2007年5月23日 (水曜日) 午前 02時16分

ワンシチュエーションと聞いた瞬間、「そこまで予算が下りないんだろうか」と思った私はドラマの正しい見方を忘れている気もします。
しかし低視聴率が話題になっていることでドラマ好きの擁護論調は高くなってますし、煽り文句が増えたこともあって私はむしろ「強運な番組だなー」って気もしてます。
低視聴率を理由にDVDリリースを危ぶむ声もありますが、視聴率も評価も低かった下北サンデーズすら出てるんだからまあ平気ですよねw。

投稿: quon | 2007年5月23日 (水曜日) 午前 07時15分

>quonさん
なるほど、そういう考え方もありますか。まあ、向田賞なんかも視聴率とは無関係に選出されていますし、「特急田中3号」の磯山PDの作品も視聴率的には苦戦してもDVD売上で稼ぐらしいですから、基本的に視聴率で作品の善し悪しが決まるわけではないですね。
それに、最近の連続ドラマで低視聴率を理由にDVDが出なかった例なんて聞いたことないですよねぇ。あの伝説の低視聴率番組「レガッタ」ですらセル・レンタル共にリリースされてますから。今はもう、そこまで込みでビジネスのシステムに組み込まれているでしょうから、よほどの不祥事でもない限り大丈夫だと思います。籠城の件は時期的な配慮であって内容面からの配慮ではないので、問題なく収録されるでしょうし。

投稿: 黒猫亭 | 2007年5月23日 (水曜日) 午後 10時37分

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