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2007年5月11日 (金曜日)

a fallen girl

ここのところ少し疲れているので、まあ書けば大叩きになるだろうドラマの話はなるべく避けたいところではあるのだが、なんつか、久しぶりに九〇年代のCXらしい浮ついたドラマを観た気分である。

今季数少ない学園ドラマということで、谷村美月や鈴木かすみが出ていることもあってしょうがなく視聴を決定した「わたしたちの教科書」だが、東ラブやヒューヒューから一五年以上経っているにも関わらず、坂元裕二の芸風は相変わらず「若さ」で括られるようなものでしかない。

セクシーボイスのレビューでも同じ言葉を遣ったが、坂元脚本の場合大分ニュアンスが違ってくる。どうもオレはこのドラマの人物描写に生硬さというか、一種稚ないあざとさを感じるのである。そのあざとさというのはつまり、視聴者の予想を裏切る意外性狙いで劇中人物の言動を便利に描いているご都合主義の故だろう。

まあこれは、言ってみればマンガ的な人物観という言い方も出来るだろうが、それが一概に悪いというものでもないだろう。坂元の出世作である「東京ラブストーリー」や最近のヒット作(笑)の「西遊記」などは、基本的にマンガである。そのような誇張された人物描写でこそ成り立つドラマ性というものもあることはたしかである。

坂元脚本作品を観る度に、要するにこの人ってマンガみたいな世界認識の人なんだよなと思うのだが、ぶっちゃけそういう幼稚な書き手に「いじめ自殺」のようなシリアスな題材を扱って欲しくないというのが本当のところである。このドラマのように子供の世界に大人視点で切り込んでいくような作品については、絶対的に大人としての成熟した視点が求められるというのがオレの考えである。

以前「プロポーズ大作戦」でも似たような話をしたが、少なくとも、劇中人物よりも一段成熟した視点を持てる書き手でないと、大人視点のドラマは成立しないと思う。たとえばこのドラマが子供視点の物語であったならそれほどあざとさは感じなかったのではないかと思うが、坂元裕二がリアルタイムの中学生の視点にそれほど寄り添えるかというと、それもまた微妙だとは思う。

これまでの作品を観ていて思うのは、坂元裕二という書き手は大人視点でも子供視点でもなく、敢えて言うなら若者視点とでも言うべき中途半端な心性の書き手だということである。書き手個人の内面に踏み込んだことを言うならば、大人になりきれていない未成熟な部分のある心性の持ち主だろうということである。

元々坂元裕二はヤングシナリオ大賞第一回の受賞者で、受賞時は一九歳という脚本家としては異例の若さであり、「同・級・生」や「東京ラブストーリー」の執筆当時は二〇代前半だから、文字通りの「ヤング」パワーだったわけである。

勿論、若くしてデビューした物書きが全部ダメだという話ではないが、ろくに社会経験を積まないうちに、幅広い世代層の人間やさまざまな分野の大人の世界を尤もらしく描かねばならない以上、世間の狭さを何うクリアするかという課題は附き纏うだろう。

簡単に言えば、一九歳の人間に五〇歳の人間がリアリティを持って描けるかということである。世の中には若書きで驚くべき円熟の筆致を見せる天才という人種もあるにはあるが、まあそんな人間がゴロゴロいたら有り難みはない。坂元裕二も、一種ヤングシナリオ大賞のコンセプト上その若い感性が買われたものだろうし、初期のヒット作は彼の若い感覚が二〇代前半の視聴者にアピールした側面は否めない。

しかし、若者というのは必ず歳をとるのだから、年齢相応のフレッシュさで当たりをとれる時期というのは限られている。若さが強みになるのは、年寄りには時代の若者と共有された感覚がないからなのだが、だとすれば、特定の時代の若さの感覚というのは事実上の加齢に伴って消費され、一般的意味における世代的共感に解消されていくということである。

要するに、坂元裕二の強みだった若さというのは、九〇年代の若者にとってのみ有効な特定の若さなのであって、九〇年代の若者がすでに三〇代後半から四〇代に差し掛かっている現在においてはその特定の世代に共有されている時代感覚にすぎないということで、若さという特権的な世代的感覚ではなくなっているということである。

そのように特定世代に共有されている時代感覚というのは、三〇代にも四〇代にもあるわけで、六〇代だろうが七〇代だろうが同じように共有されているものである。その中でたとえば十代や二〇代の世代的感覚が特権視されるのは、若者というのは新しく生み出されつつある今までに存在しなかった世代層だからであり、人生経験の積み重ねから後附けることが出来ない新奇で無根拠な様態を持っているからである。

十代や二〇代の新しい世代の様態というのは、既存の社会環境や文化環境の複雑でダイナミックな影響が偶発的に生み出すものであって、その在り様を正確に予測することは人間には不可能だろう。だから、若者相手の情報発信においては同世代の若者の感覚が重用されるのである。

不幸にしてというか、若くして華々しくデビューしてしまった坂元裕二という脚本家はある意味その事実上の若さを消費する形でキャリアを積んできたわけで、他のヤングシナリオ大賞出の著名脚本家が、一応物書きとして通用する程度の人生経験を積んでから受賞しているのに比べて、普通なら実人生の抽斗を増やすべき時期に、多寡が二〇年程度の人生の抽斗を全部吐き出し続けたわけである。

デビューからすでに一八年も経っている割には作品数が少ないのは、そのような抽斗の貧弱さの故もあるのかもしれないが、「二十歳の約束」から「恋愛偏差値」までの一〇年の間には一本しか連ドラを書いていない。新世紀に入ってからは年一本程度のペースで連ドラを書いているが、それなりにCXに重用されているようで、現在の月九の看板作家という扱いであるかに見える。

ただ、子細に作品を視ていくと、「ラストクリスマス」は月九黄金期の夢よもう一度的なアマルガムという印象は否めないし、以前語ったように「トップキャスター」は石原隆系列の佳作「美女か野獣」の焼き直し、「西遊記」に至っては鉄板ガチガチの素材を用いながらどんどん潜在的視聴層を逃がし続け、辛くも二〇%台をキープしたことで大本営発表的「ヒット作」に終わった。

最低限坂元作品で約束されているのは、登場人物間のビビッドでマンガ的なダイアログの面白さだが、それは要するに「しゃべくり」の芸だという言い方も出来るわけで好き嫌いの範疇の事柄ではある。たとえば以前トップキャスターについて語ったような職業観のヌルさなどを視るに、物書きとしての坂元裕二はヒューヒューを書いた頃から殆ど成長していない。

実社会へ一歩を踏み出した若者の普遍的な感覚は書けるが、それ以降の人生のプロセスを実感的に書くことは相変わらず出来ていない。さらに言うと、この書き手は子供をキチンと書いたこともないのだから、等身大の人物像以外はマンガ的な書き割りしか書けないということである。

つまり、この書き手の最大の問題点というのは、大人視点を獲得し得ない宙ぶらりんの若者という自身の心性からの敷衍でしか想像力が働かない部分ではないかとオレは考えている。このドラマでそれなりにリアリティのある人物像というのは、ヒネこびて未成熟な儘に社会性の仮面を獲得してしまった畸型的な積木珠子の人物像くらいであり、つまりこの人物が書き手にとって等身大の人物像だということである。

一方の主人公である加地のキャラが受け容れられていないのは、描写が多くてウザい割にはリアリティに欠ける人物描写だからではないかと思うが、マンガ的に誇張された熱血漢という部分が拙いというより、話の都合で突っ走ったり萎縮したりする部分に生身の人間としての一貫性が感じられない辺りの書き割り感が拙いのだと思う。

それは他の教師たちにも言えることで、今時の教師餘りの世の中でこんなに若手教師ばかりの学校があるのかというツッコミも見掛けたが、要するに坂元裕二には中年や年寄りが書けないから若者揃いになっているのだろう。今週の第五話で初めて中年の教師もいたのだと気附いてビックリしたくらいだから(笑)、若者世代以外の教師たちは完全に物語からオミットされているわけである。

しかし、若者世代だから上手く描けているかと言えばそれも疑問で、これまで五話のエピソードで描かれてきた教師たちの内面描写のお粗末さは噴飯物である。通り一遍のヲタク型挫折教師として描かれた八幡の描写の幼稚さは、まあ幼稚な人間を描いているのだからそれほど鼻には附かなかったが、一応キャラ廻しで真っ先に加地と接点があったにも関わらず、その後の扱いのその他大勢ぶりは驚くほどである。

また、たとえば不登校になった山藤を説得しようと粘る加地を諫めに来た大城早紀が山藤にシモ関連のスキャンダルを暴かれて狼狽するというのは、如何にも子供が考えそうなアリガチな俗っぽさである。前半で大城自身にも教師としての挫折感や失望があったことを仄めかしているのに、それが後半ではまったく活きていない。このエピソードにおける大城の人物像の書き割り感は、目も当てられないほどにひどい。

冒頭の郷里からの電話に応える場面の私生活描写から、もう少し内面に踏み込んで描くのかと思ったが、単に不登校児童と内部告発の絡みの流れの表面的な意外性を演出する道具に終始している。

加地の説得に根負けして山藤が出てきたことを受けて、加地の熱意に共感するかと思いきや、生徒の興味本位の悪意を見せ附けられて打ちのめされるというのも、単に意外性狙いのあざとい仕掛けに終わっていて、それが大城の教師としての在り様に何う影響したという描き方でもない。加地をホテルに誘ったりリークを持ちかけるのも、その後副校長に庇ってもらって態度を豹変させる流れを視ると、単に自棄になっていたからだという意味にしかならないのが決定的に安い。

普通ならここで描かれるべきなのは、大城の教師としての意識の変遷であるはずなのだが、結果的に描かれたのは「子供ってやっぱり得体の知れないところがある」という色物的な興味だけであり、大城早紀はその道具として扱われている。

片や生徒の山藤のほうの描き方もひどいもので、「先生には負けたよ」と降参して見せながら、その一方で大城の不倫を暴露するビラを見せるというのが如何にも不自然であざとい。山藤のこの二つの対応の間には何の心情的連続性もなく、受け手視点で意外に感じるという表面的な効果だけを狙っているからあざとく見えるのである。

こういう子供の不気味さを表す描写というのは、表面的に如何に意外に見えてもその裏面の心理に普遍性があるから説得力があるものだが、この場合、山藤が出て来たのは加地の熱意に応える為なのか大城をいたぶる為なのか、そこが区別して描かれていない。その両方と言うのは簡単だが、幾ら得体の知れない子供のやることだといっても、剰りにも不自然で脈絡がなさすぎるだろう。

要するに脈絡のないことをする人間は普通に言って異常者なのであって、異常者は子供でなくても不気味なのは当たり前である。普通一般にはこういう場面で視聴者にインパクトを与えるなら、今時の子供「だから」成立する行動律を見せるのが筋で、異常者だから不気味なのだとしたら、教師物でも何でもなくただの見世物である。

まあ、普通に解釈すれば、加地の熱意に折れたというのは口実で、暇つぶしにイヤガラセを仕組んでいた大城がちょうど来合わせたことを察して、彼女をいたぶる為に出て来たと視るのが自然なわけだが、それは作劇的に言えば単なる「記号的な悪役」だということである。山藤のその後に対する何らかの言及があれば教師対生徒のドラマと言えるだろうが、それはそれっきりというのでは、山藤というキャラそのものが単に視聴者にインパクトを与える為だけの書き割りだということである。

第四話の吉越希美のエピソードにしても、彼女が生徒の名前を間違えて覚えていたというワンアイディアで雑に引っ張っていて、話の流れからして長部が画鋲バラ撒き事件の犯人なのだろうが、その真相を明確に開示しないのは好きずきだから好いとしても、一年のときから名前を間違えて覚えていたのなら、なんで今頃になって吉越にイヤガラセを仕掛けたのかについては、何ら説明も描写も伏線もない。そうらしいというだけの話である。

そもそも、加地が熱弁を揮って長部が「長谷部」ではないことを明らかにし、それが長部を痍附けていたことを吉越が悟ったからといって、吉越にとってそれがどの程度の意味を持つのかはドラマを視ていてもちっとも迫ってこない。この辺は、大城絡みの話で山藤の不登校や不倫暴露が、大城にとってどの程度の意味を持っていたのかがサッパリわからなかったのと同じことで、要するに書き割りである。

さらに、長部が名前をちゃんと覚えてもらったことで何う変わるという話にもならないわけだし、三年も名前を間違えられていたのが哀しかったけど覚えてくれたからよかったねという単純な話にしかなっていない。

それは今回の第五話でも同じことで、ストーカーだと思われた兼良が、実はその女子高生と援助交際していた父親の行為に痍附いていたという真相は、「どうです意外な結末でしょう」と言わぬばかりの幼稚な作劇上の衒いにしかなっておらず、加地がそれに対して何をしたという話でもなく、単に加地が自信喪失するきっかけという以上の扱いではない。兼良の話は、またしてもそれっきりで終わってしまう。

結局これまでの全話を通じて、生徒側の事情というのは徹底してお話の際物的な興味のダシという扱いに終始しているわけである。こんな薄っぺらい話の繰り返しで「いじめという問題に対しては、現場の人間が地道に立ち向かっていくしかないのだ」という結論になど出来るわけがない。わけがないんだけど、書き割り的にそうするんだろうなぁというのが今から見えているだけに不愉快なわけである。

第四話の画鋲バラ撒きに関して、地雷でもあるまいに一々画鋲を手で拾う必要なんかないだろう、竹箒一本で解決するんじゃねーのというツッコミは、まあそれを言い出したら話が終わってしまうから好いのだが(笑)、他の教師連中が加地を手伝い始めるのも唐突だし、雨木副校長の画策で教師たちが加地をシカトするのも唐突で、そう書いてあるからそうなっているというだけの話である。

今週の第五話でそれが雨木の「加地は学校を訴える為に教師の素行を探っている」という嘘によるものだということが判明するわけだが、これまで四話のエピソードの積み重ねがあってキャラ廻しで加地と夫々の教師との間に接点を描きながら、全員が雨木の煽動に乗って一様に加地をシカトするというのは、これまでのエピソードが丸々要らないということではないだろうか。

雨木の嘘に対して、たとえば八幡なら、大城なら、吉越なら、戸板なら、熊坂なら何う反応するのか、その結果夫々の人物が何う動くのかという部分を描くのが群像劇というものだろう。そこをストレートなドラマのロジックで描かず、証拠の在処を教える謎の内部協力者(大城辺りが臭いと言えば臭いが)出現という形で引きに利用する辺り、最早群像劇ですらないわけである(笑)。

こういう教師サイドの書き割りの筋立てで、それなりに教育現場の問題点が浮き彫りにされるとしても、それに対して書き手の側が何らかのコメンタリーをしているわけではなく、単に道具立てとして使っているだけで、要するにこれもまた書き割りである。そんな書き割りだらけのドラマで何が語られているのかといえば、積木珠子と加地耕平のキャラクタードラマであって、話の筋自体には何ら意味らしいものがない。

まあ、そういう通り一遍のキャラクタードラマがやりたいのであれば、それはそれで楽しめるのだろうが、扱っている題材が不謹慎すぎるだろう。常々言っていることだが、この種のデリケートな問題を扱う以上は、この問題に苦しむ当事者に見せても恥じないような真摯な内容を心懸けるべきだが、これを当事者に見せて恥じないようなら、やはり何処か人間として大事なところが欠落しているというべきだろう、つか、欠落してるんだろうなぁ、やっぱり。

オレ基準の「心のないホン書き」第三号決定ということで夜露死苦

大筋の流れ自体も、初回の明日香の転落に至るまでの描き方は、或る少女の謎の転落死をクライマックスに据える作劇がツインピークスのプロローグを思わせてムーディで好かったのだが、毎度毎度あざとさ溢れる「意外な展開」で引きを設けるテクニックが単調で鼻に附いてきた。んなもん、どんな無理があっても視聴者の予想を裏切ることに特化した作劇だとわかりきっているんだから、今更誰が驚くもんかい。

最近では、ラストの急展開で流れる例の劇伴を耳にする度に、条件反射で笑ってしまうようになってしまっている(笑)。

そもそもメインストリームの筋書きが、珠子による明日香の復讐を中核に据えているのも馬鹿馬鹿しいと言えば馬鹿馬鹿しい。一応口先では真相を解明することが第一の目的と言ってはいるが、これまでのドラマでは珠子が真相を識りたいと望むようなモチベーションの組み立てになっていない。朋美の扱い方をとってみても、彼女の口から真相を識ることが目的なのか、彼女を証言台に立たせることが目的なのかが区別して描かれているようには見えない。

要するに、訴追それ自体が目的なのか訴追による真相解明が目的なのかが、人物描写の上で曖昧に扱われているのである。オレの視たところ、何うもこれまでの珠子側のドラマの組み立てでは、珠子の行動動機が事実隠蔽の責任者の弾劾であるように見えて仕方がない。その意味では、珠子の行動を「復讐」と言い切った瀬里の言葉が的を射ているだろうと思う。

まず、明日香の死に対して珠子が抱えている感情的な引っ懸かりというのは、一種の疚しさを根に持つ感情であって、珠子が明日香を里子に出したという選択それ自体によるものではない。男に去られた若い女が、圧し附けられた継子を里子に出すという選択自体は間違ったこととは言えないのだから、これ自体は感情面で折り合いが附けられるだろうが、その子供の気持ちをネグレクトによって拒絶したことには、何ら折り合いが附けられないだろう。

ほんの短い間のことにせよ、自身と関わり合った人間がぶつけてきた真剣な想いに応えなかったことには何の名分もないのだから、里子に出したことには折り合いが附けられても想いを踏みにじったことには折り合いが附けられない。珠子が明日香の死に対して何らかの感情面の呵責を抱いているとすれば、それはそこに折り合いが附けられないからであり、それが明日香の死の直前にもう一度繰り返されたからである。

つまり、過去の継子の遺棄についてはその選択自体の「仕方ないこと」という認識に付会することで明日香の想いを撥ね附けた疚しさを忘れることは出来るが、今再び珠子が明日香の想いを撥ね附けた結果として明日香に死なれてしまったのでは、何処も「仕方ないこと」ではないから不快なのである。

いわば、いじめが明日香の死の直接原因だったとすれば、珠子の再度の拒絶はその間接原因である。そう考えているから不快なのであって、だから直接原因であるいじめを告発し断罪することで自身が間接原因となった呵責を払拭したい、自分のせいではないことを証明したいという心理機序であることが傍目にわかりすぎている。

その意味で、積木珠子という人物は自己中心的な快不快をモチベーションとして他人の痛みや犠牲を厭わず行動する人物として描かれている(というか結果的にそうなっている)わけで、明日香の復讐の目的で非情で狡猾な行動に出るわけだが、それに鐚一文も共感出来ない嫌いがある。

そもそも最初の最初から、明日香の死がもたらす波紋は、その死の責任を断罪することではなく、同じようにいじめに苦しむ子供を救うことによってしか収拾されないことはわかりきっているので、最初から珠子の闘争自体が何うでも好く見えるという構造的な弱点があるだろう。

それどころか、その闘争の過程で明日香と同じようにいじめに苦しむ朋美を利用しようと企むのでは、結局この人は明日香の為ではなく自分の気を済ませる為に闘っているのだということが剰りにも明白で、何うせ物語が進むに連れてそのような珠子の姿勢は現実のしっぺ返しを受け、何某かの気附きのプロセスが描かれるのだろうということが読めてしまうし、だから何うだという面白みも感じない。

普通、いじめで自殺に追い込まれた子供を想うのであれば、同じような立場の子供の痛みにも耐えられないというのが当たり前の想像力や共感能力だろう。そもそも明日香と珠子の間には殆ど直接的な関係性はなかったのだし、それが自殺によって分かち難く結び合わされたというのであれば、朋美との関係性だってまったく条件は変わらない。

今は明日香の復讐の為に接触しているだけだったとしても、たとえば朋美がこの先珠子の非情な振る舞いの故に同じように自殺を試みてしまったとしたら、珠子と朋美の関係性は珠子と明日香の関係性とまったく変わらなくなる。

しかし、今度は単に相手の想いを無視したからではなく、積極的に利用した為に出る犠牲であり、珠子の行為が直接原因となってしまうので、告発する相手と珠子の行為に質的な違いはまったくない。この筋道が剰りにも愚かしいので、今後そうなるにせよならないにせよ、そのような普通の判断力を持つ大人なら気附いて然るべき部分の気附きという退屈な流れが核になることがわかりきっている。

珠子が間違っていることは明白だとしても、現状を解決するには珠子のようなやり方をせざるを得ないと考える方もおられるようだが、個人的にはそんなことはまったくないと思う。いじめの問題が弾劾や告発で解決したことなど一度もないのだから、現場の意識を変えていくしかないのであり、司法の立場から介入することが本質的解決たり得ないということはわかりきっている。

責任者の弾劾というのは、社会的な公正性を回復し残された遺族の感情的慰藉を得る為にのみ為されるものであり、この場合、天涯孤独な明日香の残された遺族というのは、すなわち明日香の自殺によって逃れ難い感情的不快感を与えられた珠子自身である。要するに、珠子は自分の気を済ませる為に闘っているだけなのであって、いじめ問題を解決する為に闘っているわけではないのである。

珠子の目的はいじめの実態解明ではなく社会的責任の追及であり、具体的に現場を変えていきたいという潜在的モチベーションを抱く加地の理想を嘲笑し、寧ろ妨害する立場に在る。この辺、加地の無能なヘタレ具合がバランスを取っているからどっちもどっちに見えるのだが、本来いじめの本質的問題に対峙するとすれば、大人の司法責任を追求し得る立場の珠子ではなく、子供たちと直に相対し得る加地が主役的な立場に立たざるを得ないのは最初からわかりきっている。

学校側に対する責任追及を通じて実態を公にする以外に解決の道はないという考え方自体が、ドラマツルギー的には無意味なのである。外部から社会的責任を問われたから考え方が変わりましたなどというドラマが何処の世界にあるというのか。引いてはドラマが剔抉する現実の本質に照らして言っても、外部からの強制でこの種の問題の何かが変わると期待するわけには行かないだろう。

そもそもいじめというのは大人が悪いから発生する問題ではないのだし、事が起こった際に隠蔽する経営体質というのはいじめ問題の本質的課題ではない。自然発生的に生起するいじめという子供の社会性の課題に対して、大人がどのように振る舞い影響を与えていくのか、そのような智慧を巡る問題こそがいじめ問題の本質である。

教師の無気力や事後の隠蔽というのは、大人の自己保身と責任回避が社会的に公正な行いではないから責任が追及されるのであり、直接的な因果関係でいえば大人が悪いからいじめが発生するのではない。

抛っておけば必ず発生するいじめという問題に対して、大人たちにはそれに積極的に取り組むべき潜在的な倫理責任があるという話であって、それは過失責任や違法性を問う司法責任の文脈と直接噛み合わない。教師たちの気附きと意識改革を以てする以外に物語上の解決が得られないことも決まり切った一本道である。

誰かが行った悪いことの結果として起こるのではないし、直接的行為責任を問うことに本質的な意味がないということがいじめの厄介な問題なのであり、誰かの社会的な行為責任を追及する職制である法曹家がそれに対して主導的な役割を果たせるわけがない。

つまり、主人公である珠子が司法サイドの人間であることで、人物設定の最初の最初から、珠子がいじめの問題の本質に肉薄し得る位置附けの人物ではないということがバレている。

そもそも視聴者視点では一切同情の余地のない、非人間的な自己中心性で稚ない明日香の気持ちを突き放したことが現在の珠子の感情的不快感の遠因なのだから、そんな不快感に慰藉を得る為の珠子の闘争になどまったく興味は覚えない。雨木副校長の遣り口も相当汚いが、珠子だって同じくらい汚いのだし、学校経営を守るという名分と自分の気を済ませるという名分のどっちが高級だとか共感を得られるという話にもならない。

たしかに新婚早々夫に去られた珠子が自暴自棄になるのは無理もないが、残された子供にあそこまで冷たく当たるというのは、普通一般の感覚からすれば「無理もないこと」ではない。自己憐憫や怒りで手一杯というのも自然なら、父親に遺棄された子供の寂しさに「否応なく」気附いてしまうということも自然な感情なのである。

子供の側があれほど手を差し伸べているのに、それに気附けないのがリアルであるというのは、要するに「わかるわかる」的なリアリティではなく、「そういうイヤな人間もたしかにいるよね」的なリアリティである。珠子にとってはこの世で自分が一番可哀想な人間だったのだろうが、こういう場合に自分の可哀想さにしか目の行かない人間というのは端的に言ってイヤな人間である。そんな自己中心的な人間だから、他人も自分も痍附けるんじゃないかという当たり前のイヤな筋道になる。

しかし、ドラマのメインストリームは、そんなとことん何うでも好い珠子の過去と現在を巡る愛憎ドラマや、教師たちの書き割り感溢れる平板な群像劇という非本質的な部分を巡って動いており、これまでのドラマを視る限りは、珠子や加地や教師たちの個人的なドラマを見せているだけで、子供たちに直接対峙する立場の教師としての意識の在り方についてはまったく描かれていない。

つまり、ホントは金八みたいになりたかったけど疲れましたとか、不倫が暴かれて前の学校を追われましたとか、生徒の名前を三年間間違えてましたというのは、そこがオチになるのでは、教師としての意識のドラマではなく、若者群像の個人ドラマにすぎないということである。

普通はこの種のキャラ廻しで描かれる教師の群像劇は、夫々の教師の気附きの萌芽として描かれるものだし、そうしなければ全一二話のドラマでは教師たちの自己回復のドラマを描くには間に合わないからなのだが、これまで五話のドラマはすべてその場その場の意外性狙いの際物で終わっていて、教師としての気附きが何うこうという話にはなっていない。寧ろそうなる可能性を作劇のあざとさが潰して廻っている。

それはいじめ自殺という窮めてシリアスなテーマを題材に扱っていながら、そんなことを本来的な課題として語るつもりはないという不謹慎さとして見えてくる。

最終局面において、責任者を弾劾することではなく子供たちと接する大人の姿勢が問題なのであるという全体的なテーマが見えてくるとしても、では珠子とその司法闘争が主軸に据えられているドラマ的意味って何よ、前半で際物的な群像劇に終始した経済性は何うなんだ、そういうわかりきった結論を語る為の仕掛けなのか、という話になる。

第四話など、別に珠子の別れた亭主が何ういう人間であろうが何ういう事情を抱えていようが何うだって好いので、原告をつくる為の段取りにしか見えなかった。それでまた若年性認知症というシリアスな道具立てを持ってくるのが何だかなぁで、そんな亭主が珠子や明日香のことを想っていたという流れになるのも、何の作劇力学も構築されていない。そうだったというだけの話である。

そもそも若年性の認知症という設定を持ってくるなら、明日香のことを覚えているかどうかというのは心の問題ではなく病態の問題である。この辺の話は以前「僕の歩く道」に関しても語ったが、脳の障害を道具立てとして軽々に持ち出すと、そういうややこしいデリケートな問題になる。

結局この場合、何故別れた亭主が認知症にされたかというと、棄てられた女と棄てた男の間の気持ちのドラマをつくるよりも、一発で話が通じて便利だからであるが、この種の題材は道具立てとして便利だとか経済的だとかいうような軽い動機で持ち出していい事柄でもないだろう。というか、もっと言うならそのほうがインパクトがあるからそういうふうになっているのである。

こういうふうな子供っぽい無思慮な部分や他者の痛みに対する想像力に欠ける部分があるから、オレはこの書き手を好きになれないのだろうと思う。

そもそも夫が何も事情を説明せずに珠子の許を去ったことで招来された最も重大な結果というのは、珠子が痍附いたことではなく、明日香が天涯孤独の身の上になったことではないのか。珠子が七年間も元夫を怨んで生きてきたことそれ自体よりも、事情を識らされなかった為に明日香をネグレクトし、里子に預けてしまったということのほうが大きな問題ではないのか。

本来なら、明日香の死を動機として動いている珠子は、別れた夫が自分を棄てたことではなく明日香を棄てたことに関心を抱いて然るべきで、実際夫と別れた珠子は紆余曲折の末に瀬里と共に新たな人生に踏み出しているわけだが、明日香は孤独な儘に辛酸を味わい尽くした末に校舎の窓から身を投げたのである。男に棄てられた女は自力でやり直しが利くけれど、親に棄てられた子供は自力でやり直すことなど出来ないのである。

見る影もなく落ちぶれた元夫との涙の再会という愁嘆場も、珠子が自分の気持ちばかり言い立ててわあわあ泣いているので一気に白けてしまった。その意味で、積木珠子という人物の自己中心性というのは登場時から一貫して揺らぎがない。こういうイビツで不快な人間だけ妙にリアルに描けるというのは、物書きとして何うなんだろうという疑問を感じずにはいられない。

何うやら次回は珠子と瀬里が全面対決に入り、婚約も解消という運びになるようなのだが、まあ最初の最初から別れたほうがお互いの為じゃね?とみんな思っていたのだからなるべくしてなるようになっただけなんだなぁ、みつを(笑)。

瀬里のエリート臭い寛容さが、珠子の心情に対する本質的な無関心さに由来することはバレバレだし、そもそもこんな何処か情緒の毀れた女と結婚して上手くやっていけるような人間としても描かれていない。つか、書き手がこの種の男に好意的なはずは絶対にないのだから、そのうち敵役に据えるつもりマソマソだっただろう。

さらには、第五話のラストで漸く登場したヒビノミライが独房に投獄されているという設定に至っては、剰りに馬鹿馬鹿しくて大笑いしてしまった。勿体ぶって今まで出てこなかったのだから何うせろくな人間じゃないだろうとは踏んでいたが、一足飛びに投獄されているというのは剰りに際物過ぎて爆笑必至である。

謎の内部協力者の出現に加え、加地の変節や黒幕雨木の倅の投獄という衝撃の事実まで飛び出し、物語の際物臭はどんどん強烈になってきた。断言してもいいが、この先の物語はいじめが何うとか教師の使命が何うとかいう辛気くさい話にはならず、荒唐無稽なネタ話に終始するのではないかと睨んでいる。

こういうのを2ちゃんでは、面白くなってまいりましたと言うんだろうなぁ(笑)。

ある意味たしかに面白いよ、どんだけ心がないんだと呆れてしまうから。大体、意外性狙いで劇的必然性なんか一ミリも考えないドラマなんだから、真面目に劇的論理を分析したって無意味だよな(笑)。

まあ今季のCXドラマの中では、深夜枠の「ライアーゲーム」に僅差でブービーという体たらくで「帰ってきた時効警察」にすら負けている視聴率なのだから、こういう心のない不謹慎さと薄っぺらい際物趣味的作劇法が視聴者に不快感を与えていることは事実だろう。

この種の心のない際物的な作劇って何処かで視たことがあるなぁと思ったら、要するに初期の野島伸司のノリである。ヤングシナリオ大賞第一回受賞者が、第二回受賞者の後追いをするというのもプライドないなぁというところで、今更あのノリに追随して芸風を拡げようというのが、野島人気凋落後の戦略としてはピントがズレまくっている。

何うも最近のCXドラマの問題点は、書き手に恵まれていないということに尽きるのではないかと思うのだが、子飼いのヤングシナリオ大賞出というだけで坂元裕二や金子茂樹を重用しているようでは、自業自得という言い方も出来るだろう。

ヤングシナリオ大賞出の書き手に積極的に発表機会を提供すること自体は、自前の人材育成システムを確保するという意味で大変結構なことだと思うのだが、出身者で自局に囲い込める目立ったスターが残っていないからと言って、坂元裕二のような不器用な書き手に何でも書かせるのだけは止めたほうがいいんじゃないかねぇ。

今季の執筆陣も例によって新枠のまる子を除いてほぼすべて大賞出身者で占められているわけだが、今季CXドラマに全体的なイマイチ感が漂うのは、まだまだ発展途上の人材が多いということなのだろうから、仕方ないところなのかもしれない。

まあ結論としては、世間の狭い若造はろくな大人にならないということで、美人女優のカミさんが貰えただけでも、輝かしい青春時代の過ぎた余録と言えるだろう。

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コメント

書きそびれたが、オレがこのドラマを観ていていちばん気になることというのは、「真木よう子はなんであんなに肌荒れしているのか?」ということなのだが、元からあんなもんだったのだろうか。

投稿: 黒猫亭 | 2007年5月11日 (金曜日) 午後 04時39分

議論するつもりはないのですが、どうも黒猫亭さんのいってることを聞いていると、スペースオペラに対して本格SFじゃない、とか、美少女ファンタジーのラノベに対してハイファンタジーじゃなきゃダメだろ、とかギャグマンガに対して辻褄が合ってない、という類いのイチャモンにしか聞こえないのですが。
当然そのドラマ内に於けるリアリティは必要だと思うのですが、黒猫亭さんのいうリアリティはそれらがすべて黒猫亭起準に納まってないといけないということでしかなく、それはどちらかというと描写に対する個人的「好み」の問題じゃないかと思うのですよね。
別にそれぞれのドラマのに対して、その許容範囲内でのリアリティでいいんじゃないでしょうか?そもそもどのドラマにしても想定視聴者というものがあるのだし、それによっていろいろさじ加減をするということも考えられるワケだし、その辺の作劇については視聴者としてはその範囲内での破綻に対して文句こそ言え、そうでない(お客さんでない)場合は、特にそのドラマが「そうである」ことに対して文句を言う筋合いはないのではないでしょうか?
それであっても視聴率的に必ずしも思いどおりの結果を得られるとは限らないわけですが、それは少なくとも黒猫亭さんのいう理由とはたぶん違うと思いますけど。
少なくとも小林靖子の脚本を熱烈に支持する黒猫亭さんのドラマに対する見方に信憑性を見出せない、というワケじゃないですよ、念の為。
例えばですが、黒猫亭さんが書く脚本はどれも似たり寄ったりのリアルさを持つ、余り面白くない描写になりそうな気がします。

投稿: korohiti | 2007年5月11日 (金曜日) 午後 09時39分

「議論するつもりはない」ということならどのようにお答えしたものか迷うところですが(笑)、一応korohitiさんのご意見に対して普通にお答えするということにさせていただきましょう。一応、ここはオレ個人のブログですから誰にも迷惑はかかりませんし、オレが書いたエントリーに対するご意見ですから、議論になっても構いませんよ。

まず、リアリティの問題ですが、当然書き割りのリアリティが順当な物語であれば書き割りの人物像であって何ら差し支えはありません。単にオレは、この物語の人物像はすべて書き割り相当であって、さらにこの書き手には書き割りのリアリティしか書けないのだろうという話をしているわけです。

それはこの書き手のこれまでの作品を観て常々感じることですから、まあそこはオレ個人のこの書き手の筆力に対する定見ということですね。それが何故書き割りなのかという筋道の話もしていますし、この書き手を莫迦にしているのは、自身の狭い世間の範疇外のことに関しては書き割りのリアリティしか書けないという能力面における限界があると考えるからです。

さらには、従来の坂元作品を視た場合、このドラマがそのような書き割りのリアリティを採用しているのは、題材の扱い上それが最適なリアリティの性質だからという前後関係ではなく、寧ろそのようなリアリティしか書けない書き手がそのような能力上の限界の範囲内で書けるスタイルを模索したからだという前後関係になるでしょう。この段階でもまだ、だからいけないという価値判断の話ではありません。

では、何故この番組が書き割りの人物描写では拙いのかと言えば、題材とのマッチングの問題であるという話もしていますね。この番組は「いじめ自殺」というシリアスな題材を中心に据えていますが、それはネタという以上の扱いではないし、書き割りの人間が意外性狙いのヒネリで右往左往する面白みや筋立ての起伏を主眼にドラマを作ろうとしている、いじめや自殺それ自体に対してはさほどの関心が見出せない、それは表現者の姿勢として何うなんだという話をしています。

いじめや自殺を主要な関心として語ったドラマなのであれば、本文の論旨で別段的を外しているとも思いませんが、要するにそんなことには関心がないんだろう、それは拙いんじゃないか、という結論を語っています。

要するに、いじめ自殺をネタにしたギャグマンガがあったら何うなんだという話です。

この番組の題材に興味を感じる層というのは、たとえば自身が中学生だったり、自分や友達が中学時代にいじめに遭っていた人間だったり、中学生や何れ中学生になる子供を持っている親御さんだったり、何れそのような親になるような人々という層が考えられますね。それはつまり、今時の殆どの人間ということになりますから、かなり視聴者中の大きなパイになるはずです。つまり、いじめ自殺というテーマはTV番組を観る大多数の視聴者にとって決して他人事ではないし、身近で切実な問題だということです。

そのような多くの人々にとって身近で切実な問題で興味を惹く以上、公共表現に携わる者としては一定の配慮というものが必要になります。それは、たとえばkorohitiさんのご家族にいじめを苦にして自殺した方がいるとしたら、それをたとえばギャグマンガのネタにして他人が嗤っているとしたら、それを「想定している層が違うから関係ない」と無視出来るでしょうか。

この場合に言う「想定している層」というのは、いじめ自殺が他人事である人という意味になります。いじめ自殺が他人事である人に向けて冗談事としていじめ自殺を扱ったのだから、いじめ自殺が他人事ではない人間がいじめ自殺は冗談事ではないという前提でとやかく文句を言うなというのはおかしな話ではありませんか?

それが他人事ではなく切実な問題だからこそ、公の場でそれが扱われた場合には無視出来ないというのが当たり前の人間の感覚ですし、たとえば「14歳の母」で中学生の出産という題材が大きな関心を呼んだのは、それが誰にとっても決して他人事ではない切実な問題だからです。そして、制作側がそのようなショッキングな題材を選ぶ第一の動機とは、多くの人に関心を持って貰いたいからだというのは議論の余地のないところでしょう。

ここに想定視聴層云々という考え方を容れる余地はありません。不特定多数の多くの人に関心を持って貰いたいという動機で、不特定多数の多くの人が他人事として無視出来ない題材を扱っているのですから、その題材に関心を抱くすべての人々に対して一定の表現責任というものが発生します。自分たちがつくった番組が気に入らない人間は想定視聴者層じゃないなんてつくり手視点の言い訳が、苟も表現者たる者に許されるものではないですね。

TVドラマというのは不要不急の娯楽に過ぎません。多寡が娯楽、されど娯楽です。娯楽というのは、最低限多くの人にとって楽しくて不当に他者を痍附けないものを言うのであって、少数の人が楽しむ為に多くの人が不当に痍附くものをマトモな娯楽とは言いません。精神病者や身体障害者をからかうネタ、老人性痴呆をからかうネタ、他国を不当に貶めるネタ、一部宗教を笑い物にするネタ、社会的弱者を不当に扱うネタ、こういうのはマトモな娯楽ではありません。

勿論、そのような社会のタブーを挑発する芸術形態もあるのかもしれませんが、少なくとも多くの人が受動的に受け取る娯楽形態であるTVドラマで、面白半分に扱って好い題材ではないでしょう。ましてこのドラマは、タブーを挑発することで鑑賞者の情動を先鋭に刺激する「芸術作品」ではなく、多くの人々が楽しく観ることを想定した普通一般の「娯楽作品」じゃないんですか?

このドラマでは、たしかにいじめ自殺をギャグにまでしているわけではありませんが、多くの人が真剣な関心を抱いて苦慮している問題を娯楽のダシにすることは、それらの人々にとって不愉快であることは当然だと思います。自分が真剣に考えていたり、身近な人間が痍附いて悩んでいるような題材を面白半分で扱われたら、誰だって不愉快だと思いますよ。

オレがこのドラマに不快感を抱くのは、その題材で関心を惹いた「想定視聴者層」に対する当たり前の配慮がないからであり、題材の扱い方が「面白半分」のネタだと感じるからです。

それから、そもそも「想定視聴者層」ということですが、特撮やアニメじゃないんですから、一般ドラマで想定視聴者層が違うから何も言うなという話にはならんでしょう。制作サイドの「視聴率を稼ぎたい」という動機に何ら疑問がない以上、可能な限り多くの視聴者に観て欲しいという建前でつくるのが一般ドラマであって、それはつまりTV受像器を持っているすべての人の視聴を想定しているということです。

勿論、制作上のターゲティングということはありますし、たとえばF1層を狙いたいとかF2層やM2層を狙いたいというような絞り込みは当然ありますが、それはつくり手都合の問題であって、たとえば若い女の子に観て貰いたいという意図でつくった番組をオレのようなオッサンが観て何かを言ったからと言って、つくり手に「あんたは関係ないから」などと言って視聴者を選り好み出来るような筋合いはないし、事実において番組を観る人間には斟酌する義理のないことです。

そもそもこのドラマが、オレが入らないような特殊な視聴層をターゲティングしてつくられたドラマだとはちょっと思えないのですが、korohitiさんのお考えになる想定視聴層というのは具体的に何ういう層なのですかね?

korohitiさんの論理で言えば「想定視聴者層」というのは非常に便利な言葉で、要するにその作品を面白いと思うような人という意味になるのではないでしょうか。これは単なる自己言及で、何を言ったことにもならないわけで、そのような意味で視聴者を「想定」して数字が穫れると考えるのなら、この番組を面白いと感じる人はたくさんいるはずだというただそれだけのことを言っているに過ぎなくなりますね。

表看板のTVドラマは「つまらないと思うなら観なくて好い」という倨傲な姿勢でつくられるものではないはずですよ。TVを観ている大多数の人が、こういうドラマを面白いと思って観るはずだという考えでつくるのが一般ドラマではないですかね。

そして、そもそも制作サイドがどのような視聴者を「想定」したのかというのは、題材の選び方から類推されるはずで、寧ろ題材の選び方が想定視聴者層を規定しているのが当たり前の筋道です。大多数の視聴者にとって放映前に物語の内容を推測する手懸かりになるのは、そこで扱われる題材だからです。

普通一般の視聴者は、放映前の段階では、これこれこういう題材だからおそらくこの番組は自分が面白いと思える番組だろうというふうに考えるだろうし、そこが一番の取っ掛かりである以上、制作サイドのターゲティングはそこに顕れるはずです。全然狙っていない層が関心を持つような題材を掲げて、そういう層がつまらないと考えて観なくなったら視聴率が悪くて当たり前ですからね(笑)。

だとすれば、やはりこの題材に対してこの手法が適切なのかという前後関係で作劇を判断すべきなのであって、この手法で面白みをつくる為にたまたまこういう題材を選んだという順序にはならないはずですね。ましていじめ自殺というスキャンダラスで挑発的な題材を選択したということは、それに対して関心を持っている不特定多数の人々を取り込みたいという制作側の意図として視るのが当然だと思いますが、実は違うという話なんでしょうか(笑)。そうだとすれば、それが一番意外ですね(笑)。

つまりですね、マンガのようなチャカチャカした波瀾万丈の書き割りドラマを語りたいならそれに相応しい題材を選ぶべきだし、少なくともそれは多くの人々にとって興味がなかったら無視出来るような当たり障りのないものであるべきだということです。そうであったとしたら、オレはたった一言「つまらない」と言えば済んでいたのであって、こういうエントリーは書かなかったということです。

korohitiさん個人が、いじめ自殺をネタとして扱うドラマでも自分が面白ければそれでいいのだとお考えなら、まあそれは一人の受け手としての自由ですから、それに対してとやかく言うつもりはありませんが、大多数の人々はそういうふうに思わないということですし、それには尤もな事情があるということです。

もし制作側がそういうふうに多くの人々が不快感を感じたとしても、面白がる人が面白がってくれれば好いと考えているのであれば、TV番組の作り方としてそういう姿勢が世の中に通じるものではないということです。

一応オレ個人にも作劇スタイルの好き嫌いはありますが、基本的に好き嫌いで批判しているわけではないつもりです。ただ嫌いなだけだったら「つまらない」と言えば好いだけの話なんで、つまらないと一言だけ言えば好いことにわざわざ長々と理屈をこじつけるほどヒマではないつもりですから。

ああ、それから、今のところオレは脚本家デビューする予定はないので、そういう心配をなさるには及びませんよ(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2007年5月12日 (土曜日) 午前 12時07分

のじましんじの漢字が誤変換くさいのですが。
心無い脚本家はあと誰と誰ですか?

投稿: 匿名 | 2007年5月13日 (日曜日) 午前 09時40分

ご指摘ありがとうございます。早速直しておきました。
他の心ない脚本家ですが、過去記事にありますから気長に探してみられては、というのはダメですか?(笑)

投稿: 黒猫亭 | 2007年5月13日 (日曜日) 午後 03時48分

すいません、なんか勿体振った書き方したせいで、皆さんにお手数をおかけしたみたいですが、「キーワードが漠然としすぎててわかんねーよ」というお叱りを受けましたので、正解を発表します(笑)。

一号が「14歳の母」の井上由美子で、二号が「演歌の女王」の遊川和彦でした。興味のある方は該当作品のエントリーをご一読ください。

投稿: 黒猫亭 | 2007年5月13日 (日曜日) 午後 07時16分

まあ議論をするつもりはないといったのでしませんが、こちらの言いたかったことは殆ど伝わってないようなので、そもそも議論にならないのですが。
たまたまこの記事にコメントしましたが他のドラマのレビューについてもほぼ同様で、黒猫亭さんは「嫌い=つまらない」とお考えのようですが、それこそ自分の嫌いなものはつまらないものという「好みの範疇の話」を「面白い・面白くない」「出来・不出来」に置き換えて語ってるだけのようにしか聞こえないんですね。しかもその責任を脚本家に押し付けるということで、つまらないことの責任の所在を明確にしてるつもりというか。
まあ以前にも小林靖子の話でこちらが好き嫌いの話をしているだけなのに、如何にも「小林靖子の面白さが判らないとはもったいない」との如く猛烈に反論されたこともありましたが、結局黒猫亭さんの言っていることは自分好みでないものは詰まらない、自分が認めるものは絶対的に面白いはずだといってるに過ぎないと思うのですよ。
出なければ少なくとも普通の人なら、こちらはセラムンを見て面白くなかったと言っているにも関わらず、猛烈にそのセラムンを布教するということをするはずはないと思いますからね。


>この番組は「いじめ自殺」というシリアスな題材を中心に据えていますが、それはネタという以上の扱いではないし、書き割りの人間が意外性狙いのヒネリで右往左往する面白みや筋立ての起伏を主眼にドラマを作ろうとしている、いじめや自殺それ自体に対してはさほどの関心が見出せない、それは表現者の姿勢として何うなんだという話をしています。

だからそもそも、そこに噛み付くのが間違ってると思うのですが?
そういうつもりのドラマを作って見せるということにどうして問題があるのかと?
そうじゃない社会派のものを作るつもりが、脚本家の力不足で表現上十分な域に至らないというのなら黒猫亭さんの言うことはもっともだと思いますが、そうじゃないでしょう、そもそもが。


>書き割りのリアリティしか書けない

このドラマがそういうつもりでこの脚本家を使っていて、書き割り以上の物を求めていない、記号的事象だけを並べて、こういうことがあるのですよ、という特異な例だけを引きあいにだしてドラマを作っていても、それが制作側の狙いなら、それに対して「面白くない」というのならともかく脚本家が莫迦だからと断言するのはお門違いでは?と思うのですよ。
私はわた教は面白いと思ってるので擁護発言だと思われても困るので別のドラマで言うと、プロポーズ大作戦なんかは私は耐えられないレベルで、それこそ月9枠ということを考えてもヘタだなあと思うのですが、ああいうものを求めている層もいるわけで、もしそれを狙ってやってるのだとすればそれは単に自分がお客じゃないだけで、月9でもたまにはこういうこともあるよねと言ってつまらないというレッテルを貼って見なければいいだけなのですね。
前クールで言えばハケンなんかもそうですね。ハケンは視聴率も話題性もあったから、そういう意味で比較としては判りやすいんじゃないでしょうか。如何に脚本の出来がアレであろうと、多くの人が面白いと思って見てるわけですよね。それが制作側の狙いなら脚本がヘタでもそれは大多数の人にとって問題ないと言うことですよ。

想定視聴者というのは単純にその木10という枠の視聴者にどういう物を見せたいかという意味での想定であって、どうやれば視聴率が取れるかというマーケティングという意味ではないです。
そのドラマを誰が見るかはもちろん視聴者任せで制作側が口だしすることではないですが、製作者が「木10」で何をやるかというときに、木10を見るような年齢層、例えば30代の大人がメインで20〜50くらいが見てると想定したときに、「何を見せたいのか」ということを考えて作るか、ということです。もちろんそれを読み違えるということはあるとは思いますが。
それに関して今回は制作側が虐め問題のセンセーショナルな部分だけをキャッチーに見せようと考えたときにこういうドラマを作るんであれば、それは例えば14才の母のようにエセ社会派のつもりで作っているわけじゃないと思うのですね。


>korohitiさんのご家族にいじめを苦にして自殺した方がいるとしたら、それをたとえばギャグマンガのネタにして他人が嗤っているとしたら、それを「想定している層が違うから関係ない」と無視出来るでしょうか。

無視できますよ。だって自分宛ならともかく、不特定多数に対して作っているドラマやマンガじゃないですか。
黒猫亭さんがどんな義憤に駆られてそういうことに対して憤っているのか、まあ判らなくはなくはないですし、そういうことに過剰反応する人がいるということも知っていますが、別に全ての物がそういうことに目配せをする必要はないと思うんですよ。そこまでいったらちょっと変じゃないですか?管理社会ですか、この世界は?
自分のことを考えても自殺した身内くらいいるし、職場で虐めらしきことに合うことなんて特に珍しくもないし。それなのに身近な友達の話を聞いて憤るのならともかく、創作物であるドラマを見て全て自分に引き寄せて心を痛ませるなんて、考えませんよ。少なくとも私は。
黒猫亭さんが言いたいのは、例えば自らの虐め体験で辛い思いをしたからそれを世間に知らしめたい、という至極真面目な動機からでないとそういうものを扱ってないけないということになりますよね。それは過剰反応だと思うのですね。当然必要な配慮はするべきだろうけど、そもそもそういうつもりがあってもなくても、自分には関係ないと思う人は単にドラマとして楽しむだろうし、何か引っ掛かる人はそれによって考えるキッカケになればいいというだけじゃないでしょうか。

面倒なので結論にしますが、そういう意味で真面目に作っていないということと、この製作者・脚本家は無能だというのは違うのではないかと思うということです。世の中のドラマがそんな物ばかりになったら面白くないなあということです。
残念ながら黒猫亭さんが思ってるような理屈で世の中は動いていないのです。

投稿: korohiti | 2007年5月13日 (日曜日) 午後 08時07分

申し遅れましたが、当ブログへのコメント・TBは認証公開制になっていますから、書き込まれてから公開までに多少の時差があります。スパム避けの目的なんですが、ココログだとその辺あまり細かく設定出来ないので、申し訳ありませんがご諒承ください。

>>たまたまこの記事にコメントしましたが他のドラマのレビューについてもほぼ同様で、黒猫亭さんは「嫌い=つまらない」とお考えのようですが、それこそ自分の嫌いなものはつまらないものという「好みの範疇の話」を「面白い・面白くない」「出来・不出来」に置き換えて語ってるだけのようにしか聞こえないんですね。しかもその責任を脚本家に押し付けるということで、つまらないことの責任の所在を明確にしてるつもりというか。

「korohitiさんが日頃当ブログのレビューをそのように読み解かれている」ということは理解いたしましたが、オレがそれを書いた当人である以上、オレ個人がそれをどうこうコメントすることではないですね(笑)。この場合、korohitiさんのご意見は「黒猫亭日乗というテクスト群一般についての一つの読解」ということになり、

a.korohitiさんの読解は妥当である。
b.korohitiさんの読解は妥当ではない。

この二つの可能性があるわけです。そしてその読解が妥当であるかどうかというのは、このブログを読んでおられる第三者が判断すべきことですし、それを公平に判断する材料は揃っているということになります。僭越ながら、その結果に関しては割合楽観しておりますので、敢えて反論することでもないかな、と考えています。

>>まあ以前にも小林靖子の話でこちらが好き嫌いの話をしているだけなのに、如何にも「小林靖子の面白さが判らないとはもったいない」との如く猛烈に反論されたこともありましたが、結局黒猫亭さんの言っていることは自分好みでないものは詰まらない、自分が認めるものは絶対的に面白いはずだといってるに過ぎないと思うのですよ。
出なければ少なくとも普通の人なら、こちらはセラムンを見て面白くなかったと言っているにも関わらず、猛烈にそのセラムンを布教するということをするはずはないと思いますからね。

こちらに関しては、当ブログだけを読んでおられる方には何のことやら判断材料がないので、失礼ですが手続上korohitiさんのブログの当該エントリーのURLを引用させていただきますね。おおむねこの二つのエントリーのコメント群のことを仰っているのかと思います。違っていたら、お手数ですがURLをご教示いただけますと幸いです。

http://d.hatena.ne.jp/korohiti/20070131/p3
http://d.hatena.ne.jp/korohiti/20070215/p1

これで公平な判断材料が出来ましたので、korohitiさんのご意見が妥当であるかないかについては、第三者の読者にご判断を委ねるとしますが、一応オレは「小林靖子の面白さが判らないとはもったいない」というようなことを言ったわけでもないし、小林作品を熱烈に布教したわけでもありません。

「それは好き嫌いの範疇で語れることを超えているのではないですか」「それを言う為には確認しなければならないことがあるのではないですか」という話をさせていただいたわけですが、それがどれだけご説明しても通じなかったので、まあ議論にならなかったと理解しています。

さて本題ですが、オレが不思議に思うのは、

>>想定視聴者というのは単純にその木10という枠の視聴者にどういう物を見せたいかという意味での想定であって、どうやれば視聴率が取れるかというマーケティングという意味ではないです。

>>それに関して今回は制作側が虐め問題のセンセーショナルな部分だけをキャッチーに見せようと考えたときにこういうドラマを作るんであれば、それは例えば14才の母のようにエセ社会派のつもりで作っているわけじゃないと思うのですね。

というところなんですが、「木10という枠の視聴者にどういう物を見せたいかという意味での想定」が「想定視聴者」という意味になるのがよくわかりません。文芸作品を制作する上で、事前にそういう想定があるのは当たり前ですし、それは作品の内容を規定する要素ということで、見せたい相手というのは木10の視聴者一般なんですよね? だとすれば、普通一般に謂う意味での「想定視聴者」というのは見せたい相手のことですから「木10の視聴者」ということになります。

だとすればオレも木10の視聴者の一人ですから、オレも含まれる漠然とした視聴者一般に向けて何を見せたいかという話になるんですよね。それが要するに「虐め問題のセンセーショナルな部分だけをキャッチーに見せよう」という内容だから、その姿勢を批判しているわけですが、この一連の流れの何処に想定視聴者という問題との関わりがあるのでしょうか?

さらに、この流れでいつの間にオレは想定視聴者ではなくなったのでしょうか? 木10の視聴者に向けて「虐め問題のセンセーショナルな部分だけをキャッチーに見せよう」という制作者のコンセプトを肯定出来る人間だけが「想定視聴者」であるという意味なんでしょうか?

そうすると、「原理的に言って」そのコンセプトに問題があるかないかを判断し得る立場の視聴者は存在しないという話になりますが、ならば、TV番組の場合、制作者の制作コンセプトには「原理的に言って」批判さるべき問題は存在し得ないということになるのでしょうか。視聴者というのはTV番組について自由に価値判断することが出来ると考えていましたが、制作者の思惑に沿わない視聴者にはそんな権利はないというご意見なのでしょうか。

たしかにこの部分については、オレにはまったく理解出来ませんが、誰か他に理解出来る人がいるんでしょうか。とても不思議な論理です。

>>そうじゃない社会派のものを作るつもりが、脚本家の力不足で表現上十分な域に至らないというのなら黒猫亭さんの言うことはもっともだと思いますが、そうじゃないでしょう、そもそもが。

社会派のものを作るつもりで力不足なのであれば、それは内容面に対する批判となるのであって姿勢面での批判にはなりません。全然別の話になりますね。実際、「14歳の母」に対しては内容面に対する批判を論じていますが、このドラマに関しては姿勢面に対する批判となります。それはまあ、言ってみれば内容面への批判以前の問題ということです。

>>このドラマがそういうつもりでこの脚本家を使っていて、書き割り以上の物を求めていない、記号的事象だけを並べて、こういうことがあるのですよ、という特異な例だけを引きあいにだしてドラマを作っていても、それが制作側の狙いなら、それに対して「面白くない」というのならともかく脚本家が莫迦だからと断言するのはお門違いでは?と思うのですよ。

脚本家が莫迦だと思うのは、書き割りしか「書けない」からであって、書き割りしか書けない物書きは技術者としては莫迦にされて当然ですね。一方、オレが「心のない脚本家」と呼んで蔑んでいるのは、書き割りしか書けない脚本家のことではなく、普通の社会人ならちょっとは考えるようなことを考えないで仕事をする脚本家のことです。坂元裕二については、この二つの点に当てはまることから、かなり莫迦にしています(笑)。

>>無視できますよ。だって自分宛ならともかく、不特定多数に対して作っているドラマやマンガじゃないですか。

>>黒猫亭さんが言いたいのは、例えば自らの虐め体験で辛い思いをしたからそれを世間に知らしめたい、という至極真面目な動機からでないとそういうものを扱ってないけないということになりますよね。それは過剰反応だと思うのですね。

それが過剰反応であるというkorohitiさんの個人的なご意見は理解しましたが、少なくとも現代社会の公共表現に関する一般通念とは懸け離れていると思いますし、そのような社会通念が成立していることにも尤もな事情があります。勿論、自分の体験であるかどうかというのは重要な論点ではありませんが、少なくとも対象問題に対して真摯に言及するものでなければ社会的コンセンサスは得られないでしょう。

たとえば「僕の歩く道」のような題材で、自閉症の奇矯な症例を面白可笑しくギャグにするような作品が作れるかどうかを考えていただければどうかと思います。やろうと思えば幾らでも出来ますし、自閉症の症例がこの病気に理解のない方から視れば滑稽に見えるという話は僕アルの中でも描かれていましたね。多分、彼らの苦境を他人事として割り切れる人間にとって、それは窮めて「面白い」娯楽になると思います。

事実、障害者の変わった言動や外見的特徴をからかう文芸というのは、つい最近の昭和の時代までありましたが、今現在はそんなものは大っぴらには存在しません。そのように社会通念が変わってきているということで、文芸というのは、それが生み出される同時代の社会通念と密接な関係がありますから、たとえば明治大正昭和の文芸と平成の文芸では、配慮すべき事柄やその程度が変わってきて当たり前です。

なので、korohitiさんのようなご意見は、少なくとも大正時代くらいなら一般に通用したかもしれませんが、今はほとんど誰も賛同しないと思います。

障害者といじめ自殺の問題は違うと仰るかもしれませんが、それを配慮する原理は同じことです。障害をお持ちの方も、いじめで自殺する子供たちも、そうでない人にとって他人であることには変わりありませんし、事実においてそうでない人間のほうが多数派であるのは当たり前です。

しかし、そのような弱い立場の少数者の心情を慮るべきだという社会のコンセンサスがあるし、自分や自分の肉親もまたいつかそのような立場に立たされるかもしれない、それは決して他人事ではないという想像力や共感があるからこそ、社会的弱者やシリアスな社会問題を興味本位で扱うような文芸は存在を許されなくなってきているのです。

しかも、この場合問題になっているのは、「いじめ」一般の問題でも「自殺」一般の問題でもないわけで、学園を舞台にする子供の「いじめ自殺」という一続きの問題です。たとえば成人の自殺であれば、お気の毒ではありますが一人の自立した社会人が苦悩の末に選んだ人生の選択肢という言い方も出来ますし、職場のいじめというのも大人としての智慧や判断力や社会的権利を具えた人間が不当な立場に立たされたということで、闘うことも逃げることも出来るでしょう。

それは一人の自立した人間の生き様の問題と括ることも可能です。原則的に、その現状が不満であれば大人としての自由意志において闘うことも回避することも可能なのですから、一方的な社会的弱者でもないし、それが深刻な社会問題視されることもありません。職場のいじめに関しては下世話なバラエティの再現ドラマで笑い事にされたりするし、自殺を筋立て上の起伏に用いる文芸作品があっても、その扱い方がよほど背徳的でなければ倫理的な批判を蒙ることはないでしょう。

しかし、このドラマで扱われているのは、成熟した世間知も判断力もないし、自立した経済力もない、自分の身柄を自分で決定することも出来ない、逃げることも闘うことも出来ない未成熟な子供たちが、同年代の子供たちからの有形無形の悪意で死に追いやられるというシリアスな問題です。

劇中の明日香が死を選んだことがいじめの結果であれば、いじめを行った子供を罰すれば済むということにはなりません。いじめを行っている子供たちもまた大人からの保護後見を要する未成年者です。たとえば大人同士の殺し合いやいじめと違って、責任能力のない子供たちが死に至るような悪意をぶつけ合うというのは、成長過程における愚かしく痛ましい未熟さであるわけですね。

社会の成員である大人には、そんな未成年者たちを保護教導する義務と責任がありますし、「世の中そんなモンだ」とすましていればいいというものでもありません。自分に子供があろうがなかろうが、社会の一員である以上、子供たちの現状に対しては大人の世代には責任が伴うわけです。要するに、面白半分のネタにしていいことではないというのは、誰にとっても高見の見物を決め込む権利なんかないからです。

また、このドラマでは第一回目で「いじめに遭っているかどうかは通り一遍に子供と話をするだけではわからない」と強調していますね。だとすれば、今現在子供をお持ちの方々にとって、潜在的に自分の子供もいじめに遭っている可能性は否定出来ないわけで他人事ではない怖い問題です。そのような方々で、そういう切実な題材を扱っているドラマを「不特定多数に向けて作られたドラマじゃないか」と無視出来る人は少ないのではないですかね。いわば題材自体がそのような人々を脅迫的に刺激しているわけです。

そして、そのような方々がそのような題材を扱っているドラマを観る姿勢は、面白半分のものでもないし、センセーショナルな題材をキャッチーに扱っている筋立ての面白さを他人事として楽しもうというものではまずないでしょう。そのような立場の方々が、korohitiさんの仰ったような形のドラマを暢気に楽しめるとは、まず考えられないですよね。そのような事情は、普通の大人なら察して然るべき事柄です。

では、korohitiさんの仰ったような「見せたい物」というのは、こういう人々に向けたものではないということで、そういう人たちに対しては「つまらなければ観なければいい」ということでしょうか。こういう題材を掲げればこういう人々が強い関心を持つのは莫迦でもわかることなのですが、そういう人々の大半は想定視聴者じゃないからおとといおいでということでしょうか。

そうすると、このドラマをつくった人たちは、普通この種の題材に強い関心を持つであろう人々をすべて切り捨てて「見せたい物」を考案したということでしょうか。寧ろこの題材に真っ先に関心を持つはずの人々が強い不快感を抱くことがわかりきっている内容を「見せたかった」ということでしょうか。

それはどんな悪意なのでしょうか。

korohitiさんがどれだけつまらないと思われようと、今の世の中ではそのようにして他者を痍附ける行為は不当であると見做されていますし、公共表現においてはその種の事柄に最大限に配慮すべきであると一般に考えられています。つまり、面白さと社会的公正性を天秤にかけた場合、面白さをとるという選択肢はあり得ないという世の中になっています。

それを「管理社会」というのであれば、そもそもどんな社会も「管理社会」でしょう。個人の自由や権利が尊重されるというのは、自分と同じように他者の自由と権利も尊重されるということで、それは必ずぶつかり合うはずですね。その他人同士の間の自由と権利の衝突を調停するのが社会規範であり、社会通念というものです。

人間が一人だけで生きているのであれば、ブログを読んでくださる方もいらっしゃらないし、労働に対してお金を払う者もいないわけで、原始時代のような生活をせざるを得ないわけですが、誰もが普通に文化的な生活を営んでおられるはずで、それは社会の一成員だからでしょう。そして、社会に属しているということは社会に対して一定の責任を引き受けるということでもあります。

「そんなのは自分の自由だ」と言えることには自ずから限定があるし、その限定というのは本人が自由に決めていいことではなく、客観的に決まっているということですね。たとえば本音の部分で「いじめ自殺なんて他人事だよ」と思ってる人がいたとしても、一人の社会人である以上、それを自分以外の人間に対して大っぴらに言えるものではないはずですよ。それは社会に対する責任放棄ですから。

ましてや、公共表現を通じて他者を痍附けることは簡単ですし、そのような形で他者を不当に痍附けることに対して、デリケートな配慮が求められているのが現代社会です。korohitiさんが「エセ社会派」と仰った「14歳の母」が何故そのようなエセ社会派のヒューマンドラマの体裁をとっていたかということにも、ちゃんと「必然的な理由」があるのです。

たしかにオレもあのドラマはエセだという文脈で批判しましたが、そのようにエセの仮面を被る「必然的な理由」すら理解しているとは思えないドラマを視たら、それは心があるとかないとか以前に、社会人として常識ねーなと嘲笑いますよ(笑)。

ことにTVドラマの制作者や脚本家というのは、別に社会から孤立した孤高の芸術家ではなく、社会との密接な関係において娯楽を提供する職業者なのですから、社会通念なんか識ったことではないというのは許されるものではありません。

まあオレの見当ではこのドラマにおける脚本家の発言力は結構強いと思いますので、このような形の作品になったことの責任は脚本家にも相応にあると思いますし、制作者の言う通りに書いているんだとしても、今はそれなりのステータスもあるしデビュー当時みたいな若造じゃねーんだからちょっとは考えなよと思いますね。

>>当然必要な配慮はするべきだろうけど、そもそもそういうつもりがあってもなくても、自分には関係ないと思う人は単にドラマとして楽しむだろうし、何か引っ掛かる人はそれによって考えるキッカケになればいいというだけじゃないでしょうか。

korohitiさん個人がそのような姿勢で文芸作品を楽しんでおられるのであれば、それはkorohitiさんのご自由ですが、世間一般の人はそうではないということですし、そうではないほうが尤もだろうと視られているということですね。

korohitiさんが社会というものをどのようにお考えかは存じませんが、社会で通用する考え方であるかないかというのは、言った者勝ちではありませんし、今この場でどれだけオレ個人に向かって激しく強弁したところで、社会通念自体が変わるものではありません。

korohitiさんが「そういうふうに世間は動いていない」と仰っても、オレはちっとも痛痒は感じませんし、それに賛同される方は極々少数でしょう。それは個人の考え方次第の問題ではなく、広く社会に共有されている妥当性の規範だからです。その部分については、korohitiさん個人がどのようにお考えでも議論の余地はありません。

嘘だと思ったら、身近な社会人の方と少し話し合ってみられてはいかがでしょうか? 可能ならば、公共表現に携わっておられるプロの方がベターだろうし、そして、そのような話をされた方が本心ではどう思っているのか、注意深く表情をご覧になるとよろしいかと思います。

>>面倒なので結論にしますが、そういう意味で真面目に作っていないということと、この製作者・脚本家は無能だというのは違うのではないかと思うということです。世の中のドラマがそんな物ばかりになったら面白くないなあということです。

無能とは言っていませんが、技術レベルが低く世間が狭いと嗤っています(笑)。

そして、面白ければ不当に痍附く人がいても構わないと考える方は、少なくとも、このような私的な会話の場ですらそのように主張される方は、多分korohitiさんが考えておられるよりもずっと少ないと思いますよ。わざわざ他人を痍附けなくても面白い文芸作品はたくさんありますから。

まあ、オレが面白がるものをkorohitiさんがつまらながるのは全然構わないですよ、当然その逆のケースもありますし、それこそ個人の「好きずき」の問題ですので、誰であろうが「あんたの面白がるものはつまらない」と言ってきても、それは「あんたと私は別の人間だ」と言ってるのと同じですから、別段何の不都合も感じません(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2007年5月14日 (月曜日) 午前 06時03分

黒猫亭さんが社会に対してどう思っているかは個人の考え方だと思いますが、議論にならないなあと思うのは、私がこのドラマのリアリティについてハケンの品格を持ちだしているのは、派遣社員の実情を描くといった今時風の時事ネタを持ちだしながら単なる娯楽ドラマでしかなかった、そういう文脈で作っているドラマだという認識がこのわた教と同じだと認識しているのに対し、例えば僕アルを持ちだしてくることです。
14才の母は確かに黒猫亭さんがおっしゃるように、社会派のつもりで作っておきながらそこに届かない脚本家の力不足でああいうものになってしまったと言うことに対して「エセ」と思うわけですが(私は姿勢についても最初からそこまで社会派寄りだとは思っていませんが)、僕アルの場合私は社会派ドラマとして、ああいうネタに対してキチンと向き合って作っていると思います。確かに黒猫亭さんのいうように、実際にあの病気の当事者から見たら多少描写に対して不愉快に思うかも知れませんが、それはドラマの描写としては許容範囲内だと思っています。
なぜなら一般のその病気をどういうものか知らない人間に対して、ドラマとしてこう描くべきという製作者の取り組みが真面目であるからです。だからそもそも、このわた教とは一緒にすべきではないと思います。

小難しく書けば正当性を主張できると思っているかどうかは知りませんが、いってることが脳内で飛躍しすぎです。リンゴとミカン、どちらが美味しいかと言っているようなものです。
まあどちらにしても、黒猫亭さんがいうこのドラマにおいての虐めについての描写が妥当であるかないかに関わらず、一般視聴者から見て面白くなければ視聴率は下がるのだし、それは必ずしもそういう取り組みが真面目か否かの問題ではなく、作品として面白くないと言うことであり、ネタに対する脚本家の考え方がどうこうよりもドラマ自体への感想として面白くないというだけであると思います。

基本的に黒猫亭さんがどういう感想をお持ちでも構わないのですが、ドラマが面白くないということとその脚本家が莫迦だということは関連づけられるのでしょうか?
ハケンの品格にて梅田ミカの脚本の頭の悪さを指摘しておられましたが、それについては私も異を唱える向きはありません。それでもハケンは「ああいうドラマとして」面白かったと思います。
わた教もそうですが、扱っているネタについての見識が許容できないからと言って脚本家を無能呼ばわり、ひいてはそれをしてドラマの製作者の社会に対する姿勢と評価とするのはどうかと言うことです。自分は面白くなかった、でいい話です。
心があろうがなかろうが、面白いかどうかが脚本家の評価の良し悪しではないでしょうか?もちろんその上でそのネタに対しての真摯な態度というのは必要だと思いますが、心無い脚本でも面白ければ(いろんな意味で)一般は支持するものだと思いますよ、黒猫亭さんや私がどう思おうが。
黒猫亭さんが思い描くリアリティに届かないからと言って、ドラマとして成り立たないかといえばそういうことではなく、そういう部分を描くことによって見せたいものがピンボケになるということもあるのではと思うのですが。(少なくともわた教において製作者が描こうとしているのは個々の事情のリアリティではなく、黒猫亭さんのいい方を借りれば単なる書き割りだと思っているので)


>嘘だと思ったら、身近な社会人の方と少し話し合ってみられてはいかがでしょうか? 可能ならば、公共表現に携わっておられるプロの方がベターだろうし、そして、そのような話をされた方が本心ではどう思っているのか、注意深く表情をご覧になるとよろしいかと思います。
>無能とは言っていませんが、技術レベルが低く世間が狭いと嗤っています(笑)。

と言うことは黒猫亭さん世間の社会人やプロの人はそう思っているということですか?ここに書かれている「虐め問題を軽々しく扱うドラマ製作者は無能である」ということは黒猫亭さんだけが思う意見でなくて、それなりの支持を得ていると?
おかしいですね、私の身近のプロの人はわた教を「ああいうドラマとして」面白がっている人の方が多いのですが。

>面白ければ不当に痍附く人がいても構わないと考える方は

当然何にしてもその配慮はなされるべきだと思いますが、あくまでも個人の認識の問題であって黒猫亭さんが傷つかれたんならともかく、「たぶん傷つく人がいるんだろう」じゃ話にならんのではないでしょうか。

投稿: korohiti | 2007年5月14日 (月曜日) 午後 04時10分

>>私がこのドラマのリアリティについてハケンの品格を持ちだしているのは、派遣社員の実情を描くといった今時風の時事ネタを持ちだしながら単なる娯楽ドラマでしかなかった、そういう文脈で作っているドラマだという認識がこのわた教と同じだと認識しているのに対し、例えば僕アルを持ちだしてくることです。

たしかに「話が通じてない」ですねぇ。オレもこのドラマの題材の扱い方がハケンの品格と同じだということには全然異論がないし、最初からそういう話をしていますよ。その上で、このドラマが扱っている題材は僕アルの自閉症と同様な扱い方をすべきではないかという話をしているのですよ。

その「たとえ話」として、たとえば僕アルの題材をハケンの派遣労働と同じように扱うことは正しいのかという話をしています。それについてkorohitiさんがどうお考えなのかは一度も出てきませんので、たしかに話は通じていませんね。

>>14才の母は確かに黒猫亭さんがおっしゃるように、社会派のつもりで作っておきながらそこに届かない脚本家の力不足でああいうものになってしまったと言うことに対して「エセ」と思うわけですが(私は姿勢についても最初からそこまで社会派寄りだとは思っていませんが)

まあ多分korohitiさんはオレが14歳の母について書いたレビューは読んでおられないのだと思いますし、前回申しあげた「必然的理由」についても理解しておられないのかなと思いますが、オレがあれをエセだと思うのは、狙いとしては娯楽ドラマでありながらあの題材で娯楽ドラマを作ったら批判されるので社会派のフリをしている、それが姑息である上にドラマの中で書かれた当該問題に対する結論が無責任だからです。

それを指摘した上で言うならば、娯楽ドラマとしては井上由美子は大変良い仕事をしています。korohitiさんが言うように、基本的に誰でも面白いドラマは観たいのですが、デリケートでシリアスな題材を面白半分で扱われたら不愉快である、それゆえにあのドラマは題材を真面目に扱っている「ポーズをとっている」のだと見ています。

それゆえに、オレの認識としてはプロ脚本家としての井上由美子の力量は評価していますが、心のない仕事をしているという話になっているわけですね(笑)。そして、当該作品のレビューではそういう話をさせていただいたつもりです。

まあ、それをkorohitiさんがどのように読まれたか、あるいは読んでおられるかどうかというのはまったく別問題ですが(笑)。

>>まあどちらにしても、黒猫亭さんがいうこのドラマにおいての虐めについての描写が妥当であるかないかに関わらず、一般視聴者から見て面白くなければ視聴率は下がるのだし、それは必ずしもそういう取り組みが真面目か否かの問題ではなく、作品として面白くないと言うことであり、ネタに対する脚本家の考え方がどうこうよりもドラマ自体への感想として面白くないというだけであると思います。

一応確認しますが、これは一般論としてこうであるという話ですね。「視聴率が低いということは、一般にドラマ自体への感想として面白くないというだけである」、そういうご意見であるという理解で話を進めさせていただきます。そうすると、

>>基本的に黒猫亭さんがどういう感想をお持ちでも構わないのですが、ドラマが面白くないということとその脚本家が莫迦だということは関連づけられるのでしょうか?

そんな話は誰もしてませんよ、という以外にはありませんね。同じ話を何度も繰り返すのは、ここを読んでおられる方にとって退屈でしょうからやりませんが、それは単なるkorohitiさんの思い込みですし、それに対する説明はすでにしてあります。何度説明してもそれが「通じていない」ということですし、何故通じないかということは、ここを読んでおられる方には一目瞭然でしょう。

自説にとって都合の悪いことを理解しないというのは、二人の人間の間の口喧嘩なら通じるでしょうが、公開された場所での議論では通じませんよ(笑)。

>>ハケンの品格にて梅田ミカの脚本の頭の悪さを指摘しておられましたが、それについては私も異を唱える向きはありません。それでもハケンは「ああいうドラマとして」面白かったと思います。

このように書かれていますが、一応確認しておくと、オレもハケンの品格については終始面白いというスタンスでレビューを書いていますね。まさかとは思いますが、ハケンの品格を引き合いに出し、それに対するオレのレビューに触れていながら、オレがハケンの品格をつまらないと言ったとか、手厳しく批判したとか思っておられるわけではないですよね?

いや、まさかとは思いますが、一応確認までに(笑)。何というか、わざとなのか他意はないのか、オレが書いたこととは全然違う文脈でオレのレビューに触れておられることが多いので少し不安になりましてね。

まあ、この議論を読んでおられる方の多くは実際に原文を読んでおられるので、誤解を招くことはないと思いますし、korohitiさんの読解が妥当であるかないかを客観的に判断し得るだろうとは思いますが(笑)。

>>わた教もそうですが、扱っているネタについての見識が許容できないからと言って脚本家を無能呼ばわり、ひいてはそれをしてドラマの製作者の社会に対する姿勢と評価とするのはどうかと言うことです。自分は面白くなかった、でいい話です。

「扱っているネタについての見識が許容できないからと言って脚本家を無能呼ばわり」という部分については、誤読であるという指摘をすでにさせていただきました。これについては、何度説明しても理解なさるおつもりがハナからないということで、これ以上korohitiさん個人に説明しても無駄でしょう。第三者に対する説明としてはこれまでの書き込みで充分と判断しますので、これ以降は単に「間違い」と指摘するに留めます。

「ひいてはそれをしてドラマの製作者の社会に対する姿勢と評価とするのはどうかと言うことです」という部分に関しては、前段と一続きの話ですから、「扱っているネタについての見識が許容できないから」という理由で「ドラマの製作者の社会に対する姿勢と評価とする」のは当たり前ではないんですか?(笑)

社会に対する姿勢というのは扱っている題材に対する見識に顕れます。korohitiさんの仰っていることは至極当たり前の筋道ですよ。その意味で僕アルを引き合いに出しているわけですが、そこは理解したくないということですね。korohitiさん個人が理解できないというだけの理由で同じことを何度も繰り返すのは無意味なので、ここも詳述は割愛させていただきます。

>>心があろうがなかろうが、面白いかどうかが脚本家の評価の良し悪しではないでしょうか?もちろんその上でそのネタに対しての真摯な態度というのは必要だと思いますが、心無い脚本でも面白ければ(いろんな意味で)一般は支持するものだと思いますよ、黒猫亭さんや私がどう思おうが。

まず、その理屈で言えば、このドラマの視聴率が低く下落傾向にあるということは、一般の人々はこのドラマを面白くないと感じているということになります。ネットでもあまりよい評判は聞きませんね。korohitiさんのところで何人かそのように仰っているのをお見かけしたくらいですか。だとすれば、普通一般の多くの人々には面白いと見なされているわけでもないし、一般に支持されているわけでもないんですよね?

そういう意味のことを仰っているのでしょうか? だとすれば、このドラマは心ない脚本である上に面白くもないドラマということになってしまいますが、そういうことが仰りたいのでしょうか。

だとすれば、たしかな事実として残っているのは、korohitiさんご本人が面白いと思っているということしかなくなるわけですが、ならば、「自分が面白いかどうか」だけで作品を語っておられるのはkorohitiさんのほうだということになりますね。

その上で、「TVドラマは面白いかつまらないかしか語れない」と仰りたいのだとすれば、それはkorohitiさん個人の考え方であって、他人が違う考え方をしている場合に、何の筋道も示さずに自分の考えだけを強弁されても、誰も賛同しないでしょうね。

もしかして、korohitiさんはご自分が「TVドラマは面白いかつまらないかしか語れない」とお考えだから、他人の書いたこともその規範でしか判断していないということなのでしょうかね。つまり、「こいつはこれを面白いと言ってるのかつまらないと言ってるのか」ということだけで他人の意見を判断して、具体的に何を言っているのかはほとんど読み取ろうとしないということですかね。

それは、それこそ「美少女ファンタジーのラノベに対してハイファンタジーじゃなきゃダメだろ」的な的外れな読み方ではないでしょうか。

>>と言うことは黒猫亭さん世間の社会人やプロの人はそう思っているということですか?ここに書かれている「虐め問題を軽々しく扱うドラマ製作者は無能である」ということは黒猫亭さんだけが思う意見でなくて、それなりの支持を得ていると?
おかしいですね、私の身近のプロの人はわた教を「ああいうドラマとして」面白がっている人の方が多いのですが。

ああ、まさか相談する内容までちゃんと言っておかねばならないとは思いも寄りませんでしたよ(笑)。オレがプロの方に相談されては、と言ったのは、

>>当然必要な配慮はするべきだろうけど、そもそもそういうつもりがあってもなくても、自分には関係ないと思う人は単にドラマとして楽しむだろうし、何か引っ掛かる人はそれによって考えるキッカケになればいいというだけじゃないでしょうか。

ということで、つまり、「どんな不謹慎な題材を扱っていようが面白ければいい」と普通一般の人が考えているかどうかを確認されてはいかがですか、という話ですね。ですから、実際に誰かに相談されるなら、間違いなく「どんな不謹慎な題材を扱っていようが面白ければいいと一般に考えられているかどうか」と質問してください。

まあ、書きぶりから拝見すると、実際に誰かに相談されたというわけではなくて、ご自身の周囲のそういう方々がこのドラマを面白いとkorohitiさんに言った、ということだけを挙げておられるわけですよね。それはまた別のお話のはずですが、それを区別すべき必要性はやはりわかりたくないということでしょうか。

それから、一応念の為に確認しておきますが、オレが「表現のプロ」と言っているのは公共表現を社会にリリースする最終段階でジャッジする立場にある人のことです。そのコンテンツを作成する立場の人間なら面白いことを考えるのが商売でしょうから、多少社会的配慮に欠ける部分があっても面白ければよいと考えるでしょうが、それを社会に出してよいかどうかを判断する立場の人はそうはいきません。

たとえば「燃える!お兄さん」の用務員問題とか「マイナス」の人肉食問題というのがありましたが、あのように回収騒ぎになれば莫大な金銭的損失になるわけで、社会的マイノリティに対する他意のない軽率な描写で裁判が発生し、大きな企業リスクに発展した例もたくさんありますね。

その意味で、たとえばプロの編集者とかなら、korohitiさんのようにただ想像しておられるだけではなく世間のダイレクトな反応を識っているだろうから、世間一般がどういう考え方をするものかについて、思い込みだけではなく客観的な実情をご存じなんではないですか、ということですよ。

そして、これは単にkorohitiさんに対するご厚意で申しあげているだけのことで、実際に相談されたとしても結果をご報告されるには及びません(笑)。オレの周りにいる表現のプロの方がどのように考えておられるかは常々話し合っておりますし、そのような日頃の認識共有の結論としてこのような考え方を提示しているのですから、korohitiさんがこちらの予想外のことを仰ったら「ビックリ」しますね。

>>当然何にしてもその配慮はなされるべきだと思いますが、あくまでも個人の認識の問題であって黒猫亭さんが傷つかれたんならともかく、「たぶん傷つく人がいるんだろう」じゃ話にならんのではないでしょうか。

何度も申しあげていることなので繰り返しは避けますが、こういう問題は「個人の認識の問題」では決してありません。「たぶん傷つく人がいるんだろう」ではなく「確実に傷つく人がいる」と考えられる場合には配慮すべきではないでしょうか。人間にはそのために「想像力」があるのであって、決してヒマつぶしに面白いことを思い附くためだけにあるのではないと思いますけどね(笑)。

>>小難しく書けば正当性を主張できると思っているかどうかは知りませんが、いってることが脳内で飛躍しすぎです。リンゴとミカン、どちらが美味しいかと言っているようなものです。

korohitiさんがそうお考えなのは理解しましたが、オレが常々このような書き方をするのは、経験上そのほうが読むときに手間がかかる代わりに多くの人にとってわかりやすく、言葉の意味のズレがないからであって、小難しさでごまかすためではありません。

何の根拠も示さずに印象論でオレの論述姿勢全体をこのように括っておられるので、今後の為にも、オレのほうからもkorohitiさんの論述姿勢に対して言及させていただきますが、korohitiさんとお話をしていて常々思うのは「何度説明しても自説に都合の悪いことは理解しない」「相手の意見を自説に都合の好いように解釈する」ということで、常々申しあげていることですが、その通りであるかないかというのはこの会話を読んでおられる方には「簡単に」わかることです。その意味で、言い張ればよいとか折れなければよいというものではありません。

korohitiさんが最終的に何を理解し、何を理解しなかったか、その読解力がどの程度であるのか、黒猫亭の書き方が拙かったのかkorohitiさんの読み取りが拙かったのか、それはここを読んでいる第三者の方にとっては一目瞭然ですし、korohitiさんが正しいかオレが正しいかをジャッジするのは個々の読み手の方々です。

自分が読み取れたことをkorohitiさんが読み取れなければ、その読者は「ああこの人は相手の書いたことを理解する能力が低いんだな」と判断するし、その逆にオレの書いたことが理解できなければ「ああこの人は自分の考えを表現する能力が低いんだな」と判断するでしょう。その辺については、どちらであろうとオレは基本的に読み手一般の客観的視点を信頼しています。

korohitiさんはオレを批判しているご当人だから、オレが間違っていて自分が正しいと思っているのは当たり前ですが、オレだってこのように書いている以上自分が正しいと思っているのは当たり前で、当事者であるオレとkorohitiさん以外の他人様から客観的に見たらその立場は平等です。

korohitiさんが「自分が正しいのはわかりきっているのに、なんでこいつはわからないんだ」という態度をあらわにされればされるほど、第三者から見た場合にkorohitiさんの姿勢は主観的で恣意的に見えます。要するにそれは他人様から見た場合、「相手だってそう思っているし、他人から見れば二人とも立場は対等だということがこの人にはわからないんだな」という感想になるからです。

それと、今回のやり取りについては、オレが特定の文芸作品に対して自ブログで書いた内容に対するkorohitiさんのご批判への反論という形で書いています。その意味では、普通に会話を楽しむ為にやり取りを交わしているわけではないし、オレが書いた事柄についてkorohitiさんがご質問をして、それにオレが答えているわけでもありません。

オレが書いた内容を「こうである」と決め附けて、それに対して「こうである」と一方的な批判を加えておられるわけですから、元のエントリーを書いた者としてはそれに徹底的に反論し批判の是非を明らかにする責任があります。その上で、納得できるご意見であればそれを容れて自分の考えを改めるし、納得できなければ相手の論旨の矛盾や事実関係の乖離を徹底的に追及します。

これは別段社交上の会話ではなく、自分が自己責任で書いた事柄に対する読み手一般に対する表現責任としての対応ですから、中途半端なところで折れる必要は一切感じていません。したがって、korohitiさんが自説を強硬に通そうとする限り、それに対してはキチンと反論しますから議論は継続します。自ブログで自分の書いたことに関する対話ですから、どれだけ議論が継続してもオレ個人はまったく困りません。

さらに、それによってkorohitiさん個人がどのようなデメリットを蒙ろうとも、それを斟酌するつもりもありません。それはそのようなご批判を加えたkorohitiさんの自己責任の範疇の事柄です。korohitiさんが「面倒だから」とか仰るのはご自由ですが、他人の書いた意見に一方的に批判を加えておいて、「つべこべ言わずに自分の言うことを聞け、こっちだって大変なんだから」という態度が通じるものではないですよ。

また、何というか、korohitiさんは度々「話が通じない」というようなことを仰いますが、それは単に「こっちの言うことが理解出来れば相手は賛同するはず」という無根拠な思い込みでしかないように見受けられますね。オレのほうはそのような意味で「話が通じない」と言っているのではなく、「相手が実際にどんなことを言っているのか理解する気がない」ということです。

たしかに相手の言い分に一切耳をかさずに自分の言いたいことだけを言い募れば、私生活上の口喧嘩では有利ですね、そのうち相手が「うんざり」しますから。その意味でいえばkorohitiさんは多分、その伝で目の前にいるオレ個人を心理的にうんざりさせて言い負かしたいのでしょう。

でも、それは原理的に言って不可能なんですよ。オレは周囲に気を遣って折れることはあっても、個人的な動機としては決して議論にうんざりしませんし、今回の場合は周囲や相手の気分を気遣う必要がないですから。ここがこういうところだということは読者の方も御承知のことと思いますし、面倒だったら読まないと思いますので(笑)。

ネット上での議論を二人だけの間の口喧嘩と同等視しておられる方とは、相互理解を到達点とした議論ができない、無意味だからやらない、それだけのことです。しかし今回の場合のように客観的にどちらの言い分が妥当であるかを第三者に提示する為の議論は可能ですから、決着が着くまで粛々と継続させていただきます。

この場合、korohitiさん個人が納得するかどうかというのは、オレのほうの動機としても目的としても視野に入れていませんので、korohitiさん個人と直接対話しているというつもりも、korohitiさん個人を説得しているつもりもさらさらありません。

korohitiさんのご意見の矛盾点を指摘し、korohitiさんのご意見内部での筋道上の整合性の破綻を指摘させていただいています。その意味で、korohitiさんが「自分を納得させろ」という態度でおられるのであれば、少し生ヌルい気分になりますね。

この場合、オレや第三者の読み手が納得しなければkorohitiさんのご批判が妥当だという話には金輪際ならないわけですから、korohitiさんのご批判が妥当ではないことをオレのほうがkorohitiさん個人に納得させなければならないいわれはありません。

korohitiさんであれ誰であれ、嵩に掛かってガンガン言い募られたら面倒くさいから折れるという程度の気持ちでこのブログを書いているわけでは一切ないので、そこはお含み置きください。

では、続きをどうぞ。

投稿: 黒猫亭 | 2007年5月14日 (月曜日) 午後 11時27分

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