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2007年5月17日 (木曜日)

banbino

主演が爬虫類顔の松本潤ということで事前の段階では切る気マソマソだったが、岡田惠和の脚本と香里奈の出演に釣られて毎週観ているのが「バンビ〜ノ!」である。松潤と劇画原作という取り合わせから「花より男子」のヒットの影響上の企画なのだろうと思わせるが、劇画・マンガ原作ドラマのオーソリティとも言える岡田惠和の脚本なら、まずは保険があるだろうという予想である。

岡田惠和については「めぞん一刻」についてのエントリーで語ったことがあるが、世間的な認識としては今はちゅらさんやイマアイを当てた一流脚本家という認識なのかもしれないが、オレらの世代のドラマ好きの認識としては「先生様」というような偉いヒトには思えない。それはネガティブな意味ではなく、世代的な親近感とでもいうようなものかもしれない。

元々テレ朝のドラマにそれほど勢いがなかった時代に、劇画やマンガ原作のドラマを短期集中的に放映する枠などで活躍した脚本家という印象が強いし、NHKや映画でヒットを放ってそれなりの格式の作家となった今も、以前の経歴が「下積み時代」的に見えない、というか、寧ろそっちのほうが今でも本領だろうと思うからである。

あの当時と比べて、今は劇画・マンガ原作ドラマ自体に対する一般の認識も向上したというか、マーケティング的な算盤が弾ける便利なコンテンツソースと見做されて各局が争って人気作品をドラマ化し、何本もヒット作品が出ているわけだから、岡田惠和の作家的キャリア向上と得意分野のステータス向上が足並みを揃えて釣り合っている現状と言えるかもしれない。

そういう流れの中で宿願であった「めぞん一刻」のドラマ化実現という結果も得られたのだろうし、作業時期は異なるが今春めぞんとバンビという二本の劇画原作ドラマが放映されるというのは、まずは順調な脚本家人生ということだろう。

めぞんについては後ほど更めて別項を立てるとして今は触れないが(笑)、バンビ〜ノ!については、とくに興味の持てるような題材でもないし、松潤の脂っこい顔立ちが苦手なので、冒頭で陳べたように岡田の脚本や脇の出演者に興味を覚えなかったら、まず視聴すらしていなかっただろうと思う。

今季のTVドラマは全般に企画が弱いので、ほぼ主要キャストの人気なりの視聴率傾向になっているのだが、まあ、なんで当たったのか確かなことは誰にも言えない花男のほうがレアケースだったのだから、松潤単独の看板ではプロ大・冗談に次ぐ三番手くらいが妥当な数字だろう。

博多で天狗になっていた若造が東京の一流店で鼻っ柱をへし折られ、艱難辛苦を乗り越えて料理人として成長していくという題材は、お仕事の苦労の話なんか今更そんなに観たくはないという今時のご時世だと観る人を選ぶだろうと思うし、寧ろその意味では山下・織田に次ぐ三番手に附けているというのは、松潤人気がそれなりのパイを獲得しているということではないかと思う。

前作の「ハケンの品格」は、大雑把に括ればスーパーヒロインが職場のイケ好かない上司連中を痛快にぶった斬るという荒唐無稽なファンタジーだったわけだが、このドラマに関しては、半人前の主人公が職場の怖い先輩連中に徹底的にしごき抜かれてもめげずに成長していく姿を追うという、ある意味堅実な成長物語なので、なんとなく世の中間違っとるよな的な不遇感や、体制に対する不信感が蔓延している世相においては、信頼出来る先達にしごかれて成長するという地に足の着いた物語が、かえって絵空事臭く感じられる嫌いはあるかもしれない。

こういうのはやっぱり世の中の気分との兼ね合いなので、たとえばハケンなんかも世の中の社会的満足度の高い時代につくられていたとしたら、「グダグダ不満を言わずに自分が頑張れ」的な論調で斬って棄てられていたかもしれない。そういう社会的満足感の低い世相だからこそ、建前的には「自分が頑張れ」的な能力至上主義を標榜しておきながら、本音のところではスーパーハケンがダメ社員を斬る的な逆転の構図がウケたという形になるのだろう。

生臭いことを言うなら、バンビのようなお話も主人公が下積みで頑張って成長したその先に、バッカナーレのオーナーシェフである宍戸鉄幹のような成功者の、あるいはその兄弟子でありバンビの父親代わりである遠藤進のような職業的達成感の将来像があるから安心して観ていられるわけだが、こういう実力主義の世界ではまだそういう夢物語を語る余地があるんだろうなぁという漠然とした感想を覚えてしまう。

頑張ったら酬われるという社会への信頼感が稀薄な時代には、この種の職業根性物というのは何うしても弱い。たとえば香取のような鬼軍曹的先輩は結構どこの世界にもいるものだが、香取のように実力が伴っているかといえば必ずしもそうではないし、職場の成長物語を成立させる社会性に対する基本的信頼がないから、たとえそういう先輩に態度に見合った実力があっても、単なるイヤな先輩というふうに見られがちである。

また、自己認識としては香取のような有能で厳しい先輩という自己像を抱いていてもハタから視ると単に無能な勘違い野郎という人間は掃いて捨てるほどいるのだから、この種の拳骨で語るような厳しい上下関係に基づく成長物語というのは、今の大部分の職業人にとって他人事であり絵空事である。まあ普通一般の企業で先輩が拳骨で物を教えたら、パワハラだ何だと大事になるというツッコミはともかくとして(笑)。

その意味で、この種の成長物語は職業の本質に迫る理想を描いて視聴者の憧憬をそそるという辺りにキモがあるわけだが、視聴者の気分という問題を離れて言えば、流石に岡田惠和の脚本に危なげはない。

原作からどの程度エピソードが拾われているのかは識らないが、最初にバンビにプロの洗礼を浴びせる香取望はたしかに性格面に問題のあるイヤな先輩だが、料理の世界のメジャーリーグで活躍する実力を具えた一線級の料理人で、そこから盗めるものも多いだろうし、基本的に彼の言うことは正論ばかりなので、「イヤな先輩」という人物像を批判するなら、それは「注意の仕方が悪い」的な甘えにしかならない。

唯一職業人としておかしな言動というのは、鉄幹が命じたブロード作りの作業をイヤガラセで一切指導せずにバンビに一任したことだが、ハナから現物を一口味見しただけでバッカナーレの味を作れるなどと考えていたわけではないはずだから、このイヤガラセは店の営業に直接影響する愚挙となるわけで、バンビが困るだけならまだしも店の営業に影響が出てくる。

実際、バンビがブロードづくりに失敗したことで、作り直す間オーダーに支障が出たわけだから、そんな結果がわかっていながらバンビへのイヤガラセを優先した香取の態度には問題がある。たとえ「作ったことがある」というバンビの言葉が嘘でなかったとしても、半端者の作った物に後からちょっと手を加えれば一流料理店の味になるというものではないはずだから、香取は最初からブロードを一鍋無駄にしてもバンビにイヤガラセがしたかったということになる。

この場合、バンビは作ったことはなくてもオレなら出来るはずだと意気込んでいたわけで、その考えが幾ら自信過剰の未熟さであったとしても、出来るはずがないと思っているくせにわざと一任した香取の態度のほうに余程問題がある。つまり、この場面の香取は店の味のすべてのベースとなるブロードに対する料理人としての責任ではなくバンビへの個人的な反感をとったわけで、それは一人の料理人としてマトモな態度ではない。

だから鉄幹はバンビではなく香取を殴ったのであり、一皿一皿が命懸けの真剣勝負である一流料理人にとって、人間関係の問題で一鍋のブロードとそれを作り直す時間を無駄にしても好い、引いては客に迷惑を掛けても構わないという考え方が許せなかったのだろう。まだまだ半人前のバンビにそれがわからないのは仕方ないとしても、香取ほどの実力の持ち主ならそれを弁えていて然るべきである。

実際、この場面の香取はブロードが台無しになったこと自体は予想の範囲内という態度だったが、鉄幹に殴られた後、バンビがありもしない大言を吐いたことが判明した際には激怒してバンビを殴っている。作れなかったことよりも、作れると嘘を吐いたことのほうが許せなかったわけで、それは本来何うでも好いことである。

マトモな料理人なら、幾らバンビが大丈夫だと豪語しても鍋に触らせもしないくらいのところが本当であって、本人が出来ると言ってるんだから失敗したら嗤ってやろうなどとは考えないものである。苟も自分が関わる調理作業である限り、客の前に出すものに手を触れさせるのは自分が実力を認めた相手だけ、それが普通の一流料理人のプライドというものである。

その意味で決して香取が全面的に正しくてバンビが間違っているという話にはなっていないわけで、香取もまた実力はあっても発展途上の料理人である。鉄幹が香取にバンビを附けたのは、深読みすれば香取を育てる為でもあるわけで、その後幾多の試練に遭ったバンビが困難を克服し香取を見返すことで、香取にも後輩を育てる先輩としての人格的成長があるわけである。

但し、これはやはりプロの料理人を主人公とした成長物語を描く為の方便という性格は否めないわけで、リアルに香取の立場で考えれば、一流店での修業を通じて自分の調理技術を磨くことが第一の目的であって、後進を導く先達としての心構えなど必要ないと言えば必要ない。

以前某著名シェフの回顧録を目にする機会があったのだが、現在大御所と呼ばれるような六〇代の料理人の修業時代には、一流料理店やホテルでは後輩を育てるなどという気風は皆無に近く、自分の味を守る為に肝心な秘訣の部分については下っ端を追い払って調理したり、ソース鍋にわざわざ洗剤をぶち込んでから洗い場に廻す(つまり後輩に味を盗ませない)ようなシェフが多かったようだ。

少し料理に詳しい人なら、料理人が洗い場から出発するのは下げられた皿のソースを舐めて店の味を学ぶ為だという話を聞いたことがあるかもしれないが、少なくとも歴史的な観点から言えばそんな麗しい動機の来歴はない。無限に皿があるわけではないから皿洗いが必要で、それには何も出来ない新米を充てるのが合理的だというだけの実も蓋もない話である。

半世紀前の厨房では先輩は将来のライバルとなる後輩を早めに潰すものであって、教える気のない先輩からは盗むしかないから、根性のある見習いは皿の残飯を舐めてでも先輩の技術を盗んだのである。それに対して鍋に洗剤をぶち込んでまで自分の味を防衛するシェフが多かったというのは、本気で後進を育てるという意識などなかったということで、料理人というのは基本的に一人ひとりが独占的な技術のみを頼る自営業者だということである。

今はそんな前近代的な厨房で苦労した世代のシェフが、その反省に基づいて後進育成を重視するようになったから、一流店でもそれなりにきちんと店の技術を伝承しようという意識はあるようだが、料理人というのは概ね他人の店で修業して何れ一軒の店を持つことを成功像として描いているのだし、そうでなくても包丁一本で世渡りが出来るのはそれを出来る人間が限られているからで、同じようなことが可能な人間が一人でも増えることは死活問題となる。そういう意味でかなり実も蓋もない生臭い渡世ではある。

要するに、料理人というのはスポーツ競技者でもなければ組織人でもない、飽くまで一人の商売人だということである。だから、調理学校のような場所では向こうに技術を教育する義務はあるが、技術や味の個性で独占的な商売が成り立っているような一流店では何も赤の他人の新米にそのような技術を伝承すべき絶対的な必要性はない。これは理美容師など一般的な独立的自営技術職全般に当てはまることである。

オーナーシェフの子弟とか、これと見込んだ後継者にだけ味や技術が伝われば好いのであって、預かった他店の子弟を一人前に仕込むというのは義理人情の問題であって人材育成の問題ではない。

だから、本質的なことを言えばバッカナーレのクチーナで誰もバンビを構わないのは一般的な職場の論理から言えば人材育成の不備なのだが、料理人の世界のリアリティとしてはそれほど間違っていないという言い方は出来る。

つまり、兄弟子から預かったバンビを鍛えるというのは店の都合や料理人の都合ではなく、オーナーシェフの鉄幹の個人的な都合なのである。但し、料理店の人的組織というのは親方の個人的な人望や技術で成り立っているのだから親方個人の都合が絶対であって、それに遵わない料理人は弟子として義理合いが悪いというその程度の話ではある。

昔は商売人同士の間で子弟を預かり合うことで、「他家の釜の飯を喰わせる」という習慣が一般的で、義理のある人から預かった人間でも特別扱いせずに厳しく一人前に育てて帰すのが商売人の仁義だったわけで、現場の人間からすれば親方の義理で仕方なく半人前を使っているわけだから邪魔でしょうがなかったということがある。

その意味で、バンビを邪魔扱いするバッカナーレのクチーナの描写はオーセンティックな商売人の呼吸で描かれているわけで、基本的に組織人としての適性を問われる一般的なサラリーマンの世界とは違う。バンビがへこたれて潰れても誰も困らないわけで、最初から一人前に仕事の出来るヘルプを寄越せというのは、現場の作業者視点では当たり前の人情である。厨房の追い回しとして経験を積んだ出来る人間が来てくれればそれでいいのである。

何となく反射的に、番組当初のバンビを育てるつもりが一切ない先輩連中の姿勢を視ると反感を覚えたりするのだが、商売人の世界のぶっちゃけた本音で言えばあんなもので当たり前なのである。

たしかにクチーナは一つのチームではあるのだが、それぞれのポジションにプライドを持つ一人前の職人が高度な連携を発揮する世界であり、後進育成というのは絶対的に必要な仕組みではない。バッカナーレが凡百の喰い物屋ではなく、東京で随一のイタリアンの名門だという設定ならば尚更のことで、一軍のフィールドに立てるのは一流のプロだけなのである。

普通ならこの店の厨房に立つのは仕事のいろはを学ぶ為ではなく、単なる一人前の料理人が一流の料理人になる為なのだから、半人前に来られても困るという話である。まあ今のところバンビの悪戦苦闘に焦点が当たっている為に、先輩諸氏の一流料理人たる凄みが描かれていないのがちょっと弱いが、基本的な設定がそのようなものであることは見てとれる。

博多で天狗になったバンビがプライドを拉がれるという流れは早々に納めて、シリーズの全体的な構成はバンビに降り掛かる試練を単位として進行しているが、その中でオレが岡田惠和作品らしいなと思ったのは、修業期間を終えたバンビが博多に帰り、料理人として立つ決意を固める第四話である。

このエピソードは全体によく出来た浪花節の呼吸に、世界に一歩を踏み出す男とそれを見送る女のリリシズムが主眼となっていて、甘酸っぱい青春ドラマとしてよく出来ていると思う。たとえばこのお話で博多に帰ったバンビが、結婚前提で同棲している恵理の気持ちを一切慮ることもなく当然のように「東京についてきてくれ」と言い、それに対して恵理が怒り出すという流れは、一見して通り一遍の男の身勝手さを描いているように見える。

しかし、この場合に違うのは、恵理はこれまでバンビのそういう身勝手さを愛していたということである。近頃の男は女に気を遣いすぎる、自分というものがない、そんな軟弱な男たちに比べて、バンビはやりたいことがしっかりあって他人の思惑を気にせずにグイグイ進めていく、そこが好き。

一人の男性視聴者としてそういう女性像に好感を持ったというわけではない。そうではなくて、近年の若い男の柔弱な優しさよりもバンビの身勝手な男っぽさに惹かれていながら、やはり最終的にはそんな身勝手さについていけなかったという流れが、ある種リリカルにリアルだからである。

この年頃の男女って、そういうすれ違いでダメになるんだよなぁ、という甘酸っぱい気分にさせられるのである。すれ違いというのは、バンビと恵理の気持ちがすれ違っているということではない。バンビへの気持ちという感情面の問題と、バンビと上手く折り合って生きていくという現実面の問題、そこが絶対的にすれ違っているから別れてしまうのである。

女のことなど思い遣りもせずに自分の道を突っ走る若い男は、たしかに恵理のような気丈な女にとって眩しい魅力があるのだろうし、そんな魅力に惹かれてしまうという気持ちはよくわかる。しかし、自分ならそんな身勝手な男性性を受け止められると考えていたことが、やっぱりダメだった、耐えられない、若い男女ってこういうことで躓くものなんだよなぁ。

これまでのエピソードで、表面に出てこなかったバンビの母に代わって、東京で試練を受け打ちのめされたバンビが泣きを入れていたのは常に恵理であり、そこで恵理は男を甘やかす母親のような役割を果たしてきた。「辛かったら帰ってこい」といつも言っていたわけだが、バンビは結局、辛さに負けるよりもその向こうにある輝かしい世界に何うしようもなく惹かれてしまった。

いつもいつも自分を許し受け容れてくれる恵理だからこそ、自分の気持ちがこのように変わってしまった今、何の迷いもなくついてきてくれるとバンビが考えたのもある種無理はないのであるが、恵理がそのようにバンビを受け容れていたのは、「博多で結婚して幸福に暮らす」という将来像が前提の話であった。恵理の立場ではそこが絶対的に譲れない線なのである。

そこが好きだったのだからこそ、バンビに対して「身勝手だ」とは言いたくなかっただろうし、「自分のことも考えてくれ」とは言いたくなかったのだろうが、男が身勝手であるということは結局こういうことなのである。自分ならそれを受け止めきれると思っていたのに受け止められなかった、これは切ない。これまで割合「男に便利な女」的に薄く描かれてきた恵理だが、ここでこういう流れに至る呼吸が淀みない。

川縁でそのような衝突があった後、二人の部屋へ気まずく帰るというのも妙にリアルな流れで、たしかに同棲しているといろいろ不便なことはある(笑)。その翌朝恵理は姿を消すわけで、ここでアッサリお別れですかと思っていると、アリガチな展開ではあるがバッカナーレを覗きに上京しているという流れになる。

無論、バンビの縁者だとは一言も言わずに一人の客として入店するわけで、おそらく与那嶺を除いて恵理がバンビの恋人だとは誰も識らない。そのようないつも通りの店の姿を目にして、与那嶺の厚意でクチーナの見学を許された恵理が、戦場のような厨房で忙しく立ち働くバンビの姿を幻視して落涙する一連は、ほとんどセリフらしいセリフもないが非常に説得力のある美しい描写になっている。

博多に戻った恵理はバンビに別れを告げ東京へ送り出すわけだが、恵理の中で何故そのような心情の整理が着いたのかについては、この上京のくだりが充分に語っているわけである。誰もが悟る通り、恵理から視ればトラットリア・バッカナーレはバンビが東京で出逢った新しい女のようなものとして、そのようなアナロジーで語られている。しかしそれは同時に輝かしい男の夢の世界としても描かれていて、そんな夢に魅せられ一直線に突っ走る男が好きな女である以上、恵理はバンビの決意を受け容れざるを得ない。

どんな男が好きなのかということと、どんな男と生きられるかということは絶対的に整合していないのであり、これには男女の違いはない。幾多の経験を経て恋愛の「コツ」のようなものが掴めてくると、共に生きられるような相手を愛するように異性の見方を変えていくものだが、そんな智慧もない無防備な頃の真っ直ぐな恋愛のすれ違いがリリカルに描かれている。

長年コミック原作ドラマを手掛けてきた岡田惠和は、こういう瑞々しいリリシズムを演出することに長けているが、寧ろ原作との不即不離な距離感というか、素材を調理する絶妙な匙加減こそがこの人の技術的なアドバンテージなのかもしれないと思う。

コンビニ本を買って原作を少しだけ覗いてみたところ、原作では恵理の描写がもっと厚くなっていて、バンビの世話女房的な側面がかなり強く描かれているが、ドラマ版のほうは描写の視点をバンビ一本に絞っているので、彼女の内面はこのエピソードでいきなり開示されている。第四話のような大筋の展開を踏まえて、恵理の描写をバンビ周りの視点に抑えているわけで、原作の恵理のように口うるさいお母さん的な部分については思い切って削ぎ落としているわけである。

また、先週分くらいまでの原作を視てみると、ドラマ版は飽くまでバンビの成長一本に焦点を絞って原作の要素を刈り込み、エピソード毎に物語の内容を再配置していることがわかる。さらに、そのコンセプトに合わせて原作のキャラクターを微妙に調整していて、ハマリ役の北村一輝の与那嶺は原作のキャラよりも与那嶺らしいくらいだが(笑)、彼と同格である副料理長の桑原敦は、佐々木蔵之介の柄もあって原作よりは冷淡な手触りの人間として描かれており、佐藤隆太の香取望は原作ほど横暴で暴力的なキャラには描かれていない。

原作だと桑原は割合物のわかった人間で、ドラマ版よりはバンビ寄りの人物として何くれとなく気を配る様子が描かれているが、給仕長の与那嶺が最初からかなりバンビに目を掛けているので、その対比上桑原のバンビに対する態度を冷淡に設定したのだろう。

少しコミカルなイメージのある佐藤隆太をキャスティングした上で香取の描写を甘くしているのは、ちょっと原作通りだと憎々しすぎるからだとは思うのだが、バンビの根性が甘いから苛立つプロの先達というロジックで言うと、原作の香取はかなり行き過ぎた憎まれ役に見えるということもあり、第四話までの進行ペースを考えると一カ月で回収出来る憎まれ役の反感としてはこの程度のものだろう。

そういう意味で、原作のキャラをキャストを立てるダシにもしてないし、キャストを無理矢理原作のキャラの鋳型に填めて描いてもいない。このドラマに関して言えば、原作のドラマ化作品であることは見紛いようはないが、人気アイドル松本潤を主役に迎えた成長物として、とにかく主役に目が行く作劇に徹している。

岡田惠和のコミック原作物は割合淡々と歯切れ良く進行するのが特徴で、粘っこいシナリオの旨味というのをそれほど意識させないが、マンガや劇画の世界を描いたドラマとしてのリアリティレベルの捉え方が絶妙だし、原作のファンもキャストのファンも同時に納得出来るような計算が効いていると思う。その上で、原作のイベントや名ゼリフを上手くアレンジしてシナリオや描き手の個性が剰り煩瑣く自己主張することなく見せ場を演出するのが上手い。

現実論を言えば、コミック原作のTVドラマというのは原作の世界を忠実に再現する為にあるわけではないのだし、大概のコミック原作ドラマというのは、TVドラマというビジネスの現実の範囲内で原作らしくあることが求められている。そのような現実の中で原作とドラマの仲立ちを務めるのが文芸担当の使命だが、そのような観点でこのドラマを視ると岡田惠和のプロフェッショナリティは流石に際立っている。

その一方、岡田惠和のこの作劇のテクニックは、どちらかと言えばテレ朝やCX作品にマッチした性格で、日テレのコミック原作物と言えば「喰いタン2」や「セクシーボイスアンドロボ」のように、原作をドラマの方便として大胆にアレンジし書き手や役者の個性を強烈に打ち出すほうが日テレらしい。

この二作は、原作ファンから視て「何処が喰いタン?」「何処がセクボイ?」という戸惑いを覚えるほどメインビジュアルや設定を大胆に脚色していて、まあ仄かに原作のテイストや真髄を伝えていないこともないくらいの保証がある程度である。それは土九の歴史の積み重ねの中で日テレが獲得してきたコミック原作ドラマ化のノウハウであるわけだが、割合に素材の味を活かそうとする岡田惠和のオーセンティックで繊細な持ち味とは明確な乖離がある。

実際、各局で満遍なく実績を残している岡田惠和も、日テレでの仕事は極端に少ないわけだが、どのような事情があるものか本当のところは識らない。しかし、外から視る分にはそれは自然なことのように思えるし、日テレ「らしい」コミック原作ドラマの路線から言えば岡田惠和のラインは本道ではないという言い方も出来るだろう。

日テレ作品としてはちょっと「らしくない」このドラマは、水一〇の想定視聴層が土九より少し上目であることや、松潤+コミック原作のヒット作である花男が日テレ的な弾けた方法論の作品ではなく割合ストレートな作風だったという先例に配慮したものだと思うのだが、松潤人気とオーセンティックで手堅い作劇がそれなりの満足度を保証して日テレドラマトップの視聴率に結び附いたのだろうと思う。

まあ、オレのように松潤に興味のない男性視聴者から視れば、若手女優では一番贔屓にしている香里奈のちょっと今までにないツンデレ高飛車キャラでの出演や、日テレジェニックというよりはセラムンの愛野美奈子役でお馴染みの小松彩夏が出演している辺りが見どころで、後は若い頃に比べると腰回りの肉附きがめっきりエロくなった内田有紀が女支配人役で出演しているのもちょっと気になるところである。

内田有紀が一世を風靡した時代があったというのは、オレには今でも信じられないくらいで、そもそもドラマデビュー作のボクドラ「その時、ハートは盗まれた」はキムタクの連ドラデビュー作でもあるのだが、シリーズ屈指の低視聴率をマークしたわけで、最初の最初から縁起の悪い女優だったわけである。もっともこの低視聴率は必ずしも内容面の問題というわけではなく、半ば雨傘的に扱われがちなシーズンの放映だったという事情もあったわけだが、ドラマデビュー作の撮影時におたふく風邪に罹って平素の素顔を認識してもらえなかった辺見えみり並に運がないという言い方も出来るだろう(笑)。

まあ今更芸能界復帰しても、すでに顔立ちの被ってる片瀬那奈が一定のステータスを築いているので大きく再ブレイクすることはないと思うが、このドラマでは与那嶺と桑原という一廉の男たちの間で揺れた過去を持つオーナーシェフの娘役という、年齢相応の役柄を演じているのが感慨深い。

一方、小松彩夏の皆川こずえは、誰かのバーターというわけでもないようなので、まあ日テレジェニックという縁でキャスティングされたものだろうが、小松彩夏のフィルモグラフィを識っているとデフォで「根性悪」だろうという先入観で視てしまう。

当初のエピソードでバンビの失敗にクスッと笑う演技も、こちらは正真正銘の根性悪ライバルキャラである妹尾と同程度に根性が悪く見えてしまう辺り、まあこれは小松彩夏を識っているとどうしてもそう視てしまう嫌いはある。第五話で漸く少し出番を貰ってそれなりに名前と顔を前面に出してもらえたわけだが、キャラの性格を考えるとそこまで根性が悪いとかバンビに悪意があるということもないようなので、バンビを笑ったのも大した底意があってのことではないということになるだろう。

原作では割合バンビと打ち解けた仲ということらしいのだが、小松彩夏を識っているとそんな可愛い性格の頑張り屋さんであるようには見えないのは仕方ない(笑)。実際小松彩夏本人もそこまで冷淡で高慢な人柄ではないようなのだが、何うも物事に執着が薄く切り替えの早い人柄らしいのが、淡々と事務的にお仕事をこなしているように見えてしまうのである。

セラムンの打ち上げでも、ヘラヘラ笑ってコメントすると思った小松彩夏がボロボロ泣いていたのが意外だったくらいで(笑)、別に不人情な人ではないようなのだが剰り器用に切り替えが早いと何となく冷淡で事務的な人柄に見えたりするものである。顔立ちがハッキリしていてキツそうに見えるので高慢に見える嫌いはあるし、実際高慢で冷淡で自己中心的な役柄が多かったわけだが、見た目よりはよっぽど普通の人柄なので、今回の役柄でパブリックイメージに幅が出て来るといいのではないかと思う。

香里奈については、好きだからという以外に剰り言うこともない(笑)。ちょっと険のある美少女という「カバチタレ!」時代からのイメージは「僕の歩く道」の演技で払拭されていると思うのだが、今回の日々野あすか役は嘗ての険のある美少女というイメージの延長上にある役柄のように思える。

僕アルの役柄の印象では、寧ろノーブルで大人っぽく優しい表情が強調されていたわけだが、それほど器用にいろいろな役を演じることが出来るというわけでもなさそうなので、ある意味伊藤美咲と似たような位置附けの女優ということになるだろう。つか、オレ基準ではめぞんの響子さんは香里奈だろうという認識になっているので、どうしてもそういう連想が働いちゃうわけだが(笑)。

そういうふうに無理矢理めぞんの話題に繋げようとする辺りがあざといが(笑)、実際のところ今回バンビのネタを採り上げたのは、同じ岡田惠和脚本のコミック原作ドラマということで、めぞん一刻のレビューの前フリを狙ったものだったわけだが、いろいろ事情があってめぞん放映後のアップになってしまっただけだったりする(笑)。

そういう次第なので、次回のエントリーはめぞん一刻のレビューになる予定である。

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コメント

アップ直後に想い出したのでコメントの形にしてしまうが、オレの周囲でもネットでも剰り評判の好くないテロップの挿入については、オレも少し煩瑣いように感じている。岡田惠和作品でこの種の先例と言えば、タッキーの主演でヒットした「アンティーク 〜西洋骨董洋菓子店〜」があるわけだが、ああいう捻ったノリの話ならともかく、割合ストレートでわかりやすい成長物語であるこのドラマで、さらにわかりやすくテロップを入れるのは明らかに諄い。

劇中の要所で芝居を視ればわかるバンビの心理までわかりやすい言葉で表してしまうのが諄いし、シーンが替わるとそのシーンで描かれている内容を括るいわば見出し的な扱いでテロップを入れているわけだが、これが一時間のドラマを幾つかのパートに分割するような効果を生み出していて、若い視聴者にとっては何うかはわからないが、オレのような年寄りから視るとちょっと物足りない感じに見えてしまう。

一時間のドラマは一時間の長さの集中した心理でテンションが持続する部分があると思うのだが、それをパートで割るとテンポが出る替わりにテンションが仕切り直されてしまう弊害が出て来るだろう。

そのシーンを総括するような見出しを立てることによって、一五分なり二〇分なりという短いスパンの個別のドラマとしての性格が強調されてしまうので、折角一時間の尺があるのに、一五分ドラマの寄せ集めのような印象が発生してしまうのである。これはまあ言ってみれば、「トリプルファイター」の一週間分を纏めて観ているような気分になるということである(笑)。

これは今風の気短な視聴姿勢に対する適応の試みなのかもしれないが、個人的には剰り好きではない。ある特定の長さの物語というのは、割れば割るほど一回当たりの満足感は幾何級数的に薄いものとなっていくので、たとえば三時間超くらいの尺の大長編映画をTVで放映する場合、一回で集中放映するのと三夜連続で放映したりするのでは、かなり受け取る印象が違ってくるものである。

普通に一時間ドラマとして観ている分には問題ないのだが、このテロップの使い方はドラマに対する入れ込みや集中をその都度仕切り直してしまう嫌いがあるので、現状では剰りポジティブな効果を醸し出していないのではないかという気がする。この辺は世代によって受け取り方も違うだろうから、剰りドラマを集中して観る習慣のない世代の意見も聞いてみたいところではあるが。

投稿: 黒猫亭 | 2007年5月17日 (木曜日) 午前 06時43分

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