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2007年5月29日 (火曜日)

comming soon

最近珍しく仕事が立て込んで満足に睡眠も摂れない日が続き、大分日が空いてしまったが、約束通り今更「めぞん一刻」を語らせて戴こうと思う。こういう忘れとけばいいような約束だけは律儀に守るのが気の利かないところなんだろうなぁ(笑)。

巷ではつまらないという声も多いが、そもそもめぞん一刻を二時間でやるというからには、こんなモンで当たり前である。はっきり言って、原作でも冒頭数話はありきたりの変人スラップスティックで、ラブコメの構造としても五代の想いが響子に伝わるまでを語っているので、単純な一本道である。

その単純な一本道を、一刻館の変人連中の茶々入れが無意味にややこしくしてているだけで、ミッションが単純なだけにドタバタの面白さが作劇の主眼となっている。厳密に言えば原作で五代の浪人時代を描いているのは全一五巻中の一巻、正確に言えばその半分で、ほんのプロローグというほどのものである。

今回のスペシャルドラマが原作の完全ドラマ化の第一歩である以上、このさほど面白くないプロローグを二時間に纏めるものであるのは当然で、ビジネスとして考えた場合にはそれが最初の関門であると言えるだろう。これが最初から連ドラだったら、間髪を入れずに尻上がりに面白くなるエピソードが続いていくので、中盤から視聴率を盛り返すことも可能だろうが、第一弾がスペシャルドラマという体裁では、まずこれだけで視聴満足を与えることは難しい。

その上、前回「バンビ〜ノ!」を語った際に触れたような岡田惠和の資質で、さらに格別のリスペクトを持つ原作をドラマ化するとなると、理想としては原作がその儘実写になったようなスムーズな一体感が目指されているだろう。岡田惠和「ならではの個性」に基づいて書かれたオリジナルのセリフや原作を逸脱した展開を設けて、めぞんを斬新に「語り直す」ような作法は想定されていないだろう。

今回のスペシャル第一弾が、単体として視た場合にさほど面白いドラマではないというのは、最初の最初から決まっていたことだとすら言えるだろう。では、面白くないのが当たり前のドラマを今後の為の棄て駒として作っただけなのか、今回はその辺のところを視ていきたいと思う。

これまでの言及では少し誤解を招くような表現に傾いた嫌いがあるので予め断っておくが、オレはこのドラマの企画実現に至るまでの作業上の実態として岡田惠和という脚本家が主導的な役割を果たしたというディスクライブに則って語っているわけではない。おそらくありそうなのは、めぞん一刻のドラマ化という企画がプロデュースサイドで持ち上がった際に、文芸面の保険として必然的に岡田惠和の参加が決定されたというようなところではないかと思う。

岡田惠和がめぞんのドラマ化を切望していたということは、ちょっとドラマに詳しい人なら誰でも識っているだろうし、オレ自身は未見ながら代表作の「ちゅらさん」でも明らかにめぞんからインスパイアされた要素が盛り込まれていたと聞く。

そういう意味でテレ朝というTV局がめぞんをドラマ化するのであれば、かねてより附き合いの深い岡田惠和の脚本とセットの企画であることは当然だし、岡田惠和自身に名前で客を呼べるだけのステータスが具わった今なら、「岡田惠和宿願の企画」というストーリーに則ったドラマ化であることは間違いないだろう。

岡田惠和自身、こんな願ってもない企画を古巣のテレ朝から持ち掛けられれば、万難を排して二つ返事で引き受けることは想像に難くない。映像作品の企画というのは水物で一度機会を逃したら当分実現の目はないということは、プロなら誰でも弁えていることである。折角その願ってもない好機が向こうから転がり込んで来たのなら、自分自身のキャリア的にも脂の乗り切っている時期にやり遂げたいと考えるのは自然だろう。

つまり、このドラマはビジネス的な足腰として「めぞんのドラマ化を切望していた岡田惠和が遂に宿願を果たした作品」として実現されなければならないのだし、その意味で岡田惠和に文芸面での最大限のフリーハンドを与えることは企画に織り込み済みだろうというのがオレのディスクライブである。

その一方で、このドラマの実現に至るまでの不可解な紆余曲折の軌跡はドラマファンの間にさまざまな憶測を生むのではないかと思う。オレの識る限りでは、テレ朝というのはCXほど企画面の人材が厚いわけでもないだろうし、新規企画の競合もそれほど苛烈ではないのではないかと認識しているのだが、めぞんほど名前のあるキラーコンテンツをドラマ化するのに放映枠未定のスペシャルとして制作し、まず様子を視るというのは何うもテレ朝にしてはというかテレ朝のくせにというか、とにかく慎重すぎるだろう。

この企画の前後の時期には前回も触れた「花より男子」のヒットもあり、汎世代的に認知度の高い名作コミックスのドラマ化という意味ではめぞんをプッシュする追い風ともなったはずだが、主演の中林大樹が選抜され撮影に入った時期に至っても具体的な放映日時が確定しないという異常な事態が続いた。

公式サイトでも「来春(今春)放映決定」とあるばかりで、一般的に言って注目単発ドラマを「春」に放映するというのであれば、一月季末の調整期、つまり三月末〜四月初旬を予想するのが当たり前である。だとすれば、遅くとも一月季ドラマの後半の時期には放映時期や番組内容の周知に懸かるのが常識なのだが、一月季末どころか四月季のドラマが放映を開始しても公式サイトに「今春放映決定」とあるきりで、TV放送のほうでは殆どアナウンスがないというのが剰りにも異常である。

覚書的に書いた以前の記事を視ると、公式サイト上で放映日時のアナウンスがあったのは漸く一カ月前というところで、それ以前は五月だとも何とも言っていないのだから、本気で未定だったのではないかと踏んでいる。しかも、この五月一二日という日時自体がかなり微妙な設定で、放映直前の一〇日間前後は日本中の人が家を空けて行楽に出ていて禄様TVなど視ない時期である。こんな時期に集中的に番宣を投下しても周知策として万全であるはずなどはない。

プロデューサーは清張悪女三部作の内山聖子PDということになっているが、この人は必ずしも自分の企画を専門にプロデュースする立場の人ではないようだから、元々何処から出た企画なのか相変わらずハッキリしない。最初から連ドラ化出来なかった主な理由については、主演の伊藤美咲のスケジュール面の問題という噂も耳にしているから、局内での扱いの微妙さも含めてプロデュース一般に不備があったという言い方も出来るだろう。

その噂が本当であれば、連ドラ化出来なかったのは局内で制作にゴーが出なかった為ではなく制作実態の問題ということになるわけだが、ならば伊藤美咲本人はNGでも伊藤美咲「クラス」の女優で代替出来なかったのかとか、伊藤美咲のスケジュール重視で放映時期を調整出来なかったのかという疑問も覚える。

だから、伊藤美咲都合ありきでこのような形になったのであれば、「伊藤美咲主演のドラマ化」という想定がマストだったという話になるのだが、スケジュール云々という話があるのだから、それは伊藤美咲のマネジメントサイドと合意のとれた想定ではなかったという話になる。そこまで伊藤美咲に拘ったのは誰なんだ、それは何故なんだという話になるわけで、何れにしてもスッキリ割り切れないものが残る。

めぞん一刻というコンテンツソースにまだ特別な力があると信じるなら、主演女優が誰であるかよりも、連ドラという放映形態がマストのはずである。巧妙なプロットと独特の語り口が魅力だった原作の旨味を最大限に活かすには、一定スパンの続き物という形式は外せないだろう。オレ個人も事前にいろいろ言ったことではあるが、音無響子役を誰が演じるかというのは、実はそれほど重要な要素ではないのである。

めぞんファンの音無響子に対する思い入れのようなものは、別段今で言う二次元コンプレックスのようなものではなく、連載当時もキャスティングごっこのような空想を楽しむ余地はあったわけで、それは要するに個々人の女優に対する思い入れとコミックスのキャラクターに対する思い入れのアマルガムである。

それはつまり、客観的に視た場合の女優の柄とキャラの適不適の問題というよりは、個人的な思い入れの量的な問題ということになるだろう。一般的なファンの立場から言えば、最も思い入れのある女優が最も思い入れのあるキャラを演じてくれることがベストなのである。

そういう意味でいえば、多くのファンが思い入れているこの種のキャラのキャスティングに関して制作側が考慮すべきなのは、客観視点における役者の柄とキャラの柄の適不適と役者のステータスの釣り合いの問題だと言い切ることも出来る。つまり、簡単に言えば誰が演じても不満を覚える人のほうが多いのだから、普通に考えて柄に似合った数字の穫れる一流の役者をキャスティングすればそれで好いと言えるだろう。

その意味で言って伊藤美咲は決して間違ったキャスティングではないが、伊藤美咲個人がマストというわけではない。これが今季ドベの低視聴率ドラマの主演女優である内山理名だったらみんなビックリするだろうが、それなりにドラマとして成立してしまうだろうし、この人は女優としての華はないが潜在的な好感度が高いので、世間の反響としては伊藤美咲の場合と同じようなものだろう。

たとえば二〇年前の劇場版の音無響子が石原真理子だったのも、煎じ詰めれば同じような論理だったのだろうが、まあ客観的に視た場合の適不適に剰りにも乖離があったから大勢としてはミスキャストという判断に落ち着いているのである。何せ公開当時ですら石原真理子のキャスティングを肯定する意見が皆無に近かったのだから、これは誰が視てもミスキャストということだろう。

今回のテレ朝版に関しても、当然ネットでは○○○○のほうがよかったとか××××のほうがいいとかいや□□□□で決まりでしょうというようなキャスティングごっこが再燃しているわけで、原作ファンという括りで言えば伊藤美咲でよかったという意見のほうが少数派で、それは伊藤美咲個人の責任というよりは元々そういうものなのである。

それを逆に言えば、この企画を実現する場合に伊藤美咲という名前はマストの要件ではないはずであり、幾らでも代替の利くファクターだったはずである。以前オレは香里奈でいいじゃん的なことも言ったが、その香里奈は今季は「バンビ〜ノ!」で男勝りの女料理人を演じているのだから、要するに管理人さんと男勝りの女料理人の間で代替が利くと言っているようなものである。そして、男勝りの八百屋の姉ちゃんや怪力自慢の婦警さんを演じた女優が現に管理人さんを演じているのだから、実際に代替が利くのが役者というものなのである。

さらにその戯れ言の想定を敷衍して言えば、もし香里奈が管理人さんを演じる連ドラ版が今季実現していたとしたら、同じ岡田惠和がメインライターを務めるバンビには出演していなかったということであるから、バンビの日々野あすかも誰かが代替していたということだし、バンビの出演が先に決まっていたなら香里奈という選択肢はハナからなかったという話にすぎない。

かえってわかりにくい喩えになったが(笑)、伊藤美咲ありきの企画なら伊藤美咲のスケジュールに沿って放映時期が調整されていただろうし、原作ありきの企画なら伊藤美咲はマストではないのだから、少なくとも「伊藤美咲主演の単発ドラマ」という形に落ち着く理由としてはどちらの想定でも矛盾が出る。

そして、「伊藤美咲でめぞん」というセットの想定というのは個人の思い込みという形でしか成立し得ないのだから、では「連続ドラマ」という客観的なマストの要件を外してまでその思い入れを通した個人とは誰だという話になるのである。

寄り道が長くなったが、これらのことを総合して考えると、冒頭で並べたようなこのドラマの在り方の不可解な部分というのは、外部から視て納得出来るような合理的な理由に基づくものというより、多分に組織内部のヒューマンファクターに由来するものではないかというのが、オレの憶測である。

先ほど少し触れたように、花男のような一度骨の髄までしゃぶられたソースが今現在これほど数字を稼げるということなら、それよりは一般人に認知度の高いめぞん一刻のドラマ化に際しては、客層が一巡する為のインターバルも充分にあるし、局サイドの温度がもう少し高くて然るべきだが、パッと見剰りにも冷淡な扱いなのが奇異であり、有り体に言えば不自然でさえある。

たとえば今季のABC金九枠など「生徒諸君!」という窮めて微妙な素材を扱っているわけで、世間的な認知度の高い学生編をその儘やるのならまだしも、現在連載中の教師編の存在など識っている人のほうが少ないだろう。

このドラマ自体の話は今は避けるが、ABC制作とは言え系列局内でこの種の微妙な題材がいきなり連ドラ化されるくらいなのだから、めぞんほど名前のあるコンテンツをドラマ化するのに一種の様子見期間があるというのは理解出来ない。ぶっつけで連ドラ化して数字が悪かったら打ち切るし良ければ続編を作るという、極々普通の手順で構わないはずである。この原作にその程度の潜在力すらないと視るだけの客観的根拠がない。

これだけ長々と語っておいて拍子抜けの結論ではあるのだが(笑)、これを一言で言うならば、何うやらこのドラマは企画の出方の筋が良くなかったのではないかということである。それが具体的に何ういう意味であるかは、大人の想像力で補完して戴きたい。

大枠の考察に関してはそんなところで留めるとして内容面の話であるが、冒頭で陳べたように、元々原作の第一巻は各話のスラップスティックとキャラ描写で保たせるありきたりのドタバタで、本領が発揮されるのは響子に三鷹が、五代にこずえちゃんが配置され複雑怪奇な三角関係が本格的に形成される第二巻以降からである。

それ以前のエピソードが比較的つまらなく思えるのは、冒頭で触れたように恋愛関係の道筋が五代→響子の単線で、五代の想いが伝わるか伝わらないかという単純な要件しかラブコメ要素がないからである。そうは言っても、結局この長い物語のすべての修飾要素を剥ぎ取った後に残る核心となる関係性というのが、この単純な一本道であることは間違いないわけで、すべての始まりにおいてその核心的な関係性が提示されるのは当たり前である。

この核心が確認された後の、人々の複雑な想いと想いの絡まり合いこそがこの物語を面白くしているのだから、出発点だけを見せられてもこれがめぞんの面白さであるとは言えないわけで、いわばこのパートは普遍的なボーイミーツガールの前提提示である。そして、このドラマの成立過程を考えるなら、最悪この普遍的な前提条件を提示するプロローグ一本だけでドラマが杜絶する畏れもあるわけで、その辺の微妙さ加減が視聴者視点でも温度を下げてしまうわけである。

最低でも大学卒業前後まで描き抜く保証があれば期待値も違うのだが、テレ朝の公式見解としてはこのスペシャル以外は何ういう形で作るとも保証していないのだから、かなりヌルい気持ちになるのも無理はないだろう。

しかし、制作サイドにしてみればこの一本きりで終わるつもりなど毛頭ない前提で番組を設計しているだろうから、めぞん一刻という題材に興味を感じる視聴層に「この先を是非観てみたい」と思わせるようなものとしてこのスペシャルドラマをつくっているはずである。そういう意味では一種の予告編的な扱いになるだろうし、このドラマをどのような設計で見せるのかを提示するものとして機能しているはずである。

原作では第一巻半ばで早々に顔を見せる三鷹とこずえちゃんを思い切って一切絡ませなかったのは、後述するような構成面の狙いの故もあるだろうが、ぶっちゃけ視聴者に気を持たせて続きに期待させる効果を狙った部分もあるだろう。

たしかに今回のスペシャルは単体のドラマとして視ればそれほどの満足度でもなかったが、必ず後が続くという前提で考えるのであれば、めぞん一刻という大長編ラブコメ物語群のプロローグとして、またこの後に続くはずのドラマ群の初回エピソードとして、どのように機能しているのか、どのような仕事が為されているのか、そのような視点は忘れられてはならないだろう。

そして、ドラマを観た後で原作を読み返した場合に驚いてしまうのは、このドラマ版の展開それ自体は「原作通りではない」ということである。剰りにも自然に語られているので原作を圧縮してその儘実写化したような錯覚を覚えるのだが、原作では第一巻半ばでさっさと五代は大学に合格してしまうし、大晦日から初詣にかけてのくだりは原作ではもっと後にある何ということもない小ネタを膨らませたものである。

この辺はバンビのエントリーでも指摘したような岡田惠和の原作の扱いの上手さなのだが、先ほど陳べたようなこのスペシャルドラマの性質に則って、原作の要素を抽出して再配列しているのである。

たとえば、原作の連載中には必ずしも五代と響子が結ばれるという形のハッピーエンドがもたらされる保証はなかったわけだが、今回のドラマ版では冒頭から五代と響子の娘である春香を登場させ、五代の昔語りという枠物語を設けているわけだから、最初の最初から結末を明示しているわけである。

これが原作物でなかったなら、「お父さんが自慢出来るたった一つのことはお母さんと出逢ったこと」というセリフでミスディレクションを設けて、こずえちゃんや八神と結婚させるというヒネリも在り得るが(笑)、まあ原作ではそうなっていないんだからミスディレクションもヘチマもない、そのまんまハッピーエンドの先取りである。

たしかに有名原作ではあるが、附いた離れたが主眼となるラブコメでここまで最初からオチを割っているパターンも珍しい。前回のエントリーでは森迫永依の扱いが見物と予告したが、何のヒネリもなく枠物語を採用するというのも肝の太い話で、犯行予告を送り附けてきた泥棒が普通に玄関からチャイムを鳴らして入ってきたようなものである。

そして、この原作が有名であるということと日本中の殆どの人間が結末を識っているということはイコールではないわけで、連載終了から二〇年も経った現在では、五代と響子の波瀾万丈のドタバタラブコメが結婚出産という大団円で幕を閉じたことを識らない日本人のほうが多いかもしれない。その可能性もある以上、結末を明示しないことには一定の効果がある筈なのだが、それは思い切って棄てているわけである。

つまり、このドラマの制作サイドとしては、この原作の面白さは五代と響子がくっつくか何うかという興味で引っ張るものではないと考えているということだろうし、今更そんな含みを残すのはあざといからやめましょうと考えているということである。

五代と響子は最終的に結婚して子供が生まれます、だけどそれまでには…という紆余曲折のプロセスそれ自体が面白いのだということであり、その結末が割れていても物語の面白さには何ら影響がないということである。

しかし、原作連載中のオレ個人の感覚から言えば、そこまで割り切れるほど五代と響子の関係はステディだったかというと、そうでもなかったような気がする。まさか三鷹と結ばれるという結末はないだろうと思ったが、音無響子というキャラクターと五代裕作というキャラクターは、最終的に結婚という形で結ばれるほどの釣り合いは取れていなかったわけで、双方が納得の行く形で別々の道に踏み出すという結末も五分で在り得るというほどのニュアンスだったのではないかと思う。

勿論それはオレ個人の受け取った印象で、五代と響子のハッピーエンドを堅く信じて疑わなかった読者も多かっただろうし、基本的に原作者の高橋留美子はハッピーエンド志向であるから、それを識っている読者なら失恋の結末など予想だにしなかっただろう。

結果的には、その不釣り合いな印象を払拭して五代が響子に相応しい大人の男性となるまでの成長を語る大河物語となったわけだが、五代が響子を想い続けた年月の大半を通じて、五代裕作は音無響子のシリアスな過去を救済し得るほどの力を持つキャラとしては描かれていなかったわけである。

その宙ぶらりんな距離感を成立させていたのは、実に浪人編のギャグマンガテイストであったとオレは考えていて、原作後半の割合リアルな心情ドラマに比べて浪人編の心情の扱いは「うる星やつら」とさほど変わらない極端に誇張されたものである。

浪人時代の五代裕作というのは、一言で言って「押しの弱い諸星あたる」という形容を大きく出るものではなく、例の「好きじゃー」事件も後年の常識的な性格の五代というよりは諸星あたる的なギャグマンガの住人の行動パターンである。それに対する音無響子というキャラの在り方も「当たりの柔らかいサクラさん」という形容をそれほど出るものではなく、正直、原作をよく識らなかった時期には青年誌でうる星のアナザーワールド物をやっているのかと誤解したくらいである。

何度も陳べているように、この浪人編は五代と響子という基本となる恋愛関係に道筋を附けるものであり、大学時代以降はそこにややこしい複線の恋愛模様が加わって本格的にすれ違いのドタバタラブコメが展開するわけだが、この大基本の関係性の描写が後年の筋立てよりも虚構度の高いリアリティで語られた為に、五代の気持ちに対して響子の本心がどの程度応えているのかという掛け値のないところが読みづらくなっている。

この大基本の部分がギャグマンガのリアリティで提示されていることが、音無響子という女性の非現実的な振る舞いの出発点となっていて、劇中でも度々指摘されているような「ろくにキスもさせない男のことで泣くわわめくわ」という、ちょっとリアリティのない距離感が有耶無耶のうちに成立している。

この辺の有耶無耶さがおそらく女性から視て「気を持たせておきながら言質は与えずにプレッシャーだけはかけるイヤな女」という反感を与えるところだろうし、実際のところ、五代と響子は肉体的に結ばれるまで恋愛関係の間合いに入っているともいないとも明言出来ない曖昧な関係性の儘であった。そういう曖昧な関係だからこそ、二人とも惹かれ合いながら、その上一方が一方に求愛していることが明白な事実でありながら、双方共に普段は別の異性とデートを重ねるという不自然な設定が罷り通るわけである。

連載の後半部が五代の成長物語の性格を獲得していったのは、別段当初からの設計ではないだろうし、成り行き次第の側面が強かったのだろうと思うが、全編を一気に通読した場合には尚更その辺の「ライブ感」のようなものを意識させられるし、その綱渡りのようなスリリングな部分が独特の面白さを醸成していることは間違いない。

では、このドラマ版では何うかというと、「好きじゃー」事件の後に初詣の会話を設けることで、五代が面と向かって告白をやり直したような印象が強まり、五代と響子の二者関係がより強調されている。さらにその「好きじゃー」事件にしてからが、原作ではご近所の皆さんに決然と宣言するというニュアンスで描かれているが、ドラマ版では一刻館にいる響子に向かって直接告白しているような形で描かれている。

言ってみれば、「好きじゃー」と初詣の会話は対になっているわけで、何れも五代の側には響子に対して気持ちを告白するという動機が明確に据えられ、前後不覚に泥酔していたか素面であるかというだけの違いになっている。

この辺が岡田脚本のロジカルな部分なのだが、ドラマ版の原作との最も大きな違いというのは、肝心要の五代と響子の関係性において、ある程度の留保を残しつつも響子が五代の想いに対して一応正面から認識しそれに応えている部分である。

原作の響子は、都合の悪い局面になると五代の想いに気附いていないフリをしたりそれは自分とは関係ないと主張したりするわけで、たしかに原作の冒頭部分の流れでは五代と響子の関係性の規定は窮めて曖昧な扱いになっている。その一方でステディな間柄でもない限り在り得ないようなヤキモチを妬いたり五代を問い詰めたりする辺りがかなり不自然(というか人によっては身勝手さとして映るだろう)だったりするわけだが、その曖昧さが一種片想いラブコメの甘さを演出していたという言い方も出来るだろう。

以前セラムンに絡めて語ったことだが、恋愛というのはとりわけあやふやな片想いのうちが楽しいという側面は否定出来ないだろうし、ステディな恋人関係というのは甘いばかりのものではない。めぞんに限らずこの種のラブコメというのは、ステディな恋人関係の苦さや重さを極力排して、附き合っているともいないとも言える曖昧な状況の甘さを強調するのが定石であり、要するにラブコメ一般というのは恋愛分野における無限留保のモラトリアムを楽しむものである。

その意味で、たとえば「きまぐれオレンジロード」などはその辺の微妙な匙加減を心得ずに確信犯的な二股関係として描いていたからこそ、原作を離れたアニメオリジナル展開のエピローグがあれだけ生々しい陰惨な話になったのだと思う。

普通、こういうふうに二人の女の子の間で揺れる主人公を描く場合、たとえばあだち充の作品なら、どちらとも決められないからどちらとも深い関係になることを留保するというプロセスになるわけだが、この作品の主人公春日恭介は上手く胡麻化して両方と附き合いたいという本質的に外道な性根の持ち主だったからこそ、最終的に誰かを痍附けずには終わらないだろう、終わってはいけないはずであるという客観的な認識があのようなエグいエピローグを導き出したのだろうと思う。

これがめぞんの響子と五代、五代とこずえちゃんの場合は、基本的に五代は響子一筋でその想いそれ自体に揺らぎはない。こずえちゃんとデートを重ねているのは単に優柔不断の故にこずえちゃんの想いを無碍に拒絶出来ないのと、物語のロジックがそれを阻むからで、簡単に言えば状況に流されているだけである。

別段五代は響子とこずえちゃんの両方と上手くやりたいとは考えていないわけで、本筋の響子とはすれ違い続けるのに別段好きでもないこずえちゃんとの関係がとんとん拍子に進むのは、この物語がスラップスティックのロジックで展開するからである。

その一方で響子もまた三鷹瞬というベタベタなイケメンエリート人種とデートを重ねるわけだが、こちらのほうは五代ほど罪のない優柔不断さとは言えないだろう。何う考えても大人の社会人が口説く気マソマソでデートに誘っているのだから、その気がないのであればずるずる誘いに応じるのは罪作りである。この辺は原作でも響子が三鷹のプロポーズに気附かなかったり、もう少し結論を留保させてくれと言い訳させたりしているわけであるが、何うであれ結婚前提で附き合いを続けていることには違いがない。

この辺は学生さんの男女が「デート」するのとまったく意味合いは異なるわけで、ロコツなことを言うなら、肉体関係さえなければ「友人関係」と言い切ってしまえばそれで終わりの話である。恋人関係というのは、互いが互いを恋人と認識し合うというコンセンサスによって成立するのだから、極端な話肉体関係があっても恋人だと思わなければセフレの一言で終わってしまう。この意味でこずえちゃんの想いと五代の想いはまったく噛み合っていないのだから、この二人は恋人関係ではないと断定して差し支えない。

響子と三鷹の間柄も、恋愛関係を経て結婚へという一般的な恋愛結婚のプロセスではない以上恋人関係では在り得ないが、結婚を考えてもいいという関係ではある以上、恋人関係のプロセスを超えて社会的な視点においてもっとシリアスな関係ではあるわけである。そこを留保するというのは、やはり普通に考えて「ずるい」「身勝手」と言われても仕方がないわけで、そういう曖昧な関係が成立するのは、五代と響子という本筋の関係が窮めて曖昧な儘に放置されているからである。

ここで漸くドラマの話に戻るわけだが(笑)、ドラマオリジナルのシーケンスである初詣のくだりが興味深いのは、酩酊した上での告白を素面でやり直させることで、五代の響子に対する想いを響子が認識していることを疑いようのない形で提示していながら、五代の告白に対する響子の回答に曖昧な含みを持たせているからである。

このシーケンスが描かれることで、響子には建前的に五代の想いに気附いていないフリをするということが出来なくなるわけで、それに応えるか何うかはさておき響子の五代に対する態度はすべて建前上五代の想いを認識していることが前提になるわけである。

原作の流れでは、酔いに任せた放言という形でのみ告白が描かれていたからこそ、建前上響子には「あれは酔っていたから」という言い訳の余地があったわけだが、初詣のくだりでは五代が明確に「その相手が僕でなくても」と言葉にして、それをも含めて響子が「はい」と応えているのだから、この上で「あれは冗談です」は通らない。

曖昧な状態の恋愛関係においては「建前」というのは非常に重要な要素で、たとえば原作の響子の言い訳が一応成立するのは、五代の告白に酔余の戯れ言と解釈し得る余地があったからで、勿論普通の神経を持っていればあれが五代の本心であることは疑いようがないわけだが、「泥酔していた」という口実があるから「あれは冗談です」という苦しい「建前」が成立する。

この種の「建前」に則って「五代さんと私は関係ない」「三鷹さんと話していると楽しいだけ」という便利な「建前」が導き出されるわけで、こういう建前のストーリーが一貫的に成立しない限り、一般的に剰り身勝手な振る舞いをするわけにもいかなくなる。殊に響子のように堅苦しい物事の捉え方をする人間にとって、建前というのは非常に重要な言動の拠り所である。

しかし、初詣のくだりで五代が素面で語った告白に正面から向き合った以上、「五代さんと私は関係ない」では通らない。五代が響子を想っていることを響子も知っているという「建前」になるわけで、ここが改変された以上、五代と響子の関係性というのは曖昧な互いの想いの裡だけの問題、つまり取りようによって何うとでも解釈出来る問題として内在するわけではなく客観的な関係性として外在するという建前になるのである。

たとえば響子が五代の想いに気附いていないという建前ならば、響子が三鷹の誘いに応じるのは五代の想いという前提に立脚していないという理屈になるわけで、五代が三鷹と同じように響子を想っていることを響子が認識しているのであれば話は違ってくるという理屈になる。しかし、気附いていないという建前になっているから、三鷹が誘ってきてそれが厭ではない以上、五代より三鷹が好きだというわけではなくとも応じて差し支えないという理屈になるわけである。

客観的に言うとこれはかなり「ずるい」わけで、実質的には響子だって五代の想いに気附いていてわかりやすくヤキモチを妬いたりしているのだから、そんな「本音」は傍目にもバレバレであるが、にも関わらずそんな建前を表に出すのは、やはり五代と三鷹のどちらにするかという心情的な決定を留保しているということである。三鷹の誘いには応じるけれど、それは五代よりも三鷹が好きだからという意味では「ない」という見え方に拘っているわけで、その為にはあくまで響子は五代の想いを真に受けたような素振りをするわけには行かないのである。

だから、響子が五代の想いを識っているという建前が成立するというのは、今後の作劇や音無響子の人物描写において大きな違いになってくる。原作におけるこの部分の曖昧さは、五代と響子という本筋の関係性が果たして成立しているのか否かに纏わる曖昧さとして見えていたわけだが、ドラマ版においてはこの二者関係が本筋であることが比較的明確に提示されているのである。

ただこの場合、響子は「過去の想いに囚われずに新たな恋愛に一歩を踏み出す」ということを約束しているに過ぎず、五代の想いに応えるとは言っていないわけで、その相手が三鷹であろうが五代であろうが一応構わないわけである。

先ほどの理屈で言うなら、五代の想いが前提に織り込まれていながら、結婚を前提にアプローチしてくる三鷹の誘いに乗るということは、五代と三鷹を並べて三鷹のほうを選ぶという意味附けが避けられない。五代の想いは嬉しいけれど、それとこれとは話が別という実も蓋もない話になる(笑)。

この先順当に原作のエピソードを消化していくのであれば、憧れのマドンナを射止めようと奮闘するダメ男のスラップスティックという性格よりも、五代裕作と音無響子の間の恋愛関係の物語というニュアンスがもっと強くなってくるわけである。

五代がこずえちゃんとデートを重ねる意味ももっと重くなってくるし、響子が三鷹の誘いに応じる意味も等分に重くなってくる。五代裕作と音無響子の間の恋愛関係が本筋と捉えられている物語である以上、五代がこずえちゃんに流されることにはより裏切りのニュアンスが強調されてくるし、響子が三鷹の誘いに応じることには五代より三鷹を選ぶという積極的なニュアンスが生じてくる。

響子が五代の想いに気附いていないという建前なら、響子には五代がこずえちゃんと附き合うことに怒る筋合いはないということになるし、実際原作では一貫してそのような建前を貫いていたわけだが、この場合は怒ってもいいわけである。さらに、その変心に怒った上で、五代の気持ちは今やこずえちゃんに移っているのだから、もう自分とは関係ないという建前を主張しても差し支えないということになる。

だとすれば、五代には「五代裕作は音無響子が好きだったが今現在は七尾こずえが好きである」という響子の建前上のストーリーを誤解として払拭する必要が出て来る。この想定において「無関係」を主張するのは時系列上の問題に過ぎず、恋愛関係という性格は過去の時制において外在し続けるわけだから、今更「ただの管理人と住人の関係」には戻りようがないからである。

原作のような響子の態度が成立する為には、過去現在未来に亘って五代と響子の間には恋愛関係のニュアンスはなかったというストーリーが必須だからである。そして、ここを明確化してしまうのであれば、響子が三鷹との附き合いを続けながらも五代とこずえちゃんの関係に嫉妬することにも、女の身勝手という以上にドラマツルギー上の正当性や可愛げの性格が生じてくる。何故なら、今現在は何うあれ、過去にはこの二人の間に恋愛関係のニュアンスや始まりの萌芽がたしかにあったからである。

だとすれば、ドラマ版めぞん一刻の全体像として、儘ならぬすれ違いの故に三鷹との結婚に向けて動く全体的な物語の流れの中で、五代が響子を奪還するというニュアンスが強くなってくるだろう。初詣のくだりを挿入したことがこのような射程における狙いなのであれば、ドラマ版の作劇の設計も見えてくる。

ただまあ、音無響子のキャラクターの基本設定には「途轍もなく鈍い」というのがあるから、初詣のくだりを一旦「自分を励ましてくれただけ」と言わせてチャラにするという選択肢もアリはアリである(笑)。ただ、それは三鷹のプロポーズを誤解した場合と同様に、気附いてしまえば自己保身の建前とは成り得ない。

この場合に重要なのは、客観的に視て何かを識っていて然るべき状況であるか否かという問題なのだから、劇中人物の認識としても読者の認識としても曖昧に胡麻化してお茶を濁した原作と同様の前提には戻れないことだけは事実である。

バンビの場合を視ればわかるが、岡田惠和の原作物の作劇セオリーは、得てして混沌として不分明な原作のコンセプトを明快に一本化して、その明確化されたコンセプトの下に原作の要素をロジカルに再配置するというものである。たとえばバンビの場合なら、バンビの視点から視た業界物的な混沌を抱える原作の世界観を、バンビ主観の成長物語としてタイトに整理するというものである。

その意味で言えば、このめぞんのドラマ化に際してはあくまで基本のウェイトを五代裕作と音無響子の恋愛関係に置き、賑やかなキャラクタードラマとしての混沌を抱える高橋留美子らしい原作の世界観を、リリカルなラブロマンスの呼吸で整理して描くものになるのではないかと予想する。

そのような語り口は、やはり原作のストーリーラインをそれほど大幅に逸脱しない単発ドラマとしては地味な印象は免れないし、このような淡泊な持ち味はやはり連続ドラマの積み重ねあってこそ見応えの印象として立ち上がってくる部分である。この一本きりで立ち消えになってしまうのであれば、これ単体では何う評価しようもないというのが本当のところであり、当然DVDだってそれほど売れるわけはないだろう。

前回のエントリーで触れたように、オレ個人としてはテレ朝基準ならこの程度の数字でも十分に連ドラ化の目はアリだと思うし、この原作なら連ドラ化以外の選択肢は在り得ないと思うのだが、前半で陳べたようにドラマの成立過程自体に不可解な曰くを抱えている以上予断は許さないところである。

まあ、裏にどんな事情があったのかは識らないが、多くの人々が今も少なからず思い入れている原作を扱う以上、つまらん一私企業の都合で半端してんじゃねーよというのが本音のところで、やるならちゃんとやる、やらないなら最初からやるなというのが原作ファンの一致した見解だろう。

本来ならもっと世間的に注目されてもいいはずのこの企画がこのような冷淡な扱われ方をすることには、不可解を通り越してもやもやとした腹立ちを覚えないでもない。有り体に言うなら、岡田脚本の連続ドラマとしての「バンビ〜ノ!」を観るくらいなら同じ土俵でめぞんを観たいと思うのが当たり前で、企画力に厚みのあるCXや日テレならともかく基本的に企画が弱いテレ朝のくせに有名原作を冷遇する辺り、何様のつもりだこの野郎的な不快感を感じないでもない。

作劇的な側面についてはこのくらいにして、後はチマチマと各論を語ってお茶を濁したいと思うのだが、ドラマ版独自の小ネタとしては何故か「予備校の友人の坂本」が妙にフィーチャーされているのが笑った。

こういう具合に七諄い説明的な形容詞を附けて名前を呼ぶのは浦沢脚本の定番だが、この場合は一種のメタになっているわけで、「おまえ、如何にも『友達の坂本』って感じの質問するよなあ」というのは、浦沢調のナンセンスというより、作劇上便利な合いの手を言わされる脇役という何うでも好い扱いの劇中存在を、劇中人物自身がいじっているわけである。

原作の坂本はそれなりにちゃっかりしたところもあって、劇中現実としては便利に五代を利用したり身勝手な都合を圧し附ける場合もあるのだが、作劇というメタ的な視点で言えば坂本という個別の人物の行動原理に基づいて描かれているというより、作劇上の都合で便利に使われているわけである。

高橋留美子的な賑やかなキャラクタードラマの中では、たとえば一刻館の面々や三鷹やこずえちゃんや八神もまた五代や響子に次ぐ準主役的な位置附けになるわけだが、その中にあって坂本という人物は数少ない生え抜きの「脇役」である。何せ連載開始当初は名前すらなく、もっと言えば登場する都度微妙に顔が違っていたり(というか作者が同一人物として認識していた節すらない)といういい加減な扱いをされていたわけで、同一キャラとして名前と顔が確定したのは実は大学入学後の話である。

それでいて全作品を通じた登場頻度はかなりのもので、シチュエーションを成立させるきっかけを作らされたり、心情ドラマのダシにされたり、便利な合いの手を入れさせられたり、徹底的に作劇の都合で便利に使われ続けたキャラである。ここまで作劇に奉仕する為「だけ」に特化して存在する人物というのもこの原作では珍しい。

この徹底した脇役ぶりが目に留まって今回フィーチャーされたものだろうが、五代や一刻館の連中に徹底的にいじり倒された挙げ句、しまいには自分でも「如何にも『友達の坂本』って感じの発言かもしれないけどさ、何うしたんだ?」といじり始める始末で、原作とはまったく別のキャラになっている(笑)。

ドラマ版の坂本は、自分が作劇の都合に奉仕する脇役であることを自覚しているし、周囲がそのような人物として自分を視ていることも自覚しており、それに一種の諦念を抱いているメタ的なキャラとして扱われている。原作の坂本がそのような存在であるのは作劇という上位レベルの視点においてであり、劇中の坂本は自分の生を自分の都合で生きている「フリ」を演じているのだが、ドラマ版の坂本はそのようなフリを演じることすら許されず、物語の語りのレベルにおける自身の在り方を否応なく意識させられる気の毒なキャラなのである。

近年の岡田脚本では、たとえば「アンティーク」やバンビのテロップ使いなど、メタ的な仕掛けに対する色気が垣間見えるが、今回の坂本の扱いもまた、原作ファンの誰一人として思い入れを持たない脇役キャラという口実もあり、メタ的な繰り返しの小ネタとして「便利に」使っていく腹だろう。それによって本来なら「便利に」使われるだけのつまらない小道具である坂本のキャラも逆説的に立ってくるわけで、ちょっとこの仕掛けには岡田惠和の原作愛がほの見えて面白い。

この坂本を演じるのは橋爪功の倅の橋爪遼だが、イケメンというより親父譲りの飄々とした柄がたしかに「如何にも『予備校の友人の坂本』」としか言い様のないキャラで、アテ書きとしか思えないのだが実際のところは何うだろう(笑)。

一方、この物語をドタバタとして視た場合の主人公とすら言える一刻館の面々のキャスティングに関しては、これはもう個々人の好きずきと言っておくのが妥当だろう。五代を演じる中林大樹がズブの素人ということで、脇を固める一刻館関係者は芸達者な曲者俳優が配されているわけで芝居に不安はないのだから、後は原作のキャラとのマッチングを何う受け取るかという問題になる。

最前語ったように、多くの人々が思い入れを持つキャラに関しては大まかな柄の適不適以外に客観的に語り得る要素はないし、その意味では茶々丸のマスターの柳沢慎吾を除けば全般に「間違った」人選は視られないのだから、キャスティングを喋々することはTV番組が提供するお茶の間の話題の範疇の事柄ということになる。

また、五代裕作役に「既製の色が附いていない」まったくの新人を配したコンセプトは図に当たっていると言えるだろうし、予想以上に頑張っているのが好印象である。この原作を最後まで実写化するという想定で言えば、連載開始当初の諸星あたる的なキャラ描写と連載後半の常識的な小市民キャラを整合させるのが難しいと思うが(本人の芝居のスタイルとしても視聴者が共有するパブリックイメージとしても)既製の色が附いていない新人を起用したことで、少々乖離のあるキャラの揺らぎを自然に整合させることが出来るだろう。

中林大樹という個人の柄で言えば、奈良の田舎のソボクな好青年というイメージがあるので、寧ろ今回描かれた浪人時代の五代の「下半身の欲望に正直な妄想キャラ」という弾けた部分をちゃんと演じられるか何うか、ソボクな本人の柄に上手くその描写が乗るか何うかが不安だったのだが、案外それなりに体当たりで芝居をしているので悪くはないだろう。

EDのクレジットで「中林大樹(新人)」と表記されているのが映画的で面白いし、この配役が大々的なオーディションによる企画物であることの目配せでもあるわけだが、めぞん一刻というのはあくまで五代裕作が主人公の物語であるという制作サイドの認識の顕れでもあるだろう。

映画的という繋がりで話題を転じるなら、さすがに劇場映画の監督である本木克英監督の演出だけあって、テレ朝のコミック原作ドラマというよりコメディ映画的な見え方になっているが、結論から先に言うなら、これは剰り効果的ではなかったのではないかと思う。たしかにこの原作にはしっとりした抒情味もあるし、あえて時代設定を原作連載当時に設定してあるのだから、映画的な細やかな時代感の描写も必要だろうが、寧ろ従来的なテレ朝コミック原作ドラマのようなチャカチャカした見え方のほうが好かったのではないかという気がする。

オレの個人的な感触では、コミック原作映画というのは、割合当たりが少ない。劇場映画という表現形式が「コミックスその儘」の見え方を拒否する部分もあるし、まあ尺の問題もあるだろうが、総じてコミック原作映画というのは伝統的に原作とはまた別種の見え方や語り口に拘るものである。映画が映画らしくある為には、コミックス的もしくはアニメ的な見え方や語り口というのは相性が悪いのである。

しかし、今回のドラマは作劇的な印象としては寧ろコミックスのスムーズな実写化という志向があるわけで、このような志向にマッチする見え方というのは、寧ろTVドラマ的な弾けた絵面なのではないかと思う。その意味で、本木演出は品の好い映画らしい見え方ではあるし、演技経験のない中林大樹に演技指導する場面では劇場畑の人材のほうが好適だったとは思うのだが、岡田脚本の淡泊な持ち味との相乗で、何となく引っ懸かりのないツルッとした映像作品に思えてしまう。

それもまあ、松竹でコミック原作のプログラムピクチャーを撮っていた監督なのだから当たり前の話ではあるのだが、小汚い木造アパートを舞台にした騒がしいドタバタコメディなのだから、これを映画的なルックで撮って、映画的な呼吸で繋いで、映画的なリアリティの演出で演じさせると、窮めて地味な映像になってしまうのである。度々引き合いに出すバンビとの比較で言えば、あのくらいシャープでマンガ的に絵面のインパクトを出したほうが、岡田脚本と相性が好いのではないかと思う。

さらに言えば、劇伴を担当する周防義和はあの周防正行監督の従兄で周防監督の作品を数多く手掛けているらしいが、この劇伴のセンスも劇場映画的であると言えるだろうし何となく地味でオフビートなコメディ映画という印象に一役買っている。この劇伴のセンスに相応しい映像作品というのは、寧ろもっとトボケていて語り物としての虚構度が高い劇場映画なのではないかと思う。

そのようなコメディ映画的な全体的印象になっていることは、一種の実直なつくりの良さでもあるわけで一概に悪いとは言えないが、もう少しTV的なわかりやすいハッタリが効いていたほうが見応えがあったのではないかと思う。世間的な評価の多くが「悪くはないけど微妙」という微温的なものなのは、そのような映像作品としての癖のない性格の故もあるのではないだろうか。

オレの仲間内でも「一刻館のセットが小汚すぎて萎える」という意見があったが、そういう意味ではもう少し嘘臭い感じの建て込みでも好かったのではないかと思う。オレが個人的に気になったのは、五代の部屋が本当に六畳間相当の広さにしか見えないところで、一刻館内部のドラマは大部分五代の部屋で展開するのだから、もう少し広めに見せるように嘘を吐いても好かったのではないか、そこまでリアルにすることはなかったのではないかと思った。

マンガやアニメではこの辺は如何様にも嘘が吐けるわけで、原作では風邪で倒れた五代の枕元に一刻館の面々がてんでばらばらに呼んだ医者が何人も鉢合わせするというネタがあったが、ドラマ版の狭い室内ではそんなことは無理だろう。勢い一刻館名物のドタバタも狭いところでコチョコチョ騒いでるような地味な印象になってしまうわけで、ダイナミックなインパクトがない。この辺、実写化する場合に避けられないデメリットではあるのだが、それがその儘顕れている嫌いはあるだろう。

そういう次第で、思い附く儘に小ネタを拾ってみたのだが、やっぱり全体的に微妙な言い方になってしまうのは、無意識に一本のスペシャルドラマとして視てしまうからだろうし、その想定における満足度を尺度に出来を量ってしまうからだろう。

何度も繰り返すのは気が退けるが、今後これが制作続行されるとしても、やはりこの題材を不定期にポツポツ二時間枠でやられたのでは全体的に喰い足りない印象になるのは無理もないので、是非とも連ドラ化を前提に早期の続編実現を果たしてほしいところであるが、テレ朝のほうで未だに何だとも言って来ないのが不安である。

とりあえず、今回はこんなところで。

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コメント

こんにちは、お邪魔致します。

今回のドラマ化は「危ない橋」「火中の栗」と思っていましたが、
とても寛容で好意的な見方をされていらっしゃるので驚きました。
そう酷くはなかったのなら、見れば良かったと少し残念な気持ちです。
かの「動物のお医者さん」も、終わった時の感想は「うん、結構頑張ったね」
だったので、過剰な期待さえしなければ済むことなのかも知れません。

原作と脚本家の事は知りませんでしたが、なるほど「ちゅらさん」の
やたら居心地のよさそうな下宿のルーツは一刻館だったんですね
(「ホームドラマ!」にもそんな雰囲気が)。
そんないきさつがあるなら、是非連ドラで見てみたいところです。
実現の際は告知お待ちしております。
(どうも情報に疎いもので。「セクシーボイスアンドロボ」の
差し替えの顛末も二日後にこちらで知りました……)

それではまた。

投稿: 604 | 2007年6月 1日 (金曜日) 午後 04時39分

どうもです。

今回のドラマ版、本文でも言ってますけど、たしかに微妙な印象ではあるんですよ(笑)。ただ、種々の条件を考え合わせるとあれより面白いものが出来たかと言えば、それも微妙だなという話になるので、今回はその辺について語らせてもらいました。

二時間ドラマとしては何うにも喰い足りない出来ではあるんですが、これが連ドラだったら…と思わせるような旨味もあるんで、早いところ続報が出て欲しいところです。まあオレもテレ朝に関しては観たい番組しか観ていないので、アナウンスに気附くか何うかはわかりませんが、連ドラ化されるようなら当然こちらでもネタにしますので、知り得た限りの事前情報は出すようにして、周知に努めさせていただきます。

投稿: 黒猫亭 | 2007年6月 1日 (金曜日) 午後 07時47分

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