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2007年5月 1日 (火曜日)

DEN-O 14

この感じ、見たことあるよなぁ。

そう、あれ、戦隊の悪の秘密基地(笑)

着ぐるみ怪人の幹部が出番を巡っていがみ合い、傍らで面白がって喧嘩を煽る頭の軽そうなお色気コスプレ女とキレ気味に仲裁に入るマッチョで怖いおねーちゃん、さらにその騒動に割って入って陰険に恫喝する教頭先生のような最高権力者。そうか、デンライナーって組織構造的には武装頭脳軍ボルトとか新帝国ギアとか宇宙海賊バルバンとようけ変わらないものだったのだな(笑)。

常々デンライナー勢には何となく胡散臭い印象を抱いていたのだが、正義の側に立っているだけで見た目が悪の組織なんだからそれもしょうがない。そもそもイマジンが全員元愉快犯の悪党だしなぁ。今更電王を戦隊臭いと言うのも間が抜けているが、道具立て的には戦隊的素材だけで出来ていると言っても過言ではないのだ

一方、イマジンのキャラ造形を視ると、赤=熱血バカ、青=クールなスケコマシ、金=黄=人情家の力持ちときて、今回の紫が子供というのでは、まるっきり戦隊のキャラ類型まんまである。ピンクに相当するイマジンはいないわけだが、良太郎がピンクキャラだろうというネタは措いといて(笑)、ハナが一応特異点の未来人だしいつもの衣裳がモノトーンだから、白=女リーダーという鶴姫方式と視ることも出来る。

つか、要するにTRまんまじゃねーか、畜生、一杯喰わされた

黄色い人が最強自慢の格闘家だとか、紫色した髪の子供というそのまんまのキャラまでいるんだから、半ば意図的にTRのネタを混ぜているとしか思えない。そう言えばデンライナーイカヅチの頭部デザインはギャオスクリソツだが、ギャオスに似ているということはすなはちV−REXにも似ているということで、鉄砲使いが頭の上で操縦するという辺りのイメージは妙な既視感がある。

こういう無秩序なアマルガムの部分を視ると「キミキミ、『混ぜるな危険』という有名なコトワザを識らないのか」と微妙な気分になるが、何というか以前指摘したTRリベンジという性格は、制作側だけが心得ておけばいい部類の隠し味の域を超えているのかもしれない。

そうすると、ウブなキンタロスが電王とイマジンの戦いに気附いた現代人の女カメラマンと恋に落ちて孕ませたり、嘘吐きウラタロスが実は未来の科学でも治癒不能な難病に冒されて明日をも知れぬ命だったり、アンファンテリブルな紫の人は何処ぞの惑星から連れてこられた宇宙人だったりするのだろうか。流石にモモタロスが竜也の役回りということはないだろうから、良太郎とハナがやがて恋愛関係に陥ったり、元々イマジンがいた未来には良太郎と瓜二つの黒幕がいたりするのだろうか。

見た感じ、金田一の中の人がタケるんだったりはしないと思うが、平成ライダーは展開の都合上平気で中の人を変えたりするので油断は出来ない(笑)。いやまあ、その正体は普通に先週の回想に出て来たお姉ちゃんの恋人だろうとは思うが。

ネタ的な話題はこれくらいにして今回のエピソードの話に移ると、流石は金田社長演出回というか、西部警察紛いの派手なクラッシュやバイクアクションの連続で、一体全体どんくらい金が懸かってるんだという印象である。ライブアクションの部分だけならともかく、CG巨大戦のデンライナー四輌連結アクションも派手派手で、一体のイマジンから何故か二体もギガンテスが発生するサービスぶりで盛り上げる。

オウルイマジンの属性を考えれば、設定上明らかにギガンテスハデスが出て来る必然性はないのだが、イカヅチの四輌連結グランパニッシャー(笑)を引き立てる目的で敢えて長大な形態のハデスを持ち出して蛇体対決を仕組んだものだろう。

そういう次第で、特撮ヒーローアクションの醍醐味の部分は従来最強とさえ言えるかもしれないが、ドラマ部分にはさしたる実もないという印象である。まあ、いろいろなところで言われていることだが、公園の管理人が犬猫に餌を与えるというのはリアルに考えてはいけない記号的な設定ということだろうし、そもそも今時の都市部で飼い主のいない野犬が野放しで公園を彷徨いているはずがない。猫はともかく犬は完全に登録制なのだから、首輪もリードも附いていない犬が公園にいたら、まず保健所に通報されることは必至だろう。

今時のドラマで「子供が親にナイショで小犬を飼う」という筋立てが流行らなくなったのは、都市部に野犬が存在しないからである。北京五輪を前にした中国政府が大々的な犬狩り(野犬狩りではない)を実施して数千頭の犬が撲殺されたというショッキングなニュースも記憶に新しいが、やはり犬は野放しにすると公衆衛生や治安の観点でかなり怖い動物なので、人間が繁殖管理を徹底するしかないのである。

犬だけではなく猫だって、棲息密度が高くなると無秩序な繁殖や伝染病の問題が出て来るわけで、唾液感染する致死的なウィルス病も多く、食後に食器を洗ったくらいでは完全に予防出来ない。リアルに考えるなら、全頭不妊処置を施して毎年複合ワクチンを接種するのかという話にもなるわけで、そういうことを実際にやっている人もいるが、当然相応の金が懸かるから結構ややこしく生臭い話にもなる。

この辺、飼育動物の現状に関心があるとサラッと流すには抵抗があるが、初めから嘘事なのだから過剰に気にしても仕方ない。最初から在り得ない設定なのだから、「この世界の生きとし生ける命を守る為!」と見得を切ると、何処からともなく突然犬猫や兎が湧いて出るような一種の戦隊的ファンタジーとして視るしかないだろう。

管理人を演じるうえだ峻という役者も、従来の平成ライダー的なリアリティでは出る幕のない虚構的な雰囲気を持った人材なのだから、うえだ峻が存在し得るような作品世界のリアリティの下に、戦隊的にディフォルメされた愛他心礼賛の表現として視るべきではないかと思う。

そもそもこういう題材が選ばれたのも、アモラルで無邪気で動物好きというリュウタロスの幼児性を表現する為の方便という嫌いは否めず、ゲストキャラのドラマは完全に道具立てに過ぎない扱いである。今回の前後編は完全にリュウタロスの初登場を主眼に据えていて、ゲストキャラのエピソードは刺身のツマ的なウェイトであり、小犬が助かってよかったねというだけの落とし所になっている。

この辺に関しては敢えて価値判断を下すような話ではなく、ダンサーズとのいざこざは少年との再会やイマジンに附け込まれるきっかけという程度の話として視ておくのが相応だろう。

そうすると、イマジンの暗躍を阻止することでドラマ的にどんな結末が得られたかというと、死ぬはずだった小犬が助かったという即物的な結果でしかなく、リュウタロスがそれに強い関心を持つというキャラ描写の範疇の意味しかないわけである。

その意味で、白倉Pが公式サイトで言っているような内容は、今回の話に関しては当てはまらない。いつも以上にゲストキャラのエピソードはそれに接するデンライナーサイドのドラマを描く為の口実に過ぎない。

先週の前フリから考えると、リュウタロスの憑依の仕方がこれまでの三体のイマジンたちとは若干違うし、姉ちゃんのほうは催眠術で何かを想い出したようなので、この後編は良太郎姉弟の出自に絡む重要な設定話になるのかと思いきや、姉ちゃんは催眠状態の間の記憶をスカッと忘れているし、リュウタのほうはカメタロスと同時に憑依して周囲を欺いていたというだけという単純な話なのが拍子抜けである。

先週のエピソードでは、デンライナー車中でリュウタロスの話題が出る度に意味ありげにほくそ笑むナオミのヌキが挟まれていたので、てっきりリュウタロスとナオミの間に何か関係があるかと思ったのだが、今回の後編ではそんなことはまったくなかったのでこっちのほうも空振りである。まあ、ナオミに何か仕掛けがあることは、秋山莉奈自身が思わせぶりに赤いエクステの件に触れているから間違いないところだが、とりあえず今のところその話を拡げるつもりはないようである。

ただ、姉を迎えに行った良太郎が、振り向いた姉のいつも通りの表情を視て緊張を解いているところを視ると、その記憶を取り戻すことで姉弟の関係に重大な変化があるような因縁であるように思われ、少しだけ縦糸の要素が仄めかされたとは言えるだろう。

まあ普通に考えるなら、良太郎と関係して愛理の恋人が死んでしまったとか行方不明になってしまったとかで、愛理が良太郎を憎んでいるとか、そんなような話なのではないかと思うが、それだとちょっと現状の世界観では重すぎるような気もしないではない。

記憶を取り戻した途端に弟に対する憎しみから豹変する姉という筋書きは、これまでの平成ライダーなら幾らでもありそうな展開だが、現状の電王の世界観でそういう重苦しい鬱な愛憎の葛藤を展開されるのはちょっとかなわない。

そういう目で視ると愛理の良太郎に対する過保護な態度も何かしらの伏線ではないかという気がしてくるが、イマジンが遡行した過去の世界にしか登場しない金田一が愛理と同じ鉄道時計(静止画で確認したので間違いない)を持っている以上は、愛理との間に何かしらの因縁がある人物だろうし、良太郎が黙して語らない姉弟の過去にシリーズの縦糸の仕込みがあるというのは間違いないところだろう。

まさかとは思うが、孤独な姉弟が昔やらかしてしまった何らかの過ちの為にすべての事件が起こったという、既視感溢れる大オチだけは断固として勘弁していただきたいところではある。

まあ、この番組の謎は良太郎姉弟の過去だけに限ったことではなく、寧ろ肝心なことは何も説明しない儘ワンクール話を進めているくらいなので、そこまで単純な話にはならないとは思うが、イヤなところで過去作のリベンジを仕組まないとも限らないので油断ならないところである(笑)。

そもそもこのお姉さん、天然ボケで清楚寄りの井上喜久子的なキャラクターなのに、カウンターから出てくるとスカート丈が極端に短いのが怪しすぎる

ちなみにオレは懐中時計に一時凝ったこともあるので、鉄道時計の話に少々寄り道させていただくと(そこの君、「またかよ」という顔をしないようにな)、日本で鉄道時計と言えばイメージ的にはハミルトンの992やウォルサムのバンガード、リバーサイド辺りのアメリカ製の機械式公認鉄道時計が有名だが、この番組で使われているのはセイコー社の現行製品である。

ハミルトンやウォルサムの名品は当然アンティーク前提なわけだが、石数の多いレイルロードアプルーブメントの美品ということになると数十万円以上の高値で取引されていて、とても庶民に手の届くものではない。オレが持っているのはイリノイという比較的マイナーなブランドの銀無垢ハンターで、機械の出来や石数の割には安かったが、それでもオレのような貧乏人から見れば結構なお値段であった。

これが高寺Pの作品だったら、数十万円のウォルサムリバーサイドを美術費で購入したり撮影用に借り受けて腫れ物でも触るみたいに扱っていたのだろうが(笑)、ひょっとしてアリモンの小道具かもしれない定価二万円の新品のクォーツ製品を使っている辺りが白倉作品らしい経済感覚である。断言してもいいが、愛理の時計と金田一の時計はまったく同じもので、現品は一個しかないはずである(笑)。

まあどうせ劇中設定としても、お姉さんの恋人が買ったということになっているのだろうから桁外れの高級品である必要などはないし、劇中の鉄道時計がアンティークの高級品か安物のクォーツかなど気にして観ている視聴者なんかいないだろう。実際、今時のセイコー製品で定価が二万円台ならそれほど悪い製品ではないし、クォーツだろうが機械式だろうが、外から内部構造が見えるわけでもないので視覚的な意味などはない。

まあ、こういうところに岡山から空輸で黍団子を取り寄せるPとそうでないPの違いというのが出るんだろうとちょっと思った次第である(笑)。

閑話休題、今回のエピソードの話題に戻るなら、たしかに今回の話は偶々白倉Pが語るような「『過去・今・未来』の3点測量を通じて『人の今』を描く」というコンセプトの好例となるような性質のものではなかったが、この認識自体は小林靖子の時間物に関する一般論として正しいだろう。

番組公式サイトで自分のブログで語るような内容を語り出したのが面白いので、この続きも是非語ってもらいたいところだが、今回のエピソードに絡めて語り出すから語り起こしに無理が出て詭弁臭く見えるんだよなぁ、相変わらず間の悪い人だねぇ、と思ったことは事実である。

ここで言わんとしているのは、今回のエピソードで初めて一〇年という遠い過去に飛んだのは、管理人自身の悔恨を解消するのがエピソードの落とし所ではなく、彼が想い描くような状況をもたらす為には、未来の若者である少年たちに対して大人が何かを働き掛ける必要があるのではないかということ、つまり、次代育成の教育問題が語られているということだろう。

しかしまあ、今回の話では現状のダンサーズの何が課題なのかわかりやすい形で提示されていないのだから、過去に遡って少年に何かを働き掛けたところで、だから何う違うという落とし所が用意されているわけでもないし、コロが生き延びたことで現状がどのように変わったという結果も描かれていない。

これまでの通例では、歴史改変の結果現状が何う変わったかを描いている例のほうが少ないのだから、それは今回に限った話ではないのだが、視聴者に結末を類推させるには予め現状の課題を明確に提示する必要がある。つまり、明確にダンサーズたちを公園の平穏を乱すワルモノとして描く必要があったのだが、そこの筋道を具体的に提示しているわけではないのだから、そもそもコロが死んだからレージがグレたという話ですらないわけである。

ブレイクダンスに興じるイマドキの普通の若者が、子供時代に遭遇したちょっと哀しい想い出、という以上の意味はない。ダンサーズがアカラサマにワルモノ集団だったのであれば、コロの死のトラウマで剰り好ましくない道に進んだという意味附けになるのだろうが、現状のダンサーズはちょっとお年寄りに優しくないというだけで何処もワルモノではないのだから、グレて道を誤ったからではなく、単にブレイクダンスが好きだから参加しているだけである。

ならば、ダンサーズに加わっていることとコロの死に因果関係はないのだから、コロの命が救われたとしても、相変わらずレージは公園の芝生でブレイクダンスを踊っているはずである。そして、今回の話はそれで別段何処かおかしいという話にはなっていないわけで、リュウタロスのキャラを提示するのに便利だからそういう話になったというだけのことである。

この辺の機微を批判的に語るなら、何うも小林靖子には不良や粗暴な人間一般に対して妙な偏見があるのではないかということがある。たとえば第一話に登場したカツアゲ集団のシャレにならない犯罪者的な描き方を手始めに、キンタロス編の空手部員が素人の良太郎やハナを集団リンチ紛いのしごきにかけたり、今回のダンサーズがお年寄りに口答えをして言うことを聞かなかったことを以て悪役的な描写として充分だと考えたり、暴力的な雰囲気を匂わせる集団一般に対して、そういう人間だから悪い的な偏見があるように見える。

明朗ムードという印象のある電王だが、そういう意味では人間のワルモノが妙にいやげに描かれていて生の形の暴力が頻出するのが特徴と言えば特徴で、本気でこういう連中が嫌いなんだろうなぁというのが描写から滲み出ている。また、東映のガヤの人は常日頃そういう役柄ばかり演じているので、いやげで暴力的に描くとホントに凶悪な人々にしか見えない辺りがちょっと過剰な相乗効果となっている。

まあ子供番組で育った女性脚本家だし、本音を言えばイマドキのチャラい不良や汗臭い体育会系は嫌いなんだろうからその辺はしょうがないところだろう。そうは言っても、今回のダンサーズたちに関しては、イケ好かないワルとして描こうと思ったのかそうではないのかがイマイチわかりにくい嫌いはある。

管理人の餌付け行為の是非を棚に上げて考えれば、ダンサーズたちの何がいけないのかと言えば、管理人が餌を遣っている側でドタバタ騒いで動物を驚かしたというだけの話である。犬や猫を暴力で追い散らしたわけでもないし、管理人を押し退けはしたがぶん殴ったというわけでもない、管理人がそこで餌を遣っていたのは管理人の勝手だと言えばその通りである。

心優しい管理人の爺さんが公園を「動物たちが安心して住める場所にしたい」と考えるのは自由だが、そもそも公園というのはそういう性格の場所ではない。付近に住む住民が伸び伸びと遊ぶ為に設置された公共スペースの緑地であって、冷たい言い方だが飼育放棄された動物たちを養う為にある場所では決してないし、爺さんの仕事は人間の利用者の利便を図ることである。他の利用者に配慮して利用している人間を一存で追っ払う筋合いなどこの爺さんにはないだろう。

そうだとすれば、この場合問題となるのは自分たちの行為で動物たちが驚いて逃げたのに、それをちっとも気にしなかった心根の問題であるという甚だ微妙な話になる。つまり、ダンサーズたちは別にワルモノではないけれど、自分たちのせいで犬猫が驚いたのを可哀想に思うほど心優しい人間ではないし、相手がお年寄りでも納得出来ないイチャモンを附けられたらハイそうですかと言うことを聞くほど素直ではないというだけの話である。

これが動物公園だ野鳥のサンクチュアリだというのであれば、それは疑問の余地なく嘆かわしいことで、たとえば七〇年代のドラマによく出て来る「山奥で大音量でロックを流してゴーゴーダンスに興じるヒッピーたち」のようなイメージになるが、人間が遊ぶ為に開放されている場所で、他の人間に迷惑が懸からないように遊んでいるのに、自分の道楽で動物に餌を遣っている爺さんの都合で咎められたら、誰だってこのくらいの文句は言うだろう。

この辺のことを適当に取り纏めて言うなら、そこがブレイクダンスの練習に好適だろうが爺さんの言い分が理不尽だろうが、動物が驚いたことは可哀想だし年寄りに注意されたら素直に聞いてやるのが最善だという話である。まあその程度の話であって、そういういい子に育つ為には、小さい頃からの教育が肝心だねという甚だ微妙な話である。

さらにその背景には、ブレイクダンスを踊るよりも小鳥や動物と親しむほうが真っ当な遊び方だろうという余計なお世話様な認識があるわけだが、劇中で描かれたような年齢になっても、ダンスやスポーツより小鳥や野良の犬猫と戯れているほうが楽しいようなら、そっちのほうがよほど変わり者である。

要するに、今回のゲストキャラのお話は徹頭徹尾重要性の薄い絵空事なのだし、戦隊的なヌルいリアリティで「動物を可愛がろう」「お年寄りを敬おう」的な何うでも好い一般論を語っているだけで、お話の主眼は何う考えてもリュウタロスのアンファンテリブル的なイビツなキャラ描写のほうである。

さらに、リュウタロスやR良太郎のキャラ描写の合間に、それとなく縦糸に絡む伏線を忍ばせるという辺りが今回の前後編の主要な目的だろうから、言ってみればゲストキャラサイドの物語性の重要度が従来よりよほど低い。寧ろ、曖昧で何うでも好い一般論の話だから、ゲストキャラの現状に直結するような近過去のトラウマを語るより一〇年前の哀しい想い出を語るほうが作劇上後腐れがないというだけの話である。

白倉Pが語るような論を起こすには今回のエピソードは例として向いていないし、その筋道で今回のエピソードを評価するなら、単に失敗した作劇ということになってしまうだろう。

何度も語っていることだが、こういうルーティン構造のシリーズだからと言って、必ずゲストキャラの話とデンライナーサイドの話を均等に描いて双方にバランスを取らなければならないということではない。現状のシリーズは明らかにデンライナーサイドのほうにウェイトが懸かっていて、ゲストキャラの話は素描程度の触れ方になっている。

ゲストキャラの物語を各話のエピソード構造の中核に置いて、その物語上の課題に対して主人公が助力することで解決がもたらされるというスタイルのシリーズ構造を採用していないわけである。飽くまでイマジンの暗躍を阻止するデンライナーサイドの物語において次々と巻き起こる新展開の珍騒動を中核に据え、その過程でイマジンの被害者の背景についても相応に触れるというバランスでゲストキャラの物語が語られている。

電王よりもう少し一話完結性が強いシリーズ、たとえば「地獄少女」や「しにがみのバラッド。」辺りなら、ゲストキャラの読み切りエピソードが前面に出てそこに主人公サイドが絡んでオチを附けるというバランスのシリーズになるが、その場合主人公サイドの展開は固定されていて、それが動くのはシリーズを終わらせる為である。

その意味で、平成ライダーのように主人公サイドに起こる展開の起伏で保たせる構造のシリーズでは、完全な一話完結の形式でゲストキャラの物語を語る説話構造には出来ないだろう。その種のドラマと比較してみれば、電王の場合、描写の絶対量自体さほどゲストキャラに割合を割いていないということがわかるはずである。

白倉Pが公式サイトで言っているようなことは、電王に関する一般論としては間違ってはいないのだが、跳躍先の日時のデータテーブルから説き起こすという思い附きに拘っているから、一〇年過去に飛んだ今回のエピソードに特別な意味性を付与する必要が出て来るのであって、それは要するに思い附きは面白かったけどそのテーブルと語るべき内容のマッチングが悪いということである。

オレは単なる野次馬だから言えるけれど、番組のPDが「ゲストキャラの話が何うでもよくて作劇上後腐れがないから一〇年昔の話になっているわけです」とは言えるものではないだろう(笑)。言えないことを言わねばならなくなるような思い附きは棄てるのが一番なのに、無理矢理こじつけるから嘘臭い詭弁に聞こえるのである。

では、白倉Pは単に今思い附いたからその気の利いた思い附きをみんなに聞いてほしくてそういう話を始めちゃった粗忽な人なのだろうか。オレはそうではないと思う。

白倉Pが語りそうなことを類推した上で、その先にあるべき語りそうもないことを語るなら、電王というシリーズは、たとえばデンライナーサイドのキャラの働き掛けで解決されたゲストキャラの物語それ自体を語る物語ではなく、その物語に接して良太郎やハナやイマジンたちが何を考え何を語り何う動くかを語る構造の物語である。

だから後編のエピローグで良太郎たちがゲストキャラの過去へ働き掛けた行為の結果は直接描かれないことが多いのだし、有り体に言えばそれほどのウェイトは置かれていないのである。そのような構造が決定的に自己認識化されたのは、おそらく第五話からのウラタロス編ではないかと思う。

最初期のモモタロス編では、良太郎の過去への働き掛けでゲストキャラの現在が救済されるというエピソード構造の可能性が探られていたが、ウラタロス編では結局過去への拘りを持つゲストキャラに対して現在の時点において良太郎たちが関わることで物語的な救済がもたらされており、過去へ飛ぶのは単にイマジンを倒してその計画を阻止するだけの目的である。

第八話に至っては、良太郎が苦心惨憺して現在に持ち帰ったペンダントはゲストキャラに意識されることすらなく、現在の時制におけるすったもんだの大騒動の結果、彼らの自助努力によって勝手に解決がもたらされる。勿論、その解決に場と機会を提供したのは良太郎やハナなのだが、物語に解決をもたらすオールマイティな超人として働き掛けた結果そうなったわけでは決してなく、物語という大枠の力学によってキャラが右往左往させられた結果としてそうなったというだけである。

つまり、電王の物語においては、良太郎やハナやイマジンたちはゲストキャラの物語に救済をもたらす為の物語装置ではなく、彼ら自身が前面で物語を演じる主体として位置附けられているのである。

続く第九、一〇話のキンタロス編では、最早ゲストキャラの物語はハナとキンタロスの間にドラマ的衝突をつくる為の口実となっていて、ゲストキャラの物語自体は過去に飛んで決戦を戦う以前に解決をみている。この割り切りに辿り着くまでに書き手のほうも探り探り書いていた部分はあるのかとも思うが、それが上手い具合に良太郎やハナ自身の認識の変遷とシンクロして、設定提示編のスリリングな面白さになっているだろう。

この前後編に続く米村脚本回に違和感があるのは、要するにそこの認識が共有されていないからであって、タイムパラドックスを持ち出して「変」の一言で片附けたことそれ自体よりも、キンタロスの過去への働き掛けで現在の問題を解決するというすでに棄てられた方向性で、ゲストキャラが前面に出るようなオーソドックスな一話完結形式のエピソードを構築しているから違和感があったのである。

まあ、前々から言っていることだが、小林靖子がシリーズ構成をやる特撮番組では全話小林靖子が書くしか統一性を図ることは出来ないわけで、セラムンの頃から比べるとアニメで他のライターに指示して書かせた経験もあるわけだが、電王では他人の台打ちにまで参加しているわけではないようだから、その種の微妙な認識上の変遷まで米村に伝わっていたとは思えない。初期の設定要素から考えれば第一一、一二話のような話になるのは当たり前なのだから、一概に米村を責めるのも筋違いだろう。

そこの橋渡しをするのが白倉Pの仕事であるわけだが、散々語ってきた通り白倉Pは意外とこの種の明文化されない語り口のデリカシーに対するリテラシーが低い(笑)ので、多分未だに米村には伝わっていないのではないかという気がする。まあ先日の米村脚本がどの時点で書かれたのかにもよることだが、小林靖子が劇場版に行くタイミングで間を置かずに米村に継投ということになれば、そこでまたシリーズの方向性が変わってしまう可能性もある。

劇場映画の脚本を手掛けるのは、このジャンルのホン書きとしてはキャリア上かなり有利なのだろうし、要するに脚本家が映画デビューするか何うかというのは、過去の実績を持たない書き手を登用する興行リスクを誰が負担してくれるかという問題になる。リスクを回避したいなら、何でもかんでもすでに実績のある井上敏樹に書かせるのがプロデュースサイドとしても楽なはずである。

不振な頃の邦画界で、なんでもかんでも市川崑や深作欣次が監督していたのは、要するにその種の興行リスク負担の問題である。金を集める際に看板となる監督、企画を通しやすくなる監督、万一興行が失敗した場合にも金主が納得出来る監督、それが過去に実績を持つ監督であるのは当たり前である。聞いたこともない人間を登用して企画を通し金を集める困難や、興行失敗のリスクを担保する困難を考えれば、すでに実績のある人間が重用されるのも自然である。人材育成上の問題は、誰が一番最初にそんな困難を冒して実績のない人間を登用するのかということなのである。

その意味で言えば、昨年の米村正二に続いて今年も小林靖子に劇場版を書かせようという判断自体は人材育成面で大変結構な志しなのでケチを附ける気にはなれないが、シーズンビジネスのスケジュール面の都合でTVシリーズのほうに大きな影響が出るのが毎年考え物ではある。

たしかに時間をかけて練り込んだ小林脚本で長尺の物語を観てみたいという興味はあるが、最低限主要なキャラが出揃った段階でゲストライターが交替で穴を埋める形になると、昨年のカブトのようにシリーズ全体の方向性がワヤになる危険性もある。殊に小林靖子は剰り筆が早いほうではないようなので、かなり長期間不在となる可能性も高い。その分、何稿も叩いて揉むほどのフレキシビリティもないから、昨年よりちょっと早いくらいではないかと踏んでいるのだが、懸念材料であることは間違いないだろう。

まあそうは言っても、一応現段階で主要四フォームが出揃ったことでデンライナーサイドの展開を一時フィックスすることも可能なのだから、そこからゲストライターのローテを廻して正統的な一話完結形式の構成に移行することもさほど不自然ではないわけである。これまでのシリーズ構成では各イマジン二話×二回宛の配分できているので、四体分で一六話となり第二クールに喰い込む形となったが、一年五〇話の番組なのだから厳密にクールで区切る必要もない。

設定提示編から各話編に移行するという意味では、ここで剰り下手を打たなければ多少の逸脱は小林靖子が拾って整合を附けると思うが、おそらく公式サイトの白倉Pの書き込みはその意味で重要になってくるのではないかと思う。

希望的観測にはなるが、論の持って行き方がちょっと変だとは言え、小林靖子の時間物に対する基本認識としては正しいという部分に、最低限のシリーズ構成上の保証があるのかなと思いたいところである。だとすれば、敢えてこの時点でわざわざ公式サイトでこんなことを言い出したのは、小林靖子の不在の間はちゃんと自分が舵取りをしていきますよという暗黙の意志表示ととれなくもない。

まあ、いろいろなところでちょっと勘の鈍いところがある人なのでぶっちゃけ頼りない気はするのだが(笑)、現状で確立されている電王の物語が、先日の米村脚本回のように過去への干渉によって現在を救済する物語では「ない」という部分さえ押さえていてくれれば、多少の違和感は各話編としての振れ幅の範疇かなと思う。

昨年の米村正二とは違って、小林靖子は他人のノリにそれほど影響されたりキャラ認識がフラフラ動くような書き手ではないので、今後代打で米村や井上が投入されるとしても、縦糸の設定要素さえ動かさなければ、その振れ幅からいろいろな要素を汲み上げて話に拡がりが出て来るのではないかと思う。

そういう次第で、基本設定がすべて提示され小林靖子が一時離脱するタイミングでいろいろと憶測を交えて語ってきたわけであるが、これまでのワンクールの流れに関して言えば、割合順調に面白く推移していると思う。素材や傾向の好き嫌いは個々人であるだろうが、TV番組という一個のプロジェクトとしてはいい具合に転がってきている。

第二クールからの問題として、例年のような各話編の揺らぎを視ていく必要もあるだろうが、カブトほど複雑なお台所の事情を抱えているわけでもないだろうから、それほど問題はないのではないかと楽観している次第である。

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コメント

今回の脚本がいつもよりクオリティが低く感じられるのは、今までの世界観のリアリティでは納得できないリアリティで描いているからでしょうね。「これはこういうはなしだからそういうつもりで見ないといけない」というのは去年カブトのレビューで散見した言い回しですが、そういう態度を最初から視聴者に期待しないと成立しないドラマってヤバいですよ。
契約者のじいさんとレイジにしても、形だけでも良太郎たちと絡んでおけばここまでどうでもよくは見えなかったと思うし、じいさんのエサやりが犬にまでおよんでいたのはコロとレイジのエピソードを絡めるためでしょうが、公園管理の範囲で鳥にエサをやってて(あの公園にはバードセンターの看板がありますから)、コロはじいさんの飼い犬だったのを頼まれて散歩中に、とかならあそこまでヤバげな描写にならなかったと思うんです。あれもリュウタロスの動物好きを表す犬猫描写のためなんでしょうが、全体的にリュウタロスの描写の都合に鼻面をとられた脚本という気がしました。じいさんとレイジの過去が良太郎になにも影響しない話の流れも、いつものように登場編でタロスと良太郎の交流を成立させるわけにいかないリュウタロスの描写のためって感じでしたし。
リュータ萌え視聴者としては、今回の微妙さは靖子にゃんがリュウタロスを描きあぐねたせいじゃないことを祈るのみですw。

投稿: quon | 2007年5月 2日 (水曜日) 午前 03時51分

まあ、リアリティ自体はこれまでの話と大差ないとは思うんですが、嘘事の選び方がちょっと拙かったというところですかねぇ。米村回みたいにどうでもいい状況設定で嘘を吐くならセンスの問題で済むんですが、今回の場合、ゲストキャラの物語を立てるなら、爺さんのやってることが議論の余地なく「いいこと」に見えないと、それを邪魔するダンサーズの行為が「よくないこと」に見えない、だからレージの過去のドラマが活きてこないという一連の問題があります。

爺さんの行為を「いいこと」として視る為には、フィクションの嘘事として補正をかけないといけないのが、どうしてもドラマ的に弱くなってしまうんですね。で、この嘘事というのがまた、番組を観ている幼児が公園で遊んでいるときに真っ先に注意されるような内容なので、子供すら騙せない、もしくは子供にすら疑問を抱かせるような話になっているというのが問題でしょうか。普通なら、公園で野良猫や鳩に餌をやったら当の管理人が止めに来ますから。

その行為自体の是非は嘘事として措いといて、というのは頭で考える留保の操作なので、じゃあダンサーズの行為の是非は嘘事じゃないの?という話にもなるし、その辺の筋道の問題は何となく捨象して考えてくださいということになると、何となくみんな満足してるようだからよかったねという曖昧な結末にしかならないのは当然なんですよねぇ。

そういう意味で、今回の前後編では最初からゲストキャラの話は棄ててかかっているのかな、と思います。quonさんが仰っているような作劇上の課題がある場合に、迷わずリュウタロスにウェイトを置いて判断するという方向性が突出したのが今回の例かな、と。そういう意味で設定提示編最後の小林脚本回がこういう話だったのは、第一クールの変遷を象徴する出来事なのかもしれないと思います。

勿論、ここまでゲストキャラの話が何うでもよくなってしまうと、従来の平成ライダーの作劇上の問題点(主人公サイドの人脈「だけ」でドラマをつくる)を継承しているという話にもなって、従来のライダーよりゲストキャラを各話の作劇に織り込んだシリーズ構造と整合が附かないので、揺り戻しが必要だとは思うんですが、第一話から連続的に視ていくと、ある方向性が徐々に進行した結果一方の極端にまで行き着いた事例として見えてくるという部分はありますね。

ただまあ、小林靖子にリュウタロスのキャラが描きにくいということはないと思うので、その辺は安心していいんじゃないでしょうか。前編ではちょっとアタマがアレなヤバい人に見せてましたが、後編ではいきなり可愛いキャラになっていて、これまでの作例で考えると、こういう毀れた可愛さに勘のない書き手でもないと思いますので。

ただ、懸念材料があるとすれば、キャラ描写とは別の次元の話になりますが、小林靖子の資質的に、動かしやすい、つまり話に絡めやすいキャラと動かしにくいキャラというのがあるみたいで、またそれが客観的に視た場合作劇的に上手く行っているかどうかとは別問題という厄介な問題があります。

たとえばセラムンでいえば、小林靖子自身は亜美ちゃんを描くのが苦手だったようで、ああいう内省的で消極的なキャラを話に絡めるのに苦心したというようなこと言ってまして、その一方ではまこちゃんはどんどん動いてくれるので描きやすいみたいなことを言っていましたね。客観的に視た場合、亜美ちゃんの描写は成功しているし、話の作り方にも知恵があるんですが、まこちゃんの場合完全にキャラ描写が破綻してましたし、まこちゃん主役エピソードもあんまり上手くなかったですね。

多かれ少なかれどんな書き手にもあることですが、キャラが書きやすいということとそのキャラで話を作りやすいということは別だし、さらにそれが客観的に視た場合上手くいっているかどうかもまた別問題、そういう傾向がかなり強いので、まあその辺が不安といえば不安です。

投稿: 黒猫亭 | 2007年5月 2日 (水曜日) 午後 02時13分

自分もこのエピソードはカブトの喫煙事件と同じくらいの違和感を感じましたね。あれもこれも禁止した挙句、結局公園はイマジンの活躍で立ち入り禁止になりましたってオチは笑えないだけに笑ってしまったwww

投稿: がぜる | 2007年5月 6日 (日曜日) 午後 01時48分

>がぜるさん

どうもです。カブトの例にしろ電王の例にしろ、この種の「公衆」とか「公共」の概念が絡む正しさについては、今は昔ほどナイーブに書けない世の中になっていますね。煙草水掛けも餌付けも、きちんと状況を詰めて書かないと、本来正しいはずの行いが間違って見えるという問題があるでしょう。

そういう部分で個々の書き手が、この複雑な世の中のいろいろな問題を常日頃どの程度考えているのかというのが顕れてしまうんでしょうね。作劇的に若干不自然でも補正を掛けて視ることは出来るので、いわば作劇の問題というより、書き手の大人としての見識が顕れる部分だと思うので、書くほうもあまりこの種のデリカシーをイージーに扱わないほうがいいのかなとは思います。

たしかにホン書きというのは面白い会話やお話を書くのが至上命題ではありますが、その為にどんなことまでを嘘事として誇張して扱って好いと考えるかというのは、本人の見識の問題として見えてくると思います。

投稿: 黒猫亭 | 2007年5月 6日 (日曜日) 午後 02時13分

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