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2007年6月13日 (水曜日)

DEN-O 19'

実のところ、何故かオレは「仮面ライダー電王」への舞原賢三の起用という事態を殆ど予想していなかった。「そんな筈がない」という妙な予断があったのだが、何故そのように考えるのか、具体的に顧みることもなかった。極当たり前の予断として前提視していたので、舞原登板の一報を耳にしたときは一瞬我が耳を疑ってしまった。

更めて考えるまでもなく、それはそれこそ「そんな筈がない」のであって、電王が白倉伸一郎と小林靖子のリベンジの試みであるのなら、そこに舞原賢三の名が加わることはないと考える根拠などはないし、フリーランサーである舞原賢三をライダーに起用することなど、スケジュール面の折り合いさえ附くならば何ほどの困難でもないのである。

つらつら鑑みるに、オレが舞原賢三の参入を予期しなかったのは、それでは「話が美味すぎる」からである(笑)。美味すぎる話を真に受けないのは、これはオレが猜疑心の強い年寄りである以上仕方のないことだろう。

すでに何度か実績を積み重ねている白倉×小林コンビの復活辺りが現実的に望み得る限度のところで、そこに舞原演出まで望むのは欲張りというものではないかと思ってしまうのである。何故なら、それは実写版セラムンの再現の可能性を示唆するからである。

しかし、その「美味すぎる話」は今度こそ本当だったのである。しかも、この手の話によくあるような幻滅を伴わず、「あの頃」の記憶を揺さぶるような鮮烈な形で舞原の参入が実現したのである。

それ故に今回は、エピソードそれ自体のレビューは後回しにして、何よりもまず舞原賢三という演出者や実写版セラムンの話から説き起こすことにしたいと思う。かなり纏まりのない話に終始して、あっち行ったりこっち行ったり迷走しているのだが、我慢して最後までご一読戴ければ幸いである。

いや、ちゃんと後半で電王の話もいやというほど語らせて戴くからご安心あれ(笑)。


●さるフリーランサーを巡る昔話

実際、玄人筋には好評だったセラムンが終了して後、戦隊やライダーに舞原が来るという噂は何度か流れたが、その都度それは噂止まりで実現はしなかった。今回の電王までに特ヲタが舞原演出に接し得た機会は、アストロ球団やセイザーXのゲスト演出くらいのもので、それは到底「セラムンの仕事が評価されて東映特撮のエースに」という想定のストーリーとは懸け離れた実態だった。

僅かにセラムンの経験を匂わせる仕事としては「OH! ノーパンツガールズ」という「美少女小学生がノーパンでスリリングな一日を過ごす」というそれこそ夢のように美味すぎる内容のVシネだが、メイキングで美少女小学生三人組相手に物凄く嬉しそうにテンション上がってるアロハに短パン姿の土方みたいに日灼けした田代まさしのNGみたいな小汚い兄ちゃんが、世に盛名隠れもない舞原カントクその人である。見た目的には映画監督というより土建屋さんの仕事帰りという風情で、ハイエースの後部座席一杯に拡がって缶ビールでも煽っているのが絵面的にしっくり来るルックスである。

正直言って、アストロにせよセイザーにせよノーパンツガールズにせよ、セラムンであれだけ一分の隙もなく冷酷なまでに凄みのある演出を施した演出者による作品とは思えない肩の力が抜けた仕事で、セラムン以前の舞原賢三のイメージ通り「起用された作品の全体ムードを的確に把握して悪目立ちしない水準作を撮る」という業者ライクな手堅い仕事ぶりに徹している。

作歴上の全体的な割合から言えば、寧ろこのような水準レベルの演出作法のほうが舞原演出の通常モードと言えそうである。

因みに、舞原賢三という演出者に関しては、ネット上に纏まったデータのようなものは未だ存在せず、当然ウィキにも項目がない。網羅的な映画DBのようなもので不完全な作歴がヒットするくらいだが、大凡九〇年代半ばの監督デビューらしく、作歴上辿り得る最も古い仕事は、CX「木曜の怪談」の人気コーナー「怪奇倶楽部」辺りである。

その前は劇場版ナイトヘッドで飯田譲治の助監督に就いているから、実質的にこの辺りの時期の監督デビューと視るのが妥当だろう。その後もその種のジャンル作品を手掛けることが多く、佐伯日菜子版のエコエコや、幻想ミッドナイト、渡辺由紀版の七瀬、畑澤作品の嚆矢となるロゼッタにヴァニーナイツと続くから、オレはデビュー当時の舞原演出作品は残らず視ていることになる。それ故に、セラムン以前から舞原賢三という演出者の存在だけは識っていたが、その後を注目させるような卓抜せる才能や個性を感じたわけでは決してなかった。

深夜枠特撮ホラーの演出者というイメージだった舞原賢三の名が、一般の特ヲタにも認知されるようになったのはガオレンからということになるだろうが、個人的にはどのエピソードが舞原演出だったか記憶にない程度の印象である。ガオレンに限らず、舞原演出というのは元々それほど特定の色を持つものではなく、前述の通り番組のカラーに合わせた手堅い水準作を撮る監督、というイメージしかなかったというのが本当のところである。

だから最初に実写版セラムンに舞原賢三が起用されたと耳にした際には、田崎竜太のパイロットを上手く継承して、番組カラーに合わせた手堅い水準作を撮る中継ぎ的な役どころに廻るものとばかり思っていた。

殊に実写版セラムンという番組の現実的な固有事情として、SHTに加えて急遽東映特撮が抱えた第三の枠ということがあり、SHTの二番組を中核に据えて廻っていた従来の東映特撮の制作体制上、東映特撮生え抜きの主力的な人材を投入するわけには行かないという都合があったことは間違いない。

全話放映終了した時点で顧みれば、セラムンの演出ローテは、田崎竜太がパイロット監督として番組のベースを作り、そこから舞原賢三、高丸雅隆、佐藤健光の三人を中心とするローテを廻し、調整要員として鈴村展弘が入るという形になっているが、中心となる三人の演出者は、高丸監督は例外として舞原監督も佐藤監督も「SHTの経験はあるが東映生え抜きではない」という基準で選ばれたことがわかる。

その時点では、主に一般ドラマを手掛けてきた高丸雅隆の特撮ヒーロー番組における手腕は未知数であり(蓋を開けてみれば最悪の形で既知数になったのだが(笑))、放映開始以前の観測では、あの取り立てて個性のない舞原演出が番組のメインストリームを創り出して行けるなどとは到底予想していなかった。

舞原賢三自身、自分がセラムンに呼ばれたのは従来通りメイン監督を立てる外様の中継ぎ役として、と心得ていた節があるのだが、そのような舞原演出観が根本的に一変するのは、初登板早々のAct.5 以降のことである。白倉Pや小林靖子の間接的な証言によれば、そのような事態は舞原賢三本人すら予期していなかったのではないかと思われる。

小林靖子が出来心で書いたAct.5 の難しい脚本を渡されて、白倉Pから舞原演出の出来映え如何で番組の今後の方向性を決めるとまで言われたことが、大いに刺激になり発奮したのではないかと思う。それ故にセラムンにおける舞原演出は、それまで誰も視たことのない舞原賢三の資質であり、おそらくそれは舞原賢三自身にとっても同様だったのではないかと想像するのである。

手掛けた本数自体は当初の契約通りだったのだろうが、このAct.5 以降の舞原賢三の扱いは実質的にはメイン監督であり、シリーズの転回点に当たる重要なエピソードは残らず舞原ローテに振られるまでの信用を獲得していった。

すでに実写版「美少女戦士セーラームーン」を論じたレビュー現在参照不可)をご一読戴いた方ならご存じのことだろうが、オレはセラムンのドラマ的な凄みというのは舞原演出を俟って初めて語り得るものだと考えているし、特撮ヒーロー番組におけるドラマ演出の何たるかは、この作品を視ずして語り得るものではないとまで考えている。

セラムンの題材に興味がなくても、この番組を子細に視ることで他の番組を視る目も鍛えられるのではないかと思うし、監督という肩書のプロフェッショナルは「役者に芝居を附ける」という行為「以外」にどんなことを表現行為として為し得るのかという可能性のすべてがそこに顕れている。

常々オレは、映像作品というのは役者の芝居を見せるものではなく、映像を言語として何事かを語る器であるとの持論を表明しているが、セラムンにおける舞原演出のドラマ性は、まさしく映像作品という表現形式によらずして表現し得るものではない。

たしかに白倉Pのシリーズ構成も外野の期待値の低さが幸いしてかなり実験的な色彩の濃いものだったし、その流れで文芸面のディテールの部分でかなり自由裁量を任された小林靖子の脚本も従来にない突き抜け方をしているし、主演女優陣の中でも沢井美優や浜千咲(出演当時)の芝居の勘も飛び抜けて良かったが、それだけなら「普通の」東映戦隊の美少女版という(ある意味原作のコンセプトに忠実な)作品に終わっただろう。

しかし、実際に実写版セラムンがあれほどのレベルで畸型的なまでに先鋭なドラマ性を獲得したのは、そこに舞原演出というキーファクターが介在したからである。舞原演出という表現の具あればこそ、小林脚本もそれと競い合うかのようにどんどん先鋭化していったのだし、どんな物凄い球を投げてもそれを上回るドラマ性で打ち返してくる演出の凄みが書き手を刺激して、この器に盛れるドラマ性の極限を窮めさせたのである。

それは小林靖子個人が優れた書き手だという意味でもないし、舞原賢三個人が優れた演出者だという意味でもない、白倉P個人のプロデュース手腕が優れていたという意味でもなく、潜在的に優れたポテンシャルを持つ人材のコラボレーションによって、単純な足し算以上の化学反応が起こるという事件だったのである。

その半面、客観的に言って実写版セラムンのドラマ性が、器の性格に比べて異常なまでにオーバースペックであることは間違いない。そこで語られている内容は、飽くまで未熟な女子中学生の他愛ない「友情ごっこ」なのであり、この題材を真に受けられない視聴者にとって、小林脚本や舞原演出のドラマ性が過剰に重く感じられたとしても仕方がないだろうと思う。詰まるところ実写版セラムンという作品は、要求されるレベルを超えてまでドラマ的可能性が暴走した畸型的な徒花なのである。

それ故に、オレがこの作品を他人様に奨めるとしたら、「目の前で凄いことが起こりつつある」という感覚を味わってほしいからであって、小林靖子が優れた脚本家であるとか舞原賢三が優れた演出家であることを思い知らせる為ではない。小林靖子だってヘボな脚本を書くこともあるし、舞原賢三だってノーパン美少女に囲まれて気楽な莫迦話を演出しているほうが楽しいに決まっているのである。

オレがセラムン語りを通じて語り続けているのは、「オレは凄いものを視た」という経験である。小林靖子が凄いということでもなければ、舞原賢三が凄いということでもないし、白倉伸一郎が凄いということでも勿論ない。これらの人材が偶々集まったことによって何か「凄いこと」が起こった、それをオレはリアルタイムで視てしまったという経験を語っているのである。

その意味で、たとえばティガやクウガを第一話から順番に視てほしいと奨めるのと似たような感覚ではあるだろうが、それらの作品がカタストロフの予感に心躍る世紀末の雰囲気を濃厚に反映した終末論的な大状況を語っているものであるのに比べ、セラムンが語っているのは新世紀の幻滅を経た辛気くさい時代の女子中学生同士のちんまい「友情ごっこ」の日常であり、少女の心象の中でのみ滅びを迎える「セカイ」についての極私的な終末論でしかないが、そこで語られているドラマ性はある意味ティガやクウガよりももっと先鋭かつ神話的にドラマティックなものである。

ミニマルで卑近な題材を具にして語られるダイナミックで神話的なドラマ性という桁外れなギャップを抱えた「女児向け特撮ヒーロー番組」が、TV番組として成功作である筈などはないのだし、万人にとって愉しい娯楽でなど在り得よう筈がない。一本の娯楽コンテンツとしてのこの異様な偏跛さに関しては、如何なる擁護の余地もないだろう。

しかし、特定の映像作品に魅せられて語り手の視点にまで立ち入って作品を語りたいと望むような人なら、この番組において「凄いことが起こった」という事実を識ってほしいと思うし、それが何故「凄い」のかを理解してほしいと思うし、一本の映像作品を表現する為にどんな凄い知恵が凝らされたのかを識ってほしい。

特撮ヒーロー番組という普通なら制限だらけなのが当たり前のメディアにおいて、ついつい出来心で「トクサツに何が出来るのか」「どんなドラマを語り得るのか」の極北を「うっかり」示してしまったのが実写版セラムンという事件の真相だろうとオレは考えている。

そして、舞原賢三という一人の演出者は、この「凄いこと」の実現に際して欠くべからざる重要な役割を果たしたのである。


●とある現場の来し方を巡る昔話

では、セラムンにおける舞原演出の何がそれほど「凄かった」のか、一個人を打ちのめすほどの知恵を感じさせたのか、極々大括りな話にはなるが、今度はそれを語らせて戴くことにする。

今回の電王の舞原演出に対して、従来の平成ライダーの作劇とは明らかに異質な感触を覚えた視聴者も多いと思うが、それはたとえば巨匠演出や長石演出とは違った絵面の意匠が現れたという種類の異質さではない筈である。

今週放映された第二〇話についてはそれほど飛び抜けて目を惹く知恵は視られなかったが、初登板の第一九話に関しては、まさにセラムンの頃の舞原演出を想起させる精緻な演出術が、原脚本に盛られた人間ドラマを餘すところなく十全に表現していた、そこが異質なのである。

それは、心情ドラマの映像的な表現として読み取られることを待っているタイトな意味構造なのであり、まさにそこが従来のライダーの演出法と一線を画す異質さと言えるだろう。以前オレはセラムンの舞原演出に関して「映像的な経済性」ということを論じたが、それは、そこになくてはならない絵がまさにそこにあって過不足がないということであり、そこに逸脱があるのなら、逸脱すべきドラマ的な必然性が確固として存在するということである。

従来の東映生え抜きの演出者の演出術というのは、窮めて単純化して言えば足し算の論理に基づいている。まずドラマというものがあり、そこに映像の意匠が乗っているというのが東映特撮的な生理である。トクサツというのは絵面の意匠を見せるものであり、ドラマと同じくらい意匠の部分が重視される特殊な映像作品なのだが、一種東映特撮的なドラマ観においては、映像の意匠とドラマ性は奇妙に乖離して見える。

どちらが原因でどちらが結果なのかはわからないが、東映特撮における演出者の演出術はドラマ性を表現する場面で差別化があるわけではなく、そのドラマに基づいてどんな絵面を見せるかという部分に個々人の個性がある。田崎、石田、長石、鈴村辺りの各監督の個性は、ドラマ性の語り口ではなく絵面の肉体性にこそ顕れていると言っても過言ではない。

ドラマ性の部分に関しては、ちゃんと脚本の真意を酌んでいるのか、人間の心情の流れとして自然であるのかという規範で量られるのであり、要するにこの部分は減点法なのであって、そのドラマを踏まえた上でどんな見せ方をするかという部分で初めて加点法になるのである。

それが悪いとは言わないし、寧ろ特撮ヒーロー番組というのはそういうものである。何度も語ってきたことだが、子供にはドラマがわからないのだから、まずしっかりアリバイとしてのドラマを語り、その上で視覚的な面白みを乗せていくという生理になるのは自然なのである。何故なら、変身バンクも技バンクも巨大戦も、それ単体では人間ドラマでは在り得ないからであり、そのような非ドラマ的な映像の意匠をメインに据えて魅力的に語るのが特撮ヒーロー番組というものだからである。

それ故に、特撮ヒーロー番組の演出というのは、本来的には非ドラマ的な要素でしかないトクサツをメインディッシュとして提供する為に、子供には理解出来ない人間ドラマの上に何か子供にもわかる魅力を乗せていく作業になるのであり、それは人間ドラマの意味性とは別立てで並行的に貫流する一連の意匠の流れとして視聴者の視線を誘導していくのである。

これを平成ライダーに特化して言えば「中学生にもわかるように」と言い換えても好いだろう。現実の中学生という意味ではなく、おそらく大人の視聴者が持っている中学生的な感性(つまりこっそりラノベを読むような部分)に向けて作られているのが平成ライダーという枠組みの特殊な部分だろうから、型通りの人間ドラマの上に、中学生的な感性にアピールするちょっと大人びた格好良さの意匠が乗せられているのである。

オレたち大人の視聴者は、その心根の何処かに飼っている中学生的な部分でライダーの映像を楽しみながらも、主要な関心としては今現在の大人の目で人間ドラマを視ているのであり、その人間ドラマの行方やそれを演じる個々のキャラクターに魅せられて平成ライダーという番組を視ている筈である。

そして、継続的にライダーのレビューを書いている方ならば骨身に沁みておわかり戴けると思うのだが、その人間ドラマへの入れ込みや期待はいつも概ね裏切られる。ビジネスの足腰の問題としても、何うしても東映特撮においてはドラマと映像の意匠には乖離があるからであり、ぶっちゃけビジネス面で重視されるのは常に後者だからである。

そういう次第で、番組放映開始当初はシリアスで本格的な侵略SFとして始まったカブトは、「姉殺し」「自分殺し」という神話的なまでにシリアスでハードな過去を背負ったお坊ちゃまが、いつの間にか小学生のコスプレで意味もなく小江戸の観光地をうろうろしたり、毎週毎週地獄兄弟が小ネタをカマしては「さしたることもなかりせば、そのまま奥にぞ入り給ふ」とばかりに後腐れなく去っていくコントコーナーが出来上がったりするわけである。

今挙げた例は、ライダー初参加のメインライターが「井上ノリ」を変なふうに誤解して悪ノリした結果の産物でもあるのだが(笑)、その井上脚本でよく言われるのは「行間の振れ幅」を残しているということである。ト書きでくどくど指定せずに演出の裁量に委ねる幅を残しているということだが、このジャンル生え抜きで育った井上敏樹の感覚で言えば、その行間を埋める現場の演出が井上脚本を人間ドラマとして最適に補完してくれるとの想定で書いているのでは「ない」だろう。

井上脚本が提供するのは映像の意匠の骨組みとなる最低限の人間ドラマとしての意味性なのであり、そこに映像の意匠が乗る幅を持たせているということである。言い方を換えれば、映像の意匠を見せるジャンルにおいて、最大限描き得る書き手の意図した人間ドラマの要素はすでに原脚本に過不足なく盛られているということである。

先ほど陳べたように、ここの部分は減点法の範疇で量られることなのだから、特撮番組を人間ドラマの観点で視た場合、舌足らずになることはあっても脚本に盛られた意味性以上の人間ドラマが現出するという事態は稀にしか起こり得ないということになる。井上脚本に設けられた「行間」というのは、つまり映像の意匠が人間ドラマを圧迫する場面において、予め設けられた含み幅の緩衝域ということである。

現場の演出が格好良い絵面を撮るプロセスを経ても残る筈の部分でしか人間ドラマを展開しないということだし、その限界内でしか特撮ヒーロー番組における人間ドラマは描き得ないという一種の諦念、若しくはプロとしてのエバリエーションと表現することも出来るだろう。

それ故に、たとえばカブトにおける神代剣の初期造形が如何にマンガ的に誇張されたものだったとしても、後に姉殺し・自分殺しという倒錯したSF的悲劇を演じることが宿命附けられている人物に関して、脚本のレベルでいじってよい限度というものがある筈であり、そこを弁えない悪ふざけはただの悪ノリにしかならないのだから、他ならぬ井上敏樹自身が「剣で遊ぶな」と苦言を呈する羽目になるのである。まさかにあの無意味な小学生コスプレまで脚本で指定していたわけではないだろうが(笑)、米村脚本の履き違えた剣描写があのような演出を呼び込んだことは間違いない。

諄いようだが、そのような特撮ヒーロー番組の演出の在り方が悪いというわけではないだろう。良くも悪しくも特撮ヒーロー番組というのはそういうものなのである。歴史的な観点から言えば、東映特撮のルーツを時代劇に求めたり、さらに遡って歌舞伎芝居に視るような考え方は今では一般化しているが、歌舞伎芝居というのは基本的にこの種のバラエティショー的な性格も具えていたのである。

西欧の演劇とは違って、元々の歌舞伎芝居の観客たちは芝居物語にドラマツルギーなどは要求していなかった。TVも映画もAV機器もなかった時代には、歌舞伎芝居がすべての視聴覚的娯楽を兼ねていたわけで、ドラマにはバラエティショー的要素があり、バラエティショーはドラマの体裁で語られてきたわけである。

この辺は岡本綺堂の芝居語りを一読して戴けば時代の息遣いが呑み込めるだろうが、作劇が何うとかドラマツルギーが何うのというのは、ギリシア演劇以来の合理主義的劇論の伝統を持つ西欧演劇のものである。本邦の演劇を軽んじるわけではないが、日本の伝統的な演劇というのは、案外今現在のある種の小劇場演劇に類似の即興的な娯楽体験を重視するレビュースタイルのものだったのである。

そのような歌舞伎芝居の生理を根に持つ黎明期のカツドウ屋の感覚は、決して黒澤的なタイトで明晰なハリウッドスタイルの話法に徹したものではなかったのだし、邦画の代表的なオールタイムベストと目される黒澤や小津の作品は、決してそれまでの邦画の生理を代表するものではなかった。

まして、歌舞伎芝居の用語で言えば「外連」と「荒事」に特化した特撮ヒーロー番組において、タイトな作劇が何うのとかドラマツルギーが斯うのとか過剰に論うのは、言ってみれば「野暮」な話なのである。

外連と荒事に特化した特殊な映像作品ジャンルである特撮ヒーロー番組においては、人間ドラマもたしかに重要だが「それはさておき」の部分がいつでも最終決定を下すプライオリティを持っているのであり、特撮映像全般にこの種の二重性が内在する以上、特撮ヒーロー番組の人間ドラマに思い入れる大人の視聴者の期待は、いつでも常に手酷く裏切られる可能性を内包しているのである。

そのような特撮ヒーロー番組の在り方において、九〇年代半ば、奇しくも舞原賢三の監督デビューと同時期に戦隊で監督デビューした田崎竜太の映像を目にしたときは、かなり新鮮に感じた。彼に先んじてデビューした渡辺勝也同様、映像の「新しい見え方」と現代的なテンポを追求する演出やカッティングは、八〇年代のトクサツを見慣れた目にとっては「われわれの世代」にマッチした新世代の映像として映った。

彼らの世代の登場によって特撮ヒーロー番組は、東映の社員監督世代の人材が具えていたオーセンティックな邦画の生理を脱して、アニメ的でシャープな映像生理を獲得したわけだが、ナベカツにしろ田崎にしろ東映特撮生え抜きの人材には、何うしても前述のようなドラマ性と映像の意匠の乖離という、このジャンル固有の特殊事情を前提視するという個別的な限界があった。

それは一面では、特撮ヒーロー番組というジャンルに視点を固定すれば「バランスの良さ」として語り得る資質ではあるのだが、ドラマ語りという大普遍の視座から鳥瞰すれば一種の限界やジャンル方言として見えてくる。

舞原演出の異質な部分というのは、そこの生理が違うのである。この演出術においてはドラマ性と映像の意匠は対立概念でもないし足し算や引き算の演算子でもなく、敢えて言うならば掛け算の演出術なのである。ドラマの上に映像の意匠が乗っているのではなく、ドラマを語る場面で映像の意匠が縦横に活躍し、ドラマ性と映像の意匠の相乗効果で嘗てない迫力のある人間ドラマが成立する。従来の東映特撮の演出術のように、ドラマと映像の間に「身とガワ」という乖離がないのである。

ガオレンやハリケンの現場を数話経験しただけでセラムンに参入した極初期の頃の舞原演出では、人間ドラマに一意専心してバンク映像やアクション演出には冷淡なようにも見えたが、話数が進むに連れてそのようなジャンル固有の映像素材をも積極的に人間ドラマに織り込む姿勢にシフトし、それまでジャンル固有の特殊事情として乖離していたドラマ性と映像の意匠を理想的な形で整合させたのである。

ある種、このような舞原演出的な方向性というのは、特撮ヒーロー物語というジャンル性と大普遍のドラマ性を繋ぐ架け橋のような位置附けなのであり、旧世代が時代劇や刑事ドラマをはじめとする既存のジャンルからの演繹で模索していた映像の意匠を脱して田崎竜太の世代が確立した「トクサツ固有の格好良い映像の生理」から、さらに「トクサツ固有のドラマ性」の確立へと転がり出ようとするジャンルの画期なのだとオレは考えている(その割にはただの一回的な徒花に終わっているが(笑))。

前述の通り、舞原賢三は田崎竜太と同世代の人材であり、その出自もまったく異なるのだから、序列的な影響関係の下にこのような事態が出来したわけではない。いわばそれは偶然なのである。前述の通り舞原賢三はそれまで主に深夜枠の特撮ホラー番組を数多く手掛けてきたが、ぶっちゃけて言えば九〇年代半ばに勃興したこのジャンルは、特撮ヒーロー番組ほどかっちりした美しいフォーマットを具えてはいなかった。

特撮ジャンルの中核的組織である円谷プロからスピンアウトして、初期の円谷プロが放棄した大人向けのホラーサスペンスのジャンルを主に手掛けてきた円谷映像がこのジャンルの中核を一手に担ったことが象徴的だが、深夜枠特撮ホラー番組というのはかなり不定形で混沌としたジャンル作品なのである。メイン視聴層がヤングアダルトということで子供向けに特化した制限はないし、どの程度ドラマ性を盛り込むかという部分にある程度の自由度がある。

この辺の事情に関しても以前ライオン丸Gや牙狼に絡めて語ったことがあるが、だからと言って深夜枠特撮ホラー番組が、軒並みそれほどご立派なドラマ性を描いてきたというわけではない(笑)。深夜枠の視聴層であるヤングアダルト層だって、トクサツで喜ぶ子供とは違うからと言ってそれほど人間ドラマが観たいわけではなく、要するに夜中の独り酒の肴として刺激的なハダカとスプラッタが観たいのである。

その意味で、格好良いトクサツがハダカとスプラッタに置き換わっただけという言い方も出来るが(笑)、一面ではハダカとスプラッタさえ出せば、ドラマ性の部分で子供向け番組よりも先鋭な自由度が許されていたという言い方も出来るだろう。この辺は少し麻雀劇画と似たような事情と言えるかもしれない。

ホラーブーム全盛期の人気コンテンツだった怪奇倶楽部を演出した舞原賢三は、社会的な事情でホラー番組全般が深夜に追いやられる流れに呼応するかのように、主に深夜枠特撮ホラー番組でキャリアを積み、「業者」としてはさほどの落ち度もなく身過ぎ世過ぎをこなしていたようだ。この時代の舞原賢三の仕事は、前述の通りつまらなくもないが極端に面白くもないというもので、要求レベルをちょっとだけ良い成績でクリアするという堅実で地味な仕事をしていた。

そこからガオレン、ハリケンの日笠作品に行くまでの繋がりがよくわからないが、資質的な面で言えば、特撮映像が絡むジャンル作品の特殊な現場に慣れていて、畑澤作品の経験で特撮ヒーロー物の呼吸も呑み込んでいるわけだし、演出力的にはコンスタントに水準作を送り出しているのだから、さほど不自然な流れではないだろう。

そこで期待されたのは、ローテの穴を埋めてくれる便利な遊撃という役回りだっただろうし、ガオレンではたしかに何度かローテが廻ってきたが、これも後半になって唐突に参加しているから誰かが抜けた穴埋めだろう。ハリケンに至っては完全に急場の調整要員としての扱いである。

おそらくこの二本の日笠作品への参加が縁で、SHTに影響の出ない人材を探していた白倉Pとの繋がりが出て来るのだろうが、舞原視点で言えば、遊軍扱いとは言え戦隊への参加は貴重な特撮ヒーロージャンルのノウハウ獲得に繋がったはずで、セラムンではそのような平準的なトクサツ経験者としての引き出しや、明朗健全な早朝の幼児番組に相応しい演出カラーを要求されるものと予想した筈である。


●一つの僥倖を巡る昔話

ところが、運悪くと言うべきか運良くと言うべきか(笑)、白倉Pが東映特撮の中でも飛び抜けて変な人材だった為に、附け焼き刃の戦隊のノウハウではなく、寧ろこれまで舞原賢三が手掛けてきたジャンルのノウハウを要求されたということになるだろうか。

セラムンにおける舞原初登板エピソードであるAct.5 は、一言で言ってちょっと怖い話である。たしかにこのエピソードの埒内で挿話的課題は一応の解決をみるが、その課題は一話限りで閉じている物語要素ではない。嘗てオレはそれを「心の棘」と表現したのだが、水野亜美というキャラクターが実質的にこの番組の副主人公とまで言い得る位置に登り詰めたことについては、実にこのエピソードにこそそのすべての萌芽が胚胎していたのである。

このエピソードで語られているのは、孤独な天才少女のネガティブな心の襞であり、月野うさぎという裏も表もない真正直な主人公の陰画的なデリカシーである。明朗快活で行動的な人気者であることが、翳りのない眩しい魅力を湛える美少女であることが、そのような人間には絶対になれない離人症的な孤独な少女をどのように痍附けるのかという、はっきり言ってイヤな話が語られている。

このエピソードにおいては、それは水野亜美という人物固有の問題性や弱点として提起されていたわけで、結末において彼女はそのコンプレックスを乗り越えてうさぎとの関係性を修復するという落とし所が用意されてはいる。しかし、大人の視聴者から視ればそこに何とも割り切れない余韻を感じたことも事実であり、それは本当に水野亜美個人の問題性なのか、果たしてそれを反省して乗り越えればそれで問題は解決したと言えるのか、そこに何とも言えない不可思議な余韻を残した。

このエピソードの着想自体は、それが美少女戦士セーラームーンという大枠の筋立てを踏襲している限り自然なものである。月世界のプリンセスという高貴な前世を持つ月野うさぎを除く各惑星の戦士たちは、夫々に現世の人々に容れられぬ孤独と苦悩を抱えているというのはこの物語における基本設定なのだから、キャラ廻しのルーティンにおいてそれを提示したまでのことである。

しかし、水野亜美の抱える孤独の物語は、このエピソードでは終われなかった。誰が視ても終わっていない物語として提示されたのである。たしかに、原脚本に描かれた青図の状態でも筋道的には終わっていなかったのだし、平成ライダーに注目しておられる方なら、そのような「終わっていないのに終わったことになったお話」というのは何度も経験しておられることだろう。

その限りでは、「今回のお話はここがおかしい」「脚本家の考えはここがおかしい」という話になってオシマイということになるのではないかと思う。Act.5 も普通に東映特撮的な生理で演出されたら、とりあえず今回限りで終わる前提で描写を調整し、そこを瑕瑾として指摘されてオシマイだった可能性はあるだろう。

普通なら終わるものとして演出されるべき挿話を、筋道的には終わっていないのだから終わっていないものとして提示したのが舞原演出なのである。筋道として終わっていない話を終わっていないものとしてその儘十全に提示しているのだから、筋合いから言えばそれに文句を附ける理由などないわけだが、それ故にこそ、その後延々と水野亜美の心に刺さった小さな棘の物語が語り続けられ、氷の欠片を溶かすまでの大河物語に発展してしまったのである。

これが田崎演出だったら、筋合い的には何うあれ、演出の語る物語性としてはスパッと語りきる前提で描写のバランスを計算したのではないかと思うが、舞原賢三の演出は水野亜美と月野うさぎの言外の心理的葛藤を、過剰なまでの迫力で提示してしまったのである。視聴者は、そこに従来的なトクサツのリアリティで語られる「所作事としての」葛藤以上のものを視てしまった。

それ故に、そのような生々しい迫力を具えた葛藤が、原脚本にあるような従来の戦隊的なリアリティの落とし所で解消されることを、視聴者は納得しなかったのである。この場合に謂う「視聴者」には、メインライターの小林靖子も含まれることは言うまでもないだろう。終わったつもりで書いたAct.5 の挿話が終わっていないことを、映像化された作品から小林靖子自身が見て取ってしまったわけで、その後語られた水野亜美物語は終わらなかった物語を終わらせる為の文芸上の格闘だったのである。

たとえば、戦隊においてレッドとブルーが対立する、五人組と六人目が葛藤する、これは何れ解消されることを前提とした、挿話構造を成立させる為の「所作」である。おそらく小林靖子が書いたのも本来はそのような意味での「所作としての」葛藤だったはずであり、そのような戦隊的な「所作事」として見せるのが東映特撮的な演出の生理であり、戦隊的な健全さ、言い換えれば他愛のなさの拠り所なのである。

これはたとえば白倉ライダーも同様で、登場人物相互の複雑な対立と葛藤を前面に立てた物語である筈の白倉ライダーの、全体的印象としての「妙な軽さ」は、それらの対立も葛藤もオーセンティックな東映特撮の演出の生理で「所作として」演出されているところから来るものだろうと思う。それが白倉Pの所謂「ライブ感」と表裏一体のものであることも、常々指摘している通りである。

たとえば脚本に書かれた人物間の心理の流れに不自然な部分がある場合、東映特撮的な演出では、登場人物の心理の流れを後附けて補完するというより、絵面の流れとして芝居が自然に見えるように整合させる。芝居も絵面の見え方を基準にして附けるわけで、絵面が筋道上の不整合に辻褄を合わせる演出術である。だから、筋道的には終わっていない物語を形式的に終わらせることも可能となるのであり、人間心理の自然な流れを物ともしないような白倉ライダーの波瀾万丈の「ライブ感」が成立するわけである。

しかし舞原演出においては、絵面の流れではなく心理の流れを重視し、一見整合しない心理上の筋道を自然に整合させ得るような新たな意味性とは何かを考え、それを芝居や絵面で表現する。その意味では、脚本家が意図しなかったような思わぬ方向に物語が転がることもあるわけで、セラムンにおける水野亜美物語の異様な発展は、実にこのような演出スタイルが終わることを許さなかったからもたらされたのである。

先ほど舞原演出について、「どんな物凄い球を投げてもそれを上回るドラマ性で打ち返してくる」と表現したのは、そういう意味である。小林靖子の脚本を舞原賢三が演出することによって、小林靖子の物語でも舞原賢三の物語でもない、本来そのテクストに潜在する「誰のものでもない本然的な物語構造」という思いも寄らぬ新たな意味構造が立ち上がってくるのである。

舞原演出のエピソードは、脚本執筆時に小林靖子が意図したその儘の物語ではないのであり、小林脚本をオカズにして舞原賢三が勝手に考えた物語でもないのである。小林靖子が「書いてしまった」物語が書き手の恣意を離れて持つ普遍的な意味構造が炙り出しのようにそこに立ち現れてくるのである。

だから、セラムンという番組が「凄いこと」であったとしても、それは小林靖子が凄いというだけでもないし、舞原賢三が凄いというだけのことでもないのである。東映特撮という場においてこのような邂逅があったこと自体が凄いのだし、その単なる偶然が結果的に「凄いもの」を生み出してしまったのである。

たとえば、セイザーXを愛好しておられる方なら、舞原演出回をつまらないとは思わなかっただろうし、林民夫の脚本が優れていることに異論はないだろう。夫々に好い仕事をしていることは疑い得ないわけだが、それをコラボレーションの作業実態で言えば、的確な脚本を的確な演出が映像化しているということになる。ウェルメイドな味わいはあるが先鋭なドラマ性が何うのという話にはなりようがない。その意味で、二人ともプロとしてステディでありすぎるのである。

しかし、小林靖子の脚本には好い意味で隙というか、ウェルメイドな虚構を離れて何かリアルで全体的な世界に直結しているような深い穴が開いている。個々の論理を突き詰めた結果として互いに整合し得ない複数の劇的論理を併置し有機的に絡み合わせて複雑な物語構造を現出する才能があり、そこにドラマティックな葛藤を現出し得る可能性を秘めている。それはジャンル作家としては一種のアマチュアリズムと表現することも可能だろうし、さらにもっと踏み込んで言えば文学性と表現することも可能である。

それは、そのような複雑な物語構造や対立構造が現実世界の在り様の何某かを抽出しているからであり、それは世界に対する全体的なアプローチの一手と言えるからであり、それはつまり文学の本道的テーマだからであり、本格的な文学は一種のアマチュアリズムに根を持つからである。

複雑微妙な心理ドラマを、映像の言語との掛け算で効果的に表現し得る舞原賢三の資質は、小林脚本に潜在するこのようなドラマティックなリアリティに基づく劇的葛藤を、東映特撮の生理を離れて生々しく表現することが可能なのであり、独特の迫力ある人間ドラマとして成立させることが可能なのである。

ただし、それは飽くまで実写版セラムンという個別の番組で起こった個別の事態でしかないのであり、一回性の範疇の事件でしかない。セラムンのレビューでも語ったことだが、複数の人材による協働としての映像作品というのは選れて一回性の強い性質の経験であり、監督が誰それだから、脚本が誰それだから、役者が誰それだから、次の機会にも同じようなものが生み出し得るというわけではない。

たとえば、電王における白倉Pの思想性はセラムンやファイズの頃とはかなり違うだろうし、小林靖子の脚本術もあの頃から比べてかなり変わっている筈である。セラムンの記憶に思い入れる者としては少々残念なことではあるが、良くも悪しくもここ数年の経験で小林脚本にも、先ほど井上脚本に関して語ったような「含み幅」を持たせる世間知が視られるようになったと思う。先ほどのアマチュアリズムに対置して謂えば、一種井上敏樹的なプロフェッショナリティを学びつつあるということだろう。

それにはまあ、特撮ヒーロー番組以上に現場の自由裁量の部分が大きい(というか下手をすればコンテでまるっきり違った話にすらなる)アニメの経験が大きかったと思うのだが、この種のジャンル作品で脚本が最大限語り得る意味性のマージンについて経験値が上がったということだろう。

度々指摘される電王の脚本の詰めの甘さは、そのような書き手のキャリアの変遷によるところも大きいだろうし、ある種「普通のジャンル作品の書き方」を会得したという言い方も出来るだろう。批判的に表現すれば、「ジャンル作品においては脚本が提供する人間ドラマは映像の意匠を入れ込む器でしかない」という事実に対して悪ズレ若しくは過適応した部分と言えるのかもしれないが、セラムンの当時に比べて人間ドラマを過剰に突き詰めるような性格が薄れたことは間違いない。

その過剰な突き詰めこそがウェルメイドな「ハコ」を暴力的に破綻させ次の挿話へと転がり出る運動性をもたらしていて、それが白倉的シリーズ構成術の「ライブ感」と呼応することによって独特の劇的リアリティを現出させていたわけだが、電王においては今一歩のところで突き詰めを放棄することによって、筋合い的に終わらない話を演出や芝居が終わらせる余地を残している。

それはつまり、白倉Pがある意味で円くなった(笑)のと同様に、小林靖子もこの業界でキャリアを積むことによって、とんがった角が落ちてきた部分があるのかもしれないと思う。皮肉な言い方になるが、これまで二度のコラボレーション以上に、電王ではこの二人の関係が上手く行っているように感じるのである。

お互いに歳をとって経験を積むことで、世間がわかってきた、現場がわかってきた、何を何うすれば何うなるのかという予測が附くようになってきた、だから何処で合意すれば最善若しくは次善の結果を生み出し得るのか勘所が掴めてきた。おそらく、以前白倉Pが井上敏樹との間に馴れ合いめいたものを感じたの同様に、この二人も龍騎やセラムンの当時と比べて、お互いの気心が知れて対立点や葛藤が解消されてきた側面があるのだろう。

しかし、対立や葛藤のないコラボレーションは決して予想を超える成果を生み出すことはない。これまでの電王に関して物足りなく感じていた部分があるとすれば、白倉×小林という取り合わせが期待させるものから考えれば、「良くも悪しくも特撮ヒーロー番組というのはそういうもの」という既存の規範を大きく逸脱する部分がないからではないかと思う。

白倉P×小林靖子の組み合わせが何か突出したものを生み出し得るとすれば、それは白倉Pの極端から極端に走る思想性に対して、小林靖子の積み重ねの作劇感覚や健全な倫理観が対立項として上手く機能するからだと思うのだが、その対立が薄れてきた以上、井上敏樹や米村正二の場合とそれほど成果物が変わるものでもないだろう。

たとえばカブトと電王を隔てる基準というのは、視聴者個々人の好きずきという以上のものではない。電王のほうにアドバンテージがあるとすれば、それは、終わっていない番組だからまだ決定的に失敗していないということでしかないのである。カブトだって後半あれほどシリーズ構造が迷走しなければ、現状の電王よりも良いとか悪いとかいう話にはなりようがなかった筈である。

ここで脱線を調整するなら(笑)、そのような電王の今ひとつ突き抜けない部分というのは、小林靖子と白倉Pの間の対立や葛藤が薄れてきたということ以上に、演出者の顔ぶれが従来と大幅に変わらないからもたらされる印象だとオレは考えている。

一般ドラマに関するレビューで、オレは常々一般ドラマの脚本家とジャンル作品の脚本家は扱いが天地ほども異なるというような話をするが、それは即ちジャンル作品において作品の性格を決定附ける実質的な主役は演出者や役者だということである。

一般ドラマの有名脚本家は、ある意味「オレが、あたしが主役だ」という意識で脚本を書いているが、ジャンル作品のベテラン脚本家は、何れ自身の役回りが脇役でしかないことを弁えるに至る。ジャンル作品において観客が観たがるのは、脚本家が提供する人間ドラマではなく、それをベースに描かれる映像の肉体性だからである。

特撮ヒーロー番組で言えば、格好良いヒーローが怪人をばったばったと薙ぎ倒す特撮を駆使した映像が必要だから、その映像を成立させる為にドラマが必要なのである。その意味で、文芸に対するニーズの序列が一般ドラマの場合と逆である。ヒーローも怪人も特撮も出てこない一般ドラマにおいては、人間ドラマがつまらなければ折角の格好良い美男美女の芝居も活きるものではないから文芸が重要なのである。

特撮ヒーロー番組のメイン視聴者が最も観たがる怪人との戦闘場面は、脚本の上で言うなら「以下、ライダーと怪人格闘」の一行で済んでしまうし、それ以上の書き込みを要求されているわけではない。脚本上の大部分を費やして書かれている人間ドラマは、実にこの一行を根拠附ける為のアリバイでしかないのである。

このようなジャンル作品の在り方において、脚本家の文芸性が先鋭に突出し得る契機があるとすれば、演出者が真摯な姿勢において脚本の具える文芸性に肉薄し、文芸の表現に特化して映像化を試みることでしかないだろう。殊に特撮ヒーロー番組のような長丁場の現場においては、そのような演出が遡って脚本家を刺激し、優れた文芸を生み出し得る可能性を秘めているのである。

舞原賢三の登板が平成ライダーにおいて何か大きな意味を持つとすれば、他ならぬ彼こそがそのような演出者であるということである。

今後仮面ライダー電王という番組が質的に飛躍する契機が在り得るとすれば、それは舞原賢三のローテ入りによってそのような演出術が脚本にフィードバックされ、原脚本に質的変化をもたらすという事態である。

まあ、今回の舞原登板がセラムンファンの記憶を擽るだけのご祝儀的なサービスでしかなく、その裡フェードアウトしてしまうのであれば、今まで通りの電王の儘ラストまで走っていくということだが。


●あの平成ライダーを巡る今の話

前置きが長すぎたが(笑)、ここで漸く今回の前後編の話題に移ると、第二〇話は二号ライダー登場編として特段のドラマも設けられていないから実質的にはゼロノスの戦闘場面がクライマックスで、その格好良さを立てる方向で演出が組み立てられているが、その前フリとなる第一九話は、ゼロノスならぬ桜井侑斗本人と野上良太郎の邂逅編ということで、脚本的にはか〜な〜り「いつも通り」の出来なのだが(笑)、舞原演出によって「いつも通り」の見え方を超えてドラマティックなエピソードになっている。

まずアバンの新撮部分で、侑斗に追い縋った良太郎が事情を問い質す場面からして、足早に立ち去る侑斗を追う良太郎のちょこまかした動きを足許のポジションで捉え、良太郎が回り込んだ時点でツーショットにカットし、手持ちカメラでフラフラ撮られた素材の彩度をかなり落とした絵面が、侑斗と良太郎のささくれた会話の心情描写として効いている。

手持ちの不安定な視点と色彩を削ぎ落とした映像が「桜井侑斗」と名乗る人物に対する良太郎の不審や焦り、そして突っ張って良太郎にキツく当たる侑斗の振る舞いがもたらす空気感の表現として活きているわけで、このように、芝居が演じている人間ドラマの意味性や心理的な印象を後押しする形で映像を設計する見せ方というのは、従来のライダーでは剰り視られなかったものである。

従来ならば、このような形で対立を抱える人物の会話を撮る場合、「対立」「葛藤」というイベントのテーマに則って、格好良くスタイリッシュに見える絵面の設計が考えられていた筈で、視聴者は一種の記号的なイベントとして人物間の「対立」を感得する。つまり、叙述的というより概念的な映像設計を試みるわけである。

緊迫感を醸し出すカメラワークや切り返しのカッティング、桜井侑斗というライバルの傲慢で自信たっぷりなキャラを強調する絵面の組み立て、重要なセリフや芝居がバシッと叩き附けるように決まるテンポ、そのような描き方になる筈である。

それを言い換えれば、リアルな芝居場というよりは「所作事」として見えてくるということなのだが、今回のこの場面の演出は「良太郎と侑斗の対立」というイベントのレベルで考えるのではなく、良太郎が抱えている心理や侑斗の振る舞いの印象、二人の間に醸成される空気感を叙述する方向で演出が附けられているわけである。

それだけでも少し釣り込まれるのだが、続いて良太郎と別れた侑斗がデネブと対話する場面になると一気に画面の彩度が戻ることで、良太郎を前にした侑斗の突っ張りがデネブと二人きりなった途端一転して幼児的な甘えん坊に転ずる呼吸のアクセントとして効いているわけである。

カット頭は陸橋の路面と新緑をほぼ当分に切り分けるカメラ位置で、手前に歩み寄る侑斗の顔が徐々に見えてくるという見せ方をして、そこにOLする形で新緑をバックにした侑斗の正面フルショット、カットして侑斗の横顔のアップで独り芝居をさせ、デネブの声を被せるという丁寧な段取りで更めて侑斗視点の登場場面を設けている。

一頻りデネブの声とのやり取りが続き、その会話の途中でいきなり侑斗が自分自身を殴りつけるというジャブを放って視聴者を驚かせ、数歩進んだ後背中の芝居で痛さにしゃがみ込むというオチを附けて、強気で強面のシリアスキャラに見えた侑斗の意外に間の抜けた幼児的な可愛げの部分をまずチラ見せする。

正面に廻って侑斗の衣服から大量の砂がこぼれ落ちる絵面で視聴者は「ああ、やっぱりイマジンが憑いていたんだな」と得心するわけで、その流れで侑斗を覆い隠すように画面手前にデネブが迫り上がって実体化する。カットしてデネブの見栄切りに寄って彼を紹介し、ベソをかいて「おまえのせいだ」とデネブをやり過ごす侑斗の襟にデネブが手を掛け、侑斗のベストの背中が裂ける。最前の会話からデネブのズレた感覚はそこはかとなく漂っていたわけだが、力の加減がわからずに誤って衣服を破るという描写でそれは決定的な印象として視聴者に強調される。

一旦背中でタメてから振り向く侑斗を怖れて、デネブが破った衣服の切れ端で顔を隠す芝居で、「こいつ、意外と可愛いんじゃん」「悪いイマジンじゃないみたい」と視聴者に印象附けてから、ニヤリと意地悪く笑った侑斗がデネブに飛び掛かってプロレス技の連打に雪崩れ込む流れは、思い切ってマンガ的に誇張されたジャンプやコマ落としでコミカルに見せ、気の置けない間柄の「プロレスごっこのじゃれ合い」として提示して、この二人の間の肉親的な近しい関係性を端的に叙述する。

ここまでがアバンで一気に語られているわけで、桜井侑斗&デネブ組のファーストアピアランスとして、まさに最少の映像で最大の叙述要素が盛り込まれているわけである。

先週からの引きの部分で良太郎と侑斗の緊張感溢れる対決を一旦終わらせ、侑斗の裏の顔、イマジンが憑いていること、そのイマジンの性格、彼ら二人の関係性という合理的な手順で侑斗とデネブを紹介し、併せて第一八話のラストで現れた際の「どうせこいつも草加キャラだろ」的な視聴者の予断を鮮やかに裏切って、この二人に対する好感を抱かせてしまう。

また、アバンの侑斗が終始バックに木々の緑を負っているのは、ジャンクションでもわかるようにゼロノスのイメージカラーが緑という含みもあるだろう。先週の編集素材から新撮素材に移るブリッジとしても、強風に激しく揺れる木々の若葉のアオリをOLで数回インサートして、電王=良太郎を中心としたこれまでの電王ワールドにゼロノス=桜井侑斗の登場が巻き起こす波瀾を予感させる。

セラムンの例で言えば、初回ローテで前述のAct.5に続く木野まこと登場編Act.6を演出した際、木星の戦士ジュピターである木野まことを印象附ける為に、彼女が登場する場面には必ず背景に木々の緑を入れ込むという見せ方をしたことがあるが、今回の桜井侑斗登場編での演出はその焼き直しに留まらない。

この場面では若葉のカットを数回インサートすることで彩度を落とす段取りを踏み、良太郎との会話の場面に繋げており、さらにこの彩度を落とした良太郎との対決からデネブとの会話の場面に移るきっかけとして、鮮やかな緑の分量を多目に画面に入れ込んで絵面の上でのアクセントにしている。

それがさらに、加工された映像→自然で鮮やかな色彩の映像という対比を構成し、良太郎の前での傲慢な態度は一種の取り繕った虚勢で、デネブと二人きりになったときの子供っぽい態度こそが、桜井侑斗という人物の「素」であることの目配せとしても活きているわけである。

勿論これは、心理上の「効果」として効くか、観念上の「認識」として効くかは視る人夫々で違うだろうが、注意深く映像を視る人であれば、冷たくグニャグニャした絵面で見せられていた良太郎との対決からパッと場面が切り替わると、緑豊かで穏やかな絵面になって、そこで長閑なじゃれ合いが演じられるのだから、こっちの侑斗のほうが本当なんじゃないかな、そうだったらいいな、という印象を受ける筈である。

そういう視聴者の感じ方をもたらす絵面が何ういう計算に基づいて撮られているのかを説明すると若干理屈っぽくなるが、何によらず受け手に届く表現というものの背後にはキチンとした理屈というものがあるのであり、行き当たりばったりの勘で撮れるものではない。

一枚の絵を撮る為には、構図を考え、カメラのポジションを考え、人物の動きとカメラの動きを考え、それが何う見えるかを考えた上で、さらに撮り上がった素材の繋ぎ方を考える必要がある。勘やフィーリングだけでそんなことが出来るものではない。そのすべてを考え併せて整合的な意味に繋げる緻密な理屈こそが映像表現の「知恵」というものなのである。

この場面は小林脚本の段取りが良かった部分もあるが、それを映像化する場面でのこのような畳み掛けが脚本のドラマ性を最大限の効果で語っているわけで、「あっ、あの頃の舞原演出!」とぐいぐい引き込まれてしまう。このように、連続性を意識して多重的且つ有機的に設計された映像の組み立てこそが、映像作品における「表現」というものなのである。

冒頭の会話で彩度を落とした絵面が、直後の場面の絵面の効果の前フリとしても活きているわけで、Bパートにおける良太郎と侑斗の二度目の対決との対照としても活きている、その対照が何か新たな意味を語る、そういうふうに全体における細部として各場面の絵面が設計されているわけである。

それは、映像作品というものがその場その場でバラバラな個別の映像パーツをただ単純に繋げた動く絵巻物ではなく、連続的に繋がり有機的に参照されることにより、その経過時点において最適な劇的意味性を生み出していくものだからである。さらに、一つの映像パーツに別々の観点において多重的な意味性が生じるような情報量の多い描き方をすることで、前述のような「映像の経済性」が成立するのである。

たとえば、このアバンの侑斗と良太郎の対決の絵面が印象に残っている視聴者なら、後半で愛理とハナを交えてもう一度演じられる対決場面が何う撮られているのかにも関心を持つだろう。

アバンの対決場面の撮り方が、侑斗に追い縋る良太郎の心情に寄り添って手持ちによる積極的な寄りの距離感で終始構成されていたのに対し、後半の対決場面では、俯瞰のロングを適宜交えながら多彩な距離感で撮られていて、ファーストインプレッションから踏み込んでこの両者の関係の深まりを雄弁に語っている。

ハナと良太郎が歩いている場面は移動撮影でスムーズに流しているのだが、そこにミルクディッパーを出た侑斗が鉢合わせするという呼吸で、歩いてきた良太郎たちを俯瞰のパンで附けて侑斗をフレームインさせる。このように撮ることで、ふと視線を巡らせたところに侑斗がバッタリ現れたような印象を醸し出すと同時に、ここの対決場面に対する視聴者の「遠巻きの距離感」がまず設定されるわけである。

ここでお互いに相手に気附いて睨み合いになる呼吸で、一枚だけフェンス越しの映像がインサートされているのが上手い。フェンスの金網と柵で良太郎&ハナと侑斗を額縁に入れ、右と下の二辺にコンクリートの土台と壁を入れ込んで良太郎&ハナ組を入れ込んだ額縁を窮屈に見せている。小さい方の額縁に二人の人物を入れ込み、大きいほうの額縁に一人の人物を入れ込んでいるのだから、何うしても前者のほうが窮屈に見える。さらに手前のフェンスはパースを附けた右上がりの斜めの構図で撮られているから、何うしても左にいる侑斗の立場のほうが強そうに見える。

その一枚の絵面で、出会い頭のタイミングでは良太郎が侑斗に気圧されていることが視てとれるわけだが、後にも先にもフェンス越しに撮った映像はこれだけなので、その一枚の絵の為だけにカメラをセッティングしたわけである。そんな気の利いたことを現場の即興で思い附いたのだとしたら感心してしまうし、ロケハンの際にすでに計算していたのなら如何にも捨て目が効いている。

すでに本編の描写で侑斗の可愛げの部分を識っている視聴者に対しては、今更彩度を落とした余所余所しい絵面で見せる必要はないのだから、手持ちでフラフラ撮る寄りの絵面は、姉の登場をきっかけとした良太郎の焦りを仄めかす呼吸で、最初の対決の余韻として交えられているのみである。

アバンの再現であるこの手持ちフラフラは良太郎が焦りの剰り姉に向かって「(姉さんには)関係ないから」と心にもない冷たい言葉を吐き捨てるタイミングで、サッと俯瞰のロングに切り替わる。

ここの俯瞰のカメラポジションは最初の鉢合わせの場面とは別の位置に据えられているが、何故別の位置なのかと言えば、良太郎の言葉に痍附いた姉のうなだれた仕種を正面から捉える為である。最初の位置では、前後の繋がりから言って姉を正面から撮ることは出来ないから位置が変わっているのである。

さらに、何故俯瞰なのかと言えば、四人の対話に興味を感じて間近で視ていた視聴者の心が、良太郎の乱暴な言葉で遠巻きの位置まで「引いてしまった」からだし、距離が遠くて表情までは判別出来ないが、姉のうなだれた仕種を見せることで、そのつれない言葉に姉が痍附いたことが押さえられているわけである。

ハナと姉がハケた後、良太郎と侑斗の二人きりで再度対決する流れとなって漸くカメラはこの二人を等分に扱う動き方になり、横移動で人物の動きに附けてもう一方の人物をフレームインさせるというカメラワークが中心になって、侑斗が姉を侮辱するような言葉を吐いて良太郎が気色ばんだ瞬間に型通りの固定のツーショットになる。

つまり、アバンで侑斗が意味ありげな仄めかしで良太郎を挑発してからこの場面に至るまで、良太郎は侑斗の正体や本心を掴みあぐねて劣勢に廻っていたわけだが、この一連のやり取りを経て、侑斗の存在が姉を痍附けるかもしれない可能性を感得するに至って漸くその焦りに踏ん切りを附けて対等の位置に立つわけである。

そこからM良太郎へ変身して睨み合う流れでは、手持ちカメラはフラフラした揺らぎではなく、劇画的な寄りの効果(擬音附きの集中線みたいな(笑))やダイナミックな構図の動きを出す撮り方にシフトする。さらにそこで、M良太郎の前にD侑斗が出現しお近附きの印に飴ちゃんを渡すコミカルな場面に至って、俯瞰からじりじり寄った後に普通の切り返し中心の固定の構図にシフトすることで、視聴者の緊張や遠巻きの距離感を解きほぐすわけである。

最初に俯瞰のロングが視聴者の立ち位置として設定されているのは、この緊張感溢れるやり取りを野次馬的に遠巻きに視る心理を仮想しているわけで、人物の芝居場は普通の距離感で撮られているのだが、その対立が劇的にヒートした場面で適宜俯瞰のロングに素早く戻ることによって、恐る恐る覗き込んでいて何か激することがあれば引くという及び腰の「観察者の姿勢」が想定されているわけである。

D侑斗のコミカルな場面で俯瞰からズームで寄るという動きになっているのは、その設定において、「あ、もう大丈夫かな?」と観察者がこの二人に近寄って行く動きを表現しているわけで、俯瞰からズームするという動きはこのワンカットにしかない。ここで初めて観察者である視聴者自身がこの二人の傍らに立つ、つまり俯瞰ロングの位置からソロソロと二人と同一地平の位置まで降りていくわけである。

ここで良太郎にもアバンの後半で視聴者が識ったデネブと侑斗の無邪気な関係が暴露され、ここに至って漸く両者の緊張関係と視聴者のハラハラした及び腰の姿勢は解除されるのであり、ここの対決場面全体は両者夫々の視点で乖離していたアバンの前半と後半が融合するまでを描いたものになっているわけである。そして、ラストで三度この二人が対決する場面では、すでに良太郎の側が侑斗に気圧されているという表現はない。

このエピソードで描かれている物語要素自体は、これまでの平成ライダーで飽きるほど見せられてきた「味方陣営同士の対立」でしかないが、それをこのような精細な映像話法で語る演出はこれまで視たことがない。似たような絵面が表現されているとしても、狙いはまったく違うのであって、それはそのほうが格好良く見えるからであり格好良く見えるという以外の意味性はない。

オーセンティックな特撮ヒーロー番組においてはそれ以外は必要ないからだということはすでに語ったが、たとえばドラマがわからない子供が視る場合、「このお兄ちゃんたちはケンカしてるの?」的に侑斗と良太郎の対立という「イベント」さえ呑み込めればそれでいいわけで、対立しているキャラやそのイベントを格好良く見せればそれで満足するわけである。

それを大人の視聴者が視た場合は何となくモニョった印象を受けるわけだが、今回の舞原ローテに関しては大人の視聴者に概ね評判が良い。少なくともオレが常日頃覗いている感想ブログでは悪い評判は聞かないし、そのようなブロガーの方は一般ドラマや映画も同様に愛好している方が殆どである。

個人的な意見では、このエピソードを視て何も感じない視聴者というのは、この演出術の違いに気附かないということなのだから、要するにそういう人間ドラマ的な部分や映像それ自体が語るものは何うでもいいというスタンスでトクサツを観ているのではないかと思う。従来とはこれだけ違う見せ方や描き方をしているのに、響鬼の桐矢と同じ見方で中村優一の演じるキャラをコキ下ろせるというのは、ある意味物凄い割り切りだとすら思う(笑)。

言い方は悪いが、それは子供と同じ見方で格好良いヒーロー活劇を求めているということになるだろうし、そのような視聴者のトクサツの見方というのは、リアルタイムの映像作品として一般ドラマや一般映画と分け隔てなく観ているのではなく、「童心に返った娯楽」という特殊な色眼鏡で観ているのではないかと思う。

たしかにまあ、大の大人が子供騙しの嘘事の特撮ヒーロー物語に熱中するというのは剰り外聞の良いことではないのだろうが(笑)、外聞が良かろうが悪かろうが事実において大人が本人の勝手で観ているんだから、何も心根まで子供に戻る必要などはないし、それがトクサツなんかに熱中することの免罪符になどはならない。今回のように大人の知恵が十二分に盛り込まれている映像作品の真価がわからないのでは、事実において大人である意味がないだろう。

これまで語ったようなドラマ表現上の演出もさりながら、ドタバタの小ネタの見せ方にも細かい計算と知恵が行き届いていて、ドタバタ演出がウケるかサムいかというのは、単なるセンスの問題だけではなく、こういう見せ方や表現の計算が出来ているか何うかという部分も大きいということがわかる。

ちょっとした小ネタを例にとるなら、クライマックスの戦闘場面でいつものように型通りの「DOUBLE-ACTION 」が流れたかと思ったら、イマジンの攻撃で名乗りを邪魔されたタイミングでブッツリ劇伴を中断し、気を取り直して再び続けるというのは高丸雅隆辺りがよくやる劇伴ネタだが、舞原演出だと流石にネタの切れ味が違う(笑)。

この曲は先日カラオケで歌い込んだので割とよく識っているのだが、トーシロに歌わせてたまるかとばかりにイヤガラセのように無闇に転調するエイベッ糞らしい曲調の楽曲で、冒頭の「こぼれ落ちる砂のように」というくだりが後半で変にシャープして繰り返される。

今回の劇伴ネタでは、普通に冒頭から流しておいて、ジェリーイマジンの掟破りの攻撃で中断した後、後半で同じ歌詞がシャープするところから続けていて、それが何となく相手の無粋な攻撃にイラッと来てぶちキレたように聞こえるのである(笑)。

ぶちキレているくせに一応型通りに真面目くさって「DOUBLE-ACTION 」を歌っているように見えるのが何だか妙におかしい。これはモモと良太郎本人が歌っているという設定の楽曲を上手くネタに絡めているということで、セラムンでも劇伴使いの上手いところを見せた舞原賢三だが、こういう小ネタがモモのキャラに合っている辺りがまた計算が届いていて笑わせるのである。

また、本格的なスラップスティック描写を例にとれば、たとえばタイトル明けから程なくして侑斗がデネブに破かれたベストの替えを買いに行く場面の演出なども、モンタージュをきっちりこなしていて視線の誘導が巧みだからこそ、笑いの間として効いてくるのである。

まず店内を一望する俯瞰ロングで右奥手に侑斗のいる試着室を捉え、試着室内にカットして仰観で新しいベストを身に着けご機嫌な侑斗の全身を見せ(試着室の左右が狭くてカメラを引けないから仰観の縦の奥行きで全身を見せているわけである)、カーテンを閉めて店員がフレームアウトするロング、試着室内の固定の寄りで侑斗の独り芝居、先ほどのロングに戻ってカーテンの揺れでデネブの出現と揉み合いを匂わせ、不審に感じた店員が三々五々寄って来る。

さらに狭い試着室内に戻って狭さを強調する寄りの絵でその揉み合いを見せ(カメラ前のアクリル板に顔を圧し附けるというアニメ的な表現もある)、店員のリアクションのアップに切り替え、続いて試着室前の極々近い位置に寄って店員を入れ込んで、サッとカーテンが開くタイミングでビクッと店員が後ずさりして画面に芝居の空間を空け、侑斗がクシャクシャになった万札を出すタイミングで手許のアップに切り替えて、チーンというレジのSEを重ねる。

ここまでが一続きのシーンで、SEきっかけでスパッと今回のゲストキャラである天野とイマジンのくだりに切り替わる。

ドタバタのテンポが良いとか悪いとかいうのは、こういう組み立てが出来ているか何うかということなのであって、芝居だけで笑いの間がとれるものではない。ドタバタの撮り方をわざわざ詳細に解析するのも野暮の極みだが、ただ「テンポが良い」「センスが良い」とか表現すると「それはおまえの好きずきだろ」とかわからんコトを言う輩が必ずいるので、念の為に説明してみた(笑)。このくだりには無意味で不必要なカットはなく、撮り方にも繋ぎ方にもそうでなくてはならない必然的根拠がある。

ただカットを割っているだけではなくて、試着室内と店内を切り返しながら視聴者と劇中の店員を試着室内のドタバタにソロソロと近附け、カーテンの前まで来た段階でサッとオチを附けているわけである。試着室内のドタバタの慌ただしいテンポと店内のソロソロとした動きのテンポにギャップがあって、その両者がかち合うタイミングでスパッとオチを附けているからドタバタとして効いているのである。

さらに、オチのSEとしてチーンとレジの音が鳴っていることで、お金を出すという動作の表現としても、侑斗がその服を買ってレジで清算したという省略表現としてもとれるようになっていて、さらに次の場面がゲストキャラにイマジンが憑くシリアスな急展開ということで視聴者のムードを切り替える合図ともなっている。

つまりこれは、侑斗の筋道に適宜インサートされるゲストキャラの筋道との気分の切り替えの合図であって、たとえばこの場面に続く天野とイマジンの邂逅の場面で、驚愕する天野の瞳孔にカメラが急激にズームする際の効果音がスパッと途切れ、さらに続く場面で侑斗がミルクディッパーに入店すると、柱時計の振り子の音が漸強して不意に途切れ、その次の場面で幼女に襲い掛かるジェリーイマジンの不気味な効果音が途切れてミルクディッパーの静謐な佇まいに移るのと同様の切り替えの手法である。

最前指摘したように、ただその場の映像パーツにおいて意味があるだけではなく、全体の一部としても機能し、次の映像パートにおいても必要不可欠となる要素として各要素が多重的に配置されているわけである。

その流れで全体構成の話に移るなら、Aパートはこのように侑斗のミルクディッパー訪問とイマジンの策動を交互に見せているわけだが、Bパートは前述した二度目の対決とイマジンとの戦闘にかっきり二分されていて、そこにエピローグとして三度目の対決が来てゼロライナーのお披露目で次回へ引くという段取りになっている。

劇場版の併行撮影という大人の事情もあってAパートでは殆ど良太郎の出番はなく、デンライナー車中のくだりから良太郎の回想中の桜井と愛理をブリッジとして、現在の侑斗と愛理の邂逅というメインストリームに引き継いでいるわけだが、侑斗が本当に良太郎の識る桜井侑斗と同一人物であるとすれば、Aパートの侑斗サイドのドラマは甘酸っぱい情感の含みを込めて演出されている。

中村優一の演じる桜井侑斗と名乗る人物が、過去から来た少年時代の桜井侑斗当人であるという想定に基づけば、ということになるが、この侑斗にとって愛理とは、自身に実感のない未来の恋愛を経て自分の婚約者となるべき年上の女性である。良太郎の識る桜井は何う視ても愛理より年上なので、普通に可愛い年下の恋人として愛理に接していたのだろうが、この若い侑斗にとって愛理は自分より年上でまったく未知の美しい女性ということになる。

最前視た試着室のくだりも、若い侑斗が年上で未知の女性に立ち向かう幼児的な気負いと捉えると尚更可愛く見えるし、愛理に砂糖の入れ方を注意された侑斗が片意地を張ってガンガン砂糖を入れるのも、愛理に対する突っ張りとコーヒーの苦さに顔を顰める幼児性を同時に表現しているわけで、脚本上の描写としては「そういう年下男の可愛さと年上女の優位性を表現してね」と演出に要求しているわけである。

この全体的な設計に基づいて、まずデンライナー車中の良太郎の回想における愛理をとびきり美しく見せているわけで、既存素材を美しくレタッチして幸福だった頃の愛理の輝くような美しさを強調し、桜井と良太郎の失敗を視て噴き出す過去の愛理に重ねて現在の愛理へとスイッチする。

この回想からの引き継ぎでは望遠鏡が小道具として巧みに用いられていて、回想の入りを望遠鏡のアップから始めて、その望遠鏡が現役で活躍していた頃のクリスマスには、現在望遠鏡が飾られているテーブル上にツリーが飾られ、その飾り附けをしていた桜井が良太郎の上に転げ落ちて(この頃から良太郎は運が悪かったわけである)愛理が噴き出す、その過去の愛理から現在の愛理にスイッチすると、現在の愛理はテーブル上の望遠鏡を眺めている。このようにして望遠鏡がデンライナー車中からミルクディッパーに視点を引き取る往還の小道具として巧みに用いられているわけである。

普通なら、この回想場面の記憶は姉弟の間で共有されている筈なのだが、愛理は桜井との過去をすべて忘れているので、何故自分が望遠鏡を眺めているのかわからない。だからこの場面の愛理の表情には哀しみが見てとれず、少し愉しげですらある。

愛理が桜井失踪のショックで記憶をなくしたのであれば、最も抑圧したい記憶とは嘗て存在した桜井が今はいないという事実だろう。だとすれば、望遠鏡を眺めることで何かの気分を感じるとしたら、それは桜井を喪った哀しみではなく、最も幸せだった頃の楽しさだろう。その意味で、この表情芝居は愛理の心情に合致しているのだし、合致していることで却って視聴者に哀感を感じさせるわけである。

そんな愛理の物思いを破るかのように、現在の日常の象徴である三浦と尾崎が現れるわけで、二人の脳天気な登場に一瞬呆れたような表情を浮かべた後、いつものように満面の笑みに転じて、今のミルクディッパーにはいつものように愛理と三浦と尾崎の三人がいる。

そこへ前述のドタバタを経てめかし込んだ侑斗が入店してくるわけだが、仏頂面の侑斗と視線を交わした瞬間、愛理の表情が何か想い出しかけたように僅かに変化する。そこに柱時計の振り子の音が重なり、この二人の間に何かしら時間というファクターが介在することが仄めかされる。

ここで公園のジェリーイマジン出現シーンを挟んで、カウンターでコーヒーを入れる愛理の手許にスイッチし、愛理に群がる二人の男、そしてそれを見詰める侑斗を手前の位置に入れ込んだロングにカットする。この場面では侑斗の視線が視聴者の視線を誘導する形になり、ミルクディッパーの現状を侑斗視点で観察するくだりとなる。

侑斗の視線を介してカウンターからテーブルに叙述の視点を引き取ったわけで、さらに侑斗が視線を反対側に移すことでテーブル上の望遠鏡にカットする。さらにカットして侑斗のバストアップで思い入れ(つまり望遠鏡にカットして戻ってくるまでにカメラが侑斗に近附いている)、そこに尾崎の素っ頓狂な声が被ることでカウンターに戻る。

一頻り尾崎の調子の好い口説きと三浦との鞘当てが演じられ、とろけるような笑顔を浮かべながら「コーヒーたちが仕事してますから」といういつもの決めゼリフを言う愛理のアップにカットする。そこからさらにロングに戻るのだが、カメラ位置は最前と微妙に変わっていて男たちからのプレゼントの山を画面右下隅に入れ込んでいる。新たに入れ込んだショットであるプレゼントの山が視線を引き取って、手前にそれをナメた侑斗の切り返しにカットする。

侑斗がカメラを見返したタイミングでカットして、ホワイトボードに「忘れ物」と書かれたプレゼントの山の正面ショットをインサートし、さらに俯瞰の絵で侑斗が視線を戻して独白するタイミングで背後からさっと愛理の手が伸びてコーヒーを置く。振り返って見上げる侑斗の視線の先に愛理がいて、切り返しの呼吸でここは仰観になっている。

愛理が首から腰までしか移らない位置で侑斗の横顔の芝居を捉えたカットが二回ほどインサートされ、右下手前に侑斗の顔、左上奥に愛理の顔を捉えた仰観のアングルで芝居場が設けられる。

そろそろ退屈だろうからこの辺にしておくが(笑)、この場面の芝居場の何とも言えない甘酸っぱい心象というのは、このように丁寧に段取りを踏んで視聴者の視線を誘導する絵面の組み立てに基づいて成立しているのである。

野上愛理という未来の婚約者の店に乗り込んできた侑斗の突っ張りや、今現在の愛理の生活を眺め回す視線、その愛理との間で持たれた会話の素っ気なさ、それは役者の芝居がそう見せているだけではなく、映像がそのように語っているのである。

勿論、愛理や侑斗の表情芝居の的確さを視れば、芝居の附け方に粗漏はない。演技力に若干不安のある中村優一の芝居も演じる所作に間違いはないし、実質的なAパートの主役である松本若菜の演技も脚本の要求通り切なくて美しい。しかし、的確な芝居を附けた上でそれを何う見せるか、それが映像作品では重要なのである。

ある種、侑斗は未来の自分が失踪したことで愛理がどんなに悲嘆に暮れているのか心配していた部分があるのかもしれないが、記憶をなくした愛理は男たちから言い寄られてニコニコ愛想笑いしながら満更でもない暮らしを楽しんでいる。これを徹底的に侑斗の視線を借りて見せる見せ方が、表情に顕れない侑斗の内面の動きのアリバイとして活きているわけである。

これをたとえば普通にパッパッとカットして羅列的に見せたら、まったく同じ脚本やセリフでも見え方は全然違ってくるはずである。というか、従来のライダーで侑斗タイプのライバルキャラの切ない心情が積極的な想像力で補完しない限り剰り迫って来ないのは、こういう見せ方をしていないからである。

また、勝手に心配していた女性がそんなに不幸そうでもなかったということに裏切られたような気分を感じ、ムッとした侑斗の子供っぽい部分が素っ気ない態度やBパートの暴言となって顕れるわけだが、愛理との会話を仰観と俯瞰の落差を設けて「年上の女性に見下ろされている」位置関係において描いたのが効果的である。侑斗のような幼児的な性格の若者は、女性として意識している年上の相手から物理的な高低としても見下ろされるのは剰り好い気持ちはしない筈だからである。

このような位置関係を強調する絵面で芝居を見せることにより、少しずつ確かめてから砂糖を入れろという愛理の助言に対して侑斗が意地を張り、無闇に砂糖を何杯も放り込むという段取りが活きてくる。

手ずから丁寧に落としたコーヒーに対する愛着は現在の愛理の日常の象徴であり、愛理の助言はそんなコーヒーを大切に味わってねという願いでもあるわけだが、それを暴力的に砂糖の甘さでワヤにしてしまう侑斗の振る舞いは、愛理の現状に対する反感の表現でもあるわけである。

それを年上の女に見下ろされているという位置関係で描くことで、年下男の可愛い虚勢としても見せているわけで、そんな虚勢を張っておきながらブラックコーヒーが苦くて飲めないというのも子供っぽい。

本格的なコーヒーの味わいがわからない幼稚な味覚を仄めかすことで、コーヒー豆を熟知し美味しくいれることに心血を注ぐ愛理よりも物事がわかっていない、つまり、男女の関係で言えば格下であることをも表現しているわけである。それが愛理サイドのリアクションとしてではなく、一種侑斗サイドの「見下されまい」という虚勢やコンプレックスとして表現されている辺りが如何にも「わかってる感じ」である。

そしてAパートは、そんな自分の片意地の自業自得で甘くなったコーヒーに辟易する侑斗の滑稽な表情を捉えて終わり、Aパートに盛られた侑斗サイドの筋立ての締め括りとしてオチを附ける。ここで語られているのは、侑斗が愛理の現状を偵察するというただそれだけの極々単純なイベントだが、ドラマファンならAパートで完結するこの短いスケッチに十分なドラマ性と男女間の心理の機微を感じた筈である。

前述の通りBパートの侑斗は、お釣りを渡す為に追ってきた愛理を痍附けようとして良太郎をハラハラさせるわけだが、愛理の「何処かで会ったことがあると思った」というセリフきっかけで少し表情を緩めて名乗ろうとするわけだし、何もかも忘れて暢気に暮らしている愛理に対する苛立ちや、愛理に過去を想い出させたいという気持ちに嘘はないのではないかと思わせる。そのような心情に至るまでの言外の心理プロセスが、ミルクディッパーの芝居場でアリバイとして押さえられているからである。

何故侑斗は愛理を痍附けたかったのか、それは要するに愛理に対して男として引け目を感じたからである。彼女の心を暴力的に痍附けることで、自分よりも下の位置に引き下ろしたかったからである。何故なら、ミルクディッパーの芝居場で無意識の裡に自分が愛理よりも下の位置にいることを感得してしまったからである。

ああもう、侑斗クンてばホントにお子ちゃま(笑)。

そのような侑斗の幼児的な悪意は、他ならぬ良太郎の心ない言葉によって一応満足を得られたわけで、打ち拉がれて去る愛理の姿を視ることでひとまず侑斗の稚ないプライドは満足するわけである。彼女の後ろ姿を見送る侑斗の表情が「ザマミロ」的な面憎い芝居なのはそういう流れ上の心理で、先ほど指摘した愛理のうなだれた姿を正面から押さえるカメラワークの根拠はここにあったのである。

そして、ここまでの流れの中で侑斗の感じるコンプレックスや引け目が、侑斗の一方的な思い込みによるもので愛理には一切責任がないように描くことで、そんな一方的な思い込みを根拠にして女性を痍附けようとする侑斗の身勝手さが強調され、姉を想う良太郎の気持ちが却って彼女を痍附けるという流れに切ないものを感じてしまう。それでいて、愛理に対する侑斗の引け目も共感出来るだけに、そんなワルモノの侑斗もまた何となくいじらしく可愛いキャラに思えてしまう。

おいおい、これってホントに平成ライダーなんですか?(笑)

おそらく、原脚本の根底の部分にはこのようなキャラ認識があるのだろうし、このような関係性の認識がある筈である。しかし、この脚本を従来的な演出で表現した場合に、すでに視てしまった舞原演出が表現しているような機微を十全に表現し得ていたか何うかと想像すると、そうではないのではないかと思う。

おそらくミルクディッパーにおける侑斗の振る舞いは、型通りの草加キャラの傍若無人な傲慢さとして映っただろうし、Bパートで愛理を痍附けようとするのも「ああ草加なんだからそのくらいするだろ」的に見えていたのではないだろうか。それに対してたとえば今回視てきたような意味性を補完して解釈した場合、そうは思わない人から「脳内補完乙」と言われてオシマイだったのではないだろうか。

たとえば二言目には「脳内補完乙」と繰り返すような輩は、「映像に映っているものがすべてだ」というようなことを言う。それはその限りでは正論である。そして、従来のトクサツ演出で何故「脳内補完乙」に対して積極的に反論するのが難しかったのかと言えば、たしかにそんな意味性は映像に映っていなかったからである。

たとえば同じ中村優一が演じた同じようなキャラである桐矢京介が何故あれほど嫌われたのかと言えば、脚本術や個別の描き方を措いて言うなら、人物設定や言動から類推されるような心情の動きが画面に映っていなかったからだとオレは考える。勿論、どのように描こうが子供の目から視れば「明日夢をいじめる憎たらしいお兄ちゃん」だが、大人の目からすれば、その心情に共感出来るか否かで好悪の情は一八〇度違っていた筈である。

人物設定やセリフがこうなっているからこの場面の心情はこうだろうというのは、ほぼ脳内補完と選ぶところはなく、映像に映っているとは言わないものである。それは言葉として与えられた情報に沿って類推しているだけで、つまり、子供の目には変わらないことだからそんなところに力を注いでいない、最初からそこには描写など存在しないということである。

ぶっちゃけついでに暴言を吐くと(笑)、オレは井上ライダーに登場するライバルキャラが一人残らず大嫌いなのだが、それもやはり筋立て上の言動において面憎いという以上の内面の心情を映像が積極的に表現しておらず、その部分に関しては視聴者の類推による補完に丸投げしているからだと考えている。その意味で、男のオレが同性の俳優が演じる役柄の魅力をわざわざ進んで補完する動機はないのだから、描写の欠如がその儘欠如としてしか感じられないということだろう。

今回登場した桜井侑斗というキャラも、おそらく舞原演出でなかったら同性のオレが可愛いげを感じることはなかったのではないかと思う。これだけ表面上の言動が面憎い身勝手なキャラを、オレのほうから積極的に補完して心情を類推してやる動機はないのだから、普通のライダー演出だったらオレだって「どう視ても草加です、ありがとうございました」でオシマイにしていた筈である。

しかし、今回のような雄弁な演出で侑斗の心情ドラマを見せ附けられてしまったら、無碍に嫌うという気持ちにはなれない。憎たらしいことをするカードボードとして提示されているわけではなく、普遍的な人間心理に則って彼の置かれた立場なりの人間ドラマを演じる存在である以上、ある程度の共感によって橋渡しが為されてしまい、型通りの憎まれ役というような共感の杜絶した存在では在り得ないのである。

TV特撮ヒーロー番組において何故舞原演出が凄いのかと言えば、ドラマの意味性が映像に映っているからであり、意味性が表現として映像に映っているからこそ、演出の表現として語り得るのであり、人間ドラマが成立し得るのである。

世の中には、たとえば井上敏樹が「現実には意味なんかないんだから物語に意味を求めても無駄だ」というような尤もらしいことを言うと素直に真に受けるナイーブな人もいるようだが(笑)、それは単に苦し紛れの韜晦でしかない。

現実に意味がないのは現実だからであって、フィクションをそれと同等視するのはただの不見識である。在りの儘の現実を意味性に則って切り取ったのがフィクションなのだから、たかが一人の娯楽映像の脚本の書き手が物語に意味を求めるなと言い放つのは不遜だろう。

単にそれは、前述のような固有事情から井上敏樹が場を占めているジャンルではタイトな意味性を追求することが困難で、そのような関心で作品を視ていると必ず裏切られるから、受け手への親切心でそう言っているだけの話である(笑)。

それはもう、ベテランの書き手がそう言っているんだから間違いない。

しかし、本来劇映画というのは舞原演出的な映像手法によって意味を特定していくものなのであり、時間の経過に沿って順次意味を特定していく作業こそが物語を語るということなのである。そういうことがキチンと出来ている演出があって初めてトクサツもまた一般ドラマや一般映画と何ら分け隔てのない映像作品として読み解き得るのである。

所詮「物語に意味なんか求めるな」というのは、如何に尤もらしく響こうとジャンルの個別事情に特化した「大人の事情」の韜晦でしかないのだ。

これまでオレはトクサツ番組に関して剰り演出を細かく論じてこなかったが、それはつまり減点法のドラマ演出など子細に論じても面白くないからである。それよりも、ガワを格好良く撮ることが第一義として求められるトクサツの現場において、せめて文芸としての意地から人間ドラマを語ろうとする脚本を論じたほうが面白いから脚本中心の解析に傾いてきたわけだが、本音の部分を言えば、映像作品である以上映像を論じたい気持ちは山々ではある。

実際、劇場映画に関しては演出を主体に語ることのほうが多いのだが、やはり一般的にTV特撮ヒーロー番組の演出というのは求められる面白さが異なるのだし、それを映画批評的な尺度で語るのは野暮だろう。

今回の舞原ローテを視て久しぶりに演出を語りたくなったわけだが、セラムンから数年を経た今となっては、このようなドラマ性を前面に打ち出した演出がトクサツジャンルの主流となることはまずないのではないかと悲観的に感じている。嘗て考えていた以上にトクサツ的な演出術とそれを前提とした脚本術は密接に結び附いているのだし、それは子供相手のビジネスがそれなりにペイする裡は変わらないだろう。

セラムンの舞原演出は、トクサツ業界関係者なら残らずその目で視た筈なのだが、その後誰一人としてそれに発奮してこの種の演出を試みようとした者はいなかったし、この種の演出術に向くような脚本を書こうともしなかった。それはこの種の映像作品の在り方は、本来トクサツのビジネスにはまったく関係ないからである。

その意味で、今回の舞原演出は久しぶりにセラムン莫迦を熱狂させたが、これが東映特撮の今後の演出スタイルに何某かの影響を与えるか否かという部分に関しては、どちらかと言えば「遠巻きの距離感」で見守らせて戴くことになるだろう(笑)。

多分今回の舞原ローテの演出術は、お子様の視聴意欲を減退させるようなものではない替わりに何うという興味も惹かないだろうから、いわば幼児番組としては無駄手間で、やはりオーバースペックなのである。このような演出術でドラマに一本筋が通って喜ぶのは大人のドラマファンや映画ファンだけである。

大普遍の映像作法としての舞原演出の正しさは揺るぎないのだが、それがトクサツという個別の映像ジャンルにおいて必要とされているかというのは別問題なのであり、それでよけいな手間が懸かるのだとしたら、まるっきり無駄な手間暇だということになる。

この演出術が他の監督を刺激するとしたら、個別ジャンルのプロフェッショナリティの部分にではなく、大普遍の映像人としての部分に対してなのである。たとえばオレが東映特撮の監督だとして、「映像作品を撮りたい」と思ってその一ジャンルとしてトクサツを捉えその演出者となったのなら、舞原演出のような方向性の演出術で作品を創ってみたいと望むだろうと思うが、最初から「トクサツを撮りたい」と思ってトクサツ演出者になったのならば、別にそのような気にはならないだろうと思う。

つまりそれは、普遍に根っこを持っているのか、個別性に特化しているのかというレゾンデートル上の差異である。個人的には、トクサツという特殊ジャンルの映像作家と雖も、苟も映像の分野で「監督」と呼ばれるほどの職業人である限りは普遍に根を持っていて欲しいと感じるのだが、それはまあ個々人の考え方である。

個人的には「小さき勇者たち」を撮れる田崎竜太には、映像人としての大普遍の根があるだろうと考えるのだが、田崎監督がその根っこをライダーに必要であると考えるか否かについてはまた別の話である。田崎監督は大予算の劇場映画だからああいう撮り方をしたのであって、だからこそオレもあれだけ無闇に演出を語ることが出来たわけだが、それとは客層の異なるTVシリーズの延長上にある劇場版ライダーでは、また別の撮り方をしているのである。

まあそれは前述したような脚本術の違いも大きいわけで、演出も脚本もトクサツというジャンル固有の事情を踏まえている以上、互いが互いをジャンル性の埒内に拘束している側面は否めないわけで、以前小さき勇者たちについてネットの感想を渉猟していたら「龍居由佳里は井上敏樹の爪の垢でも煎じて服め」という微笑ましい意見を目にしたこともあるが、社会一般における両者の知名度の違いというイヤラシイ話をするつもりはないが、そもそもこの二人の職業人は生きているジャンルが違う。

そういう意味では、折角の小林×田崎という魅力的な組み合わせの映画である劇場版電王だが、ライダー映画という確立された枠組みの埒内で、小林靖子だから、田崎竜太だからといって、これまでと何う違う映画になるという予感もしない。番組が好きな人には面白いんだろうね、という例のパターンに落ち着くのではないかと思う。

※これはオレの勘違いで、田崎監督は「仮面ライダーTHE NEXT」を担当し、電王劇場版は長石監督であるというご指摘を戴いた。

せめて今後白倉Pに望むのは、一度や二度のゲスト演出としてではなく、舞原賢三を主力的なローテーションに加えてほしいということである。東映特撮という固有の現場が何う変わるというものでもないだろうが、仮面ライダー電王という固有の番組は間違いなく変わる筈だから。

そういうわけで、纏まりのない話に終始したが、第一九話の演出絡みのレビューに関しては一旦こんなところで手仕舞いにしておこう。脚本やストーリーに関しては全然触れていないが(笑)、まあそれはそのうち追々に気が向いたら。

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コメント

おつかれさまでした(笑。
個人的に電王の方向性というのはセーラームーンのやり直しだと思ってるんですね。タロズの行動原理が良太郎への好意だという点とか、電王のはなしに内容がないというのも、セーラームーンが中学生日記と揶揄されたのと同じことだと思いますし。
その上で良太郎は以前黒猫亭さんがうちのコメ欄で言ってらした主人公性とヒーロー性と正義を円満に(白倉的円満ですがw)体現する主人公だと思ってまして、まあ電王の場合正義というより善意という方が正しいと思うんですけど、正義という偏狭なイデオロギーより善意という曖昧で誤りやすい動機による行動が、それでも結果的にもたらすささやかな救いというのはセーラームーンの最終回が描いたもんなんじゃないのかな、と感じるわけです。女子中学生ならともかく仮面ライダーがそんな軟弱なことを言っていて良いのかというのはあるんですが(w)佐藤君がとらえる良太郎のヒーロー性の質からいっても、テンションが温く感じられるのはそういうある種温いものを描こうとしているせいなんじゃないですかね。

投稿: quon | 2007年6月13日 (水曜日) 午後 10時12分

確かに20話は2号ライダーのためのイベント回なのでしょうけど、でもやっぱり良かったです。というか、19話、20話通して、喜びの2週間でした。ぜひ20話のレビューもお願いします。演出面だけでいいんで。
舞原さんには今後も電王を担当して欲しいですね。あと巨匠に弟子の鈴村さんを呼びつけてもらうわけにはいかないだろうか。
でも残念なことに、劇場版電王は『仮面ライダー THE FIRST』を担当された長石多可男監督のようです。で『THE FIRST』の続編『THE NEXT』(井上脚本)の方が田崎監督なんだとか。

投稿: Leo16 | 2007年6月13日 (水曜日) 午後 10時33分

>quonさん

どうもです。たしかに電王の世界観はセラムンを想起させるところがあって、良太郎の役どころはまさに荒くれ騎士に護られたプリンセスですわなぁ(木亥火暴!!)。そういう理由で佐藤健なのかよとかツッコミを入れたいとこですが、直接セラムンのキャラ関係を踏襲しているわけではなく、寧ろオーセンティックな戦隊のキャラ類型をアレンジしているので単純な比較は出来ませんね。quonさんがブログで言っておられたように、侑斗が「なっかりだわ」の人の役回りだというのはオレもそう思います。

白倉Pの最初の三部作の頃の思想でオレがよくわからなかったのは「正義なんて信用するなと言いながら、なんでそんなに正義に拘るのか」ということだったという話は散々しましたが、裏を返せば「信用出来る正義」が欲しかったんでしょう。その正義が信用出来ることを担保する為に、白倉ヒーローは常に「オレの正義は正しいのか」と悩み続ける羽目になるわけで、主人公自身が正義に対して懐疑し続けるという鬱陶しい手続がポーズとして必要だったわけです。

白倉作品としてのセラムンの面白いところというのは、実はセーラー戦士ってのは正義の味方じゃないんですよ(笑)。これは非公式ながらアニメ版のセラムンに関わっていた畑澤和也がプロデュースしたヴァニーナイツもそうなんですが、基本的にセーラー戦士がベリルを倒そうとするのはそういう前世からの宿命だからなんであって、正義の味方だからじゃないんです。「愛と正義のセーラー服美少女戦士」って名乗っちゃってますけど(笑)、筋合いから言えばセーラー戦士団は元々正義とは関係ない原理で動いているわけです。

寧ろ正邪とか善悪というのは銀水晶という超越力自体が担っているわけで、その銀水晶を護る戦士だからという理由で間接的に正義と位置附けられているわけですが、実写版の銀水晶は予定調和的な善悪二元論を嫌ったPの思惑で(笑)核兵器みたいな極性なき超越力として扱われてますから、セーラー戦士団は徹底的に自身のレゾンデートルの問題として前世と向き合っているわけです。

その一方で、たとえば畑Pは元々白倉Pと比べて正義という概念自体に拘りのない人ですから、ヴァニーナイツは完全に主要キャラクター同士の宿命の闘争劇に終始したわけですが、実写版セラムンの場合はうさぎの善意や利他心が他者に影響力を持っているという部分で白倉的関心に呼応するところがあったと思います。

そして、あの世界でうさぎの主人公性が力を持っているのは、自身の行動半径内のごく狭い人間関係の埒内で働く人間的影響力としてであって、見ず知らずの他人や世界全体を超越力で救うことがうさぎの力ではなかったわけです。寧ろ地場衛との宿命の恋を完遂しようとすることで世界を破滅の危機に晒したりするわけですが、そのような個人性を何とか世界原理と調整しようと努めている。そのバインドのおかげでうさぎの主人公性に足かせが設けられてしまったというのは嘗て牛縄で論じた通りです。

世界の滅びを賭けてまでする価値が恋愛なんかにあるのかという理屈と、好きな人を好きでいることの何が悪いのかという理屈、世界原理が要求する冷酷な「正しい行動」と個人性の埒内での「正しい行動」の間にこういうのっぴきならない軋轢を描きたがる辺りが選れて白倉的なんですが、結局世界原理には逆らえないんだという結末を提示した部分で、ある意味最終回の筋立ては失敗していると思うんですが、世界の問題と個人の問題を分岐させて辛くも辻褄を合わせたということなんでしょうね。結局そこで銀水晶の超越力を便利に使っているという意味も含めて。

中断している牛縄の最終回レビューでは、この一種失敗している筋立てを舞原演出がどのように救済したのかということを巡って論じる予定ですが、今回のエントリーを経てそれを論じるとなると、Act.47、48の鈴村演出では何故救済出来なかったのかという話にもなるでしょうし、quonさんの仰る個人の善意の力というのは果たして東映特撮的な演出の生理で十全に描き得るのかという話にもなるんじゃないかと思います。

>Leo16さん

はじめまして。TBを戴いて早速ブログを拝見しました。そちらではご当地人気ということもあってか再放送中ということで、やっぱり全話DVDが出ているというだけよりも地上波で放映していると盛り上がりますよね。識り合いに奨める場合でもDVDを買えとか借りろと言うのは気が引けますが、一回で好いから観てよと言うくらいなら気が楽ですし。追々にそちらのレビューも読ませて戴きますね。

牛縄については過分のお褒めに与って恐縮です。前述の次第で残念ながらひこえもん劇場は閉鎖の運びとなりましたので、牛縄のコンテンツはオレのアカウントでブログを増設して再構築することになります。「あんこくたぶれっ」のコンテンツに関してはプラズマさんに激励のメルを送れば何かの形で残してくれるかもしれませんよ(笑)。

電王の二〇話に関しては、実はこのエントリーでも触れる予定だったんですが、ご覧の通り一九話だけでエラいことになったので諦めました(木亥火暴!!)。見た目が格好良いのは観ればわかるからいいだろ的な見切りもありましたし、トクサツ的な映像生理でも負けてないという話をすると焦点がボヤけるかなという計算もありましたし、やっぱりオレは舞原演出の優れているところは人間ドラマで真価が発揮されると考えています。

それとまあ、この種の技術論というのは、手が掛かる割にはニーズが少ないところもありますので、やってると段々不安になるんですよねぇ(笑)。画面キャプチャでも附いていればわかりやすいんでしょうけど、そこまでやってるともっとエラいことになりますから。牛縄の場合は「わかる奴だけついてこい」がキャッチフレーズですし、最初に全話やると言っちゃった手前泣きながらやりましたけど(木亥火暴!!)。

まあ懸案だった一九話のレビューも終わりましたので、これから二〇話をじっくり二、三回観て書きたくなったら書かせて戴きますね(笑)。

それから、劇場版の監督についてはご指摘ありがとうございます。ちょっとアタマの中で電王とTHE NEXTがごっちゃになっていました(笑)。早速本文のほうに訂正入れておきますね。まあ、長石のお爺ちゃんだと尚更「いつも通り」なんじゃないかという予感がヒシヒシとしますが。

日乗のほうは、どちらかと言うとトクサツよりも一般ドラマや映画のレビューのほうが多いですが、たまに覗いて戴けますと幸いです。更新頻度はそれほどマメじゃないですから、本当にごくたまにで結構ですが(木亥火暴!!)。それでは、これからもよろしくお願いします。

投稿: 黒猫亭 | 2007年6月14日 (木曜日) 午前 10時03分

「星なんか滅びない」という名台詞を駄目にした奴は…と、一時Sプロデューサーを怨んだ(笑)私ですが、最終回奇跡の10分間(その前の13分間も優れて素晴らしい映像作品でしたが)のレビュー、お待ちしております。田崎監督や鈴村監督との違いが際立つ…wktkするなあ。

今でもキリヤ(笑)と言ってしまうほど、申し訳ないが役者さんのタイプが苦手なんですが、分かってない、または未熟な人間が様々にもがくのを、小林靖子なら他の人には無いリアリティレベル(人として間違ってない方向で)で描けると思うんで、Pさんには邪魔しないで欲しいと遠くからお願いしておきます。良太郎のような人間が、ヒーローでもある、というのは小林靖子的論理では自明なのではないかと思うのですが、ワタクシ、とむざうさんほどPさんを信じておりません。
草加のような人間をなぜ「魅力的な敵役」と思えるのか、私も不思議でしたから(汗)。馬もドラマの中での立ち位置がふらふらするのが、とっても嫌だったし…円谷プロほど、アグルの様なキャラクターを勘違いしてはいないと思いますが(笑)。その為にも、舞原監督にはローテに入って欲しいものです。

投稿: shof | 2007年6月14日 (木曜日) 午後 01時30分

>shofさん

どうもです。牛縄の残りを書く以前に再構築が忙しいっす(笑)。そのプロセスで以前のテクストを読み返しているんですが、今と比べてかなり手厳しく白倉Pを槍玉に上げていますねぇ。まあ放映中の時制で言うと、一番どうでもいい人でしたから(木亥火暴!!)。普通なら主人公が「星なんか滅びない」と明言したんだから滅びないのが当たり前なんですけど、なんで当たり前なのか理解していないのが白倉Pの面白いところです。

上のほうでquonさんも仰ってますが、良太郎というキャラは主人公性とヒーロー性と正義が自然に整合しているキャラとして書けていると思うんですが、良太郎のような小林靖子が生理で書ける普通のスタートラインにたどり着くまでに物凄く回り道の検算をしてしまうのが白倉Pの変わっているところですね。しかも検算の過程で屡々数え間違いをするし(笑)。牛縄時代の気分で少し厳しい言い方をすれば、オーセンティックに映画を視る訓練をしていないのが拙かったのかもしれません。

ただまあ、わかりもしないのに当たり前を疑わないというのも一面では硬直しているわけで、その意味で白倉Pは自分にわからない当たり前を疑い尽くした挙げ句に漸く普通の立ち位置に来られたという言い方も出来るんでしょう。なんかオレと幾つも違わない人とはちょっと思えないんですが(笑)、やっぱり一言で言って若い人なんでしょうね。あれで「自分にわからないことは世間もわかってない筈だ」と勘違いしていなければ悪い人ではないんですが(木亥火暴!!)。

それから、本文では捨象して考えましたけど、やはり草加と侑斗のキャラというのは脚本の描き方も違うことは違いますよね。井上敏樹の書き方だと、最初から演出が人物像を深耕することをアテにしていない書き方なんで、セリフや設定という形で視聴者に類推の手懸かりとなる情報を与え、細かい演出を要求するようなデリケートな芝居場は書きませんね。こういう脚本を舞原賢三が演出したらどうなるのかというのもちょっと興味があります。

投稿: 黒猫亭 | 2007年6月14日 (木曜日) 午後 05時22分

と、職場から(笑)書いたものの続きで言うと…
小林靖子が自分の芯として持っている「自明性」というのは、説明するのが難しいんですが、キャラクターと物語の整合性にまさに生理として現れるというのは、彼女の戦隊デビュー作から非常に明らかで、トクサツの脚本家の名前を意識するきっかけにもなった程のインパクトがあった訳です。無駄に熱いとか不経済に書き込み過ぎとかいう傾向は、ご指摘の通りあるんですが、それが今までの「トクサツの制限」を超えるものとして目に見えたんですね。

ただ、それも東映特撮の様式という力にはそうそう抗えないわけで…セラムンが「事件」だったのが優れて一回性のイベントだったのはやむを得ないと思います。それが舞原監督という人間との出会いにあったのは、視聴者にとって幸運だったのか不幸だったのか…

ワタクシ、井上脚本+白倉Pの作品で唯一好きなのが「シャンゼリオン」だったりするんですが(笑)。フィクションの幻滅を衒いながらも、最後の名乗りに思わぬ余韻が残っちゃったりするあたり、井上センセの職人気質を裏切るハプニングがあった作品だなあ、と。その後の韜晦をいくら耳にしても、あれを作っちゃった人間が何を言ってるんだか、とどうしても思ってしまうんですね(笑)

演出が脚本を土台としての映像作品を全く別物に変えてしまうのは、ティガでもクウガでも見られた事なんですが、こうやって詳細に記述したものが残るのはそれだけで価値があると思います。舞原監督の足跡を、演出家としての評価として残す…残して欲しい…それがある「ジャンル」にインパクトを与えて欲しいと切に願います。

投稿: shof | 2007年6月14日 (木曜日) 午後 10時47分

私信ですが。

>某管理人様

秘やかに公開(笑)しておられるようなので、とくにこちらからリンク返しはしませんが、先日某エントリーにリンクして戴いたときに、リファラーから辿ってそちらのブログを拝見して以来、いつも楽しみに覗かせて戴いていますよ。今回も秘やかに(笑)過分なお褒めの言葉を賜り有り難うございます。

作品は違えど、一本の映像作品に決定的に打ちのめされてしまった経験としては、オレのセラムンへの入れ込みと同じだろうと思います。まあオレのほうは薄情なんで、その後を見守っているキャストは小池里奈だけですけど(木亥火暴!!)。

お気に召したエントリーは今後もどんどん肴にして戴いて結構ですよ、こちらとしても有り難いですので。たまにあの俳優やこの俳優に暴言を吐くこともありますが、口の悪いのがウリですので笑ってお許し戴けますと幸いです(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2007年6月19日 (火曜日) 午後 01時36分

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